らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

大塩平八郎の足跡(2)成正寺

2014-04-07 | 地元紹介

さて、今日からタイトルの通り、「大塩平八郎の足跡」を辿ることにします。
 
「成正寺」
地下鉄南森町駅のある交差点から天神橋筋を北に3~4分行ったところ(大阪駅と大坂城のほぼ中間地点)に成正寺(じょうしょうじ)があります。
このお寺は大塩平八郎と養子の格之助の菩提寺です。



「大塩平八郎の乱とは」

大塩平八郎の乱は、江戸時代末期の天保8年(1837年)に、大坂町奉行の元与力・大塩平八郎(中斎)とその門人らが起こした江戸幕府に対する反乱です。
旗本が出兵した戦としては寛永年間に起きた島原の乱(1637年~1638年)以来、200年ぶりの合戦だったそうです。



「大塩平八郎の乱の背景」
大塩平八郎は正義感の強い人で、奉行所内の汚職が許せず、賄賂を受け取って私服を肥やす役人を内部告発するなど不正を暴き続け、次第に奉行所内でいる場所を失っていき、ついに辞職します。

その後、私塾『洗心洞』を開き、門人に講義をしますが、やがて天保の大飢饉が起こり、多くの庶民が飢えに苦しみ、餓死する人は一冬で5千人に達したと言います。
元大坂町奉行の与力であり、陽明学者であった大塩平八郎は、こうした市中の惨状を無視できず、養子・格之助を通じてしばしば救済策を上申するも拒否されました。

しかも、大阪町奉行所の跡部山城守は適切な対策を出せないばかりか、翌年に予定されている新将軍宣下の儀式の費用のために江戸廻米の命令を受けると、市中の惨状を無視してそれを応じました。
更に、大塩平八郎は三井、鴻池ら豪商に「人命がかかっている」と6万両の義援金を要請しましたが、これも無視されました。
こうした大阪町奉行所の諸役人と特権豪商に対し、大塩平八郎は彼らを誅罰してその隠匿の米穀、金銭を窮民に分け与えるため挙兵を決意しました。
 
・成正寺境内にある大塩平八郎と養子・格之助の墓です。


 「大塩平八郎の乱」
大塩平八郎は、あらかじめ自分の蔵書を売却して金に換え、それを近隣の農民に分け与え、挙兵への参加を工作していました。
そして天保8年(1837年)2月19日、大塩は幕政批判の主旨の檄文を飛ばし、「救民」の旗を掲げて、私塾「洗心洞」に集う門弟20数名とともに、自邸に火を放ち、豪商が軒を並べる船場へと繰り出しました。

大塩平八郎の一党は近隣の住民たちに仲間になるように呼びかけながら、川崎東照宮から天満橋筋を南下しました。
中には武器らしい武器を持たず鍋や釜などを持って参加する者もおり、それらを含めその数は300人ほどになっていたそうです。
しかし、鎮圧に出動した幕府勢と小競り合い程度の市街戦を繰り返したのみで、一日も持ちこたえず四散しました。

兵火は翌日の朝まで燃え続け、大坂市中の5分の1を焼いたそうです。  
首謀者大塩平八郎と格之助父子は約40日後、大坂市中に潜伏しているところを探知され、自刃しました。

・同じく境内にある大塩平八郎の乱にで殉じた人の墓です。


「本堂」
成正寺は増長院日秀(にっしゅう)の開山で、慶長9年(1604年)に建立された日蓮宗の寺院です。
境内に大塩平八郎の墓がありましたが、昭和20年(1945年)の大阪大空襲で墓もろとも破壊され、その後再建されたのだそうです。

大塩家との関わりは、大塩平八郎の家元である大塩家本家は江戸時代以降、名古屋自壁町を本拠とし、身延山直末大光寺を菩提寺としていましたが、大坂町奉行の与力となった分家が本家の縁故で、同じ身延山末の成正寺を菩提寺としたことからのようです。
成正寺には享保9年(1724年)以後の新寂帳が現存していますが、この中には大塩家の戒名が十九人記載されており、また「諸屋敷宗旨改帳」にも大塩家に関する記載があり、大塩家が成正寺の檀家であったことが証明されているということです。