retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

山手線東京駅西口(郵船ビル新館)

2008-05-31 02:26:11 | Weblog
バスは、再び広大な水郷地帯を走っていく。
だいぶ離れたところで、後ろを見てみると、ポツンとした鹿島セントラルビルが、いまや小さく見えている。
そして、しばらくして、バスは、幅広な利根川を渡っていくのだ。
たゆとう大河の西側、はるか先には細長い鉄橋を、遠くなので、まるで模型のように小さく見える鹿島線の電車が走っているのが見えた。
この幻想的で荘厳な光景に思わず目を奪われてしまう。
バスは、利根川を越えてしばらく走ると、丘陵地に入る。
ここからは、両側を防音壁で囲われるようになる。
ということで、もう風景を楽しめない。目を閉じるしかない。
目を閉じると、瞼の裏には、さっき見た景色がはっきりと残っている。
広々と広がる冬枯れの大地。初冬の太陽の光をキラキラと反射させる広い湖の湖面。
そのような思いに浸っていると、終点が東京駅なので、安心したせいか、いつしか眠りに落ちてしまった。
目が覚めたのは、バスが京葉道路を走っている頃だ。
窓の外にはららぽーと。多くのクルマが行きかい、建物で覆われた都会の中。
あまりの窓外の景色の変わりように、一瞬、戸惑ってしまった。
いまさっきの雄大な神栖の光景が、実は寝ていたときの夢だった、としても信じてしまっただろう。
高速バスは、やがて、都心に入り、高速道路を降りて、クルマの渦をかきわけるようにして、東京駅に到着。
東京駅の西口へ。
西へまっすぐ伸びる大通り、行幸通りを西へ歩く。
南北に伸びる日比谷通りの手前、行幸通りの南側に郵船ビル新館がある。
竣工は、高度成長期が終わって訪れた安定期の頃。
最初は、高いビルだっただろう。
だが、今は、まわりの高層ビルがでかすぎて普通のビルにしか見えない。
このビルがまわりよりも高いビルだった頃は、のんびりした時代だったのかもしれないなあ。
それは、過ぎ去った夢、なのだろうか。
こう思ってしまうのも、なんか、さっきの高速バスで行った神栖の光景が、未だに余韻を残しているからかもしれない。
(2007年12月記)

茨城県神栖市(鹿島セントラルビル)

2008-05-30 06:19:15 | Weblog
高田馬場から東西線。大手町で降りる。
地下道を歩いて行くとすぐに東京駅に出る。
東京駅の東口へ。
今回は、鉄道の最寄り駅がない場所に行かなければならない。
だから、高速バスで行くことにする。
東京駅構内にある電車の切符の自動販売機と同じような自動販売機で高速バスの搭乗券は簡単に買えた。
しかも、すでに待機しているバスにすぐに乗れる。
行き先は、鹿島。利根川よりも霞ヶ浦よりもさらに向こう側だ。
高速バスは、首都高に入り、さらに東関東自動車に入って、一路、茨城方面に向かって疾走する。
高速道路は防音壁に囲われているので、風景が楽しめない。寝てしまいそうになるが、そのままだと鹿島サッカースタジアムまで行ってしまいそうなので、起きていることにする。
利根川を渡ると、眼前には、雄大な水郷の大地が途方もない大きさで広がっている。
本当に息を呑むような光景だ。
地名は、神栖。神が栖(す)む、場所なのだろうか。
バスは東関東自動車道から水郷有料道路へ。東へと向きを変える。
何も遮るものがない平野なので、かなたに目指す高層ビルがポツンと見える。
遠くに見えるので、なかなか辿り着かないような気もする。
ちょっとした市街地に入り、東京駅から2時間ぐらいで鹿島セントラルビルに着く。
鹿島セントラルビルは、高層ホテルであると同時に高速バスのターミナルにもなっているようだ。
もっとも、このホテル、がらんとしているだけ。ホテルの周囲も回ってみたのだが誰もいない。
もう少し、地方都市的な賑やかさがあるのかと思ったら、寂しい限りだ。
鹿島セントラルビルを訪れた、ということで帰るとする。
帰りの高速バスに乗るために、バスの待合場所を探したら、鹿島セントラルビル内だった。
ここだけは、バスを待つ客が列になっている。
皆、どんな用事でこれから東京に向かうのだろうか。
そんなことよりも、束の間、賑やかになって、ほっとしてしまった。
(2007年12月記)

都営新宿線浜町駅(東京アインスリバーサイドタワー)

2008-05-29 06:19:29 | Weblog
クレッセント東京VIEW TOWERの北側には、東京アインスリバーサイドタワーがある。
2棟とも壁のように平べったいのだが、微妙に建物のデザインが違う、というのも面白い。
また、2棟とも竣工した時期はほぼ同じだ。
こうして徐々に下町にも、高層住宅が建整され、整備されていくのだろうか。
時代の流れなのでしかたのないことだろうけど、その結果、昭和の街並みが消えていくのは、ちょっと寂しい。
などと過去に思いを馳せていると、ふと思い出したことがある。
たしか、これらの高層住宅の建つあたりは、松尾芭蕉が晩年を過ごした場所だったと思うのだ。(正確には、少し南側になる)
そして、新大橋が開通したと時なども、嬉しさのあまり、俳句まで作っている。
これで両国橋まで遠回りしなくて済むのだから、さぞ嬉しかったに違いない。
その10年後ぐらいには、北の方、両国で大事件が起こる。
赤穂浪士による討入りだ。
赤穂浪士たちは、討入り後、撤収し、今の品川近くの泉岳寺を目指すのだが、追撃されることを避けるためか、両国橋は渡らなかった。
東京アインスリバーサイドタワーの東側を南北に伸びる、一の橋通りを南へ南へと進んでいったのだ。
当時、まだあまり拓けていなかった新興住宅地にまぎれて、撤収しようと考えたのだろう。
そのままどんどん南へ進み、結局、永代橋で隅田川を渡っている。
何百年も昔には、そんなこともあったのだ。
そのような場所に、今では、こうして高層住宅が建っている。
不思議な感じもする。
なんか、過ぎ去った時代のことばかり、思ってしまうなあ。
たぶん、年末だからだろうか。
そろそろ、新大橋を渡って帰るとしよう。
(2007年12月記)

都営新宿線浜町駅(クレッセント東京VIEW TOWER)

2008-05-28 06:16:33 | Weblog
清洲橋通りを南へ歩く。
新大橋通りとの交差点がある。
新大橋通りに入り、東へ歩く。
しばらく歩くと、隅田川に架かる新大橋。
向こう岸は、江東区となる。
人形町も下町っぽい感じだが、こちらは本当に下町だ。
新大橋を渡りきると新大橋通りの北側、隅田川に沿って、2棟の高層住宅がある。
まるで壁のような感じで建っている。
南側の建物が、クレッセント東京VIEW TOWERだ。
間近に見ると、平べったくて本当に壁のようだなあ。
竣工は、数年前、最近のことだ。
人形町、浜町に高層ビルが建ち始め、その余波が、隅田川の対岸まで及んだ、ということかな。
さらに、新大橋通りから南へ少し足を伸ばせば、清澄庭園や深川江戸資料館があったりする。
また、北へ行けば、江戸東京博物館や国技館のある両国も遠くない。
深川江戸資料館、江戸東京博物館、ともにバブルの頃にオープンしている。
つまり、江東区、墨田区の下町も、徐々にテーマパーク化が進んでいるのだ。
オープンして少し経った頃だろうか、深川江戸資料館に行ったことがあるのだが、あいにく、休館だったのだ。江戸東京博物館にもまだ行っていない。
行かないうちに博物館自体が懐かしいレトロな展示品みたいになってしまうかもしれない。
そういえば、隅田川の東側は、もともと、江戸時代までは、武蔵国ではなく下総国だったのだ。
江戸時代の前半、都市の拡大にともない、隅田川の東側を武蔵国に編入し、住宅地として再開発した、ということだ。
昔も今も、同じようなことをしていたのだな。
江戸の新興住宅地も時代が過ぎれば、忘れ去られた下町となり、そして、再び再開発される。
ということは、目の前の壁のような新しい高層住宅も、いつしかレトロな建物になるのだろう。
もっとも、そうなった方が落ち着いて暮らせるかもしれないが。
(2007年12月記)

都営新宿線浜町駅(浜町センタービル(日本橋浜町明治座))

2008-05-27 06:17:42 | Weblog
清洲橋通りを北へ歩いていく。
しばらく歩いて行くと、清洲橋通りの東側に浜町センタービル(日本橋浜町明治座)がある。
高層ビルだが、劇場でもあったりする。
もっとも、このような場所に突然、劇場があるわけではなく、ちゃんとした歴史的な背景があるようだ。
浜町センタービル(日本橋浜町明治座)の西には人形町があるが、その中を南北に伸びる人形町通りの西側には、江戸時代、市村座、中村座という歌舞伎劇場があった。
江戸幕府が公認した3つの劇場のうちの2つの劇場があったのだ。
人形町といっても、人形だけで、このような歴史のある街になったりはしなかったわけだ。
さらに、人形町通りの東側あたりは、元吉原があったりした。
江戸の街が開かれてから数十年間は、吉原は、今の人形町にあったのだ。
そういうわけで、江戸時代は、さぞ賑やかな街だったことだろう。
明治時代になると、そこに水天宮が加わり、今の浜町あたりの武家屋敷が料亭街になったりする。
まだまだ賑やかだったのだ。
だが、高度成長期を過ぎて、だんだんkの街も忘れ去られていく。
忘れ去られても、逆に静かになったので、料亭の中は賑やかだったかもしれないけど。
そこに、バブルがやってくる。バブルが崩壊する頃に、浜町センタービル(日本橋浜町明治座)も竣工している。
そして、バブルが崩壊して、失われた10年、それに続く、都心集積化の時代。
忘れ去られた街には、次々と巨大なビルが建ち、再開発が進んでいく。
かつて、江戸時代、歌舞伎の劇場で賑わった街には、高層ビルが建ち、その高層ビルの中に明治座が残った、ということだ。
そのような歴史を振り返ると、今のこの一帯の火の消えたような静けさは寂しいような感じがする。
だからだろうか、水天宮が残っているように、人形町が歴史テーマパークとして残っているように、明治座もいつまでも残っていて欲しいような気もするのだ。
(2007年12月記)

都営新宿線浜町駅(日本橋浜町Fタワー)

2008-05-26 06:22:04 | Weblog
相変わらず参拝客で賑わう水天宮の北側を東へと歩いていく。
たしか、水天宮の総本山のある九州の久留米は水路が縦横に走る水郷だときく。
江戸時代、最初に置かれたのは、今の港区芝公園の南側だったらしい。
だから、隅田川や日本橋川が近くを流れるこの場所の方が、総本山のある九州の久留米に環境的に近いかもしれない。
などと考えながら新大橋通りを東に歩いていく。
しばらく歩くと新大橋通りの南側に巨大なトルナーレタワーが聳える。
このでかい高層住宅のおかげでまわりの環境が一変したような感じだ。
例えば、箱崎とこの高層住宅がある浜町は、昔はあきらかに違う街だったような気がするのに、今では、すっきりと見通しがよくなってしまい、同じビル街、という感じがしてしまう。
そして、その端緒だったのが、トルナーレタワーの清洲橋通りを挟んで東側の日本橋浜町Fタワーではないかと思うのだが。
竣工は、バブルが崩壊した後の失われた10年の頃である。
当時、このビルの工事現場を見るために、この場所には、何度か足を運んでいる。
その頃は、すでに半蔵門線の水天宮前駅ができていたけど、あえて、東西線の茅場町駅で降りて歩いて来たものだ。
永代通りを東に歩き、隅田川に近付いたあたりで日本橋川を渡り北東へ。
首都高の高架の下あたりを東側に歩いていく。
隅田川沿いはウォーターフロントの再開発ですでにビルが建ち並んでいたものの、それ以外は、マンションや昔からあるようなお店、そして料亭らしき木造の建物が密集する静かな一帯だったと記憶している。
迷路のようなその一帯の中の小道を東へと歩いて行くと浜町へ達するのだ。
ビルがなかった当時は、あちこちを巡りながらようやく辿り着いた、という印象があるのだが。
今、こうして、高層ビルが建ち並ぶと、見通しがよくなって、箱崎まではすぐだとわかってしまう。
すっきりと単純化されていいのだが、街並みが迷路のようだったあの頃が懐かしく思い出されるのはなぜだろうか。
(2007年12月記)

半蔵門線水天宮前駅(リガーレ日本橋人形町)

2008-05-25 02:26:53 | Weblog
南側に歩き、茅場町駅のある、永代通りへ出る。
少し東に歩き、大きな交差点を北へ曲る。新大橋通りだ。
日本橋川を渡る。上空には首都高の高架がある。
日本橋川を渡るとオフィス街から商業地区になった、という雰囲気だ。
新大橋通りは、徐々に東側に向きを変える。
人形町商店街の手前、新大橋通りの北側にリガーレ日本橋人形町がある(工事中はこちら)。
最近できた高層住宅だ。
町名の人形町は、町名のまま、江戸時代、人形制作者などが住んだ町だから人形町、ということらしい。
ほとんど人形町には入ったことはないけど、けっこう、賑わっていたと記憶している。
甘酒横丁なんていうのもある。
歴史的なテーマパークとしては、成功しているのだろう。例えば、神楽坂なんかを思わせる。
永代通りを挟んで南側には、有名な水天宮。
もともとは、江戸時代に九州の久留米藩が連れてきた神社であるらしい。
もっとも、そのときは、水天宮の置かれた久留米藩邸は、まったく別の場所にあったのだが。
明治時代になり、藩が消滅する寸前に水天宮は、この場所に移されている。
直後に、久留米藩は、跡形もなくなくなり、その後には、水天宮が残った、というわけだ。
水天宮には一度だけ行ったことがある。
境内全体が建物のような建造物になっていて、2階屋上部分に神社があるのだ。いつからこのような建造物になったのかわからないが。
そのことは、この神社が、最初からこの場所にあったわけではない、ということを感じさせる。
1階部分には、ものすごくレトロなお店があったりして興味深い。
人形町商店街も、おそらく、水天宮の門前町という性格もあるのだろう。
そして、このような一帯にも、高層住宅が建つ。徐々に都心の中に組み込まれていきつつあるようだ。
(2007年12月記)

東西線茅場町駅(東京証券取引所)

2008-05-24 06:18:31 | Weblog
高田馬場から東西線に乗る。
茅場町駅で降りる。
すっかり年も押し迫り、世の中は慌しい。
だが、都心の中心部は、逆にひっそりとしている。
なにか、1年が終わって、ほっとした安らぎの中にいるようだ。
交差点を北へ歩く。
日本橋川に架かる橋と首都高の高架の手前、道路の西側に東京証券取引所がある。
高層ビルになっている部分は、もっと西側になるようだ。
日本橋川と東京証券取引所の建物の間の道路を西側に歩いてみる。
平日は、鉄火場なんだろうが、行ったことはないので、普段どれくらい賑わっているのかわからない。
だが、今は、まったく誰もいない。静かなものだ。
明治の初め頃から、株式取引所は、あるのだろうけど、この高層ビルは、バブルの頃に竣工している。
あの頃は、日本中が鉄火場状態だったので、釣られて東京証券取引所も高層ビルまで建ててしまったのだろうか。
さらに西側に歩いて行くと、川沿い、首都高のジャンクションで空を覆われた片隅に兜神社がある。
由来は、よくわからない。
江戸時代よりもはるか以前から、船着場などが一帯にあったようだ。
とすると、航海の安全や大漁の祈願、そういった関係で鎮座しているのかもしれない。
明治時代以降はわかりやすい。証券、金融関係だろう。
それにしても、最初、兜神社を訪れたときは、その小ささ、場所の窮屈さに驚いてしまったが。
証券取引、というものの、後ろめたさ、後ろ暗さ、ということを象徴しているのだろうか。
東京証券取引所の高層ビルを訪れた、ということで、来た道を戻ることにする。
相変わらず誰もいない。ひっそりと静まり返るビルの谷間。
証券街もつかの間の安らぎの中に一息ついているようだ。
なにもかもを飲み込んで1年は静かに暮れようとしている。
(2007年12月記)

銀座線外苑前駅(ワールド北青山ビル)

2008-05-23 06:18:36 | Weblog
行きは登りだったので、帰りは、下りになって楽になる。
しかもさきほどの歩道橋、低い位置から高い位置に架かっているので、歩道橋の登りもきつくない。
ただ、このまま水平に進んでいけば、駅のホームなのにと思いながら、階段を降りていくのだが。
地上に降り、渋谷駅の地階を通り抜けて西口に出る。
大通りを横断歩道で渡り、マークシティのエスカレータで登っていく。
銀座線は地下鉄なのだが、なんでまた、こんなに高いところにあるのだろうか。
それだけ、渋谷駅の周囲が窪地だ、ということなんだろうけど。
それにしても、この渋谷駅構内、立体迷路のようでいまだにどうなっているのかわからない。わからないうちに今度は東口が変化してしまうんだろうなあ。
銀座線に乗り、外苑前駅で降りる。
地上に出ると、秩父宮ラグビー場、神宮球場などがあるスタジアム通りとの交差点がある。
このあたりから、青山通りに沿って南西方向へ、青山学院大学ぐらいまでだろうか、が、おしゃれで華やかな通りとなっている。
本当に歩いているだけで、うきうきとした気分になってくる。若ければの話だけど。
しばらく歩き続いていると、青山通りの北側にワールド北青山ビルがある(工事中はこちら)。
最近、竣工した高層ビルだ。
高層ビルまでが、洗練されていて、おしゃれな感じ。
さらに、歩いていく。
表参道の交差点。華やかさは頂点に達する。
人間は、パンのみのために生きるわけではない、ということを実感してしまうほどだ。
でも、ここまでくると、パンがなければ生きていけない、ということも忘れてしまうそうだ。
どんどん歩いて行くと、青山学院大学、国連大学。そして、岡本太郎のオブジェが楽しいこどもの城。
なんだか、また、渋谷に戻ってきてしまった。
こうしてぐるぐると渋谷のまわりを巡り続けているのも楽しいのかもしれない。
でも、そういうわけにはいかない。それも少し寂しいが、ほっとするところでもある。
渋谷駅から帰る。こんどこそ渋谷から離れる、ということだな。
(2007年12月記)

山手線渋谷駅東口(アクサ生命跡地工事現場)

2008-05-22 06:20:55 | Weblog
高島屋の脇にある床が船の甲板みたいなペデストリアンデッキを北へ歩いていく。
新宿駅新南口を目指す。
このように駅と一体となった巨大な施設が延々と駅の南の方に伸びているのだ。
新宿駅で降りて、ペデストリアンデッキで、高島屋を通って、紀伊国屋書店に行くと、実は、代々木駅で降りてもよかったのでは、と思ってしまう。
新宿駅で埼京線に乗る。
新宿駅新南口からだと、埼京線のホームの方が近いし、山手線に対しては、主だった駅にしか停まらないので、急行のような感じになる。
渋谷駅で降りる。東口に出て南へ歩く。
明治通りと六本木通りの交差する広い交差点。広い交差点なので横断歩道はなく、歩道橋、ということになる。その歩道橋の上にはさらに首都高の高架がある。
歩道橋は西口にもあるのだが、渋谷は、若者の街、ということで、歩道橋があっても、皆平気で登ったり、降りたりしているのだ。
歩道橋を登りきって、振り返って、駅の方を見ると東急東横線のホームがすぐ近くに見える。
歩道橋の高さと高架上の東急東横線の高さは、同じぐらいなのだ。
ならば、駅と歩道橋を直結すれば、ペデストリアンデッキになるような気もする。
ただ、東急東横線渋谷駅は、地下化される予定なので、暫定的にこのまま、という状態が続くのだろう。
歩道橋で明治通りを渡り、六本木通りの南側に降り立つ。
渋谷駅付近は、渋谷川の谷地になっているので、六本木通りを東に歩くときは、上り坂、ということになる。
そのまま、まっすぐ歩いて行くと、青山学院の近くの交差点、南西側にアクサ生命跡地工事現場がある。
この場所から、西側、渋谷駅側には、すでに、渋谷クロスタワーみずほ銀行東京事務センタービル、ボッシュオートモーティブシステム本社ビル、などがあり、このビル群に新しく高層ビルが加わる、ということだろうか。
そう考えると、渋谷駅で今後始まる、大きな変化の波が、先触れとして、この場所まで、伝わってきた、というふうに思えてしまう。
(2007年12月記)