今日はまともな記事を登載しようと考えていたが、午後から会合があり、遅く帰宅したため、有り合わせの写真をネタにクイズ形式の内容にした。
たまたま手元の雑然とした所で画質が劣悪な建物の写真を見つけたが、建物そのものは山形市に現存するが、そのかなり以前の別の場所での姿として貴重なものなので、当ブログにて紹介するのが相応しい素材と考え、登載することにした。
確かにこの建物の形態は今でもよく見かけるのだが、こんな市街地の真ん中らしき所にあるはずはないし、建物の塔屋の部分の形は現在のとはかなり違う。
また、建物の色彩も現在の記憶にある色彩とはかなり違うようだ。
さらに場所もこんな所にあったのか、と驚かれる市民や県外の愛好者の方も居られよう。
さて、この正面のきわめてユニークな形の建物は何の建物で、どんな用途に使用されていたのだろうか。さらに、両脇の建物はそれぞれ何の建物なのであろうか。
山形に長く住む市民ならおわかりになるのではないか。
また正面の塔型建造物の現在地はどこに在るのだろうか。
たまたま手元の雑然とした所で画質が劣悪な建物の写真を見つけたが、建物そのものは山形市に現存するが、そのかなり以前の別の場所での姿として貴重なものなので、当ブログにて紹介するのが相応しい素材と考え、登載することにした。
確かにこの建物の形態は今でもよく見かけるのだが、こんな市街地の真ん中らしき所にあるはずはないし、建物の塔屋の部分の形は現在のとはかなり違う。
また、建物の色彩も現在の記憶にある色彩とはかなり違うようだ。
さらに場所もこんな所にあったのか、と驚かれる市民や県外の愛好者の方も居られよう。
さて、この正面のきわめてユニークな形の建物は何の建物で、どんな用途に使用されていたのだろうか。さらに、両脇の建物はそれぞれ何の建物なのであろうか。
山形に長く住む市民ならおわかりになるのではないか。
また正面の塔型建造物の現在地はどこに在るのだろうか。
そういえば、昔(50年程前)、山形市八日町でのモルモン教のクリスマス・パーティに行ったことがありますが、同教の布教は今山形ではやっているのですか?
べにばな第241号では、寛永3年(1626)ころに、船町&中町に信徒が多かったとの事、すると庄内地方から舟で入ったとすると、仙台から来たのでは無いのですか?それとも、船町辺りが、迫害から舟で逃げるのに都合が良かったからなのでしょうか?
次号243号を楽しみにお待ちしております。執筆を感謝申し上げます・
船町・中野にキリシタンが多かったのは特に逃亡のためというよりは、やはり河岸の港町であり、山形城下への布教に便利だったからなのでしょう。