retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

山手線品川駅(運河の上を走る東京モノレール)

2009-09-30 04:19:27 | Weblog
新幹線引込線高架をくぐり、東へと歩いていく。
しばらくすると、南北に伸びる、交通量の多い、海岸通り。
海岸通りに入り、北へと進む。
すぐに、運河に架かる、五色橋がある。
その橋からは、東京モノレールの高架が、よく見れるのだ。
しかも、今しも、その高架を、モノレールの車体が、こちらに向かって、疾走してくるではないか。
もっとも、3、4分おきぐらいのダイヤなので、こういう光景、珍しくはないんだろうけど。
そういえば、東京モノレールの開業も、新幹線と、同じ頃だったな。
ということは、このモノレールの路線も、高度成長期の、申し子、ということになる。
だから、こちらの方も、実は、子供の頃に、乗った記憶が、微かにあるのだ。
ただ、羽田空港で飛行機に乗ったわけではなく、モノレールが物珍しかったので、物見遊山、ということだったのだろう。
ところで、新幹線の方は、もう、乗る機会もないのだが、さすがに、東京モノレールぐらいなら、最近でも、乗ったな。
例えば、天王洲アイルには、東京モノレールの駅があるので、便利なのだ。
開業した当時は、羽田空港への、路線だったのだが、今では、ゆりかもめのような、新都市交通の側面も、併せ持っている。
また、今後、浜松町駅から、新橋駅への延伸も、予定されているらしい。
たぶん、山手線の東側を北へ伸び、汐留シオサイトとの間を抜け、ゆりかもめの駅とJRの駅の間に、達するのだろう。
だが、さらに、東京駅、というのは、ちょっと無理かな。
外堀通りの上を、北上して、東京駅の八重洲口、というが、一番、可能性は高いのだが、銀座を、通らなければならないでの、もう、その時点、だめだ。
それはそれとしても、高度成長期の乗り物が、未だに、進化を続けている、というのは、すごいことに違いない。
土色に濁り、渦を巻いている、運河の上を、力強く、疾走していく姿は、伊達ではないのだ。
(2009年5月記)

山手線品川駅(新幹線の引込線高架)

2009-09-29 05:02:38 | Weblog
そういえば、「なんとなくクリスタル」が、出版される、ちょっと前に、「クリスタルモーニング」、なんていう、歌が流行っていたような記憶がある。
ひょっとしたら、「なんとなくクリスタル」、という題名は、「クリスタルモーニング」から、とっているのではないか、と思っているんだけど。
この「クリスタルモーニング」という歌、失恋がテーマなのに、異様に、ポジティブな感じがしたな。
そのポジティブの根拠を考えているうちに、「なんとなく」、ブランドに行き着いたのかな。
ちょっと、わからないが。
新港南橋を渡る、再度、高浜運河の東岸へ。
交差点を北に曲がり、そのまま、北へと歩いていく。
ここらへんは、まだ、わずかに、かつての倉庫や、団地が、残っているようだ。
さらに、進んでいくと、新幹線の引込線高架、および、貨物船の高架が、目の前に現れる。
たぶん、この高架があるので、住環境がよくなく、古い団地も、建て替えられずに、残っているのかもしれない。
この高架を作っているとき、将来、あたり一帯が、高層住宅の建ち並ぶ、住宅宅地になるなんて、予想する者は、さすがに、いなかっただろうなあ。
せっかく、新幹線の引込線高架の直下に来ので、走っている、新幹線車両を、カメラに撮ろうかと思い、待ち構える。
そう思ったのだけど、いっかな、新幹線車両は、やって来ない。
待っていないときは、しばしば、見かけるのだが。いざ、待っていると、現れないな。
ところで、新幹線、といえば、高度成長期、ということになる。
新幹線の開業は、あの頃の、日本を象徴するような出来事かもしれない。
自分も、子供の頃、新幹線に乗ったのだが、その時の記憶は、今でも、残っている。たしか、速度計があったりした。
車窓から見る、風景は、本当に、信じられないぐらいの早さで、後ろへ後ろへと、消えてゆくのだ。
でも、あの頃の日本も、そして、とりわけ、自分の家も、貧しかったのに、なぜ何度も、新幹線に乗った記憶が、あるのだろう。
今は、世の中、豊かになったが、新幹線に乗った、なんて、もう、何年も前のこと、会社の旅行の時だけ。
今の自分にとっては、「夢の」超特急になってしまったのだな。
待ってても、引込線高架に新幹線車両は、来ないようなので、もう諦めることにする。
(2009年5月記)

山手線品川駅(品川クリスタルスクエア)

2009-09-28 03:57:23 | Weblog
御楯橋を渡り、高浜運河の東岸へ。
北へ歩く。
ちょっと前まで、あたりは、倉庫と団地しか、なかったのだが、すっかり、変わってしまったな。
今は、高層住宅が並び立つ、静かな、住宅街、というところか。
そのまま、北へ北へと進み、交差点を、西へと曲がる。
新港南橋で、再び、高浜運河を渡る。
高浜運河の西岸、橋の袂には、品川クリスタルスクエア。
自分の中では、最も、美しいビルの中の、一つなのだが。
竣工は、バブルが、崩壊した頃。でも、この頃は、まだ、バブルは、再来すると、信じていられる、安穏な時代だったな。
バブルなど、もう来ない、と悟ったときには、もはや、失われた10年のどん底だった、ということだけど。
ところで、安穏な時代、クリスタルスクエア、というと、高度成長期に続く、安定期、「なんとなく、クリスタル」、なんていう小説が一世を風靡していたことを、思い出してしまった。
もっとも、読んだこともないし、今後、読むつもりも、ないんだけど、せっかくだから、見てみようと思い、後で、古本屋に行ったら、文庫本が、残っていたな。
さっそく、購入。ふと、その本の奥付を見たら、印刷年が、バブル真っ只中。実に、ありがちなことで、本の内容よりも、そのことの方が、興味深い。
実際、読んでみると、歴史的な史料としての価値はあっても、それ以上のものは、なにもない、と再確認できた程度。予想通り、なわけだけど。
ただ、あとがきに、さる高名な評論家氏等の、好評の一部が、誇らしげに、載っていて、なんで、こんな本が、当時、一世を風靡したのか、ちょっと、わかってきた。
曰く、「都市空間は、記号になってしまった」
ということらしいが。
本当に、そうなんだろうか。
「山の手」や「下町」、が記号なんだろうか。格差社会が、記号なんだろうか。勝ち組、負け組、が、記号なんだろうか。
そういったことは、着せ替え自由な、ファッション、なんだろうか。選択自由な、ファッション、なんだろうか。
聴いている音楽を、換えるだけで、選びうるもの、なんだろうか。
「都市空間は、記号になってしまった」、なんてこと、今の世の中から見れば、悪い冗談にしか、思えない。
でも、あの時代、高度成長期が終わって、安定期、そして、バブルの頃、実際、そういうことが、真実味を帯びていたことも、事実なんだけど。
ふと、クリスタルスクエアから、目を転じて、橋の下も見てみると、テトラポットがごろごろと敷き詰められてあって、水が、ごーごー、と湧き出しているのに気付いた。
近くの、汚水処理施設の、放水口が、こんなところにあったのだな。
美しいクリスタルスクエアの下には、泥のように濁った海水と、そこに、汚水を処理した水を、ごぼごぼを流し込む、放水口が、あるのだ。
これが、今の世の中(に限らないけど)の、現実、なんだろう。
(2009年5月記)

山手線品川駅(御楯橋付近高浜運河)

2009-09-27 03:24:36 | Weblog
御楯橋を渡り、高浜運河の東岸へ。
橋の半ばから、高浜運河を、見やると、雨が降り続いていたせいか、海水は、土色に濁っている。それに、なんだか、運河全体が、膨れ上がっているようにも見えるな。
川ではないので、洪水になることは、ないのだろうけど。
ところで、今、渡っている橋、御楯橋、というのだが、橋の名前が、ちょっと、変わっている、と思うのは自分だけだろうか。
橋ができたのは、戦争の頃。御楯橋という名前は、戦意高揚のために、付けられた、ということらしい。
どういうことか、というと、万葉集に、以下の歌がある。
「今日よりは返り見なくて大君の醜の御楯と出で立つ我れは」
今日からは、国のため、楯になりに行くのだ、という、勇ましい歌だ。
この歌に出てくる、「御楯」、を、戦意高揚のため、橋の名前にしたのだろう。
でも、どうも、「醜の」、という言葉が引っ掛かるのだ。
謙譲語だとしても、そんな言葉を、使うものだろうか。
ということで、同じような、言葉を捜して、考えてみる。
例えば、相撲で出てくる、「四股を踏む」、の「四股」は、昔は、「醜」、といっていたようだ。
つまり、力士が、踏んでいるのが、「醜」、ということになる。
では、何を、踏んでいるのだろうか。当然、地面、に違いない。
そして、その「地面」の下には、古来、根の国、黄泉の国、いわゆる、「あの世」、があると、考えられてきたわけだ。
もう一つ、例を挙げる。
「しこ」、と読む言葉に、「鬼」、がある。鬼は、黄泉の国、にいるのだが。
その、鬼(しこ)、を踏む、というと、邪鬼を踏み付けて立つ、四天王像を思い出す。このことは、相撲の力士が、「しこ」を踏む、ということと、共通しているように思えてしまうな。
以上から、「醜の」、という言葉は、「この世ならぬもの」、という意味なんじゃないだろうか、と思うのだ。
もし、そうなら、この歌の意味は、
今日からは、自分は、いないものと思ってください。なぜなら、あの世に旅立ってしまうのですから。今生のお別れです。
という、ことになる。
この歌は、防人の歌、ということだが、実際、防人が、どの程度の生還率だったのだろうか。ちょっと、わからないけど。
ただ、防人へ徴兵されれば、生きて戻って来る、なんて、とても、考えられなかったに違いないはずだ。
そんなことを考えながら、土色に濁った、海水を見下ろすと、うねうねと、地面が、波打つ様に見えてしまう。
御楯橋の下は、「この世ならぬもの」、なのかな。
(2009年5月記)

山手線品川駅(SSJ品川ビル計画工事現場)

2009-09-26 04:09:53 | Weblog
高田馬場駅から山手線へ。
品川駅で下車。
改札を抜け、賑やかな、長い通路を通って、東口へ。
エスカレータで、地上に降り立ち、ふと、空を見上げると、空は、重く垂れ込めた、厚い雲に覆われている。
そういえば、最近は、悪天続き。なんだか、もう、梅雨みたいだ。
もっとも、梅雨なら、その後に、必ず、強い日差し、真っ青な空、白く輝く雲、そんな、季節がやってくるわけだが。
最近の悪天は、もう、このまま、ずっと続くようで、不安になってしまう。
いつものように、東側に、一直線に伸びる、タイル舗装された、細い道を歩く。
この道、かつては、新橋みたいな感じで、賑わっていたのかもしれない。
両側の、お店の雰囲気が、なんとなく、そんな感じなのだが。
でも、今は、とても、静か。賑やかさは、ペデストリアンデッキの上に、移ってしまったようだ。
時代の流れに取り残されているのかな。
そんな細い道を歩いていくと、やがて、南北に伸びる、旧海岸通り。
この旧海岸通りも、幅広な通りの割には、静かだ。
こちらは、交通の流れを、東側、海側の海岸通りに移したからだろう。
落ち着いた環境を保持するためかな。
たしかに、閑静な雰囲気には、寄与しているようだ。ただ、この、どんよりとした天気の下では、ちょっと、寂しい感じがする。
旧海岸通りを、少し北に進むと、すぐ、東側に、高浜運河に架かる、御楯橋がある。
その御楯橋の袂に、SSJ品川ビル計画の工事現場。
この不景気の最中、工事の地響き、というのは、頼もしいんだか、無謀なんだか、わからないな。
とりあえず、なんとなく、社会が動いている感じがして、ほっとしてしまうのだが。
でも、空は、一面の黒雲。不安が、のしかかってくるようだ。
(2009年5月記)

営新宿線菊川駅(菊川駅前)

2009-09-25 06:08:56 | Weblog
大横川を渡り、さらに、新大橋通りを、西に歩いていく。
しばらく進んでいくと、南北に伸びる三ツ目通りとの交差点。
その交差点に、都営新宿線の菊川駅がある。
もう、菊川駅から都営新宿線に乗って、帰るわけだが。
ちなみに、菊川駅の、「菊川」は、大横川の西側を、南北に、平行して、流れていたらしい。
さらにいうと、この菊川駅のちょっと東側、新大橋通りの北側には、かつて、「鬼平」で有名な、長谷川平蔵、そして、「遠山の金さん」の遠山金四郎が、住んでいた、ということだ。
この時代劇の重鎮二人が、隣同士だったわけではなく、最初に、住んでいたのは、長谷川平蔵の方。
長谷川家の家は、長谷川平蔵が、火付盗賊改の仕事に没頭しすぎて、家督が、すっかり傾き、次の代あたりで、結局、手放すことになってしまう。
その手放した家を、買い取ったのが、遠山金四郎なのだ。
特に、遠山金四郎が、長谷川平蔵のファンだったので、買い取ったわけではなく、まったくの、偶然らしい。
とても興味深い話なのだが、実は、このとき、こういう、史実があるなんて、知らなかったのだけど。知っていれば、カメラに収めていた。
ひょっとして、自分が、菊川駅に辿り着いたのも、何かの、偶然かな。どうでもいい、偶然だが。
たんに、錦糸町駅まで戻るよりも、このまま、都営新宿線に乗った方が、早く帰れる、と思っただけ。
でも、じゃあ、何で、菊川駅あたりまで、歩いて来たのだろう。やっぱり、偶然なのかな。とりあえずは、次、訪れる楽しみが、増えたことは、確かだけど。
次、来たときは、長谷川平蔵ゆかりの地テーマパークが、できているかも。
それは、ないだろう。
ただ、一帯が、テーマパーク化しているのは、事実だ。
時代は、まさに、動いている。
(2009年5月記)

総武線錦糸町駅(住吉付近大横川)

2009-09-24 04:58:47 | Weblog
南北に伸びる通りに出て、南へ南へと歩いていく。
静かで長閑な街並みだな。
ちょっと前の高度成長期、下町だった頃は、さぞかし、賑やかだったことだろう。
今では、そんな雰囲気は、もう、残っていない。
たぶん、一帯は、都市部の、閑静な住宅地になっていくのかもしれないな。
そして、昔の名残は、歴史的なテーマパークになるのかも。
そんなことを、考えながら、歩いていくと、東西に伸びる、新大橋通りとの、交差点。
西へ曲がり、新大橋通りに入って、そのまま、西へと進む。
しばらくすると、南北に横たわる、大横川の流れがある。
竪(たて)川の次は、大横(よこ)川か。
こんな風に、あたりは、広い範囲、道路もそうだが、川が、縦横に、並んで、格子状になっている。
まるで、京都などの、古都の町割のようだな。
なぜ、このようになっているのか、というと、江戸時代に、計画的に造成された、当時の、新興地だから、らしい。
つまり、江戸時代の初め、江戸の街の東端は、まだ、隅田川まで、だったのだが、その後、江戸の街は、拡大、膨張していき、ついに、隅田川の東側も、江戸の街に、組み込まれていったのだ。
その時、このような、格子状の街並みが、誕生したのだろう。
新興の江戸の街、今でいえば、本所、深川あたりになるかな。
そのような江戸の街は、明治時代になり、近代的な都市化の波が、押し寄せ、いつしか、埋もれてしまうのだが。
ところが、最近になって、街は閑静になってきて、さらに、歴史テーマパークも加わってきている。
このままいくと、遠い将来、このあたりは、古都、ということになるのだろうか。
今のところ、まったく、わからないけど。
(2009年5月記)

総武線錦糸町駅(首都高小松川線高架下の公園)

2009-09-23 07:23:32 | Weblog
そのまま、どんどん、南へと歩く。
すぐに、東西に伸びる、首都高の高架。
高架下は、公園になっている。
ただ、無理やり作ったような、公園なので、特に、賑やかなわけでもないようだ。
建築物の下なので、なんとなく、薄暗くて、じめじめした感じがするからかな。
そもそも、公園にするような場所でもない気がする。
そんな高架下を、西へと進んでいく。
しばらくすると、南北に伸びる通りに行き当たる。
公園は、ここまで。その先は、川になっている。
竪川、という名前の川だ。いちおう、公園も、竪川親水公園、となっているが、公園の部分は、完全に埋立てられているので、実際に、水辺があるわけではない。
ところで、竪川は、「たて」川、と、読むのだが、この「たて」は、もちろん、横に対する、「縦」である。
今の地図は、北が上になっていて、東西方向が、横になっている。だから、東西に流れている、竪川を、「縦」、とするのは、ちょっと、戸惑うかもしれない。
だが、江戸時代以前は、城に向かう方向を、「縦」、としていたらしい。
その当時の、城中心の考え方によるのだが、このことから、いかに、都市が、城を意識して、作られていたかがわかる。
今では、もちろん、城は、観光名所ではあっても、都市の中心ではない。
もっとも、城に代わる、現代の都市の中心は、なんだか、わからないが。
大手町、霞ヶ関、あるいは、巨大な商業地、だろうか。ひょっとしたら、都市に中心があるわけではなく、都市そのものが、中心、なのかも。
わからないなりに、たぶん、錦糸町に関しては、都市中心部内の、住宅地、兼、商業地、ということは、言えるかもしれない。
特に、半蔵門線が、延伸してきて、その度合いは、高まっているように見える。
ということで、こうして、川を埋立ててしまった場所も、公園として、整備しているわけかな。
(2009年5月記)

総武線錦糸町駅(錦糸町駅南口の昔ながらの街並み)

2009-09-22 07:15:29 | Weblog
パークタワー錦糸町の南側には、江東橋公園がある。
きれいに整備された公園だ。
昔から、この公園、こんなに、きれいだったかな、と思ってしまうが。
公園の中を歩いていると、思い思い、おじさんたちが、くつろいだり、だべっていたりする。
公園は、きれいになっても、ここにいる、おじさんたちは、昔の錦糸町のままなのかもしれない。
その中の一人、小型のペットボトルの容器を、飲み口を下に、底の部分を、上にして、立て、底の部分に頭を載せて、気持ちよさそうに、寝入っていた。
寝相がいいのか、器用なのか、よくわからないけど。
カメラに収めようかと思ったが、たいてい、後で見ると、なんだろうこれは、ということになるので、撮るのはやめた。
この、おじさんを見ていたら、昔、浅草から、下町方面に向かうバスに乗ったときのことを思い出したな。
そのバス、えらい混みようで、もう、これ以上、乗れないだろう、と思ったのだが。
そこへ、小柄な、じいさんが、バスの入口の階段を、とんとん、と上がってきて、ひょいっと、座席と、バスの入口の、わずかな隙間に、飛び乗り、その部分に、器用にしゃがんで、収まってしまったのだ。
そのままバスは、当たり前のように、走り出し、やがて、その、じいさんは、目的のバス停で、いつもの通り、という感じで、降りていった。
ペットボトルを、枕代わりにしている、器用なおじさんと、器用つながり、という連想だけなんだけど。
ちょっと、大袈裟だが、今の世の中の枠に、収まっていないような、感じがしたので、思い出してしまったのかな。
ただ、さっき見てきたように、錦糸町がきれいな街に変貌していくとすると、たぶん、このような、おじさんたちの、次の世代は、もう、垢抜けた住民かもしれない。
そんな垢抜けた住民が、ペットボトルを、枕代わりにして、気持ちよさそうに寝ている、なんて、想像できないな。
ということで、江東橋公園の東側の、わずかに残っている、昔ながらの街並みを、昔気質の錦糸町のおじさんに代わって、写真に撮っておいた。
(2009年5月記)

総武線錦糸町駅(パークタワー錦糸町)

2009-09-21 07:23:46 | Weblog
アルカタワーズのビル群の裏側の、隠れ里みたいな空間を抜けて、また、さっきの通りへ出る。
南へ歩き、総武線の高架をくぐって、錦糸町駅の南側へ。
すぐに、東西に伸びる、交通量の多い、幅広の、京葉道路がある。
この京葉道路の北側、駅南口の西側は、かなり、怪しい一帯だったのだが、今はどうなっているのだろう。
派手に怪しくないと、そういったものは、地下に潜ってしまうような気もする。
昔は、こうして、京葉道路へ歩いていくと、必ず、いんちきなマッサージのお姉さんが、声を掛けてくるので、面白かったのだけど。
今は、そのような存在が、許されないような雰囲気だな。
なにせ、田園都市線、半蔵門線が、伸びてきたのだから。美しい、新緑の、並木が、お似合いなのだ。
だが、そのような怪しい存在、なくなるわけもないので、結局は、アンダーグラウンド化して、もっと、怪しくなるに違いない。
京葉道路を渡り、さらに、南へ。街中に入っていく。
少し、歩いていくと、パークタワー錦糸町。(工事中はこちら
京葉道路から、一歩、南側に入ると、かなり、裏通りっぽくなるはずなんだけど。
このような場所にも、高層住宅が建つようになったのか。
目の前の、巨大な白亜の建造物が、聳え立ち、周りを、圧しているみたいに見える。
こうなると、もはや、この建物が、場違いなのではなく、今まであった、裏通りが、場違いに見えてしまうな。
ますます、「ここは、もう、昔の錦糸町ではないんだ」計画が、進行しているようだ。
この分だと、ひょっとしたら、あと何十年か経つと、昔の錦糸町は、すっかり、消滅するのかもしれない。
そんな気がしてきた。
(2009年5月記)