山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

伊達政宗の母が住んだ平地の隠れ里(7)

2010-01-26 22:55:34 | 郷土史
 政宗の母である義姫(お東の方)が政宗が朝鮮出陣などで長期に留守の岩出山城から出奔して山形までやってきた動機はいったい何であったのであろうか。
 むろん、息子の政宗の不在ゆえに生じる伊達家や城内での人間関係や岩出山という慣れない土地での居心地の悪さがあったとしても不思議ではない。
 兄の最上義光も夫人ともども山形を留守にして京都に滞在していたばかりでなく、朝鮮出陣を控えて肥前名護屋まで出かけていたのである。
 それでは山形での「一大事」とは何なのか。
 むろん、城主である義光夫妻が留守であること自体も「一大事」である。
 兄の義光が留守の間に山形では何が起きるかわかったものでない。
 さらにそれに加えてもう一つ最上家にとっての「一大事」が控えていたのである。
 おそらくは実家思いの義姫はそれらの「一大事」のことが気にかかって仕方がなかったから山形までかけつけたのであろう。
 山形では義光の愛娘で義姫の可愛い姪である駒姫が関白豊臣秀次への輿入れを目前にしていた頃である。
 義光夫妻が留守の間に駒姫の「嫁入り仕度」などの婚礼の準備をしっかりとしておくには叔母である自分が出向く必要があると考えていたに違いない。
 また、豊臣家に嫁ぐための心得なども伝えておきたかったのかもしれない。
 しかし、その後、義光が山形に、また政宗が岩出山に帰ってからも義姫が政宗のもとに帰らずに山形にとどまり、郊外の寒村に住まわせられるようになったのも謎と言うべきであろう。

 ※写真は義姫が厚い信仰を捧げた阿弥陀堂(山形城郊外 村木沢悪戸)
コメント (2)
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