”熊野古道を歩く” シリーズ、2回目の今日は32番目の王子「奈久智王子」をご紹介します。
「奈久智王子」は昨日参拝した「伊太祁曾(いだきそ)神社」から1.3㎞ほどのところにあります。
「奈久智王子(なくちおうじ)社跡」
奈久智という呼び名の由来については、名草群(現和歌山市の一部と海南市の一部の古称)の各所に通じる道がこの付近に集中しており、そのために「名草の口」の意味で「名口」と呼ばれたと言われており、後鳥羽上皇の熊野詣でに随行した藤原定家は『御幸記』と云う日記に「遠路山々の道をしのいでなくちの王子に参る」と記しているそうです。
奈久智王子(なくちおうじ、那口王子とも)の跡地には2つの説があるようです。
一つは、『紀伊名所図会』が伝える跡地で、平緒王子から南に進み、和歌山電鉄貴志川線を越え、西側のミカン畑の中にある小祠、もう一つはここから更に南に進んで、県道と阪和自動車道を越えた薬勝寺地区の竹やぶの中にある小祠です。
私たちが立ち寄った小祠は前者のミカン畑の中にある祠(ほこら)です。
この「奈久智王子(なくちおうじ)社」は和歌山市内にある最後の王子社で、次の33番目の松坂王子は海南市になります。
・同好会のS氏です。
熊野古道の「九十九王子」とは、熊野古道沿いに在する神社のうち、主に12世紀から13世紀にかけて、貴族や貴人の熊野詣に際して、先達を務めた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社をいい、参詣者の守護が祈願されたもので、その分布は熊野古道紀『伊路コース・中辺路コース』の沿道に限られているそうです。
また王子は、参詣途上で儀礼を行う場所であり、儀礼の主たるものは奉幣(神に捧げるもの)と経供養(般若心経などを読経する)であったと言われています。
・農業用水路の蓋にも熊野古道の表示がありました。
・奈久智王子(なくちおうじ)社跡」から33番目の「松坂王子跡」へ続く古道案内標識です。周りには田園風景が広がっていました。
「四ツ石地蔵」
次の「松坂王子」との中間地付近に「四ツ石地蔵」がありました。
案内板によると、この「四ツ石地蔵」は、かつて多田にあった三上院千光寺(みかみのいんせんこうじ)の礎石を集めて地蔵尊を祀ったものだそうです。
このすぐ前の通りが熊野古道で、古代・中世に牟婁(むろ)湯行幸(ゆぎょうこう)や熊野三山参詣の道として開け、平安時代末には後白河上皇らによる熊野参詣が盛んに行われ「アリの熊野詣」と呼ばれるほどの賑わいを見せたと言われています。
また、この道は伝説や浄瑠璃で有名な小栗判官と照手姫の話に由来して、別名小栗街道とも呼ばれているそうです。
・地蔵尊の左右に2個ずつの礎石が置かれていました。