日本人はフランス語を誤解している!・・・と思うけどなあ・・・
フランス語系人のBO-YA-KI
アマジーグ一時停止? だけど
(このエントリーから続きます)
アマジーグのアルジェリアツアーが「延期」になってしまってました。(Jeune Afriqueのサイトをご覧ください) 前のエントリーは古い情報で書いてしまってごめんなさい。
アマジーグは、呼び屋さんのMehdi Laafifiからもうすぐ説明があるだろうけど、運営上の問題である、コンサートはできるかぎり早く開きたい、と言ってます。
ついでですが彼は、ニューアルバムMarchez noirにはヨーロッパ、アメリカ、そして日本から配給に意欲をみせる人たちがいる、と言ってるようです。
たぶん、しばらく待っていたら日本盤が出るのでしょう。楽しみですね。
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ポルトガル語とフランス語
(二つ前のエントリーから続きます)
これもまたなかなかデリケートな議論なんですが(つまり、ポルトガル語教育の人に業界荒らしと思われそうだし、フランス語業界の人には転職を促しているみたいにとられかねない)、いつも思っていること、言っておきます。
フランス語とポルトガル語ってたいへん近い。ほんとに近い。
フランス語がある程度できる人は、ポルトガル語は少し集中して勉強したらすぐ使えるようになるはずです。
小松市国際交流協会でみつけた紙に:
Fundacao de Intercambio internacional de Ishikawa oferece dois tipos de consultas gratuitas
って書いてありましたがこれは:
La Fondation de l'interchange(→echange) international de Ishikawa offre deux types de consultations gratuites
ってことでしょう? フランス語既習者には楽勝で分かっちゃうじゃないですか。
二つ前のエントリーのAs maravilhas do Vietnan nos mostra a importancia da vidaの方は文の構造が正しく把握できているか自信がもてませんが、少し勉強すればたぶんフランス語=ポルトガル語の移し替えの規則性みたいなものがもっとよく見えて、さらに分かるようになるんじゃないかと思われます。
日本語と韓国語は近いから日本語話者には韓国語は学びやすいという話、英語とフランス語は近いから英語既習者にはフランス語は学びやすい、という話はかなり日本でも意識され、共有され、活用される認識となっていると思います。
しかしフランス語とポルトガル語が近いということをはっきり意識して、フランス語既習者からのポルトガル語へのアクセスしやすさを何かの形で利用する、という発想はこれまでなかったように思うのです。
いわゆる先進国がインド=ヨーロッパ語族の言語優勢の国ばかりなのであまりこういうことが問題にならず、こういう観点から世界の言語の実勢を眺めるという発想自体が世界的関心にはならない(というのは実は言い過ぎですが)のだと思います。だからそれだけに日本で発達させてもいい発想だと思います。
いっぺん日本人の目から諸言語間の差異の大きさをありのままに眺めてみたら、なんか新しい世界が見えるように思うんですが。
・・・ただ問題は言語学習の社会的側面です。
たとえば日本でフランス語を学ぶということとロシア語を学ぶということは、社会的意味が違います(このエントリーをご参照ください)。当然、フランス語をよく勉強してできるようになった人には、フランス語を一生懸命学ぶ強い動機づけがあったわけで、それは日本の人がポルトガル語を学ぼうとするときの動機づけとはかなり質の違うものですから。
とりあえずわたし、フランス語ができる人向けのポルトガル語速成学習のプログラムというのを、考えてみたいです。
暇があったらの話ですけど・・・
***
小松からの帰りの車の中でラシード・タハ聞いてたら、学生さんのひとりが興味を持ったみたいなのでカセット(この車は大学のでカセットしかだめでした)あげました。彼女はおねえさんがアラビア語やってるんだそうです。
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民法は・・・
12月6日の日経に「国民にわかる民法を」という記事が載ってました。
「民法を一般の国民が読んで分かる文書にしなければならない」というのはまことにもっともなことなので、関係者各位にはよろしくお願いしたいと思います。
ところでこの記事には現行民法に使われていることばの難しさについて、以下のように書かれています:
「なぜ今の民法が難解なのか。学者の間では議論済みのようで、①積み重ねた判例や学説を知らないと意味が分からない条文がある②難しい用語が、定義を明記しないまま使われている③日常使うのと別の意味を持つ言葉がある④前提となる原則を明文化せず、その原則を適用しない例外だけを定めた条文が多い――などがいわれる」
以下、法律には全くのしろうとですが、あえて書いてみます。
わたしが思うのは、たとえ一般読者向けの新聞記事であれ、民法の言語表現をめぐる議論なら「ボワソナード」や「フランス語」のこと、そしてせめて「ドイツ語」くらいには言及してもよいのではないか、ということです。つまりフランス語やドイツ語、フランス法やドイツ法と照らし合わせてみれば、日本の現行法の難解さの原因が少しでも見える、ということはないだろうかと思うのです。(たとえばウィキペディアの民法とかボアソナードとかの項を参照してください)
ボワソナードというのは、日本の大恩人ではないですか(まあお雇い外人の常として給料はものすごくたくさんもらってただろうけど)。フランス語系人としては、彼の業績がもっと日本の多くの人に知ってもらってもいい、と思ってます。
日本の法律体系が明治以来、外国の学者の助けを借り、外国の法体系を参考にして作られたものであることは、みんな知っていることです。
日本の現行法の言語表現に外国語的発想が入っていたところで、別に恥ずかしいことではないようにわたしには思えるのですが。
あるいは、あまりフランス語云々と言いだすと、たとえばこの話に似たような誤訳が疑われる例がぼろぼろでてきて、日本の法の権威が失われることが恐れられているとか?
その後の判例、解釈等の蓄積の方が力があるから、最初の趣旨がどうだったかという話をやるとかえってややこしくなっちゃうのでしょうか?
あるいはこういう話をすると、まじでやばいんでしょうか?
「民法を一般の国民が読んで分かる文書にしなければならない」というのはまことにもっともなことなので、関係者各位にはよろしくお願いしたいと思います。
ところでこの記事には現行民法に使われていることばの難しさについて、以下のように書かれています:
「なぜ今の民法が難解なのか。学者の間では議論済みのようで、①積み重ねた判例や学説を知らないと意味が分からない条文がある②難しい用語が、定義を明記しないまま使われている③日常使うのと別の意味を持つ言葉がある④前提となる原則を明文化せず、その原則を適用しない例外だけを定めた条文が多い――などがいわれる」
以下、法律には全くのしろうとですが、あえて書いてみます。
わたしが思うのは、たとえ一般読者向けの新聞記事であれ、民法の言語表現をめぐる議論なら「ボワソナード」や「フランス語」のこと、そしてせめて「ドイツ語」くらいには言及してもよいのではないか、ということです。つまりフランス語やドイツ語、フランス法やドイツ法と照らし合わせてみれば、日本の現行法の難解さの原因が少しでも見える、ということはないだろうかと思うのです。(たとえばウィキペディアの民法とかボアソナードとかの項を参照してください)
ボワソナードというのは、日本の大恩人ではないですか(まあお雇い外人の常として給料はものすごくたくさんもらってただろうけど)。フランス語系人としては、彼の業績がもっと日本の多くの人に知ってもらってもいい、と思ってます。
日本の法律体系が明治以来、外国の学者の助けを借り、外国の法体系を参考にして作られたものであることは、みんな知っていることです。
日本の現行法の言語表現に外国語的発想が入っていたところで、別に恥ずかしいことではないようにわたしには思えるのですが。
あるいは、あまりフランス語云々と言いだすと、たとえばこの話に似たような誤訳が疑われる例がぼろぼろでてきて、日本の法の権威が失われることが恐れられているとか?
その後の判例、解釈等の蓄積の方が力があるから、最初の趣旨がどうだったかという話をやるとかえってややこしくなっちゃうのでしょうか?
あるいはこういう話をすると、まじでやばいんでしょうか?
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二言語併記
この日曜日に、小松市国際交流協会による在住外国人生徒学習支援のために、大学生ボランティアを金沢から送迎するドライバーの仕事をしてきました。これからもときどきこの仕事することになるでしょう。
この日は二人のブラジル人中学生が英語を教わってました。その間、わたし居眠りしてました。zzz
置いてあった小松市国際交流協会の広報誌を見ていると、No.52から見出しのところだけですが二言語併記になってます。日本語と並んでいるのはポルトガル語です(「地域と共に!」がJUNTO A COMUNIDADEと書いてあるのがお分かりでしょうか)。講演会のタイトル「活力みなぎるベトナムの魅力」がAs maravilhas do Vietnan nos mostra a importancia da vidaとなってます。
そうそう、こうでなくっちゃね。
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充実アマジーグ(その3)
(このエントリーから続きます)
音作りの統括に「その道のプロ」を使わないアマジーグの姿勢というのは、常にアルジェリアの民衆とともにありたいという彼の意志のひとつのあらわれのように思われます。
それは彼の父カテブ・ヤシーヌの生涯の仕事、つまり「アルジェリア国民の創生」の仕事を継ぐものなのだと思います。
アマジーグはすでに2年前、父ヤシーヌの戯曲『モハメド、鞄をとれ』Mohamed, prends ta valise(これは古代から現代にいたるアルジェリアの歴史をたどって総括したような内容の作品です)に曲をつける仕事をして実際に上演しています。ただその録画、録音は公刊されていないようです。お母さんのゼバイダさんには、これなんとか発表してくださいよ、と申し上げてあるのですが。日本人もぜひ聞きたいのですから(補足。もっともグンブリがベベンベン、と入るくらいのものらしいですけど。でもわたし、それひょっとしたら平家琵琶のノリにちかいのでは、という気がしてます。叙事詩ですからね)。
カテブ・ヤシーヌの命日は1989年10月28日ですから、このアルバムはその二十回忌の月に発表されています。またBonjourとL'Africainの二曲のテキストは、ヤシーヌのものです。
そしてアマジーグは発売日をわざわざ10月17日としました。1961年に夜間外出禁止令に抗議のデモを行ったアルジェリア人労働者がフランス当局の弾圧で多数虐殺された日です。
本来ならこのアルバムは全歌詞を熟読してその意義をお伝えしたいところですが、残念ながら今その時間がありません。そのうち、かならず。
現在アマジーグはアルジェリア・ツアー中です。あす6日は、アマジーグの生まれた町、首都アルジェでの公演の日です。
[追記] ・・・と書いたのですが、直前でアルジェリアツアーは延期になってしまいました。次のエントリーをご覧ください。
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よつばと9
『よつばと』第9巻が出てます。
少しこれまでと感じが変わったかもしれません。
あ、ああ。それだけよつばが成長したんですね・・・
クマのぬいぐるみを可愛がる、そういう歳になったんです。
でっかいジュラルミンだって? よつばちゃん、それは・・・
とーちゃんと、ジャンボと、やんだ、独身男三人がやっと独身男三人でする話をしてます。
つまり、女の子の話を。
気球と、扇風機付きパラグライダーという、今夏オルレアンでわたしが見たものがなぜか出てきてます。
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お江戸出現
もう12月です。
師走などと申しまして、この月ばかりは先生も走るというんですが、わたしはいつも走ってますから関係なしです。
今月の13日にも早稲田のこのイベントで司会・通訳をさせていただきますが、来年は1月30日に花のお江戸に参りまして「音楽夜噺」でお話をさせていただきます。
タイトルは「『ライの王様』はダテじゃない~ハレドの軌跡」というものです。
そのご案内が出ておりました。ここをご覧下さい。
ハレドというと80年代後半からずっとフォローしていた方もたくさんおられると思います。わたくしがメインでお話をさせていただくというのはかなり厚かましい気がいたします。
でも最近のハレドの活躍から過去を振り返るという趣向ですから、頑張れば意義のあるお話にできるかもしれません。
関口さん、真保さん、よろしくお願いいたします。
みなさま、拙いお話(お噺)ですが、ぜひ聞きにいらしてください。お待ちしております。
師走などと申しまして、この月ばかりは先生も走るというんですが、わたしはいつも走ってますから関係なしです。
今月の13日にも早稲田のこのイベントで司会・通訳をさせていただきますが、来年は1月30日に花のお江戸に参りまして「音楽夜噺」でお話をさせていただきます。
タイトルは「『ライの王様』はダテじゃない~ハレドの軌跡」というものです。
そのご案内が出ておりました。ここをご覧下さい。
ハレドというと80年代後半からずっとフォローしていた方もたくさんおられると思います。わたくしがメインでお話をさせていただくというのはかなり厚かましい気がいたします。
でも最近のハレドの活躍から過去を振り返るという趣向ですから、頑張れば意義のあるお話にできるかもしれません。
関口さん、真保さん、よろしくお願いいたします。
みなさま、拙いお話(お噺)ですが、ぜひ聞きにいらしてください。お待ちしております。
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