retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

みなとみらい線新高島駅(横浜ブルーアベニュー)

2011-06-30 05:06:58 | Weblog
上大岡駅の地下へ降りる。
地下には、横浜市営地下鉄の、上大岡駅ホーム。
意外と、レトロな雰囲気だ。
それもそのはず、開通したのは、高度成長の終わり頃。
けっこう、古い。
そんな横浜市営地下鉄の車両に、さっそく、乗り込む。
みなとみらい方面へ。
といっても、この、地下鉄が、開業した頃、みなとみらいは、おろか、バブルも、新都心も、湾岸再開発も、まったく、存在しなかったはず。
そう考えると、不思議な気分。
しばらくすると、高島駅。
下車して、地上へ。
南北に伸びる、交通量の多い、大通り。その東側には、京浜東北線の高架と首都高横羽線の高架。
そして、その、さらに、東側に、みなとみらい。
そういうわけで、すぐ、東隣にある、みなとみらいは、隔絶されている感じがする。
みなとみらいと、唯一、通じている、いちょう通りに入り、東へ。
みなとみらいに入り、さらに、東へと、歩いていくと、南北に伸びる、みなとみらい大通りとの交差点。
その、南西側に、横浜ブルーアベニュー。
最近、竣工した高層オフィスビルだ。(工事中はこちら
それにしても、見たところ、辺鄙な場所だな。
(2010年11月記)

京浜急行線(上大岡西一丁目 中央商店街)

2011-06-29 04:55:36 | Weblog
大岡川と鎌倉街道の間には、中央商店街。
その間の範囲は、さほど、広くはないので、短い商店街、となっている。
ふと、上を見ると、大きくて、立派なアーケード。とても、いい感じの商店街だ。
今は、閑散としているが、かつては、大いに、賑わったに違いない。
そういえば、この商店街の東側、鎌倉街道、となっているが、鎌倉時代の、幹線道路跡とは、ちょっと、違う。
もとの、鎌倉街道は、現在の鎌倉街道と、平行し、時に、交差しながら、伸びている、細い道路。
もっとも、鎌倉街道の跡、というと、今は、たいてい、どこも、そのような、路地か、畦道、になっているのだろうけど。
ただ、鎌倉街道の跡地には、古い、寺社が、残っているので、かつて、この場所に、鎌倉時代の、幹線道路があって、賑わっていたことがわかる。
とすると、上大岡にも、古い、寺社が、残っているはずだ。
あるいは、古い、集落や、宿場、市場、などが、あったのかも。
今となっては、ちょっと、わからない。
時代は下り、江戸時代。
幹線道路として、東海道が、新設されたが、ここからは、かなり、北側の、保土ヶ谷。
かつての、鎌倉街道は、もう必要なくなる。
栄枯盛衰、ということか。
(2010年11月記)

京浜急行線(上大岡西一丁目 大岡川)

2011-06-28 04:57:13 | Weblog
鎌倉街道から、西へ。
商店街を抜けると、大岡川。
北へと、流れている、小河川だ。
東西に、丘陵地が、あるので、一帯は、この、大岡川が、穿った、谷地なのだろう。
その谷地に、できた街が、上大岡、というわけだ。
そんな、上大岡には、高層住宅が、もう、3棟も、建っている。
それほど、大きな街とも、思えないのだけど。
ただ、今後、これ以上、増えることはない。
神奈川県で、こうした街に、高層住宅が建つのは、あと、横須賀ぐらいかな。
そもそも、みなとみらいでさえ、高層ビルの建設が、立ち消えになっている。
その、辺縁であれば、なおさら、ということ。
バブル期のような、地方の時代は、終わったのだ。
上大岡の街も、以前、訪れたときより、活気が、なくなったように、見えるし。
でも、大岡川の流れは、昔と、少しも、変わらないと思う。
もし、あのまま、街が、もっと、大きくなっていたら、大岡川、暗渠になって、地表から、姿を、消していたのかもしれない。
ひょっとしたら、その寸前で、街は、衰退に転じたのかも。
どうだか、わからないけど。
それはそれとして、街は、これから、衰退していくかもしれないが、川の流れは、ずっと、将来も、変わらない、ということは、たしかだろう。
(2010年11月記)

京浜急行線(上大岡タワー ザレジデンス)

2011-06-27 06:07:23 | Weblog
高田馬場駅で山手線。
品川駅で、京浜急行に、乗り換える。
ひさしぶりに乗ると、やはり、速くて、いいな。
京浜の下町を、縫うように、疾走していく。
おそらく、JR横須賀線やJR東海道線も、同じぐらいのスピードなんだろうけど。
京浜急行は、街中を、走っているような感じで、スピード感が違うのだ。
大森海岸を過ぎ、大規模な工事を行っている、蒲田を、過ぎる。
そして、もう、多摩川。
多摩川を、越えると、神奈川県だ。
神奈川県に入ると、なにか、空気が、変わるような気がする。
海が近い、という雰囲気。
京浜急行は、川崎を過ぎ、横浜へ。
横浜からは、内陸、丘陵地に、入っていく。
丘陵地といっても、ほとんど、住宅地だけど。
うねうねと続く、丘を、越えていくと、いよいよ、上大岡駅。
改札を出て、駅西側へ。
すぐに、南北に伸びる、鎌倉街道。
その、通りの西側には、上大岡タワー ザレジデンス。
最近、竣工した、高層住宅だ。(工事中はこちら
こういう、都心から、離れた、場所で、高層ビル、というのは、これが、最後かもしれないな。
(2010年11月記)

中央線御茶ノ水駅(外堀の南縁にある御茶ノ水駅ホーム)

2011-06-26 08:02:03 | Weblog
御茶ノ水駅の南側を西へ。
今日は、東側の改札口付近を、ほとんど、動いていないな。
ざーざー降りの、しかも、冷たい雨なので、あんまり、歩きたくはない、という気はするけど。
ということで、せめて、西側の、改札までは、歩こうと思う。
御茶ノ水駅の南側一帯は、細い路地もあって、下町、というのではないが、親しみやすい感じ。
以前、何度か、行ったりしたが、今は、どうなっているのやら。
今、見たところ、普通の、駅前になっているように思える。
ちょっと、寄ってみようかと思ったが、雨が、激しいので、やっぱり、やめた。
さらに、歩いていくと、駅西側の改札口と、御茶ノ水橋。
御茶ノ水橋に行ってみる。
橋の中ほどからだと、御茶ノ水駅のホームが、よく見えるのだ。
なんでも、路線と駅を、新設する、用地がないので、最後の手段として、外堀南側の崖の中腹に、作ったらしい。
こうして見ると、よく、作ったなあ、と感心してしまう。
しかも、今も、現役だし、将来も、ずっと、使われ続けていくだろう。
無理してでも、作っておいて、よかっと、ということだろうな。
さて、もう、帰ろう。雨は、ちっとも、止みそうにないし。
今回は、御茶ノ水駅の周りを、歩いただけ。
こういうこともある。
(2010年10月記)

中央線御茶ノ水駅(神田駿河台4-6計画工事現場)

2011-06-25 06:54:59 | Weblog
ニコライ堂の、通りを挟んで、北東側には、神田駿河台4-6計画の工事現場。
もとは、御茶ノ水セントラルビルがあった場所。
竣工したときのビル名は、御茶ノ水日立本社ビル、だったらしい。
そういえば、昔、このビル、新聞の記事になっていたな。
曰く、地下に、千代田線が、通っていて、その上を、またぐように工事をしなければならず、難工事だった、という内容。
とすると、ビルを、解体するのも、たいへんだったかもしれない。
もっとも、技術は、進歩しているので、そういうことは、もはや、ないのかな。
建ったのは、安定期の頃だから、築30年ぐらい、というところ。
せっかく、難工事を、ものにし、竣工に、漕ぎつけても、すでに、解体してしまったわけだ。
しかも、新しく、新築される、高層ビル、規模は、以前のビルと、たいして、変わっていない。
なにか、もったいない気がする。
特に、最近は、こういうケースは、多いな。
時代の流れなので、仕方ないけど。
(2010年10月記)

中央線御茶ノ水駅(ニコライ堂)

2011-06-24 06:07:42 | Weblog
聖橋から先、南側は、駿河台下への、下り坂になっている。
その坂道の、西側には、ニコライ堂。
創建は、明治時代だ。
このような、外国の宗教施設が、作られた、というのは、とりもなおさず、日本が、国際社会に、組み込まれた、ということなのだろう。
当時の、別名、南蛮寺。
そういえば、その頃、すぐ、北側に、太田姫神社があったんだな。
独特の、舶来な建物のデザイン、奇想な景観を作り出し、見る者の目を、楽しませていたことだろう。
今は、すっかり、まわりは、オフィスビル。都心は、国際都市。
だから、それほど、目立たない。
目立たないどころか、周囲に、すっかり、溶け込んでいる。
降りつける冷たい雨の中、建物の緑青は、まるで、鎮守の森の緑みたい。
彼の地でも、そうだったのかな。
オフィスビルの中、そこだけが、安息の地に見える。
(2010年10月記)

中央線御茶ノ水駅(御茶ノ水駅近く太田姫神社跡)

2011-06-23 05:03:41 | Weblog
高田馬場駅から東西線。飯田橋駅で、総武線に、乗り換える。
御茶ノ水駅で下車。
ホーム東側の改札口を出る。
聖橋のある方だ。
駅舎を出ようと思ったら、激しい雨。
そういえば、台風が、来ていたんだっけ。
晩秋の台風。
ザーザー降りの雨だが、夏を感じさせる、スコール、ではない。
冷たい、重い、雨粒。凍えるような寒さ。
こんなに、気温が低いのでは、台風の上陸は、ないな。
上陸するとすれば、蒸し暑さが、あるはず。
篠突く雨の中、東側に進み、聖橋の袂を渡る。
渡りきると、通りの北側に、太田姫神社跡。
神社跡、といっても、崖の縁にある木々に、元宮と記した、札が、架かっているだけなのだが。
昭和の初め頃までは、この場所に、太田姫神社が、鎮座していたらしい。
役割が、終わった、ということで、今の、駿河台下に移って、休んでいるのだろう。
それにしても、ますます、強い雨。
おまけに、肌寒さが、加わる。
(2010年10月記)

都営浅草線高輪台駅(パークタワー高輪工事現場)

2011-06-22 05:20:00 | Weblog
寿昌寺の創建は、江戸時代。
寺院の名前は、戦国武将だった、伊達政宗の室、寿昌尼、から。
それに、すぐ近くに、伊達藩の下屋敷が、あったので、伊達家ゆかりの、寺院なのだろう。
いくら、島津山、なんて、言ってみても、伊達家の痕跡が、こうして、ちゃんと、今に、残っている、というのは、興味深いな。
さらに、細い道を、北へと、歩いていく。
しばらくすると、南西方向に伸びる、幅広な、交通量の多い、桜田通り。
桜田通りを、北へ。高輪台駅を、急いで、目指す。
程なくして、通りの、東側に、パークタワー高輪の工事現場。
実は、この場所で、高層住宅を、建てているとは、知らなかったな。
と、感慨に耽りたいのだが、そういえば、体調が、おもわしくないので、高輪台駅に急いでいたんだっけ。
こういうときに、出くわすとは。
再び、高輪台駅を目指す。
ようやく、駅に辿り着き、ほっと、一息。
本当は、もう少し、あちこちと、まわる予定だったのだが、これでは、大崎駅から、高輪台駅まで、北に、一直線に、歩いただけ。所要時間、30分。
それでも、新しい、高層住宅の工事現場が、あったからいいかな。
そういえば、ちょっと、庶民的な雰囲気のあった、駅の構内、いつのまにか、きれいになっている。
高層住宅が、近くに、建ち続けているからかもしれない。
そんなこと考えているうちに、列車が、ホームへ。
車両に乗り込み、ようやく、高輪の山の手を離れる。
やはり、山の手は、性に合わない。
(2010年10月記)

山手線五反田駅(東五反田三丁目 寿昌寺)

2011-06-21 05:04:23 | Weblog
石段を上がっていくと、想像通りの、街並み。
山の手、大きな家々。閑静な、雰囲気が満ちている。
これが、島津山住宅地、なわけだが。
島津山そのものは、今は、南側の、清泉女子大学の敷地になっている。
戦後、清泉女子大学が、移ってきたのだが、その前は、島津侯爵邸。
それで、島津山、といっていたようだ。
島津侯爵というと、江戸時代は、島津藩藩主。
だが、もともと、この地に、島津藩の大名屋敷が、あったわけでもない。
伊達藩の下屋敷が、あったそうだ。
伊達山にならなかったのは、伊達藩が、明治維新の折、明治政府に敵対し、敗れたからであろうか。
さらに言えば、敗れて、この、高台の土地を、失ったからであろうか。
そんなところだろうけど。
それはそうと、このような、屈指の、山の手住宅地、暮らしたら、どんな気分なのか、まったく、想像できない。
そういうことが、関係しているのかいないのか、わからないが、歩いていると、なんだか、体調が、おもわしくなくなってきた。
住宅地の中、よたよたと、北へ、歩いていると、東側に、寿昌寺、という寺。
(2010年10月記)