retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

千代田線北千住駅(千住旭町 美登利湯)

2013-07-31 06:09:30 | Weblog
なにか、急速に、消え去りつつある、気配漂う、旭町商店街、突き当りを、北へ曲がり、そのまま、北へ。
いちおう、ここまでが、商店街の、範囲なのだろう。
西口の方は、かつての、千住宿、歴史がある街並み。
それを、活かせば、それなりに、賑わいは、残るかも。
だが、こちら側、東口は、およそ、なにもない。
あるほうが、恵まれていて、普通は、ないものなんだろうけど。
などと、考えながら、歩いていると、道路の、西側には、美登利湯。
もはや、閑散とした、街中に、銭湯があると、ほっとするな。
もっと、閑散としたら、どうなるか、わからないけど、残って欲しいものだ。
(2012年8月記)

千代田線北千住駅(千住旭町 旭町商店街)

2013-07-30 04:55:17 | Weblog
駅前から、東へ、伸びているのは、旭町商店街。
以前、訪れたときは、ずいぶんと、賑やかだったのだが。
今は、ひっそりとしている。
賑やかさは、再開発された、西口に、移ってしまったのだろうか。
移った、ということもあるのだろうが、それ以前に、あたり一帯が、閑散としているからかもしれない。
このあたり、もっとも、賑やかだったのは、高度成長期の前かな。
下町といわれるような、地域は、どこも、同じだろう。
ただ、その後、安定期、バブルと、景気のいい時代が、続いたので、それになりには、命脈を、保ったようだが。
その後の、バブル崩壊、そして、世界同時不況が、すべてだったのかな。
旭町商店街を、東へと、歩いていく。
(2012年8月記)

千代田線北千住駅(千住旭町 整備された北千住駅東口)

2013-07-29 04:48:46 | Weblog
もとは、日本たばこ産業の社宅があったらしいのだが。
跡地の開発ではあっても、街並みの、変化は、著しいと、思える。
なにか、どこぞの、郊外の、ニュータウンの様だ。
これでは、どこの街か、見分けがつかない。
北千住らしい、下町の、街並みは、もう、なくなってしまった。
迷路のような、商店街、奥深い、路地。
それらが、きれいになくなってみると、たしかに、すっきりするけど、こんなに狭い、区域だったのかと、驚かされる。
時代の流れなので、仕方のないことだけど。
駅前に戻り、東へと、歩いてみることにする。
(2012年8月記)

千代田線北千住駅(東京電機大学千住キャンパス1号館ビル)

2013-07-28 07:10:31 | Weblog
高田馬場駅から東西線。大手町駅で千代田線に乗り換える。
北千住駅で下車。
北千住駅には、多くの、路線が、乗り入れている。どこが、どうなっているのか、今もって、はっきりとは、わからない。
今回も、思ったより、ずいぶんと、南側に、出てしまった。
西口駅前広場の、南側。
さっそく、広場を、北へ。そして、地下道を潜って、東口に出る。
西口は、再開発され、昔とは、かなり、変貌したものの、東口は、まだ、昔のままだ。
と思ったら、駅南東側、かなり、変貌している。
整備されて、ずいぶん、きれいになった。
北千住、といえば、下町なのだが、一掃されてしまったな。
東京電機大学の敷地になったのだけど。
敷地に入っていくと、東京電機大学千住キャンパス1号館ビル。
校舎が、高層ビルになっている。
本当に、変われば変わるものだ。
(2012年8月記)

京浜急行線新馬場駅(京浜急行新馬場駅駅舎)

2013-07-27 07:08:31 | Weblog
目黒川沿い、西へ西へと、歩いていく。
かつて、川筋が、北へ、曲がっていたところ、新品川橋を越え、そして、荏原神社を越えると、京浜急行新馬場駅。
新馬場駅で、京浜急行に乗ることにする。
ところで、新馬場駅、についてだが、かつては、北馬場駅と、南馬場駅に、分かれていた、ということだ。
北馬場駅は、品川神社の南東側、南馬場駅は、今の、新馬場駅南側、寺院が多くあるあたり。
昔は、それなりに、需要があったのかも。
たとえば、新宿駅と、新宿三丁目駅、のように、乗客を、分散させていたのかもしれない。
あたりには、寺社が多く、参拝の折は、それなりに、混んだのだろう。
今は、それほどでもない。静かなものだ。
歴史的テーマパークとしては、むしろ、静かな方が、いいのかもしれないけど。
目黒川の、かつての、河口跡については、また、今度にしよう。
京浜急行に乗って、帰る。
(2012年8月記)

京浜急行線新馬場駅(東品川海上公園から臨む目黒川河口)

2013-07-26 04:53:17 | Weblog
アイル橋を渡り、目黒川北岸へ。
とりたてて、何かあるわけではないけど。
西側を見ると、昭和橋。
名前の通り、昭和の初め頃、架けられたらしい。
それ以前は、橋が、架かっていなかった、というよりも、陸地だったようだ。
目黒川は、今の、昭和橋の、西側で、北側へ、向きを変えていて、こちらへの、河口は、なかったのだ。
ちなみに、昭和の初め頃、新しく、東側への、河口が、完成しても、しばらくは、北側への、流路は、残ったらしい。
そちらの、流路は、高度成長期、埋め立てられている。
そういえば、沖合いへの、埋立も進んで、河口は、ずっと、東側へ。
変貌著しいものだ。
再び、アイル橋を、渡って、目黒川南岸へ。
(2012年8月記)

京浜急行線新馬場駅(東品川二丁目 アイル橋)

2013-07-25 03:35:51 | Weblog
緩やかな、起伏のある、草原を、歩いていくと、目黒川の河口。
アイル橋、という新しい橋で、北岸へ。
東品川海上公園、目黒川の、対岸にも、敷地が、広がっているのだ。
さっそく、渡ってみる。
橋の半ばから、見ると、目黒川河口が、公園内の、一つの、景色のようだ。
そう考えると、なんとも、贅沢な、公園。
対岸から、さらに、北側には、天王洲がある。
アイル橋の名前も、天王洲アイルから、きているのだろう。
たしかに、遠回りせずに、アイル橋で、天王洲アイルに、行けるので、便利だが、どれほどの、利用者がいるのか、わからない。
たんに、公園内の橋、なのかも。
アイル橋で、対岸まで行ってみる。
(2012年8月記)

京浜急行線新馬場駅(東品川三丁目 東品川海上公園)

2013-07-24 04:46:33 | Weblog
目黒川沿い、さらに、東へと、歩いていく。
しばらくして、南北に伸びる、海岸通り。
目黒川に、架かる橋は、昭和橋。
昭和の初め頃に、架けられたようだ。
おそらく、目黒川下流の、改修が、おこなわれた時期。
昭和橋を渡り、目黒川の南岸へ。
再び、東へと、進むと、東品川海上公園。
緑の芝が鮮やか。美しい草原が、目の前に広がる。
バブルが崩壊した後、失われた10年の頃から、整備が、始まったらしい。
都心部に、再開発が、集中し始めた、ということだろうか。
都心部だけが、きれいに、整備されていく。
東品川海上公園に入り、東へと、進む。
(2012年8月記)

京浜急行線新馬場駅(北品川二丁目 品川橋)

2013-07-23 04:42:44 | Weblog
荏原神社は、古社には、違いないが、延喜式には、載っていない。
品川湊と、関わっているとすれば、その品川湊は、鎌倉時代の湊、平安時代から見れば、新しい地域。
そのように、新しい地域の、神社なので、延喜式には、載っていないのかもしれない。
などと、昔のことに、思いを馳せていると、品川橋。
江戸時代、東海道が、通っていた橋。
かなり、歴史的な、テーマパークとなっていて、なかなか、楽しい感じだ。
品川橋の、東側には、新品川橋。南北に伸びる、八ツ山通りが、通っているが、この、八ツ山通りが、かつての、目黒川の、流路跡。
昔、目黒川は、直角に、北へと、向きを変え、今の、八ツ山通りを、流れ、利田神社の
北側で、再び、東へと折れ、そのまま、海へ、流れ込んでいたらしい。
そのように、北に、流れている部分、流れも、穏やかで、しかも、海からも、影響を、受けにくく、天然の、埠頭のように、なっていたのだろう。
そして、その部分が、品川湊、だったに違いない。
今回は、かつての、品川湊へは寄らず、さらに、東へと、歩いてみる。
(2012年8月記)

京浜急行線新馬場駅(北品川二丁目 荏原神社)

2013-07-22 04:53:31 | Weblog
目黒川の、北岸には、荏原神社。
ただ、昭和の初め頃、目黒川の、改修を行い、もともと、荏原神社の、北側を、流れていた、目黒川の流れを、南側に、移している。
つまり、本来、荏原神社は、目黒川の、南岸に、あったわけだ。
そんな荏原神社だが、創建は、古い。
平安時代、だろうか。
当初は、ずっと、内陸の地に、あったらしい。今の、大崎駅の南側、貴船神社のある場所。
しばらくして、現在の地に、移っている。
当時、目黒川河口には、品川湊があり、栄えていたらしいのだが、荏原神社の移転は、そのことと、関係があるのか、わからない。
荏原神社の、「荏原」というのは、おそらく、創建の地より、さらに、内陸、今の、東急池上線荏原中延、東急大井町線荏原町、あたりの地名だったらしい。
そこから、東へと、進出し、目黒川の河口に達し、品川湊を、拓いたのだろうか。
もはや、はるか、昔のことなので、わからない。
荏原神社を後にして、東へと、向かう。
(2012年8月記)