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戦国時代の末期、山形盆地を拠点に北の方に勢力拡大を図ろうとしていた山形城主の最上義光の前に立ちはだかった武藤氏が城を構えていたのが現在の鶴岡市の大山地区で、酒蔵が多い町として今でも街並みにその繁栄の名残を留めている。
大山は明治になってからも進取の気風に富み、現在も残る明治の洋風建造物はその証しと言えるのかもしれない。
現在町内会の公民館となっているこの建物もその一つで、旧鶴岡警察署大山分署として明治18年に建てられ、以降「分署」の呼び名で町民に親しまれてきた。
この大山分署は鶴岡の致道博物館敷地内に建つ旧西田川郡役所と旧鶴岡警察署を手がけた名棟梁の高橋兼吉の弟子で親戚の高橋権吉が中心となって建造されている。美しい擬洋風建築であるのは明らかに師匠の影響と思われる。規模としてはさほど大きくないが、その瀟洒な外観は今なお「街角のシンボル」として異彩を放っているといえよう。
こんな優雅で愛らしい姿の警察署なら犯罪者を更生させる力があったのかもしれない。
大山は明治になってからも進取の気風に富み、現在も残る明治の洋風建造物はその証しと言えるのかもしれない。
現在町内会の公民館となっているこの建物もその一つで、旧鶴岡警察署大山分署として明治18年に建てられ、以降「分署」の呼び名で町民に親しまれてきた。
この大山分署は鶴岡の致道博物館敷地内に建つ旧西田川郡役所と旧鶴岡警察署を手がけた名棟梁の高橋兼吉の弟子で親戚の高橋権吉が中心となって建造されている。美しい擬洋風建築であるのは明らかに師匠の影響と思われる。規模としてはさほど大きくないが、その瀟洒な外観は今なお「街角のシンボル」として異彩を放っているといえよう。
こんな優雅で愛らしい姿の警察署なら犯罪者を更生させる力があったのかもしれない。
確か、旧鶴岡藩士団が札幌で開拓事業を行ったこと。札幌の東区丘珠町(丘珠空港がある)は、明治3年、開墾のため庄内人30戸が移住したのが始まりとのこと。国内5番目の大都市も山形県人のご苦労があったからこそなんです。そして、その後、アメリカ様式の農業技術を習得した際に、欧米様式の下見板張り西洋建築を眺め、頭に残っていたのでしょう。
もともと、山形と北海道とは関係があるのです。小樽のニシン御殿は庄内人の建物ですし、何故か私の親戚(釧路)の土地も山形人の所有だったのです。そういえば、言葉も「・・・だべ」など山形弁が通じるのです。
しかしながら、そのような歴史があるとは思いもよらず、先人の苦労は想像を絶するものだったと思います。歴史は語ると言いますが、紐解くことも必要ですね。
そして庄内に伝えられた様式が三島通庸により山形盆地で推進されましたが、三島の直部下の権参事、薄井龍之の直前の任地が札幌であった(ススキ野の町名は彼に由来しているようです。「薄」はススキとも読まれる)
そして庄内に伝えられた様式が三島通庸により山形盆地で推進されましたが、三島の直部下の権参事、薄井龍之の直前の任地が札幌であった(ススキ野の町名は彼に由来しているようです。「薄」はススキとも読まれる)