retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

山手線池袋駅(池袋三丁目 御嶽神社)

2010-12-21 05:03:56 | Weblog
道路予定地を、東へ東へと、歩いていく。
以前も、何度か、こうして、道路予定地を、辿ったことがあるが、その時に、比べれば、少しは、開通に向かっているようだ。
ただ、それが、いつなのか。まだ、何年も、かかるような気もする。
しばらく、進んで行くと、道路予定地の、北側に、御嶽神社。
静かな、落着いた、雰囲気の境内だ。
創建は、江戸時代の、少し前。
いちおう、池袋の、中心だったらしい。
だが、実は、もっと、北側、池袋本町にも、氷川神社があって、そちらも、同じ頃に、創建されている。
ちなみに、明治時代の地図を見ると、池袋本町の、氷川神社の方が、はるかに、大きかったようだ。
とすると、当初、一帯の、中心は、やはり、ここから北側の、池袋本町の方だろう。
御嶽神社のあたりにも、小規模な、集落があったが、時代が、下るにつれ、北側の、池袋に、包摂されたものかもしれない。
もっとも、今となっては、池袋本町も、御嶽神社の周辺も、静かな住宅地。
池袋の中心は、南東側に、移ってしまった。
それどころか、今度は、こうして、新しい、池袋の中心から、道路が、伸びてこようとしている。
そうなっても、いきなり、繁華街になったりは、しないんだろうけど。
でも、落着いた、静かな、住宅地、というわけには、いかないかもしれないな。
(2010年2月記)

有楽町線要町駅(池袋北西部の道路予定地)

2010-12-20 05:04:51 | Weblog
山手通りを南へ。来た道を、引き返す。
西側に広がっているのは、中丸町。
そういえば、このあたり、一番最初に、来たのは、バスだった。
池袋駅から、中丸町循環とか、熊野町循環とか、そういう、バス路線があって、どんなところかな、と思い、そのバスに、乗ってみたのだ。
その時は、昭和の雰囲気が残っているが、他には、何もない場所だった、と感じたぐらいかな。
ところで、中丸、という地名、どういう謂れがあるのだろう。
実は、さっぱり、わからないらしい。自分にも、見当が付かない。
同じ、板橋区、高島平の南側に、徳丸、という地名が、あるけど、なにか、関係がありそうな気がする。それぐらいしか、言えないが。
これだけ、わからない、ということは、その、地名が、存外、古いことを、示すものなのかもしれない。
時間が経てば、その、来歴が、失われてしまう可能性が、増すからだ。
そんなことを考えながら、歩いていると、山手通りの、東側に、池袋方向へと、伸びる、道路工事現場。
以前、谷端川跡を遡る、道行で、見つけた場所だ。
あの時よりも、工事は、進んでいるものか、どうか。
ただ、完成すれば、かなり、池袋には、近くなる。
そう、ここは、距離的に、池袋とは、それほど、離れているわけではない。
直通する、道路がないため、遠回りしていて、それで、隔絶している感じがするのだ。
だから、道路が、開通した暁には、僻遠の地ではなくなるに違いない。
そして、その時、昔、訪れた頃に、あった、昭和の雰囲気も、まったく、なくなってしまうのかもしれない。
それが、時代の流れ、なんだろうけど。
(2010年2月記)

有楽町線要町駅(熊野町 熊野神社)

2010-12-19 07:26:59 | Weblog
さらに、北へ、歩くと、北西に伸びる、川越街道との、交差点。
その、交差点の北側には、熊野神社がある。
クルマが、ひっきりなしに、通過していく、喧騒の中、そこだけ、静寂な、社。
境内に入ると、なにか、ほっとするような、空間だ。
創建は、鎌倉時代に続く、室町時代。
当時の、関東平野における、豊島氏の、西側への進出を、物語っているのだろう。
熊野神社と、豊島氏は、密接な、関わりがあったからだ。
ただ、その頃、この一帯、つまり、東側を、南北に流れる、谷端川の、西岸には、中丸、という集落が、すでに、あったらしい。今も、町名が、残っているが。
だとすると、もともと、中丸、という集落が、あって、豊島氏の勢力が、そこを、包摂したのかもしれない。
昔のことなので、実際、どうだったのか、今となっては、さっぱり、わからないけど。
熊野神社自体も、最初は、別の場所だったらしい。それは、どこなのだろうか。
ちなみに、明治時代の地図を、見てみると、中丸という集落、ここから、南西側に、広がっていたことがわかる。
とすると、集落の中央にあったと考えれば、やはり、南西側だったのかな。
ひょっとすると、豊島氏が、衰退してしまったので、熊野神社は、集落の、はずれに、移されてしまったのかもしれない。
などと、いろいろ、推理しても、もはや、実証のしようがないので、あまり、意味は、ないが。
ところで、明治時代の地図の地図を見ていて、もう一つ、気付いたことがある。
当時、ここには、山手通りは、もちろんのこと、川越街道も、通っていなかったのだ。
かつては、何もない、静かな場所。
その、静寂が、社の境内に、今も、残っているのだろうか。
(2010年2月記)

有楽町線要町駅(ハタスポーツプラザ)

2010-12-18 07:15:59 | Weblog
再び、山手通りを、北へ。
ちょっと歩くと、西側には、ハタスポーツプラザがある。
ボーリング場を、中心とした、総合レジャーランド、といったところか。
それよりも、昭和の時代から続く、老舗、娯楽施設、という風にいった方が、いいかもしれない。
とにかく、外観からして、昭和の時代を、感じさせるからだ。
創業は、高度成長期。日本が、高みへと、駆け上がっていた頃。
もっとも、高みへと、駆け上がった挙句、バブル崩壊で、どん底、なんだけど。
そんなことになるなんて、当時は、想像もしなかっただろうな。
ところで、実は、このあたり、通っていた時期、ハタスポーツプラザにも、何度か、行ったことがある。
たいてい、レストランで食事、だったけど。一番、最初は、地階の、マックかな。
一度だけ、ゲームセンターにも、行ったっけ。
それで、レストランのことだが、覚えているのは、平日だったためか、他に、客が、まったく、いなかった、ということ。
経営は、大丈夫かな、なんて、さすがに思ってしまうぐらい。
でも、他に、遊戯施設があるわけだから、そこで、帳尻があっているのかも。
レストランの中は、がらんとしていて、所在無げな、ウエイターとウエイトレスが立っているだけ。
窓の外を眺めれば、そこには、昭和の風景。
ここだけ、時代の流れが、止まってしまったかのような錯覚。
そんな、のんびりした雰囲気の中で、本当に、時の経つのを、忘れたものだ。
ただ、昔は、レストランも、遊技場も、そして、窓の外も、賑わっていたと思う。
とすると、やはり、例えば、昭和の、懐かしい遊技場テーマパーク、なんてことにでもならないかぎり、存続は、難しいかもしれない。
そこだけ、時が止まっていても、まわりの、世の中の時代は、かまわず、動いているからだ。
結局、いつか、その、時代に、呑み込まれてしまう。
(2010年2月記)

有楽町線要町駅(シティタワー池袋ウエストゲート)

2010-12-17 06:09:22 | Weblog
山手通りを、さらに、北へと、歩いていく。
しばらくすると、通りの西側に、シティタワー池袋ウエストゲート。
最近、竣工した、高層住宅だ。(工事中はこちら
いちおう、要町駅の、近くだから、駅近くの、高層住宅なのかな。
近いとするには、ちょっと、無理がある気がするけど。
ところで、以前、山手通りを、何度も、歩いたことがあるのだが。
この、高層住宅が、建つ前は、いったい、なにがあったんだっけかな。
まったく、思い出せない。
そもそも、山手通りには、壁のような、首都高中央環状線の高架ができていて、以前と、景観が、まるで、違っているし。
なにか、別の場所に来たみたいな気がする。
これでは、昔のことなど、思い出せないはずだ。
たしか、以前、この、通りを、歩いたときは、下町っぽい、感じがしたな。それだけは、よく、覚えている。
激安ショップ、薄汚れたスナック、古ぼけた喫茶店。それに、うらぶれた、焼肉店、中華料理屋。
今でも、もちろん、あるんだろうけど。
高速道路の高架や、巨大な建築物やらで、すっかり、影が薄くなってしまった感じだ。
昔といっても、ついこの間なんだけど。
でも、過ぎ去ってしまえば、もう、昔なのかな。二度と戻れない過去。
だから、思い出せないのかもしれない。
(2010年2月記)

有楽町線要町駅(高松一丁目 山手通り)

2010-12-16 06:08:43 | Weblog
山手通りを、北へと、歩いていく。
しばらくして、山手通りの上を、高架で、伸びてきた、首都高中央環状線が、地中へと、潜っていく地点。
巨大な、人工的空間が、迫力のある、景観を、生み出している。
まるで、コンクリートでできた、山塊のようだ。
もっとも、その、人工空間、ここから、南側は、地下を、通るので、姿が、見えなくなってしまう。
だが、地下を、通るといっても、地上の区間は、車線を拡幅しているので、やはり、かなり、様相は、変貌している。
ひょっとしたら、当初は、そのまま、ずっと、高架の、予定だったのかもしれない。
それで、車線を拡幅したのだろうか。わからないが。
ただ、それは、あたかも、地下に、潜ったにもかかわらず、地上にも、その痕跡を、残しつつ、進んでいったように、見える。
ところで、そういえば、かつて、ここらへんには、仕事の関係で、足繁く、通っていたことがあったのだ。
ちょうど、首都高中央環状線の工事たけなわの頃。
作業員が、よく、集まって、のんびりと、ラジオ体操をやっていたな。
結局、完成を、見ることはなかったけど。
だからだろうか、いつ果てることのない、永遠に続く、工事、そんな、気がした。
でも、完成してしまえば、あっけないものだ。
今、こうして、その脇を、歩いているのだが、そこには、巨大な、コンクリートの山塊が、あるばかり。
そして、その、奇観に、目を奪われている。
(2010年2月記)

有楽町線要町駅(有楽町線要町駅近く)

2010-12-15 06:09:40 | Weblog
西武新宿線で高田馬場駅。山手線に乗り換え、池袋駅へ。
さらに、有楽町線に乗る。次の駅、要町駅で下車。
池袋駅から、歩いても、いい距離なのだが。
でも、歩くには、時間もないし、若くもないし。
地上に出ると、南北に伸びる山手通りと、池袋から西に伸びる、大通りとの交差点。
クルマが、ひっきりなしに、通過していく、忙しない光景が広がる。
なんとなく、交通の、「要」、という感じだな。
それで、要町になったのか、なんていうわけは、ないんだけど。
ただ、意味合いは、近いかもしれない。
つまり、ここから、大通りに沿って、西に向かうと、粟島神社、という神社があり、一帯の、中心、「要」、だったので、要町、になった、ということだからだ。
だけど、地域の中心だった場所を、要町、と言い習わすものだろうか。それにしては、要町、という地名、あまり、聞かないな。
本当のことは、わからない、とした方が、いいのかもしれない。
そういえば、この地は、大昔、鎌倉時代、室町時代は、豊島氏の領域。
豊島、という名前は、王子の南側にあった、豊島郡から、きている。
そこを、本拠地にしていたから、そういう名前になったのだが。
その豊島氏、そこから、徐々に、勢力を、西側に、広げ、今の、練馬、石神井公園あたりまで、拡大している。
その途次として、このあたりも、入ることになるな。
さらに言えば、もう少し、西には、南北に、鎌倉街道が、通っているし。
とすると、その昔、交通の「要」にるような、何かが、ここらへんに、あったような、気がする。
それは、たんなる、夢想なのか、それとも、歴史の彼方に、埋没してしまったものなのか。
などと、考えても、今さら、確認のしようもない。
さあ、そろそろ、出発しよう。
(2010年2月記)

西武池袋線所沢駅(所沢 宮本町一丁目 神明社)

2010-12-14 06:11:03 | Weblog
薬王寺から西へ。
いかにも、古そうな、醤油醸造所があり、その南側を、さらに、西へと、歩いていく。
この、醤油醸造所、なんでも、江戸時代創業の、老舗だそうな。
今は、まわりは、静かな住宅地だが、当時は、所沢の町の、中心だったことを、物語っているのだろう。
醤油醸造所を過ぎると、南北に伸びる通りに出るが、まだ、西へ。
少し歩くと、北側に、神明社。
今となっては、もう、山野に、ひっそりと、佇む、静かな社だが、この、すぐ、西側に、鎌倉街道が、あったのだ。だから、昔は、けっこう、賑やかだったに違いない。
創建は、わかっていないものの、近くに、鎌倉街道が、通っていることから、やはり、鎌倉時代あたりか。
さっき、訪れた、東側の、薬王寺も、同じ頃だし、他にも、あたりには、新光寺、実蔵院、などがある。
さらに言えば、一帯の町名は、宮本町、そして、その南側が、元町。かつての、地域の中心だったことを、窺わせる、町名だ。
もっとも、往時を偲ぶのは、そんな事どもぐらい。今は、静かな、住宅地が、広がるばかり。
南側に歩いて、再び、銀座通りへ。
東へ東へと、歩き、駅を目指す。もう、帰るわけだが。
そういえば、この通り沿いの、高層住宅、あれだけ、凄い勢いで、建ち続けていたわけだが、今後、新規に建つ計画はない。
とすると、所沢に、来ることも、ないだろう。
このあと、何百年も経てば、どうなるのかな。
鎌倉街道と同じように、歴史の中に、埋もれてしまうのかも。
そんなことを、考えながら、足早に、駅へと、歩いていく。
(2010年2月記)

西武池袋線所沢駅(所沢 有楽町 薬王寺)

2010-12-13 04:57:06 | Weblog
銀座通りから、北へ。街中、住宅地に入り、途中、東西に流れる、東川を渡り、さらに、北へと、歩いていく。
しばらく、進むと、薬王寺。
自分の地元は、所沢であるわけではないので、なんとも、言えないけど、おそらく、所沢を、代表する、寺院の一つ、だと思われる。
創建は、鎌倉時代の後、室町時代。
謂れについては、以下の通り。
さっき、訪れた、小手指は、小手指合戦の舞台だったわけだが、新田の軍勢が、鎌倉幕府を、破った戦い。ただ、その後、同じ場所で、今度は、新田軍が、足利軍に敗れている。そのときの、敗軍の将が、落ち延びて、いつしか、世の中、落ち着いたとき、寺院を、創建。それが、薬王寺、ということらしい。
史実か、伝説か、よくわからないが。
ただ、薬王寺の、西側には、南北に、伸びる、鎌倉街道が、通っていて、交通の要衝だったことは、事実だ。
そのことが、薬王寺の創建に、大きく、関わっていたことだろう。
果たして、その当時、集落も、そちらが、中心で、宿場町もあったらしい。
歴史は、下り、江戸時代。江戸の街が、中心なので、交通路も、江戸への道、すなわち、東西に伸びる道が、栄えてくる。
さっき、歩いてきた、銀座通りが、それなのだが。
その北側、東側のさらに北側、薬王寺のあるあたりを、有楽町というのだが、いかにも、繁華街、あるいは、歓楽街を思わせる、町名だな。
もっとも、それは、もっと、時代が、下ってのこと。
だが、今は、とても、静か。
遠く、高層住宅が、見えるばかり。
時代は、流れていく。
(2010年2月記)

西武池袋線所沢駅(ブリリアタワー所沢ロジュマン)

2010-12-12 06:03:23 | Weblog
ファルマン通りを北へ行くと、交差点。
この交差点は、普通に、道路が、十字に、交差しているわけではない。
通りが、西へと、曲がっていて、その、曲がっている際から、東側、北東側に、道路が、伸びているのだ。
という風に言っても、判りづらいかもしれない。
もっと、簡単に言うと、自然に進めば、この交差点で、南から、西へと、曲がってしまう。道が、そうなっているからだ。
これだと、さらに、判りづらくなったかな。
とりあえず、道なりに、西へ曲がり、そのまま、西へ。
交差点から西側、通りの名前は、銀座通りとなる。
昔は、名前の通り、商店が、軒を並べ、賑やかだったのかもしれない。
実際、この通り沿いには、古い、商店が、いくつか、残っていたりする。昔日の、残照なのだろう。
今は、かつての、賑やかな商店の代わりに、建っているのは、巨大な、高層住宅群。
バブルが崩壊し、失われた10年を経た後の、都心集積化の時代、次々と、建ちあがっている。
駅近くの、再開発、というわけだが、今しも、さらに、新しい、高層住宅、ブリリアタワー所沢ロジュマンが、完成。(工事中はこちら
もっとも、これが、所沢では、最後だと、思われる。
これ以上、高層住宅が増えれば、集積化ではなく、拡大になってしまうからかな。
そういうわけで、小手指駅に、再開発の場が、移ったのかもしれない。
いずれにせよ、これで、所沢の街も、落着くわけだ。
でも、ちょっと、寂しくなるのは、なぜなのだろう。
(2010年2月記)