山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

2人の山形城主の墓

2009-08-21 23:27:04 | 郷土史
 山形城主の最上氏は南北朝期の始祖斯波兼頼から江戸初期の改易まで12代とも13代とも継承されてきたが、累代の墓がまとめて並んでいる寺院は存在しない。
 せいぜい2人の城主の墓が並んでいる寺院が市内に2カ寺あるのみである。
 そのうちの一つが最上家を最も隆盛に導いた57万石の大大名、最上義光とその後継の最上家親の墓がある光禅寺であり、もう一つがこの写真の最上義春と最上義守の墓が並ぶ龍門寺である。
 その他の山形城主最上氏の墓は山形市の旧市内や郊外の農村部ばかりでなく尾花沢市など市外の寺院にまでという具合にばらばらである。
 つまりは南北朝期から江戸初期までは城主すら同一の寺院に葬られるべきという規則はなかったことを物語っている。
「家の信仰」というよりは「個人の信仰」という色彩が強かったことになる。
 この写真の二つの墓の被葬者は親子だから墓が並んでいるというわけでもない。
 向かって左の墓は最上義光の父の義守の墓であるが、右は5代ほど(6代という説もある)先の城主の義春の墓である。
 この義春の代から山形城主は名に「義」の字をかぶるようになる。
 足利将軍の名にある「義」の字の使用を室町幕府から許されたからとも言われている。
この二基の墓がある龍門寺は曹洞宗で、北山形駅の西の方向にある。
  ※ 写真が逆光のため画質が劣り蒙御免!
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