ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ウィンチェスターミステリーハウスの”真実”〜西海岸生活

2023-09-08 | アメリカ

これが最後のアメリカ西海岸からの報告となります。
アメリカでの滞在を終え、先日無事に帰ってまいりました。

そして今、わたし史上初というくらいの酷い時差ボケに苦しんでいます。


今回は羽田着を選んだ関係で、出発が夜中の1時過ぎになりました。
空港到着が10時、出発時刻はもういつもなら寝ている時間です。



暦は9月になっていたので、シートのスクリーンはお月見モード。
水平飛行に入るまで、映画「ホエール」を観ていましたが、
登場してすぐ機内用の寝巻きに着替えて歯磨きも済ませていたので、
シートベルト着用サインが消えると同時に寝る体勢に入りました。



目が覚めると、着陸2時間前。
少し早めでしたが、このとき日本の近くは台風のせいで風が強く、
揺れが予想されるということで早めに朝食をいただきました。



時間は遡って出発前。
最後に、MKの大学寮にあるカフェ&バーで食べてみることにしました。

部屋から下を見ると、ちょうど来年度からの住人の引越し時期で、
そのせいか芝生の真ん中に学校のマークが描かれていました。
芝生に水性ペンキでペイントしてあるそうです。


大学院寮のなかの施設なので、営業は週二日木金のみ。
金夜などは関係者が団体で盛り上がっている様子がよくみられます。



バーにはカウンターも、自動演奏のピアノもあり。
この窓の中にあるのは、音楽に合わせていろんな色を発光する謎のオブジェ。



オーダーは備え付けの画面から行い、横にある受信機をとって待ち、
発信があれば取りにいくというシステム。



バーと言いながら、日本だとランチにするしかないバーガー系のみ。
わたしはMKのおすすめによりフィッシュバーガーにしました。
アボカドとか目玉焼きはオプションで付けられます。



美味しいコーヒーを求めて、最後の週末、
サンタクララ大学の周辺エリアに行ってみました。

VoyagerCraft コーヒーはサンタクララ中心に数店舗展開している、
ローカルな本格コーヒーショップです。



フレーバーコーヒーが売りで、その名前も
「バリ」「バレンシア」「サンティアゴ」「マニラ」
など、それぞれの都市のイメージの味というのが人気。

この日わたしはミルクをオーツに変え、ブラウンシュガーを抜いた
「トーキョー」(エスプレッソ、お好みのミルク、自家製バニラ、
チェリーブロッサムウォーター) を頼んでみました。

MKは「レキシントン」(エスプレッソ、お好みのミルク、
自家製バーボンリダクション、自家製バニラ)です。

■ ウィンチェスター・ミステリーハウス


最後の週末、コメント欄でおすすめされたこともあって、
車で7分のところにあるウィンチェスターミステリーハウスに行きました。

銃器王といわれたウィリアム・ウィンチェスターの未亡人、
サラ・ウィンチェスターの邸宅だったこの広大な屋敷は、その規模と
奇妙な建築のせいで1922年、サラの死後すぐに観光地となりました。

ちなみに、わたしの今日に至るまでの当地に対する知識は、

「ウィンチェスター銃の犠牲者の呪いのせいで、家族を失った、
と信じる未亡人が、占い師に騙されて死ぬまで建築を続けたせいで
奇妙なミステリーハウスになってしまった」

という程度の、ごく一般的に信じられている噂に留まります。
別にその実態を確かめたいとか、そういう意図はありませんでしたが、
単に近くにいるから一度行ってみようか、程度の気軽さで申し込みました。


チケット売り場の建物は、本館に似せてありますが、後から作ったもの。

前日ネットでチケットを購入しましたが、前売りなのに大人一人41ドル。
学生割引もなく、思わず「高いなあ」と文句が出ます。

チケット売り場には列ができていましたが、これは当日申し込む人のため。
購入が済んでいる人は中に入って待つだけです。

ちなみにゲートの蜘蛛の巣のような模様ですが、
屋敷内にもあしらわれた当時流行りの意匠です。

しかし、「ミステリーハウス」にぴったりな趣味ともいえます。



待っている間の時間潰しにどうぞ。
というわけで、シューティングゲームコーナー。
きっと備え付けの銃はウィンチェスター銃のモデルなのでしょう。



ウィンチェスター本人っぽい(さすがに本人のではない)写真を加工して
白目を剥いたおそろしい写真が飾ってあったりして、なかなか悪趣味です。

このように、ウィンチェスターの屋敷は、女主人の死後、
観光名所の宣伝として、「幽霊屋敷」のレッテルが貼られてきました。

全て「ミステリーハウス」に対する大衆の興味を掻き立てるのが目的です。

■ ミステリーハウスの「虚構」



しかし、そんなイメージをより裏付けるファクトとして、
あきらかに必要のなさそうな工事が行われていたり、
工事を行った理由が全く不明な構造物があります。

ツァーが始まってガイドが入り口のドアを開けると、そこは壁。



異常に低い段差(ほぼスロープ)でできた異常に狭い階段。
こんなのがあっちこっちにあります。



しかし一見不思議なこの階段には少なくともちゃんとした理由がありました。

マークが指を指したところは女主人サラの身長である4フィート10インチ。
つまり146㎝しかなかったことと、関節リューマチを患っていたことから、
彼女には段差が少なく、バリアフリーに近い階段が必要だったのです。



この44段の階段を使って移動できるのはわずか3メートル。
階段を上るのがつらければ、金持ちはエレベーターを設置しますが、
サラが屋敷を建てた頃は家庭に設置するようなタイプはなかったようです。

ただし、1916年にはエレベーターの設置が行われています。



他にもこんな階段がありましたが、これはどうみても
サラ生前のオリジナルではなく、後から設置されたものです。

事実、サラが死んですぐに投資家によって物件が購入され、
賃貸人として済んだジョンとメイミー・ブラウンなる夫妻は、
すぐさまここをアトラクションとして見せ物にし始め、
意図的に「不可解」な追加建築やオリジナル削除が加えられました。

より一層「ミステリー」な家にするための、演出といったところです。


ベッドルームはそれこそいくつもあります。
まあ、これもアメリカの豪邸なら当たり前。
部屋の数は全部で160あるとか。



サラはこの寝室で亡くなったとされます。
ということは、このベッドでということになるのでしょうか。

そもそもここにまつわる噂は、夫と生後ヶ月の娘を立て続けに病気で失い、
そのことを彼女がボストンの男性霊能者に相談したところ、この人が

「彼女と家族はウィンチェスター銃で殺された人々に呪われている。
その霊を慰めるために西に家を建てなければならない。
そして決してその計画を完了してはいけない」

と言ったので、彼女はわざわざ大陸を横断して西海岸に行き、
それで家を24時間建て続け(させ)たというものです。
なんで霊を慰める手段が家の増築なんだ、と突っ込みたいところですが、

ご安心ください。
これは1967年になって作家がでっち上げた嘘とわかっています。

そんな霊媒師は、調べたところ実在すらしておらず、
サラが西海岸に行ったのも、おそらくは健康上の理由で医師が勧めたから、
そして夫とのサンフランシスコ旅行が楽しかったからだそうです。

しかも、伝説が生まれるきっかけは、地元紙のゴシップ記事でした。


この武器商人の未亡人がサンノゼに豪邸を建て始めたとき、
世間は好奇心からあれこれと彼女について憶測を逞しくしましたが、
後述の理由により10年経ってもその建設が終わらないことから、

「この家の所有者は、この邸宅が完全に完成すると
自分は死ぬと信じているらしい」

とサンノゼデイリーニュースがおそらく揶揄半分で書いた記事が、
いつの間にか事実として流布されたと言うのです。


迷信深くて病的で、怪しげな霊媒師の言うことを真に受けて、
有り余る財産を無駄な工事に使い続けた愚かな女性。

後世のミステリーハウスにまつわる物語は、サラ・ウィンチェスターを
このように決めつけるものといっても過言ではありません。

しかし、噂、誇張、嘘、神話を剥ぎ取ったところにある彼女の実像は
健康上の理由で世間から身を隠すようにしていたものの、
会社の財務と投資ポートフォリオの構築も抜かりなく行う実業家でした。

そしてそれらの作業はこの机などで行われたのだろうと想像されます。


バスルームは13あったそうです。
トイレはあちこちにありますが、それも部屋からあまり遠いと
特に彼女のような健康状態にはつらいでしょうし、当然かと。



屋内の植物室?は床が斜めになっていて、
余分な水は外に出され、外の植物に水を供給するパイプもありました。



ジャパニズムを思いっきり取り入れた部屋もあり。
天井とタンスには竹をあしらっているように見えます。



この部屋に入った時、ピアノによるBGMが流れていました。
ガイドが操作すると、それが地震で建物が崩壊する音に変わりました。

この部屋は、地震の被害に遭った後、修復しない当時のまま残されました。


サンフランシスコ地震が起こったのは1906年のことです。

彼女が死ぬのを恐れて工事を続けたと言う噂がデマであったことは、
地震以降彼女は住居をたくさんある別邸のうち一つのアサートンに移し、
瓦礫の撤去とエレベーターの設置以外行わなかったことでも明らかです。



しかしこの地震のせいで、より一層屋敷は不可解なものになりました。

たとえばこのドアは「開けると空間しかない2階のドア」とされますが、
外にあったバルコニーが地震で崩落してそうなったと言うだけのもの。

他にも、階段で繋がっていた上層階が地震で取り払われたため、
「天井に向かっていきなり終わる階段」が出現したりしました。



それではそもそもなぜ彼女は建設チームを常駐させてまで、
家の建築を長期間続けていたのか。
それは一言で言うと、
建築が彼女の飽く無き「趣味」だったからでした。

まだ夫が存命中、東海岸で夫妻は当時別邸の増改築を行いました。
その際二人は建築とインテリアデザインに興味を持っただけでなく、
それが高じて、自分たちだけで全部設計建築を手掛けはじめます。

そのために雇った専門の建築家二人は解雇されています。

建築が趣味、などという女性は当時アメリカでも稀だったと思いますが、
サラにはそれを実行できるだけのふんだんな財力がありました。

そんな彼女が未亡人となったとき、広い土地に移り、そこで自分の家を
ゼロから自分の設計で建ててみたい、と思ったとしても不思議ではありません。

いつまでも工事が終わらなかったのは、建築が趣味だったからで、
完成させることより作り続けることが目的だったからでしょう。

言うて素人ですから、全体的にまとまりがなくなり、
家の中は迷路化してしまいましたが、そんなことはいいのです。

だってここは彼女の遊び場、プレイランドだったのですから。
(彼女はアサートンなど他にも西海岸に普通の家を持っていた)

ある人の研究によると、彼女が家を建て続けた理由の一つに
労働者の雇用を維持し続けるため、というのもあったようです。

そして、これはわたしの想像ですが、建築を続けたのは、
夫と子供を失い、ひとりぼっちになった彼女が、何かを生み出すことで
生きる情熱と目的を維持するためだったと考えられないでしょうか。


ガイドの向こうにはサラに雇われていた建築チームが写っていますが、
彼らはサラが死ぬまで、ここで安定した雇用を得ていました。

彼女は遺言により、従業員全員を受益者として指名していました。


建築チームのチーフ(棟梁ですな)などは、敷地内に家を持ち、
ここで家族と住んでいたといいますから。



メインの食堂。
サラは社交的な夫人ではなく、健康状態が悪化した1900年以降は
公的な場に姿を現すこともあまりなかったため、
屋敷ではパーティなども大々的に行われなかったと見えて控えめです。



氷を入れる式の冷蔵庫ならぬ「冷蔵室」。
大きな氷を入れて冷蔵の必要な食料を保存していました。



美しいステンドグラスの嵌め込まれた窓。
サラは今後のため?と思ってか、大量にステンドグラスを購入しましたが、
結局それらのほとんどは、どこにも使われずに今日展示されています。



「幽霊のような音楽」が屋敷から聞こえてきた、という地元住民の噂は、
早くから音楽をよくし、楽器の演奏を趣味にしていたサラが、
眠れぬ夜などに弾いたこのパイプオルガンだったと種明かしされています。

夜中にパイプオルガンの音が聞こえてきたらそりゃ怖いわ。



もちろん居間にはピアノもありました。
ケーブル(Cable)ピアノという、1930年代までシカゴに存在した
ピアノ製造業者の製品です。



スリラー映画『ウィンチェスターハウス アメリカで最も呪われた屋敷』
と言う映画のロケがここで行われました。
そのときに使われた俳優の衣装が展示してあります。
YouTubeで見てください。

なんかひでえ・・・。



ハロウィーンには真夜中にツァーを行うなど、もう全面的に
そっち方面に振りまくっているここ「ミステリーハウス」。
ここのガイドは、わたしが今回したような「本当の」説明は一切行いません。

それどころか彼がガイドしているときに誰もいないのにドアが閉まった話を、
「これは本当の話です」などと大真面目で言って怖がらせにかかります。

仕方がありません。
ガイドは全員、捏造され不正確な噂を元にした、観光用の台本通り喋っていて
おそらく自分の意見(異論)を挟むことは許されていません。

それはほとんど、ディズニーシーの、今は無きアトラクション、
「ストームライダー」の前説係のようなものです。

そして、彼らが「個人的に」体験した「不思議な出来事」も、そのほとんどが
過去の噂と伝説からきた確証バイアスと暗示の結果だと言う説があります。

このように決めつけるのは、楽しみたい人たちには興醒めかもしれませんが、
ここはディズニーの作り物のアトラクションではないのです。

実際の誰かが住んでいた家をいつの間にか幽霊屋敷に仕立て上げ、
その主人を「おかしな人」「迷信的な人」とレッテル貼りをして、
こんな形で物語を上塗りして商業的利益を得るって言うのもなんだかな。

少なくともわたしには、面白く興味深い建築ではありましたが、
幽霊やら怪奇現象と結びつける意味は全くないのではと感じました。



というわけで、1時間半のツァーを終えて外に出てきました。



庭園には変な噴水がありました。



どう言う状況?
ちなみに三方から、カエルも彼に水をかけにきています。


庭園の外側にも趣味の?建築が建ち並んでました。
大工の棟梁の家もそうですし、やたら広いガレージ、大工小屋、
これなど「果物をドライする(だけの)小屋」。

サラ・ウィンチェスターには、グッドジョブ、と言っておきたいところです。



最後のエスニック料理は、タイでした。
ここは大当たり!今までで一番美味しいパッタイが食べられました。



大好きなスティッキーライスのマンゴ乗せも。
ライスはお米の色のせいでブルーです。



そして、最後のお昼ご飯のためにパロアルトのユニバーシティ通りに行くと、
以前ケイリーグラントをやっていた映画館が、
「ヒッチコック フィルムフェスティバル」を開催していました。






アメリカの親友〜西海岸生活

2023-08-31 | アメリカ

インターネットに向かう時間をこちらに来てから減らしました。

この度起こった出来事によるわたしの精神不調と、
そこから自分を立て直すための対策です。

そして、ここからが事務連絡なのですが、
今後は決して「無理しない」ことを優先してアップしていきます。

個人的な興味の範疇であるごく限られた話題について発信し、
それをネットを通して人々と共有することを趣味として
長い間心から楽しんでやってきたブログ運営ですが、
今回のメンタルダウンで、多少なりとも「義務感」が生じたと感じました。

更新の頻度は多少減るかもしれませんが、さはさりながら、
ブログ運営はわたしにとってひとつの精神安定剤である一面もあり、
当分の間は皆様と共有したい未発表の情報もありますので、
今後もどうか長い目でお付き合いいただけましたら幸いです。



■ 「会えなくなった」アメリカの親友



ゴールデンゲートブリッジ近くの海岸は、
サンフランシスコに立ち寄ることがあったら必ず一度は車を停めます。

以前はこの後ろ側に「ザ・クリフ」というレストランがあって、
そこがお気に入りだったわたしたちは、何度となくここで
美味しい料理とデザートを楽しんだものでしたが、疫病流行後、
レストランは経営できなくなったらしく閉店し、絶好の立地にも関わらず
この跡地に何かできるという噂も今のところありません。

レストランと売店とカジュアルなカフェがあった頃には
この道路沿いに車を停めるのも大変でしたが、今ではガラガラ。

それもそのはず、この付近は夏でも太平洋からの猛烈に強い冷風が吹くので、
週末海岸にいるのはほとんどがサーファーと物好きな観光客くらい。
しかも、寒さに耐えきれずに皆すぐに車に戻ってしまうため、
飲食店がなくなった今となっては誰もこんなところに車を停めません。

わたしたちも3分後には車に戻り、そのまま少し南下したところにある
MKがサンフランシスコ時代に通っていた幼稚園の前を通ることにしました。



MKが在籍していた頃は周りの目隠しはされていませんでした。
金網越しに中の様子は見えていたと記憶します。



建物の向こう側には広い園庭が広がっていて、その端に
さらに別の教室のある建物があります。



今回来てみて、道路沿いの壁の内側が鶏舎になっていたのに驚きました。
わたしたちが近づくと、特にこの鶏が激しく反応し、
高いところに飛び乗って大歓迎してくれました。


この人懐こい鶏さんがDivaであることがわかりました。
右上の鳥(ダチョウ的な)の名前「ダイアナ・ロス」は、
なんとなく羽飾り的な意味で納得のいく命名というか・・・。

園児の情操教育のために始めたのか、それとも父兄の関係者に
鶏を処分したい業者でもいたのかは謎ですが、これによると
餌やりの様子が配信されているようです。



ディーバさんは人懐こくて最後まで友好的でした。

この幼稚園は、コーポラティブ、父兄家族が積極的に保育に参加することで
経営を行う方式で、具体的には在籍時には1ヶ月に一度くらい回ってくる
おやつ当番、それから「ワーク」といって、朝から子供と登園して
主にお遊びの時のワッチを義務付けられています。

自分の子供が日頃幼稚園でどう過ごしているのか、とか、
園児同士の人間関係?親の人となりを垣間観察できる貴重な機会とあって、
わたしは思いの外この当番を楽しんでいました。

あのうちの親は離婚していて、お迎えには父と母が変わるがわる来るとか、
父と母は白人だけれど娘はアフリカ系で養子らしいとか、
だれそれの親の離婚理由は父親がガレージでお薬してたからとか、
まあ、日本では余りない感じの噂話もこういう時に耳にしたものです。

■ アメリカの「親友」

のちに私のアメリカの親友となった彼女と出会ったのも、
この幼稚園の母親同士という(ママ友ですか)縁でした。

彼女はMKの一つ年上の娘の母親で、その時から気が合い、
わたしが帰国後アメリカに滞在する時には必ず一度は会って、
食事をしたり、どこかに遊びに行ったり、長い話をして過ごしたものです。
毎年夏に一度、コロナの時以外はその再会は継続していました。

当ブログにもアメリカ滞在の話題では頻繁に登場しています。

一年に一度会うだけで、その他の時期は特にメールもしなければ
もちろんSNSでのやりとりも全くないのですが、
この何十年かのそんな付き合いの中でわたしは彼女を親友と思っていました。


そんな彼女と、今年、突然連絡が取れなくなりました。

渡米前に今年のスケジュールをメールとテキストで送りましたが、
配信はされたという表示はあるのにも関わらず、返事がないのです。

「〇〇さんと連絡取れなくなった・・・」

と家族に言うと、MKがすぐ「とにかく電話してみたら?」というので、
わたしはその言葉に背中を押されるように、電話をかけてみました。

電話番号は健在でしたが、ワンコールもしないうちに
彼女自身の声でメッセージが流れたので、わたしはとりあえず、
もしこれを聞いたら電話ください、と言って電話を切りました。

しかし、それから何日経っても、2ヶ月経った今現在に至るまで
やはり彼女からの連絡はまったくないままです。


去年、彼女とはサンマテオで会って一緒に食事しました。
その約束を取り合っているとき、彼女が、

「体調を崩していてとてもしんどいので、今整体や鍼に通っている」

と言っていたのが気になっていました。
会った時、TOと一緒に精密検査を勧めたのですが、

「診てもらったんだけど、何も悪いところはないって言われた」

と言う返事。
アメリカの医療制度では日本のように精密ドックを受けることは難しいので、
わたしたちは、

「なんなら旅行も兼ねて、日本に来て、
成田の近くの総合病院が外国人の医療ツァー向けに組んでいる
精密ドックで検査してみたら?」


と、案内をメールで送り、彼女もそれに興味を示していました。


そのときわたしは、「腰が痛い」という彼女のことばから
自覚症状なく進む最悪の病気の可能性を思い、不吉な予感がしたのですが、
一緒に食事をしているときの彼女の様子には何の変わりもなく、
普通に食べ、笑い、顔色も特に悪い様子はありませんでした。

そのとき、いつものように一年後の再会を互いに約束して別れ、
いつものようにそれっきり音沙汰のないまま、一年が経ちました。

そしてなんの疑いもなく、今年も彼女と会えるものだと思っていました。

しかし、何度電話をしてもワンコール鳴らないうちに始まるメッセージ。
あれこれと最悪の結果を考えるうちに、精神状態は落ち込んでいきました。

起きていて手にデバイスを持っている時間のほとんどを、
彼女の行方と状況を知れる手がかりを探すことと、そして
wiki(彼女はあるジャンルでバイオグラフィーが公開されている)に
書き換えられたことがないか確認すること、そして、
彼女の娘がSNSで何か発信していないか探すこと(見つからなかった)、
彼女が罹っているかもしれない病気について情報を漁ることに費やし、
その結果、見事にメンタルダウンし不眠症になってしまったのです。

そうなると今度は、自分の体の状態さえあれこれと気になり出し、
最悪の予想をしては落ち込む、というスパイラルに陥る始末。

そしてある日、一睡もできずに朝を迎えてしまったわたしは、
これではいけないと、自分で自分を立ち直らせることにしました。

まず、友人のことは一旦「忘れる」。

メールも携帯も解約されていないのだから、
何かの都合で忙しいだけで、(最悪でもファミリートラブルとか)
とにかく彼女は元気に「生きている」と信じる。

そして、ネットで病気についての情報を検索しない。

ついでに、ネガティブな内容のニュースも極力見ない。

ネガティブな内容のYouTubeの動画を一切見ない。
見ていいのは動物ものと音楽関係、映画などに限定。

寝る1時間前にはゆっくりお風呂に浸かり、精神を休めるお茶を飲む。
朝起きたらニュースではなく音楽を聴く。

できるだけ家族と楽しい時間を積極的に過ごす。
(一緒に料理することはとても効果的)

昔のアメリカの友人に連絡を取る。
(セントルイスの旧友とは連絡が取れ、今メールで情報交換中)

これだけのことを積極的にやった結果、
かなりリカバリーし、マシになりかけていたのですが、
そんなある日の明け方4時半に、実家からの電話が鳴りました。

その電話で母からおじが亡くなったことを知らされたのです。

どうしてこういうことは続けざまに起こるのでしょうか。
義母と大学の恩師が2週間違いで亡くなった時のことを思い出しました。

しかし、おじはいわば大往生の部類で、母も、葬式に列席不要、
ということを伝えるためだけに電話してきたのであって、
このことは結果として立ち直りにそれほど障害とはなりませんでした。

遠いアメリカの空の下から、記憶に残る、長身でハンサムだった
(現役時代の阪神の江本豊にそっくりだった)おじの冥福を祈った次第です。


そして今、わたしはようやく元のわたしに戻ったようですが、
悲しいことに、西海岸一帯のどこにいっても、どこを訪ねても、
そこには長い期間にわたり、彼女と訪れて過ごした場所があります。

かつて知った場所に行けば、必ずそこで過ごした彼女との思い出が蘇り、
それがわたしをなん度もなん度も打ちのめしそうになるのです。

しかし、その都度、

「またいつか会おうね」

と心の中で彼女に呼びかけてみます。
すると、携帯に残っている彼女からの最後のメッセージと同じ、

「オッケー」

という返事が、記憶に残る彼女の声で脳裏に蘇ります。





サンタクララ生活

2023-08-29 | アメリカ

サンタクララに移動して3週間が経ちました。

■自動洗車体験

冒頭の写真は、長期レンタルで車が限界まで汚れたので、
一度思い切ってこちらの自動洗車にトライしたときのものです。



スタンドのようなところで受付と支払いを済ませたら、
自分で運転して洗車場までGO!



機械に入る前に機械が洗えないところを拭く係。



レールに乗ったらニュートラルにしろ、と言われていたのですが、
ニュートラルにしたつもりがギアをブレーキに入れていました。
ブレーキがかかっていると、レールを自動走行できずに止まってしまいます。

レンタカーなのでニュートラルにすることが咄嗟にできず、まごまごしていたら
横から係りの人が手を突っ込んで直してくれました。
やれやれ、とおもたら、今度はワイパー作動!
ワイパーがオートになっていて、水に激しく反応したのです。

「ああああああ」

とかいっていたら、レールがガクンと止まりました。
わたしだけでなく、洗車中のすべての車がストップです。
もう一度おじさんが窓から手を突っ込んで直してくれました。

こちらでは雨など降らないので、ワイパーがどうなっているかなど
この時まで全く意識していなかったんですよね・・。
入る前から緊張マックスだったのに、いきなりこれだよ。



そして無事に通過を始めました。


今車が何の工程をしているかは横の看板でわかります。
このあと出口まで押し出されたら、係員の合図でレーンを抜けて洗車終了。

あードキドキした。

■ 近所を散歩する




朝、近所を散歩していたら、教会の敷地がオープンになっていたので
木陰の道に沿って入っていきました。



1917年建設された、跣足カルメル会修道女のための修道院でした。



広い庭園を一周したら緑に囲まれたマリア像が・・。



サンタクララには築100年越えの住宅が普通にたくさんありますが、
その中でも特にその大きさで目を引いていたこの建物、
フェリー・モース・シード社の創始者で、世界有数の花と野菜の種子生産者、
そして「アメリカの種子王」として知られる実業家、

チャールズ・コープランド・モース
Charles Copeland Morse(1842-1900)

の住居だそうです。
(作曲家のコープランドか、電信のモースかと思ったのに)



さらに歩いていたら広いところに出てきました。
なんとこれがサンタクララ大学でした。
大学の入りにくさでいうと5段階の4、「非常に難しい」とされ、
各種ランキングでも比較的上位に入る名門大学のひとつです。



イエズス会によって同州で最初に創立された四学期制の私立大学で、
ローマ・カトリック系共学大学として上智大学と学生交換協定を結んでいます。

■ GoogleアプリのCM

今度の家は大画面のモニターが居間、寝室、プレイルームと三つあり、
ゲストもログインせずに見られるMAXやtubi、Netflixで
PCに向かう時間、極力映画を観るようにしています。

MAXではまだ日本で公開されていない、「And Just Like That..」
(Sex and The Cityの続編)のシーズン2も観ましたし、
(シーズン1より見てられないシーンが多かった)
なんとここで紹介したナチスの脅威啓蒙映画、
「49th Parallel」(潜水艦轟沈す)
を、無駄にいい画質の大画面で観ましたし、MKのおすすめ?で
ブラッド・ピットの「ブレット・トレイン」まで観てしまいました。

無料の映画にはときおり広告が入るのですが、
MAXを見ているとしょっちゅう出てくる、
Googleアプリの宣伝が気に入ったので紹介します。



「ハイ、バービー」「ハイ、バービー」と皆とSNSで挨拶するところから
始まるこのアドの主人公はこの女の子。
映画「バービー」に便乗したこのCMで、彼女は
バービーリスペクトのため、全身ピンクに包んでいます。

こちらでもこういう時にはぽっちゃりさんが採用される傾向。
この人は、メグ・スタルターという女優さんらしい。


ここは「バービーランド」。
この世界では、皆あいさつに「ハーイ、バービー」というのがデフォです。

「バービーランドではわからないことはないけど、
ここ現実の世界では、わたしいつも『それって何?』って思うの」



「これって何?」



「ありがたいことに、Google アプリを使用すると、
レンズで検索できちゃうの・・。」




「へー、チャックワラね。わらーっぷ」

チャックワラはイグアナの一種とおもわれます。
ワラップは、What's Upをチャック『ワラ』とかけて発音してます。



「隣に住んでいるカナダ人の恋人、
ジャン-ピエールからのメモを翻訳することもできるの」




(フランス語を翻訳)
「僕の駐車場所を盗むのはやめてくれ!」



「それならわたしの心を盗むのもやめてよね!ボーイ」



プレートナンバーの「KENWHO?」に注目。



「今日やりたいことは・・・そうね、ジャグジーかな?
・・ああああっ!



「なんなのおー!これは!」



「グーグルアプリなら必要な色を見つけることができるわ。
それはわたしの場合、ピンク一択よ!」



「レンズの助けで、何か探したかったら
ただ見るだけで検索できてしまうのよ」



「たとえば『枯れた植木』」



『乾いた、または葉が茶色くなった植物は水に浸けましょう』

「この子たちにはお水が必要なのね!」



「どすこーい!」


(とはもちろん言ってない)



「サンキューグーグル、次は何?」



終わり

アメリカでは映画の合間にもこのCMが放映されるそうですが、
最初に見た人は皆笑うそうです。

New ways to search: Barbie (featuring Meg Stalter)

動画で見たい方のために



車で5分くらいのところに巨大モールがあります。
モールのラーメン店「NAGI」とうどん屋の「丸亀製麺」は、
平日でも1〜2時間の列ができていて、わたしたち日本人には
あの程度のものに並ぶかなあ?という気がするのですが、
そういうわたしたちは、台湾飲茶の鼎泰豊(ディンタイホン)に入るのに
1時間半待ってしまいました。

ここは並ばなくても携帯で呼び出してくれるので、
モールで時間を潰すことができたのですが、
いざ順番が来て頼んでみると、これも待つほどかなあ?という感じ。

台湾で鼎泰豊の社長さんというおじさんを紹介してもらって
(王貞治後援会を通じたコネクションだった気がする)
本場のを食べましたが、それとはずいぶん違うなあと。

凪もそうですが、一風堂も丸亀も、支店がたくさんできて
海外まで進出している時点でもう「別物」になったと考えるべきですね。



鼎泰豊の順番を待つ間Apple Storeに行ったりしたのですが、
なぜかペット連れ込み禁止のモール内に犬の集団が・・・。
皆珍しげに写真を撮っていましたが、これなんだったのか・・。
わんちゃんたちは皆おとなしく床で座っています。



家に帰ったら、同じような光景が(ただし猫)


続く。




お茶とコーヒーの話〜アメリカ西海岸生活

2023-08-27 | アメリカ

■ コーヒーと水の研究所で「ゲイシャ」を飲む



サンノゼの日本スーパー、「ミツワ」のあるモールに、
新しくできたコーヒーショップに行ってみました。
お店の名前が「コーヒー・ウォーター・ラボ」なんて、期待できそうです。



「ミツワ」の敷地内にあるせいか、このお店、
「コーヒーと水の研究所」と日本語のサブタイトル?がついています。

水にもこだわったロースター、ということで、
5ドルのプアオーバーを頼んでみたところ、なかなかよし。
家に帰ったらメールのアカウントに払ったカード経由で
次に来た時の2ドルのチケットが届いていたので、もう一度行って、
一番高くてやめた「ハニー・ゲイシャ」という豆を注文しました。

真ん中がわたしの頼んだ「ゲイシャ」

「ゲイシャ」(Geisha)は、世界で最も高価なコーヒーのひとつです。
「ゲイシャ」というのはエチオピア原産地の地名で、
日本の芸者とはまったく関係がありません。

味は・・・・普通でないというか、とにかく変わっていました。



スーパーマーケットのコーヒー売り場は、どこも品種が多く、
どれにするかいつも迷ってしまうのですが、一つの手がかりとして
「ローカル」と書かれた商品を選ぶのも手です。

サンタクララにある「クロマチックコーヒー」は、
そのパッケージがなかなか美味しそうで注目していたのですが、
一度朝車を飛ばして本店(ここしかありませんが)に行ってみました。



一つのロースターでこのバラエティの多さはさすが有名店。


コーヒー屋とレインボーフラッグの親和性の高さは異常。

カフェは閉鎖していて、中で注文したコーヒーを
外の窓で受け取るという方式でした。

コロナ以降人手を減らしてこの形で営業しているのでしょう。

■ ティーテイスティング

Mサンフランシスコのお気に入りのティーショップ、
SONG TEAの週末イベント、「ティーテイスティング」があると知り、
申し込んで参加しました。
オンラインで予約がオープンになった途端、売り切れてしまう人気です。

もっとも、参加人数は一回のパーティに6人というもの。
参加費は一人50ドルと、決して安いものではありません。



ティスティングは営業開始前の9時から11時まで行われます。
9時に間に合うように車を飛ばして、まだ人気の少ない
週末のサンフランシスコに到着し、店に入れてもらいました。

すでに用意ができています。



時間には6名の参加者全員が集まりました。
2時間の間、茶ソムリエ(とはここでは言いませんが)の話を聞きながら、
5種類の台湾・中国茶を2煎ずついただくという内容です。



中国茶の淹れ方をこんなにまじまじと見たのは初めてです。
5種類を2杯ずつ飲むのは大変に思われますが、
中国式のティーカップは本当に小さいので「味わう」程度の量です。

最初はソムリエだけが喋っていましたが、他の四人の参加者が
(アジア系カップル、アジア系とアフリカ系の男性カップル)
質問をしたりして、話が弾んできました。

わたしたちは日本人特有の引っ込み思案そのものでひっそりと黙って
でも話に相槌を打ちながら参加。

アジア系カップルは自分達の話はしませんでしたが、
アフリカ系の若い男性が、ボストンの大学のビジネススクールを出ていて、
こちらで数学の勉強をしたのだが、アジア系男性と二人で
コーヒーのお店を持ちたい、というようなことまで話していました。

セッションが終了した時、全員で最後に挨拶したのですが、
そのときにわたしがアフリカ系男性に、

「わたしたちもボストンに住んでいたんですよ。
夫があなたと同じ大学にいたので」


といったところ、彼は、わたしが着ていたパーカのMKの大学のロゴを見て、

「じゃその大学には?」

と聞くので、

「これが行っております」

とMKを指差したところ、驚いたことに、彼が数学を勉強したという
こちらの大学とは、MKと同じ大学院でした。

彼とMKはその後しばし大学のカリキュラムの話で盛り上がっていました。
なんでも、MKの取った授業は「難しいので有名」で、
あれは取ってはいけないと言い伝えられているということでした。

なぜそれを取ったMK。

しかし、TOの大学とMKの大学院、同じコースを選んだ人と、
たった六人のティーテイスティングで遭遇するとは縁は異なものです。



合間にいただく果物が用意されていました。

正直最初はお茶を味わうのに50ドルって高くない?と思っていたのですが、
参加した人たちとの触れ合いも含めて、値打ちがあったと思います。



その後、ソムリエが近くにあって美味しいといっていた点心の店、
その名も「ダンプリング・ストーリー」に行ってみました。

芽キャベツを頼みましたが、これほど美味しく料理されているのは初めてです。
こんなならアメリカの子供も芽キャベツ嫌いにならないのに・・・。



小籠包は当店オリジナル、専用おたまに乗せていただきます。
これがまたよくできていて、お玉に乗せて皮を破っても
スープがこぼれ出ることなく、無事に食べることができます。
正直、この後行ったモールのティンタイホンよりかなり上でした。



魔がさしてデザートのエッグタルトを頼んでしまいました。
これは失敗。ちょっと甘すぎました。



■ ホームレスとヴァーブの店長

アメリカ生活もすっかり落ち着いて生活のサイクルができたころのこと。

MKと朝コーヒーを飲みに行く店は、ユニバーシティストリートの
バーブ(Verve)コーヒーと決まっていました。

車が停めやすく、高速の入り口まで近くて、なんといっても
プアオーバーが安定していつも美味しいからです。

一杯一杯を手で入れるプアオーバーは、人によって微妙に味が違いますが、
その微妙な違いも毎日飲んでいるからこそわかってきます。

そして、毎日同じ場所に訪れることでわかってくることも。



どうやらこの辺りでは、このVerve コーヒーが、
住民の間ではいちばん「イケてる」と認識されているらしいこと。

お店の前のこのオープンエアの道向かいは実はスターバックスなのですが、
いつ見てもここほど人は訪れていないように見えます。

ここには、20年前のスターバックスや、少し前の
日本のブルーボトルコーヒーのような、「第一線」のお店が持つ
特有の輝きと、スタッフの気概から生まれてくるらしい高揚感があります。



この日は珍しく朝の8時で曇っていますが、夏の期間、
カリフォルニアには雨は降らず、朝は爽やかな風が吹く晴天です。

お店のカウンターは外に向かってオープンエアで、人々は、
こんな恵まれた気候を当然のように享受しながら、美味しい(そして高い)
コーヒーで1日を始める自分に、心から満足しているかに見えます。

そんなこのコーヒーショップに平日はほとんど毎日訪れているうちに、
わたしは何度か、オープンエアで、明らかにホームレスであろうと思われる、
アフリカ系の若い男性を目にしました。

この辺りにはホームレスもいて、広場の角のベンチを独占し、
そこに一切合切を集めて住んでいたりするのですが、
こんなふうにカフェのスペースに入ってくることは余りありません。

いうてホームレスですから、いくらオープンスペースでも、
堂々と座っていたりすれば、おそらく客から文句も出るし、
お店としても排除せざるを得なくなるので、彼らも配慮しているのでしょう。

しかし、そのホームレスだけは、ひっそりとではありますが、
周りに人がいないとき、ベンチに荷物を置いて、
ここのマークの入ったカップで何かを大事そうに飲んでいたりします。

そして飲み終わったカップをきちんとゴミ箱に捨てて、
彼をホームレスであると窺わせる大量の荷物を持って去りますが、
一連の態度から、彼が、自分が周りに不快感を与えないように
精一杯気を遣ってふるまっているように見えました。

言い方は変ですが、その様子はいつも何やらいじらしく、
胸に詰まるものを感じてMKにもそのように話したものです。

ある朝のことです。

わたしとMKが店内でコーヒーのできるのを待っていると、
カウンターに件のホームレス男性が近づいてきました。

活気のあるカウンター内では、いつも数人の店員が立ち働いていますが、
この日はその中に、ここの店長らしい、いかつい感じの白人店員がいました。

ホームレス男性が黙ってその男性の前に近づき、前に立ったところ、
店長(たぶん)は、これまた何もいわずに、アイス用カップに
たっぷりの水と氷を少々入れて、黙ってカウンターに置いたのです。

ホームレス男性は、もしかしたら一言何か言ったかもしれません。

が、黙ってカップを受け取り、ペーパーナプキンを一枚手に取ると、
他のものに彼の手が触れないように細心の注意を払いながら、
重ねられたカップの蓋を上から一枚取り、もらったカップにはめました。

そして、そのまま静かに店を出て行きました。

その後、店長らしき男性がカウンターにいないときには、
ホームレスも現れないことにわたしは気がつきました。

どういうことがきっかけでこのやりとりが始まったのでしょうか。

ただ一つ、この、おそらく店長の独断で暗黙のうちに与えられる
一杯の清潔なカップに満たされた水が、ホームレスの男性にとって
生きる気力の助けになっているであろうことは容易く想像されます。

帰国までにまた彼を見ることがあったら、そのとき
「これであなたのためにコーヒーを買ってください」
といってお金を渡すことはありだろうか、なしだろうか。

わたしは今、そのことを密かに悩んでいます。



サンタクララに移動〜Airbnbいろいろ

2023-08-23 | アメリカ

今回の滞在における2回目の引越しが完了しました。

最後の宿泊先は、Airbnbで見つけたサンタクララの一軒家です。
これまではMKの大学寮のあるパロアルト近くでしたが、
どういう生活パターンになるのかわからなかったので、
とりあえず最後はインターンシップ先に近いところを選びました。

もう一つの理由として、パロアルトよりサンタクララの方が
部屋代の相場がかなり安めだったということもあります。

しかも、3ベッドルームまるまる一軒貸し、長期契約の際の割引が大きく、
大変なお得物件を見つけ出すことができました。


同じ建築業者による住宅が6軒集まったコートのうちの1軒。
いわゆる日本の建売住宅みたいなものです。



上空から見るとこんな感じ。
家の前には各戸2台ずつ車を停めるスペースがあり、
さらに巨大なガレージも内蔵されています。



ドアを開けてわたしたちは思わず歓声を上げました。
今年の5月からAirbnbとなったこの家は、
素晴らしいセンスで改装された超おしゃれな内装でした。

築年数は2〜30年くらい経っているのかもしれませんが、
壁の塗り替えはもちろん、床もフルリノベーションされていています。

壁に設置されたバスケットゴールは、もちろん飾りですが、
これで遊ぶことができるようにいくつかの軽いボールが用意されていました。

中学生時代はバスケ部のカットインポイントゲッターだったわたし、
つい昔とった杵柄とばかりにトライしてみましたが、
勝手が違いすぎて、今のところまだ一回もゴールできていません。

オーナーはバスケットボールファンで、自分自身もプレイしていた模様。
(YouTubeのアカウントの写真が小学生の大会で優勝した時のものだった)



家の中のフロアに段差があると、広がりを感じます。
リビングルームから先には、キッチンとダイニングルーム。



ダイニングルーム。
窓際の飾り棚にはアナログ式レコードプレイヤーがあります。
ただしかけるべきレコードはない模様。



ダイニングルームには本物の暖炉!
「アメリカ人は今時本物の暖炉など使わない」
と前回言い切ってしまってすみません。

暖炉の上の絵といい、置いてあるものといい、
全体的にトーンが調和しオーナーの卓越したセンスが表れていて、
まるでクレート&バーレルかイーサン・アレンのモデルルームみたいです。

Airbnbに掲載されている写真は概ね実物より良く写るので、
実際が写真のイメージ通りだったことは一度もありませんが、
今回初めて写真より実物の方が良いという例に遭遇しました。

■ 前回Airbnbオーナーの「違和感」



キッチンも広々しています。
手前のカートにはコンプリメンタリーのウィスキー。

そういえば、この前に住んでいた物件のオーナーは、
宿泊者に飲食物は一切提供しないという固い意志を持った人でした。
ハウスルールにはこんな文言があったものです。

「冷蔵庫や棚の食品庫にあるものは全てオーナーのものですから
絶対に手をつけないでください。

ここから5分歩いたところにスーパーマーケットがあります」

ハウスルールの細かい部分はオーナーごとに違いますが、
ほとんどのAirbnbは、短期宿泊者へのサービスとして調味料やコーヒー、
お茶、ソース、冷凍食品や前の利用者が残していった保存食などは、
コンプリメンタリーとして利用してもらうというのがほとんどです。

冷凍庫に大量に残された「手をつけるな」という冷凍品を見て、
違和感を感じたのはわたしだけではなかったらしく、ある利用者が
宿泊後の評価コメントで「unnerving」「a little odd」と書きました。

おそらく、手をつけられたくない「自分たち」の食べ物を、
なぜお金をとって宿泊に貸す部屋に大量に残しておくのか、という
家主のホスピタリティに対するユーザーとしての疑問だったと思います。

ところがオーナーはそのコメントがよっぽど気に入らなかったのか、
とんでもない反論を長文であげており、それが以下の通り。

「多くの国で食糧が不足しているのに、それを捨てることはできません。
子供たちが飢えて死にかけているのはわたしの心を傷つけています。
1分しかかかりませんから、YouTubeで『飢餓』について検索してください。
食べ物を節約したり(実際には我が国のような幾つかの国が原因)
少なくとも極端な貧困について考え、何かできるかもしれません。」

まだまだ続くのですが、なんかものすごく早口で言ってそう。

おっしゃることそのものは確かにごもっともですが、
いかんせん、「odd」の真意を取り違えたため、反論になっていません。
サービス業のAirbnbでそれはどうなのよ、といわれたのに、

「食べ物を決して無駄にしない、このアタクシのどこが悪くって?」

とイキリ立ってしまったという感じ。

ちなみにオーナーは名前から中東系の出身と思われます。

ニューヨークで仕事をしたことがある技術者と自称しており、
MKの大学にも行っていたことがある(何で行ったかはわからず)とかで、
インテリで教育熱心な母(おそらく別居中)でもあるのでしょう。

わたしには、ヨーロッパ旅行中に楽器屋で息子がピアノを弾いている写真を
誇らしげに送ってくれていました。


ちなみにチェックアウト後のわたしへのユーザーとしての評価は、

「部屋を完璧な状態で戻してくれました。
全てのカテゴリで星5つつけさせていただきました。
誰もがこのようなゲストを迎えられればいいと思います」

というものでした。

■ビリヤード台のある家


さて、今住んでいるサンタクララの家。

生活感はありませんが、外にものがでていないだけで何でも揃っています。
ただ、トースターがなかったので聞いたらアマゾンで注文してくれました。

オーナーによると皆オーブンかレンジでトースト焼くそうですが、
わたしは長期滞在なので買ってもらえたようです。

それだけではありません。

8月、何日かここサンタクララでも暑い日が続いたのですが、
オーナーは、わたしがいる間にクーラーをつけることを提案してくれました。

それまでもエアコンはありましたが、クーラー機能のないものでした。

アメリカのクーラーは日本のような室外機方式のものではなく、
ガレージにインストールする巨大な機械が主流です。
それを室内のスイッチで調整することになっていて設置が簡単です。



スイッチはこちらで主流のGoogleの「ネスト」というのが元々ついていて、
新しくなったエアコンと連動して使えます。





キッチンの外はパティオになっていて、
アメリカ人には不可欠のバーベキューグリルも完備。


それでは2階に上がってみます。
リビングルームは吹き抜けで陽がふんだんに降り注ぐ明るい空間です。

二日目から使い捨てシートのモップを買ってきて掃除していますが、
「広すぎて掃除が大変」という言葉を初めて実感しました。


こちらは主寝室。



LGの大型画面はリビングと後述するプレイルーム、
そしてこの主寝室と三箇所にあります。
Netflixで「スーツ」上映中。


主寝室にはジャグジー機能付きのバスタブとシャワー室付き。



2階にはここと、反対側に同じサイズの寝室がもう一つ、
2シンクの洗面バス、そして洗濯室があります。



なんと、ガレージを改装したプレイルームまであります。
バーカウンターとフル設備が揃ったビリヤード台、
大画面とその前のソファーセット。

ここに来てから昔取ったキュー(学生時代一瞬)とばかり、
1日1ラウンドだけプレイすることになりました。



ゴルフクラブもありますが、これはもしかしたら
お借りしてもいいってことでは・・・?
アメリカのゴルフ場は近場にたくさんあるし、
ゴルフ好きな人にとっても最高の部屋ではないかしら。


⬛︎ ねこ付き物件


当ブログで言及している「招き猫体質」のせいかどうかはわかりませんが、
わたしは街角で猫を発見する能力に長けています。

車で街中を走っていて、「あ、猫」「猫いた」とわたしがいい、
皆は「え?どこ?」「あー本当だ。すげー」という感じで、
猫発見センサーの精度にかけては自分でも驚くほどなのですが、
このときもサンフランシスコの繁華街を走っていて、
通り過ぎる建物の2階の窓に猫を発見しました。



TOに写真を撮ってもらいました。



また、今のAirbnbに夜初めて帰ってきた時、真っ暗な車の下でセンサー作動。
車を降りて暗い中にスマホを向けてみると、二匹がいました。



初めてのここでの朝を迎え、気持ちよく窓を開けたら、
そこには昨日の猫らしき二匹が・・。



ハチワレは普通にこちらをみていますが、



黒の方は怖がりさんらしい。
お隣は猫二匹飼ってるんだね、などと話していたのですが、



その次の日、黒は三匹いたことが判明しました。



プラスハチワレで、合計4匹を養っているようです。
今のところ、とくに怖がりの黒さん始め、新しい住人が
どうして自分たちにこんなに興味を持つのか戸惑っている風ですが、
1ヶ月の間に仲良くなってやろうと計画中。



猫といえば、アメリカ始めキリスト教圏では、黒猫は縁起が悪いので
保護猫でも貰い手が少ないと聞いたことがありますが、
3匹と一部引き受けているというのも珍しいかもしれません。

ちなみに、コンドウマリエさんはアメリカのセレブに人気です。
日本風の「整理術」がアメリカ人主婦のハートを鷲掴みにしています。

■ ヴィーガンカフェ



コロナ前はメイフィールドという名前のベーカリーカフェだった、
パロアルトのモール内カフェが、ヴィーガンカフェに代わっていました。

動物性食材を一切食さないヴィーガンのイメージは、
最近のネットを見る限りそのダークな面だけがクローズアップされ、
決していいものとは言えなくなっているのが残念ですが、
アメリカ、特に西海岸ではヴィーガンは一種の「スタイル」にすぎません。

日頃そうでない人も、インド料理や中華料理を選択するのと同様に、
「今日の気分」で選ぶ料理という捉えられ方をしています。

だからヴィーガンでもそうでなくても、美味しくないレストランは
客が来ませんしあっという間に淘汰されてしまいます。

しかし、ここのようにブランチにこれほどたくさんの人たちが押しかけ、
列を作るヴィーガンレストランは、ちょっと他に例を見ません。


それだけここの料理が美味しいということでしょう。

私たちが選んだのはココナッツクリームとアガベシロップを添えた
フラックスシードのパンケーキ、スイカのサラダ、
そしてココナッツチーズ、ヴィーガンパテを使ったバーガー。

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ココナッツミルクを使ったチアシードプディング。

おしゃれなこと、美味しいこと、そして人気があること。
ヴィーガンというと、美味しくなくても健康のため我慢して食べるもの、
という宗教じみたものに忌避感を感じる人もいるかと思いますが、
少なくともここでは全くそんなネガティブイメージはありません。


続く。






バーベンハイマーとケイリーグラント〜ベイエリアでの生活

2023-08-19 | アメリカ

■アジア系レストラン

こちらに来てから何度か外食をしましたが、どうしても
アジアン系の味を選んでしまいます。
しかも西海岸は美味しいチャイニーズレストランがたくさん。



パロアルトのユニバーシティストリートの中華で、
MKが頼んでいた肉乗せ麺。
あまりのボリュームに彼ですら食べきれず残していました。


また別の日、スタンフォードモールにある(前にはなかった)
「TARO SAN」といううどん屋さんに行ってみました。

パロアルトの太郎さん。なにか期待できそう。



確かにうどんの麺そのものは良かったです。
麺だけなら下手な日本のまずい店よりよっぽどコシがあって美味しい。


でも、決定的に出汁が何か違う。

解析はできませんが、日本のうどん出汁にはない何かが入っていました。
しかも、つけうどんも肉うどんも鴨うどんも、
同じ出汁一本槍で出てくるので、わたしたちは「うーん・・・」

カウンター内で働いているのは全員がヒスパニック系だったので、
オーナーも日本人ではない可能性は高し。

日本人オーナーならこの出汁は出さないよなあ、と思いました。


わたしはこのとき何故か無性にカキフライが食べたくなって、
(TOもMKも牡蠣は食べない)一人で頼んでしまいました。
これは日本で食べるのと全く同じでした。



これは去年も行ったサンマテオのチャイニーズ。
サンフランシスコの中華街でレストランを経営していた(に違いない)
先代の遺志を継いで、サンマテオのビジネス街にオープンしたチャイニーズは
現地の中国人にも大人気で、いつ行っても店内はまるで中国本土。

MKは迷わずにこの麻婆豆腐を頼みました。
ウィキョウの香りが独特の深みを湛えるピリ辛麻婆です。


ここのネギパンケーキがまた激うまなんだ。
ネギがたっっぷり練り込まれたふわふわの中華パンに、
ピーマンとひき肉炒めをちょっとだけ挟んでいただきます。

■バーミキュラのフライパン


こちらで買い揃えてやったテフロンのフライパンに傷がついていたので、
買い換えた方がいいね、というと、MK、

「バーミキュラのフライパンが欲しい」

でも高いから・・・と遠慮する彼。
そういえば誕生日にもクリスマスにも何もねだらなかったので、
この際買ってやることにしました。

それまで知らなかったのですが、バーミキュラって日本製なんです。
電気ポットをTOが買い込んだけど使いきれず放置されている我が家では
それほどバーミキュラの評価は高くありませんでしたが、
届いたこの名古屋本社の鋳鉄会社の製品、使ってみると優れものでした。


鍋の記念すべき使い初め料理はグラスフェッドのテンダーロイン。
バーミキュラ監修のレシピの最初のページに掲載されていました。


しばらくはバーミキュラでレシピを次々制覇していきました。
珍しくホールフーズにローカルのカモ肉が出ていたので、オレンジソースで。



ビーガンメニューもありました。
これはカリフラワーのステーキ。
丸ごとを厚切りして、レーズンとケッパーを加えたソースでいただきます。


蓋は別売り。
バーミキュラのウリは蓋ごとオーブンに入れられること。
コンロにかける際は、根本のシルバーの部分から先が熱くなります。


次の日は同じ鴨のレッグを買って、シンプルに焼いていただきました。



牛乳や小麦粉を避ける人向けに、アメリカでは早くから
オルタネイティブの食材がどこでも買えましたが、
最近は日本でも米粉やオーツドリンクが買えるようになって嬉しい限りです。

この日は、ココナッツフラワーでカップケーキを作ってみました。

■ 大学寮の”コーテシー ”フード



わたしたちはMKの居心地の良い大学寮が気に入って、
Airbnbよりももっぱらこちらで料理を作り、部屋で食べて、
時間があればわたしは寮に備え付けのピアノを弾いて過ごしました。

この日、MKがリモートワークだったので、わたしたちは
彼の部屋でランチを一緒に食べるために材料を持って行ったのですが、
敷地内にフードトラックがいてたくさん人が並んでいるのに気がつきました。

手前の赤いテントはチュロス、赤いトラックはクラムチャウダー、
緑のトラックはボバ(タピオカドリンク)やかき氷の業者です。

食後、チュロスかかき氷を買うためにトラックに行きました。
まず、チュロスは売り切れで店じまいの途中。

ならかき氷でも、と窓口の中国人のおばちゃんから受け取り、
「いくら?」と何度聞いても、「はあ?」みたいな反応をするので
困っていたら、奥から若い男性が

”It’s free. It's courtesy.”

コーテシーという言葉は、through the courtesy of…=好意によって
というニュアンスで要するに大学寮からのサービスでした。



日本のかき氷のようにふわふわとかではありませんが、
中にはゼリーのようなボバのようなものが入っていました。
こちらでも昼間は猛烈に暑くなってきていたので、
このかき氷のプレゼントはしばしの涼を届けてくれました。

この「大学寮からのコーテシー」はMKによると度々あるそうです。
別の日、わたしたちが部屋にいると、彼がスマホを見ていて

「今から一階でチキンの丸焼き配るらしいけどどうする?」

このように、情報はデバイスで住民にリアルタイムで共有されます。



その日の晩は丸焼きのモモなどをバーミキュラで温めて食べました。
残りのガラと胸肉は、次の日セロリやにんじんと一緒に煮込んで
美味しいスープになりました。

チキンの丸焼きはアメリカのスーパーでは店頭でいつでも買えます。
MKによるとこの日のチキンは「コストコのもの」ということでした。

■ ”バーベンハイマー”事件

今年の夏の話題作は、「バービー」と「オッペンハイマー」。
しかもその2作品がアメリカでは同じ日に公開されるということを
わたしはMKから聞きました。

よりによってこの対極(何の対極かわかりませんが)にあるような作品が、
と、それだけでアメリカでは話題になっていたというわけです。

これに調子に乗ってしまった一部の人々が、
バービーの髪の毛を原子雲にしたり、オッペンハイマーを演じた俳優が
肩にバービーを乗せるなどという両作品の画像コラボに興じ、
バービーの公式がこのミームにうっかり乗っかってしまったのです。

これに対し、主に日本から不快感が表明され、
あっという間にワーナーブラザーズが謝罪をする羽目になりました。

わたしはというと、した方は忘れてもされた方は決して忘れない、
という人類共通の加害者と被害者についての心理について、
鈍感すぎた公式の宣伝担当には、もう少し慎重になるべきだったね、
くらいは思いますが、別に怒りの類の悪感情は持ちません。

我々日本人は「不謹慎」と言われるようなことには殊に敏感で、
地雷原を歩くように、それらを注意深く見つけ、
踏まないようにして世渡りしていくことを習い性のようにしていますが、
それは日本の専売特許ではなく、こと「人類の悲劇」といわれるような
原子爆弾とはじめとする悲惨な事件については、民族国家関係なく、
「世界の常識」というべきマナーでもあります。

ところがアメリカときたら、昨今LCBTQETC関係には死ぬほど敏感で、
それこそ地雷を踏まないように自主言論統制しているような風潮なのに、
どうしてこの件に関しては、ツィッター公式もネット民もやっちまったのか。

BLMに迂闊なことを言うと「人生終わる」とばかりに
固く口を閉ざす人たちが、どうしてこの件では
「日本ヘイト」を半ば嬉々として展開したのか。


この件を報じるアメリカのニュースでのインタビューで、
わたしが個人的に一番気の毒に思ったのが、
映画を見にきて、インタビュアーに例の「バーベンハイマー」から
いくつかのコラ画像を見せられた黒人女性でした。

彼女は画像を見せられるなり、

「いいわね!これ気に入ったわ」

と大笑いしたのですが、次いでインタビュアーから、

「原爆の被害にあった日本の人々はこれに怒っているそうですが」

と聞かされるや、見るも無惨なくらい気まずそうに動揺し、

「まーそれはねー・・日本の人たちとしてもねー」

とモゴモゴと口ごもりながら場を取り繕っていました。

ワーナーでは公式が謝罪した後、関係者(トップではない)が来日し、
「後悔している」とかなんとかいう言葉で謝罪したそうですが、
どう見ても日本公開での売り上げに影響しないようにという火消しであり、
少なくとも肝心のアメリカ国内に対してはノーアクションのまま、
というのがさらに一部の日本人の反感を買う結果になっているようです。

ここアメリカにいると感じるのですが、メディアを挙げてバービーバービー。
どうもこちらではかなりのヒットを見込んでブームを作ろうとしており、
現にそれに乗っかる消費者たちもいるようで・・・。

先週末、わたしとMKが大型モールにいったときのことです。

服もバッグも、人によっては靴も全身をピンクをあしらった、
アジア系の若い女性の集団がにぎやかに歩いていました。

彼女らは別にキャンペーンモデルというわけではなく、(見た目も)一般人。
ピンクがテーマのパーティに行く人たちかな、と思ってみていたら、
その騒がしい目立つ一団は、モールの映画館に向かっていきます。

「あ・・・・もしかして、バービー観に行くのかな」

「そうなんじゃない?」

気がつけばその日は公開初めての週末でした。
このように、ノリで楽しんじゃいましょう、という女子を生み出すほどには
こちらではそこそこのブームになっているということです。

もちろん、バーベンハイマーが「不謹慎」などという意見は
ほとんどのアメリカ人にとって耳にも届いていなさそうです。



映画館に向かいながら盛んに自撮りしたり仲間と撮ったり、
実に楽しそうな彼女らを観て、角を曲がった瞬間、
バスボム(一回分の入浴剤)専門店のショーウィンドウに、便乗商品を発見。

バービーはおそらくオッペンハイマーなんかより「ドル箱」なので、
ワーナーも日本向けには謝ってみせても、国内に向けては
人気に水を刺すような辛気臭い?抗議などなかったことにしたいようです。


ちなみに、検索したところ、このミームは止まるところを知らず、
「バービー✖️オッペンハイマー」「バービーvsオッペンハイマー」
などのYouTube動画が現在でも盛況です。

まあなんだ、911やBLMには許されない不謹慎も、
相手が「悪かったあの日本」なら仕方ないよとか思ってるんだろうな。

日本は怒らないし、たとえ怒っても怖くないし。

そう思ってたら日本いきなりキレて真珠湾攻撃、
ということが実際にあったわけですが、原爆投下は2度と日本が
「キレないように」という躾だったと思ってる人もいそう。



サンフランシスコのプレシドに近い商店街にあった映画館では
「ミッションインポッシブル=バービー」の組み合わせ。

こちらならどんなにコラボしても問題にならなかったのに・・。


ところでこちらをご覧ください。

アメリカにはいまだに商店街の「小さな街の映画館」が残っていて、
数は少ないですが、ヒット作品というよりは、
昔の映画を特集でリバイバル上演しています。

ピッツバーグのAirbnbの近くにもそんな映画館があって、
黒澤作品を上映していたのに驚かされたものです。

ここユニバーシティアベニューの映画館では、この週、
ケイリー・グラント映画特集と銘打って、
古き良き幾つかの作品を上映しておりました。

このシリーズ地元民には好評のようで、この日も
かつてこの映画をデートで観たかもしれない年齢の方々を中心に、
若い人たちもたくさん集まっていました。

ピンクの集団が目にも騒がしかったであろうバービー上映の映画館とは、
次元を別にする世界とも思えて、わたしは実に興味深く眺めていました。

古い白黒映画をレトロな大画面で鑑賞することができる小さな街の映画館。
その暗くて古い映画館のシートに身を埋め、ポップコーンを手に、
懐かしのスタアが演じる、もう何度も見たであろうシーンに観入る。

これもまたアメリカにいまだに残る、映画という娯楽のひとつの楽しみ方です。

続く。




ゴールデンゲートブリッジの「飛び込み防止策(柵)」〜サンフランシスコ滞在

2023-08-14 | アメリカ

毎年のようにアメリカに来ていますが、来るたびに、
いわゆるLGBTQいろいろの配慮がすごくなっているのを感じます。

広告を見ていても、今時白人の家族だけが出てくるものは稀で、
ほとんどが黒人、たまにヒスパニック系、まれにアジア系。
アメリカにはアフリカ系しかいないのかと思えるほどです。



バンドエイドの世界すらこんな配慮をしていました。
肌の黒い人って、バンドエイドの色が気になるものなのか?

それとも、このあたりに配慮していると言う企業のアピール?



人種や肌の色はもちろん、最近はエイジズムとかルッキズムとか、
一昔前は誰も使わなかった言葉にも市民権が与えられているわけですが、
スーパーの洋服売り場は、年齢はもちろんいかなる体型も差別許すまじ、
ということなのか、大きなサイズの売り場が年々拡張しています。

品揃えもアメリカ人の標準体型がボリュームゾーンとなるので、
彼女らに比べるとスリムな日本人女性の選択肢はますます狭まるばかり。



昔は細身の健康的なモデルさんを使っていた(に違いない)店内ポスターも、
太った人、アフリカ系太った人、痩せた人が各人種取り揃えて
みんなでにっこりと仲良さそうに並んでいる写真が主流となっています。

ほとんどのアメリカ人はそのうちのどれかに自分が当てはまるので、
企業がこうやって肯定してくれれば、太り過ぎや年齢を恥じることなく、
安心して商品を買うだろうと言う戦略なんだと思います。


しかしそれにしても、このモデルさんのカテゴリは何だろう。
・・・これって白斑ですよね?

これも「個性」と捉えてのことなのか?

■ フォートポイント



一度ゴールデンゲートブリッジの袂から、アルカトラズを眺める海岸線、
クリッシーフィールドに歩きに行きました。


ここに来るのは一年ぶりですが、前にはなかった看板があります。

砦を守る 

1850 年代、アメリカ陸軍は、この露出し、風が強く、
波に洗われる地点を、サンフランシスコ湾を守る主要な要塞として
理想的な場所としてランク付けしていました。

南北戦争時代、要塞は敵の砲火にさらされることはありませんでしたが、
現在は海面の上昇とより大きな嵐の波による攻撃にさらされています。

地球の温度上昇は、主に化石燃料の燃焼など人間の行為によって引き起こされ、
氷河を溶かし、海水を膨張させ、嵐の強度を増大させています。
海面上昇に直面しているわたしたちは、海岸を守るという軍の伝統を
どのようにして受け継いでいったらいいでしょうか?


なんと、エコ啓発でしたか。

そして、あなたの今立っているところは、海面上昇によって
嵐が来たらそのときは飲み込まれてしまうでしょう、とあります。

具体的に陸軍の時代より海面が上昇したという数字が全くなく、
単に「海面上昇したらここは無くなってしまうかも」という、
まあいうたら脅かしのためだけに設置された看板のようです。



■ ゴールデンゲートブリッジの「自殺防止対策」

昔、「橋から飛ぶ人々」とかいう題で、当ブログでも
なぜか多くの自殺志願者を惹きつけてやまない?
自殺の名所ゴールデンゲートブリッジについてお話ししたことがあります。



今回訪ねてみたら、ブリッジは対策工事の真っ最中でした。


現地にあった説明によると。

”物理的な”自殺抑止システム

橋の西側と東側に自殺抑止システムが設置されています。
命を救うためのシステムは、ゴールデンゲートブリッジ構造に接続された、
スチールストラットで支えられた水平ステンレス鋼ネットです。

ネットは歩道の約20フィート下、橋から約20フィート水平に伸びています。
サウスアプローチ高架橋、フォートポイントアーチ、吊り橋、
ノースアプローチ高架橋には、この保護バリアが取り付けられます。

橋の北端にあるコンクリート橋の手すりの上に設置された
高さ12フィートのピケットフェンスによって、さらなる保護を試みます。



こうやって物理的に阻止されたとしても、その意思さえあれば、
柵の端に行けば簡単に目的は達せられるんだがなあ・・・。



まあ、ボランティアがパトロールして、それらしい人を見たら声をかけ、
話を聞くという活動だけでも、少なくない人が思いとどまるらしいので、
この柵によって出鼻をくじくことにも一定の効果があるのかもしれません。


工事は現在も継続中です。



■ 陸軍飛行場時代のクリッシーフィールド



これはその途中にある休憩所兼お土産店の内部の写真ですが、
今回来てみたら内部が改装されていました。



そして天井側の壁には、ここが軍使用されていた頃の写真が、
ちょっとした説明と共に展示されていました。

太平洋への玄関口

サンフランシスコのプレシディオは、スペインによって、
1776年に設立されたのが始まりです。

その後、1847年、それはアメリカ陸軍の前哨基地となりました。
第二次世界大戦が始まるとここでの活動はピークに達し、
何千人もの兵士が門を通り抜け、太平洋戦域に向かいました。

かつて飛行機の滑走路だったフィールドは、今草地になっており、
人々の憩いの場所として手付かずの状態で保存されています。

この写真で後ろに写っている建物は全て現存します。



ゴールデンゲートブリッジをバックに、
ここクリッシーフィールドを行進する女性部隊の写真。



WACS(陸軍女性部隊)のステップアップ

男性兵士の不足は、1942年に女性陸軍部隊の創設につながりました。
1944年にプレシディオに最初に配属されたWACは、
医療技術者、メカニック、ドライバーなどの任務についていました。
1978年、WAC部隊は正規軍に統合されました。




当ブログで何度か取り扱った黒人だけの部隊、
「バッファローソルジャーズ」です。



バッファロー・ソルジャーズ

1900年代初頭、黒人ばかりの部隊、第24歩兵連隊と第9騎兵隊の有名な
「バッファロー兵士」がプレシディオに駐屯していました。

夏の間、彼らはシエラネバダの国立公園を保護し、
私たちの国の最初のパークレンジャーの一部として機能していました。





フィールドに整列した自動車部隊。



説明はありませんでしたが、ここには
日系人からなる諜報部隊がありました。

写真のデイブ・オオクボ陸軍上等兵(そんな名前だと思う)もその一人です。

■ フォートポイント



ゴールデンゲートブリッジがまだなかった時代に、
フォートポイント基地はここにあり、ここから海上に向けて
ずらりと並んだ砲口が海からの敵を迎え撃つ用意をしていました。

バーベットティアの歩哨

ちなみにフォートポイントの屋根は
Barbette Tier「バーベット・ティア(層)」
と呼ばれていました。

バーベットという言葉に聞き覚えがあると思ったら、
軍艦搭載用の砲台構造のことを指す用語でしたよね。

具体的には上甲板に突き出した円筒形の装甲部のことで、
その頂部に火砲が設置されるようになっています。

当時、陸または海からの攻撃から守るために、
ここに取り付けられた21の大砲に兵が配置されるようになっていました。

これらのキャノンマウント「En barbette」
厚さ7フィートの外壁を打ち破るだけの破壊力を持っており、
木造船ならゴールデンゲートに入る前に撃沈することができました。

「かつてここを敵の船が通過できたことはなかった」

ここにはそう書かれています。


折に触れてご紹介しているように、この一帯には、
ゴールデンゲートから敵を侵入させないためのフォートがいくつもあり、
海上に向けた砲台でハリネズミのように守られています。


前回訪れた時には目にしなかった新しい説明板がありました。

昨日、ハワイ諸島のエマ女王御一行が港の要塞を訪れました。
訪問者は埠頭に着陸し、徹底的に検査されたフォートポイントまで歩きました。

第2砲兵隊の素晴らしいバンドは絶妙な音楽を奏でていました。

視察の後、御一行はバーベットバッテリーから演習を観覧しました。
ターゲットはライムポイントの根本です。

発射は絶妙で、すべてラインショットであり、
ターゲットの東端で1つの砲弾が爆発しました。

アルタ・カリフォルニア

1866年10月4日

エマ女王(Queen Emma of Hawaii、1836- 1885)は、
ハワイ王国の国王カメハメハ4世の妻で、王妃です。


こちら側の窓は太平洋側に向いていませんが、それでも
一つ一つの窓に銃が設置できるような作りになっています。


経年劣化で元々の金網が破れてしまったので、
侵入禁止のため外側も新たに金網で覆っています。



この日はフォートの内部に入ることができました。
散歩の途中でしたがちょっと立ち寄ってみることに。

前にもここで紹介したことがあるかと思いますが、
入り口を入ってすぐのところに、旧監房の窓があります。

オールド・ジェイル(旧監房)

ここには3部屋の監房があり、ここでの勤務中、
軍規に違反した(主に反逆)兵士を収監するためのものでした。

写真に写っているのはそのうちの独房です。
この地域の寒さは半端ないので、暖房なしの個室に入れられただけでも
かなり肉体的に辛い「懲罰」となったことでしょう。



フォートの中庭を囲む周りには武器が展示されています。
ちょうどこのとき、星条旗の飾ってあるベンチの置かれたところで、
説明が始まるというアナウンスがありました。

一瞬心が動いたのですが、それを押し留めたのがあまりの寒さ。

ご存知のようにここは海流が冷たい空気を運んできて
夏でも強風と霧で震え上がるほどの寒さになります。

ただ海岸沿いを歩くだけと思ってパーカーしか着ていなかったので、
諦めてフォートを後にしました。


フォートポイント横のブリッジ真下を望む場所は立ち入り禁止。
金網にいつしか出現した両手のシルエット(犬用も下にある)を、
わたしは今回まで「折り返しにタッチしてねというお茶目なサイン」
だと思っていたのですが、これが全く違いました。

このサインは「ホッパーの手」と名付けられており、
橋梁の鉄工であり、自殺者救助のボランティアであった
故・ケン・ホッパーの手のシルエットをかたどっています。

自殺者救助のボランティアに参加した鉄工職人、ケン・ホッパーは、
行き止まりのこの場所でジョギングやウォーキングをする人たちが、
フェンスに触れてから引き返すのを発見した後、橋の看板塗装工に
2つの手の指紋のシルエットが描かれた看板を作るよう依頼したのです。

この手には、その後亡くなったホッパーの遺志が込められているのだとか。


しかしながら、その同じ金網には、
死者に捧げる花束や花を活けるための小さな瓶、
そして「ジャンプ」した誰かの写真までが「お供え」されているのでした。

これってどうなんだろう。

うまく言えませんが、ここを自殺者の追悼の場として聖地化することは
おそらく一人でもそういった人を救うために奔走していた
ホッパー氏の遺志には微妙に添っていないのではないかという気もします。


続く。


オークランドの「座頭市」〜ベイエリア滞在

2023-08-08 | アメリカ

家族が揃って滞在している間に、サンフランシスコに行くことにしました。
今住んでいるパロアルトからサンフランシスコまでは、
平日の通勤時であっても1時間かかることはありません。

今回はコーヒーとお茶に凝るMKの強い希望により、
オークランドにある有名なロースターを「聖地訪問」し、
その後、去年も行ったサンフランシスコのティーショップを訪ねます。

10時にMKを寮まで迎えに行って、11時までに到着したら、
オークランドで美味しいコーヒーとブランチを楽しむという計画を立て、
いざ車を出発させようとドアを開けた瞬間です。

■レンタカー トラブル発生!



ただ事ではない事態を告げる禍々しいping音が鳴り響き、
エンジンがかからない状態に・・・。

パネルに次々と警告が流れるのですが、
どうやらエンジンが不調なので点検を受けろということらしい。

とりあえず、レンタカー会社にロードサービスを頼もうとしたのですが、
まずイマージェンシーサービスの電話に誰も出ない。

やっと出たと思ったらそれはとてつもなくやる気のない人で(TO談)
しかも、なんかいきなり電話が通じなくなって切れてしまいました。

あーこれは1日潰れたな、と内心覚悟したのですが、
エンジンを切った状態で放置しておいたら、電源が完全に切れたので、
(車に乗ると同時にパネルが点灯し自動的に電源が入ってしまう)
えいやっとスタートボタンを押してみたら、なんと始動!

「かかった!」

「いえーい」


一応これでドナドナを1日待つ必要はなくなりました。
しかし、エンジンマークが点灯していたので、そのままMKを拾い、
レンタカーセンターまで持っていって車を交換することにしました。

ところが、問題はここからだったのです。

まず、車の返却場所で手続きをしていた男性がやらかしてくれました。
ステータスを「交換」ではなく「返却」にしてしまったのです。


そういえば、返却確認係の男性(白人)は、妙に日本語の上手い人で、
手続きのとき、ほとんど日本語を喋っていたので、最後に
日本語上手いですね、と褒めてあげたのにかかわらず、なんか変な反応。

あ・・・まあ・・・みたいな感じで、これは今にして思えば、
自分がミスをしてしまったことに気づいて絶賛動揺中だったのでしょう。

日本語なんか喋れなくていいから、せめてとんでもないミスはしないでほしい。

この日はさらに運の悪いことに、日曜日の昼前で、
レンタカーセンターはメンバーシップ保持者のブースすら長蛇の列。

しかも、やっと順番が来たと思ったら、
そこで初めて返却係のミスを知らされました。

「契約がクローズしてしまっていますが、わたしには復帰させられません。
向こうの一般カウンターにいるマネージャーのところに行って」


とカウンターのタメラと名札をつけた黒人女性に言われてまず愕然。
がっかりしながら一般カウンターに行ったら、さらに呆然。

そこは待っている人100人に対し、開いているカウンターは5つあるかないか、
みたいな世界で、今度こそこれで1日潰れることを覚悟したものです。

ところがそこで意外な救世主?が現れました。

先ほど同じメンバー専用デスクで、わたしたちと同じよう目に遭いながら
散々待たされたうえ、こちらにたらい回しされてきた白人男性が、
盛大にキレまくってくれたのです。

「何のためのプライオリティメンバーなんだ!?
わたしはここで30分も待たされている!子供も待たされているんだ!
しかもその理由は、あなた方の不手際じゃないか!」

と大声で注目を集めつつ文句を言ったせいで、マネージャーが出てきたのです。

もしかしてこの後ろに並んで待てばいいんじゃね?と、わたしたち、
3人でプス・イン・ザ・ブーツみたいな顔をしてオーラを送りまくったところ、
マネージャーが首を伸ばして何があったのか聞いてくれ、
その次の次に書類を書き換えて配車まで済ませてくれました。

彼が作業をしながら日本のどこからきたの?と聞くので答えたら、

「わたし入隊で佐世保にいたことがありますよ。3年だけでしたけどね」

おおなんという海軍的ご縁(?)。
サセボバーガーを知る人がこんなところに。

しかも佐世保マネ、「いつもはやらないんですが」
といいながら、料金をごっそり値下げしてくれるではないですか。

というわけで、1日かかるかと思われた手続きも昼には終わり、
新しくゲットした車に乗ってわたしたちは諸々の幸運を喜び合いながら
オークランドに向かってベイブリッジを渡りました。

(ただし、このレンタカーの話には続きがあります。)

■オークランドのレジェンドロースター


要らんことに時間を奪われたものの、昼過ぎに
オークランドのロースター「マザータング」に到着。

日曜日でしたが人はあまり入っていない状態です。


全体的にピンクがかった色をしているのは、ガラスがピンクだから。



テーマカラーがこれなので、店内もピンクです。



わたしはいつものプアオーバーブラック、真ん中はMKのラテ、
右側はTOのオーツラテ。



ブランチのつもりが時間が押したせいでこれがランチになってしまいました。
豆腐とサーモンのオープンサンド、チーズとオリーブの盛り合わせ。

意外なことに?豆腐のサンドが激うまでした。



食事が済むとMKがいきなり「ドーナツが食べてみたい」と言い出したので、
米粉のポンデケージョとチョコスプリンクルがテーブルに並びました。
3人ともドーナツは何年振り(わたしは何十年振り)というレベルです。

一口だけでしたが、その危険な味わいに思わずゾクゾクしました。


吹き抜けの高い天井の壁には映像が投影されていました。
驚いたことに、これが勝新太郎の「座頭市」シリーズだったのです。

同シリーズはあまりにもたくさんあって、そのうちどれなのかわかりませんが、
音声なしで映像を見ているだけでも「お約束展開」なので
完全に話の筋がわかって最後まで楽しんでしまいました。



帰りにおすすめのコーヒー豆を選んでもらい購入して車に戻ると、
「ウマミ マート」という日本酒専門店を発見。

日本の酒以外にも、凝った日本の食品などを扱っているおしゃれなお店で、
店内を見ていると、アメリカ人男性が入ってきて、
お店の人に酒を選ぶのを手伝ってもらって買い物をして行きました。

ちなみにサントリーの「響」が110ドルでしたが、
これは日本で買うより安いかもしれないとのことでした。

■ サンフランシスコでインド系アメリカ人と日本語で会話する



オークランドからベイブリッジを逆に渡り、
去年も訪ねたお茶の専門店、「ソング・ティー」に到着しました。
前回は街全体が賑わっていて車を止めるのが大変でしたが、
この日は街角のカフェも営業していないし、人影まばら。

サンフランシスコの日曜日の午後って、こんなじゃなかったのに・・。


ここは抹茶(手前の箱)もあれば、台湾のお茶も豊富で、
オーナー(白人女性)のお茶に対する情熱とこだわりが反映された店です。

ティールームではなく、葉を売っているだけなのに、
試飲会などのイベントの参加チケットは瞬時に売り切れるのだとか。

この日店に入ると、可愛らしい声の中国系の店員さんが、
「今日のお茶」の試飲を勧めてくれたので、
それを味わいながらお茶の葉っぱの匂いを嗅いだり、
オーナーに質問したりして過ごします。


店内では主に中国系作家の茶器を展示販売しています。



つい買ってしまいそうになった木彫の犬のカードホルダー。
これも売り物です。

わたしたちがいる間、ほとんど人の出入りはありませんでしたが、
男性二人が試飲しながらすこし過ごして出て行ったあと、
インド系の若い男性がひとりで入ってきて、わたしたちに
流暢な日本語で「もしかして日本の方ですか」と話しかけてきました。

彼は店の外からわたしたちを日本人だと見当をつけて、
日本語で話すために店に入ってきたらしいのです。

TOとMKがお茶を探している間、ずっとわたしが話し相手をして、
彼のことを聞いたりしていましたが、それによると、彼はオレゴン生まれ、
高校生の時に日本語を学校で習ったといいます。

しかし、驚いたのは、彼の日本語がほぼ完璧だったことです。

今時の日本の若者が使わないような言い回しすらあったので、
日本に行ったことがあるのか聞いたところ、彼はミネソタ州立大学に進み、
そこで化学を専攻したのですが、就職の段階で住んでいた
コネチカットにMiyoshiという化学薬品系の日本企業があったことから、
そこでの仕事の期間日本(千葉?)に滞在したこともあったとか。

そして今は別の会社でリモート中心の仕事をしており、
ソングティーから歩いて10分くらいの場所に住んでいるとのことでした。

今の仕事に日本語は全く必要なくなってしまったので、
彼はこのように暇そうな?日本人を見つけては話しかけ、
会話のスキルを維持しようとしていたのかもしれません。

「仕事をする上でアメリカ人に生まれてよかったと思う?」

と何となく聞いてみたら、

「日本やアメリカなどに生まれたら仕事の選択肢が多いのがメリットだけど、
逆に選択肢が多すぎて、僕は高校生の時は何も選べませんでした。
医者とか弁護士とかなりたい職業がはっきりしているならともかく、
その歳で自分が何になりたいかなんてわかる人の方が少ないかもしれない」


だからその行く道を岐路に立つたびに選択してきた結果、
今の自分があるわけだけど・・、と彼は答えました。

「それで、今のところは自分の状態に満足してる?」

「まあまあですね。給料もいいし(笑)」

そのとき、二人が近づいてきて「買い物すんだよ〜」と言ったので、
じゃあ行きますね、グッドラック、といって手を握りました。

最後に名前を教えてください、というので全員が名乗り、
彼は自分を「アパチャ」だと名乗りました。

来年もしこの地域を訪ねたら、そこにまだアパチャくんはいるでしょうか。


■ 再び車を交換

せっかく佐世保在日米軍出身のマネージャーが配車してくれた代車ですが、
わたしは猛烈に不満でした。

一応同じ車種と言いつつ、最初の車が最新型だったのに対し、
こちらは4年落ち。タッチパネルなし。インテリジェントキーなし。
おまけにテネシーナンバーだったりして、乗れば乗るほど不愉快になります。

こちらの都合ではなく整備不良で交換を余儀なくされたのに、
この凋落?ぶりに、次の日にはもう我慢できなくなって
わたしはもう一度車を取り替えてもらいに空港に行くことにしました。

そして、車を返すと、プライオリティメンバーのデスクに行く前に
前回と同じ最新型の別の車が返却されているのを確かめました。

並んでいると、チェック係?が何で並んでるのか聞くので、
これこれこうなのでこの車に変えてほしいというと、その黒人女性は、

「この車が気に入らないとかタッチパネルがないから嫌とか、
そんなのいちいち対処していたらこちらもキリがありませんよ。
そんなのこちらとしても担保できません

と意地悪く諦めさせようとしてきます。

「いやでも、最初の理由は車の故障だったですよね?
その代わりの車があまりにひどいからきたんです」

「故障でも気に入らないでも交換は3回までよ!」


と何が何でもここで諦めさせようとします。
でももう車返しちゃったもんねー。

「じゃあまだ2回目なんで大丈夫ってことですよね?」

「じゃやるだけやってみれば?無理だと思うけど」


厳密にはこんなやり取りではもちろんありませんでしたが、
わたしはそのように聞こえました。

そして順番を待ち、呼ばれたデスクに行くと、なんとまあ、
そこに座っているのは昨日と同じ、タメラさんではありませんか。

「あー、あなたね。覚えてますよ、あなたのことは。
また何かあったんですか」


おお覚えてくれてましたか。それなら話は早い。
今すぐこの写真の新車に取り替えてくれ。気に入らないから。

「そんな理由では無理だと思いますよー?
しかもそこにあるの貸せとか、無理ー」


しかし、そういうことを決定する権限は彼女にないらしく、
マネージャーに聞いてきます、と、書類を持って奥に行きました。

しばらくして出てきた彼女は、

「OKが出たのでおっしゃる車に交換できることになりました」

おそらく、佐世保マネージャーも昨日の今日でわたしを覚えていたらしい。
書類を完成させた彼女に、わたしは、

「タメラさん!本当に助かりました!ありがとう!」

と盛大にお礼を言うと、名前を呼ばれて悪い気はしなかったらしく、
最後に彼女はにっこりと笑ってくれました。

まあ、彼女ははっきり言ってこの件についてお礼を言うようなことは
何もしてくれなかったわけですが、少なくとも窓口でピシャッと断らず、
マネージャーに繋いでくれたことには感謝すべきでしょう。



そして2台目として乗ることになった車は、これまでのベストでした。

アメリカでは決して遠慮したり諦めてはいけない。
(教訓)


■ オークランド再び

週末、マザータングの近くにあった良さげなエスニック料理を試したくて、
わたしたちはもう一度オークランドまで車を飛ばしました。



このお店のカクテルメニューに注目。

Spirited Away(千と千尋の神隠し)
KIKI's Delivery(魔女の宅急便)
Firebender(アバターの技)
The Moving Castle(ハウルの動く城)
Hayao Spuritz(駿の魂スピリット)
Ghibli Magic(ジブリの魔法)
Airbender(アバターの技)
Totoro's Gimlet(トトロのギムレット)

バーテンダーはジブリ好き(確信)


ここはビルマ料理店で、ロティとカレーが最高でした。
あと、チキン、ビーフカレー、豆苗のサラダも激うまでした。

食後、マザータングがバー営業していると言うので行ってみました。
MKとTOはコーヒーのカクテルを楽しみました。



相変わらず店内で座頭市がエンドレスで流れており、
今回この作品が「座頭市逆手斬り」であることが判明しました。



なぜマザータングが座頭市一本槍なのかは謎のままです。


続く。




シリコンバレー流エスニック〜アメリカ パロアルトに住む

2023-07-30 | アメリカ

パロアルトでの最初の家の宿泊期間が終わりました。
このAirbnbの部屋は大当たりで、大変居心地が良く、
オーナー夫妻は誠実で親切、さすがはスーパーホストの物件でした。

あと2日でチェックアウトという夜中にトイレの水洗レバーが折れ、
次の日、連絡すると、すぐに配管工を呼んで直してくれたものです。

余禄として、部屋の前を連れられて通る、明るい茶色のモフモフした大型犬
(わたしたちはから揚げくんと呼んでた)を見るのが楽しみでしたし、
向こうも我々の滞在に満足してくれたらしく、
後に行われる互いの評価でも、最高のグレードをつけてくれました。
(掃除の必要がないくらい綺麗にして出て行ったのが良かったようです)

というわけで、次のAirbnbに引っ越ししました。
次の家は、ここも大学までは車で6分の距離という地理の良さです。





アメリカには良くある、一つの敷地に4軒同じ作りの家が集まっている、
建売の集合住宅で、おそらく築年数は80年くらい経っていると思われます。

玄関のドアを開けたらそこはリビングルーム、靴脱ぎはありません。
前のオーナーと違って、家は土足でもOKのようでしたが、
どうしてもそれを受け入れられないのが我々日本人のDNAというものです。

ここのオーナーはアラブ系アメリカ人の技術者夫妻のようですが、
壁の絵はゴッホやカラヴァッジョ、クリムトなどの泰西名画であり、
インテリアを見る限り、エスニックな雰囲気は全く感じられません。


オーナーは、使っていない家を貸し出しているのではなく、
普段本当にここに住んでいて、夏の間長期の借り手が出たら
自分たちはヨーロッパに長期旅行にいくことにしているようです。
つまりサブレット的な活用をしているようでした。

いわゆる「スーパーホスト」(貸し出しを生業にしている人が多い)
ではないので、家は極力片付いていましたが、至る所に「生活の痕跡」が。

ちなみに子供のうち一人の男の子はサッカー少年のようです。

写真の小さな庭の生垣の向こうは幹線道路に面しており、
さらに道路はカルトレインの線路に面していているため、
気になる人にはかなり気になるレベルの騒音は避けられません。

そのため、この一角の住宅地としてのバリューはそう高くなく、
前回のような世帯収入の高そうな家の街並みではありません。
もっとありていに言うと、ヒスパニックなど移民系が多め。


暖炉はアメリカのほとんどの古い家に(アパートでも)備えられていますが、
現在、これを暖房に使用している一般家庭は限りなくゼロです。

大抵は装飾として本棚や飾り棚になり、せいぜいクリスマスに
横にツリーを置く場所という認識となっています。
しかし、たいていの家ではこれを取ってしまうことをしません。
火は灯らなくてもマントルピースは家庭の居間につきものだからです。

リビングの大きなテレビで、ここに来てからAmazonプライムで
(オーナーのアカウントで観られるようにしてくれていた)

「マリリンと僕の1週間」
「マミー・ディアレスト」
(ジョーン・クロフォードの暴露本がネタ)
「アルキメデスの大戦」(英語版)

を観ました。

「マミー・ディアレスト」は日本では「愛と憎しみの伝説」という題で、
その年のゴールデンラズベリー賞を総なめにした怪作?です。
さすがというか、一度見たら忘れられない不気味な映画でした。


こちら主寝室はTOの部屋になりました。


こちらの子供部屋は、ピアノがあることから自動的にわたしの部屋に。

二段ベッドの下に寝てみたら、マットレスが体の重みで沈み込んで
まるで気分は蟻地獄の蟻になったようだったので、
次の日IKEAに行ってマットレスの上に乗せるトッパーを購入。

しかし問題は、ここからでした。

寒かったので上の段の掛け布団を使おうとしたら、あまりにも臭くて断念、
枕カバーを洗おうとして2枚かかっているカバーを剥いだら
なかから煮染めたようなしかも臭い枕が出てきて驚愕。
トイレを掃除しようとしたらトイレブラシが汚くて愕然。

なので、着いて二日目には、すべての掛け布団と枕とシーツの漂白、
風呂掃除、IKEAで1ドル99のトイレブラシを買いトイレ掃除、
ついでに、生ゴミを入れるゴミ箱(臭かった)内部の清掃を行いました。

掃除が行き届いていないのは、Airbnbにはありがちなことといえ、
少なくともオーナー本人は、物件の清潔さに自信たっぷり。

これをどう評価に反映させるかなあ、と今悩み中です。



ピアノはまたしても聞いたことも見たこともないメーカーのもの。
ここに来て以来、一度も調律されたことがないと断言できる状態です。



キッチンはアメリカンサイズの小、日本では特大です。
オーブンも食器洗い機もあり、奥にはランドリーコーナー。


キッチンの向こうには、小さな(といってもソファが入る)書斎があり、
オーナーの仕事部屋らしく、プリンターまで設置してありました。

元々勝手口というか、ガレージから近い出入り口として
補助的に設けられたドアは、今使用されていません。



わたしはデスクワークをほとんど立って行うので、
クローゼットからちょうどいい高さのチェストを持ってきて改造しました。


書斎の外は、家とガレージの間の隙間となる「中庭」的なスペース。
午前中日光浴を兼ねてここでコーヒーを飲むこともあります。

世界的に異常気象とやらでどこも暑いようですが、
ここは少なくとも夜間と朝方はまだまだ涼しくて快適です。

写真の大きな木では、ときどき黒リスと茶色いリスの覇権争いが行われ、
ぐるぐる幹を回って追いかけっこする光景はちょっと見ものです。


犬がいたのかな?


お向かいは女児二人のヒスパニック系家族。
右側は、若い白人系カップル、どちらも仕事で出かける多分技術系ワーカー。
隣はBMWのサブに乗っている中年の独身白人男性、白犬持ち。

3日も経つとご近所さんの様子がわかってきました。


一度だけ前の道を歩いてみたら、インコがいなくなったという貼り紙発見。
情報提供がインコの帰宅につながれば賞金100ドルと言っています。

さて、物価高騰の折、基本自炊のわたしたちですが、



ある日、塩ラーメンを作ってみました。
もやしはアメリカではすっかり市民権を得ており、入手しやすくなりました。
フォーなどのエスニック料理がポピュラーになったからでしょう。

今年はなんと、「ジャパニーズ・エッグプラント」という商品名で、
こちらのくびれのない直径10センチの不気味な茄子と違う、
日本のナスが買えるようになっていたので、さっそく塩麹でつけてみました。


こちらはMKの愛用するレシピブックで作ってみた、
煮込みスープとチキン、シラントロをたっぷりご飯にかけていただく料理。

MKは料理もコーヒーを淹れるのも、きっちりと分量を量り、
絶対にアレンジしない派。(わたしはどうしてもしてしまう)


2回目の外食は、MKのおすすめでロスアルトスの日本料理に行きました。

この日はロスアルトスの商店街でワインフェアが開催されていて、
テントの向こうでは地元の素人バンドのロックコンサートが行われており、
ステージの前では多くの人々が踊っているという光景が展開していました。



しかし、このワインフェアのおかげで交通規制があり、
思ったように駐車場に車が停められず予約の時間に遅刻してしまいました。

時間になって、お店の人から確認電話がかかってきたのですが、
全く訛りのない日本人の日本語だったそうです。


アメリカではありそうでない、アレンジなしの日本定食。

小鉢にきゅうりのキューちゃんが来るあたりが日本らしい。
元々や焼き鳥屋なので、何本か試してみたらかなりイケました。

■日本スーパーとDAISO JAPAN


現地在住の友人に「アメリカ人は料理をしない」と聞いたことがあります。

それじゃ何を食べているのかというと、冷凍のディナーセット。
一皿に一人分の肉と付け合わせが混在している冷凍食品を、
食べたい時に食べる人がレンジで温めて、部屋で食べるのだそうです。

まさか、そんなの一部のアメリカ人だよね?

と聞いたのですが、実際に彼女の妹の嫁ぎ先というのがそれで、
息子を全員アイビーリーグ出身の専門職に育てあげた母親は、
それこそ息子が「料理をしている母親をみたことない」
というほど料理しなかったそうです。

というわけで、実際にそういう層が一定数いるアメリカでは、
そのニーズに応えるため、どんなスーパーも冷凍食品は充実しています。

写真は、一列すべてできあいの冷凍品というホールフーズのコーナー。

パンケーキくらい面倒がらずに焼けよ、と思うのですが。
第一、冷凍のパンケーキやワッフルなんて美味しいんだろうか。


さて、前々回りクエストを頂いたので、
サンノゼのミツワにいったときに写真を撮ってきました。

ベイエリアには「ミツワ」「ニジヤ」という二大日本スーパーがあり、
このミツワは地域で最も大きな店舗です。


従業員募集のポスターに描かれたマスコットキャラがきもい。
ちなみに従業員は日本語が喋れなくてもいいようです。
見た目日本人のレジの人に日本語で話しかけたら、全く通じませんでした。


こちらの従業員募集は萌えキャラ風。


同じモール内にはあの「シャブウェイ」(SHABUWAY)もあります。
もちろんしゃぶしゃぶ専門店です。
凍った肉を自分で鍋で煮て食べるキワモノですが、まあまあいけます。


この日、ミツワのあるモール内を探検してみました。
モールはミニジャパンタウン的に機能しているようで、
一角には日本語の看板をかけた道場がありました。


コミュニティセンターと道場を兼ねたスペース。
畳では柔道、空手、剣道などの教室が開催されているようでした。
もしかしたら茶道とか書道もやっているかもしれません。


車上盗の注意喚起ポスター。
中のバッグを盗もうとして窓を割った決定的な瞬間が
鮮やかに記録されていますが、どうして首から上だけカットするのか。


同じモールにあるダイソーはオープンと同時に人が詰めかける人気状態。
しかも客のほとんどがアメリカ人で日本人はどうやら一部です。

ダイソーが成功したせいか、アメリカでは「ワンコインショップ」が
ところどころにできましたが、いかんせんアメリカのそれは
おいてある商品に全く魅力がないので、アメリカ人がそちらではなく
DAISOに来てしまう理由はよくわかります。

■ ザッカーバーグ御用達パキスタン料理


ある週末のランチ、商店街のパキスタン料理に行ってみました。
日本でもインド料理のほとんどはパキスタン人がやっているそうですが、
インド料理を標榜しないと客が来ないそうです。



オーダーは、いまどきレジで口頭で伝えるアナログ方式。
やたらインド系が多いこの地域、しかもここはシリコンバレーだというのに 
この効率の悪さはいかがなものか。


ここでオーダーし、番号札を取ったら好きな席に座って
サーブされてくる料理を待つという方式です。



カレーセットとインドバーガー(笑)そして右側はインド風ナンラップ。

ここにいると、ときどき隣にザッカーバーグが座っているそうです。
その頻度がなかなかなので、どうやら彼はここが好きらしいと言う噂。

きっと彼はここのアナログオーダー方式なんて
なんとも思っていないものと思われ。


そして、アメリカに来たら一回は食べておきたい、ハンバーガー。
パロアルト高校の向かいのショッピングセンターで人気のバーガーです。

何度もここで言及しましたが、アメリカのハンバーガーはマジ美味しいです。
バンズのふわっとしたイケナイ口触りとパテの絶妙な配合は、
さすがにこれが国民食と標榜するにふさわしい伝統と匠の技。

ちなみに左上のはわたしが頼んだ「アヒツナ・タコス」です。



アヒツナといえば、VERVEコーヒーの隣に、
ポキ丼やアヒツナ丼が食べられるおにぎりの店、
「ONIGILLY」というのがあって、人気らしい。


トレーダージョーズで「明確な」というウィスキーを発見。
絶対こんなの日本人のネーミングセンスじゃねえ!と思ってラベルを見たら、
兵庫県の野間川?ぞいで作っているお酒だそうです。

ここ何年かで、どんどん世界がグローバルになって、
少なくとも食に関してはエスニックが当たり前のように溶け込んでいるのが、
最近のシリコンバレー周辺という気がします。


続く。




”パリー”とガン高校〜シリコンバレーの高校生

2023-07-19 | アメリカ

ここパロアルトでの生活もはや3週間になろうとしています。
この間のことをつれづれにご報告させていただきます。



最初に住んだプロフェッサーズ・ビルでは毎朝近所を歩きました。
この一帯は緑が多く街路樹が影を作るので、とても快適です。
(西海岸のトレイルは海岸や川沿いで日陰がなく、陽が高くなると過酷)

住人が設置した妙なオブジェに出会うのもまた一興。



ある朝、何年か前Airbnbではない業者を通じて借りた
インド人がオーナーの部屋を見つけました。

外から見るといい感じですが、典型的なアメリカの古い家で、
中はあまり清潔とは言い難かった記憶が・・・。

あれは確かトランプが大統領になった年でした。


いつもは東海岸から西海岸に移動しますが、今年は
最初から最後まで西海岸に滞在します。
移動がないので交通費は安く上がりますが、
物価の高騰は結構凄まじく、極力外食は控える方向に。



しかしたまには家族での外食も楽しみたい。
なにしろここはあらゆるエスニックな料理が楽しめる西海岸です。
最初の外食は、モールの中にあるパエリアの店でした。
鍋は大きいですが、レストラン側も物価高に腐心しているらしく、
ライスの量は限界まで減らされていました。
鍋底まで深さ1センチくらいしかなかったかもしれません。

これを3人で食べるのは、いかに少食の我々でも少々もの足りませんでした。

■ パリー〜全米一〇〇の多い高校


このモールの道向こう側にパロアルトハイスクールという高校があります。
地元では「パロ高」的なノリで「パリーPally」と呼ばれています。

位置的にいうと、モールと並んでおり、目の前の幹線道路の向こうは
総合で全米1とも2とも言われる有名大学があるわけです。

昔からここに来るたびに、なんとなくですが、
この高校に通う生徒は、なまじ道向かいにあるこの有名大学の存在が
プレッシャーみたいになっていないのだろうかと思っていました。

今回ふとしたきっかけで、「パリー」の創立は向かいの大学とほぼ同時期、
高校の敷地そのものが、その大学の提供によるものであることを知り、
さらにその疑念は強くなったのですが、それが確信となったのは、
MKがふともらした、

「あそこ、全米一自殺が多い高校なんだって」

という情報でした。
別に附属高校というわけではないまでも、隣にあって
歴史的な関係も実際の関係もあれば、その大学への入学を望む親は
他の高校より有利になるかもという思いで越境させるケースもありそうです。

しかしわたしの予想に違わず、パリーで優秀な子に限って、
プレッシャーに押しつぶされてしまうケースが後を絶たないようでした。

そして、この「近隣プレッシャー」は、パリーだけのことでなく、
やはりこの近く(大学より2ブロック南、車で5分以内)にある
パリーのライバル高、ガン(Gunn)ハイスクールもまた、
同じく自ら命を断つ生徒が少なくないと聞いて、わたしは戦慄しました。

そしてこんな記事を見つけました。

シリコンバレーの自殺者
The Silicon Valley Suicides


なぜパロアルトでは将来を嘱望された子供たちが自殺するのか?

ハンナ・ロージン
2015年12月号
救われた物語

空気が悲鳴を上げ、生命が止まる。
まず遠くから、怒った虫が群がるような高い鳴き声が聞こえ、
次に群れが移動するような踏みつけ音がする。

カルトレインの踏切を通り過ぎる自転車に乗った子供たちは、
学校から家に帰りたがっているが、その手順は知っている。
ブレーキをかける。電車が通過するのを待つ。

5両編成の2階建て車両が時速50マイルで駆け抜ける。
あまりの速さに、乗っているシリコンバレーの通勤客の顔は見えない。
駅に入ってくるカルトレインは速度を落とし、あなたを招き入れる。
しかし、踏切に差し掛かったカルトレインは、まるで救急車のように、
猛烈な勢いで警告を発してくる。



子供たちは、通過する列車が肌に感じる突風を発生させるまで待つ。
警報機が鳴り響き、念のため赤いライトが数秒間点滅する。
そしてゲートが持ち上がり、安全に渡れることを知らせる。

自転車、スケートボード、ヘルメット、バックパック、
バスケットボールのパンツ、賑やかな会話。

「お前何年間同じガム噛んでんだよ?」
「クイズ(試験)は来週だよ、バカ」

道路では、ミニバンが少し早すぎる左折をした。
パロアルトの春はいつもそうだが、空気はまた静かだ。
キツツキが近くで仕事をしている。
ハチはジャスミンを探しに行くのに熱心で誰も刺さない。

パロアルト高校の校庭、ガン高校の子供たちが放課後にたむろする
ピアッツァの食料品店のテーブル、真夜中過ぎの子供たちの寝室。

数人の生徒が、バレーボール・チームの恒例行事である
「スクービー・ドゥー」に扮して写真を撮ろうと、早起きしていた。

そのうちの一人、アリッサ・シー・トーは、
合唱室の外で1時間目が始まるのを待っていた。
徐々にクラスメートたちが彼女に加わり始めた。
窓からは、そこに詰めている教師たちの姿が見えた。

ヘンリー・M・ガン高校の他の教室では、約1900人の生徒が待っていた。
数分後、教師たちは外に出ていった。
アリッサは中の席に着いた。

2014年11月4日、ホームカミングの数日後、
大学入学願書が皆を熱狂させ始める1カ月ほど前のことだった。

教師は、「昨夜自ら命を絶った」という言葉を含む声明文と、
キャメロン・リーという名前を読み上げた。

アリッサはまずこう思った。

「うちの高校に他にキャメロン・リーって子、いたっけ?」

というのも、彼女が知っているキャメロン・リーは、
人気者でスポーツ万能、学業には無関心のようで、
人のリュックを裏返すという迷惑ないたずらの熱心な実践者だったからだ。

その日、アレックス・ギルが少し遅れて学校に着くと、
廊下で誰か泣いている人がいた。

校長のデニース・ハーマンは彼を呼び止めて話しかけた。
彼女はアレックスがキャメロンの親友の一人であることを知っていたからだ。

そのこと告げると、彼は床に膝をついた。

彼はキャメロンが前日に送ってきたメールのことを考えた。
キャメロンは、バレーボールのトライアウト(基準テスト)に行ったが、
メールをしてきた段階ではまだ健康診断を受けていなかった。

彼は死ぬ数時間前にそのメールを送ったに違いない。


註;アメリカの大学は、スポーツ枠があり、隣の名門大学も
フットボール、野球、バレー、各スポーツでの推薦入学者を取っている

後日、ターン・ウィルソンは、創作の授業で、
キャメロンと友達だった人はいるかと尋ねると、
生徒の3分の1が手を挙げ、
彼と一緒に授業を受けたことがあるかと尋ねると、全員の手が挙がった。

生徒たちはいつもは "おどけてて陽気 "なのだが、
その時間帯は "まったくもって無口 "だった、と彼女は後に語った。

その朝、学区のグレン・"マックス"・マクギー教育長は、
学区のもうひとつの公立高校である、
パロアルト高校のキム・ディオリオ校長に電話をかけ、

"これはみんなに大きな打撃を与えるだろう "

と警告した。
マクギーはその年、この地区に赴任してきたばかりだったが、
赴任したときからその歴史は知っていた。

この2つの高校の10年間の自殺率は、全国平均の4倍から5倍である。

2009年の春から9ヶ月間にわたり、ガン校の生徒3人、
新入生1人、新卒者1人が、対向してきたカルトレインの前に飛び出した。
別の新卒者は首を吊った。

その間の数年間は静かではあったが、慰めにはならなかった。

スクールカウンセラーは、ハイリスクと思われる子供たちの流入に
「圧倒され、過負荷」状態が続いていた、と、
2006年からガンのメンタルヘルス・プログラムの監督を手伝っている
ロニ・ギレンソンは言う。

そして、2013-14学年度の調査によると、パロアルトの高校生の12%が、
過去12ヶ月間に真剣に自殺を考えたことがあるという結果だった。

キャメロン・リーが亡くなる3週間ほど前、マクギーの勤務3カ月目に

地元の私立学校の女子生徒が陸橋から飛び降りた。

その1日後、前年にガンを卒業したクイン・ゲンズが線路で自殺した。
感謝祭前だというのに、ガン校の生徒2人がすでに亡くなっていた。

「自殺のクラスター」とは、複数の死が連続して発生し、
しかも近接した場所で発生することを意味する。
マクギーと他の管理者たちは、傷つきやすい生徒たちが
深く考えすぎて、自分をキャメロンと同一視しすぎることを心配した。

ディオリオは2009年と2010年、
「パリー」のガイダンス主任を務めていた人である。
一日中、パリーの生徒たちはフェイスブック、インスタグラム、
ツイッターから最新情報を得ることができるようにした。

2時限目には、多くの生徒がまたもやカルトレインの仕業だと知っていた。

その日もいつものように、ほとんどの教室では電車の音が聞こえた。
それは20分おきくらいに通過していったが、生徒たちにとって、

その日の警笛は、『ハンガー・ゲーム』で子供が死ぬたびに鳴り響く
大砲のように聞こえた、と、ある生徒が後で教えてくれた。


アトランティック誌の全国特派員ハンナ・ロージンが、
12月のカバーストーリーの背景にある調査について説明している。

有難いことに、あるいは不気味なことに、
この学区には自殺予防の専門家が揃っていた。
スタンフォード大学の専門家と、近年深い知識を備えた素人たちだ。

2009年から10年にかけて起きた集団自殺の後、
学区は自殺後の包括的な「ツールキット」をまとめ、
再び集団自殺が起きないようにするために何をすべきかを職員に教育した。

統計的には、それが起きる可能性は高いわけではない。
なぜなら10年以内に同じ場所で2度目のクラスターが発生する
「エコークラスター」は極めてまれであるとされるからだ。


ガンの教師たちに対する対策は、もしトラウマを強く感じられたら、
その日は代理の教師を立てることができるというものだった。

グリーフ(悲しみ)カウンセラーは校内をくまなく歩き回り、
泣きながら立ち尽くしている生徒のグループに出会うと対応した。
職員は、特に傷つきやすいと思われる生徒を慎重にチェックした。

訓練では、模倣を阻止する鍵のひとつは
死をロマンチックにしないことだと学んでいたので、
彼らはちょうどいいトーンを打ち出すのに苦労した。

キャメロンの記憶や打ちひしがれた家族を侮辱することなく、
キャメロンを英雄や殉教者に仕立て上げることは避けなければならなかった。

花輪とテディベアの記念碑にキャンパスを占拠させることなく、
生徒たちが悲嘆に暮れるスペースを作らなければならなかった。

2009年、このクラスで最初に線路で亡くなった
ジャン=ポール・"J.P."・ブランシャールを追悼することになったとき、
生徒たちは学校中にバラの花びらをまいたものだった。

ターン・ウィルソンは、そのバラの花びらは美しく、
心を揺さぶるものであったが、同時に、病的なものであり、
まさに落ち込んだティーンエイジャーが自分の将来の悲劇の背景として
想像するような「小道具」に思われたと回想している。

キャメロンが亡くなった翌夜には、何人かのクラスメートが校内に忍び込み、
"We love you cameron " "Rip cameron "
といったメッセージをチョークで書いた。

結局、何人かの生徒が校外の地元の小学校で追悼式典を開くことにした。
それを計画した一人が、その年の3年生学級委員長で、
J.P.の妹の一人であるイザベル・ブランシャールだった。

「私は15歳なのに、追悼行事を企画することになってしまった」

と、帰宅した彼女は母親のキャスリーンに言ったという。

疲れ果てたキャスリーンの言葉には、根底にある疑問があった。


「よそ者からの嫉妬を買い、クールなガジェットやアイデアが生まれ、
楽観主義が限りなく広がり、多くの人々がこぞって老化を遅らせ、
おそらくいつか死を止めるような発明に取り組んでいる」

そんな場所に住んでいながら、高校3年生が、
他の10代の若者の死にシンパシー感じているのはなぜなのだろう?




■ カルトレイン沿いのコーヒーショップ


さて、こちらにきてからMKが開拓した美味しいコーヒーショップに
何軒か連れて行ってもらいましたが、その一つは、スタンドだけで、
テーブルは全て外の傘の下というカリフォルニアらしいこの店です。

ところで、この写真の様子を覚えておいてください。
MK以外に人はいません。



隣は先ほども話題に出たカルトレインのメンローパーク駅。
ちなみに「パリー」はこの次の駅との間にあり、最初の写真が
おそらく彼らが「利用」した踏切となります。

メンローパークは空撮を見ても一軒当たりの面積が異様に広く、
隣のアサートンと並ぶ豪邸街で、ザッカーバーグもイーロン・マスクも
ここに自宅(のうちの一つ)を持っているという地帯です。

気候が良く、いつも花の香りに満ち溢れ、緑が辺りを覆う。

しかしシリコンバレーという世界でも特殊な地域には、目に見えぬ軋轢、
富と幸運の奪い合い、熾烈な生存競争といった相剋が渦巻いています。

高校生たちは、そこに飛び込まざるを得ない自らの運命への諦めと、
うまくやっていくための努力を強いられる生活を、
おそらくは物心ついた頃から意識して生きてきたはずです。


そして、競争に勝ち、どこがゴールかわからない実績
(おそらく最初の『関門』は隣の名門大学に入れるかどうか)
を出すために、懸命に泳ぎ続けています。

しかしある日、「主流」に乗れないことを知り、泳ぐのをやめてしまう。
泳ぐのをやめても彼らは水から上がろうとせず、溺れていきます。

バレーボールで推薦基準に達しないと宣言されたキャメロンのように、
今まで思い描いてきた自分の未来の姿が否定された瞬間、
自分の生をも否定して、そこから離脱する道を選んでしまうのです。

彼らの自死はMITやカルテックなどの難関大学で多々起きる、
いわゆる期待されたエリートの挫折の果てのそれと構造を同じくしています。


この街角のいたるところには、メキシコからの不法移民が、時には子連れで
「助けてください」というプラカードをあげて物乞いをしています。

素晴らしい気候、眩いような洗練された都会、最先端のハイテク都市、
その栄華のおこぼれに預かり、何をやってでも生きていこうとする人々は、
そこに住むことそのものがゴールであり、幸運だと信じています。

ところが、移民にとっての天国の住人であるはずの若い人たちが、
人生のあまりにも早い段階で、容易く自分の生を手放してしまうのです。

何と皮肉で悲しい対照であることか。


コーヒーショップの一隅には(おそらく向こうがアパートであるため)
客席の代わりにフルーク式の錨が立っています。


この日、わたしたちが到着したとき、他に客がいなかったので、
安心して?時間のかかるプアオーバーを注文しました。

ところが、わたしが並んだ途端、後ろに長蛇の列ができてしまい、
(これはさっきの写真の3分くらい後)
今回も連日にわたり、いつもの、自分には何の得にもならない特殊能力
(招き猫パワー)を発揮していることをあらためて確認しました。

うーん・・・この能力、何かの役に立てられんものかな。

続く。


キャンパスツァー2023〜噴水の水遊びと西海岸一の教会、そして黒リス

2023-07-15 | アメリカ

こちらに到着して初めての週末となりました。

今年は独立記念日が火曜日なので、アメリカ人にとっては
5日間の「大型連休」となります。
MKもインターンシップの会社から「有給」の休みをもらいました。

例年この時期アメリカにいることが多い我が家ですが、
昔MKがサマーキャンプに参加していた頃は、母子二人で行くあてもなく、
ホテルの部屋でテレビの花火中継やホットドッグ大食いコンテストを見ながら
一日中ネットをしたりして漫然と過ごしていました。

しかしあれから幾星霜、そんな彼も大学生となり、
今回の連休中は、キャンパス内を案内してくれ、
自分のラボも見せてくれることになりました。



彼が住んでいる大学の寮は、夏休みに入ると
実家のあるアメリカ人がほとんど帰郷してしまい、いなくなるので、
残っているのは海外からの留学組か、あるいは
この近くでインターンシップをしている学生だけとなります。

部屋に荷物を置き、久しぶりにニコンのカメラを持って出かけました。



外の気温は32度と猛烈な暑さです。

わたしは大きな帽子で防護しましたが、MKは日焼け止めを塗って外に。
水のボトルを持って水分補給しながら歩きだしました。

確かに暑いですが、湿度が低いので、日陰に入るとひんやりします。
室内が蒸し暑いということはこの地域ではあまり起こりません。



大学の広さは全米一だそうで、キャンパス全体が一つの街です。

まずビジネススクール(経営大学院)が現れました。
ビジネススクールの学生の寮は、道を挟んだ向かい全部の地域となります。

地域柄、シリコンバレー近郊のベンチャーキャピタル、金融、
テクノロジー企業と非常に密接な関係を保っている大学院で、
年間1億5,600万ドルの営業収入で運営されており、
13億ドルの寄付金を持つ全米で2番目に裕福なビジネススクールです。

一位はおそらくハーバード ビジネススクールだと思われますが、
調べていないのでわかりません。



左手に見えるのは大学で最も古くて権威のあるホール、
エンシナ・ホール(Encina Hall)は、
1891年10月1日、大学開校初日にオープンしました。

堂々とした4階建ての砂岩造りの建物には、荘厳なロビー、巨大な食堂、
当時にしてすでに電気が通り、温水が完備されていました。

大学創立の祖は、1888年にヨーロッパを旅行中に偶然
スイスのシルヴァプラーナ湖にあるリゾートでこの建物を見つけ、
建築家にスケッチを送ってこれを再現させました。

当時にして47万7000ドルをかけた400人収容の学生寮は、
スイスのホテルの優雅な間取りをそっくり真似していました。

しかし、大学が開学し、最初の学生たちが到着すると、
そのような旧世界の気取った雰囲気は、ぶち壊しにされることになります。

彼らの多くは西部の片田舎で育ってきた粗野な若者で、
しかも不幸なことにこれが彼らにとって初めての独立体験。

開校1ヵ月も経たないうちに、エンシナの学生たちは、
近くの鉄道支線から貨車を勝手に脱線させ、
あやうく本線の列車を脱線させそうになるという事件を起こし、
怒り狂った大学創始者を落ち着かせるのに何時間も要しました。

エンシナホールは学生の活動、計画、リーダーシップの中心となり、
彼らはそれを誇りに思っていましたが、それは建物に対する感情ではなく、
その建物そのものを大切に扱うべきとは考えられていなかったため、
時が経つにつれて、すべての施設は悪用され、乱暴に扱われるようになり、
ついには「マッドハウス」とあだ名をつけられる魔窟になります。

たとえば。

ある住人が帰宅すると、

「部屋の壁以外のすべてが反転しており、
インクスタンドが不安定なまま切り立つ山の頂上にあった」。

その「山」の中には、ブロンズで縁取られた鉄製のオリジナルベッド台が2つ、
洋服ダンスが1つか2つ、大きな勉強机、背もたれの高いオークの椅子が4脚、
鏡、敷物2枚、電灯、洗面台が含まれていた。

1893年、創始者夫人がベンジャミン・ハリソン元米国大統領
のために用意した葉巻とウィスキーが何者か(もちろん学生)に盗まれた。


等々。

エンシナの長く広いホールと洞窟のような階段室は、学生の乱暴を助長し、
食器でいっぱいのトレイから重い家具まで、
ロビーに物を投げ入れるのが彼らのお気に入りの遊びの一つでした。

ある新入生の家族への手紙です。

「午後11時半に電気が消え、仲間たちが椅子や、痰壺、
その他いくつかのものを階下に "発射 "した。
ルームメイトが廊下に出て調べようとしたとき、
"3本の火の筋が飛び出し、3発の銃声が聞こえたので、
フレッドと私は危険な場所にいると判断し、そっと部屋に戻った"。」

管理当局はこれらの狼藉について一つの見解を出しました。

 「長いホールはいたずらを助長しすぎる。」


管理当局は、増大する騒動に対して、より厳しい管理で対応、
最終的には監視員が巡回するようになりましたが、
学年間の対立がいじめ行為を生んで深刻な事態が頻出します。

バスタブの中で新入生の頭を水中に押さえつける「バブリング」
(泡が出るまで、つまり必死になって口を開け、あえぎながら空気を吸うこと)

「花火やリボルバーを乱射し、校内を水浸しにし、
廊下の電灯をほとんど全部壊した」

「監視員に対し、20名が石やビール瓶、ひげそり用のコップ、
つば入れ、椅子、木箱を投げ続ける」

この事態が終息したきっかけは、皮肉なことに1906年4月18日の地震でした。
2本の大きな煙突が地下まで崩れ落ち、生徒1人が死亡、数人が負傷。


地震後修復されたエンシナホールではすっかり雰囲気が変わり、
大災害の前では、過去のことは水に流し、
行動と規律に関する教員と学生の関係をただそういう気風が生まれたのです。

その後、この雰囲気がもう一度だけ「アナーキー」に傾いたのは
いわゆるベトナム戦争反対の学生運動の頃だったと言います。

たとえば、エンシナのロビーで母親クラブがお茶を飲んでいるとき
生徒が上の階から落とした水袋がハーバート・フーヴァー夫人を直撃し、
犯人は最高刑(どんな罰かは不明)を受けたということがありました。

また、ベトナム戦争中、エンシナはデモ隊の標的になり、
押し入ってファイルを盗んだり、給与記録を盗んだりし、
ついには放火が原因と思われる大火災がおこってしまいます。

1995年、評議員会は、廃墟と化した東棟を含め、
歴史的に重要なこの建物を元の素晴らしさに戻すべきであり、
地震に耐えられるよう強化すべきであると決定しました。



MKによると、先日グアテマラの大統領が講演を行われ、
建物前の芝生にはずらりとSPが並んでいたとか。

今ではかつての学生の狼藉の痕跡は全く残されていません。



キャンパスにあった歴史写真のバナーに写っているのは、
この講堂の反対側ではないかと思われます。



看護学部の学生。
現在の看護学部は、Medicine Health Care の一部です。




骸骨に帽子を被せて抱き寄せているのは医学部教授です。

なんかあからさまにうっとりしてらっしゃるんですけど・・・。
この骸骨さんはもしかしたら本物?



工学部周辺。
人々の服装から見て1900年前後でしょうか。
建物の右上に「エンジニアリング」と彫刻されています。



1905年当時の機械工学部。
MKが現在籍を置いてお世話になっております。



「回復期センター」とだけ説明があります。
おそらく看護学部の施設の一つでしょう。
このたくさんの女の子たちはみんな病気なのでしょうか。



猛烈な日差しの中、積極的に日焼けしようとする人たち。
日本女性は嫌いますが、まだまだアメリカ人は日焼けが好きです。



ジョン・A・ブルーメ地震工学センター

地震工学の研究、教育、実践を行う機関です。
土木環境工学科の一部であり、地震リスクの低減において専門家と地域社会、
また、地震とその構造物への影響の理解に貢献しているそうです。



デザイン工学の研究室には、全学生の顔写真と、
彼らが制作した(かもしれない)車がありました。



すっかりプールと化した噴水のある浅い池。

子供を連れてきて、水につけている親がいたり、
池に置いたテーブルを囲んでゲームをする学生らしき人がいたり。
周りの芝生には水着姿でシートに寝そべるカップルまでいました。



さて、というわけで、MKのラボに辿り着きました。
アメリカの大学の工学部研究室というのは、どうしてこうも似ているのか。



学期中、時折MKはこのラボからSkypeをかけてきたものです。

サンクスギビング中でそれこそアメリカ人は皆帰ってしまい、
学校に残っているのは外国人組だけで、つい寂しくなったときとか。



ホワイトボードの落書きも全米共通の雰囲気。



MKがラボで作った水上バトル用船舶。
部品を作るのに彼の3Dプリンターが大いに役立ったようです。



この同じ水上対決用船舶の名前は「カラオケカタマラン」。
水上を滑走する時同時にカラオケが鳴る仕組みだとか。


ラボの教授似顔絵。(下手だけどむっちゃ似ているという)



さて、ラボ見学を終わり外に出ました。
この建物は、ヒューレットパッカードの一人、
ウィリアム・ヒューレットの寄付した工学部ティーチングセンターです。



そして道を隔てて向かいにあるのが相方のデビッド・パッカードの寄付した
エレクトリカルエンジニアリングの建物。

ちなみに彼らに起業を勧めたテルマン教授の名前を関したビルもあります。



こちらはどこにでもあるビル・ゲイツの寄付による建物。
なんか全米の大学に建物を寄付しまくってるみたいですね。

これだけ節操なく気前よく寄付しているなら、
日本に別荘を持っているよしみで、日本の大学に・・・とはならんかな。



数学科があるスローン・マセマティックセンター
アルフレッド・スローンは自動車工学の技術者出身で、
GMの基礎を作ったビジネスマンでもあります。

冒頭の写真の木々の奥に見えているのがこの正面玄関となります。


この少年が誰かはわかりませんでした。
おそらくですが、15歳で亡くなった創始者の息子ではないかと思われます。



キャンパス内には観光ツァーのグループがたくさんいます。
二人が写真を撮っているのは、オーギュスト・ロダンの彫刻。

通り過ぎながらルーブル美術館の「カレーの市民」をふと思い出したのですが、
当たらずとも遠からず、この作品は「カレーの騎士」だそうです。



アメリカ西海岸で最も古く、「最も著名な」超教派教会であり、
「大学の建築の至宝」と呼ばれるメモリアル・チャーチ

1903年に献堂されたロマネスク様式の建物の内部は
ヨーロッパの影響を受けたステンドグラスの窓やモザイク画に覆われ、
5台の異なるタイプのパイプオルガンを備えています。

メモリアル・チャーチは、1906年と1989年の2度の大地震に耐え、
それぞれの後に大規模な改修が行われました。



この協会は、大学の創始者の夫人が夫を偲ぶために建てたとされます。



教会内のステンドグラスの窓に、2人の天使が小さな子供を
金色の雲の上に座っているキリストに向かって運ぶ様子を描いたものがあり、
近くの窓にはキリストが魂を天国に迎え入れる様子が描かれていますが、
これは15歳でチフスに罹患し、早逝した夫妻の息子の死に因んでいます。

元々本大学は裕福な夫妻が、この息子の名前を
永劫に歴史に残すことを目的に設立したものでした。

息子はアメリカの裕福な家の子弟が恒例として行う、
グランドツァー(卒業旅行)先のアテネでチフスを発症し、
両親が治療のため連れて行ったフィレンツェで客死してしまいます。



反対側から見たチャーチ。
ステンドグラスがあしらわれた窓が見えています。



最後に、大学名物黒いリスを見ました。



当大学の黒リスにはじつに黒い噂(黒だけに)が纏わっています。

昔、教会を設立した創始者夫人がイタリア原産の黒リスに夢中になり、
神聖な大学を建設する際に、後世の人々を喜ばせるために
リスを大量に輸送し、キャンパスに放したという真偽の不確かな噂です。

しかし現代では黒リスはほとんど例外なく疥癬に冒されているようで、
ほとんどのアメリカ人は我々のように「可愛い〜〜」とは全く思わず、
彼らを巨大な黒いネズミ🐭にしかみなしていない模様。


シリコンバレー滞在シリーズ 続く



ジュライ フォース in パロアルト〜シリコンバレー到着

2023-07-07 | アメリカ
今年も恒例のアメリカ生活が始まりました。



今回のフライトは初めてとなる羽田発深夜便。
出発前の飛行機から見る夜景も新鮮です。


今回の機材は、初めてお目にかかるタイプでした。

画面の右側はアメリカの洗面所にあるような薄い薬棚タイプの物入れ。
画面の操作やFAの呼び出し、機内販売の購入はすべてリモコンで行います。


新しくなって大変よかったのはシートの形状です。

二人がけシートの右側に座るような形で、3点シートベルト方式。
(座高の低い女性にはちょうど首にベルトがかかって苦しかったけど)
このシートだと、フラットシートにして睡眠モードになった時、
前のようなちょうど体の幅しかないシートだと置き場がなくなる手を
横において、横向きに寝ることもでき、大変楽でした。

アメニティはグローブトロッターの薄型ポーチに、
SIROのリップクリームと保湿液が最近のANAの定番です。



国際便はいつも搭乗して1時間くらいで食事になるのですが、
夜10時出発の便でもそうなのかな?と心配していたら、
メインの食事はちゃんと着陸前に予定されていました。

一寝入りして目覚めそうになったとき、CAさんが「お目覚めですか」
と起こしてくれたので、今回は食べそびれずにすみました。



機内では黒澤明の「生きる」のイギリス版、
『Living』(カズオ・イシグロ脚本)を観ました。
あっという間に主人公が死んでしまいびっくりしていたら、
実はそれからが本題というか、そこからが感動の嵐でした。

アメリカでもフランスでもなく、舞台が1950年ごろのイギリス、
というのが原作との絶妙な親和性を醸し出していたと思います。



今回はサンフランシスコが目的地なので乗り換えなしです。
直行便がこんなに楽だったとあらためて実感しました。



レンタカーセンターまでの電車の窓から見える空の色は、
お馴染みの「ザ・サンフランシスコ」。
海岸からの霧が西側を覆ってひんやりと冷たい空気が流れこんできます。



最初の宿泊先はパロアルトの住宅街にあるAirbnbです。
(この地域はとにかく地価高騰のせいでホテルが高すぎなので)

この一角は「プロフェッサーズ・ビル」と呼ばれています。
もしかしたら近くの大学の教授が大量に住んでいた(いる?)のかな。

路駐には住人を証明するタグが必要ですが、ホストが用意してくれています。
路駐といっても一帯が住宅街なので停める場所に困ることはありません。



Airbnbはこの道路から奥まったところにあるお宅です。



この辺の家はときどき変わった彫塑を庭に置いています。
このお宅の作品は斃れた恐竜とそれを虎視眈々と狙うコンドル2羽というもの。

庭に置く彫塑としてはどうかなというモチーフですが、このお宅、
玄関脇に不気味な人形の頭を置いてあったりして、そういう趣味の方かなと。



木でできた門扉を開けると、ここが今回一つ目の宿泊先です。
わたしが借りることになっているのは一階の手前半分で、
残りと二階全部にオーナーが居住しているという話でした。



門扉の内側にはガレージとバーベキューグリル、アウトドアテーブルセット。
中流アメリカ人家庭にはなくてはならない3点セットです。



最初の10日の宿にこの部屋を選んだ理由は、ピアノがあったから。

聞いたことのないアメリカのメーカーで、おそらくですが
軽く100年近く経過している骨董品ではないかと思われます。

オーナーが小さい頃に習っていた名残か、
鍵盤にマジックインキで音名が書いてあり(笑)
子供用のピアノ教材も本棚に散見されました。



早速ピアノを触ってみるMK。
彼はもうすでに夏のインターンシップに通っています。



次の日、真剣に弾いてみましたが、蓋が開けっぱなしなのが祟って、
内部がもう壮絶な埃まみれ。音はお察し、という状態でした。
おそらく調律など半世紀はしたことがないに違いありません。
力一杯打鍵しないと出ない音があり、ソフトペダルは使用不可。



部屋には暗証番号で入るのですが、二日目の晩、事故発生。
内鍵がかかってしまっていて、夫婦で締め出されてしまったのです。
しかもオーナーの電話番号を入れたわたしの携帯はたまたま部屋の中。

そこでTOからMKに電話をして、オーナーに電話してもらいました。
彼女がやってくるまでの間、わたしたちは外に立っていましたが、
カリフォルニアの夏は夜猛烈に寒く、凍え死ぬかと思いました(嘘)

オーナーはバスローブで出てきて内側から鍵を開けてくれました。



写真に撮るとおしゃれで綺麗に見えますが、建物はおそらく
1950年代(映画”Living"の頃)に建ったものだと思われます。
木の窓はびくとも開きませんし、換気扇などというものもありません。

ちなみにオーナーは「靴を脱いで入室してほしい」と強くリクエストしていました。
わたしたちはむしろそうしないと落ち着かない民族ですが、
アメリカの住居には「玄関のたたき」「靴脱ぎ」という場所がないので、
つい靴のまま入ってしまうアメリカ人が多いせいだと思われます。



次の朝、一人で近隣を歩いてみました。
街角の教会も立派です。



家と家の間に遊歩道で繋げられたちょっとした緑地帯が現れました。


朝、少人数のグループが体操をするくらいのスペースは裕にあり、
柵で囲まれたプレイグラウンドもあって、パーキングも完備。


散歩に出てきたらしい首輪をした黒猫に遭遇。
魔女の宅急便の「ジジ」にそっくりです。



カリフォルニアに来ていつも思うのは、恵まれた植物の生育環境。
どこに行っても緑が豊かで、木々が高く、夏はそこここに花が咲き乱れて・・。
街角でアガパンサスやライラックの芳香を嗅ぐとまた来たなあと思います。



朝、歩いてすぐのところにあるホールフーズに買い物に出たら、
街角にこんなプレートを発見しました。

エレクトリックリサーチ ラボラトリー

1909 年にシリル・フェルウェルによってここに設立された
連邦電信会社の研究所および工場のオリジナルサイトには
1911~1913 年の期間に、三素子ラジオ真空管、最初の真空管増幅器と
発振器の発明者、リー・デ・フォレスト博士が在籍していました。

この研究に基づいた世界規模の開発が、現代の無線通信、
テレビ、エレクトロニクスの時代につながりました。

カリフォルニア州登録歴史的建造物 No. 836
州公園・レクリエーション局とパロアルト市および
パロアルト歴史協会の協力による  1970 年 5 月 2 日




歴史的遺物といえば、実にシリコンバレーらしい遺物がうちの近所にも。
通称「ヒューレット・パッカード・ガレージ」です。



シリコンバレー発祥の地

この家のガレージは、世界初のハイテク地域シリコンバレーの誕生の地です。

この地域のアイデアは、スタンフォード大学教授、
フレデリック・テルマンFrederic Terman 博士が生み出しました。

博士は、彼の学生たちに、東部で設立された企業に入社するよりも、
地元で自分のエレクトロニクス会社を立ち上げるよう奨励しました。

彼のアドバイスに最初に従った二人の学生の名は、
ウィリアム・R・ヒューレットとデイビッド・パッカードといいます。

1938年、この家のガレージで、二人は最初の製品である
オーディオ オシレーターの開発を開始したのです。

カリフォルニア州登録歴史的建造物 No. 976
州立公園レクリエーション局、ヒューレット・パッカード社の協力による

1999 年 5 月 19 日




朝、外を眺めながら飲むコーヒーは最高です。
ここに立ってPCをしていると、前の塀を通路にしているらしい
黒やら茶色やら各種毛色のりすが行き交うのが見えます。

ちなみにこの3日後、わたしはこのAirbnb備え付けのカップを割ってしまい、
大学の売店に同じのを買いに行く羽目になりました。



コーヒーといえば、最初にMKおすすめのコーヒーショップその1に行きました。
Verveコーヒーは日本にも上陸しており、六本木にお洒落なカフェもあります。



こちらのは建物や内装は六本木に通じるものがありますが、
圧倒的に人が少ない(朝だったせいもあります)。

エチオピアのプアオーバーを頼んでみましたが、上々でした。
口に苦味が残らず、さっぱりとした軽い飲み心地でバリスタの腕の良さを感じます。



また別の日のコーヒーショップその2。
なんと、この向こうに見えているのもコーヒー専門カフェです。
ここのプアオーバーはちょっと水加減が好みではありませんでした。



TOが頼んだチアシードのヨーグルトは美味しかったそうです。



実はこのカフェ、広大なコワーキングスペースの一部です。

事務所を持たないオフィスワーカーが、ここを1ヶ月400ドルからという
破格の安さで借りて仕事に利用する施設となっています。



こんな会議用のブースもありますし、



大会議場もあり。
数人で一つのブースのコンピュータとデスクを借りるプランもあります。
東京にも増えているそうですが、シリコンバレーのこの辺はさらに盛んです。



コーヒーの後、MKをインターンシップの会社まで送っていきます。
だいたい二日に一日はリモートワークになるので、出社は週3程度。

彼の会社のあるサンタクララにも、TATA、インテル、エヌビディアなど、
大小のテック系企業が進出してシリコンバレーを形成しています。



サンタクララにはジャパンタウンがある関係で、大型日本スーパー、
「ミツワ」があるので、MKを送っていった初日に早速行ってみました。

そこで見たこの注意書きによると、カリフォルニアの法律、PRO65は
「カリフォルニア州の顧客に対して、ガン、先天性欠損症、
またはその他の生殖危害を引き起こすことが知られている化学薬品」

が使用されている場合、それを告知することを義務付けています。

要は最近WHOで発がん性を認められ話題になったアスパルテームのように、
人体に有害な成分表示を隠してはいけないということが定められているのです。

日本では元素材に含まれるなら表記しなくてもいいとか、
いろいろとロンダリング?の方法があるみたいですが、
アメリカ、特にカリフォルニアは厳しいようですね。

日本の加工食品はそのほとんどに化学調味料や着色料を含むので、
日本スーパーでは声を大にして宣言しているというわけです。



わたしは日本から輸入された加工品はその理由でほとんど手を出さず、
ほとんどのものはホールフーズやTrader Joe'sで調達します。

今回は、初めてサンタクララのホールフーズにも行ってみました。
おそらくサンフランシスコも含めて、この近辺で最も大きく、
品揃えもよいオーガニックスーパーだと思われます。

市内では閉店してしまったホールフーズもあるそうですが、
シリコンバレーには少なくとも客離れは無縁の出来事のように思えます。



MKはまだ大学の寮に住んでいるので、家族の食事は
互いの住居を行ったり来たりして、できるだけ一緒にしています。



彼の大学寮には一つの棟につき音楽室が数室あって、
一つはグランドピアノとコンサートもできるスペース、
電子ピアノと譜面立てがある小さな部屋は3室と音大並み。

住人であればいつでも予約なしで、好きな時間好きなだけ利用できます。



週末にはわたしもグランドピアノを楽しみました。



MKの部屋には、彼がラボで使うこともあるということで
自分で買った3Dプリンターがあります。

これを見たとき、この機械が出回り始めてすぐ、中学生頃の夏のキャンプで
彼が「作品」を作って持って帰ってきて驚いたことを思い出しました。

いつの間にか3Dプリンターはコピー機並みの存在になっていたんですね。


これで猫型の小さな物入れを作ってくれました。



この日、外で花火の音がする中駐車場に向かおうとすると、
大学のスタジアムの方角から花火が上がっているのを皆が見ていました。



7月4日の独立記念日にはアメリカ中が花火を打ち上げますが、
ここでは週末に入ったので、早々と花火大会が始まった模様です。

花火が終了してから車に乗り、部屋に戻ろうとしたら、
花火を見に来た(もしかしたら何かの試合かも)見物客の帰路渋滞で、
いつもなら6分の距離に30分かかってしまいました。

ちなみにこの三日後の独立記念日 本番は、
深夜まで、あちらこちらから花火の音が聞こえていました。

コロナの頃は流石のアメリカでも控えられていた花火ですが、
もうすっかり平常に戻ったようです。

それでもマスク着用の人はゼロではなく、一日に三人くらいは見かけます。


続く。




帰国〜アメリカ滞在

2022-09-23 | アメリカ

わたしたちがピッツバーグからの「弾丸飛行」(ジョン・グレンのじゃないよ)
を済ませてサンフランシスコに帰ってきたそのころ、
まだベイエリアは絶賛ヒートウェイブの真っ只中でした。

高速道路を走ると、電光掲示板に、「ヒートウェイブ・注意」とあります。

一体何をどう注意するんだと思ったのですが、これは要するに、
極力スピードを抑えてガスの排出を抑えましょう、ということらしいです。

その後ヒートウェイブは去り、わたしたちが帰国すると同時に
現地の気温は昼間23℃、夜間17℃というレベルに下がりました。
これで湿度の低いベイエリアは過ごしやすくなるだろうと思いきや、
現在は雨が続いているのだとか。

アメリカでは、すでに台風で浸水の大被害が出た地域もあり、
ここでも異常気象などという言葉が囁かれているようです。


さて。

わたしがピッツバーグに行くまでに、寮への荷物運び込みと整理を済ませ、
ついでに基本的な食材も一緒に買い物に行って買い整えてやったので、
さっそくMKは新しい寮での新生活をスタートさせ、自炊も始めたようです。

しかし、いかに料理が好きといっても所詮は学生の「男の料理」ですから、
百戦錬磨の主婦ほどの応用力も素材を見分ける力もなく、
最初に挑戦した料理は失敗してしまったようです。

初めてオーブンを使って野菜と肉をグリルしてみたようなのですが、
冷蔵庫にトレイのまま手付かずで残っているのを見て聞いたら、

「肉が硬くてすげー悲しかった」

ということでした。

どうやら敗因は肉の種類に合った調理法をしなかったことです。
(煮込み用の肉を叩かずにさっとグリルしてしまったとかね)

MKよ、まあこれも勉強だ。
次からはどうやったら美味しくなるか工夫するんだね。



■イエロージャケット・スカベンジャー



ある日、MKが検索してくれて、ゴルフ場併設のレストランに行きました。
まだヒートウェイブ真っ最中の頃でしたが、夕方なのと、
日陰のテーブルなので、外でご飯を食べるくらいなら大丈夫です。

わたしはゴルフをしないのですが、アメリカのゴルフ場を見るたび、
もしアメリカにずっと住んでいたら始めていたに違いない、と思います。

日本のゴルフ場はたいてい山の中とかにあって、
プレーしない人がグリーンを目にすることはありませんが、
アメリカは街からそう離れていないところに、しかも公園の道沿いとか緑地、
道沿いにあって、ほとんどは周りに柵もありません。

文字通り敷居が低そうで、手軽に始められそうですし、
おそらくは日本でするよりフィーも安いでしょうしね。

このレストランからも、壮年、主婦らしい人、老人、若い人と、
雑多な年代や男女問わず気楽にコースを回っていて、
プレーをしているのが見て楽しめるようになっていました。



このレストランは普通のアメリカ料理がメイン。
MKのリクエストでフライドチキンを一皿頼みました。

料理そのものは普通。
とにかく目の前に広がるゴルフ場のグリーンが目に気持ちよく、
ほとんど場所に価値のあるレストランという感じでしたが、
外ということで、時々虫が飛んでくるのです。

チキンを食べていると、黄色と黒の蜂が一匹、しつこく周りを飛び回り、
手で払っても払っても、すぐに戻ってきて困りました。

(チキンの骨閲覧注意)

あまりにしつこく周りを飛び回るので、全部食べ終わったこともあり
追い払うのをやめたところ、確信的にチキンの骨部分に止まりました。
骨に取り付いて一生懸命何かやっています。

家族三人で、つい観察してしまったのですが、なんとこの蜂、
フライドチキンの骨から、ガシガシっと肉を食いちぎっているのでした。

「もしかしてこの蜂、肉食いちぎってない?」

「うえー、ほんとだ。肉を外してる」

「蜂ってチキンなんか食べていいの?食物連鎖的に」

「奈良で鹿が観光客の捨てたフライドチキン食べてるの見たことあるけど」

「こいつ、この肉を巣に持っていくつもりなのかな」

「こんなの持っていったら女王蜂に追い出されるんじゃない?」

そうして見ていると、大きな肉の塊を食いちぎった蜂は飛んで行き、
そして、2〜3分経った頃、また戻ってきて、
全く同じところに止まり、同じように肉を食いちぎっています。

(次:虫閲覧注意)

後で調べたところ、これは北米に生息するハリナシミツバチ種の一種で、
その名もハゲタカバチという種類の鉢であることがわかったのです。

ミツバチは蜜と花粉から栄養分を得るのに対し、ハゲタカバチは
その名の通りハゲタカのように、彼らは花粉の代わりに
死んだ動物の死骸の肉を食べ、肉を集め、肉の蜂蜜?を生産します。


こういう生物をスカベンジャー(屍肉食動物)と言いますが、
この蜂も、ゴルフ場に隣接したピクニック場のゴミ箱などを目当てに
近くに巣を作っているのだと思われます。

彼らの最も好物なのはまさにこの鶏肉で、なぜかというとそれは
タンパク質の摂取のためと言われています。

英語で黄色い蜂のことを「イエロージャケット」と言いますが、
それこそこいつらをヒーロー戦隊もの風にいうなら、

「イエロー戦隊・スカベンジャーズ」

といったところでしょうか。


■ 友人との再会〜噴火しない溶岩ケーキ

サンフランシスコに住んでいた時からの友人と、3年ぶりに会いました。
コロナ蔓延以降、そもそもわたしが西海岸に行けなくなったので、
世間が平常化した今年、何としででも会いたかった人です。

彼女の夫はアーバインに本社がある有名なゲーム会社のアーティストで、
LA近郊に家があるのですが、彼女自身はアート関係の仕事を引退し、
今は物件を持って賃貸業を営んでいます。

テナントがサンフランシスコ市内にあるので、いつもわたしが渡米すると
彼女は、仕事がてら7時間の距離をドライブして会いにきてくれていました。

今回はそれに加えて、娘さんがサンフランシスコの大学にいるため、
彼女の引っ越し手伝いと、彼女のボーイフレンドに会うという用事を兼ね、
わたしの滞在に合わせてやってきたのでした。



彼女がきた時、家族三人と合計四人で昼ごはんを食べに行きました。

サンマテオの中心街にある、アメリカン・ダイナーとカフェの間みたいな、
ハンバーガーもイタリアンも食べられるというレストランです。

皆で突っつけるように小皿料理をいくつか取りました。
これはそのうちの一つ、ニョッキです。



野菜たっぷりのハンバーガー。これはTOが頼んだもの。



わたしが頼んだのはツナのステーキ(ミディアムレア)。



デザートの一つ、クリームブリュレ。
薄いお皿上のプリン(的なもの)の表面をバーナーで焦がして仕上げます。


「Lava cake」とメニューにあったので、これに目がないMKのリクエストで
頼んでみたんですが、出て来たのを見て、MKがっかりして一言。

「ラーバ、噴火してないし」

アツアツのチョコケーキにフォークを入れるt、
中からあたかも溶岩(ラーバ)のようにチョコレートソースが出てくる。
これをラーバケーキ、日本ではフォンダンショコラと言ったりします。

コロナの影響で閉店してしまったザ・クリフという太平洋沿いのレストランは
ラーバケーキが自慢で、MKはいつもこれを食べたがりました。

ところが、ここのは、そもそもチョコレートの溶岩が流れる前に
クリームソースをかけて固めてしまった状態。
いわば噴火前で、ラーバと呼べる要素はどこにもありません。

「これ・・・もしかしたら失敗したんじゃない?」

「中まで焼けてしまったので、溶岩が流れず、代わりにソースをかけた?」

ヒソヒソ言いながら全員で突っつきましたが、
味は普通にチョコレートケーキでした。


ちなみに、彼女の娘さんとMKは小さい時かなり仲が良く、
わたしたちが会っている間、ほとんど恋人同士のように戯れあっていましたが、
そんな彼らもある夏から急に他人行儀な付き合い?になりました。

そして、今は彼女にも母親に紹介するようなBFがいるというわけです。
(ちなみに前彼は医者志望で、MEDにも合格した優良株だったけど、
あまりにも束縛してくるので嫌になって別れたらしい)

MKには今のところそれらしい気配はありませんが、
彼と同じ年頃の娘息子を持つアメリカ在住の知人たちからは、
いきなり息子が大学からGFを連れて帰ってきて家に泊めたとか、
いつの間にかBFと一緒に暮らしている、などという話を聞かされます。

昔も今も、アメリカの青年たちというのは、気軽にお付き合いを始め、
結婚するしないに関わらずステディな関係を親に公言するのね、
とそのオープンさには文化の違いを感じずにはいられません。

日本もこんな感じなら、少子化はもう少しマシだったのかな、
などとつい考えてしまいました。


■ スタイリッシュ・インディアンキュイジーヌ

日本に帰国する前夜、家族でオシャレ系インド料理に行きました。


一口にエスニック料理のレストランといってもさまざまで、
前回の家族経営のインド料理屋は、キッチンから大きな声で
英語ではない会話と笑い声が筒抜けに聞こえてくるような小さな店で、
まるでインドの家庭の台所でご飯を食べているような気分でしたが、
ここのはバーリンゲームの一等地に新しくできた、謳い文句も

「スタイリッシュ・アップスケール・南インド料理」

upscaleというのは、高級という意味。
そして店名は「サフラン」Saffron と何やら趣味のいい感じです。

昔、ミシュランの星を持っていたこともあるとかで、
(なぜそれが今は無くなったのかはわかりませんが)
家族で食べるアメリカ最後の記念すべき夕食に相応しいという気がしました。



インド料理でエディブルフラワーをあしらったお皿を初めて見ました。

これは、ビーツを使ったサラダで、本来は山羊チーズが乗っていますが、
わたしたちは苦手なので抜いてもらいます。

店内もお花のお皿にふさわしく看板通りのスタイリッシュさ。

来ている客層も、近所のリッチそうな白人ばかりの奥様グループ、
シリコンバレーのテック関係っぽいインド人とアメリカ人の男性、
完璧な英語で会話している白人とインド人のおしゃれな女子、
と、いかにもバーリンゲームという高級住宅街の住人らしき人ばかり。



「Our Secret Recipe」(当店秘伝のレシピ)で作られたという、
お店のシグネチャー、バターチキンは外せません。

一皿25ドルとお高いですが、三人でたっぷり食べられて、
スパイスが効いたスモーキーな味わいのするこのチキンカレー、
お値段以上の価値があると思われました。



追加で頼んだロティとガーリックナンをつけて、
いくらでも食べられてしまうカレーです。



せっかくなのでデザートも頼んでみることにしました。
青のりを乗せたたこ焼きではありません。
こちらでいうところのパフクリーム=シュークリームです。

上の青のりの正体は多分チョコレートだと思います。



■ 出国

次の日、サンマテオのAirbnbをチェックアウトして、
三人で空港に向かいました。



このAirbnbの良かったところは、一にも二にも清潔さ(土足厳禁)。
Whole Foods Marketに近い、280と101どちらの高速にもすぐアクセスできる、
家の前に駐車スペースがある、バストイレが二箇所、とたくさんありますが、
何と言っても空港まで10分で行けるという安心感でした。

MKの寮生活はもう始まっていましたが、偶然この日から二泊、
サンディエゴの知人の家に招待されていたこともあって、しかも
たまたま出発時間がわたしたちの国際便とほぼ同じだったため、
前の晩は家族三人最後に一緒に過ごすことができたのです。



MKを国内線乗り場で降ろして、別れの挨拶をしました。

「ちゃんと野菜食べなさいよ」

「野菜食べるわ」


母親というのは、顔を見れば息子に
野菜を食べろと言わずにいられない生物であると彼は心得ています。

その後レンタカーを返し、チェックインを済ませると、
搭乗時刻まで新しくできたユナイテッドのポラリスラウンジで過ごしました。



ここは中に、オーダーしたものを持ってきてもらえるレストラン
(もちろん無料)があったので、試しに入ってみました。



おすすめは、特別のミートを使用したハンバーガー、とあったので、
一つ頼んでみましたが、これはおすすめというより、
「忙しいキッチンと給仕をする人のためのメニュー」という気がしました。

美味しくないことはなかったですが。



デザートも、あまりに普通。

わざわざ入っておいてなんですが、外のカウンターの料理やデザートの方が
何だか美味しそうで、そっちにすればよかったと思ったのはここだけの話。


さて、いよいよ出発です。



これから滑走路へアプローチ。



離陸。空港の建物が瞬く間に眼下へと。



二本線になって横切っている道路は280号線。
手前の街並みはサンブルーノ市街となります。

ついでに、手前右下のビルはウォルマート地域本社です。



あっという間に西海岸線が見えました。(この間2分くらい)
パシフィカと総称する海岸線です。



最後に見るアメリカ大陸は、ペドロポイントと呼ばれる岬でした。



さて、海の上に出たら窓を閉め、早速映画鑑賞です。
「マーヴェリック」が機内上映されていたので当然これを選びます。



「マーヴェリック」の興行収入は前代未聞というくらい良かったそうですが、
確かに、面白い。
面白いだけでなく、このシーンで一度は涙ぐんでしまいましたよ。

ネタバレになるので詳しくは書きませんが、
これはおそらくフォトショしまくった写真のアイスマンです。



トム・クルーズのファンだったことは一度もないわたしも、
この映画を観て、不覚にも良いなあと思ってしまったほど。

それから、中国資本ということで懸念されていましたがご安心ください。
マーヴェリックのボマージャケットに、ちゃんと日本の国旗ありましたよ!

やっぱりこういうことをちゃんとしたからこそのヒットでしょう。

細部は専門的な目で見ればツッコミどころも多いのだと思いますが、
エンタメとして近来稀に見るよくできた作品だと思います。

今はアマプラなどで有料配信しているようですので、
ぜひ迷っている方は騙されたと思わず、ご覧ください。

このわたしが自信を持ってお勧めいたします。



ここで恒例の機内食シリーズです。
相変わらず全く美味しそうに写っていませんが。



ちょっとはマシかなと思って、写真を撮る時だけ窓を開けてみました。



鯖の煮付け・・・ヒルズデールのやよい軒のより美味しかったです。



朝食は魔がさしてパスタを選んでしまいました。

オリーブオイル主体のトマトソースが液体状だったのが災いして、
パスタ(カネロニ)がソースに落下し、
サンフランシスコのリサイクルショップで買った新品のロロピアーナの
(しかも白)タンクトップの胸にシミがついてしまいました。

悲しかったです。

■入国



さて、わたしたちが帰国したほんの二日前のこと。
日本政府が、3回目のブースターショットを受けた人に限り、
PCR検査を免除するという措置をとることになりました。

しかし、成田に到着した時の機内アナウンスは、前と変わらず
降機したら係員の指示に従って云々、というもの。

まさかまた唾をはかされるんじゃあるまいな?と思っていたら、
途中で書類を回収し、何やらQRコードを入れさせられて、
それでもこれまでからは考えられないくらいスムーズに出ることができました。



途中でこんなものももらいましたが(なぜか赤だったのが今回は青)
入国審査を今は自動受付で行うため、誰にも見せずじまいでした。

というわけで、帰ってきたわけですが、帰った途端、MKから
iPhoneの新しいアップデートで、写真が切り抜けるよー、
というお知らせが入りました。

健康カードと検疫カードは、その新しい機能を試したものです。



こんなこともできるわけだ。





ところで前に住んでいたアパートの道向かいにあった、
このダイナー兼カフェ兼レストラン。

バタージョイントという名前のこのレストランをMKは滅法気に入っており、
わたしたちがいる時も、何かにつけて行きたがり、
ときには友達を誘って、最後の最後の日までリピートしていました。

家族三人で行ったときには、ウェイトレスのお姉さんと世間話をし、
お姉さんは大学院進学おめでとう、向こうで頑張って、
などと激励してくれている様子を見るに、彼はアパートでの一人暮らしで
ここによっぽど通い詰めたんだなと思ったものです。

勉強で忙しい時は、自炊もままならないので、
毎日のようにお世話になったのかもしれません。



おそらく彼にとってのピッツバーグの心の故郷の一つなのでしょう。


アメリカ滞在シリーズ終わり

おまけ;



日本に帰ったら、マンションの入り口で早速お出迎えしてくれた
同じマンションの住民の飼い猫、ひめちゃん。

猫の世界では、目を凝視するのは失礼ということになっているので、
流し目しながら「おかえりー」と挨拶してくれました。




シリコンバレーの地下高騰とリモートワークの関係〜ベイエリア滞在

2022-09-19 | アメリカ


さて、MKの大学寮の部屋に荷物を入れる仕事が終わりました。


なべて男の子というのは(全てがそうかどうかはわかりません)
パソコンの設置やデバイスの配置などには滅法熱心ですが、
自分のものであっても他の所持品(特に洋服の類)には全く無関心です。

全てをケースから取り出し、ハンガーにかけたり、
引き出しに畳んで入れたり、並べたりという仕事は、母親に任せっぱなし。

「引き出しの上はTシャツ、一番下はジーンズとかね」

「ん」

「ダウンはいつ使うか分からないから袋から出さないでおくね」

「おけ」

といった調子で、何を言ってもその答えは一言。
つまりどうでもいいのです。

わたしなど、ホテルにチェックインしたら、どんなに疲れていても、
トランクから荷物を出してクローゼットと引き出しに収納しないと
気が済まないタチですが、こいつは、もしわたしという母親がいなければ、
全てを引っ越しケースに入れたままにしておいて、なんなら
必要になったらその都度出して使うつもりではと疑われました。

MKと同じような留学生のお子さんをお持ちの方によると、
日用品の買い物なども、彼らは母親に丸投げ?しがちなのだとか。

これが女の子だと自分でやってしまう傾向にあるということなのですが、
男の子供に対しては母親が世話を焼いてしまいがち。
よって彼らは、どこかでそれが当然と思う傾向を持つのかもしれません。

これが重篤になってマザコン化しないよう、うちもそろそろ放置かな。



引越しといえば、仕事でロンドンに住んでいた知人は、
向こうで、ヤマトの「らくらくパック」という、荷造りから運び込み、
梱包も全てやってくれるプランを使って、滅法楽だったそうです。

この日は前を走っていた「米国ヤマト運輸」のトラックを発見。
アメリカに赴任する日本人ビジネスマン家族御用達のようですね。

引越しらくらく海外パック


■ レイバー・デーの弾丸往復飛行

今回の旅行中、一番キツかったのが、帰国寸前の

「サンフランシスコからピッツバーグまで行って、28時間の滞在で帰ってくる」

という弾丸ツァーでした。

どうしてこんなことになったのか、実はいまだによく理解できないのですが、
つまりカードのポイントで取ったチケットを変更しようとして
その結果起こったシステム上のバグみたいなものだと思います。

最初に予定していたサンフランシスコからの帰国を、
諸々の理由により早めようとしたところ、セットで注文していたため
日本行きだけを変更するということができず、やむなく

「ピッツバーグ→サンフランシスコ→日本」

をセットで新たに予約するという形になりました。

どういうことかというと、日本に帰るためには、
「ピッツバーグ→サンフランシスコ」からやり直すのです。

というわけで、まずピッツバーグに戻るわけですが、基本的に
サンフランシスコ→ピッツバーグは直行便が少なく、取れたチケットは23時発。

到着したら朝7時なので、空港近くのホテルにチェックインし、
翌日の朝、サンフランシスコまで帰るという文字通りの弾丸飛行です。

しかも出発の日、アメリカはレイバーデイの真っ最中で、
のちのニュースでは、過去最高というくらい人が移動したらしく、
空港は激混み、深夜便は満席という状態でした。



ホテルは、これも貯まっていたポイントを利用して、
マリオット系列の空港ホテルを二泊分予約しました。

朝7時に到着してそのまますぐ仮眠を取るためです。

28時間の滞在なので必要ないかと最初は思いましたが、
色々考えて、レンタカーを借りることにしました。
ピッツバーグ空港のレンタカーは空港ビルのすぐ隣にあって、
ホテルまでのシャトルバスを待つよりずっと楽と思ったのです。

ところが、車をゲットした後IDチェックしてゲートを開ける係が来ておらず、
誰か来るのをただひたすら待つ羽目になりました。

7時に空港に到着し、30分には車に乗っていたのに、
アフリカ系の眠そうな女性が出勤してきたのは8時10分です。

「10分遅刻しとるやないかい」

「いや、アメリカでは10分は定刻の範囲内」

「しかし眠そうな顔してるね」

「レイバーデイなのに働かされて疲れてるのかな」

などと言いながら、彼女が起動してゲートを開けるのを待ち、
その後ホテルにチェックインしました。

そこでフロントでの第一声、「ハウアーユー?」の挨拶に、こちらも慣例的に
「グッド、ハウアーユー?」と返したのですが、フロント係の中年女性から、

「I’m tired.」

という変則的な返事が返ってきたのには驚きました。

レイバーデイは、労働者の祝日、いわゆる勤労感謝の日なんですが、
夏の終わりの大々的な連休でもあるので、民族大移動状態になります。

日本のお盆や大型連休と同じ状態ですが、今年のレイバーデーは
COVID-19の規制がほぼ全面的に撤廃され、
空港でもマスクは強制されなくなったということもあって、
交通機関を利用して移動した人口はここ何年かで最高だったそうです。

ただし、これも日本と同じで、そういう期間中、ホテルや飲食業、
サービス業のレイバーはいつもより忙しく働かなくてはならないので、
彼女もこの期間、目の回るような忙しさだったのに違いありません。



この日はレイバーデー明けの月曜日だったので、
ポイントでアップグレードもしてもらえました。

「ゆっくり部屋でお休みください」

とフロントに声をかけられてチェックインし、
一寝入りして起きたらお昼の2時。

せっかく車を借りたからには、ピッツバーグ市内にご飯を食べに行かねば。

その頃西海岸は記録的なヒートウェイブでちょっと参りましたが、
こちらは曇りで涼しく、ほっと一息つきます。




車はとりあえず、先日まで住んでいた地域へと向かいます。
借りていたAirbnbの部屋の前を通ったら、電気がついていました。

すっかりおなじみになったアパートの周りを一周通してみたら、
角の家の黒猫、”でんすけ”と再会することができました。



ピッツバーグで一度だけ食事を許されるとしたら、何を食べるか?

この問いに、わたしたちの答えは決まっています。
住んでいたバトラーストリートのはずれにあるタイ・キュイジーヌ、
「プサディーズ・ガーデン」(Pusadee's Garden)一択です。

ピッツバーグ最初の日に訪れ、最後にも行き、
そしてまた今回も来てしまうくらい、このレストランには夢中です。

そして、わたしたちが愛してやまないロティをまず注文しました。



十七種類の食材を使ったサラダというメニューを見つけ、注文しました。
サーブする人が目の前で混ぜ合わせてくれます。



いつもは一つのカレー皿を二人でシェアするのですが、
この日はキッチンのないホテルに泊まっていたということもあって、
次の日に食べるために、多めに頼むことにしました。

アメリカのレストランでは、残した料理を持ち帰ることが可能で、
入れ物も快く提供してくれますので、最初からそのつもりで多めに頼み、
次の日レフトオーバーを温めたりアレンジしたりして食べる人も多いのです。

日本では食品衛生法第6条の縛りで、店が責任を取らされるため、
持ち帰りはできないというのが一般通念となっていますが、
食品廃棄物も出ないし、無理して食べなくても持って帰れるこのシステムは
お店にとっても客にとってもいいことづくめだと思うんだけどなあ。

写真の奥はいつものパンプキンカレー(Kabocha入り)、
手前は初めて頼んだベリーのカレーパスタです。

次の日、出発前に部屋で食べましたが、びっくりしたのは、
一晩経ってレンジで温めたものなのに、完璧に美味しかったことです。



■ ユニバーシティ・ストリート



サンフランシスコのミッションディストリクトを走っていたとき。

この地域は、古い有名なスペイン時代の教会もあって、
ビクトリアン様式の邸宅なども公園の前に並んでいたりするのですが、
このクィーン・アン様式の立派なお屋敷の前を通ると、
家の前に掲げられたユニオンジャックが半旗になっていました。

もしかしたらイギリス大使公館でしょうか。
イギリスのエリザベス女王陛下が崩御されたと報じられてすぐのことでした。




MKの大学のある地域は、地価が高いので有名ですが、
そういう地域の中心街には、お洒落で美味しい飲食店がひしめいています。

MKの大学のキャンパス内からまっすぐ続いている、その名も
「ユニバーシティ・ストリート」沿いは、この地域のおしゃれスポット。

現在、アメリカでそのストリートがどれだけホットかどうかは、
スターバックスではなく、Apple Storeがあるかどうかで決まりますが、
当然ここにもそれはあり、しかも美味しくない店は、どんどん淘汰されて
新しい店に代わっていくという、飲食店の「激戦区」となっています。

COVID-19発生以降、ベイエリアの飲食店は外にテーブルを置くようになり、
そのせいで車を置く場所がどんどん足りなくなっているのですが、
この日お昼を食べに行ったこのカフェも、外のテーブルまで満席でした。



そして、写真に写っている人を見ていただければお分かりのように、
このゾーンには太った人は滅多にいないという特色があります。

総じてカリフォルニアの都市部はその傾向にありますが、特にこの地域、
そしてこの通りを闊歩するアメリカ人は、ほとんどがスマート。

太っている人も勿論全くいないわけではありませんが、
それは失礼ながら、ほとんどこの地域の労働者階級のように見受けられます。

少なくともこんな店に客できて、スパークリングウォーターを飲みながら、
「ブッダボウル」をつついている男性が、太っているわけはないですが。


刺身レベルのツナを使った(と豪語する)アヒツナ、ブラウンライス添え

映画版のSATCで、ニューヨーク在住の主人公がLAに来て、
昔の男友達と食事を食べたところ、彼がステーキを口に含んで噛んだ後、
ナプキンに吐いているので激怒したら、逆ギレされて、
ここでは太ったら人間扱いしてもらえないんだ、とか言うシーンがありました。

カリフォルニアの「ルッキズム」を批判した表現でしたが、
この地域の人々は、いわゆるアッパークラスの人種が多く、
金持ちとエリートにデブなしという法則通りなのだと思います。


ついでに余談ですが、最近リブートされたSATCの
「And Just Like That..」を、今回わたしは
国内便のオンデマンドとアパートのケーブルTVで全部観ましたが、
その出来があまりにも酷くて衝撃を受けました。
世間の評価も低くて10点中1がスコアのほとんどという惨憺たる結果。

多様性の話題をぶち込みすぎてつまらなかった、の一言です。

ミランダの新しい相手になるのが、LGBTQのヒーローみたいな、
新キャラの”チェ”とかいう女性(?)で、わたしはこの人が大っ嫌い。

この背脂が浮いたような女の演説が始まると、迷いなく早送りしていましたし、
それでなくても、大学の教授やら黒人女性とか、富豪のセレブ夫人が
判で押したように黒人ばかりとか、そんな世界ある?
もううんざり、勘弁してくれって感じ。

そんなに多様性多様性いうなら、シャーロットの養女、リリー以外のキャラに、
もっとアジア人を使えば?って思いました。

(ちなみにもう一人の彼女が産んだ娘はいわゆる性同一視障害で悩んでおり、
それを宥めるユダヤ教の女性ラビまでが同性愛者。OK、パーフェクト!)




閑話休題。アヒ・ツナのタコスなどというメニューも「ここ」ならでは。

ユニバーシティストリートですが、小洒落たカフェばかりではなく、
美味しいエスニック系のレストランももちろん、たくさんあります。

一度驚いたのが、NAGIというラーメンの店にお昼を食べに行こうとしたら、
三重に折り返すウェイティングの列ができていたことです。

ものすごい人気なのは分かりましたが、口コミサイトを見ると、
日本式のラーメンを知っているらしい人の評価は概ね辛口で、
チャーシューは「合成肉」で、脂っこく、値段は高いということでした。

二人で食べて四千円って、まあ高いよね。



ヒートウェイブが来ていたころ、お昼を食べに行った
ユニバーシティ通り沿いのカフェ風レストラン、「スウィートメープル」。



全体的にメニューにやたら牛肉がついてくる印象だったのですが、
この肉が・・・なぜか塩辛い。



『OMU-RICE』と名前だけは日本風のメニューなのですが、
これにもなぜか肉。(食べてないけど、これも多分辛かったと思う)

「ははーん、コリアン系の店だな」

メニュー構成とか、ところどころに見える「プルコギ」という文字、
そして何を食べても辛いこの味付けから、わたしはそう判断しました。

居抜きで買ったらしい店の内装はカフェ風で悪くないのですが、
どうも肝心の味がイケてない。というかはっきり言って美味しくない。

おしゃれなカフェ風の内装、店名、雰囲気だけはいいのですが、
肝心の味が全く「スウィート・メープル」らしさを感じさせないのです。

これはあかん、と思ったのは化粧室に行く時にキッチンの前を通ったところ、
それが、雑然として清潔とは言えない状態だったのを見てしまった時でした。

おしゃれなカフェのキッチンどころか、それはまるで
場末の中華料理屋の厨房のようだったのです。がっかり。


清潔そうな整理されたキッチン、そして綺麗なトイレ。
いいレストランは必ずそのどちらもを兼ね備えているものです。

勿論、これらを兼ね備えつつ「美味しくないレストラン」は存在しますが、
どちらも兼ね備えていないレストランが美味しかった試しはありません。

おそらくこのレストランは、この激戦区で長くは保たないでしょう。
次に行った時に、まだあるかどうか・・・。


逆に、せっかく味は美味しいのに、時代についていけなくて、
撤退を余儀なくされたらしい店もありました。

このタイ料理の店は、以前も一度食べにきたことがありますが、
本場の味を出していて、トムヤムスープは絶品と言ってもいいものです。



デザートもここでしか食べられないような変わったもので、
大変美味しかったのですが、店内に客がいないのが気になりました。

確かに、タイには本当にこんなレストランがあるんだろうなと思わせる
異国情緒溢れる内装といえば聞こえはいいですが、
初代店主の写真(多分遺影)や、素人(多分店主の絵)を飾ったり、
全体にあまりにもエスニック色が濃すぎて、飽きられたのかもしれません。

それを裏付けるように、デザートのお皿の下のお知らせには、
10月いっぱいでお店をクローズすることが書かれていました。

おそらく、地価が高くなりすぎて、家賃が払えなくなったのでしょう。
何しろ、このお店の隣にはApple Storeができてしまったのですから。


■リモートワークによる『人口流出」はあるか

最近のシリコンバレーの地価の高騰は凄まじいとここ何年か言われてきました。

それもあって、コロナが蔓延してから、AppleやGoogleなどの社員は
リモートワークを理由に帰ってこなくなってしまったくらいです。

それどころか、ピッツバーグの知人の娘さんのように、
カリフォルニアのIT企業の仕事を入社以来ずっとリモートで行っていて、
入社のインタビューですら、オンラインで済んでしまい、
一度もカリフォルニアに行ったことがないなんてケースもあります。


ところがです。

これはApple社の話ですが、当社に限っては、明らかに
リモートになってからの方が生産効率が落ちているのだそうです。

会社としては、なんとかして社員を現地に呼び戻そうとしているのですが、
笛ふけど踊らず、誰も戻ってきたがらないので困っているのだとか。
(日経新聞情報ですので念のため)

しかし、仮にもしあなたがアーカンソー出身だったとして、
アーカンソーに住みながら、カリフォルニアの給料が貰えるとすれば、
誰が好き好んで、高い家賃、高い食費、高いガソリン代、
朝夕の通勤渋滞を我慢して、ベイエリアに住もうなどと思うでしょうか。

そこで、わたしなど、

「リモートワークがこれだけ進んで、人口が減ったなら、
地価もそれを反映して安くなりつつある
んじゃないの」

という考えに至るわけですが、ここまで高騰したベイエリアの地価は、
テック企業の社員が少々逃げ出したくらいでは、びくともしないようです。


続く。



地獄のヒートウェイブ〜アメリカ西海岸滞在

2022-09-15 | アメリカ

さて、わたしのアメリカ滞在における最大の目的である、
MKの大学院寮への荷物運び込みの日が近づいてきました。

元々このベイエリア地域は湿度が低いため、
霧の多いサンフランシスコを除いて夜間涼しく昼間は暑い
(日陰は涼しい)という砂漠型気候であるわけですが、
その昼間の気温が、引っ越しが近づいた頃異常に高くなりました。


この日は、サンマテオの山側に面した貯水池沿いの
長大なトレイルを家族三人で散歩に行ったのですが、
10時を過ぎると日差しがキツくて苦痛を感じるほどでした。

ベイエリアにトレイルはたくさんあるのですが、ピッツバーグのように
森林の木陰だけを歩くような場所が皆無であるため、
散歩は朝早くに済ませないと、地獄を見ることになります。



さて、MKの入居する大学院寮に引っ越しする日がやってきました。

無事大陸を半分横断して西海岸に着いた荷物を出すため、
U-HAULに行ってU-BOXを出してもらったところ、
扉の前にわざわざこんなものが置かれていて、一同呆然。

右側の牽引用のU -BOXは元からそこにあったものです。

「他にもいくらでも空いている場所があるのに、なぜわざわざここに」

「しかも扉の前に」

「嫌がらせかな?」


家族で呆れながらも、とりあえず積み込みを始めました。

荷物が全部コンテナであることと、レンタカーのゴールデンクラブで
インド人の係員が配車してくれたフォードのSUVの搭載力のおかげで、
どうやら引っ越しは2往復で済みそうです。


この頃、MKの大学キャンパスは、人気がなく閑散としていました。

寮への引っ越しは届出をして決められた日に行うのですが、
その日1日を通じて、引っ越しをしているらしいグループはほとんど見ず、
寮の周辺も学生らしい人はあまりいません。


その理由は明確で、セメスターが始まるのが9月26日だからです。
これは普通のアメリカの学校にしては特に遅い開始となります。



キャンパス内で、マスク推奨のポスター発見。

今はブースターショットを受けた人は基本マスク着用は免除されていて、
ヒートウェイブ下のここベイエリアでマスクをしている人は、
もちろん皆無ではないものの、あまり見ることはありません。

おそらくこのポスターは、COVID-19蔓延中、
特にカリフォルニアが酷かった時期に制作されたものでしょう。

MKの卒業した大学は、黒いスコッチテリアという
文句なしに可愛らしいマスコットがいて、何かと和ませてもらいましたが、
この大学のマスコットは・・・。

あまり可愛げがなくて気の毒だなあ、とかねがね思っていましたが、
こうしてみると、木のマスコット、悪くない。いやむしろ可愛い。

マスコットの可愛さは対象そのものではなくデザインが決めるのか。

・・・・とここまで書いたとき、ふと学校のデータを見たところ、
この大学にはマスコットは「ない」と書かれていました。

「ない」って・・。



キャンパスの歩道沿いには大学シンボルである木が植わっていますが、
この気候には、南国を思わせるヤシ科のフェニックスの方がお似合い。

大学院寮であるこの建物も、そこはかとなく南欧風です。

それにしても引っ越しをしているグループは、わたしたち以外に
1〜2組見たくらいで、そもそもあまり構内で人を見ません。

授業が始まるのが9月26日なので、アメリカ人の学生は、親元にいるか、
旅行をしたり、インターンシップをしたりしているのでしょう。



しかし外国人学生であるMKは、インターンシップが終わった今、
行くところもないので入居するしかありません。

居住区の鍵には学生証を使うことになっていますが、
この日、オフィスに取りに行ったらまだできていなかったので、
仕方なくアナログなキーを貸してもらうことになりました。

学生証を作るための期日に間に合わせるために、
親が出動し散々苦労してI-20を取ったというのに。

ちなみにI-20(アイ・トウェンティ)とは、
留学生が必要とされる書類で、入学許可証としての機能を持つほか、
入学後は在学証明書としての役割も果たします。

また、アメリカへの(再)入国審査の際にも必ず提示を求められるもので、
その大学の学生であることを証明する正式な書類です。

写真はこのキーでガチャガチャやっている最中のMKですが、扉開かず。
結局、隣の建物と入り口を間違えていたことが判明しました。



寮のロビーは冷房が効いて涼しく、ほっと息をつきました。
車から、事務所で借りたカートに荷物を積み込んで、いざ入寮です。


この廊下の広さよ。
ちなみに廊下のエンドには会議室、ゴミ捨て室があります。

そして、廊下もひんやりと空調が効いています。



ここが大学院寮(一人部屋)だ!
最近できた建物らしく、何もかもがピカピカ新しい設です。

フルキッチンに大型冷蔵庫、部屋に備え付けのソファ、大きなベッド。
いいなあ・・こんなアパートで学生生活を送りたかった。



普通のアパートのように食器洗い機はありませんが、
大型のオーブンがあるので、料理のできるMKにはありがたい作りです。

ただ、ドアを開けてすぐある大型の冷蔵庫扉が右開きなのはいかがなものか。



キッチンのエンドには小さなカウンターがあって、食事ができます。
一人の部屋なのでダイニングテーブルはありません。


ベッドの大きさはクィーン、机の奥行きはたっぷり。
そしてさすがは今時の大学生用アパート、コンセントがたくさんあります。



こんなに床が広いのに家具を置くことはできない洗面室。
日本では考えられないことですが、バスタブがなく、シャワーのみです。


部屋は自分で選ぶことはできず、自動的に割り振られるので、
眺めとか何階にあるとかは全くの運で決まります。

ここは7階ですが、大学のアイコンとなるタワーは部屋からは見えません。



アパートの一階の駐車場からようやく見える位置関係です。



窓はスライドして外気を入れることができますが、
網戸を開けることはできず、窓を開けるときには網戸下部に設けられた
台形の小さなドアみたいなところに手を突っ込んで行います。

つまり部屋の窓から絶対に人や物が落ちない設計です。

これは大学の寮としては実は大事なポイントかもしれません。



とりあえず荷物を運び込みます。

UーHAULとの往復はきっちり2往復ですんだのですが、
もしあと1つケースが多かったら3往復しなくてはならないところでした。


ここは大学院寮といっても、10階以上の高さのが4棟あり、
寮だけで日本の都心の大学よりよっぽど敷地が広かったりします。

MKの今回の部屋はこの中で最も小さいタイプで、
世帯持ちの院生のためにはファミリー向けの部屋も完備してます。




広大な敷地内ではペットがいなくなることもあるようです。

キャンパス内は結構野生動物もうろうろしているので、
飼い主はさぞ心配していることでしょう。

情報によるとこの猫はマイクロチップを埋め込んでいるようですが、
なのにどこにいるかわからないものなのでしょうか。



週末、ロビーにはちょっとしたパーティでもあったのか、
食べ物やなんかが乱雑に置かれていました。(日本のお菓子もあり)

ちなみにこのアパートには棟ごとに一室ずつ「音楽室」があり、そこには
ピアノが置かれていて、練習などで自由に使うことができます。



■ 各種ヨーロッパ料理

さて、ここで唐突に恒例のベイエリアグルメ紹介ですが、
今日はベイエリアで味わったヨーロッパの料理を。

🇮🇹イタリア

この日は引っ越しの荷物積み込みを終えたということで、お祝いムード。
レッドウッド・シティの中心街にある評判のイタリアンに出かけました。

MKのレストランの探し方は、とりあえず星4.5以上に絞り、
そこから家族の意見を聞いて選ぶというもので、
この日は中華でも、もちろん日本料理でもなく、レッドウッドシティにある
ちょっと華やかで美味しいピザを出すお洒落めの店となりました。


レッドウッドシティは、昔、日系移民の技術革新により、造園業が盛んで、
中でもアメリカ初めての菊の生産地として有名な地域だったのですが、
その後日系人の強制所収容により、産業は廃れ、今日に至ります。

しかし、その名残なのか、サンマテオの中心街は今でも
和食を出す店が多く、日系が経営しているらしい店構えだったりします。
(うちはもうアメリカの日本食に期待していないので行きませんが)


元々は先住民族を追い出した(?)スペイン人が移住していた関係で、
米墨戦争の後、カリフォルニアがアメリカ合衆国になった時も
メキシコ人の大金持ちが広い荘園を持っていたという土地です。

古い建物も多く、レストランの向かいにある図書館なども築100年超えです。

オリジナルの図書館は、アンドリュー・カーネギーが1万ドル寄付して
1904年に完成したのですが、1906年の地震で倒壊してしまいました。

そこでカーネギーがもう一度寄付をして建て直したのが、現在の建物です。

このことにより、レッドウッド公立図書館は、同じ敷地で
2回カーネギーの補助金を受けた全米唯一の図書館
となりました。


わたしが選んだメインは魚とたっぷり野菜。

この日のイタリアンですが、経営しているのはもちろん、
ウェイトレスも間違いなくイタリア系の人たちでした。

こういう安心感というか、単にムードのために、ジャパニーズレストランは
そう見えるだけのアジア系店員を雇うのかもしれません。

それを思うと、アメリカの各種民族料理は、その国の人たちにとっては
必ずしも外国人が思うほど評価されていないのかもしれないと思ったり。



皆で取り分けるために頼んだスモールディッシュ、ズッキーニ。



家族の誰かが頼んだエビの一皿。


ピザは、テーブルの面積を節約するために工夫された
専用のスタンドに乗せられてサーブされます。

まずいピザは耳を食べる気にならないのですが、これは
生地がモチモチしていて端まで美味しく食べられました。



ここまでほぼ満点だったので、きっとデザートも美味しいに違いない、
と頼んでみた一皿目のパンナコッタ。
こちらはなかなかというレベルでしたが、


ティラミスは衝撃的に美味しかったです。
家族三人、夢中になって食べてしまいました。

🇪🇸スペイン

この日はベルモントにあるスペインのタパスへ。
レストランの名前から、おそらくイベリア地方の料理かと思われます。


昔バルセロナ旅行のためにスペイン語をちょっと勉強しましたが、
その時覚えたフレーズでいまだに忘れられないのが
「ウナス・タパス・サブロサス」(美味しいおつまみ)という言葉です。

タパスを「おつまみ」と訳すかどうかはちょっと疑問ですが、
要はタパスとは小皿料理のことだと思います。

バルセロナでは、TOのアメリカの大学の同級生と再会し、
彼におすすめのタパス、「パタータ」の店に連れて行ってもらいましたが、
ここでほとんど同じパタータ(ポテト)が食べられました。

まさにこれが「ウナス・タパス・サブロサス」でした。


そしてスペイン料理に来たら食べずにはいられないパエリア。
お鍋の大きさは、三種類くらいあって、これは三人用です。

後ろの席は六人でテーブルくらいある巨大なパエリアを完食していました。


出てきた時は自分が何を頼んだのかわからず、一瞬考え込んでしまった、
外側が岩のように硬いアイスクリームです。


🇬🇷ギリシャ



ギリシャ料理レストランにも行ってみました。
お店の名前は「タベルナ」です。

地中海沿いの国は総じて野菜中心のヘルシーな料理というイメージですが、
ここのサラータもオリーブオイルと調味料だけで唸るほどの美味でした。

ちなみにテーブルについてくれたウェイターは若い長身の男性でしたが、
この人が、額から鼻先までほぼ一直線の典型的なギリシャ鼻でした。


これね



ギリシャのデザートといえば、バクラヴァ

フィロ生地の間に刻んだクルミ、ピスタチオ、ヘーゼルナッツ、
アーモンドなどをはさみ、焼き上げてから濃いシロップをかけたものです。

昔パリで食べたバクラヴァが激甘すぎた記憶があり、躊躇しましたが、
ここはアメリカ、ちょっと洗練されているかもと思い、
三人で一つ頼んでみたら、これが甘さ控えめで大変結構でした。



アメリカのハーブティは、ポットにティーバッグを入れたものが多いですが、
ここは本物の葉っぱを使っているらしいので、
食後に頼んでみたら、面白いトレイに載せて持ってきました。

携帯を取り出したら、ポーズを取ってくれたので
(この人はギリシャノーズではなかった)
ウェイターさんごと撮らざるを得なくなりました。



上から見ると、下から見るとのポット。
流石はギリシャです。
何がさすがかわかりませんが。

■ヒートウェイブと大学の開始時期の関係


この頃、ベイエリア一帯には、ヒートウェイブ注意報が発令されました。

何しろ、MKの大学構内では気温が43度にまで上がりました。
外に一歩出たら辛くてヒーヒーいわずにいられないくらいの熱です。

日本よりマシなのは、湿気が皆無であることですが、
これで日本並みの湿度なら、まんま熊谷市です。

湿度がなく高温なので山火事が自然発生していました。


そういえば、ピッツバーグからサンフランシスコまでの機内から
地上で火事が起こっているらしい現場を目撃したんだよなあ・・。



さて、繰り返しますが、MKの大学は4セメスター制で、
9月下旬と他と比べて遅い時期に学期が始まります。

MKの寮でヒートウェイブの間過ごした時、あまりに暑いので
部屋のクーラーをつけてくれるようにMKに頼んだのですが、
しばらくスマホで何か調べていたかと思ったら、

「冷房ないんだって」

部屋にあるエアコンと見えた空調は、
10月から3月いっぱいまでの期間暖房をすることしかできませんでした。

フロントや廊下にはひんやりと冷気が来ているので、
そのシステムがビルに備わっていないわけではないのですが、
とにかく学生の個室にはクーラーというものはないのです。

その時、わたしは気づいてしまいました。

この学校は、夏の間、学生がいることを想定していないことを。

昔キャンプで来ていたときから、このキャンパス内の夏の暑さが
とにかく過酷で、異常ですらあるなと思っていたのですが、
だからこそ、大学はその時期を勉強に向かないと切り捨てて、
9月下旬始まりの4セメスター制としたのに違いありません。

知らんけど。



それにしても、誰もいない時期、廊下とロビーだけが
ガンガン冷房されているのは何故なんだろう。

謎は深まるばかりです。


続く。