大阪ミナミの名所・史跡をご紹介しています。
今日と明日は道頓堀です。
「戎橋」
道頓堀川・遊歩道(とんぼりリバーウォーク)を西に進んでいくと、前方に戎橋(えびすばし)が見えてきます。
橋の上には大勢の観光客が見えると思いますが、この橋はいまや大阪の重要な観光スポットとなっています。
何故かと言いますと、この橋の左側にはグリコの看板(グリコサイン)があるからです。
戎橋は、元和元年(1615年)、道頓堀川の開削により架けられた橋で、四百年もの長きにわたって、大阪の賑わいを見守り続けてきました。
その名前は今宮戎の参道であったことに由来します。
「グリコサイン」
道頓堀・戎橋の「グリコサイン」は、2014年10月23日に6代目としてリニューアルしました。
今や大阪の「風景」として、また観光スポットとして欠かすことのできない馴染み深いこの屋外広告が初めて設置されたのは1935年(昭和10年)のことです。
その後、何度も時代の移り変わりとともにリニューアルされ、現在の6代目のデザインになりました。
なお、初代から5代目までの「グリコサイン」に関心のある方はリンクしておきますのでご参照ください。
「グリコサイン」は照明に14万個のLEDを使用しており、「日没30分後」から、24時までゴールインマークの背景を変化させながら、点灯しています。
ここは観光客、特に、中国人や韓国人を始めとする外国人観光客にとっては重要な観光スポットであり、看板と同じようなポーズで記念撮影している人がたくさん見られます。
「心斎橋筋商店街」
心斎橋筋商店街の歴史は古く、18世紀半ばに「呉服屋松屋」(今の大丸)が店を出した頃には、当時の心斎橋周辺に商店がいくつも集まり、すでに買い物の町として形成されていたそうです。
その後、江戸期を通して、日本中の物資が集まる大坂における小売の中心的役割を果たしてきました。
明治・大正期には、大阪の発展とともに心斎橋周辺も繁栄し、「東の銀座、西の心斎橋」と並び称され、銀座をそぞろ歩く銀ブラに対して心ブラという言葉も生じました。
現在では、マスコミの東京一極集中などの結果、全国的な知名度もそれほどなくなっていますが、大阪では、一番のブランド力のある商店街であり、特にファッション関係では、ここに店を出すことがステータスとなるといわれています。
「大阪松竹座」
大阪松竹座は、大正12年(1923年)5月に関西初の洋式劇場として誕生しました。
大林組の木村得三郎によって設計された正面の大アーチが特徴的なネオ・ルネッサンス様式の建築は、大阪の顔として親しまれました。
その後、松竹楽劇部(後のOSK)の本拠地となり、大正15年(1926年)4月には、以後恒例となるレビュー『春のおどり』の第一回公演が行われました。
松竹楽劇部をメインに、海外の舞踊団、俳優による実演も行われ浪速の新しい文化の拠点となっていきました
以後、戦前は洋画を中心に、戦中と戦後すぐには邦画封切館として興行、そして、昭和27年(1952年)7月からは洋画封切館として再発足、数々の名作を上映しましたが、平成6年(1994年)5月洋画封切館としての歴史の幕を閉じました。
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戎橋の名物グリコサインは、300mも飛ぶのでしたか。50mほどと思ってました。 幼いころは、おまけが楽しみでした。
道頓堀をアーケードにしないことを、在世の藤山寛美が雨の日には朝を差して歩くのも風情になるし、傘屋さんも商売になると
道頓堀に姿を出して話してました・・・。^^
春は陽が斜めに射し込むせいか、海がキラキラきらめいています。江の島を片瀬西浜海岸から見ると午前中はまぶしいほど
輝いています。