山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

安全安心で文化景観が死滅

2011-04-23 22:25:04 | 街づくり

 上の写真と下の写真同一の場所であるが、上は2007年の4月23日撮影で、下は今年の今日2011年7の4月23日付けであるから、丁度満4年の間隔がある。
 しかし、見てすぐわかるのは4年前と比べれば今年の桜の開花はだいぶ遅れていることである。

 だが、違いは開花の状態だけにあるのではない。
 以前は城跡の土塁の上はほぼ自然に近い状態であったが、現在は遊歩道が明るい色彩の簡易舗装で真っ平になり、周囲の自然的色彩との調和を著しく損ねているだけでなく、左側には擬木の柵を連ねた間にこれまた明るい色のロープを張り巡らせて、子供たちなどが、左手の堀に落ちていかないようにしているつもりのようであるが、これにも違和感を覚えてならない。
 ここ、山形城跡は歴然とした国指定の史跡なのであり、決して一般的な都市公園内の園路ではない。一般的な都市公園内でもこのような園路を造成したら、利用する市民の不評を買うであろう。
 まるで、中心市街の自転車レーンのようなイメージである。
 これほど真っ平ならば、散策の高齢者などが凹凸に足を取られて転倒することもなかろうし、クルマ椅子やベビーカーも通り易いことは確かである。ただし、この土塁の上にのぼるためのエレベーターもエスカレーターもないから、そもそもクルマ椅子やベビーカーをここまで運ぶことは困難である。
 ここは旧山形城二の丸部分であるが、現在本丸部分の復原工事が進められているものの、本丸御殿は藩政時代の建物の資料や写真・絵図がないために建設ができない状態が続いて久しい。
 これはむろん「国史跡」という制約上当然ということになるが、それならば、土塁の上を現在のような姿に変貌させたことに対して文化庁からのクレームはなかったのであろうか。高齢者などの安全安心のためなら史跡としての景観を損ねてもかまわないとでも文化庁は申したのであろうか。
 そもそも、藩政時代は土塁の上に桜並木などなかった(明治後期に日露戦争勝利記念として植樹された)のだから、「国史跡」として「史実」に忠実たらんとするなら、桜並木などはすべて伐採しなければならないことになる。
 また、城跡公園内の北東部には新しく駐車場が造成されたが、これも当然史跡としてはそぐわないことになる。
 制約がきわめて厳格なようで制約が緩いような史跡であるが、一体全体史跡とは何なのであろうか。

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