日本人はフランス語を誤解している!・・・と思うけどなあ・・・
フランス語系人のBO-YA-KI
渇望の対象、独占の対象
2.それでその次に出てきたのはXavier Northさん(「闘うフランス語」に「サビエル・ノス」というとんでもない読みで載せてあった例の人です・・・ フランス語というのは綴りの読み方に、面倒ではあるけれども規則・法則がしっかりとあるので、この名前は「グザヴィエ・ノルト」としか読みようがないのです。朝日新聞のパリ支局ともあろうものがまさかそれを知らないわけもないでしょう。とすると、なんなんだろう?・・・ (^_^;) )でしたが、この人は疲れていたのか、なんだか元気がなかった。
それはとにかく「フランス文化コミュニケーション省フランス語およびフランス諸言語代表委員」(とでも訳するのかな?)Delegue general a la langue francaise et aux langues de France, Ministere francais de la Culture et de la Communicationという肩書きの彼は、「フランス語の国際的地位:ひとつの渇望の歴史」Le statut international du francais : histoire d'un desir という話をしてました。
英語が支配的言語となった今日、フランス語がいくらかでも国際的地位を守ろうとすること自体が世界から尊大な態度ととられることは十分承知した上で、それでもフランス語は中国など急成長地域で学習者が増えている言語であり、世界人口の1%くらいにしか共有されていない割には多くの国・地域に広がりを持つ言語、いろいろな意味で「撒き散らされた言語」langue dissemineeであるということ、フランス語が多くの異文化に属する人々を惹き付ける渇望の対象でありつづけているということにその存在理由を見いだす、というような話だったと思います。
アンドレ・マキーヌ、ジュリアン・グリーンなどなど、よその言語文化の中に生まれながらフランス語による知的活動を選んだ作家は数多いが、その逆、フランス語を捨てて他の言語による創作を選んだ人は自分の知る限り存在しない、とかいうことも言ってました。ははなるほど、そうかもしれません。それってなんででしょうね?・・・
しかしこういう話って、フランス人として、しかも政府内のフランス語擁護、振興を担当する高官としてのタテマエ論として当然でてくるものなんでしょうが、結局あんまり言ってもしようがないような気がします。多くの人の「渇望(欲望?)」の対象であるってことだって、逆に言うとそれを渇望するに至らない人にとっては本質的に意味がないということの証明にもなってしまうわけでしょう? 愛というのは、愛の対象の個性、特殊性に関わるもののはずだからです。
フランス語の響きが好き、とかその論理的堅牢さがたまらなくいい、とかいう理由でフランス語をその個性によって愛好する人はそれでいいでしょう。
でもわたしにとっては、フランス語はひとつの普遍、世界への不可避の通路です。だからこそずいぶん必死になって「他人に向かって」その普及、振興を唱えるのです。
英語が世界全体への通路ではない、というのはわたしにとっても意外な発見でした。それはアメリカ合衆国がマーケットとしてあまりに巨大であまりに魅力的すぎ、文化享受者の嗜好をコントロールしてこれを独占しようという誘惑に勝てる者がいないからですし、またアングロ=サクソン的な、ある種排他的と呼びうる対人感覚が持っている弱点、盲点(これ自体が多くの人々の盲点に入ってしまっているわけですが)は他のモデルで補わなければならないはずだからです。
日本はアメリカでもイギリスでもないので、それはできないことはないと思いたいところです。もっとも日本のマーケットも大きいので、独占の対象とされてしまうことが避けられないのですが。
○ここはずいぶん難しいことを言おうとしてしまいました。わたし自身の発表に関するエントリーのところでもう少しご説明いたします。06.05.04.
それはとにかく「フランス文化コミュニケーション省フランス語およびフランス諸言語代表委員」(とでも訳するのかな?)Delegue general a la langue francaise et aux langues de France, Ministere francais de la Culture et de la Communicationという肩書きの彼は、「フランス語の国際的地位:ひとつの渇望の歴史」Le statut international du francais : histoire d'un desir という話をしてました。
英語が支配的言語となった今日、フランス語がいくらかでも国際的地位を守ろうとすること自体が世界から尊大な態度ととられることは十分承知した上で、それでもフランス語は中国など急成長地域で学習者が増えている言語であり、世界人口の1%くらいにしか共有されていない割には多くの国・地域に広がりを持つ言語、いろいろな意味で「撒き散らされた言語」langue dissemineeであるということ、フランス語が多くの異文化に属する人々を惹き付ける渇望の対象でありつづけているということにその存在理由を見いだす、というような話だったと思います。
アンドレ・マキーヌ、ジュリアン・グリーンなどなど、よその言語文化の中に生まれながらフランス語による知的活動を選んだ作家は数多いが、その逆、フランス語を捨てて他の言語による創作を選んだ人は自分の知る限り存在しない、とかいうことも言ってました。ははなるほど、そうかもしれません。それってなんででしょうね?・・・
しかしこういう話って、フランス人として、しかも政府内のフランス語擁護、振興を担当する高官としてのタテマエ論として当然でてくるものなんでしょうが、結局あんまり言ってもしようがないような気がします。多くの人の「渇望(欲望?)」の対象であるってことだって、逆に言うとそれを渇望するに至らない人にとっては本質的に意味がないということの証明にもなってしまうわけでしょう? 愛というのは、愛の対象の個性、特殊性に関わるもののはずだからです。
フランス語の響きが好き、とかその論理的堅牢さがたまらなくいい、とかいう理由でフランス語をその個性によって愛好する人はそれでいいでしょう。
でもわたしにとっては、フランス語はひとつの普遍、世界への不可避の通路です。だからこそずいぶん必死になって「他人に向かって」その普及、振興を唱えるのです。
英語が世界全体への通路ではない、というのはわたしにとっても意外な発見でした。それはアメリカ合衆国がマーケットとしてあまりに巨大であまりに魅力的すぎ、文化享受者の嗜好をコントロールしてこれを独占しようという誘惑に勝てる者がいないからですし、またアングロ=サクソン的な、ある種排他的と呼びうる対人感覚が持っている弱点、盲点(これ自体が多くの人々の盲点に入ってしまっているわけですが)は他のモデルで補わなければならないはずだからです。
日本はアメリカでもイギリスでもないので、それはできないことはないと思いたいところです。もっとも日本のマーケットも大きいので、独占の対象とされてしまうことが避けられないのですが。
○ここはずいぶん難しいことを言おうとしてしまいました。わたし自身の発表に関するエントリーのところでもう少しご説明いたします。06.05.04.
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フランスは尊大であれっ!て思うのは駄目でしょうか!?だからフランスという気がするのですが・・・(^^)
自分に不利益がふりかかってさえこなければ問題ないと思うのは自分勝手ですか!?^^
このあたり「フランス」というものの核心に関わる大事なことですが、証明ができることでもないので、わたしの個人的印象、考えであることをお断りしたうえで、こんな風に言えないかな、と思うことを書いてみます。
フランス(人)は、尊大に出られるところでは本当に尊大に、勝手にやります。 (^_^;) これにはBabさんもご経験がおありかなと拝察します。
現状で、言語の問題でフランスの「arrogance」(という言葉をノルト氏もはっきり使っていました)というようなことが世界で声高に取りざたされるのを彼らが避けたいと思っているということは、あきらかにそこに不利益があると考えているのだと思います。
その不利益とは、結局世界で孤立して滑稽 ridicule になることだと思います。
米国主導の世界秩序には、EUを対峙させて必死に抵抗しているフランスですが、米国とグローバリゼーションを完全に無視して現世界に生きのこれるなどとはこれっぽっちも思っていないでしょう。特に指導者層の頭には政治的リアリズムが徹底していると思います。このへんも、変にフランスを理想主義的な国と見てしまっているという点で日本側に誤解があると思います。
話は変わりますが、フランスで少し暮らしてみて感づいたのは、日常生活の中でのギャグで関西風の笑いの取り方、つまり「自分がアホになってみせる」というのが通用しない、ということでした。実際にアホなのも、アホになってみせるのも、どちらも ridicule に見えるという点で彼らには同じことに見えるみたいなんですね。
「外見で格好をつける」というのは、日本では否定的に評価される言い方のように思います。この国はひねくれていて、質実剛健、醜のますらおとか自己犠牲、さらには自己否定みたいなことを精神的に高く評価する傾向があるんですね。わたし自身フランスのことを勉強するまで、こういうのがかなり倒錯した心理だということを意識しませんでした。
問題は、世界の大多数の人々はフランス型の感じ方をする、ということなんでしょうね。
日本に真の友達ができない、というのはそのあたりが分かっていないことに遠因があるように思うんです。
さて本題に戻りますが、尊大を貫いて現世界で孤立し、格好悪い笑い者になってしまっては、もはやフランスも二等国、三等国(嫌な言い方ですが)に成り下がってしまう。ついてくる国がないので世界に影響力が及ぼせなくなってしまうからです。
フランスが「文化」にやたらこだわって、骨身を削ってこれを保護するのも、この領域において米国と対等、あるいは凌駕しうるからです。世界がそれを見て「さすがフランス」と一目おき、アメリカの世界支配に閉口している連中を中心にフランスにシンパシーを感じる層(文化ですから、どこの国でも上層部になりますね)を各国に持ち、政治的にも存在感を保つ、というのがフランスの基本戦略だと思うのです。
だから文化を守る上で、フランスは多少の滑稽は甘受するでしょう。「殉教者」視してもらえますから。
しかし完全に米国から見捨てられ、孤立するのは身の破滅です。他の国も「フランスは偉いかもしれないけど、もうやり過ぎで格好わるいし、こっちもフランスに地獄までつき合う気はない。申し訳ないけど米国に付くよ」ということになる。
今の世の中、どこの国も結局米国に従わないわけにはいかないのです。これはフランスも、日本も、他の全ての国も同じことです。フランスだけ別世界にいるわけではないのです。
さきほど9.11事件の関連で、ムサウイ被告に終身刑判決が出ました。彼はモロッコ系ながられっきとした「フランス人」です。今の世の中、よくよく見るとアメリカにとって一番の敵対国は北朝鮮でもイランでもなくて、フランスなのかもしれないです。ドイツと共にその身中にたくさんのテロリストとその予備軍を抱え込んだ存在として。
だから政治的にはフランスは細心の注意を払っていかなければならない時代です。シラクじゃ心もとないですね。思えばミッテランは悪いやつだったかもしれないけど、老獪で舵取りが見事だった。
>この国はひねくれていて、質実剛健、醜のますらおとか自己犠牲、
>さらには自己否定みたいなことを精神的に高く評価する傾向があるんですね。
>わたし自身フランスのことを勉強するまで、こういうのがかなり倒錯した心理だ
>ということを意識しませんでした。
>問題は、世界の大多数の人々はフランス型の感じ方をする、ということなんでしょうね。
>日本に真の友達ができない、というのはそのあたりが分かっていないことに
>遠因があるように思うんです。
それはちょっと変じゃないですかね。日本についてもフランスについても、等身大の把握からだいぶはずれているように思います。フランスを基準にしすぎです。フランスは「普遍」を演じたがりますが、どの国も「普遍」ではありえません。
「自分がアホになってみせる」という笑い自体は、クラウン的な笑いとしてヨーロッパでも少しはあり、難易度が高いものです。意図的に笑わせる人とそれを見て笑う人がいるという構図において、実質的には笑わせる人の方が一枚上手なはずです。日本ではそれをやる人がざらにいるので、見るほうもそれがわかっていて笑うわけですが、ええかっこしいのフランス人にはなかなか理解できるものではありません。(という私も帰国してから理解するのにちょっと時間がかかりました。(^^;)
日本に真の友達ができない、と書いていらっしゃいますが、ではフランスにはいるのかといえば、いません。いるように見えるとすれば、打算で友達のフリをしているだけです。国際関係とは、すべてはある種の打算によるものです。
日本(および日本人)の姿勢に改善すべき点があるとすれば、率直さやわかりやすさが足りないことだと思います。
フランスがridiculeになってしまう原因は、口ではええかっこしい精神で美しい内容を言うのに、実はその足下では問題だらけだったりする場合です。はっきり言ってしまえば、自分の言葉に酔ってしまいがちなので、そういうことが良く見られます。時には、問題だらけだからこそ、隠すためにあるいは目をそらすために、そういうふうにせざるを得なくなるのではないか、とすら思います。ですので、フランス人のそういう美辞麗句にだまされてはいけません。
私の考えでは、フランスから「ええかっこしい」と美辞麗句を取り除いてみると、(物足りない人には物足りないでしょうが)等身大のフランスが見えると思います。人間的な部分があり、欠点も多々ある愛すべき存在です。が、それでもやはり、「ええかっこしい」と美辞麗句はridicule要因です。(^^;
>今の世の中、どこの国も結局米国に従わないわけにはいかないのです。
>アメリカにとって一番の敵対国は北朝鮮でもイランでもなくて、フランスなのかもしれないです。
そこまでアメリカは強くもないですし(だからイラクでも苦労してます)、そこまでフランスとアメリカの関係は悪くありません。(悪かったらそれこそ核戦争の危機です。)
反米も「ええかっこしい」のあらわれの部分が多いです。つまり、アメリカ以外の国々をリードしていくのだというポーズです。
くどいようですが、見た目と実質は異なりますので、見た目にだまされてはダメです。
余談ですが、なぜ「英語で行なうフランス語講座」ってないのでしょうか。英語が得意な人は語学のセンスがあるわけで、そういうひとにとってフランス語は習得しやすいはずで、フランス語と英語の類似性からすれば、英語でフランス語を学んだ方が短期間で頭に入りやすいと思うのですが。ついでに英語のトレーニングにもなりますし。何年もやって英語の習得すらおぼつかない人には、フランス語の習得はさらに難しいと思います。
うわ、これは重量級のご指摘をいただきました。
あまりうまく反論はできないかもしれませんが、お答えしたく思います。
でも連休明けまでお待ちいただけると幸いです。休み中もブログばっかりやってるって、ちょっとどうかと思いますので・・・ (^_^;)
すみません。 m(_ _)m
「反論」と思いましたけれど、よく考えてみれば、基本的にはわたしとtrotteurさんの考えは一致していると思います。どこが違うのか探し出してその違いを分析するのが、難しいですけどやってみます。
「フランスがridiculeになってしまう原因は、口ではええかっこしい精神で美しい内容を言うのに、実はその足下では問題だらけだったりする場合です。はっきり言ってしまえば、自分の言葉に酔ってしまいがちなので、そういうことが良く見られます。時には、問題だらけだからこそ、隠すためにあるいは目をそらすために、そういうふうにせざるを得なくなるのではないか、とすら思います。ですので、フランス人のそういう美辞麗句にだまされてはいけません」
わたしもフランス人が自らの理路整然ぶりに悦に入ってるところに遭遇してしまうと「付き合いきれんな〜」と思ってしまいます。 (^_^;)
でも、そういうときのフランス人(というかフランス語を自分のメイン言語に決めた人、と言う方がいいかも)は、かなりの程度で自らのうちたてた論理体系の外側には「本当に」何も見えてないのかも、という気もするんです。(http://blog.goo.ne.jp/raidaisuki/e/4b6ec32feaab9e20e5896616eb13dc29でも似たようなことを書いてます) まあこれも場合によるのでしょうけれど。それと自分の論理からこぼれ落ちるものがあるのを認めたあとメンツにこだわって自分の論理で押し切ろうとするかどうか、というのが大きいですけど。
こっちがなんか反論しても、連中は論理体系の構築で勝負するのにはずっと慣れているので、ちょっとやそっとではかなわないですね。
「私の考えでは、フランスから「ええかっこしい」と美辞麗句を取り除いてみると、(物足りない人には物足りないでしょうが)等身大のフランスが見えると思います。人間的な部分があり、欠点も多々ある愛すべき存在です。が、それでもやはり、「ええかっこしい」と美辞麗句はridicule要因です。(^^;」
まったくです。他の要因もあるでしょうけど、イギリスとの植民地争奪戦で負け続けだったのにはそれもあったことと思いますよ。
先のワールドカップで、フランスチームは結局一次リーグ突破できないほど調子が悪かったのに、格好にこだわっていつもの華麗なサッカーを捨てようとはしなかったのも印象に残ってます。移民系の選手たちも見事にフランス人の悪癖を身につけて統合されてました。(^_^;)
ただ・・・ わたしとしては、フランス人は他の者たちも「ええかっこう」をしたいだろうから、その機会を与えられる余裕のあるときにはさせてやるというか、プライドを満足させてやるというか(このへん微妙に議論がずれているかもしれません)、その方が「よい」ことだという感覚も持ち合わせているように思えるんです。
よき日本人は、仏教的というのか、自己抑制、自己犠牲というか「私を滅する」志向が強くて、自らに「ええかっこう」をさせる機会には禁欲的であると同時に、なんというか、他の者たちに「ええかっこう」をさせる機会を提供することにも、その人たちに堕落の危険をおかさせることのように感じて、消極的になるような気がするんです。これで日本人はずいぶん損をするように思います。
というのが「日本に真の友人ができない」というわたしの指摘の真意のつもりだったのですが・・・
フランスもたしかに友人はいないですね。フランス語教員の集まりではともかく、おおっぴらにフランス賛美を展開する言葉というのは今ではむしろ日本でいちばん多く聞かれると思います。
でも「共犯者」というか、同じ悪癖を持つという悪友仲間意識みたいなものをフランスに感じる人は世界に多くいるように思うのです。
「反米も「ええかっこしい」のあらわれの部分が多いです。つまり、アメリカ以外の国々をリードしていくのだというポーズです」
これもおっしゃる通りだと思います。でもこの行動パターンは、イギリスやドイツの強大さに単独で対抗できない時代になって以降、フランスに染み付いた第二の本性みたいな物だと思います。
別にフランスは勝手にやっておればいいのですが、わたし(たち)としては、そのフランスの基本政策から当然の帰結として出てくるものをわたし(たち)なりに利用させていただければ、それでよいではないか、というのがわたしの考え方です。これについてはこんなもの(http://blog.goo.ne.jp/raidaisuki/e/565c48c27a1f3c17eaf95618e6ed269bの「アメリカ人は自分のところが一番だから」から下あたり。私ホントに長々と読みにくいものを書いてます。反省します)も書いてます。
アメリカとて最終的には万能でないということについては、わたしもそう思います。ただ、この議論の特定の文脈において、わたしのような書き方をするのはいささか極端ではありますがいちおう許されると思うのです。わたしは本当に経済学って分からない人間ですが、なんだか「アメリカは自らの巨大市場のおかげで世界を人質に取っているみたい」と思ったことがあります。これは当たっているでしょうか?
また米仏関係もこれまた年季が入っていて、そう滅多なことでは基本的友好関係が壊れ去ることはないとわたしも思います。ずいぶん前の数字(大谷泰照先生の調査)ですが、アメリカの大学生に「次に生まれてくる時にはどの言語を母語とする人になりたいか」という質問に30%以上の学生が「フランス語」を選んでいた、ということです。独立戦争のとき助力をもらった、という恩義の記憶が基本にあるのですね。わが日本は残念ながらアメリカ人の記憶の中では・・・やっぱりカミカゼとともにあるのでしょうね。 (^_^;) この差は限りなく大きいです。
しかし・・・ ヨーロッパ大陸の中心が東にシフトしたものとしてのドイツはナチの悪夢で崩壊、さらにその東の出店になっていたロシアのソ連が破綻して、結局フランスが思想的にもヨーロッパ大陸勢力、反アングロサクソン勢力の前面に押し出されてきてしまったのが現在のような気がします。考え過ぎでしょうか???
「余談ですが、なぜ「英語で行なうフランス語講座」ってないのでしょうか」
それは考えたことがなかったです。
地方の大学勤めのせいか、英語でフランス語を教えるにふさわしい、と思ってしまうほど英語ができる学生には残念ながら遭遇しないからかなと思います。
英語を何年やっても習得できない、というのはあきらかにやり方が悪いのだと思いますが、ぶっちゃけた話、結局英語産業にとっては、何年も習得できない人がたくさんいる方がマーケットが大きくなって旨味があるんだと思いますよ。成功しなくても「お前の勉強が足りないからだ」で片付けられますし(こんなこと言ったら英語教育の人たちにはり倒されるかなあ・・・ (^_^:) )。
今後ともよろしくご鞭撻おねがいいたします。 m(_ _)m
台北シリーズ、しばらく続きますが、「自分の論理の外が見えない」を補完するもう一つのフランス的原理のことも近いうちに書くつもりです。妥当だと思われるかどうか、trotteurさんのご意見がうかがいたく思います。
他のエントリーも興味深く読ませていただいております。
>でも、そういうときのフランス人(というかフランス語を自分のメイン言語に決めた人、
>と言う方がいいかも)は、かなりの程度で自らのうちたてた論理体系の外側には
>「本当に」何も見えてないのかも、という気もするんです。
たしかに、そうですね。
聞いているほうとしては、その論理からもれ落ちている何かを指摘し続けるぐらいしか、対応のしようがないですね。何ももれ落ちてなければ、「あなたの考えに賛成だ」となるし、落ちてたら「同意できない。」と表明するぐらいでしょうか。
日本人の議論の仕方では、はじめからまるくおさめるつもりでなので、あまり自己主張をせずに譲り合うようなところがありますが、フランス人はそれとは逆で、最初からガンガン主張して最後に疲れたところで妥協点を見出すという感があります。(これはフランスだけでなく、欧米や中国や韓国などもそういう印象があります。)この議論の仕方の違いはかなり重大で、そういう人々と日本人が議論する時に持っている習慣のままに議論すると、相手は一方的な主張をし続け、日本人は譲歩し続けるような事態になるわけです。ということから、納得できない時には、うまく説明できなくても「納得できない」という旨を主張することは、日本人にとって特に大切だと思うのです。
たぶん日本人の心理として、まるく収まらないと不安になってしまう傾向が強いのではないかと思います。でも、本当に議論をするということは、意見の相違があって当たり前ですし、妥協点が見つからなくても、そんなに心配することではなく、「よくあること」ぐらいに思っている方が自由に議論しやすいはずです。また、その仮定で自分の考えがどういうものであるかが、たとえ相手が同意できなくても伝わるわけで、その違いを乗り越えて「ある種の信頼」が生まれたりすることもあります。
とはいえ、長所と短所は表裏一体になっているもので (^^; 、そういう議論はかなりエネルギーを消費しますので、実際疲れますね。くたびれ儲けだったり。ストライキも良くありますが、それで全体にとっても個人にとってもプラスになったのか???ということも多いですし。その点、日本はそういうエネルギーを(も)節約して、その分、前に進める方にエネルギーを使っているように思えます。が、それも「談合」になる原因なわけでして。(^^;
>よき日本人は、仏教的というのか、自己抑制、自己犠牲というか「私を滅する」志向が強くて、
>自らに「ええかっこう」をさせる機会には禁欲的であると同時に、なんというか、
>他の者たちに「ええかっこう」をさせる機会を提供することにも、その人たちに堕落の危険を
>おかさせることのように感じて、消極的になるような気がするんです。
その感覚はわかります。
私が思うには、前述の「まるくおさめようとする傾向」とも関係がありますが、集団主義的か個人主義的かのちがいに起因するのではないかと思います。言うまでもなく、日本は前者の要素が多く、フランスは後者が多いわけですが、これはかなり行動に違いを生みます。集団を重んじると、その集団の和を乱すようなことは慎まなければならないというのが暗黙の了解としてあるわけで、互いに気配りしながら(牽制しあいながら?)まとまろうとする意識が強くなります。そうすると自己抑制的にもなりますし、「出る杭は打たれる」状態にもなるわけです。逆に、個人を重視すると、自分には自分の考えがあり他人には他人の考えがあるということを前提に、争いや対立を恐れずに各々がガンガン主張し、中でも特に雄弁な人間がリーダーシップを持ってある理念で皆をひっぱることができれば一つにまとまるが、できなければカオス状態、というような感じになるのだと思います。
どのような集団(国も含めて)でも集団をまとめるための「何か」が必要なわけですが、大雑把に言えば、日本では良くも悪くも「和の精神」であり、フランスでは良くも悪くも「ある種の理念」なのだと思います。すべての国にそういうものが何かしらあるのではないでしょうか。私の印象では、こういう基本的な部分は変えられるようなものではないと思いますので、せいぜいそれぞれの行動原理の弊害を自覚して、弊害を最小限に保つことを試みるぐらいしかないのだろうと考えます。
先ほど、日本人は「まるく収まらないと不安」と書きましたが、フランス人は「理念がないと不安」なのではないかと思います。
「日本に真の友人ができない」という点に戻りますが、それでもですね、自己主張をあまりしないせいもあって、中国と韓国以外では、日本および日本人の評判は実際のところ他の国より悪くないですよ。また、どこかの国と真の友人になるということは、その相手国の敵が「日本の真の敵になる」というリスクもあります。
>アメリカとて最終的には万能でないということについては、わたしもそう思います。
>ただ、この議論の特定の文脈において、わたしのような書き方をするのは
>いささか極端ではありますがいちおう許されると思うのです。
釈迦に説法みたいで失礼しました。m(_ _)m
ただ、たしかにアメリカは市場を提供することで相手国に欠かせない存在となっていますが、その一方で、財政的にも貿易でも巨額の赤字を垂れ流しているので、ドルを買ってアメリカの資金繰りを埋め合わせている(つまり膨大にアメリカ国債を買っている)外国(特に日本と中国)がいるのです。ですので、一方では人質を取りつつ、他方では人質を取られているわけです。仮に、アメリカ国債を大量に保有している国がすべて売却しようとした場合、アメリカ経済は破綻の危機になります。でも、その時、壊滅的打撃はアメリカだけでなく、売却しようとした側も(それ以外の国も)被りますので、そう簡単には動けませんが、それでもアメリカにとっては大きな弱点となっています。
>アメリカの大学生に「次に生まれてくる時にはどの言語を母語とする人になりたいか」
>という質問に30%以上の学生が「フランス語」を選んでいた、ということです。
>独立戦争のとき助力をもらった、という恩義の記憶が基本にあるのですね。
たしかに伝統的にアメリカにはフランスへのあこがれのようなものが存在してきたと思います。
ただ、イラク戦争以降、アメリカ人の反仏感情がかなり強まったわけで、今アンケートをしたらそこまで高くないだろうという気がします。また、アメリカ人にすれば、第二次世界大戦時にフランスを滅亡の危機から救った恩義はどうなったのだ、という感覚もあるように思います。それでも、それぞれ次ぎの大統領になっているころには、だいぶ関係は良くなっている方に賭けますね。
個人的にはフランスが反アングロサクソンに傾きすぎるのもどうかと思っていまして、なぜかといいますと、反アングロサクソンの国々の中には、人権、政治的自由、言論の自由といった点で本質的にフランスの理念とは相容れない国が多数含まれていて、彼らを利するかたちになるのは馬鹿げているように思うからです。それでいながら、フランスはある種の独自性を保っているべきだと私は思っていたりするわけですが。難しい要求でしょうかね。
>地方の大学勤めのせいか、英語でフランス語を教えるにふさわしい、と思ってしまうほど
>英語ができる学生には残念ながら遭遇しないからかなと思います。
そうですか…。(^^;
それでも、重箱の隅をつつくような英語の試験 (^^; を通過した学生たちに、英作文をさせるとかなりの長文をすらすらと書いて見せたりしませんでしょうか? かつて、仏作文に苦労していた友人に「まず、英語で書いてそれをフランス語に訳して見たら?」と言ったら、意外とあっさりできたので、英語からフランス語に入るというのは良い方法だ、というような話になったことがあります。英語以上に上手くなるのは難しいでしょうが、英語力の水準までフランス語力を鍛えるのは、何とかなるかもしれないなどと語り合いました。
でも、一般的に、英語ができない人って多いですね。(^^;
言葉というのは、本質的に、(個人的な感情なども含む)情報の差や違いを埋めるために使われる手段なので、相手が知らない情報を与えたい、相手が持っている自分にはない情報を知りたい、という強い欲求がないと言葉はうまくならないのだと思います。日本の授業には、自分のことも日本のことも全く知らない外国人相手に、この言葉ですべてを説明しなければならないんだ、ということがすっかり忘れられているような漫然としたものが多いような気がします。要するに、語学学習には他者の存在を意識が必要なわけですが、集団の中に埋没すると他者の存在を忘れてしまうわけです。集団の中に埋没するというのは、先述のことと関係してますが、日本人の陥りがちな悪癖ですね。(^^;
僭越な文章ですが、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。m(_ _)m
お返事を書こうと思ったんですが、重量級の議論相手になかなか考えがまとまらず、つい他のエントリーの方に時間と頭を向けてしまいました。 (^_^;)
失礼まことに申し訳ありません、というか自分でも何やってるんだ、という思いがあります。有益な議論を育てる機会を取り逃がしている感じがしますので・・・
trotteurさんのコメントの最後の英語によるフランス語教育ですけれども、フランス語科に来ている子たちにちょっと聞いてみたら、おおむね「英語が嫌い」だから他の言葉に逃げて来ているそうです。 (^_^;) それもあるし、ちょっとうちの大学では現実的でないかな、と思います。
それに彼らは、フランス語やってると英単語の綴りとか発音とかを忘れてしまう、なんていう弱音も吐いてくるので、「英語学習に役立つフランス語教育」というのも考えないといけないかなあ、と思ってしまいました。 f(^_^;)