retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

中央区晴海(晴海三丁目西地区再開発A1棟)

2007-07-31 06:24:43 | Weblog
都営12号線で勝どき駅へ。
勝どき駅周辺の再開発地を見ようと思ったのだが、まだとりたててなんにもやっていなかった。
他にまわろうかと思ったが、この日は体調が悪くて早めに帰ることにする。
ただせっかくここまで来たので、晴海ぐらいは見ていこうと思ったのだが。
晴海通りを南へ。朝潮運河をトリトンブリッジで渡る。大通りの横に併設された歩道橋なのだが、動く歩道になっている。
対岸に着き、公園を過ぎてから南西方向へ。
ほとんどが更地になっていて、そこにまだポツンポツンと建物がある状態だ。
晴海グランドホテルとかもある。まわりが空地なのでよく目立つ。
そんな中、朝潮運河の方で、晴海三丁目西地区再開発A1棟が工事中となっている。
運河沿いなので、さぞ眺望のいい高層住宅になるだろうが、今のところ、まわりは原っぱなので、本当にそんな建物が建つなんて想像できない。
高度成長期が始まろうとしていた時期にオープンした、晴海国際見本市があって、かつては賑やかだったんだろうけど、今はゴーストタウンみたいになっている。
そして、最近の都心回帰、都心集積化の波を受けて、今度は巨大な高層住宅が工事中というわけだ。
また、すぐ西側に環状2号線が臨海副都心から伸びてきて、汐留シオサイト、そして虎ノ門まで達する。
大勢の住民が暮らす賑やかな未来都市。都心も近いし海も近い。あと何年かすれば、そうなるに違いない。
でも、この殺風景な廃墟を見ていると、未来に対するわくわくした気分が沸き起こってこない。たぶん体調が悪いからだろう。これ以上いられないので、早く家に帰ることにする。
(2007年1月記)

JR船橋駅南口(Face)

2007-07-30 06:23:25 | Weblog
JR船橋駅南口、あるいは、JR船橋駅と京成本線の京成船橋駅の間にFace(フェイス)がある。
こちらのビルも、いつのまにできたんだろう、という感じだ。
最近になって、思い出したかのように、街がきれいになっていく。
船橋、というと、どうしても昔の頃の川崎を思い浮かべてしまう。雰囲気が下町の繁華街だった、ということなのだが。
バブルの頃だろうか。何度か船橋まで来たことを懐かしく思い出す。千葉に来たついでに船橋に寄っていたのだけど。
船橋には、当時にしては珍しく、24時間サウナ、というのがあった。24時間サウナといっても、船橋のは、今でいう、健康ランド、といった類のものだった。(船橋ヘルスセンターがその先駆けらしい)
従業員が、ほとんど、世界中のあちらこちらから来た外国人で、どう考えても怪しい感じがしたなあ。
実に怪しかったけど、子供なんかも来ていて、やはりサウナ、というより健康ランドだったのだろう。
バブルの頃、なんにもなかったけど、とにかく、24時間、風呂に入れて、食事ができて、ごろごろできるという、今考えると、ずいぶん安上がりだが、そんな施設が船橋にできたのだ。
世の中便利になったものだと、うかれて店を出て、そこらへんに停めていたクルマに乗り込む。そうすると、朝の日差しで外は明るくなっていて、まわりの土ぼこりが舞い上がる空地や総武線の高架が目に入って、妙な気分から醒めるのだ。
バブルの雰囲気からはまったく醒めていなかったけど。
(記憶を頼りに地図を調べたら、まだこの店はあるらしい)
船橋駅周辺は、最近になって、思い出したかのように開発が始まっている。
京成本線が高架の工事をしているし、駅南口には、パークタワー船橋が工事中になっている。
なんだか遅れてきたバブルみたいだ。街がどんどん変わっていく。
でも、いつかまた、あのときの朝みたいに白々とした気分で目が醒めるんだろうか。
(2007年1月記)

船橋駅北口(プラウドタワー船橋)

2007-07-29 20:24:41 | Weblog
八千代中央駅に戻り再び東葉高速鉄道に乗る。
今度は上り方面へ。東海神駅で下車。以前下りたときは、もっと船橋駅に近いと思ったけどなあ。
でも同じように船橋駅へ歩いている乗客もいるし。
細い道を辿りながら南へ南へと歩いて行くとだんだん賑やかな街並みが見え、やがて船橋駅前北口に着く。
船橋駅北口、駅前広場の東側にプラウドタワー船橋がある。
こんな立派な高層住宅がいつのまにできたんだろう、という感じだ。
雑然として混沌とした繁華街が徐々に整理されていくようだ。京成本線も高架の工事をやっている最中である。
船橋といえば、そのような繁華街があるだけではない。南東側、海老川沿いに意富比神社(船橋大神宮)という神社がある。
意富比は「おおい」と読むらしい。
延喜式にも載っており平安時代よりも確実に古い。(延喜式には、下総の一宮は鹿島灘近くの香取神宮になっている)
意富比神社の最初の場所(元宮)は、もっと西側、海神町の南側だったらしく、次に北部の夏見町に移り、そして現在の海老川沿いに移っている。(延喜式に載っている意富比神社というのが、どこの場所にあった時点かわからないのだが)
なにか、船橋の中心部も同じように移動しているような気がするが。(もっとも「船橋」という地名はそれほど古くはないだろう。元はどんな地名だかわからないけど)
海老川河口に船橋湊という街ができたのと、意富比神社が今の場所に移ってきたのは同時だったのではないだろうか、とも思える。
そして、その後、江戸時代になって、成田街道(正式には佐倉街道)の宿場街になっていくのだ。
とにかく、掛け値なしにとても古い歴史を持つ場所であることは確かだ。
太古の昔から連綿と続く歴史の流れに、船橋の街の再開発も付け加わろうとしている。
(2007年1月記)

八千代市八千代中央駅北口(ゆりのき台東第1住宅)

2007-07-28 10:44:39 | Weblog
八千代緑ヶ丘駅に戻り再び東葉高速鉄道に乗る。
隣の八千代中央駅で下車。駅北口にゆりのき台東第1住宅がある。
八千代緑ヶ丘駅は、巨大なショッピングセンターがあったりしたが、八千代中央駅の方は本当になにもない。のどかな感じだ。
ただ、離れてはいるが駅の南側には市民会館や警察署、市役所などもあり、やはり中心なのだろう。
八千代という地名は昭和の時代につけられたもので、もともとは大和田という地名だったようだ。
江戸時代、成田街道(正式には佐倉街道)が通っていて(今でも成田街道はあるけど)、大和田宿があった。いまの八千代市役所の近くである。
当時、成田山新勝寺への参詣客でたいへん賑わったということだ。
大正の終わり頃、八千代に京成本線が開通する。他の例に漏れずやはり江戸時代の中心地から離れた場所に駅ができている。
その後、高度成長期が始まろうとしていた頃、京成本線の沿線で日本初の団地が建設される。それにともなって八千代台という駅も新設される。
高度成長期が進むにつれ、京成本線沿線は都心部のベッドタウンとなり、住宅が建ち並ぶようになる。まさに日本中の郊外が歩んできた道だ。
そして、バブルが始まろうとする頃、京成本線からはずれたところに新路線の東葉高速鉄道が着工される。とにかくこの電車に乗れば、そのまま大手町まで行けてしまう、夢の通勤電車だ。
ただ、夢というものは通勤客のささやかな夢ばかりではなかったようだ。
とにかく、東葉高速鉄道は開通し、高層住宅も建ち、今でも徐々に開発が進んでいる。
もはや、東葉勝田台から先への延伸の夢はなくなったかもしれないけど、沿線住民の夢ははぐくまれているということかな。
(2007年1月記)

八千代市八千代緑ヶ丘駅北口(カムザスクエア八千代緑が丘タワーズ)

2007-07-27 06:20:14 | Weblog
西武新宿線で高田馬場駅へ。東西線に乗り換える。
東西線は東葉高速鉄道に直通しているので、そのまま乗っていることにする。
西船橋を越え、しばらくは地下を走るが、トンネルをぬけると、窓外には東葉高速鉄道が開通したおかげでできたような街が広がっている。
八千代緑ヶ丘駅で下車。駅北口にカムザスクエア八千代緑が丘タワーズがある。
東葉高速鉄道が開通したのは、もうバブルが崩壊した頃だが、夢の鉄道とさんざんもてはやされた経緯を思い出すと、北総開発鉄道とともに遅れてきたバブル路線、という気がしないでもない。
開通した当初は、運賃はとてつもなく高いし、別に乗客が多いとも思えないし。がらがらとまではいかないけどあまり利用されてもいないようだったなあ。
勝田台で京成線と接続するが、京成線の乗客を奪ってしまうのでは、と本気で心配されたものだったけど。
逆に、運賃が高すぎる、ということで、東葉高速鉄道を利用しなければならない乗客の心配をする方が現実的だったと思う。
東葉高速鉄道が計画されたときの、あの騒ぎはなんだったんだろう。
とはいえ、こうして駅前に高層住宅も建ち、徐々にではあるが、開発が進んできているのは確かだ。
もっとも、勝田台からさらに延伸して、総武線のどこかの駅に接続、または乗り入れる、なんてことはいくらなんでもないだろうなあ。(たしかに四街道あたりなら千葉駅を経由するよりも早く都心に出られるような気がする)
この先、たぶん、船橋市と八千代市のローカル鉄道になっていくだろう。
そして、ゆっくりとなくてはならない住民の足になっていくのかな。(その前に運賃を値下げした方がいいと思うのだが)
(2007年1月記)

相模大野駅(ステーションスクエア)

2007-07-26 06:17:14 | Weblog
海老名駅に戻り、小田急線に乗る。本当は厚木に行きたかったのだが、かなり駅から離れた場所にも高層ビルがあるので諦める。
小田急線で新宿方面へ。相模大野駅で下車。
駅ビルとしてステーションスクエアがある。
相模大野駅の北口は、アーケードが伸び、伊勢丹まで続いている。
そこまでが、相模大野駅の繁華街の範囲になってしまう。わずか200メートル四方の街。
ずいぶんとこじんまりしているのは、隣の町田に繁栄を奪われてしまったからなのだろうか。
もう夕暮れ近くなり寂しい街がますます寂しくなっていく。相模大野というとなんとなくニュータウンのような近代的な感じがしたが、実際は取り残され、さびれたようなところも多い。
伊勢丹のさらに北側には、以前、米陸軍医療センターの敷地があり、高度成長期が終わった、安定期の頃、敷地は日本へ返還されている。
バブルの頃、ずいぶんとその返還された土地の再開発が注目されたように記憶しているのだが。
結局、その結果、グリーンホール相模大野ができただけなのかな。
しかし、どうしたわけか、ここにきて思い出したように再開発が始まっているらしい。
相模大野駅北口の西側と南口の16号線沿い、そして、隣の小田急相模原駅北口などがある。
相模原市の政令指定都市への移行ということだろうか。バブル期にあまり変化しなかったからだろうか。あるいはその両方だろうか。
はっきりしているのは、ビルが完成した頃、またこの街を訪れなければならないということだ。
そのときはどんなふうに相模大野の街が変化しているんだろう。
(2007年1月記)

海老名駅南口(海老名プライムタワー)

2007-07-25 06:19:30 | Weblog
海老名駅南口(名称は東口)。ペデストリアンデッキを下り、街中へ。
渋滞しているクルマの間をすり抜けながら南へ歩く。
400メートル四方の海老名駅中心部の南東端に海老名プライムタワーがある。
この白亜の美しい巨大な建造物を見ていると、なんでこの場所に、という感想しか出てこないのだが。
寒空の中、渋滞しているクルマが巻き上げるのか、常に乾いたほこりが霞のように舞い上がっている、そんな中では、この建造物の存在は不思議としかいいようがない。
竣工は、バブル崩壊の頃だが。やっぱりバブルの勢いで建ってしまったのかな。
海老名駅の東側、少し離れたところに相模国分寺跡がある。大昔の相模国の中心は海老名だった、ということが、現在では想像できない。
なんだか、海老名プライムタワーの姿がだぶってしまうような気がした。
もっとも、古代においては、北へ奥州古道が伸び、北東方向、今では246号が通っているあたりには矢倉沢道が伸びていた。海老名は太古の昔から交通の要衝だったわけだ。
現在でも、小田急線、相模鉄道、相模線と3つの路線が集まっている。
ただ、クルマ社会にあっては、鉄道路線はあまり意味はないかもしれない。
それに、もはや都心回帰、都心集積の時代になってしまった。
ひょっとすると、もう海老名プライムタワーはレトロな遺物なのだろうか。
相模国分寺の広大な遺跡を訪れるとき、人々は、はるかな往時をしのぶことになるだろう。
そして、やはり同じように、海老名プライムタワーの美しい白亜の建造物を眺めるとき、地方の時代をしのぶのだろうか。
(2007年1月記)

海老名駅南口(ビナマークス)

2007-07-24 06:19:18 | Weblog
中央線で西国分寺、西国分寺から武蔵野線で府中本町。
さらに南武線に乗換えて登戸へ。やっと小田急線に乗れる。
面倒くさいがこれが一番早い方法らしい。
小田急線で多摩丘陵を越え、町田、相模大野を通過し、海老名へ。
海老名駅南口(名称は東口)に出る。さらにやっと着いた、という感じだ。
南口(名称は東口)は、最近、ちょっと賑やかな郊外の駅ならどこにでもあるペデストリアンデッキがあちこちに伸びている。
駅からも見えるが、ビナマークス・ウエスト、ビナマークス・イーストのツインビルが東西に並んでいる。ペデストリアンデッキは、この高層住宅棟まで伸びていて、駅に直結するようになっている。
街は、海老名駅の南口(名称は東口)、400メートル四方のなかにショッピングセンターやファミリーレストランみたいなのや郊外型の店舗などが密集していて、それだけである。
その密集した中心地は、高度成長期が終わった安定期からバブル期にかけて完成したようだ。(たとえば、海老名サティ、ビナウォーク、ダイエーなど)
もっともなんだか、まわりの果てしなく広がる住宅のなかに浮かぶ小さな離れ小島でしかないような気もする。
賑やかで結構なことだが、周辺のいたるところからクルマで乗り付けてくるようで、道路はやたらと混んでいる。
これなら、ショッピングセンターを駅前に密集さえなくても、主要街道沿いに散らばせて作った方がよかったのではないだろうか。
鉄道路線の要衝であるけど、わざわざ海老名に電車で来る客がいるのかな。鉄道を使うならそのまま新宿や横浜まで出てしまう気がする。
海老名駅北口(名称は西口)にさらに高層住宅を建てるらしいが、都心集積化の流れの中、無理な感じだ。(実際、今のところ、高層住宅の計画は具体化していない)
(2007年1月記)

川口駅西口(川口LILIAタワー棟)

2007-07-23 06:21:47 | Weblog
川口駅西口、目の前には川口LILIAタワー棟がある。
川口市が建設した施設であり、完成は、バブルのころである。
川口総合文化センターリリアタワー棟、というのが正確な名称なのかな。
他にホール棟が併設されている。
川崎市でいえば、ミューザ川崎みたいなものだろうか。川口市の方がずっと先に完成しているのだけど。
鋳物工場の街だった川口が、クラシック音楽の街になっていたら、まったく、川崎市と同じではないか。
川崎市は京浜工場地帯、川口市は鋳物工場でなんとなく違うようにみえる。
川口市の鋳物産業は江戸時代にまでさかのぼる。
近くに荒川があり粘土がたくさんあったからだろうか。
その鋳物産業は、明治時代から昭和にかけて一大鋳物工場地帯に発展していくことになる。
しかし、高度成長期を経て、日本は近代工業国家から成熟債権国家になり、工場はいらなくなってしまう。
結局、川崎も川口も同じというわけだ。それどころか、日本のどこかの工業地帯ならおなじみの光景であり、川口も川崎もその一つだっただけなのだ。
やがて、バブル期がやってきて、工場がなくなった土地に高層住宅が次々と建っていく。工場の街から高層住宅の街に変貌していく。
川崎とあえて違うところといえば、川崎は山の手、田園都市があるが、川口にはないことくらいだろう。
高層住宅が人工の山の手だとすれば、川口に高層住宅が集中的に建っているのはそのためかもしれない。
それはともかくとして、もはや川口を鋳物工場の街、ということはないだろうなあ。
(2006年12月記)

川口駅西口(ソルクレスト川口 ザ・タワー)

2007-07-22 13:23:35 | Weblog
ドリームタワー キュアレジデンスの東側にソルクレスト川口 ザ・タワーがある。
この2棟の高層住宅、最初はドリームタワーズwest棟、east棟という名前だったような気がするが。ツインビルかと思ったら違ったようだ。
ソルクレスト川口 ザ・タワーも完成間近だ。(こちらも2007年2月に竣工したらしい)
現在では、京浜東北線の駅順に赤羽、川口、蕨、浦和、大宮、というふうになっているので、これが埼玉に至る主要ルートのような感じになっている。
しかし、この鉄道路線が開通する以前、明治時代前は、埼玉に至る主要ルートは、まったく別だった。
たとえば、中山道は、板橋、志村、戸田、蕨、浦和、大宮となっていた。さらに、日光御成街道は、赤羽岩淵、川口元郷、鳩ヶ谷、岩槻となっていた。
つまり、今のルートは、日光御成街道の川口宿と中山道の蕨宿を結びつけてしまっているのだ。
鉄道路線は、江戸時代の栄えた場所をなるべく通過しないようにしたため、そのようなルートになったのだろうけど。
(もっとも、最近開通している、埼京線や埼玉高速鉄道は、それぞれ中山道、日光御成街道に近いルートになっているが。)
明治時代になり新しい鉄道ルートが開通しても、江戸時代の空白地帯には、田畑や湿地帯しかなかったようだ。
だが、もともと江戸時代からあった鋳物産業を中心にした工場地帯が広がり、さらに都心部の都市化とともにベッドタウンとして、住宅がびっしりと建ちはじめる。
そこに、バブル期が到来し、川口駅周辺を中心にして、大きく変貌を遂げていくことになる。
(2006年12月記)