昨日ご紹介した「日本最古のためいけ狭山池」の南東約1㎞、南海電鉄・高野線金剛駅からは徒歩10分くらいのところに狭山神社が鎮座しています。
大阪狭山市を訪れたついでにお参りしてきました。
「狭山神社」
ご由緒によれば、
狭山神社は、祭神・天照大神、素盞鳴命(すさのおのみこと)を祀り、狭山の郷の鎮守として崇敬されてきた社格の高い式内社(平安時代の初め、醍醐天皇の命により編纂された「延喜式」神名帳に記載された神社)である。
創建は狭山池の築造(616年)以前といわれるが、南北朝の動乱により社殿が焼けたために室町時代に再建されたものと伝えられる。
と記されていました。
・狭山神社の参道です。
「本殿」
現在の本殿は南北朝の時代に兵火にあい、室町時代(足利時代の中頃)の再建と伝えられるケヤキ材の住吉造の本殿だそうです。
神社の森から出土した唐草瓦と巴瓦を見ると、唐草瓦は藤原時代後期と推され、巴瓦は典型的な鎌倉初期の三巴文を現した行基葺の形式で、この瓦の戴ってあった建築物はかなり壮大なものであった事が想像でき、恐らく兵火のために灰燼に帰した名残の古瓦であろうと思われる。と記されています。
境内には本殿の外、摂社として狭山堤神社、稲荷神社、戎神社と末社五社が鎮座しています。
・狭山神社の本殿と大阪みどりの百選に選定されている背後の森です。
「狭山堤神社」
狭山神社の境内に合祀されてある狭山堤神社は、狭山池の守護神として奉祀されましたが、合祀前は現在の狭山遊園地内の池に面した松林の中に鎮座していたそうです。
狭山堤の神は狭山池築造に功績を遺した印色入日子命(いにしきいりひこのみこと: 第11代垂仁天皇の皇子)を祭神とし、狭山神社と同じく延喜式内社です。
「手水の起源」
手水の起源は、神道に由来し、聖域を訪れる際に周辺に流れる河川の水や湧き水で身を清めていたことに始まります。
その名残は、伊勢神宮の御手洗場などで見られますが、しかし、時代が変化するにつれ、河川の水質が汚染され、清流や湧き水の確保が困難になったことから、それに代わる施設として手水舎(ちょうずや)が併設されるようになっていったそうです。
・狭山神社の手水舎の龍です。