retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

南武線武蔵中原駅(宮内四丁目 二ヶ領用水)

2016-09-30 05:02:52 | Weblog
中原街道、名前は、江戸時代かららしいのだが、道は、かなり古い。
かつての、東海道でもある。
海岸よりも、内陸を、通っていたのだろう。
その近く、春日神社、常楽寺、平安時代の終わり頃、創建されたらしい。
江戸時代とは別に、平安時代末、荘園が設けられ、開拓されていたようだ。
もっとも、灌漑設備もなく、広大な水田が、整備された、というわけでもないだろう。
具体的に、どうだったのかは、もはや、わからない。
(2013年9月記)

南武線武蔵中原駅(宮内四丁目 上家内橋)

2016-09-29 04:26:00 | Weblog
上家内橋で、二ヶ領用水を渡る。
家内橋、どういう意味なのだろう。
まったく、わからないが、ひょっとすると、渡った先、宮内町、あたりからだろうか。
宮内、というのは、春日神社のことかな。常楽寺もある。
南側には、古い、中原街道。
歴史がありそうな地域だ。
江戸時代に開拓されるわけだが、その、はるか以前から、暮らしがあったのだろう。
(2013年9月記)

南武線武蔵中原駅(上小田中六丁目 二ヶ領用水)

2016-09-28 04:26:20 | Weblog
しばらくすると、南へ流れる、二ヶ領用水。
江戸時代直前、開削される。
江戸時代の、開拓のためだろう。
多摩川北岸もそうだが、多摩川の南岸でも、水田等の、開拓が、本格的に、進んだわけだ。
かくのごと、用水が、張り巡らされれば、頻繁に洪水を起こし、また、そのたび、流路を、変えていた、暴れ川、多摩川も、少しは、穏やかになったのだろう。
流路は、これ以降、確定されたようだ。
新田開発と一石二鳥、ということか。
(2013年9月記)

南武線武蔵中原駅(上小田中六丁目 川崎の住宅地)

2016-09-27 04:43:17 | Weblog
工場の北端からは、住宅地。
工場ができたころは、一面、水田だったのだろうな。
おそらく、高度成長期あたりから、宅地化が始まったのだろう。
砂利輸送がなくなって、ローカルになっていた、南武線。通勤路線に、変わっていくのかな。
おそらく、同時に、川崎の丘陵地、山手田園都市になった頃。
川崎の街並みが、変貌を遂げていく。
住宅地の中、東へ。
(2013年9月記)

南武線武蔵中原駅(上小田中四丁目 富士通川崎工場脇)

2016-09-26 03:36:43 | Weblog
武蔵中原駅から北へ向かうと、西側には、広大な富士通川崎工場。
工場、東側、南北に伸びる道を、北へ、歩く。
工場が、開設されたのは、昭和の初め頃。南武線が開通して、しばらくしてからのことだ。
砂利輸送のためばかり、ということではなかったのかな。
電話、通信で、軌道に乗ったらしい。富士通の社名は、通信からなのかも。
富士通川崎工場の東側を、北へ北へと、歩いていく。
(2013年9月記)

南武線武蔵中原駅(武蔵中原駅駅舎)

2016-09-25 04:59:46 | Weblog
立川駅から南武線。
武蔵中原駅で下車。
馴染みがない駅だ。京浜川崎の下町、という感じと、山手田園都市という感じが、合わさったというところか。
駅は、昭和の初め頃、開業している。
多摩川の砂利輸送のため、だったらしい。
当時、開通は、登戸まで。
砂利輸送ということであれば、その先の開通は、必要なかったのだろう。
とりあえす、北へ向かう。
(2013年9月記)

小田急線狛江駅(西和泉二丁目 都営多摩川住宅 団地内の広場)

2016-09-24 04:51:34 | Weblog
広場には調布行きバス停。
なるほど、バスを使えば、京王線と小田急線、両方に、行けるわけだ。
逆に言えば、両方から、遠く、陸の孤島でもある。
団地は、えてして、駅から、遠いものだが、それにしても、他に、用地はなかったのだろうか。
江戸時代からの開拓で、水田は、多かったはずだ。
ひょっとすると、多摩川、かつての流路跡で、地下に砂利が堆積していて、それを、採掘するための、巨大な凹地でも、あったのかな。
そのために、団地になったのだろうか。
今となっては、わからないけど。
バスに乗り込み、調布駅へ。
(2013年9月記)

小田急線狛江駅(西和泉二丁目 都営多摩川住宅中央名店街)

2016-09-23 03:49:20 | Weblog
ひょっとすると、かつて、多摩川の川筋は、府中用水、根川堀、根川、さらに、六郷用水だったのかも。
だとすると、今の水神社の場所に、伊豆美神社が、創建されたのは、多摩川の川筋、南側に蛇行していたとして、その南端、ということになる。
本当に、そうなのか、わからないけど。
もしそうなら、根川の合流地点、かつての、多摩川跡、ということで、地下には、当時の、砂利が、多量に、堆積しているはずだ。
江戸時代から、高度成長期、多摩川住宅が完成するまで、水田だったのだが。
などと考えているうちに、都営多摩川住宅中央名店街。
どこもそうだが、閑散としている。
(2013年9月記)

小田急線狛江駅(西和泉二丁目 都営多摩川住宅 東西の道)

2016-09-22 05:00:32 | Weblog
都営多摩川住宅、西へ向かう。
東西に伸びる、メインストリート、というところか。
明治時代初め頃の地図を見ると、根川と、多摩川の合流地点、となっている。
合流地点からは、さらに、東へ、六郷用水が、伸びている。
根川、上流を辿っていくと、今の、古天神公園が、水源、ということになっているが、明治時代初め頃の地図を見ると、さらに、西側、根堀川から続いているように、見える。
根堀川は、また、さらに、府中用水からも、続いていたようだ。
水郷、水田地帯。
おそらく、そうした用水は、かつての、多摩川の流路跡、かもしれない。
西へ西へと、歩く。
(2013年9月記)

小田急線狛江駅(西和泉二丁目 都営多摩川住宅 団地内の交差点)

2016-09-21 03:56:32 | Weblog
団地の公園には、どうして、こう、奇妙な、オブジェが、配置されているのだろうか。
こういうの、サイケデリック、というのかな。
団地が、完成した当時、たしかに、サイケデリックだったのかも。
漠たる、未来の安寧は、こうした、奇妙な、オブジェを、作り出すものらしい。
今は、そうしたものも、すべて、レトロ、になる。
懐かしい、雰囲気の中、北へ歩いていくと、東西の伸びる道との、交差点。
(2013年9月記)