retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

京浜東北線さいたま新都心駅(さいたま新都心駅ペデストリアンデッキ けやき広場)

2011-02-28 03:27:33 | Weblog
さいたまスーパーアリーナの通りを挟んで、南側は、ペデストリアンデッキになっている。
けやき広場、という名前らしい。
たしかに、あちこちに、けやき、なのだろうか、樹木が、植わっている。
こうなると、もう、ペデストリアンデッキ、というより、人工地盤、なのだろう。
このペデストリアンデッキ、東側の、さいたま新都心駅から伸びてきているわけだが、さらに、駅東側、ショッピングセンターまで、伸びている。
そればかりではない。
南側、合同庁舎の高層ビル群をつないでいき、もっと、南側へ。
郵便局の建物群にまで、至っている。
どこまでも、続いている、という感じだ。
最も長大な、ペデストリアンデッキは、どこにあるのか、わからないけど、ここのペデストリアンデッキ、知る限りでは、候補になっても、いいと思える。
残念なのは、もう、ちょっと、南に伸びれば、与野駅と、つながったのに、ということかな。
そこまで、伸ばしても、意味は、ないんだろうけど。
ただ、与野駅西口にも、高層住宅が、何棟か建っているので、ペデストリアンデッキが、あったら、それなりに、便利だったかもしれない。
それに、郵便局の建物群、さいたま新都心駅からは、南に離れ過ぎていて、むしろ、与野駅からの方が近いのだ。
もっとも、何事も、不完全、中途半端、の方が、いいのかも。
ペデストリアンデッキだけ、至れり尽くせり、というのも、妙なものだし。
(2010年5月記)

京浜東北線さいたま新都心駅(さいたまスーパーアリーナ)

2011-02-27 07:16:41 | Weblog
南北に伸びる通りを、北へ。
埼玉の場合は、バブルといっても、計画は、確かに、バブルなのだが、実際、着工したのは、バブルが、すっかり、崩壊していた後。だから、様相が、違うのかもしれない。
なぜなら、最近、主流の、駅前再開発、高層住宅が、とても、多いのだ。
バブル期は、高層オフィスビルが、主で、高層住宅なんて、ほとんどなかった。あったとしても、大川端リバーシティぐらい。
だから、昨今の、駅前再開発を、バブル的に、行った、という方が、いいのだろう。
あるいは、駅前再開発の中に、バブルの要素が、混ざっている、という感じ。
もっとも、そのおかげで、駅前再開発、使い切ってしまい、今に至るのかも。
どちらにしろ、どうでもいいことなんだけど。
しばらく、歩いていくと、東西に伸びる通り。
東に曲がって、そのまま、東へと、進んでいく。
埼京線の高架を、潜った先は、さいたま新都心。
埼玉における、バブルの中心地だ。
といっても、完成した頃は、もう、バブルは、とっくに、崩壊していて、失われた10年だったな。
だけど、当時は、まだ、再び、景気がよくなると、信じていたっけ。
さいたま新都心も、むしろ、景気の呼び水になるぐらいに思っていた。
その、さいたま新都心の北端、通りの、北側には、さいたまスーパーアリーナがある。
バブルの頃は、このような、集客施設が、多かったのだ。
巨大な、集客施設さえ作れば、その分、客が、入ると、素朴に、信じられていたのだろう。
なんとも、いい時代だったものだ。
ところで、今日は、さる、有名な女性シンガーのコンサート。
周囲には、早くも、ただならぬ熱気が、漂い始めている。
ふと、昔のことを思い出して、堪らなく、懐かしさが、こみ上げてきた。
コンサートなんて、最近は、まったく、縁がないなあ。
こういう、熱気を感じていると、さいたまスーパーアリーナ、作ったのは、絶対、間違いではなかったのだと、本当に、思いたいのだけど。
(2010年5月記)

埼京線北与野駅(与野上落合住宅建替計画工事現場)

2011-02-26 07:36:20 | Weblog
高田馬場駅で山手線。
池袋駅で、埼京線に乗り換える。
埼京線に乗る、ということは、埼玉県に向かうわけだが。
川口を除いたとすると、埼玉なんて、久しぶり。
バブルが崩壊した後の、失われた10年あたりから、もの凄い、勢いで、高層ビルが、建っていて、そのたび、埼玉は、足繁く、訪れていたものだけど。
その勢いが、途絶えて、どのくらい経つのかな。
計画自体が、バブル期のものだったので、ちょっと、無理が、来たのかもしれない。
それは、千葉県、神奈川県も同じこと。
特に、千葉県なんて、何も、なくなってしまったなあ。
埼玉県にしても、たしか、さいたま新都心の中、県内で、最高峰の、高層ビルが、建つ予定だったらしいのだが、どうしたのだろう。
たぶん、まったく、目処が立たず、立ち往生しているに違いない。
たしか、ちょっと前、規模を、かなり縮小して、という話は、聞いたことがある。
でも、そんなことをしてすら、いまだ、着工できないのかな。
埼京線は、荒川を越え、そんな、埼玉県へと、入っていく。
埼京線でも、いいのだけど、武蔵野線からだと、その車窓から、昔、再開発工事のためのタワークレーンが、林立する様子が、よく、見れた。
あんなに、高層ビルを建てて、大丈夫なのかな、なんて、思ったりしたけど。
埼京線の車両は、北与野駅のホームに、滑り込む。
北与野駅で、下車。
高架のホームから、地上へ、降り、改札を抜ける。
駅西側に出て、北へ伸びる通り。
その通りの、西側には、与野上落合住宅建替計画の工事現場。
埼玉では、久しぶりの、高層ビルだ。
(2010年5月記)

田園都市線二子玉川駅(駅東側 仮設バスターミナル)

2011-02-25 06:10:22 | Weblog
坂を下り、再び、丸子川沿い。
住宅地の中、北西方向へと歩いていく。
やがて、東急田園都市線の高架を、潜り、西側。
こちら側は、高度成長期の終わり頃、整備されたのだが。
ただ、最も、輝いたのは、やはり、バブルの頃。
今に至るも、その輝きは、失われていない気がする。
こうして、歩いていても、気圧されるな。
もっとも、気圧されたとしても、そもそも、こんなところで、買う物もないし、用もないし。
しばらく、南へ、歩き、東へ。
駅舎の、下を、抜け、東側に出る。
いたるところ、まだ、再開発の工事、終わっていず、多摩堤通り沿いには、仮設のバスターミナル。
バスターミナルは、結局、どうなるんだろう。
そういえば、バブルが崩壊した頃だろうか、都心部の、バス路線すべてに、乗ってみようとしたことがある。
そのとき、二子玉川駅のバスターミナルも、何度か、訪れたものだ。
といっても、これほど、変わってしまったので、もう、当時のことは、思い出せない。
可能な限り、思い出してみる。
たしか、駅の東側に、駅前広場を兼ねたバスターミナル。
その南側に、商店街になっている、通りがあって、東に伸びていたのだ。
今の、多摩堤通りは、さらに、南側だったかな。
商店街には、魚屋、古本屋、そして、古びた喫茶店なんかが、並んでいたように、記憶している。
駅前広場の北側には、東急ハンズ。はるか東には、ナムコワンダーエッグがあった。
ずいぶん、賑わっていたのになあ。
結局、一度も行かない間に、みんな、なくなってしまったのか。
ここにあるのは、もはや、帰らざる日々、思い出だけ。
その、思い出すらも、今となっては、曖昧になってしまった。
もう、帰らなければならない時間。
まだ、高層ビルが、建つらしいので、二子玉川には、また、来ることになるわけだが、他に、何かあるわけじゃなし、なんだか、面倒になってきたな。
二子玉川駅で、東急東横線に乗り込み、帰途に着く。
(2010年5月記)

田園都市線二子玉川駅(上野毛三丁目 稲荷神社)

2011-02-24 04:29:56 | Weblog
南東へと進んで行くと、北東に伸びる、上野毛通り。
上野毛通りに入り、北東へと、歩く。
かなりの、上り坂。
実は、この通り、鎌倉街道の一部だったらしい。
ということは、鎌倉時代から、あるわけだが、ひょっとすると、さらに、もっと、もっと、古いような気もする。
近くには、古墳など、太古の、遺跡が、多数、あるからだ。
おまけに、坂道の両側は、鬱蒼とした、森。
森そのものは、昔から、ずっと、あるわけではないのだろうけど、太古の光景は、こういう感じだったに違いない。
そんな、上野毛通りの坂道を、上っていくと、西側に、稲荷神社。
いつ、創建されたのかは、わからない。
鎌倉街道の、沿道にある、ということは、鎌倉時代、なんだろうなあ。
当時は、稲荷神社ではなくて、別の、神社だったのかも。
そして、さらに、昔、おそらく、この場所は、元の住民の、祭祀の場、だったのかな。
境内に立って、まわりの、鬱蒼とした、森を、眺めていると、そんな感じがする。
もし、そうだとすると、はるか昔から、ずっと、変わらないわけだ。
さらに言えば、これから先、何百年経っても、やはり、変わらないに違いない。
その頃は、どうなっているんだろう。
などと、考えても、仕方ないな。
(2010年5月記)

田園都市線二子玉川駅(上野毛三丁目 丸子川)

2011-02-23 05:04:06 | Weblog
二子玉川ライズタワー&レジデンスのビル群の北側に出て、東へ。
閑静な住宅街が広がる。
その中を、南東へと、流れる、丸子川。
近未来都市から、がらりと、雰囲気が、変わってしまった。
きらびやかな感じから、落着いた感じになっている。
さらに、丸子川に沿って、南東へと、歩く。
どんどん、緑が、濃くなっていき、丸子川の、北側は、深山幽谷の趣。
こんな、山の手に、暮らしていると、もう、どこかへ、行きたいなんて、思わないだろうなあ。
すぐ、近くには、整備された、商業地も、あることだし。
さらに、急行なら、一駅で、渋谷にも、足を、伸ばせる。
一帯には、古墳やら、いろいろな、古代の遺跡が、多い、というのも、遙か昔から、住むには、環境が、よかったからだろう。
ちょっと、離れるけど、東側には、田園調布や、自由が丘があるのも、うなずけるな。
ところで、以前、田園調布から、蒲田行き、という、都営バスに乗ったことがある。
山の手から、坂道を、下り、どんどん、下町に、向かっていく感じが、なかなか、興味深かった。
思わず、「天国と地獄」という映画を、思い出してしまったが。
ということは、本来、二子玉川が、下町に、当たるはず。
ところが、その、二子玉川、もはや、再開発され、下町の雰囲気は、一掃されてしまっているようだ。
いつの間に、そのようになってしまったのだろう。
そんなことを考えながら、丸子川沿いを、歩いていく。
(2010年5月記)

田園都市線二子玉川駅(二子玉川ライズタワー&レジデンス)

2011-02-22 06:09:59 | Weblog
堤防の下を、東へと、歩いていく。
堤防の上、歩けないことはないのかもしれないけど。
しばらくして、堤防の上に、上ってみる。
すると、目の前、北側一帯は、高層住宅の林立する、近未来都市。
最近、完成した、二子玉川ライズタワー&レジデンスだ。(工事中はこちら
タワーイースト、タワーウエスト、タワーセントラルの、3棟からなる。
以前の街並み、どうなっていたものか、わからないぐらいの、変わりよう。
ただ、ちょっと、駅からは、離れているようだが。
でも、ひょっとすると、ペデストリアンデッキが、伸びてくるのかもしれない。
駅前には、別の、高層ビルが、工事中、さらに、このビルと、高層住宅との、間にも、高層オフィスビルが、計画中。
とすると、それらが、すべて、完成すれば、その間を、ペデストリアンデッキが、つないでいくようになるのかも。
そうすれば、駅から、この、高層住宅群に、直接、行き来できることになる。
駅と一体になった、近未来都市の出現、というわけかな。
実際、どうなるのか、わからない。
もっとも、わかったとして、特に、自分には、関係のないことだけど。
(2010年5月記)

田園都市線二子玉川駅(玉川一丁目 玉川東陸閘跡)

2011-02-21 05:04:53 | Weblog
高田馬場駅で、山手線。
渋谷駅で降り、田園都市線に乗り換える。
二子玉川駅で、下車。
駅東側に出る。
田園都市線の、車窓から見ても、駅の、東側の様相が、一変していることがわかる。
高層住宅が、聳え、周辺も、きれいに、整備されているのだ。
もっとも、まだまだ、工事中の場所も、かなり、あったりするが。
駅を、出ると、すぐに、東西に伸びる、多摩堤通り。
昔は、この通りに出るまで、ワンクッション、あったような、気がするけど。
もはや、以前の、街並みが、まったく、思い出せないな。
多摩堤通りの南側には、壁のように、土が、盛ってある。
最初、見たときは、何だろうかと、思ったものだ。
見た感じ、堤防で、実際、確かに、多摩川の、堤防ではあるらしい。
ただ、この堤防の、内側にも、住宅が、建ち並んでいるのは、なぜなんだろう。
いちおう、そのために、堤防の、一部が、切れていて、そこから、避難できる、ということだ。こういうのを、陸閘、というらしい。
それで、避難が、完了した後に、ゲートを閉めてしまう。
でも、洪水が、今まさに、起ころうとしている状況で、そんな、うまい具合に、ことが、運ぶものだろうか。
気休め程度、でも、ないんだろうが。
なんて、心配していたのか、どうか、わからないけど。
そのうち、時は流れ、堤防の外側は、すっかり、再開発されてしまったわけか。
(2010年5月記)

小田急線相模大野駅(相模大野駅西側地区再開発工事現場)

2011-02-20 07:24:49 | Weblog
北西へと、歩いていく。
次第に、賑やかになっていき、やがて、駅前。
賑やかさは、完全に、駅前に、移っているんだろうな。
ふと、かつて、西門商店街が、賑やかだった頃、どんなだったか、ちょっと、見ておきたかった気もする。
おそらく、通りから、入ったところ、まだ、建物が、古いので、当時の、雰囲気は、そういうところに、残っているとは思うけど。
そんな相模原の街を離れ、ペデストリアンデッキに上り、相模原駅駅へ。
横浜線の車両に乗り込む。
横浜線町田駅で下車。北側に出て、ペデストリアンデッキを、西へ。小田急線の町田駅に向かう。
ホームが、離れているのだが。
でも、何度か、乗り換えていると、もう、慣れてしまったな。
あまり、遠いとも、感じなくなってしまった。
ところで、町田は、東京都だけど、多摩丘陵の、南側にあるためか、雰囲気は、ほとんど、神奈川県。
もっとも、都心の郊外なので、東京都だろうが、神奈川県だろうが、どっちでも、いいんだろうけど。
雰囲気は、たしかに、違うが、街並みは、他の、郊外と、変わらないし、同じような、チェーン店が、並んでいるし。
町田駅で、小田急線に乗り、次の駅、相模大野駅で下車。
駅西側に出て、ペデストリアンデッキを、南へ。
ペデストリアンデッキ南端の、その先、駅南西部は、広範囲で、再開発の工事中。
実は、この場所には、相模大野の、昔からの、街並みが、唯一、残っていたのだが。
そういうわけで、相模原市は、政令指定都市になっていく。
昔の、相模原は、もはや、帰らざる日々の中。
これが、時代の流れ、というものなのか。
(2010年5月記)

横浜線相模原駅(相模原六丁目 西門商店街)

2011-02-19 07:36:58 | Weblog
相模原市市役所の東側を、北東に伸びる、大通りに入り、北東へ。
駅に向かう。
16号線を越え、さらに、北東へ。
この、大通り、歩道が、広くて、しかも、並木の緑が多い。
歩いていて、とても、気持ちのいい、通りだ。
沿道には、ちょっと、古びた店舗が、ところどころにある。
今は、静かな、大通りでも、かつては、賑やかだったのだろうか。
相模原には、来たこともないので、ちょっと、わからない。
そんなことを、考えながら、西へ曲がり、住宅地の中へ。
北西方向へと、歩いていく。
すぐに、西門商店街の、立派な、アーケード。
だが、アーケードが、立派な割に、ずいぶん、閑散としている。
おそらく、かつては、かなり、賑わっていたように、思うのだが。
さらに言えば、賑わっていたのは、相模原が、地方都市だった頃なんじゃないかな。
ここからは、想像なのだが、西門商店街には、有名な、岡本太郎の、オブジェある。
そのオブジェ、高度成長を達成した、安定期に、設置されたらしい。
とすると、その頃、商店街が、最も、賑やかだったのだろう。
ちなみに、自分の住んでいる地域にも、岡本太郎作ではないが、同じ時期、オブジェが、設置されたいる。
日本中、特に、地方が、賑やかだったからに、違いない。
そのような賑やかさ、バブルの頃までは、なんとか、保っていられたのだが。
バブルが、崩壊して以降、地方は、急速に、衰退していく。
自分の住んでいる地域も、ご多分に漏れず、店は、ほぼ、シャッターを下ろし、スーパーが、一軒、残るばかり。
どこも、同じなのだ。
(2010年5月記)