かくて陸奥国司としての任期終了を間近にして藤原実方は現在の宮城県名取市の笠島の地で落馬がもとで不帰の人となった。
彼は天皇により「歌枕の地を訪ねよ」ということで歌枕の地が多い陸奥の国に下向したが、その一つである阿古耶の松を探し当てたのか史実としての確認は困難だが、千歳山北麓の萬松寺境内には彼の墓と称するものが建っている。
それが単なる供養碑なのか分骨された墓なのかは不明にしても、もし彼が実際に千歳山まで来たとすれば、陸奥国府と出羽国とを結ぶ官道としての笹谷街道(名取川と太郎川に沿う)を通ったことであろう。もしかしたら、その帰り道の途中に彼が落馬した名取郡笠島の道祖神社の前を通り抜けしようとしたのかもしれない。
それにしても実方が赴任した当時の陸奥国府は依然として多賀城にあったのか、それとも多賀城は既に国府としての機能を喪失していたのかは不明だが、仮の国府もしくは準国府のような官衙が古墳時代からの穀倉地帯である名取郡に置かれていたとも考えられ、それゆえに笠島の地をも通過したのかもしれない。
◆写真説明「左」名取川 上流を辿ると二口峠または笹谷峠に至り、出羽国に入る。二口峠を越えれば名刹山寺に、笹谷峠を越えれば阿古耶の松がある千歳山に至る。 「右」笹谷街道に今でも残る松並木
※藤原実方については2月13日と16日の記事参照
彼は天皇により「歌枕の地を訪ねよ」ということで歌枕の地が多い陸奥の国に下向したが、その一つである阿古耶の松を探し当てたのか史実としての確認は困難だが、千歳山北麓の萬松寺境内には彼の墓と称するものが建っている。
それが単なる供養碑なのか分骨された墓なのかは不明にしても、もし彼が実際に千歳山まで来たとすれば、陸奥国府と出羽国とを結ぶ官道としての笹谷街道(名取川と太郎川に沿う)を通ったことであろう。もしかしたら、その帰り道の途中に彼が落馬した名取郡笠島の道祖神社の前を通り抜けしようとしたのかもしれない。
それにしても実方が赴任した当時の陸奥国府は依然として多賀城にあったのか、それとも多賀城は既に国府としての機能を喪失していたのかは不明だが、仮の国府もしくは準国府のような官衙が古墳時代からの穀倉地帯である名取郡に置かれていたとも考えられ、それゆえに笠島の地をも通過したのかもしれない。
◆写真説明「左」名取川 上流を辿ると二口峠または笹谷峠に至り、出羽国に入る。二口峠を越えれば名刹山寺に、笹谷峠を越えれば阿古耶の松がある千歳山に至る。 「右」笹谷街道に今でも残る松並木
※藤原実方については2月13日と16日の記事参照