2月18日にマルチを張り、トンネルで保温していたイチゴは3月中旬から花が咲き始め、4~5日前から一部の株で色づき始めました。
今年は3月中旬まで気温が低かったことから生育が心配されましたが、思ったより順調に生育しているようです。
今日は昨年より1週間程早く熟れ始めたイチゴをご紹介します。
・2月18日に、このようにマルチを貼り、ポリエチレンのシートでトンネルをしました。
3月下旬から気温が一気に上昇してきたので、日中はこのようにシートを開け、夕方には覆っています。
気温の上昇とともに、各株にはこのような花がたくさん咲いてきました。
ただ、根元からたくさん出てくる細く小さな花芽は、花が咲いても大きなイチゴにないことから蕾の段階でその大部分を摘み取りました。
・果実が緑から白色に変わって来ると数日後には熟れてきます。
・4月10日ごろには一部の株で赤く色づき始めました。
それから2日後の12日には数株に赤い実が付いていました。
今、熟れているイチゴは根元からたくさん出てくる細く小さな蕾が咲いた花の果実なので、熟れたイチゴも小さなものです。
この後に、株の中央から伸びてくる蕾が開花して熟れてくると、大きな粒のイチゴになる筈です。
朝夕の手入れの甲斐あって、今年もわが家のイチゴシーズンが到来しました。
ぶらんこ
当地の公園では、サクラの花は散りましたが、春の陽気に誘われて子供たちが集まり、ブランコや鉄棒、ボール投げなどで遊んでいる光景を目にすることが多くなりました。
私も子供の頃、ブランコを大きくこいで高く上がるスリルを楽しんだり、そのまま飛び降りて、飛んだ距離を競って遊んだものです。
今日は懐かしい『ぶらんこ』について調べてみました。
ブランコは日本には平安初期に中国から伝わったとされており、当初は樹木や梁から吊り下げたものだったそうです。
古代中国では、宮廷や貴族たちが、冬至から105日目に春を祝って女性がぶらんこに乗るというという儀式があったそうです。
ぶらんこをこぐことは太陽に近づく、天に近づくという意味があると言い、太陽は男性を意味することから、女性がぶらんこに乗ることで、子孫繁栄、五穀豊穣を祈ったそうです。
漢語ではブランコのことを「鞦韆(しゅうせん)」または、「半仙戯(はんせんぎ)」などといい、「半仙戯」は、まるで半分仙人になったような気分になることから名づけられたと言われています。
日本語では「ふらここ」や「ゆさぶり」などの呼び方があり、『ぶらんこ』は明治以降の呼び方で、ポルトガル語説や擬態語「ぶらん」「ぶらり」からなどともいわれています。
儀式としての乗り物だったぶらんこが今のように遊具として定着したのは、明治以降、児童の体力増強のために学校や公園にたくさん設置されることになってからのようです。
今回の「大塩平八郎の乱」の足跡を辿るシリーズは今日で終わります。
当日、時間があれば東町、西町両奉行所跡も回りたかったのですが、所用の約束の時間となったことから諦めました。
最終回の今日も境内の摂社、末社をご紹介します。
「登竜門」
天満宮本殿の東西サイドに小さな唐門があり、登竜門と呼ばれています。
その意味の通り、「困難ではあるが、そこを突破すれば立身出世ができる関門」と言うことから、年に1度、東西の門が開かれる初天神の日には、「難関を通り抜ける」ことを祈願する受験生や代参者で長い行列が出来るそうです。
「十二社」
ここに立てられている説明では、
祭神:吉備聖霊(きびのしょうりょう)、早良親王、藤夫人、伊予親王、火雷神、火産霊神、埴山比売神、天吉葛神、川菜神、藤原廣満霊、橘逸勢霊、文太夫霊を祀る。
祭日11月18日とだけ書かれています。
「吉備社」
ここに立てられている説明では次のように書かれています。
祭神は吉備真備です。
吉備真備は吉備(現:岡山県)地方出身の奈良時代の貴族で学者従二位右大臣に上った。
霊亀2年(716年)に遣唐留学生として入唐した際、刺繍裁縫の業を持ち帰ったと言われる故事により、2月8日、社前で針供養が執行され、当日と11月16日には大阪刺繍商工業者が参列して例祭が催行される。
「八幡社」
ここに立てられている説明では次のように書かれています。
祭神は応神天皇で、元は北区天神西町にあり、当社に移転、奉祀されました。
が祭神・応神天皇は仲哀天皇と神功皇后との間に生まれられた人皇第15代に当たられる天皇で、この天皇の御代は大和朝廷の勢力が飛躍的に発展した時期である。
「神明社」
ここに立てられている説明では次のように書かれています。
祭神の天照皇大神は申すまでもなく伊勢神宮の内宮のご祭神であり、皇室の御祖先神で同時に国民の総祖先神である。
豊受皇大神は伊勢神宮の外宮のご祭神で保食神倉稲魂(うけもちのかみ、うがのみたま)とも申し上げ、五穀を生み育てられた神である。
「老松社紅梅殿(左)と白太夫社」
ここに立てられている説明では次のように書かれています。
・老松社紅梅殿は、由緒不詳です。
・白太夫社は、勧請年月は定かでないが御祭神は大宰府の配所で道真公の側近に仕えたと言われています。
「八坂社」
ここに立てられている説明では次のように書かれています。
元、北区天神西町にあったお社を天満宮へ移転奉祀した。
御祭神の素盞雄命(スサノオノミコト)は厄災除の神として崇敬されている。
記紀の神話では、出雲で八岐大蛇を退治し、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を得て、天照大神に献じられたことでよく知られている。
(参考)
「天神様と牛」
天神様と牛の歴史的な関係は古くから深い物があります。
道真公は、承和12年 (845年)に誕生されましたが、この年は乙丑(きのとうし)ということです。
また、延喜3年に亡くなられる時に、轜車(じしゃ)を「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との遺言で、その場所を墓所と定めたと言われています。
その場所が、都府楼の北東(丑寅)の方であったなどの多くの牛との関わりや伝承があり、天神信仰には牛がつきものとなり、「神のみつかわしめ」としてのつながりを持つようになったそうです。
大阪天満宮の境内には本殿の他にたくさんの小社が祀られていますがこれらを摂社、末社といいます。
今日と明日はそれらの一部をご紹介します。
「蛭子殿(蛭児遷殿)」
天満宮境内の北西隅に「蛭子遷殿(えびすせんでん)」があります。
1656年ごろ、天神祭の鉾流神事で鉾が流れ着いた所に戎御社があったため、境内に移したと伝えられています。
江戸時代までは1月のほか、5月、9月にも「えべっさん」が行なわれていたようですが、明治以降は1月のみになり、「天満えびす」と呼ばれてにぎわっていたそうです。
ここに掲げられている説明によれば次のように書かれています。
由緒 常は本社相殿に奉斎されている。一月十日には遷座ののち十日戎祭が斎行される
御祭神蛭児大神は戎・恵比須などとも書き福の神。漁民・商家の守護神として崇敬される。
なお、遷殿というのは本殿から神様がその時だけ遷ってこられるお社のことを指します。大阪天満宮の場合は本殿から蛭子殿に遷ってこられるということです。
・「蛭子殿(蛭児遷殿)」です。
「戎門」
大阪天満宮には六つの門があり、戎門はその内の一つです。
蛭子門は正門(大門)西側にあって、元々この門を入ってすぐ左手に戎社(蛭児社)が祀られていたことから「戎門」と呼ばれています。
現在は戎社は境内西北に移されていますが、門の名前だけが残っているということです。
「参集殿鬼瓦」
明治35年葺かれた参集殿の鬼瓦です。
菅原道真公左遷1075年(昭和52年)に際し、参集殿の屋根を銅板に葺き替えられた為、ここに安置されたようです。
ここに掲げられている説明によれば次のように書かれています。
『明治三十五年に葺かれた当宮参集殿の鬼瓦
菅原道真公御神退千七十五年(昭和52年)に際し
銅板にお屋根葺替えにより昭和62年3月ここに安置す』
「霊符社」
「霊符社」(れいふしゃ)は境内の北東に鎮座しており、この社には天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)という神様がお祀りされています。
この神様は『古事記』によると天地開闢に関わる五柱の神のうちで最初に高天の原に出現したとされ、全ての生命を司るといわれています。
2月3日の節分には「鎮魂祭」という珍しい神事がとりこなわれるそうです。
「白米稲荷」
白米社の祭神は稲荷大神 です。
創祀伝来などは不詳ですが、文政7年刊の『神仏霊験記図会』には記されており、往時より庶民の崇敬は厚いとあるそうです。
・白米稲荷社の隣に鎮座する稲荷奥宮。
「星合の池」
大阪天満宮の星合の池にかかる星合橋です。説明版には「愛嬌橋ともいわれ、当時適齢者の見合いがおこなわれたからである」と記されています。
天暦3年(949年)に天満宮がご鎮座になった時、この池の水に霊光が映ったと伝承されています。
現在では星合の池と言う小さな池しかありませんが、嘗てはこの辺りにいくつもの池があり、明治時代まで残っていたようです。
織田信長は石山本願寺攻めの時、明星池と星合の池との間に本陣を布いたと言われています。
・星合池に架かる星合橋です。
大塩平八郎の足跡を巡って地下鉄南森町からスタートしましたが、同駅の南東方向に大阪天満宮が鎮座していますのでご紹介します。
「大阪天満宮」
大阪天満宮の創始(御鎮座)は、平安時代中期にさかのぼります。
菅原道真は、延喜元年(901年1月25日)、政治の上で敵対視されていた藤原時平の策略により昌泰4年(901年)九州太宰府の太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されることになりました。
道真は、摂津中島の大将軍社に参詣した後、太宰府に向いましたが、2年後の延喜3年(903年)2月25日にわずか59歳でその生涯をとじています。
天満宮はその50年後の天暦7年(953年)に大将軍の森に村上天皇の勅願により創建されたのだそうです。
・表門(大門)です。
「十二支」
表門の天井に掲げられている十二支方位盤です。 酉は鳳凰になっています。
「本殿」
現在の本殿は、天保14年(1843年)に再建されたものです。
この大阪天満宮は、江戸時代の記録に残るだけで七度の火災に遭い、なかでも大阪市中を焼き尽くした享保9年(1724年)の妙知焼けや、大塩平八郎の乱による天保8年(1837年)の大火では、全焼したそうです。
そしてその後、大阪市中の氏子や崇敬者又献身的な奉仕者によって、現在のご本殿が再建されました。
「大将軍社」
大阪天満宮境内にある摂社です。
菅原道真が大宰府への途中、立ち寄り参拝したのが、この大将軍社です。
後に、村上天皇の勅命により、当地は菅原道真を主神とする天満宮となったため、大将軍社は摂社として祀られるようになりました。
ここに掲げられている説明には次のように書かれています。
『当宮地主神として孝徳天皇の御代、豊崎皇后の四方に鎮護神として奉祀させられる。現地名南森町は往古大将軍の森と称せられた。』
「神武天皇聖跡難波之碕顕彰碑」
ここの掲げられている説明によれば次のように書かれています。
『難波之碕は日本書紀に據れば神武天皇御東征の際到り給ひたる所なり。その砌(みぎり)奔潮甚だ急なりし為浪速の國の名を得後難波となれり』
なお、神武東征(じんむとうせい)とは、初代天皇である「神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレビコ:神武天皇)」が日向(現・宮崎県)を発ち、大和(現・奈良県)を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話です。
日本書紀によれば神武天皇は、45歳(紀元前667年)の時、日向の高千穂を発ち、海路瀬戸内海を通り、浪速国(現・大阪府)に上陸して、そこから大和の国に入ろうとします。
しかしこの地を支配する長髄彦(ながすねひこ)に敗北し、現在の大阪平野を船で南下し、紀伊国(現・和歌山県)から熊野を経由して大和の国に入り、紀元前660年大和国を征服して橿原宮で即位したとされています。
昨日ご紹介した「大塩の乱・槐(えんじゅ)跡」は造幣局の前にありましたが、今日ご紹介する「与力役宅門」と「洗心洞跡(大塩平八郎の家塾)」は造幣局の敷地内にあるので特別に入らせてもらいました。
「造幣局」
造幣局は明治新政府によって大阪の現在地(大阪市北区)に創設され、明治4年4月4日に創業式を挙行し、当時としては画期的な洋式設備によって貨幣の製造を開始しました。
当時我が国では、機械力を利用して行う生産工業が発達していなかったため、貨幣製造に必要な各種の機材の多くは自給自足する以外に方法がなかったので、硫酸、ソーダ、石炭ガス、コークスの製造や電信・電話などの設備並びに天秤、時計などの諸機械の製作をすべて局内で行っていたそうです。
現在、造幣局は、貨幣の製造のほか、時代の要請にこたえて勲章・褒章及び金属工芸品等の製造、地金・鉱物の分析及び試験、貴金属地金の精製、貴金属製品の品位証明(ホールマーク)などの事業も行っているそうです。
なお、平成15年4月1日からは、独立行政法人造幣局となっています。
・造幣局の正門です。この敷地内に洗心洞跡と与力役門があります。
・造幣局の社宅の敷地に植えられているサクラです。
造幣局のサクラの通り抜けは11日からです。
造幣局ではこのような珍しい桜がたくさん植えられています。
参考までに2008年の時の「サクラの通り抜け」はこちらをご参照ください。(2008年4月23日から25日まで3回に亘ってご紹介しています。)
・造幣局社宅のサクラです。
「与力役宅門」
掲げられている説明には次のように書かれています。
『この武家屋敷風の建物は江戸時代の大坂東町奉行配下の天満与力の中嶋家の役宅門である。
当時この付近一帯は天満与力の役宅が軒を並べていたところであったが、現在はこの建物が唯一現存するものである。
大正末期に現在位置へ移築され、昭和23年に茶室として大幅に増改されたが、老朽化が著しいため、この度(平成12年)の改築となったものである。』
・造幣局敷地内に移築されている与力役宅門です。
・役宅門の全体画像です。
「洗心洞跡」
大塩平八郎が自宅で開いていた私塾「洗心洞」跡の碑が、造幣局の敷地内に建てられています。
大塩平八郎は青年時代に三度人生観の転換があったそうです。そして王陽明の学問に心酔して、二十四・五歳頃から自邸で儒学の講義をしていましたが、文政8年(1825年)学塾を開き、「洗心洞」と名付けました。
「洗心」とは易教繋(えっきょうけい)辞伝に「聖人之以って心を洗い退いて密に蔵す」とある文から採り、「洞」というは塾舎の意味である、とのことです。
大塩の乱のときは、ここから出陣し、最初に火の手が上がったのだそうです。
「八軒家浜」
江戸時代には八軒の船宿などが軒を並べていた事から八軒家浜と呼ばれ、京洛から淀川をを下ってきた三十石船が到着した船着き場跡です。
熊野参詣の起点としてだけでなく、京都と大坂を結ぶ淀川舟運の要衝として栄えたそうです。
平成20年(2008年)に八軒家浜船着場が現在の大川沿いに整備されましたが、古くから熊野詣の陸の起点、三十石船の発着地として賑わった八軒家浜は、大川より少し南、土佐堀通りのあたりにありました。
大塩の乱で敗色濃くなった大塩平八郎が船に乗って逃走したのはここからだそうです。
・土佐堀通りに面した場所に建てられている「八軒家船着場跡」の石碑です。
成正寺から由緒あるお寺が並ぶ寺町通りを東に進むと「与力町1」や「同心1丁目」と言う住居表示がありました。
今も地名として残っているということは、昔はこの地区に与力や同心が住んでいたのかもしれません。
・与力町1の通りです。
・同心1丁目の通りです。
「緒方洪庵墓所」
寺町通りを歩いていたら、適塾を開いた緒方洪庵の墓所が北区同心1丁目の龍海寺にありましたのでご紹介します。
緒方洪庵はいち早くジェンナーの種痘法を取り入れ、1849年(嘉永2年)に古手町に除痘館を建て、大阪で初めて予防接種を試み、全国的に蔓延する天然痘を防いでいます。
また、安政5年(1858年)のコレラ流行に際しては『虎狼痢(ころり)治準』と題した治療手引き書を出版し、医師に配布するなど日本医学の近代化に努めています。
1862年(文久2年)8月、幕府の強い要望で幕府の奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に召し出されましたが、わずか10ヵ月後の1863年(文久3年)6月江戸の頭取屋敷で死去しました。
享年54歳だったそうです。
お墓は東京にありますが、この龍海寺は緒方家の菩提寺であったことからこのお寺にもお墓があります。
・龍海寺は曹洞宗のお寺で、山号は逢來山です。
「川崎東照宮」
元和2年(1616年)徳川家康が没すると、2代将軍徳川秀忠は、家康を東照大権現という神様として祀り、各地に東照宮と言う神社を建てることを命じました。
大阪には翌年、この滝川小学校の地に当時の大坂城主である松平忠明たちによって東照宮が建てられました。
一説には豊臣氏を敬う大阪の人々の思いを薄れさせるために建てられたとも言われています。
・現在の滝川小学校の前に「川崎東照宮跡」の石碑が建っています
天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱で、大塩平八郎の一党は近隣の住民たちに仲間になるように呼びかけながら、川崎東照宮から天満橋筋を南下したそうですが、その際焼失し、後に再興されました。
しかし、幕末維新の動乱の中で、川崎東照宮は急速に衰退することになります。
鳥羽伏見の戦いで幕府方が敗れた後の慶應4年(1868年)1月7日、幕府方の大坂からの引き上げの際、川崎東照宮のご神体も移されることとなり、明治6年(1873年)川崎東照宮は廃絶となりました。
・明治初めの川崎東照宮です
「大塩の乱・槐(えんじゅ)跡」
天保8年(1837)、挙兵した大塩方の第1発目の砲弾が撃ち込まれたのが、この場所にあった槐の木です。
大塩屋敷の向かいの与力宅の裏庭にあった木で、大きく裂けたと伝えられています。
槐とは、マメ科の落葉高木で、幹の高さは10mから15mになる木です。
石碑には次のように書かれています。
『ここに天保8年(1837年)2月、大塩平八郎の乱の砲弾で裂けた樹齢200年の槐(えんじゅ)があったが、枯死した。
よって新たに若木を植え歴史の証人の生命を伝える』
さて、今日からタイトルの通り、「大塩平八郎の足跡」を辿ることにします。
「成正寺」
地下鉄南森町駅のある交差点から天神橋筋を北に3~4分行ったところ(大阪駅と大坂城のほぼ中間地点)に成正寺(じょうしょうじ)があります。
このお寺は大塩平八郎と養子の格之助の菩提寺です。
「大塩平八郎の乱とは」
大塩平八郎の乱は、江戸時代末期の天保8年(1837年)に、大坂町奉行の元与力・大塩平八郎(中斎)とその門人らが起こした江戸幕府に対する反乱です。
旗本が出兵した戦としては寛永年間に起きた島原の乱(1637年~1638年)以来、200年ぶりの合戦だったそうです。
「大塩平八郎の乱の背景」
大塩平八郎は正義感の強い人で、奉行所内の汚職が許せず、賄賂を受け取って私服を肥やす役人を内部告発するなど不正を暴き続け、次第に奉行所内でいる場所を失っていき、ついに辞職します。
その後、私塾『洗心洞』を開き、門人に講義をしますが、やがて天保の大飢饉が起こり、多くの庶民が飢えに苦しみ、餓死する人は一冬で5千人に達したと言います。
元大坂町奉行の与力であり、陽明学者であった大塩平八郎は、こうした市中の惨状を無視できず、養子・格之助を通じてしばしば救済策を上申するも拒否されました。
しかも、大阪町奉行所の跡部山城守は適切な対策を出せないばかりか、翌年に予定されている新将軍宣下の儀式の費用のために江戸廻米の命令を受けると、市中の惨状を無視してそれを応じました。
更に、大塩平八郎は三井、鴻池ら豪商に「人命がかかっている」と6万両の義援金を要請しましたが、これも無視されました。
こうした大阪町奉行所の諸役人と特権豪商に対し、大塩平八郎は彼らを誅罰してその隠匿の米穀、金銭を窮民に分け与えるため挙兵を決意しました。
・成正寺境内にある大塩平八郎と養子・格之助の墓です。
「大塩平八郎の乱」
大塩平八郎は、あらかじめ自分の蔵書を売却して金に換え、それを近隣の農民に分け与え、挙兵への参加を工作していました。
そして天保8年(1837年)2月19日、大塩は幕政批判の主旨の檄文を飛ばし、「救民」の旗を掲げて、私塾「洗心洞」に集う門弟20数名とともに、自邸に火を放ち、豪商が軒を並べる船場へと繰り出しました。
大塩平八郎の一党は近隣の住民たちに仲間になるように呼びかけながら、川崎東照宮から天満橋筋を南下しました。
中には武器らしい武器を持たず鍋や釜などを持って参加する者もおり、それらを含めその数は300人ほどになっていたそうです。
しかし、鎮圧に出動した幕府勢と小競り合い程度の市街戦を繰り返したのみで、一日も持ちこたえず四散しました。
兵火は翌日の朝まで燃え続け、大坂市中の5分の1を焼いたそうです。
首謀者大塩平八郎と格之助父子は約40日後、大坂市中に潜伏しているところを探知され、自刃しました。
・同じく境内にある大塩平八郎の乱にで殉じた人の墓です。
「本堂」
成正寺は増長院日秀(にっしゅう)の開山で、慶長9年(1604年)に建立された日蓮宗の寺院です。
境内に大塩平八郎の墓がありましたが、昭和20年(1945年)の大阪大空襲で墓もろとも破壊され、その後再建されたのだそうです。
大塩家との関わりは、大塩平八郎の家元である大塩家本家は江戸時代以降、名古屋自壁町を本拠とし、身延山直末大光寺を菩提寺としていましたが、大坂町奉行の与力となった分家が本家の縁故で、同じ身延山末の成正寺を菩提寺としたことからのようです。
成正寺には享保9年(1724年)以後の新寂帳が現存していますが、この中には大塩家の戒名が十九人記載されており、また「諸屋敷宗旨改帳」にも大塩家に関する記載があり、大塩家が成正寺の檀家であったことが証明されているということです。
阿倍王子神社、安部清明神社に参拝した後、地下鉄で南森町まで行き、時間の許す限り、「大塩平八郎の足跡」を辿ることにしました。
大まかなルートは、南森町から大阪天満宮に立ち寄り、造幣局の前を通って大川(旧淀川)沿いの桜を眺めながら西行し、天満橋から北浜に至る道程です。
「大塩平八郎の足跡」シリーズの最初は南森町の成正寺からご紹介する予定でしたが、桜が丁度見ごろだったことから大川沿いのサクラからご紹介します。
・造幣局の東側の大川(旧淀川)端のサクラ並木です。
昨日の土曜日や今日の日曜日は多くの花見客で混雑していると思いますが、当日は平日とあって人出は疎らでした。
・向こう岸は大川の南側の桜並木です。
・大木に咲いたサクラは見応えがあります。
花咲かじいさんが一瞬にして枯れ枝に花を咲かせたような、そんな感んじがする見事なサクラでした。
大勢の花見客を乗せた数隻の遊覧船が、今が稼ぎ時とばかりに行き交っていました。
・中央の大きなビルは大阪マーチャンダイズ・マートビル(OMMビル)です。右手に見える橋は天満橋です。
・天満橋から上流方向の眺めです。
八軒家浜は熊野本宮大社への参詣路である熊野街道の起点で、江戸時代には大坂と京を結ぶ舟運の発着場となっていました。
・八軒家浜の遊覧船発着場です。
安倍清明神社から50mほど行ったところに阿部王子神社が鎮座しています。
「阿部王子神社」
阿部王子神社は和歌山県・熊野大社の末社です。
平安時代以降、熊野信仰が盛んになると、当社が熊野街道の途中に位置していたことから熊野王子社となりました。
「王子」とは、熊野三山に到るまでの街道の途中に休憩と遥拝のために設けられたお宮で、最盛期には九十九王子がありました。
熊野信仰の衰退とともに、退転してしまった神社が多くありますが、この神社は大阪府下では唯一の現存の王子社であり、中世以降、阿倍野村の氏神として信仰され、現在に至っています。
・阿部王子神社の鳥居と参詣道となっている旧熊野街道です。
道幅約4.5mと狭い旧熊野街道である参詣道の両側には樹齢4~500年の楠3本が大阪市の保存樹に指定されています。
楠はいずれも高さ15m以上、太さは3~4mある大木です。
「本殿」
掲げられている説明によれば、阿倍王子神社の祭神は以下の四柱です。
伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)、
伊弉冊尊 (いざなみのみこと)
素盞鳴尊 (すさのおのみこと)
品陀別尊 (おんだわけのみこと)
縁起によれば、仁徳天皇の創建と伝えられ、また一説には往古この地を本拠とした安倍氏の創建ともいわれています。
平安時代から熊野詣が盛んになり、後鳥羽上皇が熊野御幸をした時は4番目の九十九王子社として阿倍野王子などと言われ、法皇、上皇、女院などを始め、一般参詣客の礼拝休息などの用に充てられ殷賑(いんしん)を極めたそうです。
・朱塗りのこの社殿は1967年(昭和42年)に建立された鉄筋コンクリート造です。
「葛之葉伝説」
昔、大阪阿倍野の里に安倍保名という若者がいました。家の再興を念じて和泉国の信太の森の稲荷へ日参していました。
ある日、お参りを終えて帰ろうとすると、一匹の白狐が走り寄って来ました。狩人に追いつめられて助けを求めてきたのです。
保名は草むらにキツネを隠し、狩人達と争いになりましたが、その際、けがをしてしまいます。
傷で意識を失った保名が気が付くと、一人の美しい女性に介抱されていました。
名は葛の葉といいます。保名を介抱して家まで送りとどけてくれました。
葛の葉が保名を見舞っているうち、いつしか二人は恋仲となり、結婚して童子丸という子供が生れました。
しかし、幸せは長くは続きませんでした。
この子が五つとなった秋、子供に添い寝していた葛の葉は眠っているうち、神通力を失ってキツネの正体を現せてしまいました。
目覚めた子供はそれに気づきます。
もうこれまでと、葛の葉は口にくわえた筆で夫と子供に歌を書き残して去りました。
その歌とは、
「恋しくば 尋ねきてみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」
母を慕って泣く子を背にした保名は妻の名を呼びながら信太の森に来てみると、以前は見えなかった葛の葉っぱが社面一面に群がり茂っていました。そして、それらの葛の葉が夫と我が子の声に応えるように葉をそよかせ泣くがごとく、葉のうらを見せてざわめいていました。
その子が後に村上天皇や花山天皇に仕えた、陰陽師”安倍晴明”だったのです。
・「葛之葉稲荷神社」のお社です。