大阪ミナミの名所・旧跡をご紹介しています。
今日は法善寺です。
「法善寺横丁」
法善寺横丁はミナミの繁華街にありながら、静かななにわ情緒を漂わせている横丁ですが、元々この地は浄土宗天龍山法善寺の境内で、参拝客相手の露店がいつしか横丁に発展し、戦後盛り場として復活したのだそうです。
長さ80m、幅3mの2本の路地が東西に伸びる横丁内には、老舗の割烹やバー、お好み焼き、串カツ店などがならび、東西両端にある門にそれぞれ掲げられた「法善寺横丁」の文字は、西は藤山寛美、東は3代目桂春団治によって書かれたものだと言うことです。
藤島桓夫「月の法善寺横丁」の歌碑
〽 包丁一本 晒に巻いて
旅へ出るのも 板場の修業
待ってて こいさん 哀しいだろが
ああ 若い二人の
想い出にじむ法善寺
月も未練な 十三夜
法善寺横丁の路地を入ると、昭和35年に大ヒットした藤島桓夫の「月の法善寺横丁」の歌碑が建っています。
「織田作之助文学碑」
織田作之助は夫婦善哉で有名な作家です。
その氏を紹介する石碑、「織田作之助文学碑」が法善寺横丁の「正弁丹吾亭」の前にあります。
お店の前にさりげなくあるので、よく見て歩かないと見過ごしてしまうかもしれません。
文学碑は水掛不動裏手の狭い路地に建てられており、
上に「行き暮れて ここが思案の 善哉かな 作之助」、
下に「小説家織田作之助は大正2年10月、生国魂神社の近くで生まれた。彼は郷土大阪をこよなく愛し終生大阪を離れず、出世作「夫婦善哉」を始め大阪の市井・人情を描いた名作を多く残したが、昭和22年1月、読売新聞に「土曜夫人」を連載中、胸患のため惜しくも34歳の若さで世を去った。その命日が十日戎の日に当たるのも彼らしいと言うべきか。」
と彫られています。
「法善寺」
寛永14年(1637年)中誉専念により建立された法善寺は難波にある浄土宗の寺院で、山号は天龍山、ご本尊は阿弥陀如来です。
江戸時代、この辺りには刑場や焼き場、墓地があり、刑に処された人や埋葬された人々の霊を慰めるために千日念仏回向が行われました。
刑場は明治維新後に廃止され、墓地と焼き場は明治3年(1870年)に阿倍野へ移転し、その跡地は払い下げられました。
その後、跡地には見世物小屋や飲食店、露店等が徐々にでき始め、人気を集めるようになったそうです。
法善寺は千日念仏(仏教で、千日間の精進や修行のこと)を行っていたため千日寺とも呼ばれており、法善寺周辺の地名を「千日前」と呼ぶようになりました。
1945年(昭和20年)の大阪大空襲で本堂は焼失し、現在は金毘羅堂と、水かけ不動が現存しているのみです。
水かけ不動は水商売の人々の参詣が多く、法善寺の北の筋は法善寺横丁と呼ばれ、織田作之助の出世作「夫婦善哉」の舞台となった界隈です。
・金毘羅堂です。
「不動明王」
不動明王は不動尊ともいい、大日如来の教令輪身であって、火焔を背にして右手に剣を取り、左手に縄を持って憤怒の姿をしています。
不動明王には大威力があって難を除き、魔を降伏し、祈願者のどんな願いでも、すべての人にわけ隔てなくご利益が授かると言われています。
「水掛不動」
戦前にはお供えの意味で、命の元になる大切な水を供えていただけだったそうですが、有る時、女の人がお不動様に縋(すが)る思いで「水掛不動さん、願いを叶えて下さい」と水を掛けたのが始まりで、その時より水を掛けて祈念するようになったようです。
・全身苔に覆われている水掛不動です。
大阪ミナミの名所・史跡をご紹介しています。
今日と明日は道頓堀です。
「戎橋」
道頓堀川・遊歩道(とんぼりリバーウォーク)を西に進んでいくと、前方に戎橋(えびすばし)が見えてきます。
橋の上には大勢の観光客が見えると思いますが、この橋はいまや大阪の重要な観光スポットとなっています。
何故かと言いますと、この橋の左側にはグリコの看板(グリコサイン)があるからです。
戎橋は、元和元年(1615年)、道頓堀川の開削により架けられた橋で、四百年もの長きにわたって、大阪の賑わいを見守り続けてきました。
その名前は今宮戎の参道であったことに由来します。
「グリコサイン」
道頓堀・戎橋の「グリコサイン」は、2014年10月23日に6代目としてリニューアルしました。
今や大阪の「風景」として、また観光スポットとして欠かすことのできない馴染み深いこの屋外広告が初めて設置されたのは1935年(昭和10年)のことです。
その後、何度も時代の移り変わりとともにリニューアルされ、現在の6代目のデザインになりました。
なお、初代から5代目までの「グリコサイン」に関心のある方はリンクしておきますのでご参照ください。
「グリコサイン」は照明に14万個のLEDを使用しており、「日没30分後」から、24時までゴールインマークの背景を変化させながら、点灯しています。
ここは観光客、特に、中国人や韓国人を始めとする外国人観光客にとっては重要な観光スポットであり、看板と同じようなポーズで記念撮影している人がたくさん見られます。
「心斎橋筋商店街」
心斎橋筋商店街の歴史は古く、18世紀半ばに「呉服屋松屋」(今の大丸)が店を出した頃には、当時の心斎橋周辺に商店がいくつも集まり、すでに買い物の町として形成されていたそうです。
その後、江戸期を通して、日本中の物資が集まる大坂における小売の中心的役割を果たしてきました。
明治・大正期には、大阪の発展とともに心斎橋周辺も繁栄し、「東の銀座、西の心斎橋」と並び称され、銀座をそぞろ歩く銀ブラに対して心ブラという言葉も生じました。
現在では、マスコミの東京一極集中などの結果、全国的な知名度もそれほどなくなっていますが、大阪では、一番のブランド力のある商店街であり、特にファッション関係では、ここに店を出すことがステータスとなるといわれています。
「大阪松竹座」
大阪松竹座は、大正12年(1923年)5月に関西初の洋式劇場として誕生しました。
大林組の木村得三郎によって設計された正面の大アーチが特徴的なネオ・ルネッサンス様式の建築は、大阪の顔として親しまれました。
その後、松竹楽劇部(後のOSK)の本拠地となり、大正15年(1926年)4月には、以後恒例となるレビュー『春のおどり』の第一回公演が行われました。
松竹楽劇部をメインに、海外の舞踊団、俳優による実演も行われ浪速の新しい文化の拠点となっていきました
以後、戦前は洋画を中心に、戦中と戦後すぐには邦画封切館として興行、そして、昭和27年(1952年)7月からは洋画封切館として再発足、数々の名作を上映しましたが、平成6年(1994年)5月洋画封切館としての歴史の幕を閉じました。
黒門市場の後は、日本橋の電器街を通りぬけ、国立文楽劇場の西にある谷崎潤一郎文学碑を訪ねるため、千日前通りまで行きました。
「国立文楽劇場」
国立文楽劇場は4番目の国立劇場として1984年に開館、大ホールではユネスコの無形文化遺産に登録されている人形浄瑠璃「文楽」をはじめ、古典芸能が楽しめます。
文楽は歌舞伎・能楽と共に日本の三大国劇のひとつと言われ、当劇場は人形浄瑠璃「文楽」の本拠地となっています。
「竹本座跡」
道頓堀の松竹座の傍に竹本座跡の石碑があります。
ここは初代竹本義太夫が貞享(じょうきょう)元年(1684年)人形浄瑠璃の小屋として開いたところで、近松門左衛門を座付作者として迎え、コンビを組み、興行的にも大成功をおさめたそうです。
しかし数年で経営を竹田出雲(たけだいずも)にゆずり、義太夫は太夫として専念し、ますます人気を高めることになりました。
その後、義太夫が、そして近松が没しますが、それでも出雲の努力で繁盛しました。
しかし、出雲の死後は人形浄瑠璃も衰退し、明和4年(1767年)遂に80余年の歴史を閉じたと言うことです。
「文楽の原点」
1684年竹本義太夫がこの地で興行を始めたことにより、この劇場は「竹本座」と呼ばれました。
義太夫は浄瑠璃作者の近松門左衛門と提携し、新しい魅力にあふれた作品を数多く上演しました。
中でも物語の最後を「未来成仏疑いなき恋の。手本となりにけり」と結ぶ「曽根崎心中」は、空前の興行成績を伝えられています。
近松没後も「仮名手本忠臣蔵」など現代まで上演される演目の多くがここ竹本座で初演された事からも、人形浄瑠璃「文楽」の歴史が始まった場所であると言われています。
「谷崎潤一郎文学碑」
千日前通りの北側、国立文楽劇場を西に少し行ったところの歩道脇の緑地帯に谷崎潤一郎文学碑があります。
代表作の細雪は大阪船場の上流階級の暮らしぶりを描いた作品です。
この文学碑には、「蓼喰ふ蟲」の一節が刻まれていて、千代子夫人との離婚の影を映した作品と言われています。
「蓼喰ふ蟲」は、昭和3年から4年にかけて東京日日、大阪毎日の両新聞に連載されたもので、関西移住後5年にして、古典回帰への変容を示しだした作品として重視されています。
「旧跡 二ツ井戸」
この井戸は当初道頓堀の東、掘止めに江戸時代の1634年頃からありました。
二つ並んで掘られた井戸は珍しく、寛政8年(1794年)「攝津名所圖會」には名所の一つに選ばれ、『清泉にして此の辺り民家の用水とす』と記載されています。
当時、この辺りは高津五右衛門町と呼ばれ、銭座があり、寛永通宝など幾多の貨幣が二ツ井戸で鋳造されたそうです。
井戸が明治時代の都市計画の道路拡張で撤去されるのを惜しみ、西側にあった粟おこし屋「津の清」の当主が払い下げを受け店頭に移設しました。
その後、井戸に因んで町名も二ツ井戸町へと改名したそうです。
「道頓堀川・遊歩道(とんぼりリバーウォーク)」
「とんぼりリバーウォーク」とは道頓堀の両岸に整備された遊歩道の事です。
一昔前なら道頓堀の悪臭で歩道の整備など考えられませんでしたが、水質改善に伴い整備され、現在は市民憩いの場となっています。
道頓堀は大阪ミナミを東西に横切る水路で名前は江戸時代に道頓堀を開削した「安井道頓(やすいどうとん)」に由来しています。
大阪市内の水路は中央区を大きく囲むように整備されており、そのうち東横堀川から木津川に合流する部分を道頓堀川とよんでいます。
そして一般的に東横堀川~西横堀川間の商店街に挟まれた区域を道頓堀とよんでいます。
以前は水質悪化が目立ついわゆる「どぶ川」でしたが近年の水質改善の取り組みにより水質は大幅に改善され、道頓堀の両岸には「とんぼりウォーク」と呼ばれる遊歩道も整備され、西日本随一の繁華街を川岸から眺めることができる憩いのスポットとして生まれ変わりつつあるエリアです。
通天閣本通商店街を通りぬけて5~6分歩くと今宮戎神社があります。
毎年1月の「十日戎」には百万人以上の参拝者が訪れて大いに賑わいますが、さすがにこの時期は参拝者は見られず閑散としていました。
なお、十日戎とは、漁業の神、商売繁盛の神、五穀豊穣の神として有名な「七福神」の戎(恵比寿)様を祀るお祭りです。
毎年1月9日から3日間行われ、9日を宵戎(よいえびす)、10日を本戎(ほんえびす)、11日を残り福といいます。
「今宮戎神社」
今宮戎神社は大阪市浪速区恵美須西一丁目に鎮座し、天照皇大神・事代主命・外三神をお祭りしています。
創建は推古天皇の御代に聖徳太子が四天王寺を建立されたときに同地西方の鎮護としてお祀りされたのが始めと伝えられています。
この神社は兵庫県の西宮神社、京都ゑびす神社と共に日本三大えびす神社と呼ばれています。
「広田神社」
今宮戎神社の北、浪速区日本橋西2丁目に広田神社が鎮座しています。
もと天王寺の鎮守で今宮村の産土神(うぶすなのかみ)ですが創建年代は不詳です。
由緒によれば、神功皇后が諸国征伐の帰途、天照大神の神告により撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ:天照大神の荒魂)を祀ったのが起源とされています。
江戸時代には広田の杜といわれ、うっそうとした森のなかに社がありました。
当時は境内も広く、紅白二種の萩を植えた茶店があって、萩の茶屋と呼ばれていたといわれています。
無病息災・痔疾をはじめ難病治癒にご利益があり、アカエイ(関西ではアカエ)を神使とするユニークな神社で、叡知の“エイ”に通じることから合格・必勝の祈願をかなえるといわれ、広く信仰されています。
「アカエの話」
古くから広田神社の神使いとされてきたアカエとは、赤エイの関西での呼び名です。
このアカエ、痔疾をはじめ難病悪疫の守り神として広く信仰されており、アカエを断って、つまり断食して祈願すれば霊験あらたか難病も治癒すると言われています。
「赤土稲荷大明神」
鳥居の赤さが非常に鮮やかな、廣田神社の摂社「赤土稲荷」です。
「黒門市場」
大阪ミナミの中心部・難波からほど近いところに黒門市場があります。
ここは食の都・大阪の名だたる料理店、レストランの調理人御用達のプロの市場です。
しかし近年は、最上級のマグロやフグ、ウニや貝類を求めて、リッチな中国人グルメ客が日本人観光客を上回る勢いで押し寄せているそうです。
黒門市場はテレビでもよく紹介されており、今や”大阪を代表する観光名所となっており、むしろ食べ歩き天国”と言った方が合っているかもしれません。
当日も中国人観光客が大勢押し寄せて、食べ歩いていました。
食べ歩き、つまみ食い天国となった黒門市場は、東西300メートル、南北800メートルのアーケードの下に約150の店が並ぶ市場です。
なかでもやはり鮮魚店が目立っていて、グルメ垂涎(すいぜん)のフグ専門店が1割、ほかにマグロ、貝類、海老、カニ、そしてスッポンの専門店もあるそうです。
先日、元の職場の同期会に出席するため大阪市内へ出かけてきました。
私は出かける時には、運動のため集合時間の2~3時間前に家を出て、目的地まで歩いて行くことにしています。
今回も天王寺から道頓堀まで歩いて行き、その道筋にある名所や観光スポットなどを巡ってきました。
今日は新世界にある通天閣界隈をご紹介します。
通天閣へはJR天王寺駅から天王寺公園を通りぬけ、天王寺動物園を横切るコースを辿ると15分くらいで行けます。
「あべのハルカス」
天王寺公園から眺めたあべのハルカスです。
あべのハルカスは、大阪・阿倍野に近畿日本鉄道が建設し、2014年3月7日に全面開業した高さ300m、延床面積21万2,000m²、地上60階・地下5階の日本一高い超高層ビルです。
「あべのハルカス」の名称は、平安時代の古語「晴るかす」から名づけられたもので、「晴るかす」とは、「晴らす、晴れ晴れとさせる」という意味だそうです。
「通天閣」
新世界公園本通商店街から眺めた、なにわのシンボル「通天閣」です。
明治45年(1912年)、新世界のシンボルとして、凱旋門をモチーフとするビルディングの上にエッフェル塔風の鉄塔が建てられました。
高さ64mという当時東洋一の高さを誇ったこの鉄塔は、「天に通じる高い建物」との意味で、明治初期の儒学者・藤沢南岳により「通天閣」と命名されたそうです。
現在の通天閣は2代目で、高さは103m、初代より39m高くなっています。
5階には大阪を一望できる展望台や、足の裏をなでると幸運が訪れるという神・ビリケン像などがあり、年間100万人以上が訪れているそうです。
「新世界公園本通商店街」
串カツ、たこ焼き、フグの提灯、スマートボール、ビリケンさんなどが並び、観光人力車が走っているテレビでもおなじみの商店街です。
新世界B級グルメ、昭和レトロが楽しめるということで、観光客も大勢訪れていました。
なお、新世界の名称は、明治36年に世界各国の最新技術が集まる「内国勧業博覧会」が大阪で開催され、その後に博覧会跡地の西側を大阪土地建物会社が新世界を「大阪の新名所」として誕生させたことに由来しています。
「ビリケンさん」
ビリケン とは、尖った頭と吊り上がった目が特徴の子供の姿をしている幸運の神の像です。
日本では大阪の通天閣 5階(展望台)にあるビリケン像が有名で、「ビリケンさん」の愛称で親しまれ、特に足を掻いてあげるとご利益があるとされています。
この写真のビリケンさんは新世界公園本通商店街に置かれている像で、観光客が足裏を触っては記念写真を撮っていました。
ビリケンは元々は1908年にアメリカ合衆国の芸術家フローレンス・プレッツが制作した像で、彼女が夢の中で見た神秘的な人物の姿がモデルになっているということで、これが「幸福の神様」として世界中に流行したのだそうです。
通天閣本通りから眺めた通天閣です。
「通天閣の天井画」
タワー脚部の天井にある、直径約17メートルの花鳥画です。
「朝もやの中に花が咲き、クジャクたちが散歩する。見上げた先に、そんな楽園を想像してもらえたら」と言うことです。
この天井画は、戦前の初代通天閣に描かれた化粧品会社「中山太陽堂(現・クラブコスメチックス)」の広告画を同社が復刻・寄贈したもので、2015年7月にお披露目されたそうです。
「通天閣本通商店街」
1912年の新世界創設の頃から、『恵美須通(えびすどおり)』として栄え、1956年の二代目通天閣再建を機に『通天閣本通』と改め、食の都大阪ならではの飲食店を中心に、物販など多彩な商店街として今も老若男女で賑わっているようです。
又、ここ通天閣本通からの通天閣の眺めは、新世界の中でもピカイチと言われているそうですが、如何でしょうか。。
東京では豊洲問題が話題になっていますが、大阪では森友学園が格安で国有地払い下げを受けたことが引き金となって諸問題が発生しています。
同学園は金額の異なる契約書が3通作成していたことが判明し、補助金などを不正に受け取っていたとされており、その事が火に油を注ぐ事となり、
先般、同学園の籠池理事長は4月開校を目指していた小学校について、設置認可の申請を取り下げ ました。
その時の理事長の態度やコメントを聴いていると、ふてぶてしい態度であり、「尻をまくった」感じがしましたが、皆さんはどのように感じられたでしょうか?
ところで、「尻をまくる」と言う言葉、映画やドラマではよく見聞きしますが、日常生活においては余りあまり口にしない言葉でしたね。
今日の話題としては不相応かも知れませんがお許しください。
今日はこの言葉の意味について調べました。
「尻をまくる」と言う言葉を広辞苑で調べてみました。
それによると、(芝居の所作から)これまでの穏やかな態度を捨て、どうでもなれと反抗的態度をとる。居直る。と説明しています。
ドラマや芝居などでも、それまで穏やかに会話をしていたのに、どうしても意思疎通を行うことができないとき、相手は逆ギレをしたようになって凄んでくることがあります。
これが「尻をまくっている」状態。つまり「尻をまくる」とは態度を一変させ、相手にふてぶてしい態度をとることを意味します。
例えば「大人しく聞いてりゃ調子に乗りやがって…… 」。
こんな言葉の出てくる瞬間が「尻をまくる」と言い、その使用例としては、「それまで黙って聞いていた彼は、尻をまくって反論に出た」という使い方をしますが、「黙って聞いていた彼は、尻をまくって逃げ出した」という言い方は誤りとなります。
では、お尻を出して逃げ出すような状態のことは何と表現すれば良いのでしょうか?
この場合は「尻に帆をかける」と表現します。
着るものもとりあえず、慌てて逃げ出した人はふんどし姿のままで飛び出していくのですが、このとき、走っているので風を含んだふんどしが帆をかけたように広がりを見せます。
この姿に由来して「尻に帆をかける」という言葉は慌てて逃げ出すという意味を持つようになりました。
先月のバレンタインデー、そして昨日のホワイトデー。
チョコレートやクッキーなどの洋菓子業界を始め女性好みのファンシーグッズ店などはホクホクではないでしょうか。
商売が繁盛して、お客さんがたくさん来店される時期のことを「かきいれ時」と言いますが、これらの業界では、先月と今月は正に「かきいれ時」だったのでしょうね。
ところで、この「かきいれ時」という言葉は漢字ではどう書くのでしょうか?
「掻き入れ時」でしょうか?それとも「書き入れ時」でしょうか?
商売が忙しくなる時期の「かきいれ時」は、お客さんを「掻き込む(かきこむ)」ようなイメージがあることから「掻き入れ時」と書きがちですが、これは誤りです。
正しくは「書き入れ時」と書きます。
江戸時代から明治時代にかけて、商売人たちは売掛金を「大福帳」と呼ばれる帳簿に記録していました。
どんなお客さんに何がどれだけ売れたのか、当時は現金取引ではなく掛取引が基本だったので、商売をしていくうえでもっとも大切だったのがこの大福帳であったといわれています。
商売が繁盛すると、その売上や仕入れなどを帳簿に記録する作業も忙しくなります。
この忙しく帳簿に書き入れていく様子が「書き入れ時」の語源となっているのです。
従って「書き入れ時」と書くのが正しく、「掻き入れ時」は誤りです。
注意したいですね。
皆さん、野菜を食べていますか?
新たな生命のサイクルが働く春は、ホルモンバランスに変化が起こり、アレルギー性の疾患や動悸、めまい、頭痛、貧血などの症状も起こりやすいと言われています。
そして、ホルモンバランスが変化するこの時期には、身体がタンパク質やミネラル、ビタミンを求めており、それらを補っていたのが春に芽吹く山菜などでした。
昔からの教えに、「春には苦みを盛れ」と言う言葉があります。
春の野に育つ山菜には苦味が備わっています。
野菜不足を補うためには「山菜も食べなさい。苦味を敬遠している場合ではないよ」という考え方が「苦味を盛れ」という言葉に繋がっているようです。
今はハウス栽培の野菜が冬でも出回っており、山菜もスーパーで販売されています。
ふきのとうや菜の花、たけのこ、春キャベツといった春野菜特有の苦みや香りには、心身に刺激を与え、身体機能を活発化させてくれる効果があると言うことです。
ホルモンバランスに変化が起こりやすいこの時期、健康維持のためにも積極的に春野菜を摂取したいものですね。
・ふきのとうやウドなどの山菜です(ネットより)
高齢ドライバーの重大事故が相次ぐなか、75歳以上の運転免許保有者の認知症対策を強化する改正道路交通法が昨日(12日)、施行されました。
そこで、今日はその主な改正点をご紹介します。
「道路交通法の主な改正点」
1.高齢運転者対策として、
・「臨時認知機能検査」と「臨時高齢者講習」が新設されます。
・「臨時適性検査制度」の見直しが図られ、認知症のおそれがあると判断された場合には医師の診断書の提出等が必要となります。
2.運転免許の種類に「準中型免許」が新設されます。
1.高齢運転者対策の概要
●臨時認知機能検査
・75歳以上の運転者が、認知機能が低下したときに起こしやすい違反行為をしたときは、新設された「臨時認知機能検査」を受けなければなりません。
●臨時高齢者講習
・臨時認知機能検査を受け、認知機能の低下が運転に影響するおそれがあると判断された高齢者は、新設された「臨時高齢者講習」(個別指導と実車指導)を受けなけれ
ばなりません。
●臨時適正検査制度
・更新時の認知機能検査又は臨時認知機能検査で認知症のおそれがあると判断された方は、臨時適正検査(医師の診断)を受け、又は、命令に従い主治医等の診断書を
提出しなければなりません。
※医師の診断の結果、認知症と判断された場合は運転免許の取消し等の対象となります。
2.運転免許の種類に「準中型免許」の概要
●準中型免許の新設
・18歳から取得可能な免許で、普通免許で運転できる車両総重量3.5トン未満、最大積載量2トン未満が、「準中型免許」を取得すれば車両総重量7.5トン未満、最大積載量
4.5トン未満までの貨物自動車を運転することができます。(普通自動車も運転できます)。
詳しくは平成29年3月12日 「改正道路交通法施行」をご覧ください。
日本政府は、働き方改革に積極的な動きを見せています。
その理由として、
(1)日本の人口、特に労働力人口が継続して減少していること
(2)日本の長時間労働がなかなか改善されていないこと
(3)政府が奨励しているダイバーシティー(多様性)マネジメントや生産性向上が働き方改革と直接的に繋がっていることなどが挙げられています。
特に、長時間労働・残業などの悪しき慣習が日本経済の足を引っ張って生産性低下の原因になっていると考えられ、その是正が求められていますが、半世紀前にも働き方改革を実施した企業がありました。
そうです。いまや当たり前となっている週休2日制です。
日本で最初にこの制度を採用したのは松下電器産業(現パナソニック)と言われています。
『経営の神様』と言われる松下電器産業の創業者の松下幸之助氏は昭和40年(1965年)4月16日、週5日制を実施し、アメリカ並みに毎週2日の休日、週40時間の勤務体制に移行しました。
当時会長だった幸之助氏は増えた休日を「経済人、社会人として向上するために役立たせることを要望した」と言われています。
導入に合わせ、従業員の教育訓練施設では趣味などに関する催しも実施され、また、従業員らが自主的に専門的な研究に取り組む動きも盛んになったそうです。
野球などのスポーツ活動でも多くの大会で好成績を収めるようになりました。
一方で、幸之助氏は「勤務時間だけを米国と同じにするのは危険」と警鐘を鳴らし、経営や生産効率も米国企業以上の水準にすることを目指しました。
週休2日制の導入後、従業員の勤労意欲は大幅に向上し、生産効率なども狙い通り上がったそうです。
現在、進められている「働き方改革」、松下幸之助氏のように長時間労働を排除し、人を大切にする経営改革をなして、生産性向上を目指して欲しいものです。