ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

平成26年度航空観閲式@百里基地~老兵(ファントム)未だ死ねず

2014-10-31 | 自衛隊

観閲官である自衛隊最高指揮官、内閣総理大臣の訓示が終わり、
それに対する栄誉礼が行われた後は、展示視閲となりました。



展示視閲とは観閲の一環で、それまで会場にいて観閲を受けていた
空自装備が観閲官の前を通過するものです。

まずは高射隊のAN/MPQ-53フェーズドアレイレーダーから。
目標の捜索、追跡の他IFF(敵か味方か認識する)ミサイル誘導

等を行います。

車体の上のうっすーい板状のものが稼働時には屹立します。



ランチング・ステーションLSつまり発射機が通過。
地対空誘導弾ペトリオットです。
よくパック3って聴くでしょう?あれですよ。


因みに、民主党時代、当時の防衛大臣であった田中直紀(別名真紀夫)は
PAC3のことを「ピーサンシー」、つまりP3Cだと勘違いしていたようでした。
まあ、似てるから間違えても仕方が・・・・ないわけないだろ!

全く悪夢のような政権でしたねえ(遠い目) 
C−3POと間違えなかっただけましだったと思うことにしようっと。 


PATRIOTを日本ではパトリオットと読みますが、空自では英語発音の
「ペイトリオッ」に近い「ペトリオット」を採用しています。
米軍との会話で混乱しないためだと見た。




おそらく移動用の通信装置で、車上の半月形がパカッと開いて
レーダーになるんだと思うな。(小並感)

移動用多重通信装置(OH)J/TRQ-502

ではないだろうか。
だとしたらこれは移動通信隊の装備でしょう。




移動気象隊という部隊が空自にはあるんですよ。

航空気象隊とは、気象予報、気象観測及び気象情報の収集、
伝達等の各業務を実施する部隊なのです。

気象通信用端末装置(WECOM)により、空自だけでなく
陸上・海上自衛隊の飛行場(航空基地)からも気象情報を収集し、
提供を行うのが任務です。

この車両は移動気象レーダー(MROS)で稼働時には、こちらは
R2D2みたいな
レドームがひっくり返って立ち上がります。

清掃車みたいだと思ったら、本当に移動警戒隊の吸引清掃車でした。
このバキュームスウィーパーの役割は重要で、空自移動部隊に随伴し、
航空機の経路を清掃して安全を確保するのが任務です。

実はこの他にも車両は数多く視閲のための走行を行ったのですが、

全部写真に撮ることができませんでした。



車両が通過してのち、部隊長が視閲を受けます。
車両の順番は

高射隊
移動通信隊
移動気象隊
移動管制隊
移動警戒隊
基地防空隊

だったのですが、この視閲は高射隊だけの模様。



デジタル迷彩にヘルメット。
ブルーのマフラーは空自ペトリオット部隊です。

隊長が思いっきりコワモテである。



車両のあとは、概要でもお伝えした戦闘機の展示視閲。

F−15は三菱重工業がライセンス生産し、F−15J(単座タイプ)が165機、

複座であるF−15DJ、48機が導入されました。



2機来るからには両タイプだと思ったのですが、
単座のF−15Jだけでした。
戦闘機の場合複座は教育用なのかもしれません。

搭載されているブルーのミサイルは、99式空対空誘導弾です。




前を通過したときにパイロットに思いっきりズーーム。
観閲官席の前では安倍首相に向かって敬礼をしたのでしょうか。



続いてやってきたF−2も、F−2AとF−2Bがあり、

Aが単座。Bが複座です。

F−15と同じブルーの空対空ミサイルを搭載しています。
これが目の前を横切るのですから、それはもう凄い迫力です。

カメラを持参していないVIP席の人たちも思わず携帯を取り出して(笑)



観閲式で飛行を行うのは、空自の腕利きの中でも
とくに優秀とされるパイロットに違いありません。



そういえば空自にはこんな戦闘機もまだあったんですね。

F−4EJ”改”。

読んだことはありませんが、昔「ファントム無頼」というマンガがありまして、
物語の舞台はここ百里基地だったそうなんですねー、ええ。

主人公はF-4EJ ファントムに乗る凄腕パイロット神田2尉。

「何人ものナビゲーターを病院送りにした問題児」

ってどういう意味かしら。
このマンガはF−15が導入されるまで、ファントムが空自の主力戦闘機だった
1978年から84年にかけて掲載されていたとのことです。
興味が出てきたので今度これ読んでみようっと。


と、ここでまた出て来るベレンコ中尉事件(笑)

F-4は、J型において戦闘機として当時世界初の
ルックダウン能力(低空飛行の探知能力)を備えた機体だったはずなのですが、
この亡命事件で、地上のレーダーとF-4EJの双方が領空侵犯機、
(つまりベレンコ中尉機)を見失うという事態が発生してしまい、
ルックダウン能力の決定的な不足が露呈されてしまったのです。

それで前にも書いたように、早期警戒機の導入と相成ったわけです。

だからといってF−4がダメ戦闘機ということではありません。
やはり餅は餅屋と言うか、戦闘機の限界だったってことなんだと思います。

しかも、戦闘機としてその後、F−15、F−2が導入された平成26年現在でも
これまだバリバリの現役なん
ですよ。

現行の機体はF−4EJ「改」という名の表わす通り改造されたものですが、
その改造だって主目的は能力向上というより「延命」だったというくらいで。




夏に見学したパシフィックコースト航空博物館のファントムの
「スプリッターベーン」について詳しくお話ししたのを
もしかしたら覚えておられる方はいませんか?



境界層をインテークから吸い込まないように孔があけられている、
というレトロなシステムが取り入れられています。

かの地のF−4のインテークには北ベトナム空軍機を意味する星が4つ描かれ、

ベトナムで4機撃墜した機体であることが誇らしげに書かれていましたっけ。



観閲式が終わって展示機の前に説明のために立っていた空自の隊員も

「ベトナム戦争に行ってるくらいですから。
アメリカではもう使ってませんね」


と言っていましたが、ベトナム戦争どころか、これ冷戦期の開発ですから。


当のアメリカでは1996年(16年前!)には全機退役していますが、
聴けば日本だけでなく、いまだにイスラエル、トルコ、ドイツ、ギリシャ、
エジプト、韓国、スペイン、イランの9空軍で配備中です。

ということは、このファントム、掛け値なしに
戦闘機として傑作と呼ぶに相応しい名機ということなんですね。

開発以来生産された総台数は全部で5,195機。
F−16が4,500機を以て「ベストセラー」と呼ばれていることを考えると、
セールス戦略においても非常にうまく行った飛行機だったということです。


とはいえ、いずれにしてもこのF−4EJ「改」はもう56歳。
自衛官だと1佐ならもう定年の年齢です。
当日この会場では次期主力戦闘機予定のF−35戦闘機のモックアップが
展示され、話題を集めていました。
往年の名機もいよいよ

「老兵は死なずただ消え往くのみ」

の秋(とき)を迎えた・・・はずなのですが。

ところがどっこい問屋が下ろさず、後継機F−35は、
諸事情により開発が遅れていて配備が2017年以降となり、
したがって


F-4EJ改の運用スケジュールは
耐用年数見直しの上で
変更される可能性もあるとされる。


つまり、もう少し楽隠居は先のことになりそうなんですね。
頑張れファントム爺さん(笑)



続く。

 


平成26年度航空観閲式@百里基地~慰霊飛行と観閲官訓示

2014-10-30 | 自衛隊

航空観閲式、海上自衛隊音楽隊歌手、
三宅由佳莉二曹による国歌独唱が終わりました。



陸上自衛隊第302保安警務中隊による儀仗が終了し、退場します。
儀仗隊は100人の隊員(+隊長1名)で構成されます。

かつて保安中隊という名称であった頃には広報活動として
ファンシードリルを行っていたのですが、2008年、
それまでの東部方面隊直轄から東部方面警務隊直轄の
第302保安警務中隊に改編されてからは行われなくなりました。

特別儀仗専門の部隊になったということですね。

続いて慰霊飛行が始まりました。
殉職した自衛官の魂を顕彰するもので、客席は起立します。



映画「ライトスタッフ」でも登場した「ミッシングマン・フォーメーション」
4機のF−15の編隊から一機だけが天を目指して飛び去り、それが
ミッシングマン、つまり死者を表わすというフォーメーションです。

この時間はご覧の通り雲が低くたれ込めていたのですが、
この低い雲が思いもよらぬ効果となりました。
離脱した一機が機首を上昇に転じたとたん、機体が雲の中に吸い込まれ、

全く姿を消してしまったのです。


本来は抜けるような青空の中、何処までも高みを目指して飛ぶ

「ミッシングマン」が感動を誘うところですが、これもまた
突然失われた命への喪失感を表わすようで、感動的でした。



続いて観閲飛行が始まりました。
まずは陸自のヘリコプター群から。

対戦車ヘリコプターAH-1コブラに、続いては
観測ヘリOH−1ニンジャ



このちょんまげシルエットは(笑)アパッチ



海自からはSH−60哨戒ヘリコプターに続き
救難コンビのUS−1AとUS−2



そういえば最近の「余命3年時事日記」にいつぞやの辛坊治郎氏と
他一名救出の件が書かれていました。

引用します。

海保が出動、また要請があって自衛隊からP−3C、US−2が救助に飛び立ち、
台風影響下一次出動チームは帰投せざるを得なかったものの、
二次出動US−2飛行艇は薄暮、強風18m、波高4mの悪天候の中、強行着水し、
波高により4発エンジン1発停止にもかかわらず、遭難者2名を救助、
無事厚木基地に帰投しました。


US−2の能力を超える着水条件の中、100億円の機体と、11名の乗員の命かけての
強行着水救出劇は無謀の誹りを免れないでしょう。
しかしながら、この場面での救出断念帰投は、悪天候下、
体温低下等で遭難者の命が助からない可能性が高く、
強行着水はUS2という飛行艇の能力への信頼、チームの訓練、練度の自信、
そして命を救うという使命感からの機長の決断だったと思われます。




そのときにP−3Cも出動していたのは知りませんでした。
あらためてこのときの救難隊のメンバーに敬意を覚えずにいられません。

ただし「余命3年」はその後、辛坊氏の最近の番組での発言をして

この命がけの救出で助けられた人間が日本人を貶め(略)最悪の裏切りです。
海保や自衛隊は怒りに満ちています。
中でも自身の命を張って救出した11人の救助隊員の怒りは
半端ではないことをお伝えしておきます。

と激しく非難をしています。
最後の一文から察するに、筆者は内部の事情を知っているようですが・・。




陸海に続いて空自の航空機群が観閲のため通過します。
順序は

UH−60J 救難ヘリ

CH−47J チヌーク 輸送ヘリ

U−125A 捜索救難機

C−130H ハーキュリーズ 輸送機

C−1 中型輸送機

ときて、この

E−2C早期警戒機が現れました。



続いてやはりお皿を背負った

E767 早期警戒管制機、続いてはこの

KC−767 空中給油/輸送機。

これはわたしも見るのは初めてです。
給油用のノズルは展示用に伸ばしていますが、
離着陸のときには収納します。当たり前か。



B−747−400特別輸送機

1993年から、つまり20年間政府専用機であった747ですが、
2014年の8月に、後継機がボーイング777-300ERに決まりました。
交代は5年後の2019年です。



続いて戦闘機群。
F−15、そしてこのF−4EJ改F−2で観閲飛行は終わりました。



次は観閲官訓示。

報道カメラマンが目の色変えて場所取りをしていたのは、

このときの安倍首相の写真を撮るためでした。

去年、わたしは陸自主宰の中央観閲式で観閲官訓示を聴き、

「内容のほとんどであった自衛隊員への慰労と励まし、
隊員家族に対して隊員の命に責任を持つという部分は全く触れず、
ほんの一言の言葉尻を以て各社一斉に『中国への牽制』とした」

ということに、マスコミのご注進気質を見たと書いたわけですが、

今年もこの点においては相変わらずでした。


(平時でも有事でもない)グレーゾーン事態から集団的自衛権の行使まで、

切れ目のない新たな安全保障法制を整備していく」と述べ、
安保法制の早期整備に改めて意欲を示した。

日米同盟の深化に向け、自衛隊と米軍の役割分担を定めた
防衛協力のための指針(ガイドライン)改訂や共同訓練の推進を訴え、
沖縄県の基地負担の軽減に「全力で取り組む」と語った。
「内向きな一国平和主義であってはならない」と述べ、
自衛隊による国際貢献の重要性を強調した。


日経新聞からの引用ですが、他紙も全くと言っていいほど同じ内容です。

こういうの、誰がひな形を作成するんでしょうね(笑) 

文言のわずかな違いはあっても各社共通だったのが

「切れ目のない新たな安全保障法制を整備」

という言葉。
朝日を見ても「切れ目」、読売、共同、地方紙も「切れ目」
今年のマスコミ的キーワードは「切れ目のない」です(笑)

要するにマスコミの関心は第一が集団的自衛権の推進、そして

中国に対する懸念に言及したか否かにしかなさそうでした。

去年のように「力による現状変更は許さない」といえば
「中国を牽制した」となり、今年弾道ミサイルとサイバーテロにしか
触れなければ「首脳会談を控えて中国に配慮したと見られる」

どれだけ中国好きなんだよ、って感じです。



さて、マスコミが全く報じなかった部分に隊員と家族への
感謝と労いがあるのは、これもいつも通りだったわけですが、

それ以外に、産經新聞が

南スーダンの国連平和維持活動(PKO)への女性自衛官派遣などを取り上げ
「女性の力が自衛隊にとって新たな活力の源となっている」と強調した。

と報じた訓示内容について捕捉しておきますと、首相はこのとき、

海自の初の女性艦長二人(東・大谷二佐)を取り上げ、東2佐が

「艦長になったとき、娘が一番喜んでくれたのが何よりの喜びだった」

と就任に際して語ったいうエピソードを紹介していました。
これは安倍政権の「女性が輝く日本へ」と銘打った成長戦略を
念頭に置いての言及であろうと思われます。



観閲官訓示中の空自観閲部隊。

U−4のブルーラインのスマートな機体と空自はよく似合う。
そしてブルーに掛かる鮮やかな日の丸が美しい。

日の丸と言えば、モックアップのF−35の機体に何も描いてなかった!
と前々回のエントリで書いたのですが、



よく見たらありましたorz
モックアップにサービスで日の丸入れてくれてたんですね。
見落としていてすまんねアメリカ。



訓示中の観閲部隊は整列休め。
彼らの「休め」「気を付け」の動きのキレはハンパなく鋭く、
一同が号令と共に態勢を変えるときには周りが

「ほう」「すげー」

などと軽くどよめいていました。 




海士たちのネービーブルー(これが本当のネービーブルー)
のセーラー服、白いセーラー帽が美しい。
やはり海軍伝統の軍服はデザインに文句の着けようもありません。




戦闘機群の前の空自部隊を写してみました。
今回陸自が遠かったので残念ながら写真はありません。



観閲官の訓示終了に続き、再び(三度かな)栄誉礼。
敬礼を行うのは部隊先頭の士官のみです。
観閲部隊の先頭には女性部隊の隊長が一人含まれます。



この後観閲式は展示視閲へと続きました。


続く。




平成26年度航空観閲式@百里基地~自衛隊の野望

2014-10-29 | 自衛隊

平成26年度航空観閲式、続きです。

まずは、今回エリス中尉が会場で座る席を決めるのに奔走した話。
地球防衛軍顧問という肩書きではまだまだ紫チケットが貰えないからですね。
チケットをくれた人がもし今回ご同行下さっていたら紫だったのになー。



チケットを見せると、女性隊員が半券部分をもぎって、
首から下げたタグにそれを入れてくれます。

タグの色はそのまま区分けされた席の色ですので、
スタンドのゲートでチェックしている隊員も一目でわかるというわけ。
しかし、タグの色とリボンの色を一致させるため、入り口では
必ずチケットの色も見せなければなりませんでした。



ここでファイル付きのプログラムと空自の広報パンフが貰えます。

現地到着が7時過ぎ、観閲式が始まるのは11時で、
その時刻には席についていなければなりませんが、4時間もの間
何もすることがないので、わたしはまず席を慎重に選びました。
着いた時間が早かったので結構よりどりみどりだったのです。



まず最初はここ。
ゲートを入ってすぐのE席です。
早いとはいえ、皆ここから座っていき、上段から埋まってしまっていたので、
反対側の最左翼Aに座ってみました。
陸自の観閲式と違い、航空観閲式は何処に座っても眺めに大差ありませんが、
そこはそれ、暇なのでこだわりまくります。



EからAに偵察に行き、Eに荷物を取りに行って

「まてよ、やっぱりこちらの方が高くて眺めがいいかも」

やっぱりこちらにしよう、と思い返し
もう一度確保のために置いたコートを取りにAに戻りました。



A席に戻って気づいたのですが、なんと上から2段目が空いていました。
ここなら高さも十分。
やっぱりここにしよう!ともう一度Eに荷物を取りに戻ります。
(当人すっかりエクササイズのつもり)

ところが!
Eに戻る途中、D席が青用に半分確保されているのに気づいたのです。

「ここも青チケットの席ですか」「そうです」

気づかなかっただけなのか急遽調整されたのか。
入ってみるとまだ誰も気づいていなかったようで、ガラガラです。

というわけで、わたしは今度こそEの荷物を引き揚げて、
ここに落ち着くことにしたのでした。
高さも観閲台からの距離も申し分ありません。

しかし、後に三宅二曹の国歌独唱が始まったとき、
それがA席からでないと見えなかったことがわかりました。orz

まあ、結論から言うと航空観閲式は何処に座っても大差ありません。
安倍さんとか幕僚長のファンとかでもない限り、中央に座っても
一番上でも航空展示は同じ眺めだからです。

滑走路のタキシングが見たければ上段、三宅さんが見たければレフトウィング、
入場して来る車が見たければライトウィング、ってところでしょうか。
あと、陸自機、海自機の前には陸海部隊が整列します。

今後のご参考までに。


それでは展示に戻ります。

当ブログ的にはおなじみ、P−3Cオライオン、海自の対潜哨戒機。



初等練習機Tー7。
静浜基地には人気のTー7ジュニア、つまりバイク軍団がいますよー。
配備は12年前です。



こちらはブルーインパルスと同型のTー4。
Tー7もそうですが、練習機だから編隊飛行訓練のために
尾翼と翼の先に
蛍光でマーキングがしてあるんですね。



時々滑走路には離陸してきたり、こうやって移動する飛行機が行き交っています。
ブルーインパルスのクルーを「ドルフィン」といいますが、
それはこのTー4の機体、特にノーズにイルカを彷彿とさせるものがあるからです。

このTー4自体にも「ドルフィン」というあだ名がついています。



C−130Hは降下始めなどで陸自の降下訓練を支援しますが、
陸自ではなく空自の所属機です。

ハーキュリー、つまりヘラクレスというあだ名に相応しい力持ち。



駐在武官ならびに横田、厚木、横須賀、岩国からのお客様席。

紫チケットというのはこういう人たちが対象なのです。
しかしこうして見ると、空軍も海軍も一目でそれと分かる制服ですね。
ここに写っているのは全員アメリカ軍です。



女性の空軍士官が登場したので、周りは一斉に注目していました。
ウィングマークが見えることと、袖の線が4本あることから、
オーストラリア空軍のグループキャプテン、即ち大佐クラスで、
パイロットであるらしいことが分かります。



米空軍の制服を見たのは初めてですが、真ん中の
重量級同士で握手している右側の軍人さんの、
沿岸警備隊の制服を見たのも初めてのような気がします。



ところでこの写真、軍人さんたちの制服や手前の男性の背広に、
ここから見ても分かるゴミのようなものがついているんですがこれはなに?

うちに遊びに来る猫も草むらでゴロゴロした後には、
よくこんな草の実を
体に付けていますが・・・・。



ところで草むらで急に思い出したのですが、ここにずっと座っていると、
時々えも言われぬ有機系の香りが鼻を突くのが気になっていました。
「?」と思っていると、後ろの母息子二人が
(彼女は昔自衛隊に関係のあった感じ)

「また臭くなってきたね」「いつもこうだよね」

などと話していたので、いつものことらしいと知りましたが、
あとで検索してみると、これはやはり百里特有の「田舎の香水」、
即ち堆肥の匂いであることがわかりました。

ついでにこれを調べたときに、この観閲式のための予行演習は
なんと7月にも行われていたことも同時に知りました。

事前公開は一週間前の19日だったそうです。



会場を隈無く歩く、黒服を着て目つきの悪い三人組。
きっとあなたたちは首相のSPね。違ったらごめんなさい。



会場に着いてから3時間。

10時5分きっかりから(なぜ5分)空自音楽隊の演奏が

20分に亘って行われました。

長時間待っている皆さんにサービスといったところです。
何しろ、会場にはずっとインストで

「花の街」「夏の想い出」「牧場の朝」

といった、何というか女性合唱団の基本レパートリーのような、
善良で毒にも薬にもならなさそうな、それはそれで大変結構な名曲が、
しかし3時間もの間、何度も何度も何度も何度も何度も繰り返され、

職業柄音楽をどうしても耳に留めずにいられないわたしなど、
まるで最後の頃には拷問されているような気分になっていたので、
それが終わっただけでもほっとしたのです。

百里基地の関係者の方、もしここを見ていたら、
世の中にはこういう人間もいるので、CDを交換できないのであれば
いっそBGM無しにされることを、国民の一人として切にお願いしておきます。


空自音楽隊の演奏は、マーチが中心で、「美中の美」、
自衛隊の依託作品などの調べが、始まりを今か今かと待つ人々の
耳を楽しませてくれました。


演奏は20分で終わり、それと同時に観閲式が開始されました。




まずは観閲部隊の入場です。

観閲部隊は陸海が120人ずつ、空自480人、計720名で、
北は北海道から沖縄まで、全国の基地駐屯地から参加しているそうです。

入場してきた海自部隊。
自衛艦旗の圧倒的な美しさに感動を覚える瞬間です。



観閲部隊が整列を終わって、観閲執行者が入場します。
航空観閲式の場合、実地責任者は航空幕僚長で、
執行者は航空総隊司令官がその任を負います。

というわけで今回パンフレットで初めて空幕長と司令官の
ご尊顔を拝して思ったのですが、何というか「空自タイプ」だなあと。

海自と陸自について将官クラスにも各々の「タイプ」が見られる、と
折りにつけ考察をしてきた当ブログですが、かねがね垣間みて
空自は陸海のどちらとも違う雰囲気があると思っていました。

当の自衛官に言わせると「最も自衛隊らしくない」のが
空自であるというのですが、まだわたしには観察の機会が少なく、
どう自衛隊らしくないのか言及することはできません(_ _;)



統合幕僚長に就任したばかりの河野前海幕長も入場。



ここで空自の係員に誘導されてエプロンにドヤドヤと入ってきた
マスコミご一行様。
皆が注目している中なので一応の節度を保とうとしているようでしたが、
最後の瞬間、いきなりカメラの場所をなりふり構わず取り合う様子が、
すっかり観衆の笑い者(?)になっておりました。

彼らが写真に撮ろうとしていたのは、訓示する安倍首相の姿です。



というところで女性自衛官に伴われて車から降り立つ安倍首相。
SPの目つきが鋭い。



まず第一回目の栄誉礼。まず「巡閲の譜」が奏楽されます。



儀仗を行うのは陸上自衛隊第302保安中隊。
市ヶ谷駐屯地に所在する東部方面警務隊直轄の警務科部隊です。
儀仗隊は101名で編成され、隊員になるには身長制限があります。


元映画俳優だったロナルド・レーガン大統領が来日したときに
儀仗隊の前を歩いている写真がありますが、
レーガンが小さく見えるくらい全員が高身長です。



儀仗が行われている間の安倍首相。

栄誉礼の目的とは、

栄誉礼受礼資格者が自衛隊を公式に訪問し若しくは視察する場合
又は防衛大臣の定める場合に、栄誉礼受礼資格者に敬意を表するため行う


ものであり、儀仗は

受礼者に対し捧げ銃を行い、その間音楽隊は「栄誉礼冠譜」を奏楽する

という次第です。

ちなみに、自衛官でこの栄誉礼を受けられるのは、統合幕僚長と
陸海空幕僚長のみとなります。


栄誉礼が終わった後は、国歌独唱が行われました。
独唱。
そう、前回の陸自主宰の中央観閲式では行われていないので、
もしかしたら今年からの試みかもしれませんが、
観閲式における国歌奏楽を、自衛隊はアメリカのように
アカペラのボーカルソロで行ったのでした。

歌手は海上自衛隊東京音楽隊の、 三宅由佳莉二等海曹です。

わたしは当ブログで以前、

「東京オリンピックの国歌独唱は彼女がしてはどうか」

と書いたことがあるのですが、それは彼女が歌手としてどう、
ということではなく、国家を代表する歌手が自衛隊員である、
ということになればいいなあという「願望」から来た発言です。

しかし今回彼女の「君が代」を聴きながら、わたしは自衛隊が
本気でそれを「取りにいくつもり」ではないかと思いました。
最高指揮官である内閣総理大臣の出席する観閲式という大舞台で
三宅二曹にこれからオリンピックまでの間「経験を積ませ」、
政府関係者にもお披露目をしておくというのが狙いではないかと。

歌手の声が出来てくるのはどんなに早くても30からと言います。
6年後に向けて自衛隊がそれを計画していても不思議ではありません。 

三宅二曹の名前がアナウンスされたとき、周りが一斉に

「ああ」「海自の歌姫ね」

などと声を上げ、すでに彼女への認知度が高いのが窺い知れました。

ソロの君が代は正直なところ、彼女の声量ではまだ少し荷が重そうでしたが、 

自衛隊が計画している(かもしれない)ように、6年経験を積めば、
彼女が世界を舞台に国歌を歌っても恥ずかしくない歌手に育っている
可能性は大いにあります。
というか、この自衛隊の野望、是非実現して欲しいですね。

って勝手に野望にしてるし。




続く。


 


平成26年度航空観閲式@百里基地~「陸海空弁当」を頂く

2014-10-28 | 自衛隊

それでは、10月26日に茨城県は百里航空基地で行われた
空自主宰の航空観閲式について詳しくお話ししましょう。
その前に。




モックアップが展示されていたということで話題になった
F−35Aですが、ちゃんともう手元に所有されている方が、
わざわざ画像を送ってきて下さいましたm(_ _)m

ちゃんと空自仕様で日の丸がついているのがいいですね。



地上展示で何だかつまらない機体だなあと思ったのですが、
その理由は何も描かれていないからだったんですね。
個人的意見ですが、この日の丸がついてさえすればどんな機体でも
デザイン的にサマになってしまうような気がします。



さて,前日現地の駅前ホテルに一人で宿泊したわたし、
当日の朝、石岡駅前のシャトルバス発着所には7時に到着しました。

空自の係員の先導で列を作って壁際に並んだまではいいのですが、
そこにちょうど
喫煙所があり、何人もタバコを吸いにくるのです。
子供二人連れの家族にも煙をもうもうと吹きかけて全く意に介しません。
喫煙者はこういう状況でも、あくまで「吸う権利」を行使するようです。

隊員は「喫煙所だから吸うなというわけにもいかないし」とばかりに

放置でしたが、その周りだけ列を並ばせないようにすればよかったのでは。  




前日の深夜から並ぶ列ができていたという富士総火演と違って、
今回は観閲式で入場者が少なく、7時に並び出したところ
始発のバスに乗ることができました。

百里基地まで40分とガイドさんは言っていましたが、
体感的に20分くらいだったように思います。

わたしは茨城県に着たのは初めての経験ですが、
百里基地の周辺は田園風景が広がり、なんとものんびりした風情でした。
そのせいか一軒家がどれも大きいこと。



基地のゲートをくぐるところに一団の見物人がいました。
12時から始まる展示飛行のために、7時過ぎからここに陣取っているのです。

こんなに熱心な人がたくさんいるくらいですから、
一枚三万円で招待券を競り落とす人がいても不思議ではありませんね。



石岡からのバスに乗ってきた人たちは一旦降りて、
受付ゲートまでさらに別のバスに乗り換えて移動です。

しかし、こういうときの自衛隊の人さばきには、
長年のノウハウがあるとはいえ、その手際の良さにいつも感心します。



途中に空自の公用車をハケーン。
海自の車がネイビーブルー、陸自がOD色、そして空自は
やはり「ブルー」をカラーとしているんですね。



バスから降りた一団を「おはようございます!」と明るく誘導する係員。



スタンドはチケットの「階級」によって色分けされています。
わたしは観覧席Dに座りました。
各スタンドの入り口には必ず3人の隊員がいて、首から下げた
入場券の色を見せないと、中に入れてもらえません。



待機する警備隊らしき空曹たち。

大変言い難いのですが、空自の制服というのはどうも駅員ぽいと言うか、
お巡りさんみたいというか・・。

士官のシルバーのラインが入ったものになると、少しイメージも変わるのですが、
どちらにしても正直、少し華に欠けるデザインのような気がします。

駅員との差異化をはかるため、次回のデザインにはたとえば
袖とかズボンにグログランのテープをあしらうとか、ダブル前にするとか、
腰の位置で切り替えてもう少しラインを絞るとかの工夫がほしいと思います。

かっこいい制服が着られる、というのも戦前の兵学校、
並びに海軍への
志望の多い理由だったんですよ?



さて、思ったより簡単に席につくことができたので、

荷物を置いて売店にお弁当を買いに行きました。
朝早くチェックアウトしたのでホテルの朝食を食べられなかったのです。



一番端のテントに、日本郵便の出店がありました。

郵政民営化されて今やこんなところに店を出すようになったんですね。
何を売っているかと言うと、航空観閲式記念の切手シートでした。
シール式の切手で、あって困るものでもなく、
このシートを本日の唯一のお土産に買って帰ることにしました。

「シート一枚下さい」

もしかしたらわたしが最初の客だったのかもしれません。
お店の人はやった!売れた!という内心の声が聞こえそうな表情で、

「空自の偉い人にもお墨付きをいただいたんですよ。よくできてるって」


航空観閲式と書かれたF−15の大きな写真はシールとして利用できます。



席に戻ってきてお弁当を食べます。

こんなところで食べるものは栄養バランスとかは二の次、
という投げやりな気持ちからあまり何も考えず、
「陸海空弁当」というのをネーミングだけで選んだのですが、
(どうせならブログネタになるものを、という下心もあり)
買うときろくに中身をチェックしなかったのが裏目に出ました。

ごはん。牛肉(陸)。鮭(海)。唐揚げ(空)。以上。

牛肉に一切れタマネギの繊維が見えるような見えないような、
わかめ、それどこ?
という究極の野菜抜き弁当だったのです。
おかずが副菜なしで主菜のみ。

ある意味こんな徹底的なタンパク質オンリーの弁当は初めてです。

蓋を取るなり憮然としたものの、頂きました。
陸海空(牛鮭鶏)に感謝を捧げながら・・。

っていうか、何故鶏が空なのか(笑)




売店のテントから格納庫の裏の道を撮ってみました。

各国駐在武官のマイクロバスはここに停まるようです。



格納庫で展示されている飛行機。

コクピットが見下ろせるような台が設えてあります。



展示飛行機はF−15、F−2、そしてUH−60J救難ヘリです。





いずれもドアやコクピットを開けて見やすくしています。
F−2の台に上がるのに、この時点でもう30分の行列ができていました。



格納庫の前にわざわざ紅白の柱を4本立てて、
花を飾りエントランスにしてあるのが招待者控え室。
国会議員や駐在武官が、開始までワイングラスを片手に
オードゥブルなどをつまみながら談笑しているわけですね。



さて、朝ご飯も食べたし時間はたっぷりあります。

地上展示されている航空機の写真を撮ったりして時間つぶし。

まず空自仕様C−1。中型輸送機です。



こちらも空自迷彩のCH−47Jチヌーク。
陸自迷彩よりベージュ部分があるせいで明るく見えます。



エプロンに面した航空隊の入り口に父兄らしい二人がいるので

息子に会いにきたのかと思ったのですが、隊員は奥から
掃除用のブラシを持って出てきています。

何か掃除をすることが必要な非常事態が起こっていたのかもしれません。 



右側の白いテントは仮設の救護所。
ご覧のようにこの日は曇ったり晴れたりの不安定な天気でした。



会場に人が増えてくるに従って、警備のための隊が

各ポイントに配備されて行きます。
一個小隊が歩いているので写真を撮っていたら・・、



90°向きを変えてこちらに歩いてきたのでびっくりしました(笑)



こちらでも警備のための小隊が指示を受けています。



制服の隊員と記念写真を撮る光景もあちこちで見られました。



C−130H 輸送機。
C−1が「中型」なのに対し、こちらは「大型」ってことですね。
イラクの復興支援の際にはこの輸送機が現地に向かいました。



E−767という、やはりお皿を背負った早期警戒機をご紹介しましたが、
このお皿はレドーム、つまり中身は強力なレーダーで、回転するディッシュ型。
このE−2Cにも搭載されていて、同時に250個の目標を追尾し、
30の要撃行動を管制することができます。



強烈な電磁波が乗員の身体に影響を及ぼさないように、
どちらの機体にも
窓がありません。

日本が両機を購入することになったきっかけは、ベレンコ中尉亡命事件でした。
あれはたかがミグ一機に侵入を許してしまったと言う点で、
日本の防空態勢のお粗末さが露呈されてしまった事件でした。

当時の日本には低空で侵入された場合、
どこにもそれを捕捉するレーダーがなかったのです。


で、この事件を受けて慌てた日本がノースロップ・グラマン社に発注したのがこれ。 

という流れを見てふと考えたことがあります。

ベレンコ中尉の亡命の理由というのは、結局よく分からなかったといいますが、
あれだけのことをやってのけるのにさしたる理由もなく、って変じゃないですか。
ベレンコ中尉、


実はノ社の回し者だったって説は当時どこからも出なかったのかしら。



続く。



 


平成26年度航空観閲式@百里基地(概要)

2014-10-27 | 自衛隊

平成26年度自衛隊記念日に行われた、

防衛省・自衛隊60周年記念航空観閲式

に行ってきました。
2年前の海自観閲式に始まり、去年の陸自、そして今回と、
これで全観閲式を制覇したことになります。

観閲式というのは富士総合火力演習などとは違い、
応募したら誰でも見ることができるというものではなく、
自衛隊と何らかの繋がりがないとチケットが手に入らないらしい、
ということも三回目にして分かってきたわけです。

日を分たずして行われる入間の航空祭と、この航空観閲式は
全く趣旨が違うもので、航空祭が世間一般へのお披露目であり、
空自を知ってもらうための広報が主目的だとしたら、
観閲式は、自衛隊最高指揮官である内閣総理大臣の「観閲」を受けるもの。
言わば内部行事なんですね。

というわけで、入場の資格があるのは「自衛隊と関係ある者」
に限られてくるわけです。

因みにわたしがいただいたチケットですが、入手の段階で姓名を申告し、
その当人の使用に限り有効である旨明記されていました。

「招待状を譲渡された場合無効になります」


ところがヤフーオークションでこんなページを見つけてしまいました。

航空観閲式招待券三枚
即決価格一枚3万円
10月23日終了
落札価格一枚2万9500円×2 一枚3万円×1


出品者の素性がわからないのでURLを貼るのは控えますが、
つまり防衛省から関係者として手に入れた招待券を売って、
この人は計8万9千円を手にしたってことなんですね。

こういうのって、どうなの?

わたしなんか、招待券2枚頂いていたのですが、仕事が入っていけなくなった
TOの分を知り合いに譲ろうとして「譲渡無効」の記載に気づき、
相手にごめんなさいしたうえ、涙を飲んで一人分無駄にしたというのに。

ヤフオクって、出品者のIDは追跡できるわけですから、
この出品者は、今後防衛省の監視対象になってしまったりしないでしょうか。
それとも「譲渡無効」っていうのは有名無実だってことなんでしょうか。

そもそも2枚のチケットに5万9000円払う人がいるっているのが驚きです。
よっぽど二人で行かなければならない切羽詰まった事情でもあったのかしら。





と、いきなり殺伐とした(?)話題になってしまいましたが、

気を取り直して始めましょう。

会場へは石岡駅の前からシャトルバスで行きました。

百里基地というのは家から遠すぎて、とてもではないけど
朝いちで乗り込みたいわたしには可能だとは思えなかったため
駅前のホテルを取って、前日に乗り込んだのです。

別に一番乗りしなくても、会場は全てが雛壇式のスタンド席で、
何処に座っても普通に観覧できたのですが、
当方何しろ初参戦で、状況がわからなかったものですから。

滑走路のこちら側エプロンには航空機が20機、

ずらりとノーズを揃えて展示されています。
さすがは空自の観閲式です。



その20機とは別のところにこのような展示が。

こちらは次期戦闘機F−35Aのモックアップ。
はしご段がついているのは、安倍首相に見せるためで、
一般見学者のためではありません。



そしてMV-22オスプレイ。
アメリカ海兵隊の所有機ですので、岩国から飛んできたようです。
早くからこのコーナーは観客の注目の的になっていました。



ほとんどの展示航空機はおなじみのものばかりでしたが、

これは初めて見ました。

E− 767 早期警戒管制機

ボーイングのこの機体は現在世界に4機しかありません。
その一つがこれで、製作年である1997年の「7」を頭にした
「74−3503」というシリアルナンバーを持っています。


格納庫の中にはF−2などが展示されていて、上に設えた場所から
コクピットが撮影できるようになっていました。
さすがに乗せることはしません。



というわけで、式典に先立ち観閲部隊の入場が始まりました。

このとき10時25分。入場してから3時間経ったときです。

陸自観閲式のように行進がメインではないので、防大や防医大、

工科高等学校、看護学校などの教育部隊の受閲はありません。
シンプルに陸海空、総員700名ほどが観閲を受けます。



陸海は全く同数の120名が参加しました。

P3−Cと艦載ヘリSH−60Jの前の海自部隊。
やっぱりこういう正式の式典で見る制服は、海士のセーラー含め
海自が一番かっこいいと思ってしまいます。

陸自が一番かっこいいのは作業着つまり迷彩の戦闘服のとき。
空自は何と言ってもパイロットスーツでしょうか。



観閲式執行者たる航空総隊司令官、中島邦祐空将入場。




栄誉礼、三宅由佳莉二等海曹による国歌独唱に続き、

観閲飛行が行われました。

観閲飛行は陸海空の順で、陸海は3種類ずつ、空自は12機の飛行です。



この日茨城の天気予報は午後から雨になるということで、
わたしはこのために防水レインコートを買いましたが(笑)
午前中は晴れたり曇ったりの繰り返し。
観閲飛行のときはどんよりと曇り、あまり上手く写真が撮れませんでした。

日の丸と赤のストライプが美しいこのスマートな飛行機は、

B−747−400 特別輸送機
政府専用機、正式な英語名称はジャパニーズ・エアフォース・ワンです。
ただし、日本国はこの機体を2基所有していて、
2機目を「エアフォース・ツー」と呼びます。



続いて空自移動部隊展示走行。
エプロンには航空機の向こうにこの展示用車両がありましたが、
パック3などの高射隊を先頭に、基地防空隊、移動警戒隊など
6個部隊が車両展示を行いました。

駐在武官などの観覧席の隣には、車いすの専用場所があります。




最高指揮官たる観閲官の巡閲が始まりました。




誰とはいいませんが、どんな民主党のボンクラ首相でも

礼装の胸にこうやってシルクハットを当て、自衛隊の前に立つと
それなりに格好がついているように見えたものですが、
安倍首相のこういうときの格好よさは異常です。



安倍首相が観閲官訓示を行い、栄誉礼が行われた後、

(栄誉礼はこういう式典では何度となく行われる)
展示視閲が始まりました。

まず観閲官の前を車両部隊が通過します。



続いて航空機地上滑走。

これは凄かったです。というか凄い構図だと思いません?
二機ずつ静々と滑走して来る戦闘機。

展示機の手前、エプロン上を航空機が受閲のため滑走するのです。

航空祭では決してない展示で、今回これを見られたのが最大の収穫でした。



アナウンスでも言っていましたが、これらの戦闘機が走行するとき、
微かに「キーーン」という音の混じる猛烈な轟音が響きます。
飛んでもいないのにこんなにエンジン音が大きいとは知りませんでした。 



F−15とF−2が通過して行きます。

なぜ戦闘機なのかと思ったのですが、これらは航空展示で
瞬時にして空を通過してしまうので、パイロットにじっくり?
観閲部隊指揮官の観閲を受けさせるという意図かもしれません。



スクランブル発進の展示もありました。



F−15による機動飛行。

機動飛行とはマニューバ・フライトと訳されます。

これ、機体が白い気体に包まれているんだが。



F−15の裏側。

ノーズが下に曲がっているのがよくわかりますね。



排気が翼にかかって上面はこの通り。


機体が排気に包まれる現象についてアナウンスで説明がありましたが、
肝心のところを聞き逃しました。



練習機T−4の編隊飛行。
静浜基地では富士山の形を描いたりするTー4ですが、
今日は「60」です。
自衛隊60周年記念の観閲式であるからですね。



そしてお待ちかね、ブルーインパルスの展示飛行。

気がつけばいつの間にか会場には、いかにもトップガン的な
チューブラーベルズを多用したかっちょいい音楽が流れていました。
もしかしたら数あるブルーインパルスのテーマ曲の一つでしょうか。



1番機だけが後ろに次世代ブルーを乗せて発進。

全機揃ってのほぼ同時離陸で、これだけでも凄い技術です。



本日は航空祭、あくまでも観閲式なのでマニューバの数は半分くらい。

ショー的要素を持つ演目は控える傾向にありました。

ハートを描いたり、ギリギリの距離ですれ違ってみせるなどもなしです。



背面飛行はあり。



写真を撮るために会場の周辺にもカメラを設置している
マニアの姿がちらほらとありましたが、相変わらず雲が多く
真っ青な空にスモーク、という図にならなかったので、
彼らとしても残念な日だったのではなかったでしょうか。




観閲式を終えて退場する安倍総理。

一番外側にSP、総理の周りを防衛省のお役人と、
エスコートの空自隊員が囲みます。



安倍首相は、何もないときには結構難しい顔をしていましたが、

駐在武官席の前に来たときに敬礼する武官たちに答えて
微笑んだのが上の写真です。

安倍首相のような立場の人って、こういうとき何を考えてるんでしょう。




観閲官退場をもって式次第は終了になります。
この後、観覧席の前のエプロンに立ち入りが許され、

観客は地上展示の見学を楽しんでいました。



というわけで、駆け足でこの日の概要をお伝えしてきましたが、
明日以降、例によって詳しく見たことを最初からお話ししていきます。



続く。




練習艦隊帰国~日本軍将兵の遺骨帰還・引渡式

2014-10-26 | 自衛隊

半年前の5月、同じ埠頭でわたしは練習艦隊の出国行事に立ち合いました。
海上自衛隊の初級士官の実地訓練として行われるこの練習艦隊は、
太平洋、アメリカなどの11カ国に寄港し、訓練を終えて無事帰国してきました。 

出国行事の後、出席をご手配下さった海将から

「ぜひ帰国したら迎えてやって下さい」

と言っていただいたのですが、国民の一人としてお見送りをすることはあっても、
帰国行事は、隊員の家族の為にあるのではないか遠慮する気持ちから、
(そのことを元自衛官に話したところ『それは違う』と言われましたが)
当初この行事には、行かないつもりをしていました。

しかし、その後ブログでも書いたように、練習艦隊はニューギニアに寄港の際、
遺骨収集事業の団体がガダルカナルで収集した旧日本軍将兵たちのご遺骨、
137柱を「かしま」に乗せ、それを持ち帰ることが分かりました。

恒例の帰国行事に先立ち、ご遺骨の引渡式が埠頭で行われるというのです。

その出席をお取り計らいいただけることになったので、
わたしは謹んで行事に参加させていただくことにしたのでした。



今回は車に乗ったまま埠頭へのゲートをくぐりましたが、
セキュリティの自衛官は、ほとんど瞬時にしてナンバーを確認したらしく、
車を停める間もなく中に誘導されました。 

見れば艦ナンバー3508が半年前と同じ場所に停泊しています。



車を停めたところはちょうど「かしま」の艦尾の前でした。
後甲板には初級士官たちが待機しています。



わたしが到着したのは前と違い式典の時間ギリギリだったので
わかりませんが、家族たちは早い時間に一度は会っているのかもしれません。



この家族たちの落ち着いた雰囲気を見てそうではないかと思っただけですが。



車を停めて受付に向かう途中に、ご遺骨の献花台と、
白菊の飾り花が名前付きで設えてありました。
安倍首相始め、政治家のものがほとんどです。

前にも書きましたが、安倍政権では戦没者の遺骨収集について、
「戦没者遺骨収集推進法」案をまとめました。

この法律案では、戦没者遺骨の収容を「国の責務」として位置づけ、
厚生労働省、外務省、防衛省の協力を条文に明記しています。
政府はこの秋の臨時国会での法案成立を目指して準備をすすめており、
今回の「かしま」による帰還は、法律制定に先駆けて行われた、
政府の姿勢を示すものであったといえましょう。 

 

ご遺骨への献花のための菊花が置かれているのに気づきました。



来賓席はこのようにナンバーが振られています。
受付で名前をいうと、指定の席まで案内していただけました。

式典が始まって周りを見ると、来賓席には空きがあったのですが、

練習艦隊の隊員の家族証を付けた人々は、後ろに立ったままでした。
立った方がよく見えたということだったのかもしれませんが。



なぜこんな中途半端な写真を撮ったかというと、
来賓が付ける胸の花を皆さんにお見せするためです。
政治家と全く同じリボンで、偉くなったような気がしてちょっと嬉しい(笑)



帰って来ると、ちょうど乗員の下船が始まったところでした。




儀仗隊はこの間不動の姿勢。

士気刀を構えた背筋が伸びて、実に凛々しい構えです。



東京音楽隊が演奏するのは、勿論行進曲「軍艦」。




全員が下船するわけではなく、実習幹部が主となります。

「かしま」の乗員は要所に配備中。



覚えてますか?軍艦旗のマークの付いた祝砲。

今回の航海において、この祝砲は13カ国の各地で活躍しました。



見送りの時には純白の制服に身を包んでいた彼らが、

ネイビーブルーの(黒だと言い張ってたけどもういいや)
ダブルも
凛々しく、同じ埠頭に今降り立ちました。






ラッタルの上で進捗状況を見ている練習艦隊司令官以下、艦長たち。




彼らの向こう側のテントには出迎えの家族がいます。




海自女子隊員、WAVEたちも下船完了。




こちら貫禄の海曹たち。




と、サイドパイプの音が鳴り響きました。

艦隊司令と艦長の下船です。
湯浅秀樹海将補を先頭に、森田1佐、東2佐、川内2佐。



来賓席前方には、厚生労働省のお役人が待機中。

遺骨帰還事業をは厚労省の管轄です。

遺骨収集にまつわる「不祥事」についての対応において、
そのお役所体質をちょっと一言言及させていただきましたが、
今回の帰還はこの厚労省にとっても明るい材料だったのではないでしょうか。

不祥事が起こったと言ってもそれは今まで国が「国の責務」
としていなかったため現場での活動に歪みができてしまったわけで、
決してお役人の責任ではありませんからね。



来賓席の右手のテントは、厚労省の職員と遺族の席でした。
父親だったのか、兄弟だったのか、それとも夫だったのか・・。
皆が様々な思いを胸に、この場にあります。

「かしま」に乗せられたご遺骨は、彼らが戦地に赴くため
日本の港を発って行ってから70年後の今日、これから、
初めて故国の土を踏む瞬間(とき)を待っているのです。



朝の空気を緊張で揺るがすような海曹長の掛け声がかかりました。
総員が挙手注目の礼を行います。



総員じゃなかった(笑)
海曹海士は正面を向いたままです。



そして今、ガダルカナルから帰還したご遺骨が、
「かしま」乗員の腕にしっかりと抱かれて、日本の土を踏みます。



自衛隊HPに掲載されていた、ホニアラ島での「かしま」ご遺骨乗艦の様子。

今回、参列のため必要な連絡を取って下さった海幕の1佐に、
御礼のメールをさせていただいとところ、そのお返事には

「練習艦隊関係者から聞いたところでは、
帰国のための航海中も、御遺骨に手を合わせる乗組員が
昼夜を問わず後を絶たなかったと聞きました。

 実習士官達にとって、また乗組員達にとっても、
これに勝る精神教育は無かったに違いないと思っております。」

と書かれていました。
「かしま」艦内では、日本にお送りさせていただくという気持ちの元に
総員が ご遺骨を丁重に、最大限の敬意を払って接したということです。 



音楽隊がご遺骨をお迎えするために奏楽したのは、
「海行かば」でした。

その調べを聴くうちがいつしか万感胸に迫り、
わたしは恥ずかしながら
涙をこらえることができなくなっていました。



「かしま」から日本の地に降り立ったご遺骨は、これから
「引渡し」の儀式によって海上自衛隊から日本に送還を完了します。



先頭に立ち歩いてきていた「あの」海曹長。
隊員を待つのは厚労省の職員です。




まず、自衛隊から「国」たる厚労省の職員に手渡されるご遺骨。



そして、厚労省職員の手で献花台に安置されます。



台の前には二人の職員が立ち、白木の箱を受け取ります。



全員が白い手袋を付け、丁重に受け渡しを行います。



白木の箱は全部で10。

先の大戦で海外戦没者およそ240万人のうち、ご遺骨が収容されたのは
約127万柱、未収容のご遺骨は約113万柱と数えられています。

収容された御柱は、複数人のご遺骨で1柱を成しているとも言われているので、
実際はもっと多くの御柱が収容されていると見込まれており、
今回もそのような状況ではないかと思われます。




ご遺骨の引渡式が済み、全員で黙祷を捧げました。



厚生労働省副大臣、長岡桂子氏が一番に献花を行います。



防衛副大臣、左藤章氏。



参議院議員、宇都隆史氏。
ご存知のように宇都議員は元自衛官です。


遺骨収容事業については、

「党遺骨帰還に関する特命委員会事務局長」

として実現に奔走し、外務大臣政務官として
現地でのご遺骨の「かしま」への乗艦の儀式に立ちあいました。
本日ここにあっておそらく胸中は感無量でありましょう。




遺族会の代表。



献花は測ったように等分に供えられています。



参議院議員、佐藤正久氏。

 

佐藤氏の献花のやり方だけが他の議員、というか誰とも違い、
花を両手で持ち歩んでいたのが印象的でした。



宇土議員といい佐藤議員といい、元自衛官議員はどちらも男前ですよね。

昔、防大1期で空将から政治家になり、影で「ジェネラル」とあだ名されていた
田村英昭という議員がいましたが、戦後の自衛官出身の政治家では
佐藤議員は唯一の佐官となります。



西村真悟氏。
後ほど参列議員が一人ずつ紹介されたとき、

「ご苦労様でした!」

と大きな声で言い、自衛官たちに頭を下げました。



続いて、遺族の献花です。



遺族のほとんどが年配の方でした。

来年、終戦から70周年を迎えますが、遺骨収容が法案化したあとも、
実際のところ一刻の猶予も残されていません。
熱帯雨林に眠るご遺骨は早くしないと土に還ってしまうからです。

そして、ご遺族がご存命のうちにご帰還させられるものはさせたい、
これは事業に関わるもの全ての悲願でもあるのです。




前回ここで練習艦隊を見送ったときには横須賀地方総監であった
武井智久海将が、今回は海幕長になっていました。

就任は10月14日、なんと10日前に海幕長になったばかりです。



そして10日前まで海幕長であった河野克俊海将。
海幕長退任後、第5代統合幕僚長に就任しています。

統合幕僚長(Chief of Staff, Joint Staff)とは、
統合幕僚監部の長であり、陸海空の自衛官の最高位となります。




式典開始前は和やかなご様子で談笑されていましたが、
献花のときはごらんのような悲痛な表情でした。



献花が終わり、厚労省職員がふたたび白木の箱を抱え上げました。
これからご遺骨を厚労省の安置所まで運ぶのです。



10名の職員たちは列を作り、用意されたバスに乗り込んで行きました。
この後、千鳥ヶ淵戦没者霊園にお納めするのでしょう。

千鳥ケ淵戦没者墓苑は、大東亜戦争の折に国外で死亡した
軍人、軍属、民間人の遺骨のうち、身元不明や

引き取り手のない遺骨を安置しています。



バスの中に姿を消すご遺骨に対し、共に一ヶ月を過ごし、
毎日その慰霊を続けてきた練習艦隊のメンバーは、敬礼を続けています。


海幕の1佐から頂いたメールには、さらにこうありました。

昨日の我が国将兵御遺骨並びに練習艦隊帰国式典にご参列頂き
誠にありがとうございました。

我々の大先輩であり、また現在の我が国の礎を
命を賭して築いて頂いた将兵の皆様のやっとのご帰国が叶い、
日本国民、海上自衛隊員として胸が熱くなる思いが致しました。


また、式典の途中、参列者の中から大きな声があがりました。

「お帰りなさい!」

お帰りなさい、あなたたちが生を受け育まれた故郷へ。
お帰りなさい、あなたたちが命を賭して守ろうとしたこの国へ。
お帰りなさい、あなたたちの国、日本へ。



わたしは、この場に英霊の御霊は必ず在って、
このときにも奏楽されていた「海行かば」の調べを
共に聴いておられたのだと信じて疑いません。 



 



USJ特別待遇ツァー~「中の人などいない!」

2014-10-25 | 博物館・資料館・テーマパーク

中の人と行くユニバーサルスタジオジャパンツァー、報告二日目です。
案内して下さった方は、メモに案内してくれるアトラクションを書いて、
それを見ながらさくさくと予定をこなしていきます。

並ぶ時間がどれもゼロですから、予定はきっちりと時間通りに進んでいきました。



ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリーポッターの後は、
わたしたちが「バックドラフト」と並んで評価する

「ウォーターワールド」

繁忙期には一日5ステージあるというこのアトラクションですが、
あの消耗が激しいアクションを全ステージ務めるのでしょうか。

「そんなときには交代でやります」



ここも、左側で待つ人たちを横目で見ながら入って行きます。

向こうで係員が手を挙げていますが、エクスプレスチケットを買えば
一般の人も並ばずに済みます。



おなじみ、ショーが始まる前の「仕込み」タイム。


「悪役の「ディーコン」が出てきたら皆でブーイングしましょう!」
「あっ、ディーコンだ!」
「ぶーーー」 

と言う流れです。 




そしてこれもお約束、一番前に座っている命知らずの二人に、
代表して水をかぶっていただく時間。
今日のように暑くて、しかも生け贄が野郎二人の場合は
かける方も全く遠慮しません。



もしかしたら「仕込み」かもしれないといつも思うのですが、
帰り、たまたま近くを歩いていたこの二人の様子を見る限り、
単なる一般客でした。



ショー開始。

ヒロインのヘレンさんはいつも白人系の役者です。
いつもこんな人をどこから見つけてくるのだろうと思うのですが、
彼らは日本だけでなく、アメリカのユニバーサルスタジオ本社が
オーディションをして選んだ役者で、世界中のUSで同じショーをしているのです。

演技と、何よりアクションができないといけませんが、 アメリカには
こういう下積みっぽい役者はそれこそ掃いて捨てるほどいるので、
人材に事欠くことはまずありません。

アクションをする役者が白人ばかりなのはそのせいです。 



このディンギーと水上スキーの二人組もアメリカ人。



彼の腕を見て下さい。
どんだけ鍛えてるんだって感じの筋肉です。



簡単そうに見えますが、そう広くもないこのプールで縦横無尽に、

しかも客席にわざと水をぶっかけるように滑るのは
なかなか難しいことではないかと思われます。



今日は暑いからいいけど、真冬でもやってますからね。



ホースの水が綺麗な虹を作っています。




このショーは、爆発したり水しぶきがあがったり、
危険なシーンが満載で何しろ派手です。



悪の帝王ディーコンを演じるのはいつもスキンヘッドの日本人。
なぜかというと、セリフがある役だからですね。
アメリカ人の主人公たちのセリフは全てプリレコーディングですが、
この人だけは客席をいじるというショーの進行上、アドリブができないと
いけませんし、聞いたところアクションも自分でやっているというのです。

このことについて、今回あることに気づいてしまったのですが、それは後ほど。



このちょいと太めのおじさんが主人公マリナー。

映画では確か若き日のケビン・コスナーでしたね。



ヘレンさんもこうして見ると逞しいですなあ。

このロープ渡りのシーンは今まで何度も見ましたが、
今回鮮明な写真を見て初めて、手首に命綱を巻いていたのを知りました。



命綱といえば、この写真で見ても、
手前の手下役のアクターはちゃんと手首を輪で固定しています。



この逆さ吊りされているのもアメリカ人ですが、
いつもこんなに長い間逆さに吊られていて大丈夫なのかと心配します。
この人は毒物のタンクの中に放り込まれて死ぬ運命。(-人-)ナムー



お、こうして見るとなかなか男前じゃないかい?




彼のこのアクションも、「ターミネーター」のバイクとは違い、

実際にボートを操作しています。
アメリカではスタントの専門役者かもしれません。



しかもうしろでは火を伴う爆発。

坂の手前でボートが転覆したら役者はこの火で大やけどです。



後から息子と「どうやってあの飛行機飛ばしてるんだろうね」
といつも言い合う、クライマックスの飛行機乱入シーン。
カタパルトが塀の向こうにあるのだとは思いますが、
毎回毎回きっちり図ったようにここに落ちるというのもよく考えたら凄い。



そして、最後の大立ち回りが始まります。
ディーコンがこのあとマリナーと格闘し、
身体に火がついて水中に転落するシーン。

このアクションについて中の人に「スタントですか」と聞いたところ
「本人がやっています」
という答えだったので凄いなあと思っていたのですが・・・



♪あーちーちーあーちー燃えてるんだろか~♪

はい、燃えてます。
いつ見ても凄いですね。
映画の撮影用に使う、ジメチルエーテル(ミラクルファイアー)で、
ガソリンを被ったときのように肺直撃すると即死亡、
というようなことは絶対にないとは知っていますが、
それでも人体に火がついていると恐ろしくて胸がきゅっとします。

だいたいこれ、頭に火がついてないか?



そしてそのまま水中に落下・・・・
・・・・・あれ?



こちら、演技中のディーコン。
何か色々と、背丈とか脚の長さとか顔とか違うような。
というかこれ別人がゴムのマスク被ってますよね。




落下するディーコンは耐火スーツとマスク、

よく見ると手袋まで着用している完璧なスタントです。

中の人が「本人がやっています」とおっしゃったのは、
彼女が知らなかったのか、それともそう答えるのが
中の人としての使命だからか・・。

しかし、今回こうやって写真を撮って拡大して
初めてわかったことで、実際に見ている限り、人が変わっていて、しかも
ゴムのマスクを付けていることなど一度として遠目からは気づきませんでした。



そして惜しみなく消費される火薬の類い。

大団円はとにかく爆発です。
ディズニーランドでは決して行われないこれらの「映画的」ショー。
ゆえにこちらの方が好きというファンは多いかもしれません。



たまやー。

というわけでおしまい。



ショーが終わってカーテン?コール。
役者全員ずぶぬれですから、何度もいいますが冬は大変かと・・。

さて、お次は今までわたしたちがいつも「濡れるのでパス」していた
ジュラシックパークに挑戦です。

この濡れ加減も、パーク側では天候によって配慮しているのだとか。
つまり今日のような暑い日には・・・・・



ジュラシックパークゾーンに入ると、中の人が、

「あ、これは恐竜が出てきますね」

と立ち止まりました。
見たところ周りに異変はなく、音楽が変わったくらいなので、
今まで一度も気づかなかったのだと思いますが、
ここには本の時々恐竜が出没するのだそうです。



あまりにも自然に現れすぎて全く気づいていないおばちゃんたちがシュール。




には尻尾に触ろうとする不届きものがいるので(本当にいた)

係の人はそれを制止するのが任務です。

実に恐竜らしい動きをしているのでわたしが


「中に入っている人は大変ですねえ」

というと、中の人は

「中の人などいません!」

ときっぱりと言いました。
はい、そうですね。



ベビーカーのお子さんにも襲いかかりますが、子供によっては
全く平気(左)なのとギャン泣き(右)するのがいるので、
彼らに対するケアも係員の大事なお仕事。



この後、わたしたちも乗りましたが、猛烈に濡れました。
暖かい日で良かったです。
最後にティラノザウルスが出て来なかった、と中の人は言っていましたが、
わたしたちには初めてなので全くわかりませんでした。


余談ですが、割と最近、神戸大学の学生ら三人が、常習的に悪ふざけして
それをツィッターに上げたため炎上し事件になったことがありましたね。
あれは、このライドで安全バーを緩めに下げておいて、途中で身体を出し、
怪我をしたことを自分でツィッターに上げてしまったのですが、
彼らは年間パスポートでそれをやっていたため、パーク側ではかなり早くから
ブラックリストに挙げてチェックしていたのだそうです。

ただ、キャストが顔を覚えているわけもなく、手をこまねいていたところ、
犯人が自分で自分の正体を世間に公表してしまったと・・。

そのことについては中の人の話は「守秘義務」に抵触する部分もあるので
全部ここに書けないのですが、ただ、調停の段階でパーク側は
世間的にはちゃんとした地位の親たちの「ある一面」を見て、

「この親にしてこの子あり」

の感想を持った、ということだけお話ししておきましょう。



と、ここでもまた見つけました。
「USJのピンヒール」(当ブログ同タイトル参照)を。

脚に合わないためグラグラして足首から下が斜めになっています。
この靴を生脚で履くという命知らずの女性。
しかも一緒の彼氏は彼女の辛そうな歩き方に全く気づかないのか、
先に立ってすたすた歩いて行きます。

お節介ながら、色んな意味で大丈夫か?と思ってしまいました。



この部分はフィッシャーマンズワーフ。

つまりサンフランシスコです。



フィッシャーマンズワーフにあるチョコレートの「ギラデリ」。



プレシド、サウサリート、サンラファエル、ナパ、

サクラメント・・・・。

どれもサンフランシスコ在住者にはおなじみの地名。

ちなみにスパイダーマンのアトラクションは「NY」の区画にあります。



ここでわたしたちの好きな「バックドラフト」。

これは「裏の通路」で、ここを抜けたらもう入り口です。



おやつ休憩ではここのワッフルを食べました。




ハロウィーンのカボチャ衣装を着けたスチールドラム軍団。

ドラムの音の高低でメロディを奏でてしまいます。

セントトーマスに旅行したときに、そこが本場だと知りました。



「スパイダー麺」というインスタント麺があるのは知っていましたが、

これは初めて知りました。
スパイダーまん
ちゃんとブラックスパイダーまんもおります。



そのアメージング・スパイダーマンですが、通常の入り口の左側に、
このような扉があり、待っていると係員が開けてくれます。
ここを通って、通路にはいると、何とびっくり、そこはもう
後はライドに乗るばかりのプラットホーム上でした。

因みに、写真に写るポイントですが、スパイダーマンがカメラを出して
写真を撮るときじゃないんですって。
今までそこで「決めポーズ」をしていたのは何だったのか・・。



ハロウィーンのパレードに遭遇。

何年か前の人垣の全くなかったパレードのときとは違います。



こういう「山車」の類いは、皆オフシーズンには

衣装や小道具も含めてみな倉庫に直してあるそうです。



「ディスピカブル・ミー」のミニオンのポスター。

2015年に何かアトラクションができるのでしょうか。



さて、というわけで本日のメインイベント、ジェットコースター。

今まで何となく乗る気になれなかったのですが、並ばずに済むなら
是非この機会に体験したい。

というわけで、「わたしは結構です」と辞退したTOを下界において、
乗ってみました。



「レールが太くて走行が大変滑らか、車が安定しているので

ある意味怖くないです」

と聞いていた通りでした。
脚が宙に浮いた状態で乗るのですが、カーブの頂点を超えるとき、
身体がふわっと浮く瞬間があって、
それが何とも言えず
「恐気持ちいい」感覚で、わたしはすっかり気に入りましたよ。


サンダルやローファーがこのときに脱げてしまうので、
そういう靴を履いている人は
係員がゴムバンドを渡してくれます。

何台かに一台は後ろ向き走行のカートがあるのですが、これは本当に怖いそうです。
わたしはこういうコースターのとき必ず進行方向を確かめ、
それでかなり恐怖が軽減されるのですが、後ろ向きはそれができません。
でもいつかは試してみたいと思いました。



「ジョーズ」も、ドアをくぐったらそこは乗り場。

全く一日、楽させていただきました。
ありがとう、中の人。




すずめたちもここではごはんに困らなさそうです。



というわけで、一日のVIPツァーを終えました。
並ばなくても良かったからというのもありますが、USJって
こんな楽しかったんだ、と再認識することになりました。 
何と言っても初めて体験したアトラクションが
思ったより面白かった、ということが大きいです。 

何でも食わず嫌いせず試してみた方が、こんなところは楽しめますよね。

というわけで、



(シュワちゃん揮毫)


 


USJ特別待遇ツァー~「ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリーポッター」

2014-10-24 | 博物館・資料館・テーマパーク

息子の学校が休みだったので、ユニバーサルスタジオ大阪に
家族三人で行って参りました。 
例年この休みのときには息子が誕生日を迎えるので、
バースデイプレゼントとしての旅行でもあります。 



何処に泊まるか色々考えたのですが、(TOが)
8月にオープンしたばかりの大阪キタにある
インターコンチネンタル大阪にしました。
再開発がここ数年で飛躍的に進み、行くたびにガラッと
都市の様子が変わっている一帯にあります。
昔はこの辺操車場で、夜になると誰もいなくなり、
一人で歩くのも怖いような地域だったそうですが。

ホテルの前の空き地は、公園になるそうです。
昔再開発の計画が決まったときそんな話も聴きましたが、

「まさか大阪人が大阪駅の前に公園などという
『ゼニカネにならんもん』など作るはずがない」


などとと皆で言っていたような気がします。 
侮っていてすみません。(大阪人に言っている)  



部屋はコーナーを予約しました。(TOが)
決して広くないのですが、部屋がたくさんあるという作りで、
ホテルというより高級マンションの雰囲気です。
ちなみに隣に見えているのは高層マンションである模様。

 

しかしその広くもない空間に、なぜかこんな
オブジェ的な家具が置いてあるのだった(笑)
これがねえ。
微妙にいやな感じなのよ。
下の方が広がっているので、わたしも息子も、
普通に歩いていて脚をぶつけてしまうし、TOにいたっては、

「このザラザラした表面と無駄な体積が生理的に厭だ」

といって毛嫌いしていました。
チェックアウトのときに滞在の感想を聞かれましたが、
文句を言ってもどうなる問題でもないし、黙っていましたが。



どうしてお風呂の扉を全面的にガラスにするのかも謎。
こちらに洗面所とトイレがあるんですよ?
せめてシャワーブースだけでも囲うべきだと思うがどうか。



息子の誕生日であることを言っておいたら、支配人(フランス人)
からプレゼントとカードが届いていました。

 

クラブフロアが使える部屋だったので、食事もお茶も、
全てここで戴くことができます。
朝昼夕、アフタヌーンティー全て、ここで賄えてしまうのだった。
夜はお酒も飲み放題の模様。




夜は部屋にバースデイケーキを届けてもらいました。
ケーキの上にコーヒークリームのポーションが乗ってる!
と思ったら、飾りでした。
お味は、とにかく甘かったです。
あまりの甘さに数匙でギブアップしたくらいでした。m(_ _)m



次の日、チェックアウトしてUSJに向かいました。
さようならインターコンチネンタル大阪。 



そして到着。
こんにちはユニバーサルスタジオジャパン。
なんだ、こりゃオフィスじゃないのかと思われた方、あなたは鋭い。

本日の訪問は、いつもとは違うんです。

「中の人と行くユニバーサルスタジオジャパン!
最新アトラクション、ハリーポッターから誰も知らないバックステージまで、
裏話を聴きながら巡るノーストレスフルな一日のトリップ!」

と旅行会社なら銘打つであろう、特別なツァー。
マイケルジャクソンでもない我々には、一生に一度あるかないかの機会です。



ディズニーランドはどうなのか知りませんが、USJは、
このような特権が本社の人間に限り認められているようです。
皆がそんなことしたら目立って顰蹙を買わないかって?

これはディズニーもそうですが、こういうテーマパークの従業員は
その殆どがパートタイムで、正社員そのものの数は想像するより
ずっと少ないものなのだそうです。 


実はこのツァー、最初のお誘いをいただいたのが今年の3月でした。

しかしわたしがその1週間前に骨折したため、半年延びて今回になったのです。

しかも今回の訪問の1週間前、わたしはその骨折の際入れた
手首のプレートを取る手術をしたばかりで、包帯をしたままでした。


何だか因縁を感じます。




ここで案内下さる「中の人」と合流し、荷物を預かってもらい、
ハリーポッターのオブジェが飾ってあるオフィスから、
廊下を抜けて外に出ると・・・・。


いきなり中に入ってきてしまいました。




この季節はいつも、テーマパークはハロウィーン一色です。


キティちゃんやよく分からない着ぐるみ(失礼)が出ていましたが、
ディズニーランドのように、列を作ってまで写真を撮ることはありません。
ディズニーのあれは、言っちゃ何だけどまるで宗教みたいな・・・

おっと。



まず早い目にランチを食べましょう、ということで

連れて行ってもらったのがここ。

 

スープを運んできたキャスト(ウェイトレスじゃないのよ)が、

パラパラと何やら金の粉のようなものを振り入れました。

「あ、星の形をしてる!」

ディズニーランドで掃除をしているキャストに、何を集めているのか
聞くと「星のかけらです」と答えるという「神話」を思い出しました。
せっかくなので参考までに、その話を中の人にして差し上げました。

空気読まないTOは、

「ここで掃除をしている人に『何を集めているんですか』と聴いたら
『見てわかりまへん?ゴミでんがな』って答えたりして」

・・いくら大阪でもそれはないわ。



メインはハンバーグステーキをチョイス。

とても美味しかったのですが(これ本当)、朝ご飯が遅く、しかも
早い目のお昼だったので、半分しか食べられませんでしたm(_ _;)m



さて、食事の後、早速我々は「ハリーポッター」に案内されました。

わたしたちの誰一人として映画を観ておらず、本も読んでいないので、
この映画のシーンを再現したこういった部分を観ても、わかりません。



映画では、誰かが車で木にぶつかるんですねたぶん。

ロシア人らしい夫婦が車と似合っているなあ。



ここがハリーポッターの世界の始まり。




この日はどういうわけか真夏のように陽射しが強く、

寒くないようにと厚着してきた人たちは汗だくになっていました。
しかし画面に映る限りそこは雪のつもる街。
デフォルメされた家々が妙な遠近感を持ち、実際に観ると
不思議なくらい広いような錯覚を起こさせます。



これも映画を観ていたらおなじみの駅。

時々汽車はもうもうと蒸気を吹き出します。



ハリーポッターの敷地は、元は駐車場であったそうで、このスペースを

確保するために立体駐車場を作ったということでした。
平日ですが大変な人です。



ハリーポッターの世界では郵便はフクロウが運ぶものなので、

「オウル・ポスト」です。



ここには休憩のためのベンチの上にフクロウの剥製が多数。



剥製かと思ったらこちらは本物。

「オレンジのすごい綺麗な目をしてるんですよ」

周りから写真を撮りまくられても平然と首を動かしている
このフクロウさんの顔を撮りたかったのですが、失敗。



煙突からは煙が。

細かいところまで凝っています。
洗面所のなかでは、登場人物らしき女の子のおしゃべりが聴こえ、
これも映画を観ていればわかるのだそうです。



ホグワーツ魔法魔術学校もご覧の通り。
ここにハリーポッターのアトラクションがあります。
アトラクションには長蛇の列ができていましたが(140分)、
わたしたちはまずエクスプレスの入り口から入り、さらに
その先の通路をすっ飛ばしていきなりライドまで到着。

ライドは、横並び四人掛けのシートが実際の動き
(最大90°回転)と映像を組み合わせる方式で、
ハリー・ポッターの帚が先導して空を飛ぶというものです。

映像とリンクするライドが苦手な人は酔ってしまうそうですが、
わたしもどちらかというとこういうのは苦手です。
ただ、映像や、途中に出て来る恐竜が吐く息が生暖かいなどという
ディテールの面白さに気を取られているうちに終わってしまいました。


このライドの仕組みは世界最新式のものだそうで、
アメリカ以外では初めて日本に作られました。
ハリウッドですら2015年のオープン予定だそうです。 



湖の畔に建つ岩の上の魔法学校の佇まいも、

映画を忠実に再現しているのだとか。



湖に逆さに写る建物も、ストーリー的には重要です。

(だそうです)



普通にその辺を歩いている魔法学校の先生らしき人発見。




そして、いたるところに魔法学校の生徒が・・(笑)

これも聴いたところによると、ガウンは14000円、魔法の杖は
3800円するのだそうです。

USJの当事者ですら、言外に「高いのに」という含みを
持たせていたくらいですから、 たった一日ここで着るためだけに
それだけを投入してしまう人がたくさんいる(しかも高校生多し)
というのは、ちょっとわたしには不思議な気がしました。

今USJはデュバイに建設中だそうですが、ここならともかく(笑)、
アメリカ人が、わざわざ一回着るためにこのガウンを購入しているとは
(しかもこんなたくさんの人が)とても思えません。


この日はハロウィーンのため、気合いの入った仮装をして
園内を練り歩く人が多かったのですが、
(5人組のセーラームーン戦隊とか、囚人とかミニスカポリスとか)
これもその一環としての仮装でしょう。

ただ、この日は暑かったので皆さん大変な苦行だったと思われます。



並ぶと言えば、この列はお土産ショップに並んでいる人々。

「ハニーデュークス」というキャンデーを買うために列を作っています。
2時間くらいは皆並んでしまうのだとか。

このあとわたしたちは敷地内にあるジェットコースターに乗りました。
こちらは何処の遊園地にもありそうな、普通のローラーコースターです。

わたしたちは元々こういう絶叫系ライドが好きな方ですし、
「中の人」はこういう案内を年に何度かしているため、(これも仕事です)
どれもこれも慣れてしまって何とも思わなくなったそうですが、
TOは観察したところ、このアトラクションで完全にグロッキーになっていました。

普通ならパスするライドでも「中の人」への気遣いと、
全く並ばずにすいすいと乗れるということからかなり我慢していたようです。
まあ、彼に取っては仕事みたいなものだったんですね。


この「ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリーポッター」ですが。
企画の段階であの東日本大震災が起こり、そのために
コースターのレールに使う鉄が高騰したり、人手がいなくなったりしたため
計画が一時中断されていた時期があったのだと聞きました。


しかし、去年のオープン以来、入場者はうなぎ昇りで、業績的にも

「V字回復」といってもいいくらい好調だそうです。
この季節わたしたちは何度も来ていますが、今回は入ったとたん
空気が違うというか、以前感じた「うらぶれた感じ」がさっぱりと
消え失せているのが目に見えてわかりました。

流れが変わると言うのはこういうことなのだなあと肌で感じた次第です。


続く。


日系アメリカ人~442部隊・「アメリカによる」ダッハウの虐殺

2014-10-23 | 博物館・資料館・テーマパーク




歩兵第100大隊は442部隊に編入され、イタリアのヴェルベデーレの戦闘に
参加しました。



なんと、従軍牧師も日系アメリカ人のようです。
イタリアのオーチアーノで行われた礼拝。
この24時間後には彼らは戦闘に入り、何人もの命がそこで失われました。



イタリア人の捕虜を引率して歩くサム・ヨシハラ。



左からウォラース・ヒガ、ジェームス・イシモト、ジツオ・コガ。
イタリアの山中で、迫撃砲を敵に向けてセットしているところ。 



「想い出のアルバム」的なもの。
皆が洗濯や掃除をしている写真のキャプションには

「いつも掃除ばかり」

と書かれていて、これはもう日本人のDNAなんだとおかしくなります。



戦後になって明らかにされた話ですが、442部隊隷下の野戦砲兵大隊が、
ドイツ軍との戦闘の末、ダッハウでユダヤ人強制収容所を発見しました。



実際に解放を行ったのは彼らではなく、白人の部隊です。
日系人部隊は、そこに至るまでの掃討作戦でドイツ軍を倒しました。



因みにこの収容所でもガス室によるユダヤ人の殺戮があった、
と陸軍は発表していますが、実際にはガス室はダッハウにはありませんでした。

ユダヤ人の大量な死亡の原因は殆どが餓えとチフスによるものです。




本当の虐殺はアメリカ人の手によって行われました。

アメリカ人部隊はダッハウに乗り込み、所長を始めとするドイツ軍人を
拷問・リンチの末裁判なしの処刑によって多数を殺戮し、これは

アメリカ陸軍によるダッハウの虐殺

という事件になっています。
日系人部隊は、勿論この虐殺には参加していません。

アメリカがこの事件を糊塗するために言い出した「ガス室」が、

戦後一人歩きし出して事実化した、という疑いもあるのです。



彼らがダッハウ付近の戦闘によってドイツ軍を駆逐したことは
戦後長らく秘匿されていました。
このことが明らかになったのはなんと40年経った、1992年、
ジョージ・W・ブッシュ政権でのことです。



終戦後、イタリアでリー将軍の閲兵を受ける442並びに100大隊。
彼らの持つ旗には

「GO FOR BROKE」

という彼らのモットーが書かれています。
意味は「やるしかない」「撃ちてしやまん」といったところでしょうか。
文法的に全く間違っているのですが、これは日系人の「ピジン原語」で、
賭けのときに

「やるっきゃない!」「全財産突っ込め!」

といったニュアンスで使われた言葉なのだそうです。


 

U.S.O、というのは横須賀の米海軍ベースツァーに参加したときに

United 
Service 
Organizations

米軍内部へのサービス組織であることを知りました。
いやー、本当に見学したものが知識となって役立ってます。

この「ウソ」が、なぜハートマウンテンの収容所にあるかというと、
それだけこの収容所には出征兵士が多かったということでしょう。
なんと、強制収容所の中に、米軍軍人用の施設を作っていたってことなんですね。

軍人の家族もこのサービスを受けられるということで、
彼女だか奥さんだかも、喜んでその恩恵に浴しているところです。

米軍軍人になったとたん、扱いがガラリと変わったということですが、
しかし、そこは依然として鉄条網に囲まれた強制収容所の中なのです。


なんという皮肉な特権なのでしょうか。



日系二世のWAC(女性兵士)もいました。
ミネソタのフォートスネリングで、和やかなひとときのワックたち。



「アメリカの勝利のために」志願した日系アメリカ人たち。
レイを首からかけているのはハワイ出身でしょうか。



しかし、彼らの多くが戦いにたおれました。
イタリアで戦死したカズオ・マツダ軍曹に贈られたメダルを
スティルウェル将軍から掛けられているのは、妹のメアリー。



ハワイから出征した歩兵第100大隊の兵士も多くが戦死しました。
しかし、彼らの戦闘の証は、多くの差別的な法律の撤廃の動きを
加速させる結果となります。

まず、アメリカ国籍が取れなかった彼らの両親たちが、
アメリカ市民になることが出来たのです。



強制収容所の中で何度も行われた「おなじみの」光景。
442大隊で出征し、名誉の戦死を遂げた息子に、
オナーメダルと共にその報せを持ってやって来る陸軍軍人。

リサク・カナヤ夫妻に、従軍牧師であるオールズ大佐が
シルバーメダルを授けています。



彼らの息子、ウォルター・E・カナヤ上等兵は、
1944年10月17日、フランスのブリュイエールの戦いで戦死しました。

この戦闘でドイツ軍からブリュイエールを解放した442部隊への
感謝の式典は今日も続けられ、村には「442大隊通り」があるそうです。

オールズ大佐が強制収容所にメダルを持ってやってきたのは、
終戦後の1945年8月25日のことでした。



トルーマンは戦後442部隊を閲兵し、その際

諸君は敵のみならず偏見とも戦い勝利した
(You fought not only the enemy, you fought prejudice-and you won.)」

とその功績を讃えました。



ここまで日系アメリカ人の解説員の解説を聞きながら観終わりました。

「よかったら感想を書いていって下さい」

とノートを指されましたが、わたしは見ただけです。
ほんのときどき日本語による記述もありましたが、殆どが
英語での感想で、書き込んでいる名前も日系ではなさそうでした。

たとえばこの11歳のホセ・レゼンディスくんは、ヒスパニック系ですね。

「クール・ファクツ&ピクチャーズ」

という感想がいかにも11歳と言う気がしますが(笑)

マイノリティがアメリカ人として同等に生きる権利を持つ
現在のアメリカに生きる彼らにとって、そう遠くない昔に起こった
これらの悲劇はどのように映ったでのしょうか。


サンフランシスコ上空

シリーズ終わり。


海軍兵学校同期会@江田島~「喇叭譜 君が代」

2014-10-22 | 海軍

海軍兵学校在学中に終戦を迎えたこの学年の、最後の同期会。
一日目の行程「大和ミュージアム」→「呉海軍墓地」を終了し、
一行は呉の大ホテルに全員が投宿しました。

ちょうどこの日、前日に東京で婚礼の披露宴を済まされた
高円宮典子様が我々一行と前後して当ホテルに到着されるとのことで、
バスの中で待機するかもしれないという予告を受けていましたが、
向こうは一足早くお着き遊ばされたため、
バス2台で観光したこの日の60名は待たされずに済みました。

後で聞いた所によると、この観光に全く加わらず、
ホテルに直行して休んでいた元生徒もいたということです。
取りあえずバスに乗って観光できるというだけでも、彼らの中では
元気な部類であったらしいことが分かりました。

ところで、海軍墓地を出たときに旅行会社の人が、


「点検したところ、どういうわけかこのバスの人数が一人増えています。
どなたかバスを間違えた方いませんか?」

とアナウンスしたのですが、どこからも返事はなし。

「全体の人数は合っているんですが・・・・。
幽霊でも乗り込んでるんでしょうか?」

車内はどっと笑いましたが、わたしは密かに

「さっきの海軍墓地から乗り込んできた”海軍さん”だったりして」

とちょっと楽しい想像をしてしまいました。



ホテルで小一時間休憩の後、ホテル内で懇親会が行われました。
行ってみて驚いたのですが、観光参加したのは全体のごく一部で、
この懇親会から加わる組、さらには翌日の江田島訪問だけ参加する組、
と人数が増えていき、最終的にはバス6台(200人くらい?)
でのツァーになっていたことです。



受付デスクには、参加者の名札が各自用意されていました。
立て札は「江田島」「大原」「岩国」の各分校、そして
海軍機関学校を意味する「舞鶴」の分類のために置かれています。

海軍三校のひとつ、海軍経理学校の「築地」はありませんでした。



受付を務めているのも「元生徒さん」で、赤い腕章は「当直」。
受付を訪れるかつての級友との再会に、驚きと嬉しさの混じった表情が見えます。




席は決まっていないので、同行の方が取っていて下さったテーブルに着きました。
司会進行を務めるのは、同じバスで「兵学校数え歌」を熱唱していた生徒さんです。



大宴会場に円卓が12~3は設えられていたでしょうか。

生徒であったとはいえさすがは元海軍軍人、予定時間のかなり前には
全員が席に着いて会の開始を今か今かと待つ状態に。

海軍について詳しくなり、我が家的に良かったことの一つは、

「海軍5分前」

がモットーとして徹底されるようになったことでした。
息子など、アメリカでキャンプに到着する時間ですら

「海軍5分前に(と必ず言う)間に合った~!」

という具合に定時少し前を心がけるくらいです。



さて、最後のクラス会が愈々始まりました。

やはり海軍兵学校の会合ですから、まず最初は何をおいても
喇叭譜で幕を開けます。

参加者が持ち込むのか、会場に喇叭譜「君が代」が響き渡ります。



元海軍は全員挙手注目の礼。

海軍が無くなって69年、その間敬礼をすることなど、
自衛隊に入隊してでもいなければなかったはずですが、
どなたの敬礼もそれなりに海軍風になっている様子。



開会の辞を述べる元生徒。

卒業していない学年ですから「クラスヘッド」(ハンモックナンバー1位)
はいませんが、それに相当する優秀な生徒だったのかもしれません。

このハンモックナンバーですが、知り合いに頼まれて、例の「兵学校変革」
という本で、
その方の縁故の兵学校時代の成績を調べたことがあります。
120位くらいで、全体数から見るとかなり上位だったのですが、その方は、

「学科だけならもっと上だったんですが、航空実習で飛行機を墜落させたので」

この順位になった、と残念そうにおっしゃっていました。
つまり兵学校ちうところは、ペーパーテストだけでなく、こういう実習や、
武道などの教科も皆含めてできる、文武両道の超秀才スポーツマンしか、
成績上位になれなかったということなんですね、ええ。

「陸士海兵一高」

と戦前の難易度を謳われ、中学4年でこれらを全部合格したら


四修パーフェクトゲーム」

と言われ、受験界の頂点に立てたといわれる陸士海兵ですが、
一高との大きな違いは「学問だけが評価されるわけではなかった」
ということで、今にして思えば凄い人材が集まっていたのですね。

さらに陸士の場合は、3分の2が高級将校の子弟や華族などの
「コネ入学」で、残りの50ほどの椅子を一般が受験したということなので、
実質の競争率は100倍くらいになったそうです。



乾杯の前に数人が壇に立って挨拶をするだけ、

非常にクラス会はシンプルで、余興の類いは全くありません。

去年は東京で行われ、皆でスカイツリーを見学した後、
東京音楽隊の演奏会が行われ、同隊所属の三宅由佳莉二等海曹が
「ふるさと」などの歌を歌ったと聞きました。

海軍の後継者である海自に今や女性歌手がいるという事実は
元海軍軍人たちにどのような感慨を与えたのでしょうか。



海軍漫才をしているのではありません。

本日の司会進行役が来賓を紹介しているのです。



本日招かれた主賓とは・・・。


そう、明日訪問する江田島にある第一術科学校と、
幹部候補生学校の校長です。
海兵関係者以外は、この校長ズと彼らの副官、合計4人の自衛官が
来客として出席していました。



こういう場では旧軍の昔も必ずプレーン(背広)を着たように、

海将補のお二人は制服を着ておられません。



来賓の挨拶ということで壇上の術科学校長。


「海自で出世するには話が上手くないとだめ」

とどこかで聞いたような気もしますが、しかも教育部隊の長である海将補、
話が無茶苦茶上手です。

色々とおっしゃっていましたが、

「尖閣で今起こっていることに対し、海保ばかりが、と
海自の活動について知らされていないためにもどかしい思いを
しておられる方がいるかもしれないが、それは間違いです∠(・`_´・ )」

という話と、

「皆さんの後継者としてその遺志を継いで海上自衛隊はこれからも
国民のために頑張る所存なので応援して下さい(^x^)ゝ」

という最後の言葉が印象に残りました。 

さて、来賓挨拶も終わり、幹事が

「今宵は大いに飲み大いに語らって昔に戻って下さい」

と挨拶をしたのを皮切りに、フリータイム・スタート。
というわけで早速わたしとTOは海将補の元に突入(笑) 

しかし・・・・!

わたし「あ」
TO「どしたの」
わたし「また名刺忘れた」
TO「あまり意味のない肩書きだからいいんでない?」
わたし「こんなときに配らずにいつ配るって言うのよ」 



わたしとTOの間で腕章を直している週番生徒は、
今日お昼に「大和を練習艦から見た」と話していた方です。

「大和」をどのフネから見たのかとお聞きしたところご記憶にないらしく
「明治時代にできたフネで・・」とおっしゃるので「八雲ですか」
と聞いてみたのですが、後で調べると「八雲」はこのころ
すでに練習艦ではなくなっていたようなので、もしかしたら
「平戸」のことだったかもしれません。

わたしの横の、前に立っているためアスペクト比が増大している人が
術科学校校長の海将補閣下です。


早速名刺交換するTOと海将補。
わたしもにじり寄っていって名刺いただきました。

「地球防衛協会日本支部の顧問です。
名刺を切らしておりまして


・・・なんぼのもんじゃ~い(笑)

ところで、「海将補」って英語で"rear admiral"なんですね。
海将補の名刺を頂いたのは初めてだったので初めて知りました。

ちなみにこの写真は、海将補の影のように付かず離れず、

常に様子を窺うのが仕事である副官が、
わたしがシャッターを押そうとしたら
背後から音もなく忍び寄り、

「お撮りしましょうか」

とおっしゃるので、お言葉に甘えて撮ってもらいました。


このあとは、幹部候補生学校長の海将補にご挨拶。
自衛隊で偉くなろうとしたら、変わった名前が時として有利、
みたいな話を本当か嘘か聞いたことがあります。
かつて「火箱」、直訳すると「ファイアーボックス」という
名前の陸幕長がいたことからそんな話になっているようですが、 
この海将補も、名前と名字を音から直訳すると(何で直訳なんだ)

「Go! John」

で(ちょっと違うかな(; ̄ー ̄A ) 、一発で覚えてしまいました。
海将補になられた理由の0.0001%くらいに「名前のシンプルさ」が
あったのではないか、などと考えてみる。

それはともかく、わたしたちはこのインパクトのある名前の
海将補にもご挨拶したのですが、このとき、TOと海将補の
息子さんの間に奇縁が(ってほどでもないか)あったことが判明。

ぜひぜひこれからもよろしくお付き合いのほどを、という
状況になり、術科学校校長にも

「ぜひ江田島にご案内いたしますからいらしてください」

という運びになりましてございます。
呉地方総監にも

「潜水艦に乗せて上げますよ」

とお約束いただいたし、(ほんとかしら)自衛隊って千客万来、
来るものは拒まずのオープンな組織だったんですね。
お近づきになるまでは全く知りませんでしたが。

「え、本当に遊びにいってもよろしいのですか」
「勿論です。 我々の大切な任務の一つに『広報』があります。
民間の方に少しでも自衛隊を知っていただきたいのです」

と術科学校校長。

知っていただく、つまり招待されてそこで見たこと聞いたことを、
こうやってブログで世間に広めるのは彼らの望むところ。

このように解釈していいですか。
たとえ社交辞令のつもりでも、相手が悪かったとあきらめるがよい。
本当に行っちゃうよわたし?なにせ地球防衛協会顧問だし。
 

さて、宴もたけなわとなったころ、江田島のご一行様は

帰りの最終フェリーの時間が迫ってきたので

途中で拍手に送られて帰っていきました。<(`・ω・´)<(`・ω・´)

海将補、明日の江田島見学、どうぞよろしくお願いします 。


続く。 

 


キャッスル航空博物館~アブロ・カヌック「グレート・ズラの木の葉落し」

2014-10-21 | 航空機

以前この「キャッスル航空博物館」シリーズで、
アブロ・バルカンをご紹介したことがあります。

このアブロ・カナダは、カナダにできたアブロ社ということのようです。

ロングレンジの全天候型ジェット戦闘機。
このCF-100は、カナダ国内で設計から生産まで、全行程生産されたものとしては
初めてで最後の戦闘機となりました。 


この機種を装備しているのはカナダとベルギーだけなので、本来なら
よっぽどのチャンスがないと目にすることはできないと思われますが、
1981年に退役して、これもキャッスル航空博物館所蔵のアブロ・バルカンと同じく、
1982年に、カナダから飛んできて以来、ここにずっと展示されています。

バルカンはイギリス政府からの「無期限貸与」ですが。この機体は 

カナダ政府からの贈り物(a gift of the Canadian government)

であるとのこと。
退役した飛行機を、スクラップにするならどうぞ、と寄付してくれたんですね。



カナダというのは地域にもよりますが、フランス語とのバイリンガル国です。
フランスとイギリスがほぼ同時に入植し、戦争してイギリスが勝ったのですが、
ケベック州などにフランス人の入植が集中したので、
ここだけは公用語はフランス語ということになっています。

あとは英語ですが、どちらもしゃべれるバイリンガルが多いのです。

モントリオールに行ったことがありますが、かの地では
英語でしゃべっていた人が横を向いた途端、
同じくらい流暢なフランス語でしゃべりだし、びっくりさせられたものです。

カナダという国自体が、裕福で文化的でG7にも入っているのに、
国際的には、実はどんな国だかわからないようなところがあるのですが、
実際に行ってみると、英語圏でもフランス語圏でもない、
独特の雰囲気があるのに気づくでしょう。

あの混沌とした空気が、カナダと言う国なのだと肌で感じたものです。

それはともかく、こういうバイリンガル国家では、国として何かを行う際、
さぞ言語の違う同志でモメたりするのだろうなと思うわけですが、
軍隊もまたどちらの言語でも対応せねばならないため、
機体にはこのように、楓の両側に、わざわざ英語とフランス語で

「統合軍」

と表示してあるのです。
どちらのスピーカーも、もちろんフランス語も英語も分かるのですが、
要するに

「なんでフランス語が(あるいは英語が)無いんだ!」

などとモメルことになるので、このような仕様になっているのかと思われます。


いやー、どちらも立てなくてはならず、なかなか大変そうな社会ですね。




このアブロ・カヌックの「カナック」ですが、
「カナダ人」という意味があります。

この機体には「Clack」というあだ名もあり、
これは「ドスン」とかいう擬音の意味です。

図体がでかいことからつけられたあだ名かもしれません。

名は体を表すという言葉通り、カナックは、
今まで地球上に存在した戦闘機の中で、最も大型の種類に属します。

全長16.5メートル、全幅17.4メートル。

なみに、零戦21型の全長は9.05m、全幅は12mですから、

カナックのほぼ3分の2スケールしかないということになります。



冷戦時代、カナダはソ連に対する「最前線」という地勢上の関係で、


NORAD,(北アメリカ航空宇宙防衛司令部)

という、
まるでSFアニメのような名前の組織を作り、
アメリカとの防衛体制をとって、前線で敵と対峙していました。


このCF-100は、ソ連の「トランス‐ポーラー」
つまり極圏航路からの核爆撃に
備えて、
ロイヤルカナディアン・エアフォースが使用していました。


「カナック部隊」は、場所柄、非常に視界の悪く、
しかも悪天候の状況下で飛ばなければならないことが多かったそうです。



 

1950年代に生産が始まり、70年までの間に、
仮想敵としてのシミュレーション飛行に使われるほかは、
カナックはNORAD
のテスト機として活躍していました。




ところで、カナダのアブロ社には、

ヤーノシュ・ズラコウスキー

というテストパイロットがいました。
技量抜群の凄腕であったと誉れ高かったそうです。

ズラコウスキーは、ただでさえ大きな戦闘機(二人乗り)に乗って、
アブロ社のテストパイロットとして航空ショーに出場したのですが、

そこで見せたマニューバの

木の葉落し」(Falling leaves)

は、満場の観衆を唸らせました。


木の葉落し、というのは、航空機のマニューバの中でもおそらく、
「インメルマンターン」についで、日本人にはよく知られているのではないでしょうか。

機動性に優れ、機体の小さな零式艦上機ならではの「得意技」だったからです。


御存じない方のために一応説明しておくと、「木の葉落し」とは、

敵に後ろを追随されている状態で急上昇し、直後にストールをする
敵機はそれを追うことによって、半径がより大きな弧を描くことになる
機体を失速させた機を、自機を追い越した敵機の後ろで失速から回復させ、
いつの間にか後ろに回り込んで優勢な位置を占める

というもので、繰り返しますが、これを零戦が得意としていたのは、
駆動性に優れ機体が小さいという特性をもっていたからこそです。

その「木の葉落し」を、零戦より二回り大きなこのカナックでやってしまう、
というのが、
このズラコウスキーのすごいところで、観衆はもちろんのこと、
この大技を
目の当たりにした航空ショー出席の航空関係者、技術関係者は、
一様に彼を


「グレート・ズラ」と

「グレート・ズラ」と

「グレート・ズラ」と

褒め称えたと言われています。

なぜ三度繰り返したかと言うと、別に大事なことというわけではないのですが、
単にズラコウスキーの通称が「ズラ」というのにウケたからです。

「ズラコウスキ」という名前の人がいれば、日本人ならほぼ間違いなく
「ズラ」とあだ名をつけるのだと思いますが、カナダでもそうだったんですね。

こんな名前なら日本でもたちまち話題になるでしょうに、
かれは「アブロ社」という一企業の
チーフパイロットに過ぎない身。

活動がカナダ国内だけにとどまった、というのが残念でたまりません。


って、全然カヌックの話と関係ありませんが。






海軍兵学校同期会@江田島~呉海軍墓地「大東亜戦争と太平洋戦争」

2014-10-20 | 海軍

在学中に終戦を迎えた兵学校の最後の同期会旅行に同行し、
そこで見たことをご報告しています。

大和ミュージアムに続いて訪れたのは呉市長迫町にある、
呉海軍墓地でした。
ここには明治年間からの慰霊碑が11、個人の墓が158基、
そして戦後になって建立された慰霊碑が90あまりあります。



墓地の正面にはこのような案内板があり、何処に何があるか

示してくれていますが、個人の墓に関しては資料は出しておらず、
たとえば佐久間大尉の墓にお参りしたければ、事務所で場所を聞かねば
どこにあるかはわかりません。

これは、ここに顕彰されているのが我が国の繁栄、安泰を祈願して
悠久の大義に殉じた海軍軍人戦没者の英霊、御霊であり、
その魂に上下はないという考えから来ているものと思われます。


艦艇艦船のみならず陸上部隊や航空基地、事変や事故による犠牲者、
このような戦没者を合わせると13万余の御霊が祀られていることになります。 



階段を上がっていったところに見えるひときわ大きな碑は

「大東亜戦争戦没者之碑」

昭和22年に戦後初めて建てられた慰霊碑です。

碑にはそのように書かれているのですが、案内板にはなぜか

「太平洋戦争の碑」

と記されています。
呉海軍墓地は、明治23年(1890年)に海軍軍人の戦没者、殉職者の埋葬地として
建立され、以来、海軍呉鎮守府の管理のもと、毎年、
慰霊祭が丁重に行われてきましたが、我が国の敗戦により
慰霊行事は総て廃止となってしまいました。

折からの台風の被害と相まって荒れ果てていたこの墓所を、とにもかくにも
再生し、「大東亜戦争」戦没者の慰霊碑を建てたのですが、
その後日本を席巻した贖罪史観のせいで「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と
言い換えることが無言の圧力の結果浸透してしまいました。

碑銘が「大東亜戦争」なのにもかかわらず案内板の表記が
「太平洋戦争」となっているのはこの風潮に対する配慮かと思われます。

碑文の揮毫は戦艦「大和」の艦長も務めた森下信衛

天才的な操艦技術を持っていたと言う森下は坊の沖海戦、
即ち大和特攻にも参謀長として乗っており、そのあまりの格好良さに
最近はイラスト業界を中心とする神格化現象もあるくらいです(笑)

森下は大和沈没後、気を失って海を漂っていたところを救出された、
数少ない将官クラスの生存者で1960年まで健在でした。


画面右下に見える小さな石碑は

「大東亜戦争海軍戦没者柔道部員の碑」

です。



ここにはその他にも


「呉所管海軍看護合同碑」

とされている、呉所管看護長・看護師・看護手・看護」
慰霊碑があります。
「看護婦」という書き方は当時からこのような場合には

行われなかったのでしょうか。




「軍艦高砂戦死下士卒墓」

この慰霊碑も明治年間に建立されたものの一つ。
防護巡洋艦「高砂」は日清戦争後に日本が英国から購入したもので、
旅順攻略作戦、黄海海戦にも参加しています。

1904年、旅順港で哨戒中触雷し、副長以下273名が戦死。
なぜここに「下士卒」の慰霊碑しかないのかは謎です。



軍艦吉野戦死者之碑」


これも戦前(昭和13年)に建てられました。
「高砂」とは同じ設計者のイギリス製でこれも防護巡洋艦です。

日露戦争時、濃霧の中「春日」と衝突し、艦長以下360名が犠牲になりました。
僚艦同士の衝突事件ではありますが「戦没」扱いになっています。

ちなみに、イギリスから回航時の「吉野」には秋山真之も乗り組んでいました。
「坂の上の雲」でも確か描かれていましたよね。



「駆逐艦早蕨(さわらび)殉職者之碑」


戦前建立の碑が続きます。

「早蕨」という駆逐艦の名前をわたしも初めて知ったのですが、

若竹型駆逐艦の8番艦として1923(大正8)年建造されたものの、
昭和7年台湾海峡付近を荒天下航行中、行方不明になりました。

重量を追加されトップヘビーで複元できなかったための
転覆事故だと見られています。



個人の墓だと思うのですが、不思議だと思いませんか?

「旅順港沖強行封鎖中」ということは、閉塞作戦のことだと思うのですが、
戦死の年月日が明治37年12月13日なのです。

旅順港閉塞作戦の第一次行動が行われたのは明治37年2月。
第三次作戦は同年5月2日です。

12月13日というのは作戦が終了して半年以上経っています。

この三次作戦ではロシア軍の陸上砲台からの攻撃を受け、

多数の将官下士官兵が亡くなっているのですが、もしかしたら
この作戦時行方不明扱いになっていて、12月になってから遺体が見つかり、
このときを以て戦死と認められた乗員だったかもしれません。

墓碑の戦死者氏名を写真に撮っていれば調べられたのですが・・。




日米戦争の転換期となったミッドウェー海戦では、日本軍は

4隻の航空母艦を喪失しました。
その一つが「加賀」です。
この個人墓石の主は「加賀」の機関長であったようで、ということは
海軍機関学校を卒業した士官であったということになります。

このときの同期会は舞鶴、つまり機関学校のコレスも一緒でした。
兵科士官と機関科士官の間には「機関科問題」と呼ばれる
根深い対立の構図があったわけですが、機関科士官の不満の一つに

「艦上勤務が機関長どまりであることから、
乗艦の際に号笛の栄誉が受けられない等の礼式上の格差」

があったこと、というのがありました。

この日同期会を行った学年は人数が多く、いくつかの分校に
分かれていたせいもあり、戦後の集まりにおいても
舞鶴(機関学校)もその一つという風に捉えていたのか、
少なくとも「機関科問題」は全く影を落としていないようでした。



殆ど参道を走破しながらシャッターを押していたので、

いい角度を探して写真を撮ることがこの辺になると全くできていません。
分かり難いのですが

「軍艦衣笠慰霊碑」

青葉型重巡洋艦の2番艦です。
開戦から約一年後の1942年11月行われた第三次ソロモン海戦で
空母「エンタープライズ」の艦載機の攻撃により沈没。

艦長始め511名が戦死しました。



その「青葉型」一番艦の重巡「青葉」。


「青葉」はルソン沖で潜水艦の攻撃により大破し、
曳航されて呉に繋留され、防空砲台として使われていたのですが、
昭和20年、終戦まであと三週間というときに空襲を受け
呉沿岸で大破着低しました。



「軍艦矢矧殉職者之碑」


軽巡洋艦「矢矧」は前回お話しした「阿賀野型」の3番艦です。
坊ノ岬沖海戦において大和と運命を共にしたフネなのですが、
この慰霊碑は意外なことに大正9年の建立となっています。
調べたところ、その「矢矧」ではなく、
明治45年に建造された「筑摩型防護巡洋艦」の「矢矧」でした。

しかし、「矢矧」が大正9年ごろインド洋の通商保護任務にあった、
ということしか今回はわかりませんでした。
その間乗員が多数「殉職」するような事故があった筈なのですが・・・。



第15駆逐隊 夏潮、早潮、親潮、黒潮、陽炎慰霊碑


開戦時第二水雷戦隊の編成によると、「陽炎」は最新鋭駆逐艦で
第18駆逐隊所属だったのですが、ルンガ沖夜戦のときから
「陽炎」は15駆逐隊に編入されました。
(一つだけ名前が『潮』でないのはそのためです)

戦後の自衛隊潜水艦の命名は駆逐艦隊からきていたのですね。 




大東亜戦争においては南洋諸島防衛を目的に編成された艦隊、
それが第4艦隊でした。

この慰霊碑も実は戦前に建てられたものです。
この「遭難殉職者」が何を意味するかと言うと、有名な

「第四艦隊事件」

事件などというから何事かと思ったら、これ単なる

台風の被害

のことなのです。 

つまり昭和10年の台風の際引き返すことをしなかった艦隊の
全艦艇が何らかの損害を受けたという「事件」という扱いです。

この「事件」以降の艦艇設計の思想に大きな変更があった、
というくらいの大きな損害で、沈没・転覆したフネはありませんでしたが、
「初雪」はこのときに艦首を切断され、54名が殉職しています。

この慰霊碑は、その54名の殉職者のためのもので、
事件から1年後の昭和11年11月に建立されました。



さて、ここまで写真を撮りながらきましたが、窺うとすでに全員が
バスの中に戻っていった様子です。
上の段には今までお話しした倍くらいの墓石や碑がありましたが、
今日はここまで、とあきらめ、車に戻りました。

すると、戦艦「大和」の碑の前でかつての生徒が
写真を撮り合っている様子が目に入りました。(冒頭写真)

彼らは在学中に終戦になったため、実際の艦艇には
練習艦でしか乗艦していません。
それでも練習艦から「大和」を目撃し、70年経った今日も
その威容をはっきりとまぶたに留めているのだ、と彼らの一人は語りました。



続く。





 




リバティ船ジェレマイア・オブライエン~「アベンジ・ディッセンバー7」

2014-10-18 | 軍艦


サンフランシスコ湾で動的展示公開されている、
アメリカの戦時リバティ船「ジェレマイア・オブライエン」。
夏に見学してきて、それについて語るのも最終回となりました。




取りあえず甲板から上を全部見学し終わったところに、
ミュージアムの指差し看板があります。
甲板の一階下が博物館として公開されているようです。

さっそく狭い階段を下りて行きますと・・・。 



いきなり記念写真のコーナーが。
海軍の水兵さん、海兵隊士官、そしてロージー・ザ・リペッター。
縮尺の関係でロージーが巨大になってしまいました。



前にも機関室の写真と共にこの船の動力が

3シリンダートリプル拡張レシプロ蒸気エンジン

であることをお話ししたと思いますが、JOのエンジンは
動的展示されているため、ここにあるのはレプリカです。
レプリカではありますが、動かそうと思えば蒸気で稼働するそうです。

この横にあった看板には、長々とエンジンの動力の仕組みについて
機構を説明してありましたが、現場では面倒なので読まず、
後で写真を点検したら、一番最後に

「50¢入れたら2分間実際に動きます」

と書いてあったのに気がつきました。
・・このときちゃんと読んでいれば動くのを見られたのに・・。



映画「タイタニック」にJOの機関室が使われたことも
パネル展示で説明されています。

ちなみにタイタニック号のエンジンは、レシプロ蒸気エンジンと
タービンを組み合わせたものでした。

ボイラーで作られた蒸気はレシプロ蒸気機関を動かし、さらにそれが
低圧になって出てきて直結タービンを回すという仕組みです。



一般的なリバティシップの船内見取り図。

中央の赤部分がエンジンで、そこから船底のやはり赤で表わされた
シャフトトンネルに配された動力を伝って船尾のスクリューに伝わります。

船首と船尾のブルーの部分は「ピークタンク」

船首および船尾の隔壁(衝突時に沈没を防ぐ)の前後にあり、
船の縦方向の傾斜の調整(トリミング)を行うタンクです。
このタンクに注排水をすることにより,前・後部の喫水調整を行います。




中央にはイベント等を行うスペースがあり、皆が座って
上映されているビデオを見ていました。



かつて実際に使われていたJOの備品。



ふと画面を見ると、かつて現役だった(今も現役といえば現役ですが)
JOの映像が流れていました。



彼女が航行した航路が全て線で記されています。

ノルマンジー上陸作戦のときが緑の線。
その他、上海、フィリピン、パプアニューギニア、オーストラリア、
南米にも一度ボストンから向かっています。



第一次世界大戦時、アメリカは一隻でも多くの船を必要として、
そのために様々な取り組みを行いました。

「我が祖国は船を必要としている」

「船は出来うる限り早く、完全な姿で建造されねばならず、
このためには全ての人々が毎日より一層の労働を果たせば、
船の出来るのが少しでも早くなるのである」

このような煽り文句が書かれたポスター。
実際に、この頃から26年後に、リバティシップは急増の最盛期を迎えます。




第二次世界大戦時、大量に建造された船にかかわる資料。

護衛艦 565、ビクトリーシップ(貨物船)534、
そしてリバティ船2710隻。



タンカー697隻、護衛空母124隻、戦車揚陸艦1152隻。

世界一の金持ちの国が威信を賭けて船を建造すると、こうなります。
こういうのを見ても、この相手に勝てるわけなかったとつくづく思いますね。



第一次大戦時、船建造の必要性を上からあの手この手で説いていた米政府ですが、
この日を境に、持って回った宣伝文句は不要になりました。

「復讐 12月7日」

真珠湾を奇襲した日本への憎しみを煽ることが、すなわち
アメリカ国民の労働への惜しみない挺身に繋がるというわけです。

しかし、これを観て思ったのですが、一般の歴史博物館なら
もう少し中立の立場で「こんなことがあった」と述べるだけの説明が、

「なぜ我々は建造という戦いに挑んだのか」

船舶、航空機、タンカー、銃・・
そして我が国の青年たちに,この閉ざされた世界に
勝利と平和をもたらすことが求められた

ですからね。
今でも全く立ち位置は「アメリカが正義、日本は悪」のまま。

まあ知ってましたけど。



”不注意な一言・・・・不要な沈没”

「ケアレスワード」が何を意味するのかイマイチ分かりませんが、
小さなミスによってもたらされる被害は余りに大きい、ってことでしょうか。

ここに、大戦中の喪失船舶についての資料が掲げられていました。

戦没した戦時徴用船員 8,431人
戦没した武装警備隊員 2,193人
沈没した商船 674隻 その内のリバティ船 243隻    

戦没した民間船 世界全体で 3,304隻



「JEEP ON A LIBERTY」

こういう書き方がいかにもアメリカ人ですね。
「リバティ船に乗っていたジープ」っていうことなんですけど。

リバティ船が輸送したのは車両、兵員、食料、武器、燃料などでした。



足踏み式動力のオルガンは、前線での礼拝の為に
リバティ船に乗り込んでいた神父が使用したものです。

艦内の郵便ポストもJOの艦名入りで現存。



DーDAY、ノルマンジー上陸作戦を再現した大ジオラマ。
これはすごい迫力でした。
手前に見えているのがジェレマイア・オブライエンですね。
船から降ろされた兵員たちがボートで次々と岸に向かっていきます。



黒々としたノルマンジーの海の色と白波。
大きさは縦5m、横3mといったところでしょうか。
アメリカにもこういう模型製作のプロがいるんですね。



「鳥だ!飛行機だ!」とおののく船上の人々。

ヒトラーのV1、と説明に書かれたこの飛行体は、第二次世界大戦中、
ドイツが開発したミサイル兵器のことです。



ただしこれは2000発つくって、英仏海峡をちゃんと越えていったのは
全体の6.5%くらいにすぎなかったそうです。


こちらはV2。
初めて使用されたのはベルギーの港アントウェルペンでした。
「V」というのはヨーゼフ・ゲッベルスの命名で、

Vergeltungswaffe 2(報復兵器2号)

の略称です。
V1は失敗でしたが、こちらは一定の効果を上げたため、
戦後、この脅威のミサイルを我が物にしようと、
アメリカとソ連の間でV−2の残りと技術者の獲得競争が起こりました(笑)



爆撃をするため低空飛行してきたドイツ機は、
バルーンの紐に引っかかり墜落したそうです。まじか。



”Fooling Hitler”

ヒトラーを騙す、と題された絵。
同盟国イギリスは、ノルマンジー作戦のときに、ショートカットである
フランスの沿岸に偽の戦車や飛行機を置いてドイツ軍を騙し、
現地への援軍の到着を遅らせました。

5人で戦車を運んでおる(笑)
ベニヤか紙でできてるのかな?



「インスタントハーバー」

補給物資を効率的に揚陸するため、「マルベリー」と呼ばれる人工港湾施設を
アメリカ軍とイギリス軍がそれぞれ1つ準備しました。

この「マルベリー」は潜函(ケーソンと呼ばれるコンクリート製の箱)、
浮橋(ポンツーンと呼ばれる、40t用と25t用など数種類有る)消波ブロック、
沈船を組み合わせたもので、ル・アーブル港を使用できるようになるまで、
燃料を始めとする約120万tの補給物資の揚陸に用いられることになりました。



アメリカ軍、イギリスそしてカナダ軍が「オマハビーチ」「ユタビーチ」
等と名付けられたノルマンディー地方の沿岸から上陸しました。

この作戦にかかわった人々は3百万人にのぼります。

 

オマハビーチで回収された上陸作戦の際のボート。
爆撃を受け粉々に粉砕され、乗員は戦死したことが分かっています。

そんな貴重なものにガムテープで説明を貼るアメリカ人。



船団を攻撃したのはドイツ軍のコンドル(フォッケウルフ)。
対するアメリカ側はリベレーターB24

このモデルはアメリカ軍のパイロットが敵味方識別のトレーニングに
つかったものだそうです。
そのさい、モデルのスケールは1/72が基準とされました。



これも認識トレーニングの為に使われたもの。
右から駆逐艦、戦艦ティルピッツと姉妹船ビスマルク、
重巡洋艦プリンツオイゲン、戦艦シャルンホルスト。



展示はこれで終わりです。
展示コーナーを抜けるとかつての兵員居住区がそのまま
現在も使われている状態で公開されていました。



カセットのビデオ、「DーDAY」「THE LONGEST DAY」があるので、
全部Dデイ関係の映画かと思いましたが、007カジノロワイヤル、
NO WAY BACK(邦題逃走遊戯)など、全く関係ないものもありました。

このブロック棚は水兵たちが私物を入れるのに使用されていたものです。




キャンバス式の船員ベッド。
今でもJOは、体験宿泊を時々行っており、こういうところでも
希望すれば一晩寝ることが可能です。



空調がないというのは本当らしく、巨大な扇風機がありました。
このころは軍艦は勿論一般の船にもクーラーはなかったようです。
ボイラー室で働く人々はいったいどんな状態だったのでしょうか。




さて、というわけでリバティシップ、ジェレマイア・オブライエンの
見学を終了しました。
この狭いラッタルをまた降りていくことにします。 



ラッタルの一番上から船体を撮ってみました。



ラッタルを降り、船尾を臨む。






潜水艦パンパニトとは、岸壁の隣同士に係留されています。
いつも思うのですが、こんなサンフランシスコで最も賑わう観光地に
戦争の遺跡をこのように展示公開するなど、日本では考えられません。


いずれにせよ、JOの資料に添えられた説明を読んでみても、彼らはいまだに

あの戦争は正義の為の戦いで、アメリカは悪と戦ったのであり、
全国民が一丸となって勝ち取った勝利は偉大だったと信じているようです。

日本の現在の歪な国家意識は全て敗戦から来ているのは確かですが、
万が一勝っていたら、日本もこんな国になっていたのかもしれません。

現にアメリカというのは日本やドイツに勝った後も、
朝鮮戦争に始まり、ベトナム戦争で懲りたかと思いきや全く懲りず、
湾岸戦争だイラクだアフガニスタンだと、こまめに世界中で
戦争を繰り返しています。

その度にアメリカ人の命もまた失われていくわけですが、
繰り返される戦争を経ても国民に疑問を抱かせない為には、
戦争そのものの是非を
国民に考えさせないことが必要となります。

過去の戦争を語るときのアメリカ人が、いまだに当時の価値観
留まっているように見えるのも、つまりは
過去の戦争に疑問を抱くことなく、
その行為を「愛国」という言葉で
讃えることを
国家から連綿と教えられてきたが故の思考停止というものかもしれません。


国単位で言うならば、それは「勝者の奢り」と呼ぶべきものでしょう。



こういった戦争の痕跡において、衒いもなく自らの戦いを讃えて憚らない
アメリカ人を見ると、何となく我々としては、そこに
見てはいけないものを見たような戸惑いと、微かな苦々しさを感じます。

敗戦によって国家観を歪にされてしまった国民の僻みかもしれませんが。

 


(シリーズ終わり)
 


海軍兵学校同期会@江田島~呉海軍墓地「無名兵士の墓」

2014-10-17 | 海軍

ここ呉海軍墓地にあるほとんどの慰霊碑は、
戦後になって生存者や遺族が建立したものです。

戦後建てられた最も古い碑は、写真に撮ることはできませんでしたが、
昭和22年、戦後すぐ建てられた「大東亜戦争戦没者之碑」です。

各碑石の建立年月日を調べたところ、これを最後に昭和20年、30年には
唯一つの碑さえも建てられた様子はありません。

生存者も遺族も、戦後の自分たちの生活で手一杯で、
慰霊を形にする余裕が生まれたのが高度成長期後半の
昭和40年代頃であったということなのだろうと思われます。

ちなみに、「大東亜戦争戦没者之碑」以降、一番古い慰霊碑は

「伊363潜殉職者之碑」(昭和41年10月29日)
「駆逐艦島風戦没者之碑」(昭和41年11月11日)

そして先日写真をアップした

「軍艦信濃戦没者之墓」(昭和41年11月29日)

となります。

手前の「軍艦天龍遭難死者記念碑」は、戦前に建立された
11基の追悼碑のひとつで、明治31年となっています。
「天龍」は大東亜戦争に参戦し戦没しているのですが、この碑は
1897年(明治30年)11月26日 台湾方面警備に従事中に発生した
船艙火災による殉職者の慰霊のため建てられました。

つまり建立したのはまだ健在だった「天龍」の乗員だったということになります。

対してむこうに見える「軍艦鹿島有終之碑」は、建立が平成9年です。
練習巡洋艦「鹿島」は第4艦隊の旗艦を務め大戦中はずっと就役していながら
戦後まで無傷で生き残った運の強い艦でした。
「有終之碑」という碑銘はそのことを表わしています。

手前にあるのが「第531海軍航空隊慰霊碑」。



「隊歴」はこの碑に併設されたものです。
天山部隊であったこの航空隊が全機を失った後、
マーシャル諸島で飢餓に耐えながら終戦を迎えた様子が書かれています。



「秋月」「涼月」「磯風」「谷風」「雪風」「嵐」「舞風」・・。

駆逐艦の名が「阿賀野」を囲む策に記されています。
おそらく見えていない石柱の向こう側には

「輝月」「初月」「天津風」「時津風」などがあるのでしょう。



ソロモン諸島ショートランド島の生存者・遺族によって建てられた

「ショートランド島戦没者慰霊碑」

日本軍は開戦と同時にここに泊地を創成し、
ガダルカナルの戦いに於いては駆逐艦のほとんどが
ここから出撃していきました。



呉鎮守府13防空隊、そして呉6特南海砲台員の慰霊のために

昭和46年に建立されました。



一番右は駆逐艦「陽炎」の碑。

駆逐艦は全部碑があるわけではありません。
「陽炎」は真珠湾攻撃のためにヒトカップ湾を出航していますし、
その後ラバウル、ミッドウェー、キスカ、ガダルカナルと
武運強く戦いましたが、ブインからの輸送任務の際、
米軍の機雷に触雷して沈没しました。

一番むこうにある緑の石碑は明治年間の建立で

「軍艦広丙(こうへい)遭難哀悼碑」

黄海開戦の際、清国から接収した防護巡洋艦「広丙」は、
戦利品として日本海軍の艦籍に入りましたが、
わずか9ヶ月後、台湾沖で任務中座礁して沈没してしまいました。

イギリスから開戦当日接収されて「勝鬨丸」になったものの、
日本のものになるのを拒むように不具合を起こし続け、
ついには米軍の魚雷1発であっさり沈んだ「ハリソン号」みたいですね。 

彼女はどうしても敵国のものになりたくなかったのでしょう。 

 

前まで行けず柵ごしに撮った

「第参号輸送艦戦没者慰霊之碑」

輸送艦の碑はこれともう一つ、

「第113号輸送艦慰霊碑」

というのが2基あります。
第3号輸送艦の同型艦は全部で22隻、
113号は「103号型」といい未完成の ものを含め176隻ありました。
3号輸送艦はミンダナオで座礁しているときに、米潜水艦に発見され
魚雷を受けて戦没しています。


 
駆逐艦綾波戦没者之碑。

「綾波」は吹雪型駆逐艦の11番艦。
第3次ソロモン海戦の夜戦において、ちょっとした手違いで(笑)
たった一隻で米艦隊に突入していった「綾波」は、
砲撃をことごとく敵艦に命中させ、米艦隊に大打撃を与えました。
自らもこのとき沈没したのですが、大戦果に高揚していた乗員たちは
海に漂いながらも軍歌を歌い続けていたそうです。

そんな生存者ですから、おそらく「綾波」の乗員であったことを
全員が何よりも誇りにしていたのだと思われます。 
碑石の揮毫は源田実に頼んでいることからも(源田実、達筆!)
それが窺える気がしますし、碑石を取り囲む小さな石碑には
かつての「綾波」の行動記録が逐一記されています。

例の「サボー沖海戦」は一番右に。
(敵艦船撃沈については一切述べられていない)
輸送船団の護衛で33名を救助したことや、パレンバン(落下傘部隊の輸送?)
にも参加していたことなど、wikiには載っていないこともここに書かれています。

 

少し奥まったところに、

「上海 満州事変戦没者之碑」

があります。
この碑は昭和8年に建立されたもので、昭和6年の満州事変、
翌7年の第一次上海事変 のあと、武力衝突で戦死した海軍将兵の
霊を慰めるために建てられたものです。

この後上海事変は、以前感想を書いた映画「上海陸戦隊」 でも
えがかれていたように、昭和10年から12年にかけて
中国による海軍軍人殺害事件が続けて三件起こり、
中国政府軍による
攻撃によって、ついには第二次上海事変が起こります。


この慰霊碑は、第二次上海事変の前に建立されたことになりますが、
第二次事変の戦没者もここに顕彰されているのかもしれません。 



戦前に建てられた碑はたった11で、戦後の碑の数は

今やこれを大きく上回るようになったのですが、
戦後に決して増えないのが、個人の墓碑です。

古くは明治23年のものから、最後に葬られたのは
昭和20年8月までで、全部で158基あります。
このうち1基が、先日もお話しした英国水兵ジョージ・ティビンスのものです。

英国水兵の墓

時間がなくてこんな角度からしか撮れませんでした。



大東亜戦争中はそれこそ多くの海軍将兵たちが亡くなったのでしょうに、

なぜここに157基しかないのか、逆にここに葬られるのには
どんな理由があったのか知りたいところです。

潜水艇の事故で亡くなった佐久間艦長はこの場所で荼毘に付され、
このどこかに葬られているのだそうですが、そういった
有名な軍人でない、若い水兵や兵曹などの墓も多いのです。



たとえばこの手前の墓石。

明治33年と言うと義和団の乱のあった年ですが、
3月に戦闘は行われていません。
機関兵曹の死因はなんだったのでしょうか。

あと一つ注目していただきたいのが向こうの墓石の主、

「海軍一等船匠手」

船匠手というのは海軍の階級ですが、「船匠」だと船大工です。
明治時代に存在した船のメンテナンスを請け負う部署でしょうか。
この船匠手の死亡年月日に「帰天」と書かれていますが、これは
彼がカトリック教徒であったことを意味します。

十字架を掲げた英国水兵の墓があるように、この墓地には
宗教による分け隔てはないということがわかります。 




わずか22歳で亡くなった4等機関兵の墓。



この3基の墓は、いずれも海軍機関兵曹のものです。

故人は三人とも30過ぎのベテランで、全員が叙勲されています。
やはり軍人として自らの命を惜しまず任務に殉じた、といった
理由が在る者だけがここに埋葬されているのかもしれません。


軍艦や事変、部隊の慰霊碑とは違い、個人の墓には、

海軍墓地だけでなく先祖代々の墓にも葬られていたり、
縁故が死に絶えて遺族ですら訪れなくなってしまったため、
だれも訪れなくなってしまったものもあるのではと、
そのひっそりとした佇まいからそんな気がしました。

ですから、若くして戦死した無名兵士の墓石の前に
花が一輪手向けられているのを見て、ほっと安心させられたのです。

続く。


日系アメリカ人~442部隊・ロストバタリオン救出

2014-10-16 | アメリカ

日本人の血が流れているというだけで、「危険・監視対象」とされ、
日系アメリカ人たちは強制収容所の生活を余儀なくされました。

西海岸の多数のアメリカ人が元々持っていた人種的な偏見と嫌悪は
政治家と陸軍を動かし、強制収容所への追放という悲劇を生みましたが、
この非人道的措置に対し、反対を唱えるアメリカ人もいたのです。

その一人が、FBI長官のジョン・エドガー・フーバーであり、
また、大統領夫人であったエレノア・ルーズベルトでした。

フーバーの反対は非常に論理的で、国内の危険人物は真珠湾攻撃後、
既にFBIの手で拘束したから、必要がないというものでした。


エレノア・ルーズベルトは人道的な面から、夫に法案への署名をしないよう、

プライベートで訴えていたのですが、それは聞き入れられなかったそうです。
(旦那のしたこと分かってんのかなこのおばちゃん?とか言ってごめんなさい)

その他にもコロラド州知事であったラルフ・カー、駐日大使も務めた
エドウィン・ライシャワー博士も反対を表明しています。
カー知事はこの立場を取ったため、後に政治生命を絶たれることになりました。



日系人の中には、強制収容所から出ることが出来た人たちもいました。

忠誠心があると認められた日系人は、外での農作業(ただし、
戦争で人手の取られたアメリカ人の農場など)が許されましたし、
アメリカ人の人道主義者や宗教団体なども、声を上げていましたから、
その助けで、二世の大学生は学業に戻るというケースもあるにはあったのです。

そして、収容所を出ることのできる確実な方法がもう一つありました。
アメリカ軍の兵士として入隊することです。



第2次大戦中、収容所を出て兵役に就いた日系アメリカ人は3万3000人いました。
太平洋地域に赴いた日系兵士の任務は、諜報が主なものでした。
アメリカ軍情報部に訓練を受けた二世の言語専門家は、入手書類を翻訳し、
捕虜を尋問しました。



日本兵を尋問する日系兵士。
戦争中、日系アメリカ人の諜報に関する活動は最高機密とされ、
その訓練段階から世間からは厳密に秘匿されたそうです。



日本人捕虜を尋問しているハリー・フクハラ。
いかにも切れ者のような容貌のフクハラは、後に大佐まで昇進しています。



ブーゲンビル(山本五十六の乗機が撃墜された地です)を
訪れたカイ・ラスムッセン大佐と現地の日系人将兵たち。
ここでラスムッセン大佐は、ロイ・ウエハラ、ヒトシ・マツダらに
敵の攻撃についてのより詳細な注意を与えたそうです。

敵とは、他でもない日本軍のことです。



アメリカ政府は敵を知るため、日系人を使って徹底的に情報収集を行いました。
彼らは日本の書物、パンフレットを英語に翻訳する作業をしています。
その数は何千冊にも及びました。



陸軍第162ランゲージ・デタッチメント部隊
言語専門の特殊部隊です。
こういった部隊に所属する日系兵士たちは、日本人兵士に向けて
戦意を失わせるようなビラをまいたり、投降を呼びかけるときの
アナウンスをしたりといった任務に就きました。

しかし日本側の記述による日系の通訳たちの評判はいいものではありません。
東京裁判における彼らの同時通訳は非常に拙いもので、
何を言っているかわからないと怒り出す被告もいたということです。

国際裁判の通訳をするからには、彼らの中でも優秀な人物が選ばれたはずなのですが。

山崎豊子の小説「二つの祖国」では、日系アメリカ人として育ち、
東京裁判に通訳として出廷する主人公が登場します。 



通称442部隊、名称

第442連隊戦闘団(The 442nd Regimental Combat Team)

は、日系アメリカ人ばかりを集めた部隊でした。

大隊長以下3人の指揮官は白人の士官で、後は日系人です。

指揮系統の上の士官には日系人が昇進して就きました。

映画「俺たちの星条旗」(アメリカン・パスタイム)では、
志願して442部隊に出征した主人公が、名誉の負傷で収容所に帰還したとき、
陸軍兵曹である看守たちが、かつての「囚人」に、
「サー」「ルテナント・ノムラ」と敬礼する様子が描かれています。



日系兵士の制服。
彼らを差別せず、アメリカの軍人として対等に扱ったことは、
4442部隊の日系人たちの士気を高めることになったと思われます。



「白人支配からの解放」を大義名分にしていた日本に、
アメリカの日系人排除を非難されたことに対して、
アメリカが反駁する必要から生まれたのが「日系人部隊」でした。

日系アメリカ人たちの立場から言うと、収容所を出ることができるうえ、
政府によって親が強制収容所に監禁されている中、祖国のために
生命の危険を犯すことで、忠実な市民として認められるチャンスでもあったのです。




「プリズンキャンプからアーミーキャンプへ
おめでとう 君たちは100大隊/442大隊の一員だ」

と題された写真。
第100歩兵大隊の士気が高く、訓練で高い成績をあげたことも
アメリカ政府が彼らを重用した理由でした。



漢和辞典、コンサイス英和辞典に混じって
さり気なく置かれた勲章?



「ペン習字書範」という本の上に置かれた認識票。



水筒、背嚢、ベルトポーチ、軍靴。



携帯用の鍋にもなる食器セット。
「アリイ」と書かれた背嚢にはカードが付けられていますが、
そのカードには、10カ所あった強制収容所が書かれています。
もしかしたら、収容所に帰還する日系兵士たちの荷物を
送り先を間違えないようにチェックするカードだったのかもしれません。

 



ミシシッピーのシェルビーで訓練中の442部隊。
隊長も小隊長も日系人だけです。



イタリアのサレルノに上陸した歩兵第100大隊の兵士たち。
カメラを見て微笑んでいます。

彼らはこの後ドイツ国防軍との戦いで初の戦死者を出しました。



日系の隊長が握手しているのは、イタリア軍人のように見えます。
後ろにはがれきの山。



サレルノの戦いで山中に陣地を構築する日系人部隊。



彼らがアメリカ陸軍最強の部隊となったのは、「ロストバタリオン」
となっていたテキサス大隊を救出したことでした。

敵に囲まれ孤立した211名の「テキサン」を、442部隊は
それを上回る214名の犠牲と、600名の負傷者を出しながら救出しました。



このときの戦いは、アメリカ陸軍の10大戦闘のうちのひとつに数えられ、
彼らの勇敢さは、日系人全体に対するアメリカ人の見方を変えることに
少しは成功しました。


「少し」というのは、これだけの犠牲を払ってアメリカのために戦っても、
戦後、帰ってきた彼らをアメリカ人は相変わらず「ジャップ」と呼んで
白眼視し、彼らはろくに職に就くこともできなかったからです。

皮肉なことですが、1960年代になって公民権運動が高まりを見せると、
アメリカ人は急に「模範的なマイノリティ」である日系人たちを
持て囃し出しました。

黒人たちの激しい人権復興運動の嵐に驚いた彼らは、
そういう方法ではなく、自分たちを犠牲にして国のために戦い、
アメリカ国民として認めてもらおうとした日系人たちを見直し、
あらためて評価する気になったのです。


勝手なものです(笑) 

 



続く。