べっく


 さてこのジャズアンドヘリティッジ、「じいさんばあさんの客が多いなあ」というのが最初の印象。
 アメリカは初めてなので、当然こういうフェスも初めて。
 最近テレビで放映されていた1969年のウッドストック・フェスティバルのことを連想しながら会場をさまよいました。

 てことで、昨今ではべっくというとロウファイの方かと思いますが、フェス初日の午後メインステージに出てきたのはギターの大御所ジェフ・ベック。The Great Jeff Beckとアナウンスされてました。

 彼は少し前に金沢公演やったんですがねー。わたしはいいカッコして見に行かなかったです。金沢みたいなところで気合いの入った演奏してくれるかなあという気もしたし。

 ということで、このステージが生のジェフ・ベック初体験でした。

 相変わらず服の趣味が悪い。この日もわけのわからん青いしましまのちゃんちゃんこみたいな服。
 でも、相変わらず超うまい。この人は永遠のギター青年、でいい。

 Led Boots。この曲は1976年発表だから、ベックは35年弾き続けてることになりますね。実はこの曲、You know what I meanと並んで、わたしの鼻歌レパートリーのひとつなんです。
 あとこの時期の曲で、タイトルはたしかThelonius、というのも。

 A Day in the Lifeなんてビートルズナンバーもやってくれちゃってます。
 昔からベックって、自分が気に入った曲ならなんでも弾いてしまう人だったです。ロッド・ステュワートとやっていたころ突然『恋はみずいろ』L'amour est bleuなんぞを弾き出してロッドを唖然とさせたなんて話もありました。今となってはこういうの、フェスの主催者にとってはやりやすいですね。「今日の客は爺婆主体だから、昔の曲で喜ばせてやっちゃあいただけやせんか」って頼みやすいし。

 Little Wing。ジミヘンの曲をベックがやるのも爺婆の耳の中でエレクトリックギターの二大巨頭がダブって聞こえて、受けるのかな(この曲だけギター持ち替えた)。

 スライ&ザ・ファミリー・ストーンの I wanna take you higherなんてのもやりましたなあ。ちなみにこの曲には今をときめくトロンボーン・ショーティがゲスト出演。

 こういう数々の懐かしのナンバー、ウッドストック・フェスなんか聴きに行った人は涙ぽろぽろ、なんでしょうね。1969年のウッドストックに20歳で行った人は今年で62歳になる勘定です。そのくらいの歳の人、会場にごろごろいました。
 でもウッドストックにはかれらより上の世代はおらず、若者「しか」いなかった。30歳超えたらもうおしまい。いーじゅーこいたちゃんじー。考えてみりゃ、これはきわめて異様なこと。当時はこれが当然みたいな感覚だったけど、今じゃ考えられない。

 日本もアメリカも、若者は団塊世代の爺婆パワーに圧倒されちゃってますなあ。

[訂正]  すみません、アルバムWired最初の曲はLed Bootsというのでした。Wiredという曲だと勘違いしてました。訂正しておきました。11.05.31.
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Jazz & Heritage Festival


このエントリーから続きます)

 鈴木先生追悼エントリーはこのくらいにして、また音楽の話にいたします。

 ニューオルリンズへの旅の主たる目的は「ジャズ・アンド・ヘリティッジ・フェスティバル」を聴きにいくことでした。
 できれば、ルイジアナの黒人フランコフォン・コミュニティについて調べる足掛かりを得たいなと思ってましたが、こっちはさすがに短期間では無理でしたね。本は買ってきましたが。

 いうまでもなく――と言っていいんだろうか?――このフェスは「ジャズ・フェスティバル」としてスタートしたのですが、かなり早い時期――1976年――から既に「ジャズ」一枚看板ではなく「&ヘリティッジ」と付けるようになってます(ヴィンテージ・ポスター展示があったのでそのことが分かりました)。
 フェスの会場はたくさんのステージ、テントがありましたが、「ジャズ」のステージは会場の一番隅っこに押し込まれ肩身の狭い思いをしていました。

 ・・・アドルノが噛みついていたのは、そのジャズだったな。こんなところに噛みつかれても、もうあんまし痛くないよ。

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わたしは


 それではわたしに関してはどうかというと、たぶん「『パルムの僧院』って、そもそも何か?」みたいなことが頭にあるかなと思います。自分のやっている究極の目標、こだわりがあまりはっきり表現できないというのは変なものですが。
 このことが『ラミエル』や『二人の男』の問題意識と呼応するところがあるのかどうかは、セルジュの仕事が完全に表に出ないと分からないです。

 『パルム』というのはバルザックの言うとおり、各章に崇高が炸裂する、素晴らしい作品だと思います。でもわたしは、第一部は完璧に分かると思うのですが、第二部が何なのか分かりません。

 ここでこのブログの読者の方々に分かっていただけそうな言い方を考えたのですが・・・
 こんな風に言えるかもしれません。そもそも『パルム』はいちおう「小説」なのですが――たしか池澤夏樹は「娯楽小説の原形」とか規定してました――、スタンダールとしては『パルム』を書きながら、広い意味(スタンダール的意味)での「感覚」に導かれ、何かの観念の糸を必死でたぐっているのであって、それがたまたま小説として現れて、それがまた小説としてきわめて面白くなった、にすぎない、ということではないかと。
 第一部に関してはこれだと思うのですが、それでは第二部は? ファブリスはクレリアを愛することで、「何」をしているのか? 言い換えればスタンダールは「愛すること」の本質をどこに置いているのか?ということだと思うけど、その問いのたて方でいいのか?

 そもそも1997年にはこれを考えるつもりでフランスに行ったのでした。授業はベルチエ先生のに出るだけで。
 でも帰国の前になって「だめだ、これはもう一年要る」と気づいてしまいました。そんなことは大学在職中はできるわけもないので、もし天が寛大でsi le ciel est clementわたしに退職後いくらかの寿命と、思考を続けられる頭と、生活を支えられるお金と環境を与えるならば再び取り上げよう、ということにしました。そうしか仕方がないです。Si le ciel est clement.

 それで、代わりに「ライ」を日本に持って帰ってきたわけです。これはこれで日本に非常に貢献しているはずです。

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