ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

映画「ファイナル・カウントダウン」~出航

2015-01-31 | 映画

夏に見学したカリフォルニアのパシフィックコースト航空博物館。
映画でしか見ることのできない米軍機を見て触れる(これ本当)
お好きな方にはまるで夢のような航空博物館でした。

ここでトムキャット、F-14Aを見たことからこの映画を知りました。 
このトムキャットが通称ジョリーロジャース、スカルマークの
第84戦闘機隊の仕様だったことからです。

そのときは映画「ファイナルカウントダウン」の映画音楽が
日本の作曲家によって盗作され、「聖母たちのララバイ」としてヒットした、
という事件に、音楽関係者としては食いついてしまうだけに終わりました。

その際20年後の漫画「ジパング」がこの「パクリ」ではないのか?
と書いたところ、

「この作品は発表当時日本映画『戦国自衛隊』のパクリと言われていた」

ということも読者に教えていただき、 興味を持って観てみました。
 
いやー、突っ込みどころといいネタ満載ありがとうございました。
実際のニミッツでの航空作業なども含め観察する点も多く、
まるでこのブログが取り上げるためにあるような映画。

満を持しての登場です。(いろんな意味で)覚悟されよ。 



それでは先も長いことだしさっそく始めますか。
この映画は1980年製作、アメリカ海軍の全面協力で撮影されました。
ストーリー展開より原子力空母「ニミッツ」とその艦載機の離発着シーンを
実際に見せるのが映画の目的かと思うくらい、細部にわたって
実際の飛行作業や着艦シーンに力を入れております。

タイトルシーンは「ニミッツ」から発艦するトムキャットに続き、
いきなりSH-3シーキング登場。
艦載機を想定して作られた救難活動もこなすヘリで、
ニミッツに乗り込む主人公のラスキーを今から迎えに行くところ。



そのウォーレン・ラスキー(マーティン・シーン)ですが、
タイドマン重工の社員で、この日視察のために
「ニミッツ」に乗り込むことになりました。

そのラスキーを見送りに来ながら姿を見せない謎の社長。


・・・・というあたりでカンのいい人とか「ジパング」を
読んだ人はああ、と察してしまうわけですが(笑)

早速突っ込ませて貰えば、いくら大会社でも自分の会社の社長を

一度も見たことがない社員なんているんですかね。





艦載機の中からシーキングの乗員がラスキーに
アリゾナ記念館を見せます。
乗員は何もしていませんが、ラスキーは胴に安全ベルトをしています。




アリゾナ記念館は、ご存知真珠湾攻撃の際沈没した「アリゾナ」を、
そのまま上にビルを構築し眺められるようにしたもの。


このとき案内用のプリレコーディングが流れますが、

「生存者はたった75名でした」

と言っています。



メガネにカメラ、というのが当時世界で揶揄されていた
日本人観光客の典型的な姿でしたが、ここにも。
アリゾナを嬉々としてカメラに収める日本人を強調して、

「お前らの国がやったことだがわかってんのか?」

という皮肉を込めたつもり(多分)。
これは言わずもがなの「伏線」なんですね。

戦艦「アリゾナ」の乗員は1177名のうち110名が戦死しています。



ロシアの漁船?もいます。
当時は 冷戦まっただ中で、このような怪しげな船がうろうろしていた模様。

 

原子力空母「ニミッツ」はニミッツ級空母の一番鑑。
大きさとしてはエンタープライズ級に次ぐもので、
同級の「ジョージ・ワシントン」はご存知のように
第七艦隊に配備され、
2015年1月現在、横須賀米軍基地でその姿を見ることができます。


ちなみにニミッツ級の最新型はパパブッシュ、
かつて海軍パイロットであったジョージ・H・ブッシュの名がつけられていますが、
特に戦前、艦名は本人が生きているときには
つけられませんでした。(ここ伏線)

戦後本人生存中に艦名をつけられた人物のなかには
日本国自衛隊創成の大恩人、アーレイ・バーク大将がいます。



ニミッツ甲板上でヘリから降りるラスキー。
早速後ろにA-7コルセアIIがいますね。



このときのシーキングが着艦し、様子も丁寧に描写されます。



この映画では「ニミッツ」操舵室の様子も惜しげなく見せてくれます。

 「25ノットの風を立てろ。全速前進」

「アイキャプテン、全速前進」

「中央ブリッジ 全速前進 100回転」

こういう操舵室でのやり取りは、昨年護衛艦「いせ」に乗艦した際
間近でその一連を観察し、あらためて海の男の職場のかっこよさに
「ネイビーブルー愛」を新たにしたエリス中尉です。

「男の職場」といえばもちろん「いせ」の艦橋には女性隊員がいましたが、
ニミッツには女性の配置はなく、居住スペースももちろんありませんでした。


従って、この映画に出演したキャサリン・ロスだけは撮影が終わると
その都度陸に上がっていたそうです。




ここで艦長イエランド大佐(カーク・ダグラス)登場。

艦長の着陸命令を受けて航空管制室が、

6200 信号は”チャーリー”」

といいます。
チャーリーはこの場合多分Cのチャーリーなのですが、
この後登場するロスのの愛犬の名前でもあります。

 

F-14が着艦します。
右側は着陸態勢に入ってアレスター(着艦フック)を下ろしたところ。



映像がダブっていますが、アレスターの先。
黒白のシマダラカのような縞模様が付けられています。
全体的に何かに似てると思ったら、蚊だったのか・・・。



空母艦上の乗員。
前に空母「ホーネット」の見学記で一度説明しましたが、
白い服を着た一団は

LSO、「着艦信号士官」。


この間も無線で

「200、すこに右へ」「侵入角良好」「そのまま」

などと指示が飛びます。



これは光学着艦装置、OLS(Optical landing system)
着艦する航空機が適切なグライドパス(降下経路)にあるかどうか
パイロットに視覚で教える装置です。

ちなみにニミッツの搭載しているのはこの改良型である

改良型フレネルレンズ光学着艦装置
( Improved fresnel lens optical landing system(IFLOLS
))

となります。




この画面の手が持っている拳銃のようなものは、
LSO(着艦信号士官)が持つハンドコントローラー、
「ピックル」と称するもので、カットライト(緑の点滅で航空機の状態を知らせる)
と着陸復行ライト(ゴーアラウンドせよ:赤)
を操作するボタンがついています。

LSOはこれを組み合わせて、

「着艦帯がクリアである」「エンジン出力を増せ」「着艦中止」

などといった追加情報を送信するのです。




トムキャットの機体下側にカメラを搭載した映像。



アレスターが着艦ロープをひっかけました。
ちなみにドライバー(海軍の場合パイロットとは言わずこういう)は
このとき機のスロットルをフルにしておかなくてはなりません。

なぜかというと、アレスターにロープがかからなかった場合、
パワーを落としているとtouch and goできず、海に落ちるからですね。



ロープをひっかけたアレスターはすぐに引っ込められます。
これはアレスターから外れた直後のロープですが、
「ホーネット」艦上で見たロープは硬くて頑丈そうだったのに、
まるでゴムのように柔らかい素材に見えます。

フルスロットルの航空機をこれ一本でひっかけるのですから、
よほどの強度を保つ素材に違いありません。



手信号で「こちらへ行ってください」と誘導。
黄色いベストに黄色いヘルメットの乗員は、
航空誘導士官か航空誘導員のどちらかとなります。



着艦したF-14が移動していきます。
スカルとクロスボーンのスコードロンマークが尾翼に付けられています。



降りてきたパイロット。
この映画は演技はもちろん役者がやっていますが、着艦作業や出航作業の際
「ニミッツ」の本物の乗員を「協力のお礼に」ガンガン登場させています。

歩いてくるパイロットはどちらも俳優。
やっぱりアメリカでは俳優は特に背が高いですね。



第84飛行隊のクルー控え室。(本物)



ラスキーは艦橋で艦長、指揮担当士官、当直士官に紹介されます。
このときにもさりげなく本物の軍人を使っている模様。

「ニミッツ」は実際に稼働中だったので、乗員はそのまま撮影されたからです。
今でもこの時の乗組員はDVDを購入して

「ここにグランパが映ってるんだ!」

と自慢しているに違いありません。

このとき艦長のイエランド大佐は、ラスキーに

「君のボスのおかげで出航が2日も遅れた。2日も

と嫌味を言います。
もしかしたらイエランド大佐、嫌なやつですか?

「君のボス」すなわちタイドマンなる人物がどうして
「ニミッツ」の出航を「2日遅らせねばならなかったのか」。
これも、ネタを知ってみると「ああ」と納得する仕組みです。



自室に割り当てられた個室に通されたラスキー君、
なぜか中でつながっている隣の部屋に入っていくと、
そこには膨大な写真資料が貼り付けられた机。
飛行隊長のオーエンス中佐の「趣味の歴史コーナー」でした。

オーエンス中佐、大東亜戦争時の戦史について詳しく、
なにやら論文などもものしている模様。
最後までオーエンス中佐が何のために
こんなことを調べまくっていたのかは明らかにされませんが、
思うにただの趣味、今ならブログでもやっているといったところです。



外から鍵を開けて自室に入ったら、見知らぬ男が。
それは自分が隣室に続く扉に鍵をかけておかないからだ。

なのにオーエンス中佐は自分の不注意を棚に上げ、

「艦内で大事なことはプライバシーの厳守だ」

などと上から目線でラスキーに向かって説教を垂れます。
オーエンス中佐ももしかしたら嫌なやつですか?



晴天の予報が出されていたのに何やら怪しい天気。


艦載機が次々と帰投してきます。



新米操縦士の一機を残して皆着艦をしたのですが、



気象士官が

「おかしなデータが出ている。初めての現象です」

と艦長に告げに来ます。
なるほど、この渦のぐるぐるがタイムトンネルの入り口ですか。
(ネタバレ注意)



新米ドライバーの操縦するAー7コルセアが帰投してきます。
しかし、機が安定していません。
(と見える操縦をしています。役者~)


 
どうもアレスター、着艦フックが故障して出せない模様。
バリケード着艦を試みることになりました。

「This is not a drill !」

ものすごい人数のブルー(航空機牽引係)、赤(事故救難員)、
黄色の乗員があっという間に全員でバウ・デッキに
バリケードを張ってしまいました。

映画の撮影のためとはいえ、ニミッツの乗員にとって
いい『訓練』になったに違いありません。

張ったあとには全員が退避です。
ところが!



半音であがりまた半音で急降下する効果音が鳴り響き、
(息子はここの部分になると『これ嫌いだから音消して』といった)
ニミッツを不思議な渦が包み込みます。



輪をくぐり抜けているって感じ?
これが時空のトンネルをくぐるってやつなのか。(ネタバレ)



同時に謎のめまいに襲われ、全員が頭を抱えてその場に倒れ、
意識を失ってしまいます。



不思議なひと時が過ぎ、狐につままれた状態の全員。
外を見れば何事もなかったような穏やかな海が見えるだけ。

しかし、着艦しようとしていたコルセアは影も形もありません。



館長からはすぐさま「全員配置発令」が出されます。
そのときなぜかマイクに向かって全艦放送されるサイドパイプ。

サイドパイプの役割は偉い人が乗艦するときだけ、
だと思っていたのですが、いったい何が始まるんです?
吹き方は乗艦時の「ホーヒーホー」ではなく、
「ホーーーーーーーーヒーーーーーーー」。 



全員配置ってことは「戦闘用意」でよろしいんですかね。
食事の途中だけど片付けもしないで飛び出します。



置き場から次々と各自がヘルメットを取っていきます。
写真の現像をしていた者も現像室を飛び出し、売店の係員は窓を閉め、
銃を持った海兵隊員が飛び出してきます。



そして次々と閉められるハッチ。
おおこれはやはり「合戦準備」ってやつなのか。
発令から4分後には全員配備が完了しました。



そのとき、「エアボス」と書かれたシャツを着た人のいる
航空管制室の係員が、コルセアを発見。


 
なんとニミッツの艦載機コルセア、映画の撮影のために
アレスティングワイヤを使わない、バリケード着艦をやってくれました。
これ結構怖いんじゃないですかね。
まあ、日頃訓練としてやっているのかもしれないけど。



たちまち駆けつける消火用車両。
全員で火の出る瞬間に備え至近距離でホースを構えます。 

なんとドライバーはコクピットで気を失っていました。
いったいどうやって着艦できたのでしょうか(笑)



このあたりから皆がまったく周りと通信が取れないことに気づきます。
発信されている暗号はなぜか「旧式のもの」。(ネタバレ)



この人は航海長。

いまや「ニミッツ」のレーダーには何も映らず、無線連絡も不可能。
艦長は偵察機を飛ばして真珠湾の写真を撮って来させることにしました。
そんなことしてないでさっさと帰れよ、と思ったのはわたしだけ?



偵察に飛ばすのはE-2ホークアイです。
こんなでかいものを艦載していたんですね。
ヘリはホークアイの発艦のためにバウデッキを空けているところ。 



ホークアイが発艦しました。
案外短い距離でカタパルトもなしで発艦できるらしいのに驚きです。



続いて今度はカタパルトから戦闘機発艦。
これなんですかね。ファントム? 

 


艦長が皆を集めてとりあえず会議。

「戦争が起こった可能性もある」


戦闘態勢に入るには何の支障もないのですが、ただ一つ問題が。

「送受信はできるのですが、交信不能です。
軍司令部や大統領官邸からも応答がないのです」

ここでAM放送が唯一受信できることがわかりました。
皆で聴いてみると、ジャック・ベニーのラジオ番組。
なぜ、今30年台から50年台にかけて活躍したコメディアンのトークが流れているのか・・・。


わたしたちにはその理由はわかりますけどね。


続く。 







呉の造船ドックと「大和の大屋根」

2015-01-30 | 海軍

呉に行ったとき、所用の前日に同行者を誘い「歴史の見える丘」に行きました。
そこはただ、中途半端な空き地に呉ゆかりの碑をあつめただけ、と見たときにも思ったのですが、
これらの碑について知ることで
一挙に呉の歴史を知ることになったとお話ししたかと思います。

その丘は、ただ碑が立っているだけでなく、そこにたたずめば
眼下にはかつて呉海軍工廠だった港湾が一望に広がり、現在も稼働しているドックのありさまが見渡せます。

海軍兵学校の同期会の後、ここを通りかかった時にバスの窓越しに
撮った写真よりもはるかに鮮明なものが撮れたので、ご紹介していこうと思います。

年末に「お節介船屋さん」にドックの写真はどの程度公開可であるか、ということを尋ね、

「オープンにして誰にでも見られるようにしている限りはSNSでの公開は構わないと考えても良い」

というお言葉をいただき安心して本エントリ製作にかかりました。
ちなみに「歴史の見える丘」について調べた時に朝日新聞が

「軍港の見える地域は立ち入りを禁止された」

と非難がましい論調で「観光案内に」書いていたわけですが、
昔は立ち入り禁止どころか軍港は地図にも書かれることがなかったのです。



昔海軍工廠のどこかの起工の碑。そして・・、



港湾を見下ろすところにこのような俯瞰図を発見。
現在と昔の呉を説明してあります。



現在見ている「大和のふるさと」と書かれた大屋根、戦艦大和建造ドックは、
産業文化遺産に指定され、
大屋根は当時のまま保存されています。



これですね。
黒々とサビた鉄骨もそのままですが、戦後補強も行われたらしく、
それが入り口の白い鉄骨部分かもしれません。




中には巨大な鉄鋼板が見えていますが、ここは今でも使われていて、
船の本体である板を作る工場となっています。

いかにそれが大きなものかは、自転車で移動している人物と比べてみてください。



大屋根はなぜか半分だけ色が違うのですが、左の部分は元の部分、
右は戦後になってから葺き替えられた部分のようです。

地図の右のほうに「旧呉鎮守府」とありますが、これは現在
昨年訪問させていただいた呉地方総監部となっています。



多分この赤煉瓦の部分も旧呉鎮守府のものだと思われます。
呉にはいたるところにこのような赤煉瓦の建物が残っていて、そのことごとくが海軍関係の建築物でした。

このすぐ近くには防空壕に爆弾が直撃して亡くなった呉市民の慰霊碑などもあるというのに、
アメリカ軍は港湾施設を
占領後に使用するということを踏まえて、あまり破壊しませんでした。

その分、思いっきり住宅地に爆弾を落としたわけですね。



港の向こう側には


旧火工部、旧光学工場、旧潜水学校

などがありました。
この部分は、今地図で調べたところ、海保大学があります。
やはりなんらかの関係のある施設となっているんですね。

旧軍需部の跡は、現在バブコック日立というボイラーの会社です。
海上自衛隊呉資料館、通称「てつのくじら館」があるのもここに軍需部があった関係かもしれません。



丘に立って左の方向を見てみると、旧潜水艦部、並びに旧潜水艦繋留桟橋のあった部分が、
現在も
海上自衛隊によって使われているのが見えます。

いわゆる現在のアレイからす小島のあたりですね。
「男たちの大和」で、大和に乗艦する乗組員たちが内火艇に乗り込み、
家族がそれを見送るシーンがここで撮影されました。

その向こう側は

旧砲熕部、甲板工場、製鋼部、電気部など。

砲熕(ほうこう)という言葉に見覚えがなかったのですが、この

「熕」

という字は、「おおづつ」とも読むので、まあ見ての通りです。
つまり、鉄鋼関係の工廠工場が集まっていた部分なのですが、ここが面白いことに、現在、



この前写真を撮った、日新製鋼と淀川製鋼、そう、製鉄会社となっているわけですね。

海軍工廠の後の施設をそのまま引き継いだと考えられます。



さて、地図にはここで建造した船も示されていたのでついでに。

航空母艦、赤城、蒼龍、千歳、日進、葛城、阿蘇。



戦艦は安芸、摂津、扶桑、長門、大和。



巡洋艦は那智、愛宕、最上、大淀、二代目伊吹など11隻。



水上機母艦千代田、潜水艦は約60隻、駆逐艦22隻、
特殊潜航艇咬龍・・・・・・多数。

戦争が終わってからは巨大タンカー、日精丸が作られました。



さて、この辺でドックで建造中の船に目を転じ・・・。


うーん、これはどうやら船の艦首部分船底(手前)と、艦首部分デッキ?(向こう側)

本当にプラモの部品のようにそうとわかる形のものがあちこちに。
ブロック工法というのは日本のオリジナルと聞いたことがありますが、
本当に部分部分を作ってくっつけていくんですね。



アップにしてみました。
護衛艦の艦首と違って艦首なのにまあるいのがなんだか不思議。
まあ、大和だって丸かったしな。
・・・・艦首ですよね?

まだ組み立て前なので、面白いところに階段がついていますが、
この階段にはどうやって登るのかというと、下の梯子段をかけて登って行くみたいですね。
船ってこうやって作っていくんだ~、と新鮮な驚きです。



さらにアップ。(くどい?)

艦首のポールがもうすでにあるのに注目。



船底のようですが、もしかしたらこの上に向こう側の部分を
えいや!とクレーンで乗っけるのでしょうか。




さらにアップ。
まだ固定していないらしい板のようなものが並べられています。



これは、二つ上の画像の上部分ではないだろうか。
まるでパズルです。 
丘の上から見ていると、ちょいとつまんで部品を組み立てられそうです。

 

こちらに見えてるのはさっきの案内板によると第3ドック。
もうすでに艦体がある程度の形をして入っています。
手前に斜めのフェンスのようなものがあるのですが、
これは進水式の時には全部閉じられ、この向こうに海水が溜まるのでしょうか。



ところで前回の写真。
工事がここまで進んだってことなんですね。


 

船体部分さらにズーム。

大きく四角い穴が二つ空いていますが、ここがのちに艦橋になるんですね。

あっ、3つ上写真の部品はここに填めるのか!



よく見ると、組み立て前の部品は地面に置かず、このような柱の上に設置するようです。
白い作業服の人が写っていますが、それを見ると
この「支え棒」は人間の背より高く、2メートルくらいありそうです。



さて、こちらは現在補修ドックと呼ばれているはずですが、
前回写真を撮った時に写っていた船舶は作業が終わったのか、空になっていました。

ここには護衛艦が入ることもあるそうですが、もしかしたら、この空いた部分に入るのも・・・・?



(mizukiさんに言われて後ろの山が全く同じであることに気づきました。
比べるために大和艤装時の写真を掲載しておきます)



手前の建物は前回工事中だったかな、と思って確かめてみたら、

補修ドックに大きな船が入っていて見えなかったのでした。



まるでクレーンカーがミニチュアみたい。



手前のこの、崩壊寸前みたいなプレハブ小屋と、その横の、いかにもこれも戦前からありそうな建物・・。
小屋の方はもうトタンの屋根が剥がれまくっているのですが、
これは下手に屋根の上に上がろうものなら危険なので放置してあるのではないでしょうか。



これもガラス窓だったりするんですよね。

間違いなく「大和建造」の頃からあったものだと思うのですが、
これも文化遺産に指定されてしまってもしかしたら建て替えられないのかな。

とにかくわたしのような「古いもの大好き人間」にはゾクゾクする眺めではあります。


この船は竣工のあかつきにはここから進水式を行うことになるわけですが、
ちょうどその時この丘に来れば、式典が見られるわけですよね。

うーん、見てみたい。 



 


戦艦「伊勢」慰霊祭~着岸

2015-01-29 | 自衛隊

慰霊祭の報告と言いながら全く慰霊祭だけを飛ばしてどんどんと先に行ってしまっていますが、
メインイベントは最後のお楽しみにしていただこうと思いまして。

ってあんまり意味がないですかね。




甲板の見学を終え、再び艦橋に上がってみました。

相変わらずウィングには見学者が溢れ、自衛隊でなければとっくに
「作業の進行の妨げになりますので」
とかなんとか言って立ち入りを禁止してしまうところですが、そこは皆様の自衛隊、
こんな人大杉状態でも相変わらず淡々と任務以外は
何も見えぬ!聞こえぬ!といった
クールな態度で作業をしています。


ちなみにこの後、わたしは同行者に艦長をご紹介していただきました。



「働く男の背中」

という題名を(ダサい?)付けたいこの写真。
船のスリットの前で腰に手を当てて立つのはIHIジャパンマリンユナイテッドの社員です。

ずっと自衛官ではない制服の人がウィングに立っていたので、まだ何もしていないときに素性を伺ってみました。
なぜここに船屋さんがいるかというと、この後の着岸作業を見守るため。
着岸させるのが補修ドックであるため、出港から乗り込んでいて作業を上から見守る時間まで待機してたようです。



ほとんど体を乗り出すようにこれから行われる作業を見守ります。

作業をするタグボートが二隻待機しています。



ここから岸壁に接岸するまでが長くて長くて(笑)


こんな巨大な艦をピタリと岸壁に着けるのですから、
それはそれは慎重に、センチ単位(ミリミリ?)で調整をしていくからだと思いますが。

というわけで、時間を持て余した周りの人たちは測距儀を覗いたりしていました。
写真を見て気づいたのですが、紐でマニュアルみたいなのが下げてあります。
これを見てみればよかったなあ。

ご存知ない方のために説明しておくと、これにはストラップが付いていますが、
首から下げて持って歩くものではなく(多分)洗眼器みたいなところを覗きます。

測距儀(レンジ=距離 ファインダー=知る物)の仕組みを簡単に言うと、
この筒の両端にある二つのレンズが取り込んだ映像が画像に結ばれた点から対象までの距離を測ります。
ファインダーの筒が長ければ長いほど、計測は正確になります。

戦艦「大和」の測距儀(日本光学製)は15mありました。





測距儀の下部に、このようなボックス発見。



航行中これに気付いていれば舵角とか速度とか、速度指示がわかったのに・・・。

このときは完璧に「停止」状態。
停止を中心にすると指示速力の目盛りは後進からいくと

一杯<原速<半速<微速<最微速<

停止

<最微速<微速<半速<原速<強速
<一戦速<二戦速<三戦速<四戦速<五戦速
<最大戦速<一杯

という段階があります。
「一杯」が最大戦速より上っていうのがなんというかファジー。
もはやここは「不可能な速さで」みたいなニュアンスだと見た。

皆旧軍から受け継がれた名称です。



こちら探照灯。
探照灯を英語で言うと「サーチライト」ですが、なぜかこれをサーチライトと言わず
「探照灯」と言ってしまいます。

これも海軍から受け継ぐ名称で、陸では「照空灯」といいました。
現在陸自が照空灯と言っているかどうかはしりません。

探照灯の光の強烈なことは、昔も同じで、あの「雪風」は、マリアナ沖海戦で探照灯で敵艦載機を照らし、
目をくらませて
それだけで3機を撃墜したという話もあります。

確認したことはないですが、これ内側には絶対に光線を向けることができないようになってると思います。
直視したら目が潰れてしまいそう。(小並感?) 




後甲板にはもう誰もいません。

艦尾に、二人の海曹(作業着)がおそらく停泊の瞬間に備えて護衛艦旗を掲揚するために控えており、
両舷と中央に一人ずつ、
計3人が見張りを行っています。



岸壁には本当にミリミリと近づいていく感じ。



ふと向こうに目をやれば、朝方沖にいた大型船が停泊していました。

ドック入りするところだったんですね。 



ボートに注目。
ぶつかった時のために毛布を三枚艦首にかけているのでタグボートかと思ったのですが、
「いせ」の艦体から出されたワイヤを、陸上から伸ばされているオレンジ色のロープとつないでいるように見えます。



そのロープはどこから来ているかというと・・、
人が4人立っている岸壁のあたり。
これはもし一般の船と同じ名称であれば

ヒービング・ライン(heaving line)

と呼ばれるロープで、陸から太いロープを出し、
それにつなぎます。

このオレンジ色のが、

 ホーサー(hawser)、ヘッドライン(head line)、スターンライン(stern line)、スプリング(spring)

といった係船用のロープのどれか(わかりませんでした)だと思われます。



ロープは二本係留に使われました。
ところでこの船ですが、船体に「サルベージ」とあります。
船の名前は「くぬぎ」。可愛らしいですね(^O^)/ 



ロープが張られてピンとなったところでくぬぎは離脱。



くぬぎ、経過観察です。
われわれはどうやらポンツーンから上陸することになりそうです。



真下を見ているともうこれだけ接岸完了。あと一息です。



そのとき艦橋の階段を駆け降りてきた海曹。
着岸した瞬間信号旗を下ろして持ってきたらしいですね。
艦尾ではこの瞬間護衛艦旗が揚がったのでしょう。



さあ、というわけで、わたしたちはこの日乗り込んだ
「いせ」から下船することになりました。
荷物を持ち士官室から出て格納庫前のラッタルが開くのを待ちます。
館内見学の一団が乗るのに艦載ヘリが一機も無かったのも、このあとドック入りするからだったようですね。



自衛官に混じって造船会社の社員もいる模様。
ブルーシートは作業の準備でしょうか。



ハッチが開けられ、下船となりました。
見送りの隊員が全員に「ありがとうございました」と声をかける中、ハッチを降ります。



降りたらまた雨が降り出していました。
「いせ」が着岸した岸壁には向こう側で造船しているらしい船の部品が積まれている
『いかにも造船所!』な岸壁には、白い線で囲まれたグリーンラインがあり、
そこから出ないように言われて皆はバスの止まっているところまで歩きました。

そこからは警衛のいるゲートまで、マイクロバスの移動です。



どこの部分か全くわからないけどとりあえず船の一部。



歩きながら「いせ」を振り返りました。
この角度からは艦尾の「いせ」という字が目立ちます。

反対側からは大きなタグボートが押していたことがわかりました。

「いせ」は海自有数の対空・対潜水艦戦闘能力を誇り、
日本周辺海域の防衛やシーレーンの安全確保を図るため、「ひゅうが」型2番艦として投入されました。
大規模災害時の救助活動はもちろん、陸上自衛隊の人員やヘリ(陸自の)の輸送も可能であるため、
複数の軍種を
一体的に運用する統合運用において中核の役割を担うことになります。


平成23年3月16日、すなわち震災の5日後に就役した「いせ」。
就役直後は乗組員の慣熟訓練を行う必要があるため、災害派遣に赴くことはありませんでした。

しかし、その能力を発揮したのが、わたしも当ブログで触れたことのある
2013年11月のフィリピンの台風災害に向けた国際緊急援助活動です。
1180人体制での派遣は海外の被災地活動としては過去最大規模。
それも「いせ」だからこそ可能となったのです。

ちなみに統合任務部隊が海外の被災地救援任務に就くのはこれが初めてのことで、運んだ陸自隊員は200名。
わたしが乗組員から聞いた

「全員が船酔いで倒れてまるでガス室」

という陸自にとっての修羅場もあったということのようです。
本当にお疲れ様、といって差し上げたい。(特に陸自の人)

「いせ」から飛び立ったヘリはセブ島で医療活動に従事しました。
現地では日本の医療技術に期待する地元の人々が長い列を作ったそうです。

このとき連絡・調整のために「いせ」にはイギリス海軍の少佐が乗艦していましたが、

「伝統と儀礼を重視する点が英海軍の非常に似ていると明確にわかった」

とその感想を述べたそうです。
イギリス人がそういうからには()激賞されたと思っていいと思うのですが、
元々儀礼に関しては帝国海軍はイギリス海軍をお手本にしてその部分を作り上げていますから、
これも当然のことなのかもしれません。



続く。



 


呉海軍墓地~伊29潜とチャンドラ・ボース

2015-01-28 | 海軍

 

わたしが海軍関係に興味を持っていることが、ときどき
夫であるところのTOにあらたなお付き合いを生んだりします。

相手の会社に行ったらそこに大きな「大和」の模型があった。
携帯に「五省」のシールを貼っていたら向こうから声をかけてきた。
その他、海軍機の模型があったりふとした会話で身内に軍人がいたり・・。
そういうことを聞くと、TOは必ず

「うちの妻が実はそういうことに大変興味を持っていまして」

と話を続け、あちら様は滅法驚いて(そりゃ驚くだろう)それはお珍しい、
とさらに話が繋がっていく、という次第です。

今までこういう成り行きで海軍兵学校同期会を始め、結構色々な
海軍自衛隊的イベントへの参加のきっかけをいただくことになり、わたしもTOも

「世の中には海軍関係の身内のいる人って本当にたくさんいるんだなあ」

と驚いてもいるのですが、あるときそういった方の中で、
大叔父に当たる方が回天に乗っていて戦死したと聞いているのだが、
まったくその最後について詳しいことはわからない、と仰った方がいました。

亡くなった場所、戦没した大体の日にちはわかっています。
そして、なぜか伊号◯◯潜という艦番号だけははっきりしていました。

「これでなんかわかることある?」

TOはわたしにその情報を見せ、その方に大叔父さんの最後について
何かわかることがあったら教えてあげたい、というので、わたしはまず

「回天で亡くなった乗員は事故も含め名前がはっきりしているので、
回天搭乗員だった可能性はない」

として、次にその伊潜の行動調書を目黒の戦史資料室で確認しました。
それによると、大叔父という人が亡くなったとされる日、
その伊潜は外地どころか国内で練習艦になっていたことが判明したのです。


もちろん回天を乗せて出撃していたわけでもありません。


「この日付と死亡年月日がまったく辻褄が合わないんだけど・・」

この海軍兵曹は、伊◯◯潜の後、別の伊潜乗り組みになり、外地に出て撃沈されたのかと思い、
その日、戦死したとされる海域で戦没した伊潜があるかどうかも確かめたのですが、該当艦なし。


つまり結論をいうと、墓石に彫り込まれている大叔父さんの戦死情報は
まったく記録に相当するものがないということがわかったのです。

「これって、遺族にまったく戦死状況が正しく伝えられなかったということよね」

身内の戦死の通知が来たので諦めていたら戦後ひょっこり帰ってきたとか、
ひどいケースになると再婚後に復員してきたとか、そんな例が日本中にいくらでもあった時代ですから、
ましてや一兵曹がどこでいつどんな状況で戦死したなどということが誤って伝わったとしても、

ある意味あの日本の状態を考えると、当然のことだったかもしれません。

しかも、大叔父さんが乗り組んでいたのは潜水艦です。
極秘で戦闘行動をとるため、撃沈されてもその確認をすることもままならず、
多くがその戦没場所すら知られないままに海の底に眠っているという潜水艦・・。

 

前回見ることができなかったここ呉海軍墓地の上段には、どういう序列かわかりませんが、
潜水艦の碑が多く見られました。

今日はそれらをご紹介していきたいと思います。

これは呉鎮守府所属の潜水艦で戦没した人たちのための慰霊碑。
後ろの壁にはあまりにも膨大な戦死者の名簿があります。
伊潜29隻、呂潜6隻の合祀碑で、潜水艦をかたどった碑の基石には伊潜らしい潜水艦の姿が彫り込まれ、
傍には潜望鏡が立てられています。


この潜望鏡の根元にも説明文がありますが、説明を撮りそこないました。

 

上の合祀慰霊碑に名前があっても、潜水艦によっては独自の慰霊碑を建てていることがあります。

この「呂号第百四号」は、いわゆる海軍の「マル級計画」と言われる
戦時艦船急速建造計画で促成された9隻を含む18隻の「呂一◯◯型」の一つで、
昭和18年に建造され、わずか1年後の昭和19年5月、アドミラルティ北方にて米軍駆逐艦に撃沈されて没しました。 

呂号一◯◯型はその全てが就役してから短くて3ヶ月、だいたいが1年前後で戦没しており、
最も長命だった呂第109号でも2年というものでした。 


 

呂第104の墓碑の周りには、どのような由来なのか、時鐘と潜望鏡が立てられています。
時鐘のこちら側にあるのは照明でしょうか。
切断されないままに耐水性のありそうなコードとソケットがそのままポールに巻き付けられているのが見えます。




軍縮条約から日本が脱退して初めて計画された軍備で

建造された伊9型の3番間にあたる「伊号第一一潜水艦」の碑。

1943年にオーストラリア海軍軽巡洋艦「ホバート」に二本の魚雷攻撃を行い

これを撃沈せしめるという戦功をあげていますが、それからまもなくサモア近海で行方不明になり、
二ヶ月後、艦長以下114名の乗組員は亡失により全員戦死と認定されました。




「伊号第三六三潜水艦殉職者の碑」


伊363は、大東亜戦争末期に輸送のために作られた12隻の伊361型の3番艦で、
このタイプを「潜輸大型」(せんゆおおがた)とも「丁型」(ていがた)とも称します。
この潜水艦の特筆すべき点は、回天戦に参加したことです。


さて、伊363は輸送潜水艦として建造され、何回か輸送任務に就きましたが、
その艦体が輸送用の大型だったことから、昭和20年の3月、回天搭載用に改装を施されています。


5月28日、轟隊として光基地を出撃した363潜は、回天の出撃により沖縄近海で輸送船を撃沈、
また8月8日にはパラオ沖に多聞隊の回天搭乗員を乗せて出撃しましたが、

航行途中にソ連が対日戦に参加してきたという報を受け、そのままソ連の攻撃に備えて日本海に向かっています。
彼らが終戦の報を受けたのは呉に帰港した次の日のことでした。



つまり伊363は戦没を免れて終戦まで生き残ったということになるのですが、
それならどうしてここに慰霊碑があるのか。


この慰霊碑に書かれた「殉職」という言葉がそれを説明しています。

昭和20年の10月29日、伊363潜は、回航のために呉を出港し、
宮崎県沖を航行中、アメリカ軍が「飢餓作戦」と称する封鎖作戦のために撒いた機雷に触雷し、沈没しました。

艦橋要員は脱出しましたが、岸に泳ぎ着いたのはそのうち1名。
乗組員45名のうち、艦長の木原栄大尉(死後大尉に昇進)以下42名が死亡したといわれています。

この碑の文字を揮毫(多分潜水艦のデザインも)した荒木浅吉元大尉は木原大尉の前の艦長でした。

なんども死地をくぐり抜け、生きて戦後を迎えることができた伊363の乗員は、
戦争が終わってこれからの日本がどうなっていくのか、
不安と心配の反面、生きていられることの喜びを兎にも角にも噛み締めて
これから始まる新しい人生に想いを馳せていたに違いありません。

しかし、日本の海における戦争はまだまだ終わっていなかったのです。
室戸丸、浮島丸、女王丸といった民間船を始め、掃海艇を含む55隻がこの機雷によって沈没しています。

そのため多くの海軍軍人が、掃海活動に身を投じ、職に殉じて命を失いました。
沈没した掃海艇30隻、殉職者78名、負傷者の数は200人以上を数えます。









意匠を凝らした碑のなかで、かえって目立つ自然石を積んだだけのこの石碑は
第4潜水艦隊司令の揮毫による「不朽」という字が刻まれています。


「伊二九潜戦没者慰霊碑」

伊29は通商破壊活動を通じてインド洋を主戦場に4隻の船舶を撃沈し、
また(昭和18年)マダガスカル島沖でドイツのUボートから反英インド独立運動家の

スバス・チャンドラ・ボースを日本に連れ帰ったことで有名な潜水艦です。


「秋水」について書いたときにもお話ししたのですが、その翌年、
駐独日本大使館付海軍武官と日本人技術者を乗せ、

第四次遣独潜水艦としてドイツ軍潜水艦基地に到達することに成功しました。

このとき伊29はドイツにタングステンを輸送し、帰りにはMe163Me262のエンジン資料、

対空射撃管制用ウルツブルクレーダーエニグマ暗号機他を積み込んで
日本にそれを輸送する重大な任務を任されていました。

しかし、それら貴重なドイツからの資料が日本に届くことはありませんでした。

7月26日、伊29潜は、米潜水艦ソーフィッシュ (USS Sawfish, SS-276)
の発射した魚雷3発によりフィリピン海域で戦没したのです。

ほどんどの潜水艦のように、伊29戦の戦没は予定日を超えても帰国してこないことから、
三ヶ月近く経って初めて認定されました。

戦没認定は昭和19年10月10日です。


wiki

伊29潜はボースの亡命の時、マダカスカル沖でドイツのUボートと落ち合い移乗させました。
この写真は、ボースが乗り込んだ次の日の昭和18年4月28日、伊29潜の艦橋で撮られた写真です。

前列の左から二番目がチャンドラ・ボース、その右が日本海軍を代表する潜水艦長と誉れの高かった、

木梨 鷹一(きなし たかかず)少将。

木梨艦長については第六艦隊参謀であった鳥巣健之助著の「日本海軍潜水艦物語」に詳しいですが、
なんといってもわたしが何度かこのブログでもお話しした、


「米空母に向けて撃った6本の魚雷のうち3本がワスプに命中して撃沈、
残りの2本は戦艦ノースカロライナと駆逐艦オブライエンに命中」

という大金星を上げた伊19号の当時の艦長で、その他戦果多数、といえば、
なぜこの人物が「日本海軍の誉れ」で、戦死後2階級特進となったかがわかっていただけるでしょうか。



このときの写真が見つかったのでついでに。

魚雷が命中したオブライエンと左遠方で炎上する空母ワスプ。


しかし、この写真の時からそう間も分かたず、たくましく若々しい肉体を持った若者たちが、
何処かもわからぬ海に人知れず沈み、
一人残らず水漬く屍となって逝ったのだと思うと、
わたしは一人一人の顔を粛然とした気持ちで見つめずにはいられません。



チャンドラ・ボースはその後亡命先の日本でインド独立のために活動を行っていましたが、
日本が敗戦したため、日本と協力してイギリスと戦いインド独立を勝ち取ることはもはや不可能だと判断します。
そこで満州に行き、今度はソ連と交渉をしようとしました。


しかし、そのために台湾の松山基地から乗り込んだ97式爆撃機が離陸時に墜落し、
ボースはその後病院で亡くなりました。

日本の敗戦から三日後、昭和20年8月18日。
最後の言葉は、インド人のボースのためにわざわざ作ったカレーを一口食べて言ったという、


"Very good."

だったそうです。
きっとこのカレーは日本風で、ボースが慣れ親しんできた故郷の味とは全く違うものだったはずですが・・。

 



第三十一潜水艦基地隊の慰霊碑。
碑の前に立てられた掲揚竿は、かつてそこに軍艦旗が翻って乗員が敬礼を捧げました。
70年経った今でも、ここには潜水艦隊員たちの霊のために掲揚がされるに違いありません。



冒頭のTOの知り合いは、大叔父という人が「回天」で亡くなったと聞かされていたそうです。
もしかしたら


「回天戦を行った伊潜に乗り組んでいて、その潜水艦が撃沈された」

のを曲解して伝わったのかともわたしは推理したのですが、
時期的に該当する伊潜がなかったことから、そこで真実はわからなくなったままです。

赤の他人であるわたしに調べられることは、ここからはありません。
これ以上のことを知りたければ、血縁者が厚生労働省に行って公的書類を閲覧するしかないからです。

この方が今後どうなさるのかについては、まだお聞きしていません。 





  

 

  


 東京裁判の弁護人たち~ジョージ・A・ファーネス大尉

2015-01-26 | 日本のこと

この項を作成するためにわたしは三本のDVDを注文しました。
それがいっぺんに届き、パッケージを開けた時に、たまたま横にいたTOにそのタイトルを見られ、

「なんでこんな映画を・・」

と不審がられてしまったのですが、それもそのはず。

私は貝になりたい」1959年
「地球防衛軍」1957年
「妖星ゴラス」1962年

皆さんはよもやこの映画の共通点をご存知ではないでしょうね?
「私は貝になりたい」は戦時中の捕虜殺害の罪を問われて処刑された
BC級戦犯をフランキー堺が演じた名作。(同時上映:サザエさんの青春)

わたしがウォッチングしている戦争映画の範疇で、不思議はないとして、
「地球防衛軍」。
これも昨年度わたしが「地球防衛協会」顧問に就任したことから、
なし崩し的に興味を持ったとしてもおかしくはないタイトルですが、
内容は地球外生物が水爆で星を失い、よりによって日本に住み着き、
侵略し始めたので戦う地球防衛軍の話ですし、「妖星ゴラス」に至っては
ゴラス星が激突する人類の危機に立ち向かう科学者たち、というSFもので、
平田昭彦と藤田進が出ている以外は何の関心もない(はずの)映画。

わざわざDVDを購入してまで確かめたいこと、というのは、
本日タイトルの、東京裁判で日本人被告の弁護を務めた、

ジョージ・A・ファーネス

がこのいずれもの映画に出演していることでした。

冒頭写真は、「私は貝になりたい」の法廷シーンで、
主人公の清水豊松(フランキー堺)の弁護人を演じるファーネス。

独特のガラガラ声で、しかし本職の弁護人の役ですから、説得力ありまくりです。



判決言い渡しのシーンでは被告の後ろに立ち、
上官に命令されて米兵を殺害(といってももう死んでいた)したことを

「もし命令が不当なものだと思えば軍事裁判所に訴えることもできた」

などと、全く日本軍の実情も知らないまま訴追する検事に対し、



このもう一人の弁護人(ブレイクニーのつもり?)とともに

「日本人の生活、感情、習慣についてあなた方は全く無知である」

と弁論し極刑を回避しようとするのですが、奮闘空しく幾松は絞首刑を宣告されるというシーンです。
ファーネスは右側にいて、左には、この裁判で処刑になる陸軍中将の役で藤田進がいます。


実際にファーネスは弁護人の無力や、東京裁判そのものの不当性を
誰よりも痛感していたにちがいない一人でした。

ましてや真偽不明ながら、

「食事にごぼうを与えたら”木の根を食わされた”として虐待を問われて有罪になった」

などという話があったとされるほどにBC級裁判のデタラメなことは、
肌身で感じるレベルでこれをよく知悉していたことでしょう。

レイクニー弁護人のように、ファーネス大尉は東京裁判の後、
日本に残ることを決め、東京で法律事務所を開きました。
その後、いかなるきっかけかはわかりませんが、映画出演に意欲を示し、幾つかの映画に俳優として出演しました。

おかげで我々は彼の姿を今日もDVDで確かめることができます。

外国人俳優など気軽に呼んでこられるような状態ではなかったこのころの日本で、
ファーネスのような「外人俳優」は
大変貴重な存在だったと見え、
彼は俳優として何本もの
映画やテレビドラマに出演しています。

東京裁判を扱ったものには全部で4本。
のちに東京裁判で絞首刑になった唯一の文官廣田弘毅を描いた「落日燃ゆ」がテレビドラマ化された時には、
かつて自身が東京裁判でやりあった
ウィリアム・ウェッブ裁判長を演じました。


それ以外では、1954年度作品の「ゴジラ」以降、流行りとなっていた仮想科学もの
(それは円谷英二の手によって
1966年のウルトラQ、怪獣ブームにつながっていく)に、
外国人科学者の役で出ることが多かったようです。

 

「妖星ゴラス」より。
国連で、人類の危機に国境を越えて立ち上がるべき、と声を上げるアメリカ人科学者を演じています。



この映画の役名はフーバーマン博士です。
アメリカ人でもドイツ系の名前というのがそれらしいですね。



国連のシーンでは我らが池部良がカッコよく演説。
池部さんは主人公で日本人科学者の役どころです。



地球に接近する妖星ゴラスの軌道をそらすことに成功し、喜びに沸く地球防衛科学省。



この映画についてもそのうちお話ししたいのですが(面白かったので)
なかなか最後は突っ込みどころ満点です。

地球が壊滅することは防いだものの、いろいろあって東京は水没。
いやこれ、日本はもうすでに壊滅状態だろ?という状態なのですが、
とりあえず地球が無事ならなんとかなるさで映画は終わり。
ちなみに富士山麓のここには水一滴きておりません。



こちら、「地球防衛軍」より。
こちらでの役名は「リチャードソン博士」。

日本で一番偉い科学者に志村喬、そして地球防衛軍の基地司令
(これ、つまり自衛隊ってことなんですけどね)に、藤田進がキャスティングされています。
ファーネスと藤田の間にいるのは、なんとびっくり
(したのはわたしだけかもしれませんが)
ヘンリー大川こと大川平八郎


「燃ゆる大空」について書いたとき、このヘンリーがコロンビア大学卒で飛行機のスタントもしていて、
実家はグンマーかサイタマーかイバラギーの名家という話をしましたが、
彼はこの映画で通訳を演じ、達者な英語を披露しています。




リチャードソン博士を熱演するファーネス。
日本語でも演技しています。
渋いおじさんですよね。



「地球防衛軍」は、ミステリアンとの戦いに、α号、β号という空中戦艦を駆使して戦います。
そのどちらかに乗っている司令部の皆さん。
宇宙戦艦にこんな「素」で立ったまま乗っていられるのか?というツッコミはさておき、
この空中戦艦によって侵略者ミステリアンのアジト、ミステリアンドームを破壊することに成功する地球防衛軍。

「地球をミステリアンの二の舞にしてはいけない」

と志村喬が決めゼリフを。
ミステリアンは水爆の使いすぎで星を失ってしまったんですねー。
ファーネスはこの場面で右から三番目にいます。



ジョージ・A・ファーネスはニュージャージー州の生まれ。
ハーバード大学で法律を学び、ボストンで弁護士をしていました。
1942年に日米が開戦したとき、ファーネスは陸軍に召集され、
法務関係の任務で南西太平洋を転戦していました。


戦後に手がけたのが、あの本間雅晴中将バターン行進の責任を負われた裁判です。

バターン行進では、状況が過酷で捕虜が次々と死亡したためこれを残虐行為と糾弾されたのですが、
実際のところ、もし後送しなければ状況的に全隊が壊滅していたともいわれ、
その指示をした本間中将を虐殺の罪で処刑にすることは、実は裁く側にも無理筋と思われていたようです。

裁判では、本間の高潔な人格がむしろ浮き彫りにされました。
ファーネス大尉ら弁護団は、アメリカ連邦最高裁判所に人身保護例を求めましたが、
有罪、死刑の判決は翻りませんでした。

無理に本間を処刑にしたのが、「コレヒドール敗軍の将」だったD.マッカーサーで、
一説には彼の”復讐”であったとも言われています。

ファーネス大尉にとって初めての日本人弁護が本間雅晴中将であったことは、
もしかしたら彼の日本軍人、ひいては日本という敵国に対する考え方を随分変えたのではないかとわたしは想像します。


東京裁判の弁護人に決まり、来日したファーネス大尉は、まず主任弁護人の清瀬一郎博士を訪ねました。
裁判の方針を聞くため、そして裁判の「隠し球」及び「牽制球」の提案をするためです。

「ドクター清瀬、初歩的な法廷闘争戦術ですが・・」

こう前置きしてファーネス大尉が清瀬博士に述べたのは、
なんと裁判長のウェッブ卿と判事の「忌避申し立て」をすることでした。

ウェッブ裁判長は本国オーストラリアで日本を訴追する裁判において
残虐行為に関する調査を行い、つまり証拠集めをしており、検察官として関わっていました。

検察官が裁判官を兼ねることは許されていないので、ウェッブ卿には「資格がない」というわけです。

児島譲著「東京裁判」では、
ファーネス大尉は

「祖国のために軍服は着たが、偏見を嫌い、公正を尊ぶ弁護士精神に変化はなかった」

と評されています。
本間中将の裁判のときも、ファーネス大尉は

「バターン攻撃戦はマッカーサー元帥にとっては日本軍の包囲を危うく突破した負け戦である。
かつての敗者(マッカーサー)が今は勝者となり、かつての勝者をさばくのである。
偏見を抜きにした裁判は不可能であり、ゆえに裁判は無効だ」

と主張して上官を慌てさせ、

「弁護士であっても陸軍軍人である貴官が、
指揮官に対して負け戦という言葉を使うのは不敬で、これは陸軍刑法の対象になる」


と説得されて

「それじゃ、負け戦と言わずに
”マッカーサー将軍の作戦が
不成功に終わった戦い”とします」

と言い放ったという経歴がありました。
東京裁判において裁判の公正さが堅持されているかについてファーネス大尉は何よりも注目し、
ウェッブ裁判長の経歴、そして英語の理解できないフランス人及びソ連の判事に
『資格なし」を突きつけることを弁護の初手としたのでした。


ファーネス大尉の作戦指示によって、東京裁判開廷直後、主任弁護人の清瀬一郎が、

「正義と公平の要求のために、サー・ウィリアム・フラッド・ウェッブ閣下が
この裁判をなさることは適当でないということ」

を申し立てました。
その理由を清瀬弁護人が途中まで話したとき、ウェッブ裁判長は話の途中で声を震わせてまくし立てました。

「私は、それらが私が裁判長としてここに座ることに
関係があると思いません。当法廷は休廷を宣します」

ウェッブ裁判長は法律家として自分が報告書を提出したことが
検察行為として裁判官の資格を失うことをよく知っていました。
つまり痛いところを突かれたのです。

法廷は騒然となりました。
ジョセフ・キーナン検事が清瀬弁護人を押しのけて自分が発言しようとしましたが、
清瀬弁護人は台にしがみつき、
そのまま低い背をまっすぐ伸ばし、
血色の悪い顔を向けて
赤ら顔のキーナン検事を凝視し続けました。

この時に記者席にいたアメリカ人記者が嘆声をあげました。

「痩せたヤギが太った大鷲に噛み付いている」

 

ウェッブ裁判長は顔を蒼白にして退廷してしまい、その後を引き継いだ別の判事が
「マッカーサーの名において」任命された法廷はどの判事も退廷させることはできない、

「だから忌避申し立ての動議は却下する」

とあっさり宣言しました。

法廷はマッカーサー総司令部の一部局といわんばかりであり、東京裁判は法理に従う法廷でなく、
行政処分を行う役所だと
告白したに等しい。(児島)

忌避申し立てによって裁判を「ぶっ潰す」計画は予想されたことと言いながら、このように回避されたのです。


このように米人弁護人たちの個々の法律家としての矜持は日本側の認めるところではありましたが、
やはりここは「国家弁護」にもっと親身になってもらおう、ということで、
料亭に特別ゲストとして高松宮殿下をお招きし、彼らのために一席設けたということがありました。

アメリカ人たちは天皇陛下の弟宮のご臨席にいたく感激し、
全員が慣れない正座をして殿下を玄関にお迎えしたそうです。(かわいい)
このときにファーネス大尉が高松宮殿下に

「殿下、たしか(海軍)参謀もおつとめになられて・・」

と戦争論議に水を向けると、殿下は一枚上手で、

「I am  just a sailor. 」

と軽くいなされたということです。

ところでファーネス大尉の弁護した元外交官重光葵は、死刑は逃れたものの禁固7年の有罪でした。
重光を戦犯として裁くことは、ソ連がノモンハンの責任を問うため無理やり主張してきたので
連合国側はそれを拒否できなかったという「大人の事情」があったようで、
「あの」キーナン検事が結審後、ファーネス大尉に向かって手紙をよこし、

「重光が有罪になったのは誠に心苦しい。
もともと彼が裁かれること自体が間違いだったが、彼のような経験と信念の士を将来の日本は必要とするだろう」

と陳謝とも取れる心情を吐露しています。

清瀬一郎はその回顧録で、

「キーナン検事にの裁判中の態度については、私も、少しかんしゃくにさわったこともないではなかった。
しかしこの手紙は誠意のこもったものとして認めなければいけない。
我が国の検事中にだれがこんな手紙をかける人があろうか」

と感嘆していますが、キーナン検事もまた職務にあっては忠実で、
「私」を捨てていたということの実証ではないでしょうか。

逆を返せば、キーナンが弁護人の立場に回っていたら、
彼はブレイクニーやファーネスのような法戰を駆使して自国を糾弾してでも日本の正当性を主張したはずです。



東京裁判が終了後、ファーネスは弁護人としてB級裁判での豊田副武海軍大将
弁護を引き受けました。
あのブレイクニー少佐とタッグを組んで
無罪を勝ち取ったのですが、
このときファーネス大尉は、
豊田大将に有利な証言を入手するために、
東京裁判で処刑が決まった東条大将に面会をしたことがあります。

会話の途中で、ファーネス大尉は、アメリカ最高裁判所の訴願(東条大将の)
と処刑が延期になりそうなことを伝えました。

すると東条大将は手錠で繋がれていない左手で持っていた書類を投げ上げ、金網の下の台を叩いて叫びました。

「刑の執行は早いほうがいい。コン畜生!」

そしてすぐに平静になったのですが、ファーネス大尉は
東条大将の巣鴨で送る過酷な死刑囚としての生活を垣間見て粛然と頭を垂れたということです。



日本人、戦犯と言われた人々と弁護人という立場で向かい合い、
そして法の番人として、
誠実に自分の職務を果たしたファーネス大尉は、
その過程でおそらく日本という国を愛するに至ったのではないでしょうか。


日本人を弁護することは彼らにとって法律家としての信念となんら曲げることなく、
むしろその任務は法に公正にあり続ける
「正義」の立場であると信じてやってくれたのでしょうし、
この戦勝国によって敗者を裁く裁判の不当性を誰よりもよく知ればこそ、

弁護人という立場を超えた被告たちへの同情もあったでしょう。


戦後のファーネスが、弁護士活動を日本で続けながら
俳優としての仕事を楽しんでやっていたらしいことは、
彼に対する日本人からのお礼、あるいは恩返しであったようにも思えます。

ファーネス弁護士が日本に対して為そうとしてくれたことを、当時の日本人がよく理解していたからこそ
「俳優・ジョージ・A・ファーネス」は誕生したのに違いありません。


ところで、俳優ファーネスの「デビュー作品」ってなんだと思います?
1957年の日活作品「海の野郎ども」という裕次郎映画に、

「船大工」

のちょい役で出ているというのですが、
・・・・・・・船大工?・・
 

 

 



 




戦艦「伊勢」慰霊祭~「陸の男の艦隊勤務」

2015-01-25 | 自衛隊

「伊勢」の慰霊祭はこうして終わりました。

あれ、慰霊祭の様子ってアップされたっけ?読んでないが?と思った方、あなたは正しい。
慰霊祭の様子は本シリーズの最後に持ってくることにして、今日は慰霊祭の後、
着岸作業をしている間に見学した
甲板と、作業の様子をお伝えしたいと思います。

このとき、すでに艦尾には自衛艦旗が掲揚されていたのですが、
ふと、どうして出航の時に降納したのだろうと考えました。
自衛隊法によると、自衛艦旗は

(1) 停泊中にあつては午前8時から日没までの時間。
ただし、自衛艦が外国港湾に停泊中の場合においては、必要に応じ何時でも掲揚するものとする。

(2) 航海中にあっては常時掲揚する。

となっているはずなのですが。
もしかしたら荒天の航行時は例外という規則でもあるのかな?

それとも降納していたのはわたしの見間違いで艦首旗だった?





ちなみに艦尾に立てる旗を「軍用船舶旗/Ensign」と称しますが、
このEnsignをメインマストに掲揚するとそれは


「武力行使する場合」

つまり戦いの合図となります。
外国の港に入るときにには「戦いに来たのではありません」
ということをわかりやすく表明するため&相手国に敬意を表するため、
他国の港に入るときはその国の旗をマストの一番上に揚げ、自国旗はその下にします。

ちなみに、これは横須賀港に入港した韓国海軍の補給艦デーチョンの写真なのですが、



メインマストに自国の国旗をあげつつ他国に入港した稀有な例です。

上がっているのが国旗、つまり「Jack」と呼ばれる所属国旗なので、

これが「戦闘態勢」なのかどうかはわたしにはわからないのですが、
とにかく、日本国旗を揚げるべきところに彼らは自国の旗を揚げちゃったわけです。

わかりませんが、彼らの山より高いプライドがきっとそれを許さなかったのでしょう。

日本に現場が銃弾を貸してくれと頼んで自衛隊が貸してあげたら、
韓国政府がお礼を言うどころか、突っかかってきたという話や、
古くはIMF入りして日本が援助したとき、後からもっと先に貸してくれればとか、
日本の援助は迷惑だと言い放ったという話を思い出しますね。

理由はおそらく同じようなところにあるに違いありません。

万が一本当に戦う気だったとしても補給艦なのにそれは良かったのか。

ちなみにこの話にはドリフのコントのようなオチ?があって、




その直後、デーチョン号は変速機から漏れたオイルに引火し、爆発を起こしてしまいました。
このときにもなぜか韓国国旗らしきものが二竿見えているのにご注目。(外せよ)
手前には民間の警戒船が心配そうにうろうろしていますね。

自衛隊側がデーチョンに「悪いことは言わんから再接岸しれ」と(たぶん)言ったのですが、
誇り高い()彼らはそれをきっぱりと拒み、
そのまま出航していったということです(TT)



Ensignからついいきなり脱線してしまいましたが、
着岸作業の間、私たちは三々五々外に出て甲板を歩きました。

観艦式で「ひゅうが」に乗った時には柵が巡らされていましたが、
基本的にヘリ搭載型護衛艦に「手すり柵」はないのですね。
なんだかすごく新鮮な眺めでした。
「夜は甲板に出るな」とされているわけがよくわかります。
洋上で満月でもない限り、すたすたと歩いていると急に甲板がなくなり、
そのまま海にというような事故もたまには起こるに違いありません。 



Mk 41 VLS(垂直発射システム)
これを見ていると近くの男性が

「VLA(Vector Launch ASROC)ね」

と言ったのですが、言下に隣の女性が(わたしではない)

「いえ、これはVLSです」

と訂正したのでなんだかおかしかったです。



広大な甲板。
どう見てもヘリ空母ですありがとうございます。

しかし、実際に「ホーネット」の甲板に上がったこともあるわたしに言わせると、
ヘリ搭載型はこんなに小さくていいのね、
という印象でした。

見学者もいますが、何をするでもなく自衛官も出てきています。
(見張り?)



頼まれて陸自さんの写真を撮ってあげる人。
これを見ながらわたしが案内の自衛官に

「たまに陸自の人が護衛艦に乗り組むと大変なんですってね」

とふと聞くと、

「ええ、大変です。
時化ると皆部屋から出てこなくて、ドアを開けると
中で皆が倒れていて・・・・ガス室みたいに」

海自の人でも最初は

「自分の吐いたものを飲み込んで船酔いに耐える」

というような修羅場での錬成を経て一人前の海の男(女も)になるわけですが、
陸の人はいきなり任務が修羅場と化してしまうとそういうことですね。

「それでは陸自の医官は大忙しですね」

「いや、陸の医官も一緒になって倒れてますから・・。
それに艦内を歩いていると時々・・・踏んじゃうんですよ」

「ああ~・・・踏んじゃいますか~・・・」

「もはやそれを人に報告するレベルじゃないんですね」

これだけ取ってもあの派遣で現地に赴いた陸自医療チームの労苦には頭が下がる思いです。m(_ _)m



CIWSはもちろんですが「ひゅうが」と同じ位置にあります。

日本では「シウス」とこれを呼びますが、本家アメリカでは
「シーアイダブリューエス」といちいち言っている模様。

商品名ではなく、これはそういう兵器の「総称」なので。
例えばこれはレイセオン社のファランクスという「火器」であって、
「ゴールキーパー」とか「シーガード」とか、
他の製品名を持つシウスはいくつもあるわけです。



こうして人が立っているのと比べると大きさがわかりやすいですね。
どうも白いオバケのQ太郎(知ってます?)部分は男性の身長と同じくらい?

床面からの全高は4.7m。
これを作動するのに必要なのはたった一人。
監視員だけでいいんです。
システムの軌道から目標撃破に至るまでの軌道修正は
全自動で行われるのですから。

なんかすごいよね。フィードバックもしてしまうなんて。



航海灯・・・・でしたっけ。



当たり前すぎて今までなんとなく意識したことはなかったのですが、
海上自衛官の正帽って、年中白なんですね。
確かにこれが白だから垢抜けて見えるし、グレイの護衛艦で
白い帽子は大変目立つので人が見分けやすい。

全て戦後のアメリカ海軍のスタイルを踏襲しているようですが、
これはなかなか良く考えられているのではないでしょうか。



ところで、このときのお天気を見て気がつかれませんか?
一瞬とはいえこのときには晴れたんですねえ。ええ。
朝からずっと降りっぱなしなのに、接岸してから嫌味のように・・。

「どんな天候の変化にも動じず任務を行う」

これを目標として海軍軍人の初等教育は行われると聞きましたが、
まさにそれを絵に描いたような本日の航海でした。



まるで構造物のように見えているのは接岸している岩壁のクレーン。
出航した岩壁とは違う、JMUのドックに着岸したからです。
このあと「いせ」はドック入りの予定があったんですね。



甲板からふと下をみると、民間のタグボートが押していました。
キャビンの人たちの顔がはっきり見えるくらい近くです。



わーいと喜んで甲板から手を振ると、船長さんらしき人が手を振り返してくれました。
笑っていらっしゃるように見えるのはその直後だから。
どれどれ、と中の船員さんが外を覗いています。

このあたりでもう一度艦橋に戻って着岸を見ることにしました。


続く。


呉海軍墓地~特設艇「黒潮部隊」かく戦えり

2015-01-24 | 海軍

昨年末戦艦「伊勢」の洋上慰霊式に参加するために呉入りした日、
誘ってくれた方と共に(というか付き合わせて)海軍墓地にもう一度行ってきました。 

前回は兵学校同期会のツァーの行程での訪問ということで、
時間がなかったのと、同行の方々がご高齢だったため
階段状になったこの墓地を見学するというプランではありませんでした。

というわけでわたしは皆が団体写真を撮り、バスに乗り込むまでのわずかな時間を利用して、
カメラを構えながら墓地の中を走り回ることになったのです。

その節は海軍墓地にお眠りになっている英霊の皆様、お騒がせして大変申し訳ありませんでした。


というわけで、ある程度はここでお見せすることもできたわけですが、
残りもご紹介したいとかねがね思っていたので、再訪することにしたのです。

「歴史の見える丘」からここまではタクシーでほんの数分の距離。
同行者はこの日の夜の予定に備えてパンプスを履いていたため、
「大和の碑」のある入り口近くで待っていてもらいました。

つまり人を待たせていたため、わたしはまたもやこの日もカメラを構えたまま走ることに・・。



できるだけ効率的に短時間で動くことができるように、わたしはまず
階段を一気に墓地の一番上まで駆け上がりました。
ここから降りていきながら撮影をするという計画です。



ここには四阿(あずまや)があり、ここからは呉の住宅街を一望に見下ろすことのできる展望台となっています。
呉港はここからはほんの少ししか見ることができません。



まず最初に現れたのが昭和15年に採用されたらしい主計科の戦没者慰霊碑。
それ以上の説明がないので、海軍経理学校を出た主計士官なのか、下士官兵なのかも全くわかりません。

それにしてもこの「昭和15年」のあとの漢字、
「山カンムリに一、王」
という文字を調べたのですが、手書き検索でも見つからなくて・・・。
多分この意味がわかれば手がかりになるのではと思われるのですが。



航空母艦「飛鷹」の碑は、大変大きく立派なものでした。

「航空母艦飛鷹の碑」

という揮毫はやっぱりというか源田實の筆によるものでした。
政界の実力者で達筆となると、こういう依頼も多かったと見えます。

もともと日本郵船の「出雲丸」という貨客船を途中で改造したもので、
就役してわずか6年後、マリアナ沖海戦で戦没しました。
ちなみに「飛鷹」で検索すると、赤い袴の鑑娘画像がうんざりするほど出てきますが、
その中に実際の人間がコスプレしたものがあったりして、
なかなかこちら方面にも人気があるのらしいとわかります。

なんというか、正直、ファンからはかなり異論が出そうなコスプレでしたが。


碑の前にあるたくさんの名前はマリアナ沖の際の戦死者で、

沈没時
    飛鷹乗組員 千三百余命
 
    戦死者   六百三十余名 

    鑑とともに深海に消えた勇士 二百五十余名

と記されています。
この内訳が少し理解できなかったのですが、史実によると、最後の沈没の際
鑑に残されていたのが艦長の横井俊之大佐始め247名であったということで、
その他のそれが戦死者の630余名に含まれるということでしょうか。

横井艦長が甲板に残存者を集め、軍艦旗を降ろした後、総員退去を命じ自分は鑑に残ったのですが、
その後海上に浮いているところを駆逐艦に救助され、一命を取り留めています。





みなさん、「日東丸」という船の名前を聞いたことがありますか。


大東亜戦争末期、軍艦だけでは戦えなくなった海軍は民間船を徴用しました。
貨物船はもちろんのこと豪華客船や捕鯨船、そして漁船です。

遠洋漁業などの小型船を、海軍は徴用し、

特設艦船

として戦線に投入しました。
たとえばこの駆潜艇に限って言うと、昭和16年8月くらいから、
マグロ・カツオ漁船を中心に徴用が始まっています。
重用された船のそれまでの船員は、その他の民間船と同じく、漁師なども皆、軍属として身柄を重用されました。

改造については駆潜艇の場合、「特設監視艇」に対潜ソナーとして
水中探信儀水中聴音器を備え、攻撃兵装として爆雷を装備していました。

しかし、徴用された船に乗っているのは漁師などの民間人で、
船体に搭載されているのは原始的なディーゼルエンジンである焼き玉エンジン。
速力は7~8ノットと低速で、とても戦闘ができるような船ではありません。
船体を灰色の軍艦色に塗装し、7・7ミリ機銃2丁を取り付け、乗組員用の小銃は2~3丁。

それ以上の武装ができなかったのは民間船を装うためという理由でしたが、
ミッドウェー海戦以後、本土にやってくる米軍の攻撃がひときわ激しくなり、

米軍も漁船が重用されていることをすでに知っているので、容赦せず狙ってきます。

対策としてさらに57ミリ砲や駆潜艇は爆雷も装備しましたが、いずれも貧弱なものでした。
そしてそんな装備のままで彼らは最前線の船団護衛に投入されたのです。


わたしがなぜ「日東丸」という名前に聞き覚えがあったかというと、
以前「パールハーバー」という爆笑仮想(一部史実)戦争映画についてのエントリで
ドゥーリトル隊を乗せた米軍機動部隊が日本の漁船に発見された、
という史実を、

「漁船に発見されたではカッコ悪いから」

という理由で巡洋艦に見られたということにした、ということを書いたときに、
この漁船が日東丸という名前であることを記憶にとどめていたからです。

このとき、この

「第二十三日東丸」

は、東京から700浬の海域で米機動艦隊を発見しました。

  • 6時30分 「敵艦上機ラシキ機体三機発見」と打電。
  • 6時45分 「敵空母一隻ミユ」と打電。
  • 6時50分 「敵空母三隻ミユ」と打電。

「パールハーバー」では米軍は東京空襲においても「軍事施設しか攻撃しなかった」
と言い張るために、発見された時も相手に攻撃を加えたとは描かれていませんでしたが、
ハルゼー提督は、すぐさまこの「漁船」の撃沈を命じています。

軽巡洋艦ナッシュビルと艦載機が差し向けられ、日東丸との間に戦闘が始まります。


  7時30分 「敵大部隊ミユ」の打電の後消息を絶つ

それきり日東丸の無電は途絶えました。

軽巡洋艦と艦載機相手に、とても勝ち目がないと見た日東丸は、
ナッシュビルに体当たりをするつもりで向かっていったと思われます。

  • 7時50分 ナッシュビル砲撃開始。
  • 7時57分 艦載機からの爆撃が開始され、日東丸はナッシュビルへの突撃を開始。



そして、ついに命中弾を受けました。

 (艦載機から見た日東丸)

   ●8時20分 第二十三日東丸は命中弾を受け炎上。

命中弾を受けてからわずか7分後、日東丸は沈没しました。
海面に浮かんでいた 乗組員は米軍の救助を拒否して全員戦死。


ハルゼーはこの後も日東丸のような特設監視艇を艦載機に探させ、
銃爆撃によって4隻を撃沈しています。

これらの徴用された漁船軍団は、横須賀鎮守府所属で

第22戦隊「黒潮部隊」

という通称で呼ばれていました。
漁船を漁師ごと徴用して戦線に投入することは、
日中戦争の頃からすでに行われています。


漁師は操船技術が高く海について熟知しており、荒波や、ときには台風でも難なく乗り切ることができます。
なんといっても揺れる船から遠くの魚群やカモメなどを見つけることができ、
さながら生きたレーダーのように、空や海の異変を察知できることが、
徴用された大きな理由だったのですが、問題はこちらの発見が早くとも
それを無電で知らせることによってすぐに敵に位置を確定され、敵からの攻撃を受けてしまうことでした。

米軍艦載機はまず低空飛行して、まず翼で監視艇のアンテナ線を切断し、
その後でゆうゆうと船体に銃爆撃を加えてくるのが常でした。
無線をやられ、まともな武器を持たず、艦長以外船員がろくな戦闘訓練を受けたこともない監視艇は、
そのままなすすべもなく米軍機の餌食となって海の底に消えて行きました。




ハルゼー率いる米海軍機動部隊との戦闘が「黒潮部隊」にとっていわば最初の戦闘になったわけですが、
反撃のできない船では見つかったが最後やられるしかなく、
従って終戦までに徴用された漁船約400隻のうち約200隻が戦没し、
7割がなんらかの損害を受けるという結果になりました。

最後の頃には兵学校出身の軍人ですら、その戦死状況については
全く内地に伝わってきていなかったという終戦直前の日本において、
黒潮部隊についても、たとえば戦死者は最低でも千数百名以上とわかっているのみで、
中には三万人を超すという説もあり、つまりいまだにその全貌は、ほとんどそれを伝えるものがないのだそうです。

「黒潮部隊」。

この名前をこのエントリで初めて知った、という方もおられると思いますが、たとえば戦後の日本で、
零戦搭乗員のように「ヒーロー化」されてその活躍が人々に賞賛されるなどということもなく、
彼らはその存在すらまったく戦史から忘れられた存在となっています。

しかも彼らは軍属という立場であったため、
死後の叙勲はおろか年金などの補償も曖昧なままになっているのです。

(第23日東丸の乗組員は、のちに金鵄勲章を叙勲されている)

漁師の徴用は「赤紙」ならぬ「白紙」と呼ばれる通知でやってきました。
この「白紙」一枚で、漁師たちは、
ほとんど生きて帰ることは望めない戦場に出て行きました。
その実態は特攻といってもいいような状況だったため、監視艇や駆潜艇の船員は
食料に真っ白い米を好きなだけ与えられていたと言います。

しかし監視艇が無電を打ったが最後、敵に撃沈されるしかなかったという構図は、
海軍が漁師の命を「使い捨てレーダー」にしていた
というに等しく、
いかに内外で軍・民間問わず命が大量に失われていたかを考えても、

それでも他に何か方法はなかったのかと、暗然たる気持になります。


さて、この慰霊碑の第18特設駆潜艇ですが、呉鎮守府所属で
就航から7年目に徴用されて駆潜艇になっています。
開戦後はずっとラバウル、マカッサルなどで護衛任務に就き、
昭和19年にはケンダリーで対空戦闘も経験しています。
しかし、武運強く生き残り、終戦の年の12月31日に解傭処分となりその生涯を終わりました。

艦長は三人いましたが、海軍兵曹、海軍少尉、海軍中尉。
(最後の大村中尉は任務途中で中尉昇進)

彼らは軍属の上に立つという立場だったため、将校といっても
商船学校出身者や学徒兵から成る予備士官ばかりでした。

そのような存在であったためその記録はほとんどちゃんとしたものがなく、

戦死した軍属の補償金も貰えたりもらえなかったりで、
未だにある漁村ではそのことが原因で村人たちの間に齟齬を生んでいるのだそうです。


あの戦争で亡くなっていった方々、靖国神社に祀られている命(みこと)のなかに、
小さな漁船にに乗り込んで、投網を銃に持ち替え、日本を守るために
必死で戦っていた特選艦艇の多くの漁師たちがいることを、わたしたちは決して忘れてはいけないのです。


 

 


海軍兵学校同期会@江田島~陽炎に心許すな草枕

2015-01-23 | 海軍

江田島の兵学校生徒の同期会と一緒に巡る
入学何十周年記念解散式、最後の行程である
江田島のツァーを終え、我々のバスだけがフェリーに乗らず、
陸路で広島空港まで向かうことになりました。

なぜなら飛行機の出発時間が夜の7時20分だったからです。
見学が終了しバスが外に出たのが2時20分でしたから、
なんと5時間もの余裕があるわけで、我々のバスだけが
観光しながらのんびりと陸路を行くことになったのでした。



江田島の第一術科学校は赤丸のところにあり、
わたしたちは487号線を南下して、緑の丸の部分、
早瀬大橋を渡り、さらに呉から出た半島との間にある
音戸の瀬戸をつなぐ橋を渡って本土に渡ります。

しかしこの地図を見ていただければ、橋がかかっているだけあって
海峡がどれだけ狭いものかお分かりでしょうか。
 



まず、のんびりした風情の江田島を、海を右手に見ながら走っていきます。



まず、江田島から緑の丸の部分にある橋を渡ったところ。
(だったと思います。だいぶ前のことになってしまったので・・)
倉橋島を通り抜けるのはあっという間でした。
そして黄色で丸をした部分、音戸の瀬戸へと向かいます。



このあたりは瀬戸内特有の波が穏やかな内海なので、牡蠣の養殖が盛んです。
「広島の牡蠣」はここからきているんですね。



この辺りの山間に、わたしの知り合いの「山小屋」があります。
一度遊びに行かせていただきました。
オーナーはここに住んでいるのではなく、
週末のウィークエンドハウスとして周りに作物を作ったり、
釜でピザを焼いてパーティするためだけに使っています。

すごーく遠くでしたが、思いっきりズームして撮ってみたら、どうも今工事をしている模様。

ご主人は護衛艦の艦長を昔に退官して悠々自適の毎日です。



いわゆる音戸の瀬戸を渡っているところ。
大変高いところを通過するので、バスの中の
「僕、高所恐怖症」という男性(生徒ではありません)は、
ここを走っているときにずっと下を向いていたくらいでした。



高さを確保するために、橋のたもとでなんと三重のらせんを登ります。
なんでこのような非実用的な橋を作ったのでしょうか。



バイパスから本州に抜ける


警固屋音戸バイパス

という橋はつい最近できて、かなり便利になりました。
わざわざ螺旋をつけたこの橋は、



地図を見れば一目瞭然、昔はこの「第一音戸大橋」だけで、
すべての交通はここで行われていました。
今では観光用だけに残されているという形です。


ところで大河ドラマ、色々と滅法評判の悪かった「平清盛」が放映されることになった時、
このあたりの人々は「町おこし効果」
を期待して、この橋のたもとに、
「平清盛音戸の瀬戸テレビドラマ館」
というのを作りました。

そういえばそのころ、護衛艦の見学にきてそのようなものを見た覚えがあるようなないような。



しかし、肝心のドラマがアレだったので、集客はイマイチ。
だってそもそも「音戸の瀬戸」だけを目当てにわざわざ観光に来ますかね。

まあ、わたしたちも時間つぶしとはいえわざわざこっちに来て
ここで
トイレ休憩したわけですが(笑)



むかーしむかし、橋ができた時(1961年)作られたと思しき軽食お土産観光ハウス。

ここが唯一の陸路交通だった時代は長く、渋滞緩和のために
向こうに見えている第二音戸大橋が完成したのは2013年の3月。
つまり、以前ここに来た時にはまだ開通していなかったことになります。



交通の要所が第二大橋に移ったので、このあたりは観光公園となりました。
それよりわたしにはこちらのことを説明しておかなくてはいけません。

wiki


先日「伊勢」の慰霊祭に参加させていただきましたが、
「いせ」が慰霊のために停泊したのは、この写真で攻撃されている「伊勢」のいる
「坪井沖」です。




先ほどの写真を、上の写真と同じ向きにひっくり返しました。
黄色い丸が「伊勢」着底現場、この音戸大橋は画面上になります。
もちろん「戦艦伊勢の物語」というエントリを上梓したわたしとしては

音戸の瀬戸を渡るたびに

「この近くで『伊勢』が最後を迎えたんだな」

と考えはしましたが、このときは具体的な場所を把握していませんでした。



補給艦「とわだ」が航行していました。
なんだかラッタルを下ろしたままのような気がするけど気のせいかな。



呉に入ってそのまま海岸沿いを走ると、赤錆びた機械のある工場地帯が現れました。
日新製鋼の工場がここ、警固屋というところにあります。



日新製鋼の隣は、海上自衛隊からす小島係留所。
ここでは日曜に艦艇公開をおこなっています。

今見えている5202は、なんと珍しい、音響測定艦「はりま」です。
潜水艦探知のためにソナーをソナー得た音響測定艦というのがあるんですね。

この音響測定艦が「ひびき型」で、1番艦が「ひびき」と、
せっかく誰がうまいこといえと状態なのに、2番艦がなぜ「はりま」なのか。
「ひびき」ときたら次は「こだま」と来てほしいけどな。
「しらべ」とかもいいんじゃないかしら。

で、なんで「はりま」?




この位置からはわかりにくいですが、船底がH鋼のような形になっているのです。
つまり相胴式なんですね。
このため艦の安定性が非常に良いのだそうです。

運用法は、日本近海を遊弋し、潜水艦の音響情報を収集すること。
収集した音響情報は、陸上にある対潜情報分析センターに送られます。
なお、ひびき型音響測定艦の目的は情報収集なので、武装はありません。



潜水艦救難艦「ちはや」。

わたくし「ちはや」については潜水艦救難艦について調べた時に
お話ししたことがあるので親近感があるんです。

自分のログからもう一度情報をキャプチャしてきました。


「ちはや」はハワイ沖で米原潜「グリーンヴィル」に衝突され沈没した
漁業実習船「えひめ丸」事故の際、引き上げ支援を
「災害派遣」(海外だから)という形で行っています。

実際に引き上げを行った米国海軍への支援、海中での遺品捜索のために、
「ちはや」が搭載した救難艇は、百数十回もの潜航を行うことになりました。

「国際潜水艦救難訓練パシフィックリーチ002」にも参加し、

荒天にもかかわらず全てのオペレーションを成功させた

他、救難艇は当初予定のソフトメイト(沈没潜水艦への達着)だけでなく、

ハードメイト(ハッチを開ける、より実際的な救難訓練)も成功させています。




さて、ここアレイからす小島には遊歩道のようなものがあって、
ここをそぞろ歩きながら護衛艦を眺めることもできます。
(これ、いいなあ)

そのために作られたらしいあずまやの近くに石碑を見つけました。



従軍する人を送る

陽炎に 心許すな 草枕

子規

正岡子規の句です。
子規が見送った人というのは、間違いなく日清戦争に従軍したということになります。
なぜなら、日露戦争の始まる2年前に、子規はわずか34歳で
結核のためなくなっているわけですから。

それにしても不思議な句です。
「陽炎に心許すな」とはなんでしょうか。
子規と従軍していく人は、草枕にねころびつつ、言葉少なに話し合ったのかもしれません。

陽炎とは春の季語なので、季節は春。
そこでふと気づくと、正岡子規は日清戦争の間新聞記者として従軍し、
大陸に渡っているのですが、その時期が
1895年の4月。

友人の従軍と、子規自身の従軍は同じ頃だったということになります。

友人の従軍を見送る子規自身、少なくとも1ヶ月以内に従軍が決まっていたわけで、
もしかしたらこれは
自分に向けていたのではないかという考えも成り立ちます。

「心許すな」

とは、子規が友人に、あるいは自分自身への訓戒としてそのときに発した
「警告」のような言葉だったでしょうか。

心許すも許さないも戦争に行けば自分の考えで何かを決定する、
ということなどないような気もしますが。

陽炎を季語であると同時に「儚いもの、泡沫のもの」とするならば、
「陽炎に心を許すな」→「実体のないものを信じるな」ということになります。

子規のいう「実体のないもの」とは、巷に言われるような
「戦地で敵に心を許すな」という身も蓋もない解釈ではなく、
もっと根源的な、深い意味があるのではないかと思えてなりません。

あえて無理やり解釈をしてみると、

「自分が生きているということをだけ実感しろ。
生の危険のあるところで自分の生を実感しなければ死ぬぞ」

ということでしょうか。

うーん・・・・自信ありません。


続きます。



戦艦「伊勢」慰霊祭~艦内見学

2015-01-21 | 自衛隊

さて、護衛艦「いせ」は戦艦「伊勢」の慰霊祭のため
呉港某岸壁(詳しくは知りません)をようやく出航しました。

これから、「伊勢」が大破着底した海域まで航行するのですが、



その音戸町坪井沖は実は呉からはこういう位置関係。
赤で線を引いたのが江田島の術科学校です。
渋滞のない海上をまっすぐ行くのですから、どちらにしても
あっという間に着いてしまいます。

「いせ」の中にいた時間のほとんどは出航と入港のための
作業に費やされたといった感がありました。

さて、慰霊祭以外の時間、我々はエスコートの自衛官に
案内されて艦内を見学したり、控え室である士官室に
飾ってあるものを見学したりして過ごしました。

出航作業を艦橋で見届けた後また部屋に帰ってきました。
何しろこの日はわたしのせいで雨だったので、
(知人よると晴れ女である彼女のパワーを上回るラスボス雨男がいたとのことですが)
甲板に出ることは誰もあまりしようとしません。(寒かったし)
そもそも慰霊祭も甲板では行われないのではないか?という
不穏な噂が飛び交い、皆が不安になっていたくらいです。

まあ結局行われなかったんですけどね。


さて、士官室の記念品コーナーには冒頭写真に上げた

これも「いせ」と「伊勢」の海上モデルがありました。 
こうして並べてみると、甲板の幅はともかく、「いせ」より
「伊勢」の方が実は全長は大きかったのだと気づきますね。



手前の木箱は何が入っていたのかわからなかったのですが、
式年遷宮の際建て替えで不要となった木材は「御用材」
として神宮内やその摂社・末社をはじめ、全国の神社の造営等に
リサイクルされるのですが、こういった「小物」も作り、
記念品のように配られることもあるようです。

むこうにあるお神楽の面のようなものは「何々神宮」の
「何々」の部分がどうしても解読できず<(_ _;)

状況から考えて「伊勢」しかないと思うのですが、
これがどう見ても「伊勢」に見えなかったもので・・。



「いせ」に搭載されているのはSH-60K。
ローターの先が波打ったようになっているのが「K」です。
今回は格納庫にももちろん甲板にも姿がありませんでした。



飾ってあったわけではありませんが、帽子置き場に置かれた正帽。
同じ幹部の帽子なのに、あまりにも違うので撮ってみました。

「抱き茗荷」の色が右=金、左=銀ですねー。
碇や碇鎖の形も全く別だし。
一つずつ手作りだとこうなるんですね。



さて、というあたりでお昼になりました。
前もって申し込んでおいたお弁当が配られます。
当初、

「1時に着岸予定なのでその後ゆっくり食べましょうか」

などと言っていたのですが、結局、お弁当で正解だったのです。

実はこの日、ある事情で着岸作業が予定より遅れに遅れました。
ゆっくり食事どころか、わたしは呉から広島空港までタクシーで
行くしかなかったくらいで・・・いくらかかったか思い出したくもない(−_−#)

フネのイベントがらみのブッキングはくれぐれも時間に余裕を持つこと、
そして変更不可能なチケットをこんな時に使わないことですね(自戒)



ご飯を食べたテーブルの横には大きなモニターがあって、そこでは
おそらく参加者のために「いせ」とその他自衛隊関連のビデオが
流されていました。
これは「いせ」が就航した時のものと思われます。



おお!これはもしかしてフィリピン派遣の時の?
赤十字の腕章をつけている医療チームは陸自部隊。
今からヘリに乗り込むところみたいですね。

そのほか、あの「国防女子」の撮影の様子がなんとDVD化されていて、
宮嶋カメラマンは全く登場していなかったのですが、
制服を着てきりりと、あるいはオフタイムでお化粧をして
バーでカクテルを一杯やっている妖艶な大人の女、みたいな図を
イメージビデオ風に撮ったものが流れていました。

そうかと思えば、同じ国防女子でも、観ている人たちが

「これ・・・・女の人?」「女・・・だよねスカート履いてるし」

と思わず口にしてしまうボーイッシュ(というのも甘いくらいの)
な隊長にしごきまくられる新人女性自衛官のドキュメントなども。
そのインタビューで、新人さんの一人が

「どうして自衛隊に入ったかというと、『海猿』を見て憧れてー」

と答えた途端、横にいた某さんが

「あー、一番嫌いこういうパターン」

と憎々しげに(笑)言い放ちました。(; ̄ー ̄)」 まあまあ

さて、ここらで士官室をもう一度出てみます。



なんとっ!

いきなり艦長室を公開か?
それにしても無駄に写真が大きくてすみません。
ドアを開けたところにプライバシー用にカーテンの仕切りが。
まるで病院の個室みたいです。



壁が電話だらけ。
これじゃどれが鳴ったかすぐにわからないのではないか、
と思ったけど、今時の電話は鳴ればそれが光るので無問題。
さっき「おおすみ」のバケツリレーで皆がかぶっていたもの、
それからそうりゅう型の甲板に立っている乗員がかぶっていたのと同じ緑色のヘルメット。
どうやら自衛隊の安全ヘルメットは最近これらしい。

そして机の角には・・・・灰皿!

どうもタバコを嗜まれる模様。
艦長だけは部屋で吸ってもいいようです。



別の角度からもう一枚。
普通の会社の事務所との違いは、やはり大きな鏡があること。



ちょっと失礼しますよ。
ココが艦長室のバスルームだ!。



バスタブは、その辺のワンルームのよりずっと広くて
深く、なんとすのこにお風呂イスまでついた洗い場あり。
さすがはニッポンの護衛艦です。

アメリカの軍艦なら水兵だろうが長官だろうが、シャワーだけでしょう。
本当にアメリカ人って、お風呂に浸からないんですよね。
バスタブのないシャワーだけのホテルもたまにあるくらいです。



ベッド下に引き出しを備えたベッド。
「バウムクーヘン」と言われるたたみ方でシーツと毛布が
ピシッと置かれていてその美しさに唸ってしまいますが、
これも、艦長が自分ででやるんですか?それとも従兵?



艦長のバスルームが出たのでついでに。
護衛艦の中のトイレに行ったことがありますか?
水は海水を使用しているのですが、タンク式ではなく、
その都度レバーを(というかバルブだったけど)捻って
必要なだけ流して止める、という方式です。

海の上には海の上のルールがある。

そういうことですねわかります。



これはなんとなくわかる。
アメリカのホーネットにもこんな部屋がありましたっけ。
飛行科隊員の控え室?
ブリーフィングのできるモニター(昔はホワイトボード)と、
いかにも座り心地の良さそうな大きな椅子は万国共通。



おっと、どんな音楽を聴くのか知らないがスピーカーはBOSEだ。
(これ、うちのより上級機種だと思う・・)



ブルーのシートが張り巡らされた部屋(ここも食堂?)には
雨なので行く場所のない人たちがテレビを見て時間潰しをしていました。
わたしたちは案内がいたからうろうろしていたのであって、
案内なしに勝手に艦内を歩くことはできなかったのかもしれません。



どうも「いせ」は就航以来毎年必ず二つ以上の「優秀艦」

表彰を受けている模様。
この優秀艦というのが毎年何隻受賞するのかはわかりませんが、
「対潜優秀艦」とか「術科競技(航海)優秀艦」と言われると、
「お、凄そう」と思いますね。

「(衛生)優秀艦」とか「給食業務優秀艦」とかは、
一体どうやって決めるのだろう、とか不思議ですが。

因みに自衛隊では護衛隊群で優秀隊員というのも選定しており、
例えば

第3護衛隊群 平成20年度優秀隊員

などのように、各部門にわたって個人技の優秀さを競う模様。
海技試験資格保持者とか、戦術試験資格保有者とか、
スペシャリストであったり、あるいは艦対抗の競技で優秀な成績を修めたり。

山のようなキャベツを刻んでいる給養員がいるかと思ったら、
「パソコン等情報システムのプロ」と称されるナードタイプがいたり。
誠に自衛隊は多様な職種の集合体であると改めて感心します。

わたし個人的には「パソコンのプロ」秋吉海士長の眼鏡が気になりました。



後ろにはメニューが出ていますが、通りかかった海曹が

「何かつけましょうか」

と言ってくれたので、わたしと知人が

「これ、RIMPAC2014(だったかな)ってヤツにしてください」

というと、

「これ、まっっっっっっったく面白くないですよ」

いえいいんです、とつけてもらって始まることしばし、わたしと知人が
すごーいとかうわーとか小並感あふれる嘆声を発しながら見入っていると
もう一度さっきの海曹が通りかかりました。

知人「これ、面白いですよ」わたし「わたしも面白いです」
海曹「はあ・・・・(´・ω・`)」

彼の顔にはありありと「変な奴ら」という表情が・・・。


画像の海士君はこのときたまたま通りかかったのですが、
なかなかのイケメソ(というか俳優みたい)だったのでモデルをお願いしました。
最初普通に立っていたので、

「すみません、手をグーにしてグーに」

とお願いしてモデル立ちならぬ海軍立ちのポーズを注文。
星を被せましたがそれでも隠しきれない涼やかな目元が素敵でしょ。


続く。 



 


海軍兵学校同期会@江田島~最後の帝国軍人海幕長

2015-01-20 | 海軍

江田島の海上自衛隊での一日が終わりました。
真白い制服に身を包んだ自衛官がバスの通る道ぞいに
きっちりと整列し、5台のバスが全部門から出て行くまで
「帽振れ」をし見送ってくれたことは、わたしにとってもですが、
わずか1年半の間海軍軍人であった彼らにとっても、
さぞ感激であったことと思われます。


教育参考館から赤煉瓦前の道をバスが通ることは許されていないらしく、
5台のバスは、切串港のフェリーに乗る4台も、音戸の瀬戸を回って
地続で広島まで渡る我々のバスも、同じように裏門から出ました。
この裏門は一般公開の見学客が決して通ることがないので、
たとえば



このような校内からの眺めもご存知ないでしょう。

皆さん、この可愛らしい自衛艦、なんだかご存知ですか?
YTE12とYTE13、ちょっと艦橋が違う二隻の船。
これは練習艦、すなわち江田島で学ぶ自衛官たちのための
トレーニングシップなんですね。

幹部候補生や術科学校の課程で使用されるもので、
江田内ではよくこのどちらかが目撃されるそうです。
左の「12」が110トンクラス、右「13」は170トンクラス。

突堤には車が2台停まっていますが、これは両艦の艦長の車?
停泊していましたがこの日は平日で艦長は在艦しているはずですから、
多分そうだと思われます。 

このようなものが見られるというのも中々役得だわ、
と喜んでいたら・・・



うおおおおー!

古物現物唯物懐古教の熱心な信者であるところのエリス中尉歓喜。

こっこっここっこここれは!ってニワトリじゃないんだから。
これは間違いなく戦前からあったと思しきトタン張りの
倉庫のような秘密基地のような・・・。

トタンは錆びて木で作られている窓枠もそのまま、
そしてこの黄色いトロッコ?みたいなものは?
もしかしたら魚雷のような武器兵器を運んだりとか?


 
運用実習講堂。

「運用実習講堂」「江田島」でググると、三番目くらいに
当ブログの先日の記事が出てくるわけですが(笑)
それくらいしか記述がないのでそこから引用すると、

「海軍兵学校沿革」という蔵書の明治21年の項には

四月 江田島ニ新築中ノ建物、物理講堂、水雷講堂、運用講堂、重砲台、
官舎、文庫、倉庫、活版所、製図講堂、雛形陳列場、柔道場等落成ス

と書かれており、この「運用講堂」がここだったのではないかと思われます。
もちろん明治21年の建物がこれだとは思えないのですが、
当初から運用講堂の場所がここであったことは十分推測できます。
おそらく昭和になってから建て替えられたのでしょう。

この、非常に原始的な?機構の引き戸には張り紙がありますが、
赤丸にペケで「禁止」となっているのはどうも携帯電話の模様。

もしかしたらライターとかタバコかもしれませんが、
走るバスから撮った写真なので惜しいところでわかりません。



クーラーは窓を中途半端に開けて設置されており、
この窓の佇まいを見ても間違いなく兵学校の遺物でしょう。
何でもかんでも壊して新しくしてしまう日本人ですが、
ここ江田島はおそらく昔からのものに手を入れることに
厳しく制限がかかっているのかとも思われました。

でなかったら、いくら使えるとはいえこんな建物、
壊して建て替えたっておそらくOBにはわかるまいし、
とっくの昔になくなっているはずだからです。

でも、いいですよねー。

ここが何で具体的にどう使われているのかぜひ知りたいものです。
っていうか「運用講堂」って何を運用するんです?



グーグルアースで見たところ、半分が茶色く錆びた屋根がこの

「運用講堂」のようです。
なぜ半分だけ綺麗になっている・・・。

そういえば大和の大屋根(旧ドック)も、半分だけこのように
塗り替えられていて変なのですが、同じ理由でもあるのでしょうか。




ここは運用講堂の横なのですが、つまりこれも
自衛隊の施設ということになります。
ヨットのような船がグーグルアースだと8叟見えていますが、
それがこれ。
こんな船も実習に使われるのでしょうか。
(それともクラブ活動?)



グーグルアースを見ていると、所々に紺色の点々が
規則正しく並んで行進しているらしいのが見て取れました。
さすがは自衛隊、ちゃんと列を作って歩くんですね。



術科学校の「裏門」は、こちらの方は本当に形だけのような警衛詰所が、
ポツンとあって、そこを通るときも自衛官が帽を振っていました。

こうして完璧に江田島を後にしたのです。



地元の釣り船などが停泊していました。
牡蠣の養殖業者もいるので、そういったところを回るための船でしょうか。




対岸にある山のように見えますが、実はこちらと地続きで、
津久毛瀬戸という細い細い海峡は、この山を向こうに回り込んで、
対岸との間に走っています。
江田島湾とは本当にここにだけ切れ目がある湾ですから。
どうりで波が全く立っていないわけです。

さて、わたしたちのバスはフェリーに乗るその他4台とすぐに別の道に
別れました。
今から音戸の瀬戸方面に回るので、わたしたちのバスだけが
もう一度術科学校の玄関(裏門、ね)の前を通ることになったのです。



到着の時に気付いたのですが、学校前の街灯は
錨のデザインがなされています。
なんどもここに来ていながら今まで気づかなかったのは、
この街灯の高さが歩いていると気づかなかったからで、
バスの車窓からはちょうどいい位置に見えました。



今見ると大変不思議な写真。
バスが学校の門の前を通過し、こちら側の警衛の自衛官が
やはりみんな帽振れをしてくれたので、バスの中の人々も
みんなで手を振っているのですが、どうしてバスがこの時
完璧に学校の中に向かっていくように見えているのか・・・。


運転手さんは女性で、観光案内もしながら走ってくれたのですが、
最後にバスのノーズを学校の門に向けてくれたのかななどと考えました。


さて、前回も少しお話ししたのですが、この期からは
「最後の海軍出身海幕長」が出ています。
第16代海上幕僚長の長田博氏がその人なのですが、
この人のことについて少しお話ししておきます。

長田海将は兵学校に「四修合格」しています。
当時、中学校の就業期間は5年で、兵学校には4年を終了した時に
受験することができ、それを「四修」と呼び、
5年生を卒業して合格した者を「五卒」と称していました。

前にも一度「ネイビーシリーズ」で書いたことのある大野竹好中尉はこの
「四修」組、
すなわち兵学校の中でも「できるやつ」という位置付けだったわけですが、
長田生徒は
柔道の稽古中骨折していたため、体力検査ではねられ、
次の期であるこの学年に入学したのでした。


戦争が終わり、長田氏は他のこの期の生徒たちと同じように
「生徒を免ずる」という辞令を受け取ります。

その際、1号は旧制大学の1年に、2号は旧制高校か、あるいは
旧制専門学校の2年生に転入学できるということになっていました。

入学の時に5卒であった、今回わたしの仲良くなった件のダンディ生徒が、
旧制大学を
受けたものの、面接ではねられたため旧制高校に行った、
という
話をしたことがありますが、この時にGHQの方針で、
旧帝大には10パーセント以上の軍校出身者を入れるな、とされたため、

軍人(しかも高官)を父に持つこの生徒が不合格になったのも
まあ当たり前といえば当たり前であったと言えましょう。

長田氏は進路を決めるとき農林水産講習所の関係者から

「将来もし海軍が再建されたら、遠洋漁業科卒業生は
海軍に戻ることができるであろう」

と聞き、躊躇することなくここに入学を決めました。
現在の東京海洋大学です。

その後長田氏は海上自衛隊の道を幕僚長まで歩いて退官し、2年前に死去しました。

その長田氏が一等海尉で、呉第7艦隊、護衛艦「あけぼの」
砲雷長として勤務していた時のことです。

第一護衛隊群の訓練で津軽海峡を航海中、当直の哨戒長だった長田1尉は、
出撃配備に占位する前に艦橋に上がってきた
「あけぼの」艦長(兵学校69期)に、
信号で「右の端」と指定された占位位置を
誤って「左の端」と報告してしまったのです。

艦長は占位運動中CIC(戦闘情報センター)からの報告により、
その位置が間違えていることを知り、
正しい位置に戻す際、同じ訓練中の「いなづま」に衝突してしまいます。

当ブログで

「いなづまに巡る因果」

というエントリを起こしてこの事故について触れたことがありますが、 
これはこの衝突によって「いなづま」 の乗員2名が死亡、そしてそれのみならず
衝突の応急処置のためドック中だった「いなづま」の艦内で火災が発生し、
合計6名が殉職するという、海上自衛隊史上に残る大事故だったのです。

審判は函館で行われました。
長田1尉は事故の責任はすべて自分にあるとし、退職を覚悟したそうです。
しかし「あけぼの」の艦長は、

「操艦していたのは自分であるから全責任は自分にある。
砲雷長には責任は無い」

と主張し、審判の結果、衝突の原因を作った長田1尉は不問に付せられました。 

艦長はそのまま艦を降り、二等海佐のまま退官したそうです。
そののち長田氏が海幕長に就任した時に、新聞のインタビューで

「尊敬する先輩は?」

という質問に対し、長田海将はその艦長の名前を挙げました。
事故の原因を自分一人が負い、若い部下の失敗をも引き受けて、
自衛隊をひっそりと去った人の名前を。

そのインタビューが新聞に載ってからしばらくして、長田海将は
かつての艦長から手紙を受け取りました。
それには

「君の活躍をいつも嬉しく思って見ていました。
しかし自分から連絡することで、君に迷惑をかけてはいけない、と思い、
陰ながら応援していました。

先日、君の記事を読み、そして身にあまる言葉をもらい、
驚きと感謝の気持ちでいっぱいになり、迷った末手紙を出すことにします」

という出だしに続き、やっぱりあの事故の責任は自分にあった、
ということとともに

「わたしの自衛官としての人生は幸せでした」

という言葉が添えられていました。

あの事故の時、普通にその責任の所在を長田1尉ひとりに被せたとしても、
事故を起こした艦長が、自衛隊で出世することはなかったと思われます。
しかし、たとえ自己防御の意識からそうしたところで、
誰にもそれを責められることはなかったでしょう。

ただ、確実に言えることは、もし「あけぼの」艦長がそれをしていたら、
「長田海上幕僚長」はおそらく生まれることはなかったということです。

制服を脱いだあと、この元艦長は、長田氏の順調な昇進を応援しながら、
「自らの身を顧みず」、事故の全責任を一身に負ったことで
この未来を守ったのだ、という充実感を味わっていたのかもしれません。

そして、その思いが彼をして「自分の自衛官人生は幸せなものだった」
と言わしめたのではなかったでしょうか。



長田海将はこの手紙を読んだ後、こう誓ったのだそうです。

 「あけぼの」艦長の言葉や行いは、海軍の良き伝統の上にこそ
生まれた。
  ”最後の海軍経験者”として、このような
生き方を示し
  後世に伝えていくことこそが、私自身の使命である。

と。 



そして「今、あの艦長に対して恥ずかしくない自衛官であるか」
を常に自分に問いかけながら、海上幕僚長として自衛官人生を終えました。

長田海幕長が退官した時、朝日新聞はそのことを伝える記事で、彼を

「最後の帝国海軍軍人海幕長」

と呼んだそうです。

 

続く。 


 


海軍兵学校同期会@江田島~「嗚呼同期の桜」orz

2015-01-19 | 自衛隊

さて、呉地方音楽隊の演奏会によって感動的な終わりを告げた
海軍兵学校同期会@江田島。 

演奏会が終わり、わたしたちが席を立ち会場を後にする間、
音楽隊は普通のコンサートのように楽器を片付けたりせず、
ただじっと微笑みを浮かべつつその様子を見ていました。
始まるときにもすでにステージにスタンバイしていましたし、
普通の音楽会と比べるとその様子は少々異質に感じられます。 

ここでは自衛隊はあくまでも「お迎えし、歓迎する立場」
であろうとしていることをこんなところからも感じました。



会場を出て左手に見える建物はこれも生徒館。
あの赤煉瓦の生徒館の後ろに並行して建っているものですが
・・・・・なんというか思いっきり「普通」。
出身高校の校舎もこんなだったなーという感じです。

もっとも、真継不二夫カメラマンの写真集にも
これとそっくりの建物があるので、もしかしたらこれも
昔の雰囲気を残して復刻した建物かもしれません。 



そのあと我々はスタンバイしていた帰りのバスに乗り込みます。
TOはそのまま仕事で現地に残ったので、わたしは一人で
夜の飛行機に乗るグループのバスに座っていました。

すると、バスの窓越しに、演奏を終えた音楽隊員たちが楽器を手に手に引き上げてきます。
この後ろに停まっているバスは「KURE BAND」と書いてあり、
彼らも練習場までこれで帰るのですが、なぜかバスに乗り込みません。

 

そこにM海曹発見。
当ブログでは音楽まつりで彼がソロを歌ったときに実名で写真を挙げたことがあるのですが、
結構たくさんの方が
彼の名前を検索してやって来られます。

おそらく「国防男子」以降、増えたと思われる全国のファンのために、
彼を中心に写真を撮っておきました。



はいどうぞ。
いつ見ても笑顔がさわやかですね。

ところで今気づいたのですが、向こうで手を腰にしているのって音楽隊長ですよね?


さて、 わたしが音楽隊員の写真を撮りまくっていると、
このツァーに参加するきっかけを作ってくださった方が、
息急き切って?バスに乗り込んできました。

ん?確かこの方は新幹線で帰るコースのため、別のバスのはず。

「赤煉瓦の中、入れますよ!」

ハアハア言いながらその方がわたしに教えてくれたのは、
演奏会場からバスの駐留しているところの間に、
赤煉瓦校舎の中庭を臨む場所にあるお手洗いがあり、
バスに乗り込む前にトイレに行きたい人をそこに案内している、というのです。

「横にあるんですよ、あの『同期の桜』が!」

ご存知、「同期の桜」は、元々「戦友の歌」といい、
西條八十が最初に書いた詩は

    君と僕とは二輪の桜
   積んだ土壌の陰に咲く
   どうせ花なら散らなきゃならぬ
   見事散りましょ皇国のため 

というものだったそうですが、このメロディに兵学校71期の
帖佐裕生徒がいわば「替え歌」として

「貴様と俺とは同期の桜」

という歌詞をつけて兵学校関係者に爆発的に広まり、
いつの間にかこちらが有名になってしまった、という経緯があります。

つまり、西條八十はこの曲に関しては後塵を拝すというか、
「貴様と俺」「同期の桜」というインパクトに完全に
お株を奪われた状態であるわけですが、それはともかく、
その「同期の桜」と名付けられた桜が中庭にあると。

「今なら間に合いますよ!見て来られたらどうですか」
「行ってきます!」

その方の言葉が終わるか終わらないうちにわたしは
カメラだけを持ってバスを飛び出しました。
飛び出しながら、これでお別れだったのにその方に
お礼どころかご挨拶すらしなかったことに気付きましたが、
今はそれどころではありません。m(_ _;)m

昨日も海軍墓地で全力疾走し、ここでもまた・・。

普段ぐーたらしている人間ですが、こんなときには
一体どこからこんな瞬発力が生まれるのだろうと我ながら
不思議なくらい動作が機敏になるものです。



言われたところに走り込み、とりあえずそこで走りながら
なぜか「女子便所」を撮るエリス中尉。

ああっ、わたし動揺してる?

トイレの前に立って不審そうにこちらを見ている女性は
ツァー客ではなく、何かの時のために配されている
学校関係者であったように思われます。

彼女が驚いたようにこちらを見ていますが、トイレに向かって
一直線に血相変えて走ってくる人がいたら、普通理由はひとつ。

今にしてこの写真を見たら

「よっぽど切羽詰まった状態の人が全力で走ってくる」

と思われていたらしいことが薄々というか良くわかるのですが、
そのときは全くそんなこと考えもしませんでした。

どこ?同期の桜はどこ~~~



何かわからないけどここは紛れもなく、
あの数々の映画に登場し、写真でも見た生徒館中庭。

ああ、感激・・・している場合ではないのよ、今は。


どれが同期の桜かはわからないけど、とりあえず
桜の木みたいなのがあるからこれを撮っておこう!

後から「同期の桜」をググったところ、現物はこれではなくorz、
もう少し中央寄りに、
根元に近づけないように煉瓦で円を描いてある木が
そうであったとわかりました。(T_T)

まあ、一般ツァーでは入れないここ中庭に入り、この写真を撮れただけでよしとしよう。

そう思ってふと振り返ると、なんと後ろには、
息急き切ってトイレに全力疾走していく参加者の身を案じて、
2~3人の自衛官が付いてきてこちらを見ているではありませんか。



・・・・・・・・・・・・・・。


しかしね。

そのときはなぜかそうは思わなかったのですよ。
振り向いて付いてきていた自衛官たちを見たときに、てっきり

「立ち入り禁止区域に入り込んで写真を撮ろうとしている
不審者に見られたので追跡された」

と思ってしまったのです。
まあ、そういう風に思われた可能性もゼロではありませんが、
後から考えて、この日の自衛隊側の参加者に対する細やかな、
そして万全の態勢で見学を恙なく楽しんでいただこうとする
気遣いと心配りの数々を慮れば、これはどう考えても

「心配してくれた」

というものでしょう。(だといいな)
しかし、後ろを振り向いてびっくりしたわたし、それ以上
「同期の桜」がどこにあるのかなど尋ねる勇気を持たず

「ああっすみませんでした用事は済みましたから戻ります」

とばかりにUターンし、そそくさとバスに戻ったのでございます。

あのとき聞けば、多分「同期の桜」の写真、撮らせてもらえたと思うんですけどね。

人員点呼に遅れることなく席に戻り、息を弾ませ、
(; ̄ー ̄A 汗を拭いていると、バスが動き出しました。



ふと車窓を見ると、音楽隊員が帽子を振っています。
おお、もしかしたら海上自衛隊は「帽触れ」でわたしたちをお見送りしてくれるのか!?



息を弾ませるのも忘れて?動くバスから写真を撮りました。
彼も音楽隊員です。



音楽隊員はバスに乗り込む前に我々が出発ということで、
手荷物を持ったまま見送ってくれている人もいます。



バスは一般見学客が知らない裏の門から出るらしく、
武道場の方に向かって動き出しました。
西生徒館の前の通路、側溝の蓋の上に()綺麗に勢ぞろいした自衛官が皆で「帽振れ」。
こういうときに並ぶのも、「序列」があるらしく、



だんだん右に行くにつれて金線の数が増えてきていました。
確か徳丸校長もいたと思うのですが、写真を撮りそこないました。

バスの窓からそれを認めたとき、車内の参加者は「おお!」

とめいめいが言葉にならない感激の様子を表しました。
窓際に座った人たちは皆手を振ったり、自分も帽振れをして
それに答えています。

この写真の真ん中辺にいるスキンヘッドの士官は、
わたしたちのグループを案内してくれた杉山1佐(仮定)です。
徳丸校長に前夜の懇親会でついてきていた副官も
スキンヘッドだった記憶があるので、
もしかしたらこの人が、
と思うのですが、それなら校長の近くに立つかもしれませんね。



海軍のOBだからこそ、自衛隊側は海軍伝統の帽振れで見送って、
最後の最後までこうやって敬意を表してくれたのでしょう。
今回「海軍OB」の一行の一員としてこのツァーに参加したことを、
わたしは身にあまる光栄として、一生の思い出にしたいと思いました。

バスは武道場の前を通りかかります。

手を振っていた幹部たちの列はとうに視界から消え、
警衛のために要所に立っている海曹が、
やはり最後の一台が通り過ぎるまで帽振れしているのが見えました。


5台のバスのうち、わたしの乗った空港行き以外の4台は、
そのまま島を左回りして、元来た切串港からフェリーに乗ります。
わたしたちは飛行機が夜の7時と時間を持て余すので、
地道を通って車上観光をしながら広島空港まで向かうことになりました。

ところで本稿の「同期の桜」の部分を書くために検索したのですが、
兵学校の時代から、この校内には大変桜の木がたくさんあるのに、
そのうちの一本だけを「同期の桜」としたのか、その撰定の理由は
どこを探しても載っていませんでした。

どなたかこの事情をご存知の方はおられませんでしょうか。



続きます。(えっ?)



 





 

 


戦艦「伊勢」慰霊祭~「いせ」出航作業

2015-01-17 | 自衛隊

「ただいま出航いたしました」というアナウンスの後、
矢継ぎ早に艦橋では乗員たちの声が飛び交います。

「内角5度~!」「内角5度!」
「右後進最微速翼角整定!」「右更新最微速翼整定!」



そのとき艦首では、喇叭と同時に降下された艦首旗を
たたんでいるのが見えました。

続いて

「内角7度~!」「内角7度」
「両舷ていーし」「両舷停止っ」



こちら航海長でしょうか。
今ここにいるのは、艦長が立ち確認するのを待っている模様。

その間もその後ろの乗組員たちの真剣な声が飛び交います。
冒頭写真はその様子ですが、真ん中にいる先任伍長に、
わたしはその少し前ご紹介を受け挨拶をしました。

「こんな格好をしてますが普通の男です」

と笑いながらおっしゃったので思わず和んだのですが、実のところ
こちとら「こんな格好」を見慣れているため、先任伍長の言葉に

「いやすみませんが十分普通の人に見えますけど」

などと内心思っていたのでした。

ところが出港後の艦橋で見かけた先任伍長は、もしさっき合わなかったら
同じ人とは思わなかったかもかもしれない、というくらい、
その雰囲気や顔つきまでもががらりと変わってしまっていたので、

「今がその”普通でない瞬間”なのね」

と深く頷いた次第です。
いやー、かっこよかったですよこのときの先任伍長。美声だし。
「取り舵」の指示を出すのが先任伍長の役目のようです。

「両舷後進両角整定」「両舷後進両角整定」

ぼ=====、ぼ=====(汽笛)

「とーりかーじ」(先任伍長)「とーりかーじ」
      「とーりかーじ」   「とーりかーじ」

大事なことなので三回復唱します。

「取り舵15度っ」「取り舵15度」

「30度」「30度~~!」

「取り舵30度」「取り舵30度」

「両舷後進びそーく」「両舷後進微速」



ちょうどこの時ウィングの艦長。
厳しい眼差しを見せる横顔が絵になります。



岸壁に立つ見送り。
こういうときにもちゃんと整列するんですね。
帽触れはこういうときにはしません。



タグボートもお仕事しています。
自衛隊的にはタグボートは「支援船」(またでた、”支援”!)の
「曳船」というのが正式名称です。
海上自衛隊の所有ですが、「自衛艦」ではありません。
つまり自衛艦所有のゴムボートにさえつけられる自衛艦旗を
付けることはないということになりますが、ごらんのようにちゃんと
艦首旗・・・・じゃないですよね。なんていうのかしら。
とにかく日の丸をはためかせて巨大な「いせ」の出航作業を補助しています。



押し終わったらしく、曳船は「いせ」から離れていきます。
艦体を押す舳先にクッションのようなものをかけていますね。
拡大してみると、操舵室にいるのは三人でした。



曳船はつねに二隻一組で曳航作業を行います。
一仕事終わってこうやって並んで(必ず前の船の航跡を追っている)
帰っていく姿に萌え~。



曳船から目を転じるとそこには雨雲に煙った呉の山々が。
わたしなどこういうとき、かつて先ほどと同じ出航作業の声によって
出航していった海軍の軍艦がここにあったときのことを彷彿としてしまい
つい70年以上前に想念を辿らせてしまうのでした。



ちょうど眼下の後甲板では、出航と同時に降納された自衛艦旗を
たたんで手にした降納係?の海曹二人が歩いて戻ってくるところ。



気がつくとジャイロコンパスレピータの前に艦長がいました。
右に左に目を走らせ、双眼鏡を当てて、を繰り返します。
ジャイロコンパスレピータは

「ジャイロコンパスの指度を指示するレピータ」

という定義が防衛省の資料に示されています。
別のところにあるジャイロコンパスの指度を、たとえば
無線室など、自動操舵装置の機器やブリッジ以外の場所に
転送して表示するものです。



このとき、出航作業の「山」は越したのか、艦内に向けて再び
先ほどの女性海曹がアナウンスを始めました。

「ここで『いせ』の誕生について説明いたします。
『いせ』は『ひゅうが』型ヘリコプター搭載護衛艦の2番鑑であり、
従来のヘリコプター搭載護衛艦から格段に向上したヘリ収納能力、
及び最新型装備を導入した最新鋭護衛艦として、平成23年、
IHIジュアパンマリンユナイテッド横浜工場で完成・・・」

それを聞いていたわたしが

「横浜だったんだ。そういえば磯子っていうところがあってね」

と隣にいた知人(誘ってくれた人)に話しかけたところ、
ちょうど同時に彼女が

「航海長の”いただきます”が生で聴けました」

とこちらに向かって言いました。
彼女は放送ではなく全く別のものに注目していたのです。



レピータの前の艦長と交代するとき、航海長は「いただきます」
と必ず言うことになっているのだそうですが、
ちょうどそれがわたしが喋り出すのと同時だったようです。

というわけでわたしはそのとき聞き損なったわけですが、
こんなこともあろうかと(嘘)動画を撮っていたので
この部分を後で見直してみたところ、わたし自身の声と後ろの
「両舷停止」にかき消されて
全く聞こえませんでした・・・orz




そういえば、昔軍艦が文字通り「操舵をもらう」であった頃、
それもまた帝国海軍時代のことですが、ミッドウェー海戦の
旗艦「赤城」艦上で南雲忠一長官が艦長に「もらうぞ」と操艦を代わり
あっという間に魚雷を8本回避して総員を驚かせたという話を思い出しました。

今でも「もらいます」「いただきます」なんですねえ。



見学者が皆で超盛り上がった瞬間。
「そうりゅう型」潜水艦が海面航行しています。

そう、この写真をアップしていいのかどうかを以前
読者の皆さんにお聞きしていたんですよ。

海面から上は普通にどこでも見られるので大丈夫、
ということでしたので安心して出すことができます。
ただ、スクリューの形が丸見え状態だったので(そりゃそうだ)
配慮するべきかどうかわからないまま一応配慮して
スクリューの写っていないものにしました。

乗員は前に10人、司令塔に4人、フィン?に一人、

中央に10人、後ろに7人と32人見えています。
「そうりゅう型」定員は64名とのことですが、ちょうど半分。
内と外に半分ずついるってことでよろしいでしょうか。

どうして皆上に立っているかというと、そう、「いせ」に挨拶してたんです。
わたしのいる場所から聞こえませんでしたが、「いせ」からは
答礼として喇叭が吹鳴されていたようです。


護衛艦いせ そうりゅう型潜水艦の敬礼に対し答礼



この写真もスクリューだけ消しておきました。

もしかしたらそこまでする必要なかったかな・・。



最新鋭型護衛艦ですもの、全てが電子化されていて
紙のチャート(海図)なんぞすでに使っていないのでは?
・・・・とは別に考えたこともありませんでしたが(てへっ)、
やはり「いせ」でも紙チャート健在。
どうも下の製図作成器みたいなのから出てくるらしい。

電卓と大きな定規を使って書き込んでますね。 
ENC(Electronic Navigational Chart)は使わないのかな。

護衛艦という船のシチュエーションによってはGPSが
必ず使える状況とは限らないので、いざというときのために
マニュアルで日頃からやっているんですねわかります。

もちろん艦橋内には電子チャートもありまっせ。

先日88歳の方を助手席に乗せたとき、(若い時にはそれこそ
ギラギラのスポーツカーを乗り回し、BMWがまだ日本に
輸入されていなかった頃にすでにオーナーだったという)

「ナビを使うようになって、車に地図も置かなくなりました」

「でもあの地図でこの道を行こうとか考えるのが楽しいんですよ」

「そうなんですが、日々のことになるとどうも・・・、それに
地図を見なくなると地図の見方が下手になりますね」

「使わない能力は退化しますからね」

という会話をしたことを思い出しました。
レベルの違う話かもしれませんが、何でも簡易化させていけば、
それを扱う人間の能力はそこから一歩も動かず、たとえば護衛艦でも
いざとなったら大海原の中でGPSの使えない中、最悪の場合は
天測もろくにできない乗組員ばかりがおろおろする結果になります。

出航作業に帝国海軍時代そのままの掛け声を使い、
プリレコーディングではなく人間の吹く信号ラッパを合図にする。

頑なに海自が海軍のやり方を守るのにも、旧習墨守や懐古ではなく、

「フネを動かすのは、人」

という根本がそこにはあるからに違いありません。



続く。




 


海軍兵学校同期会@江田島~呉音楽隊演奏会「艦隊勤務」

2015-01-16 | 海軍

まだまだ続いている海軍兵学校同期会の江田島訪問です。
この江田島旧兵学校シリーズ、ご自分がかつてそこにいた、という方や、
息子さんがいた、あるいはいる、という方々から楽しみにされていると知り、
こちらとしても大変やりがいを感じております。


さて、一般の人々が入れない「特別コース」の見学がすみ、
記念写真撮影をした後には、海上自衛隊呉音楽隊による
演奏会が行われました。

その演奏会のために案内された場所を見てびっくり。
まるで本日の演奏を行う呉音楽隊の練習場所である「桜松館」の
現代版といったらいいのでしょうか、ステージを備えた雛壇式の客席を持つ、
とても立派でしかも新しいオーディトリウムがあります。

写真を見てもおわかりのように最近施工したばかりのようで
少なくとも5年以内の建築かと思われます。

前回、「ここはなんでしょうか」と最後にお聞きしたところ、
「映写講堂」という昔から変わらぬ名称が使われている視聴覚講堂で、
当時からそれは同じ場所に同じ目的であったらしいとわかりました。




参加者が順次席に着くのを待っている間、すでに音楽隊は待機していて

その様子をこうやって眺めています。
これも普通の演奏会にはあり得ないことで、客入れが全部済んでから
音楽隊が入場するのを客が迎え入れるというものでしょう。


元陸幕長とお話をした時、自衛隊はいつも「国民に対し下から目線」
であろうとしている、
とおっしゃったのが印象的だったのですが、
特に今日の一行は、自衛隊の皆さんにとって「ただの国民」ではありません。
彼らがその精神の後継者であると任ずるところの、海軍の元軍人なのです。



演奏会に先立ち、第一術科学校長の徳丸海将補が挨拶をしました。

この前日の懇親会の挨拶でも思いましたが、この方、お話が上手い。

通り一遍でない、何か心に残ることを簡潔にスピーチに入れ、
しかも歯切れよく短時間で喋り終えてしまうのです。
このときの海将補は、

「皆さんが兵学校に入学してから70年が経ちます」

と、まず出席者の戦後の日本での活躍を讃えた後、

「わたしども海上自衛隊は、戦後もここ呉では掃海活動を通じ、
いわば途切れることなく皆様の遺志を継いでやってきました。
そして来年、戦後終戦から70年になるわけで、これも歴史と考えると
ようやく同じ歳月を経て皆様方に追いつくことになったのであります」

正確ではありませんが、こんな感じの導入の後、

「これからも皆様の思いを受け取ってそれを絶やすことなく
やっていきたいと思っております。
どうか海上自衛隊をこれからも可愛がってやってください」


可愛がってやってください、という言葉は非常に印象的だったので、
これだけは間違いなくそのまま覚えているわけですが、
現代の海上自衛隊ならではの一言だなあと微笑ましい気持ちになりました。


もう少し昔、まだ軍人世代が社会の第一線だった時には

当然ながら自衛隊の中にも旧海軍軍人がたくさんいました。

海軍出身の上官は厳しく、当たり前のように体罰も行われ、
さらには訓戒やお説教のとき何かにつけて出る「海軍では」
の言葉に、「海軍を知らない子供たち」は随分反発したものだそうです。

それらの人々が一線を退き、さらに年月が経ちました。
今となっては自衛隊にも、海軍軍人の薫陶を直接受けた者すら、
少なくとも現場からはいなくなりつつあります。

だからこそ、まるで祖父に甘える孫の言葉のような、

『可愛がってやってください』

が何の違和感もなくなったと言えるのかもしれません。



続いて兵学校元生徒側の代表による挨拶。

前夜の懇親会でもこの生徒が挨拶をしていたので、
おそらく同期会の会長のような方でしょうか。

ちなみにこの期生からも、海上幕僚長を一人出していますが、
この方が退官の際には、

「最後の海軍軍人出身の海幕長」

として朝日新聞に取り上げられたのだそうです。
今なら朝日は、海幕長の退官などを記事にすることもしないと思われますが。



プログラムは印刷されたものもいただきましたが、
前に大きな字で書かれたものが立ててありました。



「君が代行進曲」の勇壮な調べからコンサートは始まりました。
ご存知のようにこの曲は「君が代」のメロディを拍の頭にして、
別のメロディでつないでいく方式で作られており、
わが国歌「君が代」があまりにしめやかなので(笑)ここはひとつ
士気を鼓舞させる
勇壮なバージョンも作っておきましょう、
という意図で作曲されたのだと思われます。 



トロンボーンを演奏する海自の王子様発見。
M海曹、今日は何か歌ってくれるのかな?



司会進行役は音楽隊員ではなさそうなWAVEさんが行いました。
このPAが、上手い!
こういうときに喋り慣れているとしか思えない流暢さで、
プロのアナウンサー顔負けの進行をしてくれました。

本当に自衛隊って人材が豊富だなあ。



続いて、プログラム2番、「艦隊勤務」。


隊員の歌でお楽しみくださいというので、すわ、M海曹出番か!?
と色めき立った(一人で)わたしですが、なんと、
別の男性歌手が二人でこの曲をデュエット始めました。

彼らが歌い出してすぐ、どうしてM海曹でなく
この人たちが歌ったのかその理由がわかりました。
もう、声とか歌い方とか、もしかしたらこういう曲を歌うために
生まれてきたんではないか?という折り目正しい歌唱法、
それはあたかも東海林太郎の若い頃のような・・。


若い人たちが観客であればM海曹の「艦隊勤務・ゆず風」
というのも(個人的に是非聞いてみたい)いいのでしょうが、
本日の観客は80歳半ばの元海軍軍人。
M海曹ではなく、こういう「声楽的美声」の歌手に歌わせる
というのはなかなかの演出であると思われました。

いやー、やっぱり歌手の層が厚いわ、海上自衛隊音楽隊。

ところで、わたしがこの日仲良くなった(というのも変ですが)

元海軍軍人から、この「艦隊勤務」を作曲した江口夜詩(よし)
息子がこの同期生で、戦後音楽大学に入り直し作曲家になって

「忘れな草をあなたに」
「下町の太陽」
「京都雨情」

などのヒット曲を生んだ江口浩司であることを聞きました。
父親の夜詩は海軍軍楽隊から流行作家になりましたが、
息子も海軍軍人から流行作曲家になったというわけです。

「よく若い時には一緒に遊んでたんですよ」

とのことですが、映画の主題歌などを作った流行作曲家と
「一緒に遊んだ」というのは、さぞかし派手に遊ばれたのかなと。

「少し前に死んじゃったけど」

作曲家・江口浩司は2010年、83歳で肺臓癌のため亡くなっています。
死後、日本レコード大賞は江口に功労賞を贈りました。 
生きておられればこの日にお目にかかれたのかもしれません。

そして、音楽隊がこの曲を選んだ理由も、
作曲者の息子が在籍していたからではなかったかと思われました。 


ちなみにこの艦隊勤務の有名な歌詞、

「月月火水木金金」ですが、日露戦争の後も休日返上、
「勝って兜の緒を締めよ」とばかりの猛訓練をしている海軍をして

「これじゃまるで月月火水木金金じゃないか」

とあの「伝説の男」、津留雄三大佐が表したのが嚆矢とされます。

もうひとつ、わたしはかねがね「艦隊勤務」を聞くと、
どうも「憧れのハワイ航路」を思い出してしまうというか、
どちらもよく知らない時にはごっちゃになってしまっていたのですが、
たった今、どちらも同じ江口夜詩の作曲であったことがわかりました。

だからだったんですね。
なんか、すごく腑に落ちました。

ちなみに「憧れのハワイ航路」の長い長いイントロが終わった後、
「あーさーだーよーあけーだー」と続けてみてください。
あまりにも違和感がないのに驚かれるでしょう(笑)



続いては、かつての兵学校生活を懐かしんでもらおうと、

「同期の桜」に続いて巡検ラッパが響き渡りました。

その前日の懇親会で、元生徒から

「巡検ラッパ聴くとね、涙が出るんですよ」

という思い出話を聞いたばかりです。
しみじみとした響きはそのまま「海行かば」にかわり、
いつの間にか「愛国行進曲」となっていました。



トランペットのソロ。



この歌手はチューバ奏者なのですが、この清潔なルックス?と
戦前のポリドール専属歌手のような歌い方が評価されたとみえ、
もう一曲、今度はソロで歌いました。
なんと、「青い山脈」。

司会のPAは

「戦後このメロディが人々を勇気づけた」

というようなことを言っていました。
1949年の同名映画の主題歌として爆発的にヒットした
この「青い山脈」ですが、その当時、生徒たちは
中途で絶たれた海軍軍人への道を戦後に向けて新たに切り開き、
大学や旧制高校の門をくぐって社会人として巣立ったころです。

かれらにとってはまさに「青春の一ページ」を彩る曲であったはず。
かつていた江田島で聴く「青い山脈」はどんな感慨を呼び起こしたでしょうか。



この楽器なんだか知ってますか?
吹いていると顔が見えない(ことが多い)ユーフォニアムです。
ユーフォニアム奏者がソロをとったのは、

「川の流れのように」



美空ひばり、という選択も、こういった年配の視聴者に対しては
意味を持ってなされたことなのだと思います。
いったい誰がこういうプログラムを考えるんですかねえ。

音楽隊長かしら。



最後のプログラム「江田島健児の歌」を皆で歌うため
全員起立しているところ。
ニコニコと眺めているのが音楽隊長の北村1尉です。
先日音楽隊を見学した時にはご案内していただきました。

余談ですが、それこそ色んな自衛隊の方に名刺をいただいた中で、
Eメールアドレスが記載されていたのは隊長のだけでした。


演奏会が終わった時、わたしとTOは隊長にご挨拶に行ったのですが、

わたしたちの前に、隊長に向かって、

「巡検ラッパのCDないのCD」

と聞きに来ている元生徒が・・。
わたしたちの世代なら「インターネットで検索すれば聴けますよ」で済みますが、
80代の老人、しかも海軍の先輩に対してググれksというわけにもいかず、

隊長はなんとていねいにも

「CDならご自宅にお送りしますよ」

と名刺を出して住所を書かせているのです。
どんな役所もどんな企業も、こんなことまでしてくれないよなあ・・。
元生徒が住所を書いている長い時間、横で待ちながら思いました。

「先日はどうもありがとうございました」

音楽隊訪問からそう日が経っていなかったとはいえ、
そう声をかけると隊長はわたしたちを覚えてくれていたらしく、
にこやかに返事をしてくれました。



演奏開始。
これこれ、元生徒さん、脱帽しなさい脱帽を。

プログラムには「江田島健児の歌」が載っています。
1番から6番までを全部歌いました。
もちろんわたしにとっては初めての経験です。

わたしは一度、この詩を書いた50期の神代猛雄という兵学校生徒の
短かった一生と、「大空のサムライ」の仕掛け人であった
共同出版社の社長福林正之との縁について書いたことがあります。

江田島健児の歌



しかし、もちろんこれで終わるわけがありません。
鳴り止まぬアンコールの拍手に応えて演奏されたのは、というか、
自衛隊音楽隊は
この曲で必ず演奏を終了することになっているため、
たとえアンコールがなかったとしても演奏をしたはずの、

行進曲「軍艦」

わたしの前の席にいた女性がハンカチを目に当てているのは、
「江田島健児の歌」を最後にここ江田島で歌った感激か、
あるいは行進曲「軍艦」の響きに何かを思い出したからか・・。


音楽隊の演奏によって、江田島訪問は実に感動的な終焉を迎えました。



続く。


 


備前長船「刀剣の里」~刀打ち初めと瀬戸内のエーゲ海

2015-01-15 | お出かけ

備前長船の刀剣博物館での神事、「打ち初め」の続きです。

9時からの打ち初めも滞りなく終了し、刀職人さんたちの
各職場を見学もして、さて帰ろうとタクシーを呼んで待っていると、
本館に挨拶に行ったTOが、

「刀鍛冶さんたちが本物の鍛錬をするから見ていってくださいって」

と戻ってきました。



前半の観客参加型鍛錬は、神事の後のいわばサービスで、
それに使われた玉鋼は「使い物にならない」ので(たぶん)
お供えするだけなのだそうです。
後半のもいわば「縁起」なのでおそらく実際にこれで
刀を打つことはないと思われますが・・。

11時から始まると言われて5分前から待っていると、
1分違わず浄火・きよめび(先ほどの火はすでに消されていた)
開始されました。

刀鍛冶の仕事場というのは今回初めて見たわけですが、
昔小学校唱歌だった「村の鍛冶屋」の歌詞、


暫時(しばし)も休まず槌打つ響き
飛び散る火の花走る湯玉
ふゐごの音さえ息をもつかず
仕事に精出す村の鍛冶屋

を思わせます。
金物鍛治と刀鍛冶を一緒にしてはいけないのかな。




燃え盛る火に石炭投入。
「火の花」は思わず吸い込まれそうなほど神秘的です。



ちなみにこの絵になる光景を撮るために、時間前には
ニコンやキャノンの上級機種をがっつり構えた人たちが
周りを陣取っていました。

右側の二人が赤熱したブロックを叩く「鍛錬」を行います。



ちなみに向こうの刀鍛冶が前半の打ち初めで横に立っていたので、
かるーく質問などしてしまったのですが、この状況を見るに
こちらの方がここで一番偉い刀匠だった模様。



鍛錬が始まりました。
二人の刀匠が代わる代わる槌を頭上まで振り上げて
確かな無駄のない動きで玉鋼を打っていきます。
それは真に阿吽の呼吸。



向こうが匠(横座)、こちらが弟子(先手)。
交互に刀身を鎚で叩いていくことを「向こう槌」といいますが、

「相槌を打つ」

という言葉はこの様子から来ているのです。



さすが本職の打ち方にはまったく迷いがありません。
見ていると、打ち込む時に前足のつま先を上げ、
体重を後ろから前に移動するようにして槌を下ろしていました。
火花の飛び散り具合をごらんください。

彼らはだいたい5年くらいで一人前になるとされ、
刀工が弟子入りすると、この大鎚といわれる槌を自前で用意し、
毎日切り株を相手に叩く練習をします。

動きを車のピストンのようにすると、あまり力を要さず
楽に叩けるようになるということです。

刀工になるためには5年間の修行と文化庁の開催する講習を受けなければなりません。



というところで刀匠の「打ち初め」も終了。
またしても一般人に叩かせてくれるようです。
が、先ほどほとんどが叩いてしまったので、なかなか
名乗りをあげる人が出てきませんでした。
ようやく出てきた第1号。



第2号は・・・おおっと、海外からの観光客だ! 

この日、外国人観光客は結構いました。
ただし欧米系の人たちばかりで、
中国人や韓国人は全く見かけませんでした。
岡山のホテルの朝食会場では日本人はわたしたちだけか?
と思うくらい中国語が飛び交っていたのですが、
彼らはこういうところには足を向けないようです。

「日本刀」「神事」というだけで彼らの方が避けてるのかもしれないし、
あるいはむしろそういう団体客に来られては困るので、刀剣博物館の方も
あえてそちら方面にはインフォメーションを流さないのかもしれません。

差別?いえ、区別です。



ところでお汁粉を作っていたおばちゃんが、この少し前、

「お汁粉まだの人食べてくださ~い」

と呼びかけにきたのですが、彼ら外人軍団に

「オモチ! オモチ!」

と食べる真似をして連れて行ってしまいました。
オモチで十分意味は通じていたようです。



体はでかいがアクションはおとなしめ。



鍛錬する金属は、さっきまでやっとこで掴んでいたのと違い、
柄とつながっているものです。
やっぱりこちらは本当に刀にするのかもしれません。

こちらも叩かせてもらったらよかったかな。

向こうに見えている灰はもち米の藁の灰。
これをまぶしてから火に入れます。
表面を土と灰で覆うことで、鋼を火の中に入れた時に
表面だけでなく中まで均等に熱を入れることができるのだとか。

鋼は鍛錬するほどに均質化し、硬度も上がってくるのですが、
回数が多すぎると逆に均質がしすぎて「面白味がなくなる」ということです。

そのあたりの塩梅を見定める目も刀工には必要なのです



続いて先ほどの男性のお連れ様。
彼女は慎重派で、何度も隣の刀鍛冶に
槌の持ち方や振るい方を確かめていました。



なかなか勢いがありますね。
前の男性とこの女性は数人の外国人グループにでしたが、
(でないとこんなところに来ないよなあ)
同行の日本人が写真を撮りたいというので場所を代わってあげました。

日本刀を打たせてもらうなんて、ちょっと普通ではない
貴重な日本文化の体験となったに違いありません。




さて。

なんだなんだ刀鍛冶場からいきなりエーゲ海?
と思われた方、驚かしてすみません。

これはですね、長船から車で20分ほど行った、
瀬戸内海を望む牛窓というところにあるホテルです。

例の市長さんが「こんなところもありますので是非」
とご案内くださった風光明媚なリゾートホテル。
寒さに震え上がるほど風の冷たかったこの時でさえ、
写真にとってみれば地中海に見えないこともありません。

牛窓というところは地中海気候に似た瀬戸内気候なので、
オリーブの栽培が盛んで、自称「瀬戸内のエーゲ海」
さらにそのオリーブ畑から見下ろす瀬戸内の眺めは素晴らしく、
そこには
「ローマの丘」という広場が・・。

うーん。

こういういかにも欧米崇拝型「地方銀座」的なネーミング、
「日本のハワイ」とか
「日本のエーゲ海」とかって、はっきり言ってすでに
「憧れのハワイ航路」の時代のセンスという古臭さが拭えません。

しかも、 




このローマの丘も、なぜローマかというと、ここにはまるで
ローマの神殿のような6本の柱があるからなんですが、
この柱、なんと

岡山空襲で被災した旧三井銀行岡山支店の瓦礫

を移設したものなんですって。
つまり「戦跡」なんですが・・・それを「ローマの丘」。

これが本当のローマンチックってやつか?

いや、戦跡をローマンチックはまずくないか?



確かにこれでは瀬戸内のエーゲ海としか言いようがありませんが。
ホテル専用のヨットがあり、乗ることができる模様。



ここにも、こちらはギリシャをイメージしたエンタシスが・・。
こうして写真に撮るとそれなりですが、実際に見ると
経年劣化による部分部分の綻びはどうしても隠せません。

「これは・・・1990年前後、バブル終わり頃のセンスですね」

とわたし。
後でホテルの人がまさに

「当ホテルはバブルの終わり頃にできまして」

とそのままの言葉をおっしゃっていたのでおかしかったです。
オープン当初は、近くのヨットハーバーは豪華なヨットで溢れ、
ホテルにも毎日のように観光バスが列をなして、人々が訪れたそうです。

しかしつはものどもが夢の跡、諸行無常の響きあり。
往時のバブリーな建築だけが栄華の名残を残すのみで、今や

地元の老人会の謡教室発表会が行われる(本当にやっていた)
地元密着型の庶民的な会合の場へと・・。


さらに牛窓観光協会のHPを見たところ、瀬戸内交流フェスタとやらで


朝鮮通信使行列や、サムルノリとプチェチュム(扇の舞)」

という、瀬戸内とそれ、なんか歴史的に関係ありますか?的な、
ねじ込まれ(たらしい)ヤケクソ(にしかみえない)イベントが・・。

バブルが消えたので次は韓流ですか?
韓流、流行ってませんよ?わかってますか?

と思わず観光局を叱咤してしまいそうな迷走ぶりです。
だいたい地元の子供にわざわざ朝鮮通信使の格好なんぞさせるなよな(−_−#)



昔は全席が毎日3回転ずつしたのかもしれないダイニング。
なんとこの状況で強気にもアラカルトなしのコースのみ。

昼時でとなりのカフェは結構人がいたのに、こちらは私たち三人だけでした。
手前はここ自慢のオリーブソーダ。



しかし、食材が新鮮で美味しいのはもちろんのこと、
シェフも腕利きなのか
お料理はなかなかのものでした。



「広島の牡蠣より美味しい」と地元の人が胸を張るカキフライは、
TOが注文したコースのアペリティフ。




薄い仔牛のカツレツはこの日食べた中で一番美味でした。
これも名産であるレモンがあしらわれています。



メインはスズキのクリームソース。
上に乗っているのはマッシュルームを飾り切りしたもの。
粒胡椒が味を引き締めていました。



食事が終わって、フロントマネージャーに部屋を見せていただきました。
日曜日の午後で、宿泊客はチェックアウトしてしまった後とはいえ、
あまり部屋の稼働率は良くなさそうに見えました。



ハイシーズンなどはそれなりに賑わうのかもしれませんが・・。
折しも怪しくなってきた雲がかかり始め、寒々とした海は
なんだか余計に「もののあはれ」を感じさせます。

バブルと前後して起こった「ペンションブーム」の頃は賑わったそうですが、
とりたてて大きな観光地があるわけではない地方が、
観光で栄えるというのは、ここに限らず難しい時代なのも事実です。

それでも、新しいセンスでリノベーションすれば、
都会からそれなりに人を呼べると思うのですが、

何しろそれに先立つものが・・・、という状態なのでしょう。

先ほどの市長さんもこの市を盛り上げていくにはどうしたらいいか、
頭を悩ませている毎日なのではないかと思われました。

「日本のエーゲ海」「日本のローマ」とかではなく、
「刀剣とエヴァンゲリヲン」とのコラボに見られるような
伝統文化と今を融合させる試みの方がはるかに人を呼べると思うのですが、
恒久的な集客には繋がらないのが辛いところです。



食事が終わって、最寄りのJRまでタクシーでまた20分。
ここも無人駅で、駅前には喫茶店どころかコンビニもありません。
駅前のコインランドリーで寒さをしのぎ、
1時間に2本くらいある岡山行きの電車を待ったわたしたちでした。



ー糸冬ー






 


備前長船「刀剣の里」~刀打ち初めと陸軍軍刀

2015-01-14 | 博物館・資料館・テーマパーク

1月13日、当ブログに「第一空挺団降下始め」の記事を求めて
来てくださってくれた多くの方々、誠に申し訳ありませんでした。

年頭の自衛隊行事としてすでにご報告が恒例化しつつあった習志野駐屯地の
降下始め、昨年末までは行くつもりで、主に防寒グッズを中心に
準備万端気力も調整、ウォーキングの時には入場してから場所取りに
全力疾走するために時々走り込んだりして(笑) いたのにもかかわらず、
同じ日に始めは始めでも別の始めの予定が飛び込んできてしまいました。

岡山県の長船というところにある

備前長船 刀剣の里

という刀剣博物館で、神事でもある「刀剣打ち初め」に、
槌で刃を鍛えるための最初の打ち出しをやらせてもらえることになったのです。



9時に開始ということで、前日は岡山市内に宿泊、ローカル線で
無人駅からタクシーに乗って刀剣の里に到着。

オープンまでまだ30分あったのですが、ここの学芸員の方と
当地の市長さんからのご招待でもあったので、その旨をいうと
戸を開けて中に招じ入れてくれました。



何台か車の車がもう到着しています。
周りは日本の田舎にはどこにでも見られるような
二階建ての瓦屋根の民家がぽつんぽつんと建っている感じ。



紋付に白袴の男性が佇んでいました。
もしかしたらこの日の祭祀を執り行う神職かもしれません。



刀剣の里、というのは観光的な名称で、正式には

備前長船刀剣博物館

です。



映画の撮影用に作られたものか、鎧兜が二体お出迎え。



今のNHK大河にも刀剣の分野で協力しているようですね。
「花燃ゆ」のポスター。
みなさん、観てらっしゃいますか~?

わたしは当然見ておりませぬが、サブタイトルの

「幕末男子の育て方」(笑)

とこのポスターの構図だけでげんなりしてもうお腹いっぱいです。

そして真ん中!

エヴァンゲリヲンと日本刀展

のポスター。



内容はURLを見ていただくとして、このコラボ企画、
ヨーロッパでの巡業を終え、帰ってきたばかりだそうです。
今なら松江歴史館で見ることができますので近隣の方是非どうぞ。



えー、わたしは知らないのでこの絵の正体がわからないのですが、
まあそういうことです。よろしくお願いします。



時間があるのでこのコーナーを見学させていただくことにしました。



形を作ってから刀を研ぐ砥石の数々。
研ぎ師という人たちは刀剣を研ぐことだけを仕事にしていますが、
例えば日本刀を一本研いで有名な人は何百万円、という
研ぎ代を取るのだそうです。

問題は日本刀を研ぐ仕事が1年に何度くらい来るのかですが。



日本刀は加熱した刀身を水などで急激に冷やす「焼き入れ」
という工程を行いますが、その際、焼場土(やきばつち)を刀身に盛る
「土置き」を行ないます。
その土置きのための器。




 
日本刀の材料になる鉱物を「玉鋼」(たまはがね)と呼びます。
玉鋼は日本独特の製法である「たたら吹き」という方法で作られます。
叩いて熱いうちに切れ目を入れてそこで折り返したりして、
なんども焼締め、硬い刃を作っていくのです。

「鉄は熱いうちに打て」

はこの作業から生まれた言葉です。 
ちなみに「たたら」とはその際火を起こすふいごで、
それを踏む有様が、

勢い余って踏みとどまれず数歩歩むこと

という意味の「たたらを踏む」という言葉に残されました。 



「実際に持ってみましょう」コーナー。

前に靖国神社遊就館の刀剣展で持ってみたことがありますが、
実際に持ってみるとその度に重さに驚いてしまいます。

「よくこんなの振り回せるよね」
「二刀流ってどんだけ力持ちなのよ」

その時にしたのと同じような話をまたしてしまいました。 



さて、というあたりで9時となりました。
鍛治場や刀の鍛錬場などのある中庭に出てみます。

左の建物で打ち初めの神事が行われるので早速そちらに向かいますと、



純白の衣装に身を包んだ二人の神職が、
神棚の前に用意を整えて待機していました。



しばらくして祝詞奏上が始まりました。
この刀剣の里に詰める刀職人全員と、市長が前に立ち祝詞を受けます。

 

水茎も鮮やかな文字による祝詞が肩越しに見えました。



私の立っているところの前には焼きに必要な
道具が整然と並んでいます。



参列者が一人ずつ榊奉納をします。
当地の市長が奉納を終えて帰ってくるところ。



最後に紙吹雪のようなものをパーっと撒き、神事は終了しました。 

続いて浄火(きよめび)の準備が始まります。
火を起こすことをこういうのですが、みなさん、
こういう時どうやって火を起こすのだと思います?
マッチやライターなんて絶対に使わないんですよ。



刀工は鉄の棒の先端を打ち合わせ、摩擦熱を先端に集約したのち、
そこから出る火花で一瞬にして火をおこしてしまいます。
これも長年の鍛錬で簡単にできるようになるのでしょう。

煙が出てきていますね。

打ち初めを行う職人さんは赤い布をかぶります。
この無色の空間で、なかなかこれはオシャレ的にイケている気がします。



火花から起こった火花はあっという間にこんな風に
火床(ほど)に燃え盛るので、その中に玉鋼を入れて熱します。



最初の打ち初めをするのはこの職人さん。



最初に招かれて玉鋼を打つのは市長です。
スキンヘッドですがまだ若く40代とのこと。

任期は2期目ということですが、今までこの儀式は例年成人式と重なり、
来たいと思いながら来られず、今回が初参加とのことです。
市長の打ち初めが終わって・・・、



ん?

どうしていきなり写真がこんなに火床に近くなっているのかって?
実は、市長の後、私たち一家の名前が呼ばれ、市長に続いて
一般人の先陣を切る形で打たせていただくことになったのです。

一人が打てばもう一回玉鋼は炉に入れられ熱を入れられます。
それを待っている間にせっせと写真を撮るわたし。



家長であるTOがまず4発。



TOが4発だったので息子もなんとなく4発。



というわけでわたしも同調圧力で4発。
内心あまりの重さにびびっています(笑)



打つというより上に持って行ってまっすぐ落とすという感じ。
ちなみにこのとき着ているのはフォクシーのダウンコートで、
エレガントなラインでありながら暖かいのに信じられないくらい軽く、
旅行に来ていくには本当にありがたいお役立ちアイテムです。
(ここだけファッションタグ)



指名された私たち一家が打ち初めを終了した後は、皆に呼びかけて、



第1号。
日本人はこんなとき周りをうかがって様子を見るのですが、
一人が名乗りをあげるとすぐに行列ができました。



なかなか槌の振り上げが高くていらっしゃる。



子供第1号。



女性第1号。



女の子第1号。
彼女には一回り小さな槌が用意されました。



親子で一緒に第1号。



おばさん第1号。



女性は皆へっぴり腰になってしまっていますが、
それはそれだけ槌が重いのだとご理解ください。



彼女は後ろからボーイフレンドが携帯で写真を撮ったのですが、
遠慮して後ろからだったので顔が写っていなかったらしく、
後から

「顔が全然写ってない!」

と怒られていました。(´・ω・`)
どこから撮っても多分顔までは写らないと思う・・。



さらにへっぴり腰・・・。
もうこうなると「槌で玉鋼を触る」というレベルです。



この人はもしかしたら道路工事でツルハシでも日頃
扱い慣れているのかと思うくらい、スイングが大胆でした。
大抵の人が腰から下に落とす感じになってしまうのに、
頭の上まで槌を振り上げ、思いっきり玉鋼を強打しています。

とはいえ全く正確に叩くわけではなく、毎回数センチずれるので、
前にいる人はさぞ怖いだろうなとちょっと思いました。



槌の可動範囲20センチくらい?
おしとやかです。



腰が入っています。
本職が叩く時を見ていると、足を前後において
体重の移動を行いつつ槌を振るっていたので、
彼女の足のポジションはかなり的確ということです。



皆、3回からせいぜい5回叩いていましたが、この方は
「その辺で」と言われるまで叩いていました。

ツルハシのおじさんは数えていたところ9回で、この人も
止められてやめていました。



男性が叩いている時、玉鋼を抑えているやっとこの
ネジのところを槌が直撃してしまったことがあり、そのとき
職人さんは「あ」と一言言って、そのまま金槌で叩いて
歪みを直していました。

行事だから素人が叩くのはしかたないけど、せめてあんまり張り切って欲しくない、
というのが本職の本音ではないか、とこの時見ていて思いました。



というわけで打ち初めの儀式は一旦終了。



鍛治場の反対側。
人間国宝であった刀匠・隅谷正峯(1921-1998)
使用していた鍛治道具が、遺族の贈呈によってここに展示されています。

 

中庭に出てみると、お汁粉が振舞われていました。



せっかくですので一杯いただきました。
熱々でお餅は少し焦げがあり、香ばしくて美味しかったです。



中庭には、各職人の仕事場が動的展示されている建物があります。
この方は研ぎ師。



エヴァンゲリヲンの関係か?色紙が多数。
ここ刀剣博物館は色々とコラボを行っていて、
「戦国 BASARA」というのともやったとか。

帰りに乗ったタクシーの運転手さんが

「エヴァンゲリヲンのときは女の子が押し寄せて、
それにつられて男も来て、大変な賑わいだったが、
そのほかのは全然ダメだった」

と言っていました。



柄を装丁する職人。
他の客との会話で

年間せいぜい200万円しか収入がないので家族を養えない。
だからこの仕事、後継者も何も人に勧められないので」

とおっしゃっていたのが耳に止まりました。(´;ω;`)
後継者不足はこういう伝統職人の世界にも顕著です。

新卒は就職難だという話と大変矛盾するようですが、現代の日本の
価値観があまりに画一的に過ぎることも原因の一つかもしれません。

誰もが大学を出て当たり前、という社会では、職人に敬意を払う、
という日本社会の美点も今後段々薄れてくるのかと残念な気がします。



カタログ?のようなものを見せて説明しています。



柄を巻くだけにも職人がいるとは知りませんでした。
柄は鮫皮を巻くそうです。



この方は鞘をつくる鞘師。(そう書いてますね)



ちょうどこの鞘師さんが軍刀の話を前の人としていたので、

「家に伝わる刀を軍刀に作り変えるという仕事もあったんですってね」

と話を振ってみると、手元にあったこの刀を出して見せてくれました。
陸軍軍刀だそうです。



柄と鍔の部分に桜の紋様が入れられています。



柄巻きのこの部分にも桜。

「潜水艦に乗るときは長剣は持たないんですよ。狭いから。
それから、背の低い人だと合わせて切ることもあります」

「刀を切って短くするんですか!」

「そう、こんな風に(腰に当てて立つ)なると、
足の短い人だと格好悪いんですよ」

こと話が軍になると目を輝かせて色々と質問するわたし。

「遺品を装丁し直す依頼などはありますか」

「たまにありますね。これもそうですよ。
真剣のままだと届けがいるので、飾るために中を
抜き身にしてしまうという依頼は結構ありますし」

遺品の処分に困ってここに刀を持ち込む人は結構多く、

「中には亡くなってすぐに一抱え持ってきて『買ってくれ』
なんて言ってくる人もいましたね。
寄付ならともかく、一週間前に亡くなったばかりで・・。

『悪いことは言わんから思い出に持っときなはれ』って言いましたけど」

ちょっと呆れたように笑いながら話しておられました。



ところで作業場の隅にわたしは目ざとく、
キャットフードの入った立派なお皿を発見。
刀剣の里公認猫がいるに違いない!と思っていたら、



駐車場のところを悠々と歩いていくのを発見。
写真を撮ろうとしたら、前半でメモリを使い果たしておりました。
連写と動画を撮りすぎたんですね。

「ああ~待って~!いらないの削除してメモリ空けるから」

と声をかけども耳には届かず(そらそうだ)
すたすたと歩いて行ってしまわれます。



追いかけながらやっとの事で削除を完了、
1シャッター入魂で撮った刀剣の里お猫様の写真。
ちゃんと赤い首輪をしていました。


続く。(続くのか?)