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らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

備中の聖人・山田方谷

2021-10-23 | 地元紹介

先日、読売新聞の5ページの3分の2の紙面を使ったS社の広告がありました。
タイトルは「山田方谷(やまだほうこく)の精神に学ぶ」と題して、”至誠惻怛”からSDGsを実現するというものです。
この広告に山田方谷の肖像画が載っていたので、思わす広告を読んでしまいました。
というのも、山田方谷は私の故郷、岡山が生んだ幕末、江戸後期の偉人であり、”備中の聖人”と呼ばれていたことを知っていたからです。
そこで今日は山田方谷についてご紹介します。

・これが新聞広告の一部です。


「備中の聖人・山田方谷(1805年~1877年)」
山田方谷(ほうこく)は幕末・明治の政治家、教育者で、文化2年(1805年)備中松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)に生まれました。
5歳で新見藩(現岡山県)の丸川松隠に儒学を学び、神童と称されるほど優秀だったそうです。
文政8年(1825年)松山藩士となり、同12年(1829年)には藩校有終館会頭(教頭)、その後、京都や江戸に遊学し、天保7年(1836年)の帰藩後は有終館学頭(校長)となりました。

また、藩主・板倉勝静(いたくらかつきよ)の命を受け、質素倹約や産業振興などの藩政改革を行い、多額の借財を短期間で返済して藩の窮状を救うなどの功績を挙げたのです。
その偉大な足跡から”備中の聖人”と呼ばれました。

その後、勝静(かつきよ)が老中首座として幕府の政治を担当するとその顧問として活躍します。
大政奉還から続く戊辰戦争では、勝静は老中として大坂城の将軍・徳川慶喜の元、幕府側に就いて官軍と戦うこととなりました。
これに対して朝廷は岡山藩などの周辺の大名に、松山藩を朝敵として討伐するよう命じたのです。

突然の出来事に対して、松山の人々は動揺しました。
山田方谷は、主君勝静に従って官軍と戦うよりも松山の領民を救うことを決断し、勝静を隠居させて新しい藩主を立てることと、松山城の開城を朝廷に伝えました。

明治元年(1868年)松山城を無血開城させた後は、長瀬塾(岡山県高梁市)や刑部塾(大佐町)を開いて子弟の教育に専念しました。
幕末から明治にかけて活躍した三島中洲、河井継之助らを育て、明治10年(1877年)に没しています。

・備中松山城です。標高430mの臥牛山(がぎゅうざん)山頂に築かれており、現存する山城では最も高所にそびえるお城です。


「山田方谷の理財論と擬対策」
方谷の「理財論」と「擬対策」は後に、弟子の三島中洲の「義利合一論(ぎりごういつろん)」へと発展し、三島が拓いた私塾である二松学舎を通して渋沢栄一を初めとする関係者たちに伝えられ、彼らを通して日本の財界に深い影響を与えることになりました。

更に、至誠惻怛(しせいそくだつ)という真心と慈愛の精神を説いたことでも知られています。
例えば、他人を小人呼ばわりした三島中洲に「世に小人無し。一切、衆生、みな愛すべし。」と戒めたと言われています。
この後、至誠惻怛の精神は福西志計子(ふくにししげこ=教育者)らを通して石井十次(岡山孤児院を創設)、留岡幸助(日本の社会福祉の先駆者)、山室軍平(宗教家で説教者)らに影響を与えていき、日本の福祉の歴史においても大きな影響を与えました。

「参考」
・義利合一論(ぎりごういつろん)とは、「義」と「利」を両立させようという考え方です。
 義は会社でいうビジョンと理念のこと、つまり大義のことで、利は利益のことを言います。
 日本資本主義の父と言われた渋沢栄一は「論語と算盤」と三島中洲が唱えた「義利合一」をモットーにしていたということです。

・理財論とは、簡単に言えば、目先の小さなその場しのぎの「利」を追うのではなく、綱紀や法令を整えるという「義」を明らかにし、それを基準にして物事を分別すれば自ずと本当の「利」が手に入る、という考え方です。

・擬対策とは、方谷の政治改革におけるキーワードです。
 賄賂政治がまかり通り、武士たちの度を超えた贅沢が財政を圧迫している要因と考えた方谷は、清廉な政治が必要であることを説き、支配層である武士が民を大切にすることが政治の要諦であるということを信念として改革を推進したという策です。