retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

勝どき(プラザタワー勝どき)

2007-01-30 06:35:27 | Weblog
虎ノ門で銀座線、青山一丁目で大江戸線に乗り換える。
勝どきで下車。
勝鬨橋の方へ歩いて行くとプラザタワー勝どきが聳えている。
南側にセルリアンホームズ勝どき、フォアフロントタワーがあり、通りを挟んで北側に都営勝どき一丁目アパートがある。
勝どきという地名は、勝鬨橋からであるが、勝鬨橋の架かる前から勝鬨の渡しがあった。
月島工場地帯への通勤の渡船であったが、日露戦争の戦勝を記念して勝鬨という名前になったそうである。
その後、1940年のオリンピックと万博のメイン会場が月島だったので橋が架かる。
(イベントがインフラ整備の大義名分なのはいつの時代でも同じなのかな)
なお、オリンピックと万博は戦争のために中止になったが橋だけは予定通り完成した。
その頃はまだ隅田川の水運が活発だったので、橋は開閉式となる。
その後、水運の衰退とクルマ社会の到来により、高度経済成長のころ橋の跳開は行われなくなり現在に至る。
今では、勝鬨橋よりも晴海通りとしての方が重視されているかもしれない。
月島が工場地帯ではなくなり、もんじゃの街になり、都心部の高層住宅が林立する現在、ますます開閉という機能より本来の橋という価値が強くなっているだろう。
勝鬨橋を渡れば、すぐ築地であり、さらに西に歩けば銀座、そしてもう有楽町駅となる。
この橋なしでこの地の利は考えられない。
もっとも、この南に将来、環状2号線の橋が架かる予定だが。
(2006年9月記)

霞ヶ関(霞ヶ関三井ビル)

2007-01-29 06:24:54 | Weblog
霞が関R7プロジェクトの西側には、最古の超高層ビル、霞ヶ関三井ビルが聳えたつ。
さらに西側には、工事中の東京倶楽部ビル、特許庁のビル、そして北側には新霞ヶ関ビルがある。
竣工は、いざなぎ景気の真っ只中、高度成長の絶頂期である。
いままで高いビルなどなかったなかでいきなりこの高さ、巨大さ。日本がこの後辿り着くであろう高みを予兆していたかのようだ。
霞ヶ関ビルのある土地には、明治の頃の最初の社交クラブ、東京倶楽部の建物、そしてもと華族会館、霞会館があった。
華族といえば、霞ヶ関ビルを建てた三井不動産が三井財閥だったことを思い起こさせる。
三井財閥とは、戦前最大の財閥であり、明治維新の頃、朝廷方についたことにより政府に取り入り、成功する。
その後、経済発展の見返りに華族に迎えられ、財閥華族と呼ばれる。
財閥は戦後、解散させられる(華族も消滅する)が、形態は全部そのままで、現在もそのままである。
ただし、三井グループだけは再建が思うようにいっていない。
三井不動産は、本当は、東京倶楽部の建物の跡地に9階建のビルを建てる予定だったが、予定が変更され、隣の霞会館(旧華族会館)の土地も含めて巨大ビルを建てることとなる。
官庁街から見て、すぐ近くに今まで見たこともないような巨大な建造物の出現は、三井グループの存在を意識せざるを得なかったのではないだろうか。
高層ビルはその後どうなっただろうか。
2番目の高層ビルは浜松町の世界貿易センタービルであるが、竣工は、2年待たなければならない。
まだ、大手町にも西新宿にも、どこにも高層ビルはなかった。
霞ヶ関ビルが竣工した年の12月には、3億円事件がおこっている。
そういった事件も、まるでよくできた御伽噺であるかのように、社会の中を飛び交い、人々は目の前の仕事に忙殺されている。
そして、日本は経済大国へと駆け上がっていく。
あの頃は、何もなかった、と、しかし、強い郷愁の感情を持って振り返る場所まで駆け上がっていくのだ。
(2006年9月記)

霞ヶ関(霞が関R7プロジェクト)

2007-01-28 13:00:39 | Weblog
江戸見坂を下って北側、虎ノ門方面へ。
霞が関R7プロジェクトの工事現場。
官庁棟、官民棟のツインビルになる。
もとは文部省の庁舎があった。
江戸時代は、官庁街はほぼ大名の上屋敷であり、ここも内藤家上屋敷であった。
近くには江戸城の一番外側の門の一つ、虎ノ御門がある。
明治維新後、「御」の字がはずされ虎ノ門になり現在に至る。
なぜ虎ノ門というのか、ちゃんとした理由はあるのだろうが、わからない。
どんどん出来上がっていく、官庁の庁舎の中では最も巨大で洗練された建築物を見て、それまでの官庁の庁舎がなんで妙に貧相だったのか不思議に思う。
他の国もそうなのかわからないが。
ただこの貧相な庁舎群を見るたびに、官僚は国民の下僕であるとか、清貧、とかよりも、捻じ曲がった権力の顕示欲を感じて気分はよくなかったが。
といって例えば、巨大な衆議院赤坂議員宿舎を見て、正直でいいけど、これでいいのかとも思うが。
どこかの地方公務員が太平楽な生活を送っていたからとして、問題は官僚の数が多いとか政府が大きい、とかではないだろう。
問題は、忙しい仕事と太平楽な生活との選択権があることだ。
誰だって、その選択権があれば、税金で太平楽な生活を送ること、そちらを取るに違いない。
あるいは、その選択権の上で忙しく働いているとしたら、妙に恐ろしいことだが。
官民共同開発なんてまったく意味不明なことをやらなくても、単純に民間で2棟の高層ビルを建てて、国民の総意をもって、無償でそのうちの1棟を官僚に働く場として貸し出せばいいのではないだろうか。
そんなことはありえないだろうけど。
(2006年9月記)

神谷町駅虎ノ門(虎ノ門タワーズレジデンス)

2007-01-27 00:05:08 | Weblog
城山トラストタワーの北側に虎ノ門タワーズレジデンスが聳える。
まさに真新しい白亜のビルが天を衝く、という感じだ。
付属棟としては、虎ノ門タワーズオフィスがある。
すぐ北側に江戸見坂という急坂があるが、名前から眺望がよさそうだと確信できる。
(ビルがあちこちに建っているので本当に景色がよいかどうかわからないが)
また近くのアークヒルズと比べると、その洗練の度合いは一目瞭然だ。
アークヒルズはいまだに昭和の西新宿高層ビル街のような感じだが、最新の虎ノ門タワーズレジデンスには美術品のような美しささえある。
バブルから現在、そしてその先の社会の道筋をあらわしてるようで興味深い。
江戸時代のころ、江戸見坂を登りきれば、直下に溜池が広がり、その先に江戸の街並みが一望の下に見渡せたということだ。その眺めはさぞ見る者を楽しませたのだろう。
そして、万葉集には、天の香具山 登り立ち 国見をすれば うまし国ぞ 大和の国は(中略)なる歌もある。高いところから眺めることは当時の施政者の重要な仕事だったようだ。
ところで、眼下を眺め渡すことは、現代ではどんな意味を持っているのだろうか。
壁とはいわないまでもたぶん東京の中でもかなり急な坂である江戸見坂を注意深く下りながら考える。
ビルは急坂どころか垂直の壁でできている。遠くを眺める分にはいいが、真下を見下ろせば奈落があるだけだ。
見下ろす優越感は、奈落の底という不安を担保にして成り立っているのかな。
(2006年9月記)

港区神谷町(城山トラストタワー)

2007-01-24 23:26:38 | Weblog
坂を登り東へ。
そして坂を下ると神谷町となる。ちょっとした峠越えのようだ。
下り坂の途中に城山トラストタワーが聳える。
バブルのころ、竣工する。
北側のアークヒルズと比べ南側に開けているので明るいはずだが、同じように陰気な谷筋となっている。
神谷町には他に神谷町森ビルがある。
こちらはビル群ではないが、住宅棟、スウェーデン大使館、テレビ東京が一体となり城山ガーデンというエリアを形成している。
最初は城山ヒルズという名前だったが森トラストが森ビルと区別するために名前を変えたらしい。
ヒルズとすると、あからさまに山の手をイメージさせるので変えたのかと思ったが。
しかし、明らかに無骨な感じのアークヒルズよりも洗練されていて、こちらの方がヒルズというイメージにはぴったりのような気もするが。
それにしても、東京のローカル放送局のテレビ東京がその一画を占めているということは、少し驚いた。
東京とはいえローカルに変わりなく、お世辞にも山の手、というイメージではなかったからだ。
しかし、ローカルというものが消滅してしまった現在から振り返ってみると、再開発に放送局が加わるということにおいて、テレビ東京が先陣をきったということは、象徴的だったと思う。
そして、ちょうど同じ年、「ローカルの喪失」ということがメインテーマだった「東京ラブストーリー」なんていうテレビドラマがやっていた。
多元的な価値観を許す「ローカル」は消滅し、今や、勝ち組、負け組み、という一元的な価値観しかない。
国内版、グローバリゼーション、ということか。(ちょっと意味が変だが)
(2006年9月記)

赤坂一丁目アークヒルズ(アーク森ビル)

2007-01-23 23:45:59 | Weblog
高田馬場から東西線で飯田橋、南北線に乗換えて溜池山王で下車。
六本木通りへ出て西へ歩く。しばらく歩くとアーク森ビルが聳えている。
他の高層ビルとしては、ホテル棟として全日空ホテル、住宅棟としてアークタワーズウエスト(こちらは高さ70m以下)、アークタワーズイーストがあり、さらにサントリーホールもあり複合型のビル群となっている。
バブルが始まろうとするころに竣工した。
そして、バブルといえば、まず東京ドームとアークヒルズを思い浮かべる。
当時、近辺には高層ビルらしい建物もなく、建ったときは本当にインパクトが強かったという記憶がある。
用もないのにサントリーホールまで行ったりしたものだ。
何か、社会が別の次元に移っていくような、そんな錯覚にとらわれながら。
ただの陰気な谷筋の斜面に、おまけに高速道路の高架下でさらに陰気だが、そんなところにぼこぼこと巨大ビルが建っただけなのだが(そういった意味では画期的だが)。
バブルが崩壊し、失われた10年を経て、そう気付いたところで、もう後戻りできない。
手を伸ばしても届かない、辿り着けない未来、それを前にして途方に暮れて、でも後戻りできないので進むしかない。
今が、あの頃、思い描いていた未来なのだろうか。
そうかもしれないし、違うかもしれない。
ただ、唯一、確かなことは、さらにこの先の未来を思い描けることはできない、ということだ。
でも、後戻りできない、進むしかないのだ。
(2006年9月記)

田町駅芝浦(グランパークタワー)

2007-01-22 22:51:40 | Weblog
南へビル街を抜けて歩く。田町駅まで来て南側にまわり東口へ出る。
山手線沿いにグランパークタワーが聳える。
田町という駅名は町名からとられているが、今ではその町名はない。
江戸時代、一帯は田町と呼ばれていたらしい。
田圃の町、ではなくおそらく「三田」という地名と関係が深いと思う。
(つまり三田町が田町になったのではないだろうか)
薩摩藩上屋敷、薩摩藩蔵屋敷もあり、その東側に町が形成されていたらしい。
明治時代に入り、鉄道が通り、駅が設置されると町名(当時は芝田町)から田町駅になるが、結局、三田に変更になり、町名としては消滅する。
もとに戻った、あるいはすっきりした、という感じだが。
駅が設置されたときは、まだ駅の東側は海であったようだ。
その後、埋め立てられ、工場、学校などの諸施設が建てられていく。
そして、バブル崩壊後に次々と高層ビルになっていき、現在も、高層ビル化は続いている。
グランパークタワーは、その端緒であり、付属ビルとして高層住宅のグランパークハイツがある。付属ビルの方が住宅棟というのは今では考えられないが。
駅周辺はこの数年で劇的に変わった。変わっていないのは慶応義塾大学ぐらいかな。
そして、肝心の駅そのものが変わっていない。
接続している路線としては、都営三田線、都営浅草線があるが三田駅なのでまるで別の駅みたいだ。
いっそのこと、田町駅もJR三田駅にして都営地下鉄と一体化してしまえばよいのだが。
もっとも、JR西日本にも三田駅(読み方は違うが)があるので無理だろうけど。
田町駅周辺にはビルばかりが建ち、中心がないような気がする。
(2006年8月記)

港区芝三丁目(芝公園ファーストビル)

2007-01-21 20:14:50 | Weblog
水道橋駅で都営三田線。芝公園駅で下車。
首都高の高架の南側を西へ歩くと芝公園ファーストビルが聳えている。
首都高の高架の北側は芝公園と増上寺。そして南側は田町に至るビル街となっている。
もっともビル街になったのはバブル以降であるが。
一帯は芝とかなり昔から呼ばれていた。
竹芝、芝原、芝の浦、と変形するが中心は芝である。
(海苔養殖に使う木の枝を「芝」と呼ぶところからとする説もあるが海苔養殖は江戸時代に入ってからであり、海苔養殖技術の完成は昭和の頃になってしまう。この「芝」が地名の由来であることはありえないだろう)
芝は別の漢字では「柴」と書く。この意味では、小型の雑木、雑草を指す(柴犬の「柴」も同じ語源)。これが最も正しいと思われるが、このような土地柄を「しば」と言い慣わすものなのかどうかわからない(「柴地」というのはあるが)。
江戸時代になり、増上寺の南一帯は、薩摩藩上屋敷となる。そして、江戸時代末期、幕府側の焼き討ちで焼野原になってしまう。
たいてい明治時代になり藩邸はなんらかの施設に転用されているが、増上寺の南側についてはどうなったかわからない。
記憶によると、ビル街になる前は家屋が建ち並び下町のような感じだったが。
おそらくビルの用地はすでに確保されてあったので下町のような家並みだったのかもしれない。
ともあれ、江戸時代の藩邸が長い時間を経てビル街になった、ということだろうか。
(2006年8月記)

文京区後楽(東京ドームホテル)

2007-01-20 22:50:53 | Weblog
飯田橋駅北側、神田川の北岸へ出て、外堀通りを東へ。水道橋方面へ歩く。
東京ドームの南側に東京ドームホテルが聳える。
一帯は江戸時代、徳川水戸藩の上屋敷であり、そのころ小石川後楽園が作られる。
明治時代になり、東側は軍の施設になるが、昭和に入ってしばらくして後楽園球場が開業される。
その後、球場は東京ドームになり、西側は小石川後楽園、東側は東京ドームシティとなって、現在に至る。
そして、南側、外堀通り沿いと西側、飯田橋の北、北側の春日と高層ビルが取り囲むように建つ。さすがに文京山の手の本郷側には高層ビルはないが。
また、学校などの諸施設も多い。
中でも、極めつけの施設は東京ドームだろう。(ちなみに東京ドームは後楽園球場の北側に建っている。そして、後楽園球場の跡地に東京ドームホテルが建っている。)
この東京ドームの登場こそはまさにバブルの絶頂期のころだ。あの時代の象徴といってもいいかもしれない。
しかし、今から冷静に見てみると、ただ球場を膜で覆っただけである。それだけのことが象徴だとすると、あの時代の背伸びした張りぼてぶりがいかにもわびしい。
もっとも、バブル崩壊後も東京ドームホテルが建ち、また、現在も高層ビルが建ち続け衰える気配はない。
おそらく、北側を文京山の手が占め、南西側には番町、麹町があり、まさに近場アーバンリゾート地の先駆だからに他ならない(上野、浅草は東側に文京山の手があるだけだが)。
淀んだ沼地でも、その水面が太陽の光を反射して波の間に鈍くきらきら光るように、この先も輝いていくだろう。
(2006年8月記)

飯田橋(ガーデンエアタワー)

2007-01-19 23:22:42 | Weblog
東池袋から有楽町線で飯田橋へ。
駅南東側のビルの中にガーデンエアタワーが聳える。
今のところ、ビル群の中では最高峰である。
ビル群のあった場所は、もとはJR貨物の敷地であった。明治時代は三崎町練兵場であり、江戸時代は松平讃岐守邸であった。北側に徳川水戸藩上屋敷があるのは徳川水戸家と血縁関係があるためであろうか。(あるいはもともと水戸藩の敷地だったかもしれない)
周辺については、明治時代以降、西側は、番町、麹町からせり出した山の手の台地、東側の低地、九段下、西神田は、手近な下町として割り当てられる。
そして、バブル崩壊後は、その低地のあちこちに高層ビルが建っていく。
ガーデンエアタワーを含むビル群(アイガーデンエア)もそんな中のひとつだろう。
よどんだ運河のような日本橋川の川沿いにあった無粋な工場街のようだった風景が、一変して川のほとりに広がる垢抜けた、洗練された近代的なビル街になった。
それにしても、休日のせいか、まるで誰もいない。
おしゃれな店の店員もばんやり空を眺めている。
大昔、広大な湿地帯だった頃も、ぼんやり空を眺めている誰かがいたかもしれない。
きれいな美しい庭園や賑やかな街並みを思い浮かべてたかもしれない。
それらが実現したとしても、やはりぼんやりと空を眺めるているのだ。
広大な映画のセットのような未来的なビル群の中、人工的に作られたくねくねした小道を歩いていく。
広大な湿地帯だったころと同じように誰もいないビル群は、ますます映画のセットの張りぼてか、葦原に浮かぶ蜃気楼に見えてくる。
(2006年8月記)