山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

頭がよくなるアジサイ参道 (2)

2006-07-05 06:47:56 | イベント
 参道というからには、行き着く先には神社仏閣があるものだが、むろん、ここでも文殊堂が待ち構えている。つまり知恵の菩薩であるから、拝めば「頭が良くなる」ことになる。だから受験生も母親らとともに参拝に来る。
 だが、この文殊堂は「受験の神様」としてよりは最近は「あじさい寺」として有名になっている。山形市内の受験生すらわざわざ遠い高畠町の亀岡文殊堂まででかけるから、ここに訪れる受験生はさほど多くない。同じ文殊様だから霊験はまったく同じはずなのに、何でこの違いが生じるのか理解しがたい。どうせ親が車に乗せてでかけるのなら、少しでも近い方が二酸化炭素の排出が少なくなる。高等教育を志す若者なら、この程度の配慮があった方が神仏の御加護も増すはずだ。
 さらに一人で自転車ででも訪れるならば霊験はなおさらであろう。山形盆地の西のはずれとはいえ、市の中心部から自転車でも若者ならものの30~40分だけだ。
 少々小難しいことを述べたが、賽銭箱になんと百円玉一枚という“大金”を投げ入れたご利益で私の頭脳も“高等化”したからというわけではない。受験に伴うご利益はともかく、認知症予防くらいにはなるのかも。とにかく空気がきれいだ。

 ↑ 長い参道がまだまだ続く。住職さんによれば、まだ五分咲きとか。
   ↓ 参道の終点近くの脇に「夫婦杉」が



 ↑ これが参道の終着点にある文殊堂 本尊はむろん文殊菩薩、つまり知恵の菩薩
   ↓ 文殊堂を降りてすぐの所から山形盆地が眺望できる

  ↓ 往きはよいよい、帰りはこわい。前日の雨で古い石段が濡れて足もとがすべる


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頭がよくなるアジサイ参道 (1)

2006-07-04 06:08:49 | イベント
 前日は雨にたたられたが、昨日は穏やかな曇天の日で照りつける太陽が顔を出すこともなく、自転車で少し遠くまで出かけるには好都合だったので、「あじさい祭り」が始まった村木沢若木の文殊堂へ思い切ってでかけた。市の中心部から自転車でも35分で、適度な運動量であった。

 ↑ 山形盆地西部の村木沢地区若木方面から緑の絨毯越しに蔵王方面が望める。ここから紫陽花(あじさい)参道は近い

 ↑ 左手前方が参道入口で右手のまろやかな山の中腹近くの文殊堂まで昇る

 ↑ 参道入口のすぐ手前に堂々たる土蔵の2軒の旧家が構えている

 ↑ ここからいよいよ紫陽花参道が始まる
     
次回をお楽しみに
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世界遺産は丸暗記、ローカル遺産は・・・?

2006-07-03 06:27:34 | 街づくり

 ↑ 世界遺産のケルン大聖堂、パルテノン神殿、アンコール・ワット
   ↓ 昭和初期のハイカラ洋風店舗群(山形市) 近いうちに消えうせる恐れ(再掲)

 小中学生でも世界遺産のかなりの数を丸暗記している生徒は多いし、大人でも世界遺産めぐりに多忙な人も少なくない。テレビ局などマスコミも世界遺産の紹介には積極的だし、書籍やDVDの売れ行きも良いようだ。
 しかし、一方で多くの日本人はごく身近にある“ローカル遺産”には無知、無関心ではないか。今や海外旅行は既に日常化しているが、海外旅行のかなりの部分が世界遺産めぐりと重なっている。それゆえ、この旅費の半分でもローカル遺産の保全のため“寄付”してもらえれば(ただし、有名観光地なら入館料とか拝観料とかがあるが、それ以外の所では寄付金を受け取る機関がないのがほとんど)、地域に辛うじて残る古い建造物はだいぶ維持保存可能になるのだが、現実はどんどん解体され、無粋な駐車場や図体だけは大きなマンションやホテルに取って代わられている。
 行政すら。「民間のものには手を出し難い」とか「地震で死傷者がでたら責任問題になる」などとばかり申して、なかなか動かない。写真の世界遺産とて絶対に地震の被害を受けないという保証はないのだが、すごい数の日本人が訪れているのをどう考えるべきか。
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山の民が架けた石のアーチ橋

2006-07-02 07:50:43 | 風景
 その昔、修験僧の法螺貝が鳴り響いた霊山であった葉山(1462M)は山形県のほぼ中央部に位置するが、湯殿山、月山に連なり、かつては「出羽三山」の一つに数えられたこともある。
 それゆえか、山ふところから流れ下る千座川は清冽そのものである。
 この川沿いにしばらく山道をのぼった所に架かる石橋が「岩野の幾世橋」であるが、明治21年11月に起工され、翌年8月に竣工している。
 山形県内には明治期の石造りの橋が11残されているが、多くは三島通庸県令の声掛かりで建造されている“官製”であるが、この石橋は地元民の資金と技術で架けられたものとして貴重である。
 (昨年5月末に撮影)
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イラクのサマーワ、山形の富神山

2006-07-01 07:11:00 | 郷土史

    ↑ イラクで撤退作業の自衛隊  
↓ 2万の上杉軍は富神山の麓を迂回して撤退した。本陣は左手の丘陵にあった。

 イラクのサマーワと山形盆地西部のシンボルでピラミッド形状の富神山とはどんな関係があるのか、意外に思われる人も多かろう。
 この地域出身の自衛隊員の中にもイラクに派遣された隊員も居るのかもしれない(近くの東根に自衛隊の駐屯地がある)が、それ以上に406年昔にこの富神山の周囲で繰り広げられた激闘の方が「サマーワ」と大いに関係が深い。
 いよいよサマーワ駐留の自衛隊も撤退作業を始めている。
 テロが荒れ狂うイラクで一人も犠牲者を出さなかったのは嬉しいことである。しかし、一連の軍事的行動の中で「撤退」ほど難しいことはないと言われる。この撤退行動の中で何の不測の事態が起こらないとも限らず、しばらく隊員は大変な緊張を強いられるであろう。
 さて、西暦1600年、山形城攻略を図った米沢の2万の上杉軍は山形城の支城の長谷堂城をめぐる戦いのさ中に関ヶ原の戦いで西軍敗北の報を受けて撤退を始め、富神山の山麓を迂回して白鷹高原経由で退却を進めた。しかし、山形勢の追撃は激しく、上杉軍もかなりの死者を出した(山形側の記録では上杉軍は約1600人が戦死)。
 それでも大半は無事に上杉領内に帰還でき、それゆえ総大将の直江兼続はさすが天下の名将と後世まで称えられ、追撃の山形城主最上義光も感服している。
 なお、最上義光は上杉軍の攻撃を食い止めて撃退した功により57万石の大大名となったが、彼の兜に残る弾痕は追撃戦の際に上杉軍による銃撃の痕だといわれている。
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