昨日ご紹介した「大塩の乱・槐(えんじゅ)跡」は造幣局の前にありましたが、今日ご紹介する「与力役宅門」と「洗心洞跡(大塩平八郎の家塾)」は造幣局の敷地内にあるので特別に入らせてもらいました。
「造幣局」
造幣局は明治新政府によって大阪の現在地(大阪市北区)に創設され、明治4年4月4日に創業式を挙行し、当時としては画期的な洋式設備によって貨幣の製造を開始しました。
当時我が国では、機械力を利用して行う生産工業が発達していなかったため、貨幣製造に必要な各種の機材の多くは自給自足する以外に方法がなかったので、硫酸、ソーダ、石炭ガス、コークスの製造や電信・電話などの設備並びに天秤、時計などの諸機械の製作をすべて局内で行っていたそうです。
現在、造幣局は、貨幣の製造のほか、時代の要請にこたえて勲章・褒章及び金属工芸品等の製造、地金・鉱物の分析及び試験、貴金属地金の精製、貴金属製品の品位証明(ホールマーク)などの事業も行っているそうです。
なお、平成15年4月1日からは、独立行政法人造幣局となっています。
・造幣局の正門です。この敷地内に洗心洞跡と与力役門があります。
・造幣局の社宅の敷地に植えられているサクラです。
造幣局のサクラの通り抜けは11日からです。
造幣局ではこのような珍しい桜がたくさん植えられています。
参考までに2008年の時の「サクラの通り抜け」はこちらをご参照ください。(2008年4月23日から25日まで3回に亘ってご紹介しています。)
・造幣局社宅のサクラです。
「与力役宅門」
掲げられている説明には次のように書かれています。
『この武家屋敷風の建物は江戸時代の大坂東町奉行配下の天満与力の中嶋家の役宅門である。
当時この付近一帯は天満与力の役宅が軒を並べていたところであったが、現在はこの建物が唯一現存するものである。
大正末期に現在位置へ移築され、昭和23年に茶室として大幅に増改されたが、老朽化が著しいため、この度(平成12年)の改築となったものである。』
・造幣局敷地内に移築されている与力役宅門です。
・役宅門の全体画像です。
「洗心洞跡」
大塩平八郎が自宅で開いていた私塾「洗心洞」跡の碑が、造幣局の敷地内に建てられています。
大塩平八郎は青年時代に三度人生観の転換があったそうです。そして王陽明の学問に心酔して、二十四・五歳頃から自邸で儒学の講義をしていましたが、文政8年(1825年)学塾を開き、「洗心洞」と名付けました。
「洗心」とは易教繋(えっきょうけい)辞伝に「聖人之以って心を洗い退いて密に蔵す」とある文から採り、「洞」というは塾舎の意味である、とのことです。
大塩の乱のときは、ここから出陣し、最初に火の手が上がったのだそうです。
「八軒家浜」
江戸時代には八軒の船宿などが軒を並べていた事から八軒家浜と呼ばれ、京洛から淀川をを下ってきた三十石船が到着した船着き場跡です。
熊野参詣の起点としてだけでなく、京都と大坂を結ぶ淀川舟運の要衝として栄えたそうです。
平成20年(2008年)に八軒家浜船着場が現在の大川沿いに整備されましたが、古くから熊野詣の陸の起点、三十石船の発着地として賑わった八軒家浜は、大川より少し南、土佐堀通りのあたりにありました。
大塩の乱で敗色濃くなった大塩平八郎が船に乗って逃走したのはここからだそうです。
・土佐堀通りに面した場所に建てられている「八軒家船着場跡」の石碑です。
中で千両箱を持ちましたが、重かったです。
「八軒家浜」も小説を読んで、京都への船着場跡でしたから、界隈を散策しました。新旧の石碑があるのですね。