山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

ここだけの話・・・ナイショ話

2006-08-18 22:14:10 | 郷土史


 霞城公園内のかつてテニスコートがあった所(昨日の記事)から北門に向かって少し歩いた所の左手に市の児童文化センターがあるが、その入口のそばに童謡碑がある。
 だが、その童謡を口ずさむ子どもたちは少ない。その親たちですら、30代ではその童謡をあまり覚えていないようだ。それでも45歳以上ならばほとんどが口ずさむことくらいはできるであろう。ところが「作詞者」となると誰なのか答えられない。彼の居住地であった山形の市民すら名を知る者は稀になった。
 彼の名は「結城よしを」、本名は結城芳夫である。
 彼は大正9年に山形県宮内町(現・南陽市)で生まれ、鶴岡市を経て5歳の時に山形市に転居。14歳で書店の八文字屋で働きながら童謡詩の作詞に励み、同人誌や新聞に投稿した。ついに昭和14年に19歳の時に不朽の名作「ナイショ話」が生まれ、山口保治氏の作曲によりレコード化されて、戦後しばらくまで多くの国民に親しまれて歌われた。

 ナイショ ナイショ ナイショノ話ハ アノネノネ ニコニコニッコリ ネ 母チャン
 オ耳ヘ コッソリ アノネノネ 坊ヤノオ願イ キイテヨネヤ

 なお、同年に流行した歌謡曲や童謡には、「父よあなたは強かった」「兵隊さんよありがとう」などの軍国調、「一杯のコーヒーから」「旅姿三人男」「名月赤城山」「お猿のかごや」「あの子はたあれ」などがあり、今でもよく知られている。
 しかし、日本軍は中国で戦況が行き詰まり、ノモンハンでソ連軍と衝突し、欧州では第二次世界大戦が勃発した。彼も昭和16年には軍隊に召集され、北太平洋諸島から南方まで転任したが、A型パラチフスに罹患し、昭和19年に死去している。24歳の若い命であった。
 なお、彼の父は歌人として著名であり、母も和歌に親しみ、弟も童謡詩人、妹は日本舞踊の師匠として現在も山形市内で活躍している。
コメント
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