今でこそ庄内地方と言えば「穀倉地帯」のイメージが強い。
だが、鶴岡市街からさほど遠くなく、しかも決して高地や高原でもないこの地が明治維新以降の開墾地であることを思えば、庄内地方全域には近世の江戸時代末まではまだまだ未開地が広がっていたことを物語る。
わが内陸の山形城主の最上義光が慶長出羽合戦の武功により24万石から57万石に大加増され、庄内地方の領有を徳川氏から認可されて最初に力を傾注したのは庄内平野を潤す灌漑施設の整備であり、とりわけ家臣の北舘大学に命じて築かせたのは「大学堰」と言われる用水路であった。
最上氏の支配の後は新たな藩として庄内藩が成立し、幕閣を輩出した酒井氏が藩主となり、平和が確立してから庄内地方の農業地帯としての開墾が進んだものの、未開の地は幕末まで残されていたがゆえに、ここ「松が岡開墾場」という士族による広大な開拓地ができたのであろう。
ここにはむろん農地のほかに大規模な養蚕施設も数多く建造されたが、この写真の建物もその一つである。和式の建造物としては城郭や寺院建築にも匹敵する巨大さであり、まさしく威風堂々とした風格で、旧庄内藩の士族たちの心意気の強さを感じさせる。
だが、鶴岡市街からさほど遠くなく、しかも決して高地や高原でもないこの地が明治維新以降の開墾地であることを思えば、庄内地方全域には近世の江戸時代末まではまだまだ未開地が広がっていたことを物語る。
わが内陸の山形城主の最上義光が慶長出羽合戦の武功により24万石から57万石に大加増され、庄内地方の領有を徳川氏から認可されて最初に力を傾注したのは庄内平野を潤す灌漑施設の整備であり、とりわけ家臣の北舘大学に命じて築かせたのは「大学堰」と言われる用水路であった。
最上氏の支配の後は新たな藩として庄内藩が成立し、幕閣を輩出した酒井氏が藩主となり、平和が確立してから庄内地方の農業地帯としての開墾が進んだものの、未開の地は幕末まで残されていたがゆえに、ここ「松が岡開墾場」という士族による広大な開拓地ができたのであろう。
ここにはむろん農地のほかに大規模な養蚕施設も数多く建造されたが、この写真の建物もその一つである。和式の建造物としては城郭や寺院建築にも匹敵する巨大さであり、まさしく威風堂々とした風格で、旧庄内藩の士族たちの心意気の強さを感じさせる。