retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

東西線茅場町駅(霊岸橋から見る亀島川)

2012-10-31 04:34:00 | Weblog
北東へと、歩いていくと、東西に伸びる、永代通り。
東側には、隅田川に、架かる、永代橋がある。
もう、帰るので、茅場町駅、西へ。
しばらくすると、亀島川に、架かる、霊岸橋。
渡れば、霊岸島を、出ることになる。
運河に、仕切られているように、見えるので、島とは、感じられないけど。
そういえば、このような運河、東海道四谷怪談にも、出てきた。
雑司ヶ谷で、主人公は、非業の最期を、遂げるのだが、その後、遺体は、神田川に、遺棄される。
神田川を流れ下り、隅田川へ。そのまま、海へ、と思いきや、潮の加減で、東へ伸びる、小名木川に、入り込み、東へ。
途中、南へ、流れる、横十間川。さらに、流れ、流れ着いたのが、隠亡堀。
聞くだに、恐ろしげな、名前の場所。
かくのごとき、遺体の漂流の様、当時、江戸の西の果て、雑司ヶ谷から、深川の東の果てまで、河川、運河で、繋がっていたということが、背景にあるのだが。
おそらく、当時、例えば、この、目の前の、運河、どこから繋がっていて、いったい、どこへ、向かっているのか、わからなくなるまでが、現実の世界だったのかも。
つまり、運河の先が、現実の果て、その彼岸に、あるとすれば、それが、非現実でも、それは、現実とは、もはや、区別のつかないもの、なのかもしれない。
ということは、生きているうちが、現実だとすると、その先にあるものは。
なにか、だんだん、怪談じみてきたな。
早く帰ろう。
茅場町駅まで、急ぐ。
(2012年1月記)

東西線茅場町駅(新川二丁目 鍛冶橋通り)

2012-10-30 03:48:43 | Weblog
再び、鍛冶橋通り。
通りの名前、鍛冶橋は、今の、東京駅南東側、昔あった、外堀に、架かっていた橋。
その橋から、東へ、ここまで、伸びている通りが、鍛冶橋通りだ。
鍛冶橋自体は、江戸時代から、あったのだろうけど、鍛冶橋通りは、昭和の初め頃に、開通したらしい。
それ以前は、そのような道路は、なかったわけだが、東京駅すら、なかったので、当然かな。
ところで、再び、東海道四谷怪談についてだが、実は、当初、仮名手本忠臣蔵からの、スピンアウト、という設定だったようだ。
そういえば、コンセプト、まったく、同じだということに、気付く。
ちなみに、東海道、というのは、街道ではなく、おそらく、昔の、行政区分、のことだろう。つまり、東海道、の中の、四谷、ということだ。
ただ、物語の舞台は、浅草や、雑司ヶ谷、深川の東側、になっている。
なのに、実際、当時、お参りする、神社は、四谷。
このような、はぐらかせかた、曖昧さは、むしろ、真実味を、増すことになるのかもしれない。
鍛冶橋通りを、さらに、北東へと、歩いていく。
(2012年1月記)

東西線茅場町駅(新川二丁目 新川金刀比羅神社)

2012-10-29 05:06:39 | Weblog
霊岸島に引き返す、といっても、島、ではなく、実際は、運河に、囲まれている感じなんだが。
東へと、歩いていくと、北東へ伸びる、鍛冶橋通りとの、交差点。
鍛冶橋通りに入り、北東へ。
しばらくして、東側、街中、細い道に、入る。
すぐに、道路の、北側に、新川金刀比羅神社。
江戸時代の創建だ。
一帯の、江戸の街づくり、順調に進み、落ち着いた頃だろう。
ところで、細い道を挟んで、南側には、田宮神社という、おそらく、ここらへんでは、もっとも、有名な、神社がある。
有名なわりには、木々に覆われ、ほとんど目立たない。
どういうことで、有名かというと、東海道四谷怪談、主人公、田宮家の神社なのだ。
明治時代に入り、新富座近くに、神社を、移して欲しい、という、歌舞伎役者の要望があり、この地に、移ってきたらしい。
東海道四谷怪談、といえば、江戸時代に、創作された、荒唐無稽な、怪談話に、すぎないのだろうけど。
ただ、よくできた話は、市井に暮らす庶民にとって、あるいは、そうでなくとも、否定のしようもない、現実の一つ、ではあるのだ。
その証拠に、こうして、神社もあるし、お参り、ということもある。
現実の中において、もはや、それらを、否定することは、できない。
とすると、ただの作り話であっても、それは、どうしようもなく、現実なのだ。
細い道、西へ。鍛冶橋通りへ、戻る。
(2012年1月記)

東西線茅場町駅(亀島橋から見る亀島川)

2012-10-28 07:23:52 | Weblog
西へ歩くと、すぐに、亀島橋。
亀島川に、架かっている。
霊岸島は、日本橋川から、分岐した、この、亀島川と、日本橋川の、間にある、中州のような島。
いちおう、埋め立てられた島なんだろうけど、ひょっとしたら、湿地帯のようになっていた島が、最初から、あったのかもしれない。
そんな湿地帯を、埋め立てて、整備し、そこに、霊岸寺が、できたから、霊岸島。
だけど、ひょっとしたら、それ以前、湿地帯だった頃は、島の名前、亀島、だったのかも。そこから、川の名前が、亀島川。
たしか、亀戸、という地名も、湿地帯で、地盤が、不安定、まるで、亀の甲羅に、乗っているよう、ということだったと思う。
そう考えると、もともとは、亀島だった、というのは、あり得る。
亀島橋を渡りきらずに、また、通りを東へ。
霊岸島に、引き返す。
(2012年1月記)

東西線茅場町駅(Sタワー(内田洋行新川第2オフィス))

2012-10-27 07:17:35 | Weblog
しばらくして、東西に伸びる、通りに、行き当たる。
その通りに入り、西へ。
そのまま、西へ、歩いていくと、通りの北側には、Sタワー。
最近、完成した、高層オフィスビルだ。(工事中はこちら
曰く付きのビルを、解体して、再度、建て直した、高層ビル。
そんなビルが、建っていたぐらいだから、高層ビルが建つ、ということに関しては、あまり、条件が、よくない場所ではあるのかもしれない。
交通の便としては、八丁堀駅が、運河を、渡れば、近いけど。
八丁堀駅周辺にしても、なにか、外れにあるような、感じがするし。
そういえば、昔、バブルの頃、この近く、隅田川沿いが、ウォーターフロント、ということで、再開発が、多かったものだ。
そんな時代も、バブルの崩壊で、終焉。
今は、静かになっている。
そのことと対照的に、東京駅周辺は、再開発が、集中。
その再開発が、ここらへんまで、波及するとも、思えない。
ずっと、静かなままだろうな。
さらに、西へ、歩いてみる。
(2012年1月記)

東西線茅場町駅(新川一丁目 越前堀児童公園)

2012-10-26 03:35:16 | Weblog
細い路地を、南へと、歩いていくと、越前堀児童公園。
霊岸橋の、南東側一帯は、福井藩の、浜屋敷だったようだ。
ただ、その跡地に、この公園が、あるわけではなく、浜屋敷、もっと、南東側だったと、思われる。
浜屋敷、についてだが、海上からの、物資を、荷揚げした、専用の屋敷、ということらしい。
もっとも、そういう屋敷、それほど、一般的ではないのかも。
例えば、薩摩藩は、芝に、下屋敷が、あったが、その下屋敷が、海上からの、物資の、荷揚げ、管理も、やっていたわけだし。
蔵屋敷が、そのような、屋敷の場合も、ある。
ひょっとすると、一般的な、屋敷の名前ではなく、浜離宮、のようなものだったのだろうか。
そう考えると、海に面した、庭園でも、あったのかな。
わからないけど。
街中、細い路地を、さらに、南へと、入っていく。
(2012年1月記)

東西線茅場町駅(新川一丁目 新川大神宮)

2012-10-25 04:52:42 | Weblog
高田馬場駅から、東西線。
茅場町駅で、下車。
地上に出ると、東西に伸びる、永代通り。
誰もいない、ひっそりとした、街並みだ。
正月は、終わったものの、休みが、続いているからだろうか。
まだ、のんびりとした感じ。
永代通りを、東へ。
すぐに、霊岸橋。
橋を、渡ると、霊岸島だが、街並みが、そのまま、続いているので、島、という感じはしない。
さらに、東へと、歩き、途中、南へ。路地に、入っていく。
再び、東へ進むと、北側には、新川大神宮。
創建は、江戸時代の初め頃。
当時は、伊勢大神宮、と呼ばれていたらしい。
埋立も、終わり、街が整備された頃合、だろうか。
生活も、落ち着き、神社に、お参りする、余裕も、できたのかな。
今回は、かつての、霊岸島の、細い路地、歩いてみることにする。
(2012年1月記)

南北線六本木一丁目駅(六本木二丁目 久国神社)

2012-10-24 05:02:39 | Weblog
細い道を北東に、歩いていくと、北側には、久国神社。
創建は、わからない。
この地に、建てられたのは、江戸時代と、思われる。
まわりの寺院、すべて、創建が、江戸時代だからだ。
江戸時代以前、あたりには、何もなかったのだろう。
伝えによると、久国神社、この地に、移ってくる前は、赤坂の東側、溜池あたりに、あったようだ。
溜池は、江戸時代の初め、飲料用として、川水を、堰きとめて、作られた、貯水池らしい。
時期的に、それが契機で、移転したわけでもなく、それ以降、しばらくして、移転している。
さらに、伝えによると、溜池あたり、の前は、江戸城、紅葉山に、あったそうだ。
江戸時代になり、江戸城を、改築した折、近くの、多くの、寺社は、移転している。
久国神社も、その一つだったのかもしれない。
溜池を、整備したとき、その、畔にでも、移築されたのかな。
紅葉山に、本当にあったかどうか、わからないが、あったとして、では、いつからか、というと、もう、さっぱり、わからない。
歴史の彼方。
さあ、もう、帰ろう。正月も、終わるし。
今年は、どんな年だろう。
そんな思いを抱きつつ、六本木通りを、北東へ。
溜池山王駅に向かう。
(2012年1月記)

南北線六本木一丁目駅(六本木二丁目 永昌寺)

2012-10-23 06:07:53 | Weblog
六本木通りの北側を、通りに沿って、北東へ、歩いていく。
すぐに、三叉路。上空は、首都高の、谷町ジャンクション。
街中、北へと、入っていく。
六本木通りに、沿うように、細い道。
その、細い道の、北側には、永昌寺。
創建は、おそらく、江戸時代。
永昌寺に、限らず、一帯の、多くの寺院、皆、創建は、江戸時代なのだろう。
ところで、THE ROPPONGI TOKYOは、江戸時代の、旗本屋敷跡地に、建っている、ということが、わかったわけだが、まだ、わからないことがあるのに、気付いた。
たしかに、江戸時代は、そうだったのだろう。
だとすると、江戸時代が終わって、明治時代、そして、今に至るまで、どうなっていたのだろう。
ずっと、更地のままだったとは、まさか、思えない。
バブルの頃の地図を見ると、駐車場になっている。
当時の、朧な記憶を手繰っても、たしか、そうなっていたはず。
では、それ以前は、どうなっていたのか。なぜ、更地になったのか。
その頃の、地図が、あれば、わかるかもしれない。
あとで、調べてみよう。
(2012年1月記)

南北線六本木一丁目駅(六本木三丁目 なだれ坂)

2012-10-22 04:24:35 | Weblog
細い道を、北へ。
坂を、下っていく。
坂の名前は、なだれ坂。
「なだれ」とは、雪崩を、連想してしまう、坂道だな。
あまり、関係は、ないだろうけど。
この坂道沿いには、ずっと、寺院が、並んでいたようだ。
今は、円林寺、善学寺以外は、もう、なくなっている。
オリンピックの頃、六本木通りが、拡幅して、その時、なくなったらしい。
そういえば、これらの、寺院の、西側に、江戸時代、旗本常備軍のための、集合住宅があったのだ。
明治時代の地図を見ると、その場所には、長方形の、池が、あったらしい。
谷地を、流れ下る、小川、せき止めたのだろうけど。
いったい、どういう目的で、そのような、池を、作ったのだろうか。
たしか、平時の、旗本、困窮していて、たいてい、副業を、持っていたときく。
とすると、ひょっとして、観賞魚を、養殖していたのかな。
今となっては、もう、昔のことなので、わからないが。
そんなことを、考えているうちに、なだれ坂を、下りきる。
六本木通りを、渡り、北側へ。
(2012年1月記)