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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

シック・ベイ〜USS「リトルロック」

2025-02-26 | 軍艦

ミサイル巡洋艦、「リトルロック」艦内探訪の続きです。


グリーンと赤のクリスマシーなタイルの廊下。
この一角に「シック・ベイ」があります。

シック・ベイとは医療目的で使用される艦内の区画を指し、
つまりは艦内病院ということになります。

Pタイルにある蛾のような模様は、医事を表す、
アピクレオスの杖のマークをかたどっているものと思われます。

ここにある「シック・ベイ」の説明は以下の通り。

「乗組員である将校、海兵隊員、下士官兵、
総勢1300人もの乗組員のケアはフルタイムの仕事だった。

そのために医師、歯科医、衛生兵が乗艦し、医療上の問題に対処した。

ここでは、医療室、手術室、回復室、歯科治療室を見ることができる」



左はレントゲン室で、使用中を表すランプが取り付けられています。
ここは一般には公開されていません。

突き当たりは診察&医療室、

「サージカル・ドレッシング・ルーム」

で、外から見るためにドアをガラス張りにしてあります。


この部屋を「シックベイ・ワード」Sick Bay Wardといいます。
回復室と一般的な病気の治療エリアとして機能するエリアです。

血圧測定中

ここを拠点に、総員に向けて、毎日2回の「シックコール」が行われました。

シックコールはアメリカ軍全般で行われる慣習で、

「医療処置を必要とする軍人の毎日の整列」

または、そのための信号ラッパのことをいいます。

Sick Call (Bugle Call)

各自が受けた検査の記録として、通常一人、
時には複数の医療担当者が、各自の健康状態を

「シックコール トリートメントレコード」(治療記録)

に記入することが定められています。

コンパートメント内にはロッカーや書類器具用の棚が配置されています。
棚の上のヘルメットにはメディックを表す赤十字入り。



可動式らしいアイランド型の簡易ベッドは、
診察を受けるため患者が横たわるようになっています。
ベッドにしては妙に高いですが、医師が診察しやすいし、
おそらくこの高さでもアメリカ人なら問題ないのでしょう。

アイランドに立てかけてあるのはギプスに重ねるシーネかシャーレでしょう。
シーネは添木とも副子ともいい、骨折部に当てて包帯で巻くものです。

英語ではギプスではなくキャストといい、添え木はスプリントと言います。

添木の近くに「海の上での医療行為」という本、
机の上には「人体解剖」の本がさりげなく?飾ってあります。

ゴム製の氷嚢は古い型のようですが、今でもダンロップ印のゴム製のものは
ほとんどこれと変わらない形で売られています。

さて、お次は手術室です。


負傷した(重症っぽい)患者を前に、にこやかに微笑む軍医。

軍に限らず、船上の生活は本質的に危険な労働環境にあり、
必然的かつ恒常的に事故が起こりがちです。

長期の配備サイクルや長い「洋上」(at-sea)期間、
乗組員は陸上の病院や施設から遠く離れざるを得ません。

そのため、艦は乗組員や、戦闘グループ全体に対し、あらゆる想定のもとに
医療援助の提供を行う能力を備えていなければなりません。

「リトルロック」の規模の艦艇に手術室が不可欠なのはそのためです。


「リトルロック」1400名の乗組員は、配属された医療要員と、
これらの施設にその健康と、時として生命の維持を依存していました。


白衣と手術着が掛けられた物品棚なるコーナー。
左の機械は麻酔用のガス供給装置だと思われます。

棚にビーカーなどが並んでいますが、運用中は船の動揺に備えて
一番上の棚にあるような枠のついたラックに収納されていたはずです。

ここには、保管が必要な医薬品を入れる薬品箱や、
モルヒネなどの規制薬物を入れる鍵付きのキャビネットもあります。

患者がいない限り、通常、医療室は施錠され、
鍵は医務官と司令官しか使用することを許されていません。



手前に見えるのはステンレス製の尿瓶。
現在は珍しい素材ですが、生産していないわけではありません。



一般の病院で言うところの「病棟」にあたる部屋です。
こちらは下士官兵用のベッド。


アピクレオスの杖の部分だけは、改装時にも残されたようです。
ベッドの真ん中に据えられたデスクは、ここで医務官が
病棟見回りの代わりに待機していたのかもしれません。


デスクの後ろにあるこの窓のある機械ですが、
いわゆるナースコールの役目をするものです。


赤丸で囲まれているものもナースコールです。

緊急事態や問題が発生したときに、このシステムを使うと、
各ボタンには右舷、ベッド、バスルームなどと書いてあり、
このオフィスにいるドクターが電話を取ることができます。

病棟区画にあるナースコールが鳴らされると、隊員や看護師、
薬剤師などの誰かがここに駆けつけてきてくれ、
どのベッドで緊急事態が発生したかを確認してくれます。




テレビ付きの(このベッドからは逆にあって見ることはできませんが)
リクライニング式ベッドが・・・・。

一般の病院で言うところの「特別室」待遇患者用でしょうか。
一つしかないので、その時ベッドが必要な一番上級の乗員用かもしれません。

例えば中尉がここに寝かされていても、もしその時
大佐が担ぎ込まれてきたら、交代させられるとか・・・?

■ 歯科区画


シックベイには歯科治療を行う区画もあります。
処置室を覗くガラス窓の説明を読んでみます。

「この歯科スペースは、アメリカ海軍予備歯科部隊の、
ニューヨーク州バッファローにあるNORVAHQ-105と
NORVADET-405のメンバーによって、
この船で勤務したすべての歯科関係者を顕彰するため修復された」

105と405の略字を検索してもわからなかったのですが、
おそらく、研修部隊のことでしょうか。

米海軍の歯科部隊は1,400人以上の現役、あるいは予備役の歯科医からなり、
軍の治療施設、教育機関、診療所、病院、研究室、船舶、
そして国内外の海兵隊に配属されて職務を果たしています。

また、戦闘作戦、災害支援、人道支援ミッションの現場にも派遣されます。


して、この写真の司令はというと、海軍歯科部隊の最高司令官、
ジョージ・セルフリッジ海軍少将であらせられます。
略歴が書いてあるので、一応見ておきましょう。

ジョージ・デヴァー・セルフリッジ少将は
1924年ニュージャージー州ピットマンに生まれ、
1947年にバッファロー大学歯学部を卒業した。

この間、彼は次のような綬章を受章している
(ユニフォームの左から右へ、上から下へ)。

海軍徴兵章
アメリカ戦線章
第二次世界大戦戦勝章
海軍職業軍務章
国防軍務章
軍隊遠征章

現役を退いた後、セルフリッジ提督は
ワシントン大学歯学部の学部長を務めた。

ニュージャージー州ピットマンの元ルース・M・モティシェロと結婚。
パメラ、シェリル、キンバリーの3人の娘がいる。

どこの誰と結婚して娘の名前がどうとかいうのは
当ブログにとって全くどうでもいい情報ではあるのですが、まあ一応。


歯科部隊最高司令官になったロジャー・トリフトシャウザー少将も、
ここバッファロー出身の歯科医官でした。

歯科大学卒業後すぐに海軍歯科隊に入隊。
1961年、歯科医学校を卒業し、アメリカ海軍歯科隊に入隊し、
1961年から1967年まで現役で勤務し、その間、
ボストンのチェルシー海軍病院、ミッドウェー島の海軍基地、
カリフォルニア州のポイント・ムグ海軍航空基地、
サンディエゴの駆逐艦「ディキシー」でも勤務しました。

1969年から予備士官としてキーウェスト海軍基地、
フィラデルフィア海軍基地、ノーフォーク歯科医院、米国海軍士官学校、
ベセスダ海軍病院、グアンタナモ湾で勤務。

1993年に歯科担当副部長に就任してからは、日本にも来ています。
1994年に少将に昇進し、現役6年、予備役27年を含む
33年間の勤務をもって、1995年に海軍予備役歯科部隊を退役しました。


ちなみにこちらが現在の歯科部隊最高司令官、
ウォルター・ブラッフォード少将
さすが歯科医、もういやっちゅうほど歯を強調してます。

アメリカ人は写真を撮るときよくこんなふうに歯を見せますが、
ここまでむき出そうと思うと、かなりの努力が必要となります。



これが復元されたという歯科診察台。


治療中ドクターがどこかに行ってしまったので、
俺、これからどうなるんかなーと物思いに耽っている水兵くん。

トレイの上に歯牙見本があるので、彼は抜糸後、
ブリッジか差し歯を入れる治療を受けるのかもしれません。

次のバッファローネイバルパーク公式のビデオでは、
シックベイの内部を紹介しています。
レントゲン室の中と、バーベット内部の物置?は
一般公開されておらず、このビデオでのみ見ることができます。

USS Little Rock: Sick Bay

続く。

「ピース・オブ・ロープ」山下奉文陸軍大将の処刑〜「リトルロック」艦内展示

2025-02-23 | 歴史

バッファローネイバルパークの「リトルロック」艦内の
展示ルームをご紹介しています。

■登舷礼を行う「リトルロック」


現役だった頃の「リトルロック」で登舷礼を行っている様子。
艦橋から撮られたちょっと珍しいシーンです。

元乗組員から寄贈されたというこのバトルヘルメットには、
コマンダーを表すCOMMという文字と、少佐の階級章がマークされています。
ヘルメットの縁にあるベルトについてはわかりませんでした。

そして、写真の左側のクロームの物体は、5インチ砲の火薬ケースです。
「リトルロック」が搭載していたのはMk.12で、就役時は6基でしたが、
タロスミサイル艦に改装されてからは1基だけとなりました。

その代わり、Mk.16の6インチ砲が1基だけ導入されています。

■ カジュアルティ・パワーシステム


こちらは展示ではありませんが艦のダメージコントロールシステム、
「カジュアルティ・パワーシステム」です。

本体には、

ライザー端子 3-56-2
ライザー端子2-56-2に接続
コンパートメントA-211-L内


と記載があります。
これは艦内のダメコンシステムで最も重要なものですが、
これ自体は単純な配電装置となっています。

船がダメージを負うなどの非常事態に、艦体を浮揚させるため、
あるいは危険な区域から脱出するために必要な、
重要な機械や装置のための電力源を確保する非常システムです。

カジュアルティ・パワーシステムは次のアイテムで構成されています。

○ ポータブルケーブル(ラックに収納されている)

○ 隔壁端子(バルクヘッドターミナル)
水密性を阻害することなく隔壁間の回路を連絡する
ライザー(高さを調節するの意)によってデッキ間が調整される

○供給源に繋ぐコネクション


 ライザー端子は、バルクヘッド端子と似ていますが、
ライザー端子同士、取り外すことができない装甲ケーブルで接続され、
それらは垂直方向に「ライズ」するために配線されます。

つまり、発電機から主甲板および第 2 甲板レベルにパワーを運ぶのです。


ここにあるのは配電盤で、電源パネルの端子は高音になるので、
カジュアルティ電源ケーブルが端子に接続される前に、
パネルへの通常の供給は遮断する必要があります。

非常用電源システムからは、操舵装置、IC配電盤、消火ポンプ、
消防室や機械室の補機類などに供給が行われます。

■ スカットルバット


俗語としての「スカットルバット」が、「噂」「ゴシップ」を表し、
この語源がこの水供給器であることは、
当ブログでも何度となくお話ししてきたところです。

航海用語の樽や噴水による水供給器=スカットルバットは、
水兵たちがその周りに集まって噂話をしたことから、
いつしかスカットルバットは噂を意味する言葉になったというわけです。


この写真は帆船で使われていた樽型のスカットルバットです。
バット(樽)には水を汲み出すための四角い穴が開けられています。


これはシースカウト(ボーイスカウトの海版)で行われている
「スカットルバット吊り上げ競技」の様子です。

帆船時代の樽のスカットルバットは、甲板の一階下に収納しますが、
その際、写真のような三脚を甲板のハッチの上に立てて、
保管庫からの出し入れを行う作業が日常的に行われていました。

この競技は、その作業と同じことを、水をこぼさずに行い、
その最短時間を競うもので、三脚の下に置かれた樽にロープを結び、
ドラム缶を規定の高さ(3フィート)に持ち上げるのを3回繰り返し、
地面にドラム缶を降ろして装備を元の状態までするまでが1ラウンドです。

水がこぼれたり、作業中誰かと話をしたら失格。
「優秀」とされるタイムは1分未満だそうです。

安全のために参加者はヘルメットをかぶっていますね。

■ 山下奉文大将処刑に使われたロープ(実物)


他の多くの展示艦と同じく、ここもまた館内は博物館となっていて、
「ベトナムルーム」と名付けられたコーナーには
海軍艦なのに陸軍ヘリ部隊や陸軍の女性についての展示があります。

そして、もう少し先に進むと、ほんの一瞬ですが、
我々日本人にとって看過できない展示が現れます。


第二次世界大戦時、マレー作戦の指揮官としてイギリス軍と戦い、
シンガポールを陥落させ、フィリピン攻防戦でアメリカ軍と戦った、
山下奉文陸軍大将の処刑を報じる新聞と、その際使われた
処刑用のロープの一部が展示されていたのです。


山下奉文元帥は、第二次世界大戦中の大日本帝国陸軍大将である。
マラヤ・シンガポール侵攻の最前線に立ち、
70日間でこの2カ所を制圧するという快挙を成し遂げ、
英国のウィンストン・チャーチル首相は、
日本軍によるシンガポールの無念の陥落を
「最悪の災害」「英国軍事史上最大の降伏」と呼んだ。

戦後、マニラでの裁判の結果、彼は戦争犯罪の有罪判決を受け、
1944年に日本が占領したフィリピンの防衛戦における部隊の行為により、
1946年に絞首刑で処刑された。

この写真は、有名な、山下大将がアメリカ軍に投稿した時のものです。
かつて恰幅の良かった大将の体はすっかり痩せていますが、ご本人は

「家内にはいつももっと痩せろと言われていたからちょうどいい」

と笑っていたとか。

以下、ここに展示されている写真とその説明です。

戦後、山下大将が裁判中に収容されていたフィリピンのロスバノス収容所

山下大将が処刑された絞首台

処刑直前、黒い頭巾をかぶっている山下大将が見える


処刑執行したメンバー

写真左から2番目のハワード・ロス(写真左から2番目)は、
山下大将の最後の言葉が

「May I face the East.」

であったと回想している。

処刑寸前、山下大将は皇居の方角に頭を下げ遥拝を行いました。

山下大将が処刑された後4、5日して、フォリピン第一キャンプの入り口の
本部前の掲示板に処刑の写真が四つ切り大に引き伸ばされて、
11枚のシリーズで張り出されたといいます。

その11枚とは下の通り。(wiki)

1、刑場の全景
2、山下が患者輸送車から下車する場面(囚人服姿)
3、階段の手前の山下
4、十三階段途中の山下
5、十三階段の一番上の山下
6、山下の首に縄がかけられた状況
7、蹴り板がはずれて釣り下がる
8、下半身が黒見を帯びた袋に入れられつつあるところ
9、完全に袋に入れて、遺体を運ぶところ
10、遺体を担架に乗せるところ
11、担架の前で日本人の僧侶が読経しているところ

ここに展示されていた写真は「1」以外相当するものがありません。

11枚の写真は海軍の公式カメラマンによって撮影されたものであり、
ここにあったのは、現場に立ち会うことを禁じられた報道関係者が
なんとか処刑の様子を収めようとこっそり撮影したものと思われます。

■ 処刑を報じるイギリスの新聞


山下奉文が絞首刑になったのは、シンガポール陥落で煮湯を飲まされた
イギリスと、マッカーサーの報復感情が大きく作用したと言われています。

これはそのイギリスの発行した新聞です。

「山下と太田、絞首刑に」

と赤字で大きくタイトルがありますが、実際の処刑についての記事は
一番右だけになります。

「他の日本軍戦犯も処刑される」

マニラ 2月23日-(UP)
本日午前3時、ロスバニョスのフィリピン拘置更生センターで、
山下奉文元大将が絞首刑に処された。
他に2人が絞首刑に処された。
太田誠一大佐と東路琢磨である。
AFWES-PACの命令により、報道陣とカメラマンは刑場から退出させられた。

シンガポール陥落の際、山下大将がパーシバル中将に「イエスカノーか」
と降伏を高圧的に迫った、という噂については全くのデマで、
ご本人、日露戦争の「乃木-ステッセル」会談みたいになればいいな、
と思っていたら、もうとにかく通訳がグダグダで何を言っているかわからず、
その苛立ちもあって「いやだからどっちなんだって聞いてるの」
みたいなことを言ったら、変に脚色されてしまったらしいですね。

全くお気の毒としか言いようがありません。

ついでに、この日の新聞のヘッドラインは他に何が書かれているかというと、

「空挺部隊と反乱軍が砲撃戦で64人の死者を出す」

「カナダ、シャープノートを獲得」

【オタワ2月28日】
ソ連のスパイ組織に関するカナダ政府の立場を批判するロシア語のメモが、
昨日遅くカナダ政府に届いたことが、外務省関係者の話で明らかになった。

「エジプトの学生騒乱で23名が死亡」

「3月7日に米国で電話ウォークアウトを実施」
(電話会社のストライキ)

「インドネシア軍」

【バタビア、2月23日-(UP)】
セレベス北部のゴロンタロに2万人のインドネシア軍が集結していると、
昨日、民族主義新聞ムルデカが報じた。
ムルデカ紙によれば、この軍隊は完全装備で、
地元の先住民当局の同意を得て、
すでにドルサンクとモンゴンドゥールを占領している。

以上となります。

山下大将を戦犯として処刑したかったアメリカとイギリスは、
なんとかして残虐行為の責任を被せようとしましたが、
どの証言者の口からもその名前が聞かれることはありませんでした。

裁判に立ち会ったイギリスの記者が次のようなことを書き残しています。

「山下裁判はきょうもつづいた――しかしこれは裁判ではない。
審理でさえあるかないか疑わしい。
昨日は山下の名は一回だけでた。今日は一回も出なかった。

裁判をする軍法委員会は、いかなる法律や、証拠の規定にも
拘束されないかのように、裁判をすすめている。

私は日本人の弁護を扱ったことはない。
しかしイギリスの法廷なら、山下の場合のような
杜撰な告発は受理されないだろう。

裁判は軍司令官は兵隊のどの行為にも責任があるということを
制定しようとしているらしい」

アメリカの法曹関係者にも、この裁判が
復讐と報復が目的であることを見抜いていた人がいました。

「もし敗戦の敵将を処置するために、
正式な手続きの仮面をかぶった復讐と報復の精神をのさばらせるならば
それは同じ精神を発生させ、
全ての残虐行為よりも永久的な害毒を流すものである」

マーフィー米最高裁判事 wiki

そして、最後まで堂々とした山下大将に対し、アメリカ人弁護人は
感嘆と尊敬の念を抱いていたといいます。

「彼には威厳と平静さがあった。
勝利者になろうが、敗北者になろうが、司令官になろうが、
捕虜になろうが、彼は男らしかった。
(中略)彼の眼は深くて思慮があった・・人生を見つめて来た者の眼、
人生を理解し、死を恐れない者の眼・・」

弁護人フランク・リール大尉 wiki


ところで、絞首刑のロープが細切れにされて展示されているのには、
細切れにすれば各方面に記念品として配りやすいからで、
これこそ、アメリカに伝わる悪しき慣習の成れの果てです。



このロープの別の一部分がここにも・・・。

山下大将の横に、武藤章(東京裁判で処刑)参謀(当時)がいます。

武藤中将は、フィリピンで山下に切腹することを提案するも、
逆に説得されて現地で降伏し、降伏調印を行っていますから、
この写真はその時のものかもしれません。

武藤中将は、東京の軍務局勤務が長かったので、連合軍は、
東京裁判に出廷させ、そこで裁くことを決めていたため、
山下大将が裁かれたマニラ軍事法廷では起訴されずに帰国しました。

これで現在世界に二つのロープのピースが現存することがわかったわけです。

絞首刑のロープを切り刻んで記念品にする(か売り捌く)行為に対し、
アメリカ軍はもちろん、これを不適切として公式には禁じていました。

基本的にはこの命令は守られたのですが、
軍部や死刑執行官の目をかいくぐって不法行為を犯す者は絶えず、
処刑が行われたこのフィリピンの刑務所でも、それは行われました。

もちろん、そんな敬意を欠いた不謹慎な記念品に一体なんの意味があるのか、
と不快に思う人の方が、特に現代では多数であるせいか、
この「遺物」が必要以上に重要視されることもないわけですが・・・。

■米軍の投降勧告ビラ



アメリカ兵に告ぐ!

「私は抵抗をやめました」
このリーフレットは、抵抗をやめようとする日本人に
人道的な待遇を保証するものである。
直ちに最寄りの将校のもとに連れて行くこと。
最高司令官の指示による

終戦が決まり、日本人に降伏し、良い待遇を受けるようにと投下された
アメリカ合衆国の降伏ビラ。



この小さな旭日旗が何を表しているのかは説明がありませんでした。
絹の搭乗員スカーフを使って手作りしたように見えます。


続く。



メイン推進プラント〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」

2025-02-20 | 歴史

バッファローネイバルパークのタロスミサイル艦「リトルロック」、
艦内展示をご紹介しています。



「リトルロック」記念区画(ここ)を改修するため、
寄付してくれたUSS「リトルロック」の元乗員、そして
場合によってはその遺族に捧げられた認識票の壁、
「ウォール・オブ・オナー」と呼ばれる展示です。


真ん中の窓を覗くと、何か見えそうですが通り過ぎてしまいました。

よく見ると、いくつかのタグは名前が刻まれていません。
今後、寄付があれば名前を刻むシステムなのだと思われます。


この寄付呼びかけを行ったのは、1946年から1947年までの間、
「リトルロック」に、

MM1C
(Machinist's Mate Petty Officer First Class Machinist's Mate 1st Class)

として乗り組んだ、

Lyle H.Swatek ライル・スワテク氏

であり、寄付を行ったのは彼の遺族です。
スワテク氏は2018年に90歳で逝去しました。

お葬式の記事によると、彼は戦後父親の仕事だった石油販売業を拡大して、
自分の事業を広く展開し、全米石油販売協会の会長にまでなった人物です。

彼は「リトルロック」での1年間の任務を心から誇りにしており、
成功してからはバッファローネイバルパークにおける
「リトルロック」の展示実現に尽力しました。

彼がいかに「リトルロック」を愛していたかは、遺言により、遺族は
故人への献花の代わりに「リトルロック協会」への寄付を呼びかけている、
ということからもうかがい知れるというものです。

アメリカには、維持費が集まらずに、廃艦の危機を迎える歴史的軍艦、
わたしがボストンで見学した「セーラム」のように、寄付を呼びかけるも
うまくいっていない艦、スクラップにされてしまった艦が多数あります。

「リトルロック」は、社会的に大成功を収めたかつての乗組員が、
このスワテク氏のように、並々ならぬ愛情と熱意を持って、
その地位とコネクションを使って存続を実現させた数少ない例と言えます。

■ Mk.V ガスマスク


マークV防毒マスク

ネイビー・ダイアフラム(NAVY DIAPHRAGM / ND)マークV防毒マスク
は、1957年に米海軍の洋上部隊のために実戦配備されたもので、
プラスチック製の単眼バイザータイプの接眼レンズを使用していた。

Mark Vはレンズが広いため視野は広いが、曇りやすい。
マークVマスクの面体には、2つのClフィルターディスクキャニスター、
スピーチダイアフラム、排気バルブがある。

調節可能な5本のストラップ付きラバー製ヘッドハーネスにより、
快適かつガスタイトなフィット感を提供。
NDマークVガスマスク用のグレー、
またはカーキ色のキャンバス製キャリングバッグには、
腰にフィットするベルトが付いている。

マスクに加え、小型の金属製容器に入ったM13人員用除染キット1個と、
M5/MSAl保護軟膏キットが収納されている。
後者は綿布と3本の保護軟膏からなる。

フィルターキャニスターが2つあることで、保護性能は向上するが、
その分、吸入抵抗が大きくなる。

つまり、通常の作業条件下で呼吸するためには、
より多くの努力が必要となるということである。

ちなみにダイアフラムという言葉そのものは、横隔膜を意味します。


6"/47 CALIBER NAVAL GUNBRASS POWDER CASINGSTORAGE
CONTAINER ANDPROJECTILE
6"/47口径 海軍砲 真鍮火薬薬莢 収納容器 及び発射薬


砲(海軍では『ライフル』と呼ばれていた)は、150ポンドの砲弾を
13マイルの距離から地上および海岸の標的に発射することができた。

仰角41度での最大射程は14.5マイル。
砲弾の重量は様々で、徹甲弾の重量は130ポンド、
高容量砲弾の重量は105ポンド、耐久砲弾の重量は105ポンドであった。

弾薬は半固定式(semi-fixed、砲弾と火薬ケースは別々)。
これらの砲の火薬ケースの重量は105ポンドであった。



おそらく上の写真に写っているのと同じ砲の写真です。
艦内の見学を終わって甲板で撮りました。

マーク16が搭載されたのはUSS「ブルックリン」「ファーゴ」、
そして「リトルロック」の「クリーブランド」級の計38隻です。
「クリーブランド」級は、四つの三連装砲塔に12門の砲を備えていました。

上の写真に見られるように、主に三連砲塔に搭載され、
基本的に対水上を目標とする設計がなされています。

■ ロッカーと思ったら・・・


一日でいくつもの軍艦を巡らなければならなかったこの日、
先を急ぐあまり、このロッカーがただのロッカーでないことを、
薄々わかっていながら近づいて点検することをしませんでした。

後から写真をチェックして、猛烈に後悔しています。



そのうち三つのロッカーには、「OPEN ME」の表示。
中から灯りが漏れていて、開けると何か展示があるようなのですが、
あまりに急いで通り過ぎたので、チェックしませんでした。



左上は、この窓から中を除き、下のボタンを押すと、
おそらく何か映像を見ることができる仕掛けでしょう。

「組織」「艦隊でのルーチン」「特別な場所」「イベント」

のボタンを押すと動画が見られたのかもしれません。
こちらは「Crew」(乗組員)であり、



こちらは「THE SHIP」なので、おそらく艦全体についてです。
もう少し心に余裕があれば、立ち止まってチェックできたのに・・・。

■ 主推進プラント


これも大変残念なのですが、大事な展示なのにボケてしまいました。

ガラスに取り替えてある扉越しに撮った写真がこれです。



プロペラ(スクリュー)を動かすためのプラントの一部です。



推進システムについて説明があるのですが、
フネの形が縦なのでちょっと横にしてみました。

説明は「メーコン」「リトルロック」勤務だった元機関士官によるものです。

【メイン推進プラント

クローズド・サイクル推進プラントの流れ
このプラントでは同じ水が繰り返し使用される

ボイラーを出た水は過熱蒸気となってタービンに送られ、
そのエネルギーはタービンのシャフトを通して機械エネルギーに変換され、
減速(Red'n)ギアを通って船のプロペラを回す。

排出された蒸気はタービンの下にあるメインコンデンサで凝縮される。
その後、脱気(DA)給水タンクに汲み上げられ、ボイラーへの給水となる。
追加の補給水は、メインコンデンサーを経由してサイクルに導入される。

エンジニアリング・スペース
消防室 (2)
ボイラーは2階建てで、最大634psiの圧力で運転され、
予熱された燃料油で供給される複数のバーナーに
強制通風空気圧を使用して、約360度の過熱(850度)の蒸気を発生させる。
アップテイクには、ボイラーテンダーが空気供給を調整するために
煙を監視するための潜望鏡が装備されている。

ボイラー水は脱気(DA)フィード・タンクから供給され、
上層階に配置されたボイラー・テンダーが常に水位を監視する。

エンジンルーム (2)
スロットルとゲージボードは、上層階にある高圧(HP)タービンと、
低圧(LP)タービンの制御と監視を行う。
主減速機は両階にあり、主潤滑油フィルターは下階にある。


メインコントロール:
当直機関士官のステーションは前部機関室にある。
4つのプロペラの回転数、重要なバルブの位置、蒸気圧が表示される。
ブリッジや他の重要なエリアとの直接通信が可能である。

注釈
各エンジニアリング・スペースは3つのレベル
(ファースト・プラットフォーム、セカンド・プラットフォーム、ホイド)
に分かれている。図面は縮尺通りではない。
蒸気ラインは描かれておらず、水道ラインも描かれていない。

作成者
ジョン・R・ロバーツ
(USS『メーコン』(CA-132)乗艦B師団士官
USS『リトルロック』乗艦M師団士官、1959-1952)


続く。


歴代艦長とミッチャー提督のサイン〜USS「リトルロック」

2025-02-17 | 軍艦

バッファローネイバルパークで展示されている、
ミサイル巡洋艦「リトルロック」艦内展示から、
「リトルロック」の歴史を物語る数々の資料をご紹介しています。

冒頭写真は、おそらく彼女が退役してから作られた、
「リトルロック」歴代指揮官の名前と在任期間を表すプレートです。

CL-92 指揮官


ウィリアム・ミラー大佐
William Edward Miller-CAPT
14 Jun 1945 - 07 Jul 1946

ヘンリー・スミス・ハットン大佐
HENRI H. SMITH-HUTTON - CAPT
07 Jul 46 - 10 Mar 47

フランシス・ミー大佐
FRANCIS J. MEE - CAPT
10 Mar 47 - 04 Jan 48


ウィリアム・ライト大佐
WILLIAM D. WRIGHT - CAPT
04 Jan 48 - 24 May 48

ヘンリー・モーガン大佐
HENRY G. MORAN - CAPT
24 May 48 - 13 May 49

リチャード・クライヒル大佐
RICHARD S. CRAIGHILL - CDR
13 May 49 - 24 Jun 49

CLG-4/ CG-4 指揮官


ジェウェット・フィリップス大佐
JEWETT O. PHILLIPS - CAPT
03 Jun 60 - 25 Jan 61

フレデリック・シェノー大佐
FREDERIC A. CHENAULT - CAPT
25 Jan 61 - 07 Feb 62


ジェームズ・パイン大佐
JAMES R. PAYNE - CAPT
07 Feb 62 - 26 Aug 63

C・エドウィン・ベルJr.大佐
C. EDWIN BELL, JR. - CAPT
26 Aug 63 - 26 Sep 64

ロデリック・ミドルトン大佐
RODERICK O. MIDDLETON - CAPT
26 Sep 64 - 27 Sep 65

オスカー・ドレヤー大佐
OSCAR F. DREYER - CAPT
27 Sep 65 - 11 Apr 67


ジョン・ミッチェル大佐
JOHN J. MITCHELL - CAPT
11 Apr 67 - 24 Apr 68

ウォルター・ベネット大佐
WALTER F.V. BENNETT - CAPT
24 Apr 68 - 15 Nov 69

チャールズ・リトル大佐
CHARLES E. LITTLE - CAPT
15 Nov 69 - 11 Jun 71


ゴードン・ナグラー大佐
GORDON R. NAGLER - CAPT
11 Jun 71 - 27 Jul 72

ロバート・モリス大佐
ROBERT E. MORRIS - CAPT
27 Jul 72 - 24 Jul 73

ピーター・カリンズ大佐
PETER K. CULLINS - CAPT
24 Jul 73 - 17 May 75


ウィリアム・マーティン大佐
WILLIAM R. MARTIN - CAPT
17 May 75 - 20 Oct 76

ケント・シーゲル中佐
KENT R. SIEGEL - CDR
20 Oct 76 - 22 Nov 76

最後のシーゲル艦長だけが中佐である理由ですが、
おそらく艦の退役が決まってからマーティン大佐が任期を終えたため、
残り1か月を消化する間、便宜的に充てられた人事だからだと思います。

同じような人事は、軽巡洋艦として退役が決まった時にもあって、
クライヒル大佐はCL-2最後の1か月だけ艦長を務めました。

海上自衛隊で同じようなことがあるかどうかは知りませんが、
米海軍では、退役が決まって軍事指揮官を必要としなくなると、
書面上だけ必要な艦長を(名前だけ?)充てる慣習があるようです。


それから、これを見る限り、艦長の在任期間は1年と決まっています。

唯一の例外は、1973年7月から1975年5月と、在任2年に亘った
ピーター・カリンズ大佐ですが、その理由は年表からはわかりません。

この頃、「リトルロック」はガエタの第六艦隊旗艦であったこと、
そして任期2年目には大西洋艦隊の戦闘効率賞を受賞するなど、
軍艦として「最盛期」であったらしいことと関係あるかもしれません。

■ ミッチャー提督のサイン


1945年に撮影された「リトルロック」の写真ですが、
たいへん見にくいながら、エンボス加工のように浮き上がるサインは、
あの”ピート”マーク・ミッチャー提督の直筆です。


極端に寡黙で、物静か。
目立つことを嫌い、控えめであったというミッチャーは、
同時期のアメリカ海軍の中でも評価の高い指揮官です。

太平洋で任務部隊を率いたミッチャーは、日本軍との戦いで、
マリアナ空襲、パラオ空襲、そしてマリアナ沖海戦を指揮し評価を得ましたが、
沖縄で「バンカーヒル」「エンタープライズ」と、座乗した艦は
特攻の激しい攻撃を受け、そのことが結局彼の命を縮めたと言われます。

神風特攻隊小川清少尉が突入した「バンカーヒル」の破片は、
ミッチャーからわずか6メートルしか離れていない場所にいた彼の幕僚、
下士官兵10名の命を、その目の前で瞬時に奪っていますし、
移乗した「エンタープライズ」で、ミッチャーがいた甲板に、
冨安俊助中尉機が激突し、またしても彼は旗艦を変更することになりました。

彼の体重は45キロ以下になり、助けなしでは舷側の梯子を登れなくなり、
わずかの期間に「歩く骸骨」(ハルゼー談)のようになっていたそうです。
(ちなみに、英語のwikiには以上の記述はない)



彼が亡くなったのは1947年2月3日で、現役のままでした。
これは心臓発作で亡くなる半年前、トルーマンと握手するミッチャーですが、
60歳というにはあまりに老けています。

■ 海軍仕様バックル



制服の仕様が変わったため、今では超レアとなった海軍兵用ベルトバックル。

かつて兵用バックルには勤務艦のシルエットと艦名が刻まれていました。
写真はシルバーで、これはジュニアランクの兵卒用。

士官、チーフ・ペティオフィサー(CPO)、
その他下士官(NCO)は同じ模様が入った金色でした。


それでは現在、アメリカ海軍ではどんなベルトバックルが使用されているか?


というと、このような面白くもなんともないシンプルなものです。
まずこの金色は、士官とCPO用。
左は男性用、右の女性用は丸みを帯びたシェイプで少し小さいものです。

男性と女性でデザインが違うのはどういうわけか?
『体は男性で心は女性の軍人』が右側を使う権利も与えるべきではないか?


というような、物事をややこしくさせる議論は今のところないようで何より。
流石にここまでポリコレファシズムの魔の手は伸びていないと信じたい。

それに、トランプ当選によって、「性別は男か女二つだけ」となったので
物事がややこしくなることは今後しばらく起こらないでしょう。

さて、視察、儀式などいかなるシチュエーションにも合うように、
現在このようなアルマイト処理された金色の無地が標準となっています。
レートE-7、E-8、E-9の上級下士官は金色です。


E6以下はアルマイト処理されたシルバーのバックルと決められています。

それでは飾りの入ったバックルは禁止になったのか?
と思われた方、ご安心ください。

そのあたり、現在の海軍では個人の自由に任されていて、
適切なデザインであれば、バックルに装飾を施すことは許されています。

たとえば現在陸上勤務になっている人でも、前任の勤務(海上、航空)
の部隊章、記章などを着用するのはアリということです。

■ ボトルシップ


軍艦のボトルシップ実物というのを初めて見たような気がします。
個人で作成したと思われるプラークの文言は次の通り。

USS「リトルロック」CL92

全ての乗組員と
ペンシルベニア州フィラデルフィア クランプ造船工廠主任技術者
チャールズ・F・カールソンを偲んで

模型:レイ・カールソン アメリカ海軍少尉

寄贈:チャールズ F. カールソン Jr.
アメリカ海軍/アメリカ海兵隊軍曹
USS「ニュージャージー」BB-62 海兵分遣隊同窓会

2011年5月 バッファロー ニューヨーク

ちょっとわかりにくいのですが、カールソンは三人出てきます。
この三人について推測してみました。

曽祖父:チャールズ・F・カールソン(クランプ造船技術者)
祖父:チャールズ・F・カールソンJr. 海兵隊軍曹(USSニュージャージー乗組)
孫?:レイ・カールソン海軍少尉

おそらくこのボトルシップを作成したのはレイ・カールソン少尉。
ボトルシップの作成が2011年と比較的新しいことから、
海軍少尉である若いレイはカールソンジュニア軍曹の孫世代と見ます。

軍曹が海兵隊として乗り組んだUSS「ニュージャージー」は
第二次世界大戦中就役しているので、軍曹の父親であるクランプ技術者が
「リトルロック」設計に携わったというのは時期的に整合性があります。

そしてこれを寄贈したのは、そのレイ・カールソンJr.軍曹。
クランプ造船所の技術者、チャールズ・F・カールソンと、
彼が手がけた「リトルロック」の乗組員に捧げられています。
というわけで、

孫か甥(レイ)が作った「リトルロック」のモデルシップを、
祖父(ジュニア)がバッファローの「リトルロック」に寄付をした。
彼の父親(曽祖父)はクランプで「リトルロック」を手がけた造船技師。


というのが、わたしがこのプラークから読み取ったストーリーです。
検証しようがないので間違ってたらごめんなさい。


アメリカ海軍標準仕様の24時間時計。

ウォッチついでに、海軍の見張り(自衛隊ももちろん)「ワッチ」は、
アメリカでは「ウォッチキーピング」「ウォッチスタンディング」です。

このウォッチシステムは、24時間船を動かすためのシフトですが、
軍艦と商船、さらに軍艦の中でも潜水艦は独自のシフトを持ちます。

これは、乗組員がさまざまなシフトで任務を交代して行うことで、
全員が深夜や早朝などの勤務を公平に務めるための仕組みです。


1、電話帳

電話帳ですが、おそらくは艦内電話用でしょう。
「第6艦隊旗艦」とあるので、ガエタを母港としていた頃です。

2、電話帳

カミングス少尉のサイン入り。

3、号笛(サイドパイプ)


英語ではボースンズ・ホイッスル(boatswain's whistle)といい、
号笛のことをBoatswain's callといいます。
パイプには「シャックル」という丸い輪が付いており、
ここに鎖などを結びつけて襟もとに掛けたりします。

このサイドパイプには、組紐が結びつけられていますが、
サイドパイプの紐と気が付かず、7、と番号を打ってしまいました。

4、CLG-4の「リトルロック」パッチ

ミサイル巡洋艦になってから制定されたパッチには、
「 PRIDE IN ACHIEVEMENT」(達成する誇り)とあります。

5、第6艦隊旗艦パッチ

COMSIXTHFLT「モータープール」パッチと説明あり。
モータープールはおそらく当時の第6艦隊のあだ名だと思うのですが、
なぜモータープールなのかまでは調べたけれどわかりませんでした。

まあ確かに艦隊が軍港に係留されている様子はモータープールですが。


あらためて書いておくと、第六艦隊=ヨーロッパ・アフリカ方面艦隊です。
今でもイタリアのガエタが旗艦の母港であり、旗艦を務めたのは、
「ニューポートニューズ」を初代として「リトルロック」は7代目。
現在の「マウント・ホイットニー」は14代目となります。


USS「マウント・ホイットニー」LCC/JCC20

LCCはAmphibious Command Ship、揚陸指揮艦を表します。

第6艦隊の旗艦は代々巡洋艦でしたが、初めて駆逐艦母艦、
「ピュージェット・サウンド」AD-38が旗艦になって以降、
「コロナド」「ラサール」など、揚陸艦が充てられるようになりました。

6、キャンバスベルト

バックルのないタイプの布ベルトです。
どのようなシチュエーションで用いられるものかはわかりませんでした。


続く。





「フィアレス」プラムサテンのフライトスーツ 〜ハリエット・クインビー

2025-02-14 | 飛行家列伝
 
今日はまず、スミソニアン航空博物館の展示から、
黎明期の飛行家のファッションを取り上げます。

飛行機が発明され、航空ブームが巻き起こると、
製造業者は、より機能的なヘルメット、手袋、スカーフ、
その他安全のためのアクセサリーなどを飛行家のためにデザインしました。

航空ファッションにも世間の関心が高まり、雑誌や新聞は
「アヴィエート」aviateのための服装について、
パイロットだけでなく、乗客についても取り上げ始めました。

人それぞれ、手持ちの衣服を組み合わせて間に合わせる人もいれば、
トレードマークとなる特別なフライングスーツを作る人もいました。

自らの経験をもとにパイロット自身が衣装をデザインすることも多く、
フランスの飛行家、ユベール・ラタム(Hubert Latham)という人は、
飛行中に飛行機の木製部分から破片が折れることによるダメージを考慮し、
フェンシングで使用されるキャンバス地の裏地付きスーツを提案しました。



ちなみにラタムは二度英仏海峡横断に挑戦した飛行家でしたが、
彼の死因は飛行機事故ではなく狩猟中水牛の角に突かれたことでした。
享年29歳。合掌。

■ レザージャケット



レザーのフライングジャケットを着用したイギリスの飛行家、
クロード・グラハム=ホワイト(1879−1959)
レザーは高価でしたが、保温性、耐久性、不浸透性から
初期の頃より飛行服の素材としてパイロットに好まれてきました。

レザージャケットの便利な点は、普通の服の上にさっと羽織れば十分で、
着陸時にコートが油で汚れていても、飛行機を降りて、
彼らを賞賛する人々に挨拶する前に脱ぐことができることです。

■ エディス・バーグのホブルスカート


ハート・O・バーグ夫人エディスは、ホブル(hobble)スカート
というファッションを「生んだ」とされる人です。

この写真でバーグ夫人の横にいるのはあのウィルバー・ライト
彼女の夫、ヒューバートがライト兄弟の欧州における代理人だった関係で、
「乗客として飛行機に乗った最初のアメリカ人女性」となりました。

写真で注目していただきたいのは、彼女のスカートの裾部分です。

飛行機に乗るわずか2分間のため、彼女は飛行中に
スカートが捲れ上がらないように、膝の少し下にロープを巻き、
飛行が終わってもそれを付けたまま現場を後にしました。
ついでに帽子も飛ばないようにスカーフで結んであります。

「ホブル(hobble)」とは「足を引きずって歩く」という意味があります。

このときバーグ夫人が飛行機を降りて歩く姿を見たフランスのデザイナーが、
これにインスパイアされ、この姿と日本の着物をミックスして、
ホブルスカートなるデザインを発表したのです。

この流行は、第一次世界大戦が開始すると急速に廃れました。
流石に戦争中はこんな罰ゲームみたいなスカートは履いてられませんよね。

実際に、これを履いていたせいで転んだり、逃げ遅れて
亡くなった「ファッションヴィクテム」の女性もいたそうですし。


写真では男性がスカートを指差しながら、

「ありゃなんだ?歩行速度制限スカートだろ!」

と揶揄しています。

飛行機に乗る女性にとっては「捲れ上がらない」という一点においてのみ、
非常に機能的だったということもできますが、ファッション的には
纒足とかハイヒールのような自由な行動を制限することによって生まれる何か
(セックスアピールとか)を狙っていたのかもしれません。知らんけど。

■フライトヘルメット




スミソニアンの説明によると、「ウォレン・ヘルメット」と言って、
W・T・Warrenというイギリスのパイロット&発明家が発明した
飛行用の保護ヘルメット断面図です。

素材は皮で、内部には鋼鉄のバネが仕込まれて衝撃を吸収します。
装着感を高めるパッドは馬の毛を使ってあります。



1912年、壁に頭突きして性能を実験しているウォレン本人。
後ろの笑っている人たちは皆パイロットらしいです。

この写真はとても有名ですが、間違って
「フットボールの練習」というキャプションが付けられたりしています。


「ブラウンヘルメット」

ブラウンヘルメットは厚手のフェルトと革でできており、
上部は額と後頭部を部分的に覆っています。

下部は革で覆われた厚さ3枚のフェルトで、
目の上に突き出ており、前方への転倒時に顔を保護します。
耳あてには穴が開いています。

防寒とそれほど強くない衝撃なら有効ですが、
衝撃吸収効果はウォーレンのヘルメットほど高くありません。

■フライトクローズ

「短時間用飛行服」

ファルマン複葉機に乗るL.D.L.ギブス中尉。
手袋はしていませんが、マフラーは必須として着用しています。

短時間飛行なので、コートは革製ではなく厚手の布製で、
厚手の毛糸の靴下を履いたロートップのブーツを履いています。

このギブス中尉ですが、どの軍隊所属かなど一切わかっていません。
(航空服だけで、制服姿の写真が残されていないので)
おそらくイギリス陸軍か海軍ではないかと言われています。

あるサイトによると、ギブスはファルマン飛行機のデモをスペインで行い、
その際、飛行機の準備が遅れたことに激昂した群衆が石を投げつけ、
ギブス中尉にナイフで襲いかかり、彼が逃げると、
残されたファルマンとそれを収納していた小屋を焼き払ったそうです。

その際、暴徒たちがスペイン語で叫んでいたのが、

Aviation is impossible!(航空は不可能)
Down with science!(打倒科学)
Long live religion!(宗教万歳)

だったとかなんとか。
うーむ・・・・きがくるっとる。



「水上飛行装置」

長時間飛行や水上飛行では、飛行服は暖かさが決め手となります。
ロバート・ロレインは、フライトの前に機内で写真に収まりました。
スカーフを首にしっかりと巻き、キャップのフラップを下げて
耳を寒さから守るだけでなく、エンジンの轟音を防ぎます。

手袋は必須で、コートの袖には手首に密着させるゴムがあるのが理想的。
ロレインはこれから水上を飛ぶので救命ベルトをしており、
コンパスとマップケースは膝に縛り付けてあります。

ロバート・ロレインイギリス陸軍少佐は、黎明期のパイロットで、
「ジョイスティック」という言葉を使い出した人物です。

ジョイスティックの「JOY」はご想像通り「喜び」という意味で、
飛行する喜びを込めたとかなんとか。

この写真ではイマイチですが、ロレイン少佐は大変なイケメンで、
女性にMM、引退後は俳優に転身、彼の死亡記事には

「ロバート・ロレインは今世紀で最もハンサムな
ロマンティック俳優の 1 人として記憶されるだろう」


と書かれたそうです。

これなら納得のイケメン

■ 女性用フライトスーツ


スカートが捲れて困るなら、スカート風のズボンにすればいいじゃない、
ということで登場したこのようなフライトスーツ。

分厚いツィード生地でできています。

写真はマチルド・モアサン(Matilde Josephine Moisant、1878- 1964)
アメリカで2番目に飛行機の操縦免許を取得した女性です。

左胸に卍(左まんじ)のマークをつけていますが、
これは普通にグッドラックチャームでナチスとは全く関係ありません。
左のイラストは、右の写真を元に描かれたものですが、卍のチャームは
いらぬ誤解を招くことを恐れたのか微妙にぼかしてわかりにくくしています。



本日の主人公、ハリエット・クインビー(右)とは知り合いでした。
ちなみにクインビーが免許取得第1号です。


1929年、ブランシュ・スコットのフライトスーツ。


「プラムサテンのフライトスーツ」

生前のハリエット・クインビーのトレードマークは、
プラム色のサテンのフライトスーツでした。
1911年の新聞には次のような記載が見られます。

ハリエット・クインビー嬢のプラムカラーのサテンでできた飛行服は、
ブラウスとニッカーボッカー、そしてモンクフードという組み合わせです。

ニッカーボッカーの内側の縫い目はボタンで閉じられており、
ボタンを外すとウォーキング・スカートになります。
ブラウスは長い肩の縫い目でカットされていて、脇の下で留めます。

そして、クインビー嬢が履いているのはハイトップレザーのブーツ。

これはクインビーのマネージャー、A・レオ・スティーブンスが
彼女のフライトを宣伝するために発行したポスターのコピーです。

ファッションの細部が気になる女性読者に向けて、
大変詳細にスーツの縫製について説明までしています。

■ ハリエット・クインビー

アメリカ人女性として初めてパイロット免許を取得したのが
このハリエット・クインビーです。

彼女は1875年ミシガン州の貧しい農家に生まれていますが、
最後まで自分の出生地を、カリフォルニアの裕福な家庭の出身で、
アメリカとフランスで十分な教育を受けたと人々に思い込ませていました。

彼女には上品な美貌が備わっていたので、人々は容易くそれを信じました。

若い時田舎から都会に出るなり雑誌記者として職を得たのも、
おそらくはその美貌が大いに実力を底上げたからに違いありません。

サンフランシスコでは、サンフランシスコ・クロニクル紙など
数紙の新聞に寄稿していましたが、そもそも記者という職は
当時、女性が参入することの少なかった分野でした。

しかも彼女は当時最先端だったタイプライターを最初に使ったり、
まだ車が珍しい頃に黄色い車を乗り回したりと、
同業のジャーナリストの中でもいつも目立っていたと言います。

そして彼女はニューヨークに進出して記者としてのみならず、
ドラマ評論や脚本を書いたり、写真を撮ったりしました。

なんか映画にも出ているという(後ろは多分サンフランシスコ湾)

美しく整った顔立ちのクインビーは、
自分の人生は必ず成功すると信じて疑いませんでした。
自分の才能と機知、そして美貌を武器に、
当時の女性が夢にも思わなかったことを成し遂げたと言えます。

美しき異端者であった彼女は社会の慣習を進んで無視し、
結婚よりもキャリアを選んで、彗星のように人生を駆け抜けました。


宣伝のモデルにもなりました

彼女が航空の世界に足を踏み入れたのは、
写真家、文芸・演劇ライターと名乗り活動していた35歳のときです。

イベントで航空に魅了され、飛行を学ぶことを決意したのですが、
そのころは航空の世界にまだ女性がおらず、今なら
希少価値の点でも自分は一躍有名になれると計算したのかもしれません。


モワサンとマドモアゼル・フィフィ

彼女はそのとき見事にレースで優勝したパイロット、
ジョン・モワサンに飛行を教えてくれるよう頼んだのですが、
レッスンが始まる前に、モワサンは飛行機の墜落で亡くなりました。

猫かわいい

John Moisant’s Flying Cat 
– History’s Most Renowned Feline Aviator flew the English Channel to Dover 猫が気になった方のために

普通こんなことがあれば、ためらったりしそうなものですが、
クインビーは全く怯みませんでした。
ジョンの代わりに弟アルフレッドに操縦を習い始めたのです。

モワサンの妹であるマチルドと親しくなったのもこのときでした。

■ 英仏海峡横断成功

タバコを吸い、車を所有し、飛行機を操縦し、一人で世界中を旅し、
おまけにプロの作家とか写真家を名乗る女性。

彼女は多くの崇拝者をいつも従えていたそうですが、
世間的に当時は過激な女性とみなされていました。

颯爽としていながら女性的なイメージ。
小柄で色白な彼女のあだ名は「ドレスデン人形アヴィアトリクス(Aviatrix)」
(女性飛行士のこと)「陶器の人形」「緑の瞳の美女」などでした。

彼女が自らデザインしたプラム色のサテンの飛行服は、
過激と言われながらもすぐにファッション・トレンドとなっていきます。



当時1回の航空ショーでパイロットは1,000ドルもの収入を得ることができ、
レースの賞金となると10,000ドル以上が手に入りました。

操縦免許を手にするなり、クインビーはエキシビション・チーム、
「モワサン・インターナショナル・アビエーターズ」に入り、
2万人近い観衆の前でスタテン島上空を夜間飛行して1,500ドルを稼ぎました。

プラム色のサテンブラウスにネックレスを光らせ、
ハイヒールのレースのブーツにタックインしたズボンを履いた彼女は
大会やレースに出場するたびに観衆を魅了していきます。

航空ショーに参加するかたわら、彼女は一連の記事で自分の冒険を語り、
一方で民間航空の経済的可能性を熱心に宣伝し、
飛行が女性にとって理想的なスポーツであることを宣伝するなど、
ジャーナリストとしての使命にも燃えていました。

1911年、世界的な名声と富を目標に、クインビーは
女性では初めてとなる英仏海峡横断に挑戦しました。

濃霧の中、ブレリオ単葉機でドーバーからカレーへの飛行を開始した彼女は
「前がまったく見えず、下の水面も見えず・・・
私にできることはただひとつ、コンパスを見続け」

て、無事に海峡を渡ることに成功したのです。

しかし、彼女は不運でした。

この二日前にタイタニック号が沈没したため、
本来大々的に報道されるべき彼女の偉業は新聞の一面を飾れなかったのです。

■墜落死

彼女は現在でも当時の最も有名な女流飛行家とされていますが、
飛行家として活動したのは、わずか一年でした。

英仏海峡横断成功を世間から無視されて、失意の中、
それでも飛び続けた彼女は、1912年7月1日、
海峡横断から3ヵ月も経たないうちに、悲劇的な最後を迎えるのです。

それはボストン湾で行われた航空大会での事故でした。

70馬力の新しいブレリオ単葉機で飛行していた彼女は、
非常に危険なアウトサイドループ(バント)を完了しようとして
ミスにより機首を下げてしまい、操縦不能に陥ります。

3の部分で失速

このとき同乗者が機外に放出されたため、機首はさらに下がり、
明らかに緩い安全ハーネスを付けていたハリエットも放り出されました。

ハリエットと同乗者は300メートルの高さから墜落し、
ボストン湾の浅瀬に落下してどちらも即死でした。

救出されるクインビー

皮肉なことに、乗員を失った無人の機体はその後水平になり、
ほぼ完璧な無操縦着陸で地上に戻ったといいます。


Harriet Quimby: Pioneer aviator tragically killed.

「フィアレス」は、ドン・ダーラー著のクインビーの伝記のタイトルです。

生前、彼女は色褪せない不滅の存在になることを望んでいましたが、
その短い生涯で、「恐れを知らず」成し遂げた数々の功績により、
それは実現したといってもいいでしょう。



「リトルロック」最後の航海〜USS「リトルロック」

2025-02-11 | 軍艦

バッファローネイバルパークのUSS「リトルロック」内展示から、
彼女自身のヒストリーを紹介しているコーナーです。

■ 第六艦隊旗艦

A DAY IN THE LIFE
ある日の一コマ
「The Rock」の上での日常生活について、私たちに教えてください。

このように書かれたパネルがありました。



これはまさにその「リトルロック」=ザ・ロックのある1日の一コマです。
UNREP、アンダーウェイ・レプレニシュメント=補給作業を行っています。

今日は、1961年以降の「リトルロック」の歴史についてです。

1961年2月9日にフィラデルフィアを出港した「リトルロック」は、
6ヶ月間、北大西洋条約機構(NATO)軍と第6艦隊の両方と行動を共にした。

1962年から1965年にかけては、第六艦隊の一員として、
条約兵器と核兵器の二重戦力として、地中海方面に定期的に巡航した。


第2艦隊の旗艦として東海岸やカリブ海での作戦に参加したほか、
北ヨーロッパ沖でNATO部隊の任務に就いた。
1966年には、オーバーホールと乗組員の再訓練が行われた。

リトルロックは、1967年1月25日に第6艦隊旗艦の任に就き、
イタリアのガエタを母港とし、3年半に及ぶ旗艦としての任務の後、
1970年8月24日に帰港した。




第6艦隊とはなんぞや。

第7艦隊が日本の横須賀に母港を置く駐留艦隊であることはご存知でしょう。

対して第6艦隊は2004年以降ヨーロッパにおける運用部隊を指し、
地中海に進入するすべてのアメリカ海軍艦隊が割り当てられ、
その旗艦はイタリアのガエタに母港を置くことが決まっています。

第6艦隊の発祥は19世紀初頭に遡ります。

アメリカ海軍がバルバリア(バーバリー)海賊と交戦し、
商船の警備を行うようになって以来、
アメリカは地中海に海軍を常駐させるようになりました。

(ここでちょっと豆知識ですが、アメリカが海軍を設立した直接の理由は、
独立戦争後、バルバリア海賊の脅威に対抗するため
でした)

初期の派遣艦隊は「地中海艦隊」と呼ばれていたそうです。
これがのちに「ヨーロッパ艦隊」となり、「第6任務艦隊」となります。

同艦隊は、第一次世界大戦時の艦隊はバルカン半島と中東諸国の平和維持、
第二次世界大戦中はイタリアへの上陸作戦支援などの任に就きました。

戦後、その規模は縮小されましたが、1946年以降、
ソ連の脅威に備えるため、東地中海に戦艦「ミズーリ」が派遣され、
その後、第6艦隊として現在も展開が継続されています。

第6艦隊旗艦を務めるのは歴史的に軽巡洋艦の役目で、「リトルロック」は
1961年、1963年、1964年、1967年、1974年と5回旗艦を務めました。

旗艦の任務期間は6ヶ月〜7ヶ月だったり、3年だったりと、
状況に応じてさまざまでした。

■ タロスミサイル搭載艦


「タロス・ファースト」

海軍と、インディアナ州ベンディックス航空会社のミサイル部門が、
700万ドルの契約で製造したタロス誘導ミサイルは、
海軍の戦略と戦術における革命的な時代の幕開けとなりました。

ギリシャ神話のクレタ島を守る半神にちなんで名付けられたタロスミサイル。

それは、タロスミサイル搭載艦隊、最初の一隻である
USS「ガルベストン」(1958年5月28日就役)の主要武器となりました。

超音速の地対空および地対地ミサイル、タロスは
海軍に長距離、高火力の防空システムをもたらすため設計されましたが、
その開発プログラムは、多くの「初めて」を生み出すことになります。

ジョンズ・ホプキンス大学応用物理学研究所の指揮の下、
「バンブルビー・プログラム」としてその開発が始まりました。

このプログラムにより実現した技術は以下のとおり。

1、
先進のラムジェットエンジン
2、
固体燃料ブースターロケットのサイズ(縮小化)と性能における新記録
3、
ラムジェットエンジンを搭載した完全制御ミサイルの初飛行
4、
短&長距離での正確さを持つデュアル誘導システム搭載の初のミサイル
5、
原子力弾頭の導入における先駆的な取り組み

また、タロスに搭載された4万馬力のラムジェットエンジンによって、
過去、爆撃機が到達可能だった最高度をはるかに上回る機位で、
水平飛行を維持することが可能となったのです。

またラムジェットはロケットよりはるかに「少食」つまり燃料が少なくすみ、
(同じ時間維持するために必要な燃料の6分の1から8分の1)
推力と速度の制御が容易である上にパフォーマンスに優れています。

タロスエンジンのこの多用途性と信頼性は、
誘導ミサイル技術における画期的な成果を実現したのです。

「 高かったIQ」



多用途のタロスは搭載された「頭脳」もたいへん優れていました。

電気機械式の頭脳によって誘導されたタロスミサイルは、
目標の「射程距離」内に入ると、近接信管が弾頭を爆発させました。

タロスは2つの「ブレイン(頭脳)システム」を持ち、その頭脳が
長距離での高火力と高精度という能力を与えていました。

一つ目のシステムは、発射機から目標地点までミサイルを誘導。

発射機から直接受信するビーム型の誘導方式であり、
レーダーから攻撃目標に関する情報を入手してミサイルを誘導します。

これをレーダービームライディング技術といいます。

第2の頭脳は「ホーミング・ブレイン」

これが標的を感知すると、ミサイルの制御は
ビームブレインからホーミングブレインへと自動的に移行します。

ミサイル発射に至るまでの過程を司る神経系である
伝達を行う回路やモジュールは、最新の技術が応用されていました。

この終末誘導段階に搭載されたのがセミアクティブレーダーホーミングです。

実験で飛ばした無人のB-17に向かっていくタロスミサイル

■ ヨーロッパ遠征中のクルーズブック



「クルーズブック」とはアメリカの高校の「イヤーブック」(卒アル)
と似ておりすべての展開が完了した時点で発行されます。

これは、乗組員の遠征中の艦上、あるいは港での日常生活などが、
写真で記録されたアルバムとなっています。

右の1969年6月9日付の艦長からのお手紙にはこんなことが書いてあります。

リトルロックの友人たちへ

前回のファミリーグラム以来、リトルロックはフル稼働のスケジュールで、
地中海とその周辺でさらに多くのマイルを記録しました。

5月の最初の1週間は、私たちの母港であるガエタで過ごしました。

そこは天候が良く、本格的な夏が到来したことを実感するように
シーズン最初の観光客がやってきたものです。

旗艦では日光浴の時間を設けたので、甲板作業中だけでなく、
誰もが太陽を満喫することができました。

「リトルロック」は5月12日にガエタを出発し、一泊停泊後に
イタリアのベニスでの公式の訪問を行いました。
これは私たちが通常予定している公式訪問より少し長い期間でした。

この港は水深が浅く、我々の艦が寄港するには懸念も多かったのですが、
現地のタグボートの助けを借りて係留することができ、
ベニスに寄港する久しぶりのアメリカの軍艦になれたことを誇りに思いました。

サンマルコ広場からわずか200ヤードのブイに停泊した我々の艦は、
滞在中、それ自体が観光名所となってアメリカ人だけでなく、
ヴェネチア観光に来ていた多くのヨーロッパ人に、
地中海におけるアメリカの存在感を印象的に示していたと思います。

ヴェネツィアでは5回以上のツァーが催され、
それは主要な名所のほとんどを網羅していました。

現地では、昨年現役訓練で乗艦したアメリカ海軍予備隊の少佐が、
(彼はヴェネツィアの美術、歴史、建築の専門家でもある)
ツァーのうち2回を手配してくれ、そのツァーで、我々は歴史的な教会、
ティントレットの絵画が展示されている「スコラ・グランデ」、
そして美しいドゥカーレ宮殿などを見学しました。


さすが最初に「友人へ」と書いてあるくらいで、
艦長からの手紙というより、イヤーブックのアルバム委員みたいな文です。

平和な時代のヨーロッパ遠征は、彼らにとって「観光」気分だったんですね。





タロスミサイル搭載艦「リトルロック」は、1973年8月から1979年9月まで、
6艦隊の旗艦として再び地中海に配備されました。

1973年にはチュニジアの洪水被害者を救助し、
1975年のスエズ運河再開通の際には最初の輸送船団の一員となり、
1976年のレバノン危機の際にはベイルートの避難を支援し、
1976年11月22日にフィラデルフィア海軍造船所で退役しました。

■ 退役



ウォレットサイズの退役証明書です。
USS「リトルロック」の退役を記念して、
対象となる乗組員全員にカードが発行されました。

これは協会会員のジョージ・ヒューム氏から寄贈されたもので、
カードには次のように書かれています。

200年退役乗組員

今こそ耳を傾けよ:

SNジョージ・ヒューム

USS「リトルロック」CG4の艦上で、バージニア州ヨークタウンから
ペンシルベニア州フィラデルフィアへの最後の巡航任務に従事した
ジョージ・ヒューム二等兵曹は、
この誇り高き艦を無事に母港に帰還させた功績を称えられ、
ここに証明書を授与されました。

ウィリアム・R・マーティンUSS「リトルロック」艦長


写真は最後の航海で登舷礼を行う「リトルロック」。
英語では登舷礼をManning the railといいます。

そして、冒頭の写真は、登舷礼で岸壁を離れる瞬間。
軍楽隊の演奏と、正装した少女に見守られて、彼女は最後の航海に出ます。

続く。









「誇り高き親善大使」〜USS「リトルロック」ヒストリー

2025-02-08 | 軍艦

バッファローネイバルパークに展示されているUSS「リトルロック」、
今日はその展示から、「リトルロック」の歴史写真をご紹介します。

写真はいずれも艦内に展示されていたものになります。

■ 建造



クランプ造船で建造中の「リトルロック」。
「リトルロック」がレイドダウンしたのは、1943年3月6日でした。
この写真は、起工から十か月後、半年後に進水式を予定してた頃です。

同時に「オクラホマシティ」CL-91、「マイアミ」CL-89、
「アストリア」CL-90が建造されていました。


人間の運命がそれぞれであるように、同じ軍艦として生まれても、
ちょっとの違いで運の良し悪しが確実ににあります。

たとえば、上写真の「マイアミ」「オクラホマシティ」は
「リトルロック」と同じドックで工事が行われているわけですが、
半年早く完成することによって、太平洋での激戦に投入されていますし、
同じく、サボ沖で撃沈された先代の名を継いだ「アストリア」は、
「リトルロック」より一か月だけ早く就役してやはり戦闘を経験し、
生還こそしましたが、日本近海で、あのコブラ台風にも遭遇しています。

■巡洋艦として就役

「リトルロック」が就役したのは1945年6月17日、終戦の二か月前。

軍上層部はおそらく戦争の終結が近いことを知っていたかもしれませんが、
もちろん現場ではそんなこととは関係なく、「リトルロック」もまた、
就役一か月後には粛々とシェイクダウン、習熟航海に向かいました。



訓練はその後投入されるであろう太平洋での実戦を想定していたでしょう。
ところが、キューバ沖のグアンタナモで訓練中、戦争は終わりました。




その後大西洋岸での訓練とフィラデルフィアでの調整を経て、
「リトルロック」は五か月かけて南米19の港を巡航しました。

そして翌年はヨーロッパ大陸三か月のクルーズ、カリブ海での演習、
そして2回二次にわたる地中海クルーズを行っています。

「リトルロック」ホームページに掲載されたこれらの巡航の写真を見る限り、
士官から兵に至るまで、総員の現地での様子は穏やかで幸せそうで、
このクルーズをあたかも観光旅行のように楽しんでいる様子が窺えます。


上の写真は1946年2月1日、南米クルーズでチリのバルパライソ、
ピアサイドを航行する「リトルロック」です。



この油彩は、説明がなかったので詳細は分かりませんが、
この期間巡航で訪れた外国の都市での「リトルロック」と思われます。



1947年2月26日、オーバーホール中の「リトルロック」、
ブルックリンのニューヨーク海軍造船所にて。

このとき、艦体の塗装が海軍の塗装番号「Measure22」から、
一般的なオールグレーの塗装に変更されたとされます。
(それまでの写真と比べると明るい色に見える)

戦時モードから平時モードに塗装し直したということでしょうか。




マサチューセッツのケープコッド運河を通過する「リトルロック」。

我が家がボストン在住時、ケープコッドには何度か車で行きましたが、
力こぶを突き出したような半島の先、プロヴィンスタウンに行くためには、
必ず半島の根元にあるこの人口の運河を渡らねばなりません。

その際、写真にあるサガモア・ブリッジを車で通過することになります。

この写真は1949年に撮られたもので、キャプションには

オリジナルのコミッショニングである『ライトクルーザー』、
CL-92として最後の姿であり、彼女の艦体に書かれた92という数字は、
この後スモールナンバー「4」に変わることになる。

その艦体は第二次世界大戦中はより近代的で、識別が容易であった。

彼女はその艦歴の中で、一度として「怒りの砲撃」を行ったことがない。

ただ、親善大使として活躍し、”C L"(1944-1949)から
”CLG / CG"(1960-1976)の生まれ変わりの旅を通して、
アメリカ合衆国の代表として誇り高くその任務を終えた。

と、(かなり曲訳しましたが)なかなか感動的な文章で紹介されています。


LC-92「リトルロック」は1949年6月に退役し、その後は
ニューヨークのアトランティック予備艦隊に編入されることになります。


退役が決まって、CL-92を記念するプラーク(記念盤)が製作されました。

1945年から1949年までに「リトルロック」艦長に就任した、
6名の司令官の名前が在任機関とともに刻まれています。


こちらはCL-92のプラーク。


こちらはまだ退役まで2年を残す1947年のダンスパーティ写真です。
会場となったニューヨークのホテル・デルモニコは現在も存在します。

調べてみたら、今や大統領のドナルド・トランプが、
2002年に1億1,500万ドルで買っていたことがわかりました。

ホテル・デルモニコの歴史


いやー、どうでもいいけど、トランプってマジ金持ち。
この人とマスクがいるって、史上最も買収が効かない政権じゃないか?


それはどうでもいいですが、写真の一部を拡大してみました。
うーん、皆ハッピーそうで微笑まC。



新婚カップルらしき二人の姿が目立ちますね。
今は彼らの孫世代がリタイアし、ひ孫世代が社会の中心を担っています。

彼らがその後幸せな人生を歩んでいることを祈ります。

■ ミサイル搭載軽巡洋艦への転身



USSリトルロック、ニュージャージー州カムデンにて
1959年12月19日

「リトルロック」は、再就役のため、ニュージャージー州カムデンの
ニューヨーク造船所で誘導ミサイル艦に生まれ変わりました。


換装を行う造船所名、工事期間などが刻まれたプラーク。




同じ12月19日、傾斜実験中の「リトルロック」。

傾斜実験とは、船舶の重心の上下期ちを測定するためのもので、
肝斑状の重量物を横報告に移動した時の傾斜から算出します。


換装工事中の「リトルロック」。
夜間でも照明が煌々と照らしています。







いずれも換装後の就役前公試実験中です。



タロスミサイルの発射実験。


公試を終えて、「リトルロック」は新たに
誘導ミサイル巡洋艦として再就役をすることになりました。

これは、生まれ変わって新たに再就役する「リトルロック」の門出を祝う、
就役式(日本だと引渡式)への招待状です。


続く。



進水式と風の神ボレアス・レックスの認証〜USS「リトルロック」

2025-02-05 | 軍艦

バッファローネイバルパークに展示されている、
USS「リトルロック」内の海軍資料をご紹介しています。



ここで、シリーズ最初に一度紹介している、

「ブルーノーズ勲章
The Order of The Blue Nose」


の正式な認定書らしいものがまたしても登場しました。
ただし、こちらは1962年に北極圏通過したことを示すもので、
「リトルロック」にとっては2度目のブルーノーズオーダーとなります。

繰り返しになりますがもう一度説明すると、ブルーノーズオーダーは、
北極圏を本艦が通過したことを証明する公式の証明書です。


「リトルロック」艦首のリーダーは、ブルーノーズ受賞艦として、
このように青くペイントされていることも以前お話ししましたね。

これは艦「リトルロック」に対して与えられたものですが、
その時その時に勤務していた乗組員全員にも、この証明として
「ブルーノーズカード」は与えられました。



CL92(軽巡洋艦)だった頃の1946年のブルーノーズメンバーシップ。
持ち主のジェームズ・ホールはRDM3つまり3等レーダーマン、
レイティングで言うとE-4となります。
これを認定する士官は当時の「リトルロック」艦長です。



CLG(ミサイル巡洋艦)となった「リトルロック」が、
1965年9月29日に北極圏に達したとき乗務していた
R・W・ピーターソンに対して与えられたブルーノーズ証明書です。

この証明書は、

Boreas Rex
Ruler of the North Wind

から送られたということになっています。
ボレアス王は強大な北風の王として、彼の兄弟たちに、

タイタンに北風を、
エウロスに東風を、
ゼピュロスに西風を、
ノトスに南風を、

それぞれ恒久的に繰る権力を与えました。

彼はノースポール(北極)を支配しており、故に、
ここに到達した人間にもその証明を与える権限を持っているのです。


3回目となる1972年、北極到達で発行された証明書は、
C・H・ケンジンガー 三等兵曹
Petty Officer Third Class (PO3)

が取得した北極点到達の証です。

これによって、すべての男性に、そして、
すべてのセイウチ、ハスキー、キツネ、オオカミ、ホッキョクグマ、
クジラ、テン、トナカイ、カリブー、そして、
北極圏の凍てついた荒れ地に生息するそ
の他のすべての生き物たちに知らしめる

PN-3C.H. Kensingerは、北極圏を横断することで
世界の頂点への入り口を開くことになろう

さらに理解されるべきである:
それは、USSリトルロック(CLG4)という良き船に乗り込み、
つらら、ブリザード、ウィリワウ Williwaw、
(=海岸沿いの山から海に向かって吹き降ろす突風、颪)
そして無数の雪片の土地に入った
1972年9月14日、北風の支配者であり、
凍てつく領域のすべてを統べるボレアス・レックスは、
この地を真の信頼できる氷と塩水のブルーノーズである
私の王家の領土であると宣言する

ここに宣言する

私に与えられた権限により、私はここに、我が臣民すべてに命ずる
彼がどこにいようとも、彼に敬意と尊厳を示すことを

この命令に背く者は、王家の不興を買うことを覚悟せよ

そして、左からボレアス・レックス、「リトルロック」艦長、
第二艦隊&北極打撃艦隊司令官のサインがあります。
右上に描かれているのが、おそらくボレアス・レックスでしょう。

「リトルロック」はこうやって3回ブルーノーズの証明を得ましたが、
後になるほどその証明書の仕様が凝っていっています。

■ USS「リトルロック」の誕生


進水式から始まる「リトルロック」の写真が展示されているコーナーです。

「リトルロック」C L-92は、1942年3月6日、フィラデルフィアの
クランプ・シップビルディング・カンパニーで起工されました。



この造船所で建造された他の艦としては「オクラホマシティ」があります。

進水式は1944年8月27日、リトルロック市会議員夫人、
ルース・ワッセルをスポンサーとして行われています。


1945年6月17日、ウィリアム・ミラー大佐(壇上)を艦長として
コミッショニング・セレモニー(就役)が行われました。

日本の降伏によって戦争が終結する二ヶ月までのことです。
「リトルロック」は習熟訓練の最中に終戦の知らせを受けました。


就役式の招待状。

末尾のR.S.V.Pは、フランス語で「Repondez s'il vous plait.」の略で、
出欠に対して「ご返答お願いいたします」 という意味です。



1945年7月アンダーウェイに向かう「リトルロック」。
物資、弾薬、航空機、燃料が積まれているので喫水線が低くなっています。


1945年9月、艦尾側からの空撮。

■ 航海用ツール


実際に「リトルロック」で仕様されていた各種用具です。




立派な木製の持ち運び用取手付き六分儀、セクスタント

六分儀は天測をして天体と地平線の間の角度を測定することで
航海の際現在位置を知ることができるツールです。

なぜ「六分」なのかというと、枠の角度が60度だからで、
歴史上、同様のツールとしては八分儀というのも存在しました。

こちらは、測定できる角度が小さいため、廃れて六分儀に移行しました。

この六分儀は、1946年から1949年まで「リトルロック」勤務であった、

Allan Yoder FC2/C

が寄付をした、と書かれています。
名前の後のFC2は、

Fire Controlman Petty Officer 2nd class

であり、/の後のCは「カーペンター」であるらしいので、
彼は消防とビルダーのレイティングを持つ下士官ということになりますが、
六分儀のケースには、

Capt. Allan L. Yoder
USCG


と記されていて、この人、沿岸警備隊にいたの?
しかもキャプテンとは?と色々謎です。

珍しい苗字なので検索したら、お葬式の通知などと共に、2007年、
「リトルロック」のオーラルヒストリーのページが見つかりました。

それによると、ヨーダー氏は高校卒業後海軍に新兵として入隊し、
最初に赴任したのが「リトルロック」で、海軍にいたのは3年。
そのあいだ操舵手を務めていたということです。(本人談)

沿岸警備隊のキャプテン、というのは、退役後に取った多くの
船舶関係の資格の中に、「沿岸警備隊の船長資格」があったという意味です。

退役後には海洋関係の調査がありましたが、
そのとき手がけた多くの機密プロジェクトには、
当時極秘扱いだったトム・クランシーの小説
『レッドオクトーバーを追え!』のネタ
になったものもあるそうです。

それってかなり自慢できないか?


こちらもヨーダー氏寄贈によるシップマスター クロノメーター

一般的にはマリン・クロノメーターといい、
天体航法によって船舶の位置を決定するための使用される精密時計です。

かつては、船舶用クロノメーターは人類史上最も正確な
携帯型機械式時計として、海洋国家はその開発に多額の投資を行いましたが、
1990年代に衛星航法システム(GNSS)が登場しました。

しかし、現代でも航海士には従来の天体航法に熟練していることが求められ、
現場でも、使いうる様々な方法を組み合わせて航法を行います。

最先端の方法で行えば、六分儀での天測をわずか数分に短縮できますが、
故障する可能性のある電子システムだけに頼らずに、
複数の独立した位置測定方法を知っていることによって、
航海士は最悪の事態が起こってもそれを回避することができるのです。


展示物の中に「私はなんでしょう」というクイズがありました。
質問しておいて、どこにも答えがないんだなこれが。

というわけで、これはなんでしょうか。
お札を挟むクリップ?
(その心は、乗員は財布を持てないから)


私はなんでしょうシリーズその2。
うーん・・・全く想像すらつかん。
何かと何かを連結するものであるらしいけど・・・。


「リトルロック」で実際に仕様されていた舵輪です。



「スタンダードイシュー」(標準)舵輪はパイロットハウスに装備されます。

どの装備が搭載され、使用されるかについては、
指揮官が最終決定権を持っており、一部の艦船では「伝統的な操舵輪」
(ここに展示されているもの)が選ばれましたが、
もちろんそうでない艦船もあったということです。

いずれにしても、展示されている舵輪は、風と帆だけで船が推進されていた
海軍の過去から受け継がれてきた遺産の象徴でもあります。

ところで、この説明を読んで、一部の艦長が選んだ「伝統的」でない舵輪とは
どんなものだったのか、気になって調べてみたのですが、

まさかこれのこと?


もう一つついでに、wikiにあった舵輪の動力伝達の仕組み。


ところで、舵輪の右下に日本の無条件降伏の調印式が「ミズーリ」で行われ、
ちょうどマッカーサーの前で重光葵がサインをしている写真がありますね。
(画面右にいるのは外相秘書だったオノヨーコのおじ加瀬俊一)

写真に添えられた説明は、

1948年9月2日、
東京湾の戦闘艦USSミズーリ(BB-63)に乗船した大日本帝国代表団が、
連合国代表の面前で降伏文書に署名。
ダグラス・マッカーサー陸軍元帥の 
「これらの手続きは終了した 」という言葉とともに、
第二次世界大戦はついに正式に終結した。

その通りなんですが、そもそもこれここにある意味が全くわかりません。


展示と展示の間に、実際の鑑の装備が現れました。
コントロールステーションとあります。

左下はバルブの操作方法ですが、三つのバルブに書かれた文字が、

F.M.CROSS
CONN. OUT-OUT

F.M.
OUT-OUT

FS 78
SUCTION


となっていて、おそらくこれはどこに通じているかを表します。

真ん中の説明から、これらが燃料関係のバルブであり、
燃料は常に総量を監視され適切が保たれていたことがわかります。

燃料消費ログ

このフォームは、USS「リトルロック」(CL-92)の
各燃料タンクに搭載された燃料の総量を追跡するために使用されました。

これは船の運航にとって非常に重要であり、蒸気船としての目的だけでなく、
船を水平に保つ「トリミング」のためにも必要でした。

燃料レベルが適切に維持されていることを確認するため、
1日中定期的に燃料レベルの測定が行われました。

また、船内の燃料総量は70万ガロンを超えていました。

「リトルロック」のヒストリーをたどる展示、もう少し続きます。


続く。



映画「ザ・ダイバー」Men of Honor 後編

2025-02-01 | 映画
実在したアフリカ系の海軍ダイバー、
カール・ブラシア上級曹長(最終)の伝記映画、
「ザ・ダイバー(メン・オブ・オナー)」の続きです。

カール・ブラシア

ブラシアを演じたキューバ・グッディングJr.は、この翌年あの世紀の怪作、
「パール・ハーバー」に出演して、やはり実物のドリス・ミラー曹長を演じ、
「出演者の中で一番演技がまともだった」と言われることになります。

当作品でも2000年度の最優秀俳優賞にノミネートされましたが、
この頃は若かったのでまだそれほど有名ではなく、
だからこそロバート・デ・ニーロを無理やり投入したのでしょう。

大俳優の威光が生む一種のケミストリーが本作品を底上げした感はあります。

ただ、残念なことにデニーロの演じる架空の人物、サンデー曹長、
この人の「やりすぎ感」が何かと前面に出過ぎだと思いました。

最初は人種差別的嫌悪から黒人部下を排斥しようとした上官が、
途中からは自らを犠牲にしてまで積極的に彼を支えるというのは
映画にはありがちな展開なのですが、ありがちすぎて陳腐ですらあり、
この極端な行動を無理やりデニーロ一人に詰め込んだ結果、
彼の人物像は奇怪なものとなり(デニーロの演技はそれでもさすがですが)
よくわからないメンヘラ妻の存在とともに、本来称えられるべき
カール・ブラシアの実際の人生を霞ませることになっています。

蛇足ついでに、わたしが本作の演出で許せなかったのは、
ブラシアが潜水学校の宿舎に入ると、白人学生が全員バラックから出てゆき、
残ったのがウィスコンシン州出身の白人だったという設定でした。

ブラシアともう一人の学生が宿舎に二人きりになったというのは実話ですが、
一人残った学生は白人ではなく、ブラジル系でした。

ブラジル系も白人にとっては「カラード」です。
ブラシア以外に潜水学校にいたカラードを登場させると、
ブラシアの苦難が強調できないと考えた結果かもしれません。


奇怪な人物といえば、潜水学校の司令官である「ミスター・パピー」
というあだ名の大佐は、いわば「ブラシアの絶対的な敵」として登場します。

「ワシントンに行くはずが、ネジの緩んだスチュードベイカー
(アメリカの車)であることがバレてここに飛ばされた」


という噂のあるこの大佐、これがいつも司令塔の上から見張ってるんだよ。
なぜ「いつもか」というと、司令塔に住んでるから。

飼っている犬を部下に散歩させ、ロープをつけたバケツで上まで引き揚げる。
部屋では真っ赤なガウンを着込んで何故かクリスタルグラスを磨いている。

この、いろんな意味でやばい気しかしない老人が、サンデーを呼びつけ、

「自分がここにいる間は黒人のダイバーは出さん」

と念を押しました。



それを受けてサンデー曹長は、ブラシアに
明日の最終試験には司令の命令で合格できないから休めと言いにきます。

入所時、嫌がらせの貼り紙をしたのも実は彼でした。

怒ったブラシアは、あなたは過去の栄光にすがっているだけ、
と、思わずサンデーの痛いところを突いてしまい、
激昂したサンデーに、父からもらったラジオを叩き割られてしまいます。



翌日の試験は、水底にある部品を拾って鉄管を水中で組み立てるというもの。
空気は送られますが、水温は低く、過酷な環境です。



説明が終わった時、休めと言ったはずのブラシアが現れました。
登場シーンが何故かスローモーションです。

来てしまった者を参加させないわけにもいきません。



全員が同時に入水して試験が開始されました。

課題は、水中で部品を組み立て、できたらそれを引き揚げさせること。
受験者が水底で部品と探照灯を発見したら、
工具袋をリクエストし、桟橋から投下されることになっています。



ブラシアは一番に部品を見つけたと連絡してきましたが、
マスターチーフは、監視塔から司令が目配せしたのを見て、
ブラシアの工具袋をテンダーに切り裂かせ、一番最後に投下させました。

やっと受け取った工具袋から、工具はほとんど流出しています。
それに気づき絶望するブラシア。



1時間37分でロークが一番に組み立てを終わり訓練を完了、
程なく二人目、と次々に上がってきました。

しかしブラシアはこの時点でまだ工具をかき集めています。



4時間で終了した者は、寒さで顔色が変わり、肩で息をしています。
水の中は身を切られるような冷たさだと彼は報告します。



ブラシアが上がってこないまま、夜になってしまいました。



彼の同僚たちも桟橋に集まってきます。



そしてなぜかブラシアの妻まで・・。
この人が潜水学校内に入ってくるのはまず不可能なはずですが。
しかも、彼女は誰から聞いてこの事態を知ったの?



その頃、水中でブラシアはガタガタ震える手で組み立てを試みていました。
平常ならばすぐできることが、凍えていてうまくいきません。



その時司令塔のパピー(笑)から電話がかかってきました。

「奴が動きを止めるまで引き揚げるな」

それはつまり死ぬまで放置しろって意味でよろしいでしょうか。



マスターチーフは司令を無視して、もう諦めて上がってこいと説得します。
それに対するブラシアの返事は、

”My name is... Boatswain's Mate.. Second Class C, C, Carl Brasier.
I am a Navy diver. "

うーん、実に感動的なシーンだ。
感動的だが、なんだろうこの気恥ずかしさは。

この返事が正常な状態から発せられたのではないと判断したんでしょう。
ちらっと司令塔の上を見やったマスターチーフ・サンデーは、

「引き揚げろ」

この命令を受けて真っ先に駆け出したのは、あのローク兵曹でした。


「やめないとクビにするぞ!」

目を血走らせてそれを阻止しようとする司令。
(だから字幕、マスターチーフは特務曹長じゃないっつーの)

しかし誰一人としてこのおっさんの命令に耳を貸さず動き出しました。
いくら相手が黒人でも、さすがにこれはやりすぎってやつです。



ブラシアを引き上げようと皆が位置についたときです。
水中から組み立てられた管が上下られてきました。
ブラシアは課題を完成していたのです。



さっきまで自分を白い目で見ていたはずの同僚が、
引き揚げに手を差し伸べ、口々に声をかけてきます。

ロークによってヘルメットを外されたブラシアは、
ガチガチと音を立てて震えていました。

そのとき・・・。



「二等掌帆長カール・ブラシア、9時間31分、組み立て完了」



ブラシアは半年間の訓練過程を終了し、学校を卒業しました。
卒業の日、潜水学校に復帰したスノウヒルから、サンデーが司令に睨まれ、
降格させられて潜水学校を首になったことを聞かされます。



複雑な気持ちのブラシアが見つけたものは、
サンデーが激昂して叩きつけた父親のラジオ。
それはすっかり修復されて音も出るようになっていました。

そして、修復前は彫り込まれていた『ASNF』の文字の下に、新たに

「A SON NEVER FORGETS」(忘れられぬ息子)

という言葉が付け加えられていたのです。


そしてそれから何年か経ったあるニューイヤーズ・イブ。

ただでさえ年齢のわかりにくいアフリカ系で、さらに実際に若いキューバが
髭を蓄えただけなので最初は全く経年を感じませんが、実はこの間、
ブラシアはサルベージダイバーの試験に失敗して一度潜水資格を失い、
努力して再び二等潜水士の資格を取り直すという苦難を経ていました。

「ミスターネイビー」というあだ名で呼ばれていたブラシアは、
アイゼンハワー大統領のヨットの警護チームに参加、
戦艦「アリゾナ」の海中調査と遺骨の調査、記念碑の建造に携わり、
潜水脱出装置「スタンキーフード」の開発者スタインケ(Steinke)中尉の下で、
このフードを着用した初めてのダイバーにもなっています。

というわけで、この時点では妻から妊娠を告げられ、超ハッピー。



そして同日、こちらは海軍主催のニューイヤーズイブパーティ。



「ホイスト」の副長だったハンクス少佐が機嫌よくテーブルを囲んでいると、
後ろから無礼にも肩を突っつく下士官、サンデーの姿が。

「Auld Lang Syne and all.」

ご存知のように「オールド・ラング・サイン」は
(日本語では『蛍の光』)「久しき昔」という意味があります。

「全くお久しぶりね、ってやつですな」

って感じかな。

自分を降格させた少佐に嫌味を言い、美人の妻を見せびらかして悔しがらせ、
さてこれで気が済んだのかと思ったら、


次の瞬間ブチギレて相手に飛びかかりました。
まあ、酒癖悪いってやつですわ。

士官と下士官が同じ会場でパーティをしているという状況も不思議ですが、
(同じ艦でもない)降格された恨みで上官を殴る下士官って実在するのかな。

しかも彼は2回降格されていて、もし恨みを持つなら、ハンクスよりは
潜水学校教官をクビにした司令の方じゃないかと思うんですが。


彼は上官暴行罪で二等曹長に降格、半年の減給と2ヶ月の謹慎に処されます。
なんと、三度目の降格なのにまだアウトじゃないんだ・・。

と思ったら、更なる衝撃が。



ここで場面は映画冒頭の裁判所待合室に戻るわけですが、


これ、上官暴行事件の怪我じゃないんですよ。全くの別件。

AWOL(Absent Without Leave、無断外出)をやらかして、
海兵隊に殴られ、殴り返したので処分を待っている状態でした。


この事故は、1966年1月17日に起こりました。

スペイン沖で爆弾の回収作業に投入されたのはUSS「ホイスト」。
そう、ブラシアが最初にコックとして勤務した艦です。
実在の「ホイスト」はサルベージ艦なので、ダイバーが常駐しています。

ちなみにこのとき衝突したのは、

B-52Gストラトフォートレスと、

KC-135Aストラトタンカーでした。

この事案はアメリカ軍の決めるところの「ブロークン・アロー」案件、
=核兵器事故として最優先で対策が行われることになっていました。


そして驚いてはいけない、「ホイスト」の艦長はまだプルマンでした。
現在35歳のブラシアが海軍で最初に配属された17年前も艦長だった人です。

海中のブラシアに、

「なんとか爆弾を見つけて、私を死ぬまでに提督にしてくれ」

なんて言ってますが、17年前に大佐なら、なれるものなら
もうとっくに提督になって退役しているはずです。

これを「火垂るの墓『摩耶』艦長在任長すぎ現象」と(わたしは)呼びます。


「何か金属片が・・・コークの缶でした」

「拾ってこい、チーフ。海は綺麗にな」

などと和気藹々と捜索中、警報音が鳴り出しました。
艦長はすぐさま潜水艦、しかもソ連のであることを推測します。

核戦略機の事故と海中の爆弾はニュースになっていましたから、
それを受けてソ連側が何か行動を起こしても全く不思議ではありません。


しかし艦長の呼びかけにブラシアは答えている場合ではありませんでした。
迫り来る潜水艦から逃げるため海底を走って(歩いて)いたのです。
しかしこれ、徒歩で逃げてもあまり意味なくないかなあ。

案の定、フィンがケーブルを引っ掛け、彼は潜水艦に引っ張られますが、
ケーブルは切れる前に無事艦体から離れ、迫り来るスクリューからも逃れ、
ブラシアは無事に海底に叩きつけられました。



しかも、解放し倒れ込んだその場所に彼は例のブツを見つけたのでした。

水爆は実際には事故から80日後、深海探査艇「アルビン」が発見、
「ホイスト」によって潜水艦救難艦「ペトレル」に引き揚げられました。



爆弾の回収に貢献した功績で、ブラシアはのちに勲章を与えられています。

そして、この作業中、あの運命的な事故が起こるのです。
wikiより、このときの事故状況を書き出してみると、

1966年3月23日の爆弾回収作業中、吊り上げケーブルが切れ、
USS「ホイスト」の甲板上でパイプが激しく跳ねた。

ブラシアはそこにいた乗員を突き飛ばして救ったが、その結果、
左足の膝下に切れたケーブルが直撃し、その組織を破壊した。
衝撃で彼の体は宙に飛び、甲板から投げ出されそうになっている。



すぐさま病院に搬送されたが、持続的な感染症と壊死に悩まされ、
最終的に左下肢を切断することになった。



サンデー曹長がカールの事故のことを知ったのは、
サンデーがアル中のリハビリ施設で妻に愛想を尽かされかけているときでした。


入院中のブラシアのもとに送人不明の冊子が送られてきました。
片足を戦闘で失いつつ義足で現役復帰している搭乗員を扱った記事を読み、
ブラシアはダイバーに復帰の決心を固めます。



その希望を上層部に訴えるも、ペンタゴンの人事製作委員会の委員になり
今や大佐に昇進して得意の絶頂のハンクスが現れてダメ出ししてきます。
この海軍同じ人物との遭遇率高すぎ。

ブラシアはそれに対し、

「怪我した脚を切断して義足にし、リハビリして復帰を果たします。
12週間後の判定会議で現役が可能であることを証明しますから、
その時には私をマスターチーフにしてください」



嫁はもちろん猛反対。

息子の存在を盾に退役を迫ってきますが、彼の決心は揺るがず、
ついに部屋を立ち去ってしまいました。

そしてブラシアは、自分の意思で脚を切断し、義足を装着しました。
(というのは映画の創作で、実際は壊死で切断するしかなかった)


ブラシアの装着した義足

実際のブラシアのトレーニングシーンをどうぞ。



ブラシアはその間、潜水学校で陸上訓練の指導をしていたそうですが、
学生たちは当初誰も彼が義足であることに気が付かなかったそうです。

ランニングの後、義足に血溜まりができていることがあっても、
彼はそれを知られないように、病院に行かず、人目につかないように
塩を入れたバケツに脚を浸して苦痛を我慢していました。


マーク5潜水服をつけて訓練用プールから上がるブラシア。

この時、彼はノーフォークの潜水学校の主任となっていた
かつての同級生に頼み込み、そこで訓練させてもらっていました。

同級生は今や特務士官として学校を率いていたのですが、
彼のキャリアに影響を与えるかもしれないこの申し出を、
快諾とは言わないまでも、引き受けて許可しています。



映画に戻りましょう。

思うようにいかないトレーニングに苛立つブラシアのもとに、
ふらりとコーンパイプを咥えたサンデー曹長がやってきます。

「やあ、もう切断しちまったか、クッキー」

クッキーというのは最初からのサンデーが使うブラシアへの呼び名で、
これは彼が最初キッチンのコックだったことからきています。

それにしてもこの男、あれだけやらかしてまだ海軍にいられるのが不思議。



しかも、ハンクスが判定会議でブラシアを失格にし追い出す気だ、
と、どこからともなく情報をゲットしてきて、さらには
留まるためにはワシントンの海軍人事を動かせ、と知恵をつけるのです。



彼の入れ知恵で、メディアに情報を流して世間の注目を集めた上で、
「英雄」ブラシア曹長は公平に人事局長を加えた聴聞会で評価されるべきだ、
という世論形成を行い、内々に処分しようとする企みを打ち砕きます。

このとき、彼はハンクスに長年の恨みから嫌味を言うのを忘れません。

「脚を失ったおかげで、彼は英雄です。”サー”」

どうして三度降格された一介の曹長が上層部を動かせるのか謎ですが、
それはやはり彼がロバート・デ・ニーロだからに違いありません。


「だがブラシアが失格したら君もやめろ」

そんな人事、大佐でも自分勝手に決定できないぞ?



その日から訓練は二人三脚になりました。
この映画のような(映画だが)訓練風景をご覧ください。

それにしてもサンデー曹長の現在の所属ってどこだろう。
(しょぼい潜水学校、と本人は言っていたけどそんなものあるのか?)


そして聴聞会の日。
海軍裁判所の廊下を颯爽と歩く二人の姿がありました。
このときのキューバとデニーロのオーラがすごい。(歩調も揃ってる)

ちな現在サンデーは二等軍曹(E-6)であり曹長のブラシアより二階級下です。


しかしながら、サンデーは入廷を許されません。


ブラシアの仰々しくすらある敬礼に鼻白んだ風のハンクス大佐は、
室内での敬礼をするのは陸軍だけだ、などと言いますが、

「すみません。しかし私が勤め上げてきた海軍では、
この日の重大さを考えれば、敬礼に値すると考えます」

と即座に言い返し、さらには、

「若いダイバーについていけないだろう」

という大佐に、これも即座に、

「ついていけないと言うのは彼らが私に、ですか?」

医療官の義足では浮上しにくいという意見にも、

「溺れたら海軍軍人らしく頑張ってさっさと死にますよ」

と答えてハンクス以外の全員を味方につけてしまいます。



しかしそのとき、運ばれてきた新型潜水服を見て法廷は静まり返ります。
この130キロの潜水服を着て12歩歩ければ認めよう、とハンクス。

日を改めてと言いかけるハンクスに、ブラシアは今ここでやると宣言します。

ダイバーが130キロの装具で、大理石の床を12歩歩けるのか、
というと、それはもし両足があったとしても現実的には不可能でしょう。



外に締め出されていたサンデー曹長が乱入してきて、
そのテストはここでやるべきではない、と演説し始めます。

ワシントンからきたと言う人事の偉い人が、彼の名前を聞くなり言いました。



「レイテで『セント・ロー』から泳いで脱出した男か。
4分息を止めたとか」

「5分です」

「ほう♡」


おじさんたちすっかり伝説の男サンデー曹長の虜です。
悪い噂は伝わっていないと見えますね。


そして、君の海軍でのビジネスは、とハンクスが言いかけると、

「失礼ですが、私にとって海軍はビジネスではありません。
我が国の最も優れた面を代表する人々の組織です。

我々には多くの伝統があります。
私のキャリアでは、そのほとんどに出会ってきました。
良いものもあれば、そうでないものもある。

しかし、私たちの最も偉大な伝統がなかったら、
私は今日ここにいなかったでしょう。」


「それではなんだと言うのだね、ブラシア曹長」

「名誉です。大佐」


我が意を得たり、と相好崩す壇上のオールドネイビーたち。


「義足で130キロの潜水服で歩くなんて、6歩で失神するぞ」

と今更言われましても。



しかも底意地の悪いハンクス大佐、普通二人に手を貸されて立ち上がるところ
一人で立たせろなどと言い出すではありませんか。
海軍の規定では手を貸すべきところですが、ハンクス大佐ったら、



「今は真鍮ではなく銅だし、改訂されたマニュアルによると、
ダイバーは自力で立てること、となっている」


そしてその書き換えを行なったのは自分だ、と得意げ。
なら仕方ないね。自分で立ちましょう。


渾身の力を振り絞り、立ち上がったブラシアに、
2階級下のサンデーが命令を下しました。

"Navy diver, stand up!
Square that rig and approach the rail."


(ネイビーダイバー起立、索具を確かにレールに向かえ)



そして、ダイバーは歩き出しました。


途中明らかに足の痛みで身体をよろめかせたブラシアに、
ハンクスが中止を命令しようとしますが、
それを提督たちが手で静止します。

9歩目からのサンデー曹長のセリフです。

「ナイン!
ネイビーダイバーは戦闘要員ではなく、サルベージの専門家である。

テン!
水中で失われたものは見つける。
沈没していれば、それを引き上げる。
邪魔なら移動させる。

イレブン!
運がよければ、波の下200フィートで若くして死ぬ。
ネイビー・ダイバーになりたがる奴の気が知れん!

さあ、このラインまで来るんだ、クッキー!」



本気で感動してしまうアドミラルズ。


涙に塗れた顔のブラシアに、ハンクス大佐は宣言せざるをえません。

「アメリカ海軍は誇りのもとに以下宣言する。
シニアチーフ(曹長)、ダイバー、カール・ブラシアの現役復帰を認める」


字幕では一等軍曹となっていますが、それは
「シニア」の付かないCPOを指しますので、間違いです。



「これで辞められる」

とブラシアは言いますが、彼の妻はもうそれは望んでいませんでした。
実際彼がマスターダイバーの資格を取るのはこの後なのです。

事故から4年後、彼はマスターダイバーとなり、その後
海軍に9年間勤務し、1971年、40歳でマスターチーフに昇進しました。

そして、法廷を出る前に(室内で)敬礼するサンデーに


こちらは無帽で敬礼を返してしまうブラシアでした。
まあ、この場合帽子はヘルメットってことになるから無理か。

というわけで当作品、海軍エンタメとしてはなかなか優れていますので、
細かいことが気になりすぎる方でなければ十分に楽しめると思います。
機会があればぜひ。

終わり。