らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

EVタクシー(電気自動車タクシー)体験乗車

2011-02-18 | 地元紹介

大阪府は今月の15日に、府内のタクシー業者の協力によって電気自動車(EV)タクシーの運行を開始しました。
早速、体験乗車をしてきましたのでご紹介します。

この情報については、橋下徹知事らが出席して開催された出発式の模様がテレビニュースで報じられ、その中で、3月9日までは乗車体験ができる“無料体験乗車”があることを知ったものです。
乗車が出来る場所は梅田やナンバなど9か所が指定されており、たまたま16日に肥後橋までいく用事があった私は、体験乗車すべくナンバまで行きました。

ナンバのスイスホテルの前で体験乗車から帰ってきたEVタクシーを発見し、思わずシャッターを押しました。

・ナンバのスイスホテルの前を走っていたEVタクシーです。


ナンバの無料体験乗車口では2台のEVタクシーが待機しており、待つことなく乗車することが出来ました。
乗車に先立って、今回の体験乗車を知った経緯などを簡単に聞かれました。降車時には乗車した感想などのアンケートがありました。
5㎞まで体験乗車が出来ると言うことだったので、ナンバから肥後橋まで乗車させてもらうことにしました。

・これが私が乗車したEVタクシーです。


電気自動車タクシーは発進や加速もスムーズであり、車内はとても静かで、聞こえてくるのはタイヤと道路の摩擦音だけでした。
係員や運転手さんからは親切に説明して頂き、肥後橋までの4~5㎞の乗車は快適そのものでした。
EVタクシーはいずれも銀色の日産「リーフ」で、車両側面には未来の大阪をイメージしたというビル街のイラストが描かれています。

・車内前列には運転手さん以外に体験乗車の世話をする係員の方(左側の赤い服の人)が乗車しました。


無料体験乗車は府民がEVに触れる機会を増やし普及につなげようと、大阪府がタクシー車両の購入費を補助し充電設備を整備するなど全面的に後押ししているもので、府内の32事業者によるEVタクシー50台のうち32台が協力しているそうです。

・肥後橋近くの三井住友銀行(奥の茶色の建物)本店の前で降車しました。

なお、体験乗車以外の通常のEVタクシー料金は各社とも従来の車両と同額の初乗り2キロ660円だそうで、キタとミナミに専用乗り場を設け、近距離に限って運行するようです。

・降車時に、係員から体験乗車の記念として「シズカデイイゾウ(静かでいいぞう)」という携帯電話のクリーナーを頂きました。



「金のなる木」の花

2011-02-17 | 

「カネノナルキ(金のなる木)」に初めて花が咲きましたのでご紹介します。

「金のなる木」は、ベンケイソウ科クラッスラ属の多肉植物で別名を「カゲツ(花月)」と呼ばれていますが、本来の和名は「フチベニベンケイ」です。
原産地は南アフリカで日本には昭和初期に渡来したと言われています。

我が家の「金のなる木」は一昨年まで一度も花が咲きませんでしたが、その原因が夏の乾燥期に水の遣り過ぎと知り、昨年は鉢を南側の玄関先に置き、直射日光をよく当て、土が乾燥しても水やりを控えました。
そして、冬には広縁において温室効果を持たせて冬越させました。その結果、今年初めて花が咲いたものです。

・「金のなる木」の花です。


「金のなる木」の名前の由来は、
・栽培業者が販売促進のために、五円硬貨の穴を頂芽に通して固定し、若枝が硬貨の穴を通ったまま成長するようにして硬貨が生ったように見せかけ、一種の縁起物的な販売方法をとったためとする説や、
・葉が丸っこく分厚い形でお金のように見えるからとする説などがあります。
 英名では「dollar plant」と言われており、後者の説が名前の由来のようです。

・花は小さいですが星形のきれいな花です。


「花の咲かせ方」
花期は冬で、花を咲かせるためには、1年を通して水やりを控え、出来るだけ日光に当て、そして、夏を過ぎたら絶対に切り戻しをしないことと、真冬の厳しい寒さ(0℃以下)や霜に当てないようにすることです。
以上の点に気をつければ比較的簡単に栽培できます。



「銀行」と「円」の名称の由来について

2011-02-16 | 雑学

”金は天下の回りもの。今は無くてもいつかは回ってくる。” と、今は亡き親父が私の子供の頃よく言っていました。
また、誰かさんが ”お金は淋しがり屋。少ないところには寄らず、多いところに集まるもの” と言っていたのを記憶しています。
経済の”血液”と言われて流通しているお金なので一度は回ってきてもいいものが、生前の親父のところにも、現在までの私のところにも一向に回ってきていません。
矢張り、誰かさんが言っていたように”お金は淋しがり屋”なのでしょうね。

さて、前置きが長くなりましたが、今日はお金には縁の薄い私が、「銀行」の名称と、通貨の単位「円」の由来について調べましたのでご紹介します。

「銀行」の名称の由来
先ず、お金を扱う機関がなぜ名称に「金」を使わずに「銀」を使った「銀行」なのでしょうか?「金行」でも良いはずですよね。
調べてみますと、元々「銀行」という名称は、英語「BANK」の訳語として19世紀の中頃に中国で造られた言葉だそうです。
その由来は、「銀本位制」を採用していた中国では、「銀」を取り扱う場所ということで「銀」とし、「仲介業、仲買商」という意味の語である「行」を用いて、”銀の仲介業”ということから「銀行」という言葉が出来たようです。

日本では明治初期に、英語の「BANK」を「バンク」とそのまま用いたり、「両替屋」「両替問屋」「為替会社」など様々に訳していたようですが、当時の日本は、中国にならって「銀」を通貨の基準とする「銀本位制」を採用していたこともあり、最終的には中国でできた「銀行」の名称を借用したといわれています。
なお、「金行」と言う名称も検討されたようですが、「ぎんこう」の方が発音しやすかったことから採用されなかったようです。

ちなみに、英語の「BANK」は、イタリア語で「腰掛け、カウンター」を意味するバンコ「banco「に由来するようですが、これはお金を勘定をするために使った道具からの命名だそうです。

「円」の名称の由来
次に通貨の単位「円」について調べました。
18世紀頃、中国では銀塊を中国銀貨としていました。
その頃、中国にはメキシコから円形をした銀貨が入ってきており、この銀貨の円形を指して「銀円」と呼んでいたそうです。
その後、中国で銀貨を作るようになると円の正字である「圓(中国語読み:げん)」では画数が多いので、同じ読みの「元」用いて貨幣の総称とすることに決め、「銀元」としました。

日本では、江戸時代の一両小判が楕円形をしており、その形は四角ではなく”まるい”ということから、「一両」を「一円」ということが元々あったようですが、明治政府が新しい貨幣制度のもとで造ることにした硬貨は、西洋諸国にならって円形に統一されたことと、中国に倣ったことで「円」が正式に採用されて通貨の単位「日本円」が誕生したようです。

何のことはありません。一両小判も明治の硬貨も丸いことから「円」が誕生したのですね。すると、親指と人差し指を丸めてお金を表すこともそこから生まれたのでしょうか?

なお、中国の通貨単位である「元」は「円」の正字「圓(中国語読み:げん)」の同音を当てたものであり、韓国・北朝鮮の「ウォン」も「円」の朝鮮語読みだそうで、東アジアでは各国において「円」が通貨の単位として採用されているのだそうです。


ブルーデージーの花

2011-02-15 | 
鉢植のブルーデージーがこの寒さに拘らず一輪咲きましたのでご紹介します。
通常この花は春(4~5月)と秋(10~11月)に咲きますが、自然のまま放置していて、この寒い時期に咲くのは非常に珍しいと思います。

ブルーデージーはキク科のフェリシア属の宿根草です。
南アフリカ原産で、日本には第二次大戦後渡来したようです。
別名を「フェリシア」、「瑠璃雛菊(るりひなぎく)」とも呼ばれています。

・寒空に咲いたブルーデージーです。うす青色の花がとてもきれいな花です


この花はブルーの花弁と中心の黄色のコントラストが美しく園芸用として人気のある植物です。
開花時期は4~11月で、夏の高温多湿時期には花がいったん止まり、秋に涼しくなると再び花を付けます。

・ブルーデージーはその名前の通り、青い色の花を咲かせるデージー(雛菊)です。


・先が紫色になり、開花が間近になった蕾です。


園芸用には草丈があまり高くならず30cmくらいになる品種や葉に美しい模様のはいるフイリブルーデージーなどがよく出回っているそうです。

熊野古道を歩く(その6)祓戸王子

2011-02-14 | 趣味

和歌山市の和歌山電鉄 貴志川線 伊太祁曾(いだきそ)駅からスタートした今回の”熊野古道”は、JR紀勢本線・海南駅までの12キロほどの道のりを歩き、昨日まで5回に亘ってご紹介してきました。
今日はこのシリーズの最終回として「祓戸王子」をご紹介します。

「熊野一の鳥居」跡
この三叉路は、熊野古道と近世熊野街道が交差するところで、ここが「熊野一の鳥居」跡です。ここからが祓戸王子への上り道となります。
現在は石碑しかありませんが、かつては熊野三山への入り口を示すため、この地に大鳥居がおかれていたようです。しかし、1549年(天文18年)に失われました。
「熊野一の鳥居」は熊野の聖地への入口であり、京から下ってきた都人は、その聖地に足を踏み入れた喜びを鳥居の下で噛み締めていたのではないかと言われています。

・この三叉路に「熊野一の鳥居」があったようです。


・「祓戸王子」への古道沿いには提灯による表示も見られました。


・古道の分岐地点には「祓戸王子」や他の王子の道しるべが立っていました。


・「祓戸王子」への上り道です。


・途中には数多くの石仏が建てられていました。


「祓戸王子跡」
祓戸王子跡は、菩提房王子から西へ進み、紀勢本線の線路の手前を南に折れて如来寺裏手斜面にある墓地の中を通り、頂上を越したところに碑があります。
地元の伝承によれば如来寺の隣地であったといわれ、1873年(明治6年)に村社に列格された当時は小さいながら社殿があったそうですが、1909年(明治 42年)に藤白神社に合祀され、跡地には碑が建てられたそうです。

・「祓戸王子」跡の石碑です。


今回の”熊野古道を歩く”はこれで終わります。次回は5月頃にJR紀勢本線海南駅に集合して藤代王子から歩くようです。
その時にはまたご紹介したいと思っています。


熊野古道を歩く(その5)菩提房王子

2011-02-13 | 趣味

昨日は、熊野古道シリーズを1日お休みして、滅多に見られない雪景色となった私の住宅地をご紹介しました。
今日は”熊野古道を歩く”シリーズに戻り、その5回目として「菩提房王子(ぼだいぼうおうじ)」をご紹介します。

海南市大野中にある「菩提房王子(ぼだいぼうおうじ)」は、松代王子から古道に戻り、春日橋で日方川を越えて蓮花寺を過ぎた辺りにあります。
ここに立てられている説明文によれば、『紀伊続風土記』には、「鳥居村界熊野古道に字ボダイといふあり、その廃跡ならむ」と記されており、早い時期にこの王子は退転したものと見られています。
現在は、倉庫の横に小さな石や石塔を置いて案内板を設置していました。

・これが菩提房王子跡です。


・菩提房王子跡から「日限地蔵浄土寺」へ進む熊野古道です。


「日限(ひぎり)地蔵浄土寺」
「日限地蔵浄土寺」は正式名を「時宗 仙臺山 浄土寺(じしゅう せんだいさん じょうどじ)」といい、地元では「ひぎりさん」とよばれてして親しまれているお寺です。
ご本尊は阿弥陀如来で、安産祈祷・腹帯祈願のお寺として信仰されているそうです。

・「日限地蔵浄土寺」の石段です。


「伝承遺跡供養塔
日限地蔵浄土寺の境内にある「伝承遺跡供養塔」です。
説明によれば、平安時代後期、幼少時代の鈴木三郎重家と亀井六郎清重の兄弟は牛若丸(後の源 義経)が熊野の往還に藤白の鈴木家に滞在した時、山野によく遊んだといわれています。
後に、源氏再興を期し、源 義経がしばしば藤白の地を訪れ、鈴木家兄弟と主従の契りを結び、後の屋島の戦いで熊野水軍を源氏方に引き入れ勝利に貢献したと伝えられています。

・中央の小さな供養塔が源義経で、右側が鈴木三郎重家、左側は亀井六郎清重の供養塔です。


時宗は、鎌倉時代末に踊り念仏で有名な一遍上人を基として開かれた宗派です。

・日限地蔵浄土寺の本堂です。


・境内の石像です。






熊取町の雪景色

2011-02-12 | 地元紹介

今日の”熊野古道を歩く”シリーズは1日お休みいただいて、昨日、熊取町では珍しく積雪がありましたので、我が家から眺めた住宅地内の雪景色をご紹介します。

今年は、日本海側では豪雪被害によって大変ご苦労されているようですが、私の住まいしている大阪府熊取町では雪どころか雨さえも降らない異常乾燥が1カ月以上も続いていました。
そうした中、昨日は西から流れてきた雪雲が、西日本の太平洋側に滅多に見られない積雪をもたらし、昨日のNHKの昼前のニュースでは、熊取町で8㎝の積雪と報じていました。

・枯れ木に白い花が咲いたような庭の植木です。


私の記憶している限り、このような降雪があったのは6年ぶりだと思います。

・6年前(2005年)の正月に積雪があり、3歳の孫が雪だるまを作った時の画像ですが、昨日の積雪はこの時以来だったように記憶しています。


・玄関から南東方面を撮影したご近所の画像です。


・これは東側の窓から撮影した住宅地内です。


・軽自動車の屋根には10㎝ほどの積雪がありました。


・東側に置いている菊鉢もこの通り、雪帽子を冠りました。


・2階の窓から北西方面を撮影しました。一面雪雲に覆われ、遠くは雪で霞んでいました。


豪雪地の皆さんには申し訳ないですが、昨日は滅多に見られない雪化粧を楽しませていただきました。
豪雪で被害を受けられた皆さんごめんなさい。



熊野古道を歩く(その4)松代王子

2011-02-11 | 趣味

”熊野古道を歩く”シリーズ4回目は「松代王子」をご紹介します。

34番目の王子「松代王子」は、昨日ご紹介した「松坂王子」から県道を南下して古道に入り、日方川沿いに進んで松代橋の傍らにある説明板と道標を手掛かりに、山道に200mほど分け入ったところにあります。

・「松代王子」へ続く熊野古道です。


「松代王子跡」
案内板によれば、「紀伊風土記」に次のような記述があるそうです。
「春日山の裾にあり、社廃す。公命ありて石を立て表章す」。この小さい祠の中に「松代王子」と刻んだ緑泥岩の石碑があります。これが「石を立て表章す」と記されているその石ですが、これは元々ここにあったものではなく春日山の西のふもと、古道沿いの民家の屋敷内にあったものが現在地に移されたといわれています。
この緑泥片岩の石碑は紀州藩の藩命で建てられたもので表面には「松代王子」の刻字があります。

・「松代王子」跡です。


・この石碑は春日神社境内に設置されている「松代王子」の祠です。


春日神社から「松代王子」へ行く途中に俳句の石碑がありました。
石碑の「年の緒や いく七回り 千代の春」の俳句は、海南が生んだ俳諧の祖、容藤軒一入子の句です。 
刻まれている説明によれば、名は石倉三左衛門といい、大野十番頭の一人で1589年に35歳で熊野紀伊長島の浅間に移った、と刻まれていました。


大塔宮(おおとうのみや)御逗留旧址)(南朝大塔宮遺跡)
ここには、太平記で有名な大塔宮護良(おおとうのみやもりなが)親王(後醍醐天皇の皇子)の熊野行きの伝説が残っています。
説明板によれば、
「元弘の乱」で、元弘元年(1331年)、笠置に続いて赤坂も落城し、大塔宮は布施屋より山東荘、熊野古道を通って熊野に向い、同年11月頃、海南の地に入りました。
この時、大塔宮の警護の任に当たったのがこの地の豪族である大野十番頭の面々でした。彼らは、護良(もりなが)親王を一時春日神社の社殿に隠しました。
その後、年が明けるまでこの地に逗留されたという伝説があるそうです。
このようなことから、現在に至るまで相殿三扉のうち一つは空位となっており、大塔宮を祀る社は「年越神社」と言われているそうです。

・大塔宮(おおとうのみや)御逗留旧址)(南朝大塔宮遺跡)です。


(参考)
元弘の乱は、1331年(元弘元年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動です。



熊野古道を歩く(その3)松坂王子

2011-02-10 | 趣味

”熊野古道を歩く”シリーズ、3回目の今日は和歌山県海南市の「松坂王子」から春日神社までをご紹介します。

「松坂王子跡」
「松坂王子」は熊野参詣の人々が遥拝し、休憩した社の跡で熊野古道33番目の王子です。現在、王子跡は且来(あっそ)八幡神社に合祀されているそうです。
ここに立てられている説明によれば、江戸時代以降には和歌山城下から紀三井寺内原黒江を経て藤白へ至る熊野街道が整備され36番目の王子である「祓戸王子社」以北の王子社は衰退して行きました。
「松坂王子」跡は熊野信仰と熊野参詣道、地域の歴史を考える上で貴重な文化財となっていると書かれていました。

・「松坂王子」跡です。


「熊野古道」
ここに立てられている説明には、
『熊野古道は熊野へ続く信仰の道で、平安の昔から熊野三山へ参拝するために造られた古い山道です。この山道は「熊野古道」としてその面影を今に残し、当時休憩や宿泊などに使われた神社・王子跡が今でも各所に見られます』と書かれていました。

・熊野古道はこの石畳の道から汐見峠を通り「松代王子」へと続きます。


「汐見峠」
汐見峠の名前は、古(いにしえ)の都人(みやこびと)が熊野への長い旅の途中で憧れの海を見て、目の前に広がる海原を見たとき、その大きさと風景の美しさの感動がそのまま「汐見峠」の名前の由来となっているそうです。
この祠に祀られているお地蔵様は、安政2年(1855年)の大地震の時、大津波で逃げ場を失った人々が「汐見峠」のお地蔵様の不思議な力に呼び上げられて救われたと伝えられていることから、以来「呼び上げ地蔵」と言われて信仰を集めてきたそうです。

・「呼び上げ地蔵」です。


・春日神社へと続く熊野古道です。


「春日神社」
春日神社は春日の森に鎮守しており、この森は標高43m、三波川変成岩(さんばがわへんせいがん)と呼ばれる結晶片岩から出来ています。
古くから鎮守の森として樹木を切ることもなく多くの人々によって守られてきた自然の森で、多くの貴重な動植物が残っているそうです。

・春日神社の鳥居です。


春日神社は、紀伊国神名帳に「正一位(しょういちい:位階の最高位)春日大神」と位置づけられている格式の高い神社で、聖武天皇から代々の祈願所として朝廷の厚い保護を受けていました。
元弘2年(1332)大塔宮護良親王が熊野へおしのびの時、当社へお立ち寄りになり、地元の豪族10人(大野十番頭)が親王を神殿にお隠しになり、今も 神殿の1つは空位であると言われています。
ご祭神は、「天押帯日子命(あめのおしたらしひこのみこと)」で古代大和豪族ワニ氏の祖にあたります。
また、元春日という神林よりご神意により吉方位を撰び、現在の地に移転鎮座したため「方位除け」の神様、「厄除け」の神様として崇拝されているようです。

・春日神社の神殿です。



熊野古道を歩く(その2)奈久智王子

2011-02-09 | 趣味

”熊野古道を歩く” シリーズ、2回目の今日は32番目の王子「奈久智王子」をご紹介します。
「奈久智王子」は昨日参拝した「伊太祁曾(いだきそ)神社」から1.3㎞ほどのところにあります。

「奈久智王子(なくちおうじ)社跡」
奈久智という呼び名の由来については、名草群(現和歌山市の一部と海南市の一部の古称)の各所に通じる道がこの付近に集中しており、そのために「名草の口」の意味で「名口」と呼ばれたと言われており、後鳥羽上皇の熊野詣でに随行した藤原定家は『御幸記』と云う日記に「遠路山々の道をしのいでなくちの王子に参る」と記しているそうです。

奈久智王子(なくちおうじ、那口王子とも)の跡地には2つの説があるようです。
一つは、『紀伊名所図会』が伝える跡地で、平緒王子から南に進み、和歌山電鉄貴志川線を越え、西側のミカン畑の中にある小祠、もう一つはここから更に南に進んで、県道と阪和自動車道を越えた薬勝寺地区の竹やぶの中にある小祠です。
私たちが立ち寄った小祠は前者のミカン畑の中にある祠(ほこら)です。
この「奈久智王子(なくちおうじ)社」は和歌山市内にある最後の王子社で、次の33番目の松坂王子は海南市になります。

・同好会のS氏です。


熊野古道の「九十九王子」とは、熊野古道沿いに在する神社のうち、主に12世紀から13世紀にかけて、貴族や貴人の熊野詣に際して、先達を務めた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社をいい、参詣者の守護が祈願されたもので、その分布は熊野古道紀『伊路コース・中辺路コース』の沿道に限られているそうです。
また王子は、参詣途上で儀礼を行う場所であり、儀礼の主たるものは奉幣(神に捧げるもの)と経供養(般若心経などを読経する)であったと言われています。

・農業用水路の蓋にも熊野古道の表示がありました。


・奈久智王子(なくちおうじ)社跡」から33番目の「松坂王子跡」へ続く古道案内標識です。周りには田園風景が広がっていました。


「四ツ石地蔵」
次の「松坂王子」との中間地付近に「四ツ石地蔵」がありました。
案内板によると、この「四ツ石地蔵」は、かつて多田にあった三上院千光寺(みかみのいんせんこうじ)の礎石を集めて地蔵尊を祀ったものだそうです。

このすぐ前の通りが熊野古道で、古代・中世に牟婁(むろ)湯行幸(ゆぎょうこう)や熊野三山参詣の道として開け、平安時代末には後白河上皇らによる熊野参詣が盛んに行われ「アリの熊野詣」と呼ばれるほどの賑わいを見せたと言われています。
また、この道は伝説や浄瑠璃で有名な小栗判官と照手姫の話に由来して、別名小栗街道とも呼ばれているそうです。

・地蔵尊の左右に2個ずつの礎石が置かれていました。