retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

都営大江戸線勝どき駅(首都高晴海線の北端)

2010-10-31 07:06:55 | Weblog
休みなので、トリトンブリッジには、誰もいない。
その中の、動く歩道を、ゆっくりと、歩いていく。
これで、少しは、便利になっているのかな、と思ってしまうが。
便利かどうか、というよりも、この、まったりした感じがいいのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、朝潮運河を、渡りきり、晴海へ。
目の前には、巨大な、トリトンスクエアの高層ビル群。
見上げるような、巨大ビルの下を、少し、南東に歩くと、陸橋があり、そこで、晴海通りを、渡ることにする。
陸橋に上ると、南東側の先の方、晴海大橋が、よく見える。
道路の、車線の間が、やけに、開いているのだが、その部分には、首都高晴海線が、伸びてくる予定なのだ。
その、首都高晴海線は、豊洲までは、すでに、開通している。
晴海までは、あと、数年後、ということだろう。
ただ、実は、この後も、伸びていく、計画は、あるらしい。
たしかに、晴海までだと、何か、中途半端な、気もするし、特に、ここらへんの、交通が、逼迫しているとも、思えない。
逼迫しているとすれば、トリトンスクエアの、利用者なのだが、それは、動く歩道を擁した、トリトンブリッジが、引き受けているわけだし。
計画によると、まず、西側に伸びて、首都高都心環状線と接続する。
そうなると、かなり、便利になるだろうな。
そして、さらに、西側へ。都心を突き抜けて、都心西部へと、伸びていくのだ。
とても壮大な計画なんだけど。
でも、どう考えても、都心を突き抜ける段階で、完全に、無理だし、晴海から先すらも、無理だろうなあ。
ということは、首都高晴海線は、晴海のための、高速道路かな。
だから、名前が、晴海線なのかもしれない、と、今さら、気付いてしまう。
(2010年1月記)

都営大江戸線勝どき駅(トリトンブリッジ 動く歩道橋)

2010-10-30 08:28:05 | Weblog
勝鬨橋を渡りきると、地名は、勝どき。
勝鬨橋に、因んでだろうが、実際は、月島だ。
月島は、むろん、築島(つきしま)、からだろう。築地と同じく、埋め立てによって、造成された土地だからかな。
さらに、南東へと、歩いていく。
やがて、朝潮運河。その先は、晴海。
黎明橋があるのだが、すぐ東側には、歩道橋、トリトンブリッジも、架かっている。
晴海に、巨大な、高層ビル群、トリトンスクエアが完成したとき、その、利用者のために、作られたのだろう。
実際、最寄り駅は、さっき、通ってきた、勝どきにある、都営大江戸線勝どき駅しかないわけで、多くの利用者は、朝潮運河を、渡らなければ、ならない。
その、多くの利用者のために、トリトンブリッジには、動く歩道まである。
ところで、動く歩道、というのは、チープな割に、未来的で、とても、好きなのだが。
他には、渋谷駅、恵比寿駅、東京駅構内の、京葉線ホームへの長い回廊、そして、臨海副都心の東京ビッグサイト。横浜のランドマークタワーにも、あったっけ。
もっとも、動く歩道なんて、特に、なくても、いいのだろう。
もし、それほど、必要なら、いたるところに、あっても、いいわけだが、今のところ、ずいぶん、限られた場所にしか、存在しない。
それでも、やはり、何となく、未来を、感じる。
何もしなくても、いちおう、動いていくし、歩けば、少しは、早くなる。
かといって、その上で、走るわけには、いかない。
そういうところは、世の中が、絶えず、発展し、その発展を、それなりに、皆、享受できた時代、高度成長期を思い起こさせるのだ。
つまり、その未来、というのは、高度成長期に、描いた、未来、なんだろうなあ。
その未来が、動く歩道として、ほんの、ささやかに、実現したわけか。
(2010年1月記)

日比谷線築地駅(勝鬨橋 築地側たもと)

2010-10-29 06:07:56 | Weblog
晴海通りを、南東へ、歩いていく。
しばらくすると、隅田川には、有名な、勝鬨橋。
昭和の初め頃に、完成している。
かつては、船を通すために、橋は、真ん中から割れ、上へと、開くように、持ち上がったのだ。
もちろん、今は、その必要はないし、交通が、途絶するので、橋が、開くことはない。
ただ、橋を、渡っていると、トラックが通るたび、ガコンガコン、と揺れるので、そのような装置が、橋に、組み込まれていることを、実感するが。
それにしても、勝鬨、とは、よく、名付けたものだ。
たしか、近くの、築地市場の開設も、同じ頃だし。
橋を渡った先、月島は、重工業地帯として、いよいよ、発展。
そのような、強気な、名前を、橋に付けたくなる、世の中だったのだろう。
いまだったら、勝鬨橋、ならぬ、勝ち組橋、かな。
なんか、自分には、到底、渡れそうもない。
ところで、勝鬨橋を渡った、ずっと先には、豊洲新市場予定地がある。
今は、荒涼としているが、将来的には、江戸の食文化を伝える、賑やかな、一体になる予定だ。というより、予定なはずだったのだが。
今さら、高層住宅を建てようにも、不動産価値は、もはや、ないだろうなあ。オフィスビルといっても、バブル期だったら、わかるが、そんな、需要はないし。
他の埋立地も、ゴミで、埋め立てたわけだから、豊洲新市場予定地と、変わらないだろう。こちらは、なんとなく、高層住宅街にしてしまっている。有効利用というわけだ。
だが、市場は、そんな、わけには、いかない。
そこで、今、更地になっている、東京国際見本市会場の跡地、晴海五丁目の方が、いいんじゃないかな、と思えてくる。
清掃工場があるけど、ごく新しい施設だし、ちょっと離れているし、市場が移転してくるとなれば、豊洲新市場予定地に移転してしまえばいい。
今の、豊洲新市場予定地よりは、ずっと、条件的には、ましな気がするんだけど。
たぶん、最初っから、移転ありき、だったら、そのような、いろいろな、選択肢なりが、あったはずだ。今さら、もう、無理だな。
(2010年1月記)

日比谷線築地駅(築地場外市場)

2010-10-28 05:05:13 | Weblog
築地本願寺の晴海通りを挟んで、南西側には、築地場外市場がある。
相変わらず、賑わっているな。
江戸時代の、活気ある、市場の雰囲気を、今に、伝えているようだ。
と思ったら、江戸時代、ここは、築地本願寺だったのである。
もっと、正確に言うと、築地本願寺の末寺が、多く、ひしめいていたらしい。
築地本願寺が、埋め立てて、できた土地なので、当然だ。
その後は、どうなったのだろうか。
江戸時代が、終わり、明治時代になると、海軍の、敷地になる。
江戸、あるいは、東京の街を、海から、守るためには、場所的に、ちょうど、よかったのかもしれない。
そして、時代は流れ、昭和の初め頃に、ようやく、今のように、築地市場が、現れるのだ。
築地市場の歴史は、実は、意外と、新しい。
もっとも、ここに移転してくる前、魚市場は、日本橋にあったのだが、そちらは、江戸時代から、連綿と、続いている。
だから、魚市場、としての歴史は、やはり、江戸時代から、というわけだ。
活気ある、江戸の市場の雰囲気があっても、不思議ではない。
ただ、それは、築地という、場所そのものが、持つものでは、なかったはず。築地市場の歴史は、昭和に入ってからだったわけだし。
ということは、築地市場が、豊洲に移転したとしても、この賑やかさは、消えないだろう。
なんていう、考えは、楽観的かな。
この先、どうなるか、わからないけど。
(2010年1月記)

日比谷線築地駅(築地本願寺)

2010-10-27 05:07:42 | Weblog
高田馬場駅から東西線。
茅場町駅で、日比谷線に乗り換える。
築地駅で下車。
地上に出ると、南西から北東方向に伸びる、新大橋通り。
その通りの、南側には、築地本願寺がある。
寺院なのだが、何とも、寺院らしからぬ、奇妙な建造物。
すごく新しいのかと、思ったら、意外と、古く、昭和の初め頃の、創建だ。
こういうの、インド様式、というらしい。
つまり、寺院らしからぬ、ではなくて、これが、本家本元、というわけだ。
どうでもいいと言えば、どうでもいいかもしれないけど。
ちなみに、築地本願寺は、最初は、浅草に、あったらしい。
江戸時代、大火があって、焼け落ちたのだが、再建は、認められず、移転させられることになった。
その、移転先、というのが、海の上。
なんでこんなことに、と思うが、戦国時代に遡ってみると、よくわかる。
本願寺、といえば、今の大阪にあった、石山本願寺。
織田信長と、激闘を、繰り広げたことで、有名だ。
徳川家康の本拠地でも、三河一向一揆を、引き起こしている。
だいぶ、徳川家康も、苦しめられたわけ。
それで、海の上を、移転先に、という、仕打ちに出たのだろう。
ところが、本願寺は、その、海を、埋め立ててしまったのだ。
そのように、埋め立てて、できた土地なので、築地、という、地名になったらしい。
ただでは、起きぬ、ということ。
それは、この、存在感のある本堂を見れば、わかる。
(2010年1月記)

山手線大崎駅(北品川五丁目 再開発予定地)

2010-10-26 05:05:39 | Weblog
オーバルコート大崎の東側を、南へ、歩いていく。
しばらくして、途中、東へ。細い道を、そのまま、東へと進む。
すると、なんと、昔懐かしい、工場地帯が、残っているではないか。
バブルの頃までは、大崎駅の周囲は、皆、こんな感じの、街並みだったのだ。
駅西側には、広大な、明電舎の工場。そして、あちこちに、ソニーの工場。
それ以外にも、さまざまな、工場が、広がっていたな。
でも、なぜ、大崎周辺は、このような、工場地帯になったのだろう。
目黒川の存在が、大きい、ということらしい。
ただ、川が流れている場所なら、工場地帯に、必ず、なるのかな。
もっと、何か、他に、理由がありそうだ。
それと、もう一つ。
今まで、京浜工場地帯が、目黒川を、遡って、大崎まで、波及してきたのかと、思っていたが、ひょっとしたら、逆かもしれない。
つまり、大崎が、工場地帯の、発祥地の一つで、そこから、目黒川を、下り、海岸に広がって、京浜工場地帯になった、というのだ。
厳密に、そのように、割り切れるかどうかは、何とも、言えないけど。
どちらにしろ、大崎は、歴史的な、工場地帯らしい。
そんな、由緒のある、場所なのだが、どうしたわけか、とても、静か。
それもそのはず、一帯は、再開発されることが、決まっていて、それで、昔のまま、残されているに過ぎないから。
実際、もう、稼動は、していないだろうな。
まるで、大崎工場地帯の、エンドロール、そんな感じがする。
そして、この、エンドロールが、終われば、本当に、大崎の工場地帯は、すべて、終わるのだ。
(2010年1月記)

山手線大崎駅(東五反田地区再開発工事現場)

2010-10-25 05:04:30 | Weblog
山本橋を渡り、目黒川の北岸へ。
このあたりも、すっかり、高層ビル地帯になってきたな。
だから、山本橋が、立派な橋になったのだろう。
橋のたもとから、東へと、歩いていく。
しばらくすると、道路の南側には、オーバルコート大崎のビル群。
そして、オーバルコート大崎の、道路を挟んで、北側には、東五反田地区再開発の工事現場がある。
オーバルコート大崎は、失われた10年が、そろそろ、終わろうとしていた頃、完成しているのだが、それに次いで、こちらも、すぐに、再開発が、始まるのかと、思い、たびたび、訪れていたものだ。
でも、いっかな、再開発は始まらず、結局、頓挫したみたい。
頓挫した跡地に、しばらくしたら、なぜか、キャッツシアターが、オープン。
遊休地の、有効利用、というわけかな。
それよりも、時代の節目、を感じてしまった。
バブルの頃のように、延々と、ビルが、建っていくわけではないのだ。
つまり、飽和点に達してしまうと、しかたなく、商業施設、娯楽施設、文化施設、となっていくのかもしれない。
結局、最近になって、再開発は、かくのごとく、再開されたようだけど。
やはり、キャッツシアターのイメージは、今のところ、強い。
こんあことなら、せっかく、キャッツシアターがあったわけだから、再開発など、待っていずに、劇団四季の演劇でも、見ればよかった。
演劇なんて、見たこともないことだし。
といっても、いまさら、もう、遅いな。
(2010年1月記)

山手線大崎駅(目黒川山本橋から大崎駅方面を臨む)

2010-10-24 05:56:52 | Weblog
アートヴィレッジ大崎の中を、北へと、進んでいく。
さすがに、一番、北側の、高層住宅には、直接は、行けないようだ。
つまり、ペデストリアンデッキは、ここまで、ということ。
このまま、高層ビルなどが、建っていき、五反田駅とも、繋がれば、面白いのに。
仕方がないので、地上に降りてみる。
そこからは、すぐ、東側に、目黒川。
山本橋が、架かっていて、対岸に渡れるようになっている。
この山本橋を渡って、ちょっと、北へ、進んで行くと、もう、五反田の街なのだ。
昔は、再開発地を訪れるために、五反田から大崎、逆に、大崎から五反田、というコースを、よく、歩いたものだ。
その頃は、こちら側には、工場しかなかったので、往来は、ほとんどなく、今のような、立派な橋ではなかったと、記憶している。
でも、どんな橋だったか、覚えていないが。
1車線だった、ということぐらいかな、覚えているのは。
そういえば、当時は、夜、暗くなってから、訪れていたんだっけ。
完成したビルは、写真に撮るので、日が差しているうちなのだが、工事現場は、特に、その必要はなかったので、どうしても、日が落ちてから、という風だった。
そういうわけで、もう、夕暮れ時、五反田に着くとすると、繁華街なので、やけに、賑やか。
そして、南側の細い道に入り、そのまま、南へ。
すると、急に、しんと静まりかえる。
さらに、歩いていくと、目黒川。その向こうには、漆黒の闇。
かつては、工場地帯だったので、当然なのだが。
そう考えると、わずかな間に、ずいぶんと、変わったものだと、あらためて、思ってしまう。
(2010年1月記)

山手線大崎駅(アートヴィレッジ大崎内の回廊)

2010-10-23 08:40:14 | Weblog
たしか、大崎駅のペデストリアンデッキの途中から、この、アートヴィレッジ大崎へ、直接、行けたような気がするのだけど。
どうしても、そんな風に、行けないな。
何かの、思い違いかもしれない。
どちらにしろ、大崎の街に、関わりがあるわけでもないので、どうでもいいが。
とりあえず、アートヴィレッジ大崎の南端から、階段を上り、ビル群の中へ。
中に入ってしまうと、こうして、各建物が、繋がっているので、まるで、一つの、巨大な、建造物のような感じだ。
それに、アートヴィレッジ大崎と、大崎ニューシティーの間には、2棟の高層ビルが建っているので、大崎駅から、ビル群が、続いている。
とすると、大崎駅を含んだ、壮大な、人工空間、といえるかも。
その割に、大崎駅から、直接、行けないのは、どうしたことだろう。
ところで、このような、ビル群、山手線と目黒川の、間にあるのだが、かつて、その場所には、印刷工場があったのだ。
昔は、五反田駅を過ぎ、目黒川を渡ると、そうした、工場の敷地が、車窓に、広がったものだな。
当時は、当たり前と思っていた光景が、今は、もう、思い出すこともできない。
これも、時代の流れ、というわけかな。
(2010年1月記)

山手線大崎駅(アートヴィレッジ大崎のビル群)

2010-10-22 04:26:55 | Weblog
高田馬場駅から山手線。
大崎駅で下車。
駅周辺では、あいかわらず再開発が続く。
その工事の槌の音が、絶え間ない。
と書きたいところだが、今日は、正月休みなので、いたって、静かだ。
そういう日も、たまには、あるのだろう。
改札口を抜け、駅東側へ。
ペデストリアンデッキが伸びていて、そのまま、東に進むと、大崎ニューシティに行ける。
だが、閑散としているので、途中で、階段を使い、地上へ。
地上は、もっと、閑散としていて、誰もいないが。
そういえば、大崎に、初めて来たとき、バブルの頃だが、高層ビルといえば、大崎ニューシティーしかなかったな。
その周囲には、工場地帯が、広がっていた。
大崎は、ちょっと前まで、工場の街だったのだ。
だからだろうか、唯一のビル、大崎ニューシティーの地階は、スーパーになっている。
高層ビルなのに、庶民的。
そんな大崎駅周辺なのだが、バブル崩壊後、失われた10年が過ぎたあたりから、もの凄い勢いで、変わりだした。
その変貌は、今でも、続いているのだけど。
山手線に沿って、北へ、歩く。
すぐに、南北に連なる、ビル群。
アートヴィレッジ大崎のビル群だ。
このあたりの、変貌振りが、もっとも、印象深いかもしれないな。
(2010年1月記)