retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

さいたま市浦和駅西口(ライオンズコスタ・タワー)

2007-04-30 12:27:34 | Weblog
与野駅から京浜東北線で浦和へ。
西口。商店の建ち並ぶ一帯を抜け南へ歩く。
高層住宅が2棟あるが、そのうち西側にはライオンズコスタ・タワーがある。
すぐ北側を東西に伸びる道路があるがまだ工事中だ。
この道路が商店街と住宅地の境界線のようになっている。
浦和駅、特に西口は降り立つたびに、歴史を感じさせる。
といっても古代から連綿と続くような歴史でもない。
江戸時代までは中山道の浦和宿があったものの、それほど栄えていたわけでもない。
明治時代になり県庁所在地となるが、当初は暫定的に置かれたすぎず、いつのまにか浦和が県庁所在地になっていた、という感じらしい。
浦和の運命を変えたのは、やはり鉄道の開通と駅の設置だっただろう。
それ以降、埼玉県の行政の中心として発展する。
また関東大震災以降、都心部のベッドタウンとなり、宅地も広がり、今日に至る。
住宅地も落ち着いた感じだし、商店街も地方都市のような雰囲気を持っていて、しかも今でも賑やかだ。
浦和に比べ都心より遠い大宮の方がむしろ新しい感じがする、というのも面白い。
むしろこのような街は、再開発されて最新のビルが林のように建ち並ぶ、ということはないだろう。
もし建つとしても、住宅地と商店街の境界線として高層ビルが建ったりするぐらいだろうか。
(2006年10月記)

さいたま市与野駅西口(スカイレジデンシャルタワーズ)

2007-04-29 11:40:11 | Weblog
住宅地の中を南へ歩く。
やがて与野駅西口に出る。
駅前から西へ伸びる通りの両側にスカイレジデンシャルタワーズ(サウス)、スカイレジデンシャルタワーズ(ノース)のツインの高層住宅がある。
他に60メートル台の住宅棟が1棟、西側にある。
この西口の一画だけミニチュア版の新都心という感じだ。
与野駅は鉄道の通らなかった与野にとって悲願の駅だったらしい。
しかし、与野駅のある場所は旧与野市ではない。逆に言えば、それだけ与野にとっては駅が悲願だったということだが。
その与野駅の西口もさいたま新都心の余波であろうか、再開発の話が持ち上がる。
さいたま新都心の南端はさいたま新都心郵政庁舎だが、それをさらに南側に伸ばした感じだ。
その当時、さっそく見にいった記憶がある。
季節は晩秋だったか、夕暮れ時、もう暗くなりかけていた。そして、冷たい雨がびしょびしょと降っていた。
貧相な駅舎。中途半端に広がる更地。
再開発というより、密集した家屋が火事になって、その後の焼野原を見るようだったなあ。
バブルが崩壊して立ち往生してるその姿そのままの風景、そういう記憶しか残っていない。
与野駅を訪れるのはその時以来だ。
こぎれいにすっきりとまとまった駅の西口。
典型的な郊外の風景を見ると、なるほどこのような形で落ち着いたのかと、なんとなく納得してしまった。
(2006年10月記)

さいたま市さいたま新都心(さいたま新都心郵政庁舎)

2007-04-28 13:42:15 | Weblog
ラフレさいたまの南側には、さいたま新都心郵政庁舎がある。
武蔵野線から見てもわかるぐらい奇抜というか斬新というか、とにかく目立つビルだ。
しかもさいたま新都心の一番南端に位置している。
このビルも名前の通り日本郵政公社の関係である。
日本の郵便事業は、明治時代初の逓信省により始まる。
第二次大戦後は、郵政省に変わる。
その郵政省は、バブル崩壊後の失われた10年を経て、中央省庁再編により日本郵政公社(直前に郵政事業庁になったがすぐに日本郵政公社)へ衣替えする。
そして、来年(2007年10月)、日本郵政株式会社になる予定だ。
時期的に見れば、この目立つビルは郵政省最後の産物ということになる。
もっと表現を変えれば、戦後、高度経済成長を成し遂げたシステムが、崩壊する寸前に放った最後のあだ花のような光、のような気がする。
このビルの西側にはまだ広大な更地が広がっていたりする。
また南側ではまだ道路工事も行われている。
実際、さいたま新都心はまだ未完なのだ。とはいえこの先、さらに高層ビルが拡大するなんてことはありえないだろう。
現在は、都心回帰、集積化の流れにあるからだ。
この奇妙奇天烈なビル。時代の踊り場の時期に建ったため、期せずして歴史の記念碑みたいになってしまった。
でも、このビルを見るたび、なんだかバブルの頃の、ありもしない将来に夢中になった世の中を懐かしく思い出す。
(2006年10月記)

さいたま市さいたま新都心(ラフレさいたま)

2007-04-27 06:23:41 | Weblog
北与野駅のビル群から離れ、東へ。住宅地の中へ入っていく。
野球の練習で賑やかな小学校の前を通り、さらに東へ。
京浜東北線沿いにラフレさいたまがある。
思いっきり奇抜なデザインの建物だ。
このビルは福利厚生施設であり、運営しているのは日本郵政公社の簡易保険事業団である。
保険の契約者が健康であれば、保険金という出費がなくて済む、というような意地悪な見方をしてしまうが、ようするに契約者に対する利益還元、というふうなことだろう。
ちょっと気になるのは、普通の商業ホテルではない、ということだ。
なんだか無理やり建てたみたいな感じだ。
まわりを見渡しても観光地というわけでもないし、街の中心、というわけでもない。
それでも建ってしまったので、なんとか利用してもらおう、ということかな。
でも、世の中は郵政民営化、ということになってしまった。
簡易保険も民間の保険会社になってしまうだろう。そうするとこのような福利厚生施設、格安の宿泊所はどうなるのだろう。
などとそんな心配をしているうちに、まわりに小さなマンションなどが建ち、スーパーや公園ができて、郊外の中に埋没していくに違いない。
そして、何十年も経ったころ、この奇妙な建物はバブルのころ(実際はバブルが崩壊していた頃だが)建ったビルだということで珍しがられるのかな。
もうそのころは、郵政民営化がどうのこうのなんてどうでもよくなっているんだろうなあ。
レトロな建物として憩いの場になっているのかもしれない。
今ある建物を見ても想像できないけど。
(2006年10月記)

さいたま市北与野駅(びゅーサイトタワー)

2007-04-26 06:22:29 | Weblog
アルーサ北与野ポルテ29の西側にはびゅーサイトタワーがある。
シンプルな美しいデザインで明らかに最近の高層住宅だとわかる。
バブルの頃の高層住宅(ノースピア上落合2号棟、アルーサ北与野ポルテ29)と見比べてみると興味深い。
もっとも、バブルの頃のような過剰さやけれん味がない、というのもなにか見る方にとっては、物足りないような気もするが。
埼京線も開通し、北与野からいよいよビル群が建ち上がってくる。
伝統的な田舎の地方都市が、都心部と直結する最新のスポットへと変貌していくのだ。
泥の川は親水公園になり、沼地は埋め立てられてマンションへ。
遠い都心に行かなければ手に入らなかったものも、身近なショップに置いてある。
見上げるような高層ビル、洗練されたデパート、そして何よりも、この最新の世の中のうねりを共有できたという興奮。
最後の行き着くところはなんだろうか。
おそらく政令指定都市、さいたま市の登場かもしれない。
でも、そこにはもはや与野、という地名はなくなっている。
大宮や浦和、という地名も区名としてしか残っていない。
いたるところ、最新スポットという名前の矮小化された都心が満ち溢れているだけにしか見えないけど。
しかし、それはそれでいいのかもしれない。
ただ、昔、ちょっとした旅行気分にさせてくれた、あの地方都市の雰囲気はもう二度とないとしたら、少し寂しい気がする。
(2006年10月記)

さいたま市北与野駅(アルーサ北与野ポルテ29)

2007-04-25 06:23:10 | Weblog
北与野駅の南側へ。
国道17号(中山道)の西側にアルーサ北与野ポルテ29がある。
北与野駅周辺ではノースピア上落合2号棟に次いですぐ完成している。
さいたま新都心の先駆けといっていいと思う。
明治時代以降、鉄道の路線から外れた衰退した与野に昭和になって、国道17号(中山道)が開通する。さらに高度経済成長期に新大宮バイパスが開通する。
クルマ社会は高度経済成長期なので国道17号(中山道)の開通は重要ではなかったかもしれないが。
ただ、本来、国道17号は中山道のバイパスなのだが、もとの中山道は、旧中山道になり、バイパスの方が中山道になっている。
このように南北の道路網を築き上げていく。そして鉄道に対抗したのかどうかわからないが、与野は自動車の街、と呼ばれるようになったらしい。
だが、やはり鉄道にはかなわない。
結局、最後には、新幹線と埼京線が通っている。
埼京線北与野の次の駅、与野本町が本来の与野の中心だったようだ。
今は中央区役所があり、かつては与野市役所があった。
駅西側には、歴史ある寺社が並んでいる。
北与野がさいたま新都心の先駆けだったのもわかるような気がする。
(2006年10月記)

さいたま市北与野駅(パークハウスさいたま新都心)

2007-04-24 06:23:12 | Weblog
国道17号(中山道)を南へ歩く。また北与野駅に戻る。
ノースピア上落合2号棟の国道17号(中山道)を挟んで東側、埼京線の近くにパークハウスさいたま新都心がある。
最近、竣工したのだろうか。白く美しいビルだ。
もう埼京線を越えればその向こうはさいたま新都心である。
あるいは、もはや北与野駅周辺はさいたま新都心に含まれているといっていいかもしれない。
さいたま新都心がいったいどの範囲を指すのかわからないが、現状からはそう見える。
かつては、多摩地方から奥州へ北東方向に向かう街道、鎌倉街道や中山道脇往還が通り、昔、与野と呼ばれていたこの地域には市場ができ、宿場町になっていた。
南北に伸びる中山道には浦和宿、大宮宿があるものの中心はかつての与野であったようだ。
しかし、明治時代となり、鉄道が通ることになると、どこの街でもあるように、当時の街外れを通ることになる。
つまり与野からは東側にあたる。駅も浦和、大宮のみとなった。
特に大宮駅は東北本線が分岐する駅として開設されている。
そして例に漏れず、鉄道駅付近に繁栄は移り、さびれた後にバブルの頃、再開発の話が持ち上がってくるのだ。
(2006年10月記)

さいたま市上落合(S4タワー)

2007-04-23 06:27:41 | Weblog
国道17号(中山道)へ戻る。
幅広の県道56号との交差点、南東側にS4タワーがある。
かなり前にこの場所から東へ歩いて地下道をくぐり、京浜東北線の東側に出たことがある。
そのときの印象は、本当にどこかの歴史のある地方都市、という感じだけだったけど。
ましてこんなところに高層ビルが建つ、なんて想像すらしなかった。
今、見渡してみると、すっきりしていて、新しい都市空間、という感じだ。
その都市空間の中、東西に走る県道56号の地下には首都高速道路埼玉大宮線が通っている。
最近、開通したのだが、高度成長時代ならさいたま新都心のビル群を縫うように高架が築かれただろう。
高度成長時代が終わって板橋区高島平まで伸びてきていた首都高速道路5号池袋線はバブルの頃、再び北へ伸び始める。
そして、同じバブルの頃、埼玉県南部を東西に走る東京外環自動車道が開通し、北に伸びてきた首都高速道路5号池袋線と接続することになる。
バブルの頃は、首都高速道路湾岸線が目立っていたが、内陸の東京外環自動車道の影響力も強かったと思う。
東京外環自動車道まで達した首都高速道路5号池袋線は、その後、首都高速道路埼玉大宮線となり、新大宮バイパスの上を高架で伸びていく。途中、東に向きを変え、地面の下にもぐり、S4タワーの地下を通って(もちろん真下ではないけど)、さいたま新都心を抜けて京浜東北線の東側に出ている。
すっきりと広々として、少し遠くには、大宮のビル群、地下には高速道路が通る。
もはや、関東内陸部の歴史のある地方都市、という面影はないのだろう。
(2006年10月記)

さいたま市上落合(パークシティ大宮セントラルタワー)

2007-04-22 11:27:13 | Weblog
国道17号(中山道)を北に歩く。
大宮のさいたま新都心が過ぎ、大宮の街並みが近付いたぐらい。
西側、住宅地の中を進む。住宅地の中、パークシティ大宮セントラルタワーがある。
よくこんな住宅地の中に高層住宅を建てたものだ。
少し前の地図を見ると、三井建設機材センターというのがあったようだが。
ちょっと広めの敷地があればいちおう高層住宅を建ててみる、ということだろう。
それに東側に国道17号、北側に幅広の県道56号が走っているので道路に対する壁にはなっている。
大宮とさいたま新都心の中間ぐらいでどちらにも行けるが、逆にいえばどちらとも少し遠い。
もっとも遠い方が静かでいいのかもしれないけど。
付近は病院やマンションなど建ち、かつては何らかのまとまった敷地があったのだろうか。
はっきりとしたことはわからないが、かつては与野市だったこの一帯には、昔、市場があり栄えていたと聞く。
(パークシティ大宮セントラルタワーのあるあたりは、あまり関係なさそうだが)
市場がなくなり、静かになったと思ったら、今度はさいたま新都心の余波で高層ビルが建っていくのだ。
そして結局、最近の都心回帰ということで、また静かになっていく。
そこには、太古の昔からある武蔵野の大地が広がるばかり、ということだろうか。
(2006年10月記)

さいたま市北与野駅(ノースピア上落合2号棟)

2007-04-21 10:51:35 | Weblog
武蔵浦和駅で埼京線に乗る。
北与野で下車。駅の北側にノースピア上落合2号棟がある。
埼京線は南北に伸びているが大宮の近くになると東へ向きを変える。
その時、国道17号線(中山道)と交差するところに北与野駅がある。
ノースピア上落合2号棟は駅北側で中山道の西側になる。
北与野駅周辺の高層住宅はバブルの頃、すんなりと建っている。(2棟だけだが)
その中の一棟がノースピア上落合2号棟である。
埼玉県のなかでも初期の高層ビルと言える。
すぐ東側はさいたま新都心だが、すぐ、ではなくて、つながっているという感じだ。
そういった意味では、北与野駅周辺の再開発はさいたま新都心の先駆けでもあったわけだ。
こう見てくると埼京線というのはバブルの時期、本当にインパクトが強かったなあ。
さいたま新都心の最寄り駅は京浜東北線なのだが、埼京線のイメージが強い。
おそらく、北与野駅の周辺の再開発が先行したからだろう。
そしてすでに市街化された京浜東北線沿線よりも、当時、沿線には何もなかった埼京線の方がなんとなく可能性を感じさせてくれたのかもしれない。ほとんど高架なので遠くまで見渡せたし。
都心部ではあちこちに高層ビルがあるが、さいたま市ではどこまでも平野が続く。
そこに巨大なビル群ができあがればまるで小山のように見えるだろう。
大宮に近付くにつれこの人工の小山が圧倒的な存在感で迫ってくるのだ。
へたなSFよりも迫力がある。
しかし、これがバブルの産物だとすると何か虚しいような気もするのだ。
(2006年10月記)