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今日の記事のカテゴリーは「郷土史」とされていながら、ジャンルは「岩手県」となっているのはこれいかに?
写真撮影は岩手県最北部だから、今日あたりは新青森駅発または新青森駅に向かう本日全線開通の東北新幹線車両の轟音がこの城跡にも響きわたっていたはずである。
だから山形とは少し離れているのにどうして「郷土史」なのか。
この九戸城跡は山形の歴史と大いに関係があるからである。
それは我が山形市民が愛してやまない駒姫の悲劇の発端となる日本史上の大事件の大舞台となった場所だからである。
慶長19年(1591)、南部氏の一族の九戸政実が宗家の南部信直に反旗をひるがえし五千人の将兵とともにこの城に立て篭もったが、小田原の北条氏を屈服させて天下を統一したつもりでいた豊臣秀吉には奥州の小さな戦国大名家一族の内紛とはいえ、秀吉に臣従した南部信直に武力反抗した九戸政実を許すことはできなかった。
それで、養子の羽柴秀次を総大将に任じて6万人とも10万人とも言われる大軍を鎮圧のために差し向けたわけである。
九戸は果敢に抵抗したが、多勢に無勢によりついに九戸城は陥落した。
その帰路に羽柴秀次(後に関白となる)が山形城に立ち寄り、まだわずか11歳ながら花のように美しい駒姫を差し出すよう父の山形城主最上義光に所望したという。義光は数年先にと約束した。これが彼女の悲劇の始まりであった。 ⇒ 続く
◆写真説明 A:九戸城跡二の丸外郭の断崖 B:二の丸広場から望む本丸跡 台地上に築かれた城だが、ここでは平坦に見える C:二の丸東部外郭の堀跡(水がない) D:地方裁判所支部敷地から望む本丸跡 E:北側に流れる白鳥川 九戸城の外堀の役割を担っていた F:九戸城を守った馬渕川 右側に秀吉が差し向けた大軍が集結し何度も渡河を試みたが九戸軍から鉄砲や弓矢で狙い撃ちにされた この九戸城跡は既に戦前に国の史跡に指定されている。
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