ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

海軍の街・サンディエゴを歩く

2018-09-20 | アメリカ

東海岸での滞在を終わり、西海岸に移動しました。
息子の入学をアシストする仕事が終わったら実はもう用事はないのですが、
そこはそれ、せっかく行くのだから色々見学もしてきたいわたしとしては、
サンフランシスコの前に無理くりサンディエゴ訪問の予定を入れました。

アメリカ国内の移動、特に大陸横断は飛行機代が高いのですが、
幸い今回はユナイテッドのポイントだけで

ボストンーサンディエゴーサンフランシスコ

の移動代が皆まかなえてしまう上、カードのポイントが溜まって
去年泊まったミッドウェイ近くのホテルがそれもポイントで泊まれます。

今回も窓際の席を取ったので、これを見ることができました。
ネバダ砂漠の真ん中に作られた人口ファーム、センターピボットです。

なぜ丸いかというと、中心からスプリンクラーが時計の針のように回って
全体に散水しているからです。

地下水をくみ上げて砂漠に農地を作ってしまう、というのは、
誰が考えたかは知らないけど、さすがアメリカ人、という感じです。

一つの円が大きいもので直径1kmはあるらしいのですが、
おそらくこれらを管理しているのは一つの会社かまたは一つの農家。

拡大してよく見ると、円の外側に家があります。

日本の農家とは同じ農業とは思えないほどの違い。
たとえて言えば家内制手工業とプラントという感じでしょうか。

たまたま窓を開けたら、前に移動した時と同じフィヨルド?みたいな地域が見えました。

グランドキャニオンの少し北、ユタとアリゾナ州の州境にある
パウエル湖から出ている河の支線だと前に調べた時にわかりました。


全体的に赤いですが、「赤い河の谷間」という歌にも歌われた
「メサ」が連なっている地域だからです。

メサがあるこの地域に溜まった水はこのような湖の形を作り上げるのです。

ローガン空港を飛び立って6時間、西海岸に到着です。
サンフランシスコ空港近くの塩田が見えてきました。

夏場雨が少ないこの地域では長年この古来からの方法で塩を作っていますが、
蒸発の過程で、海水の塩分の濃度がだんだんと高くなってくると、
この手前のように緑からだんだん赤くなってくるのだそうです。

というわけでサンフランシスコに到着。
時間の関係で、サンディエゴに行くのにサンフランシスコで
乗り換えをしなければいけない便しかなかったのです。

窓から外を見ていると、脱出シュートみたいなものが
飛行機に乗り込むための移動しきゲートから出ているのに気がつきました。

まさか本当に非常時脱出用?

と思ったら、飛行機に載せる荷物をここに放り投げて滑り落としていました。
まじかよ。

アメリカの国内便は小さいので、手荷物でも乗り込む寸前に預けたりしますが、
まさか、パソコンの入ったトランクも、こんなことして積み込んでたの?

軽くショックを受けつつ、それでも投げ落としていたのが
(比喩表現ではなく本当に投げていた)数個だったので、
もしかしたらギリギリにきた人の荷物かもしれないと思い直しました。

そうであってくれ。

というわけでサンフランシスコを離陸。
本当の?雲の下に、サンフランシスコ名物にもなっている
霧を降らせる冷たい雲が二重に出ているところが見られました。

この雲の向こう側は太平洋となりますが、この地域はいつも
このようなクリームのような雲がかかっています。

サンフランシスコからサンディエゴまでは1時間半くらいで到着です。
海軍基地が見えてきました!

これは飛行機が空港を通り過ぎてから海軍基地を左に見る位置で
旋回するため太平洋が左に見えるのです。

画面上方に見えているのは、本土から海軍基地のある
コロナドに伸びている長い砂州で、これを右側に行くと基地です。

思いっきりズームしてみました。
自衛隊のヘリ搭載型護衛艦のようなのが2隻見えます。

苦労してアイランドの文字を読み取ってみたところ、
これらは強襲揚陸艦で、向こうから

LHA-6 「アメリカ」USS America

LHD-4 「ボクサー」USS Boxer

であることがかろうじてわかりました。
「アメリカ」は「アメリカ」型のネームシップ、
「ボクサー」は「ワスプ」級強襲揚陸艦の4番艦となります。

うおおおおこれは・・・・!
真ん中辺に見えるのって、これ、

サン・アントニオ級ドック型揚陸艦

なんじゃないですか?

こちらはドックで新造艦建造中と思われ。
一番右など、完璧に覆いで形をわからないようにしてあります。
確かに上空からは丸見えですので。

右から4隻目も「サン・アントニオ」級かな?
サンディエゴ基地には「サンディエゴ」以外に4隻も同級がいます。

飛行機は左に旋回し、滑走路へのアプローチを始めました。
最近までお話ししてきたサンディエゴ海事博物館の帆船や、
「ミッドウェイ」がこんな角度で見えます。

今回前半はヒルトン系のキッチン付きホテル、「ホームスイート」。
地名を「ホテルサークル」といって、今まで何もなかったところを
切り開いて各社ホテルを建て「ホテル村」となっている一角にあります。

ここもほぼ新築で、インテリアもセンスがいいし、ロビーラウンジには
ご覧のような中庭が繋がっていて、今流行りの「テーブルファイヤー」が楽しめます。

この大きなチェス盤は、たまーに真剣に勝負している人がいましたが、
ほとんどは子供の遊び場になっていました。

週2回くらいは「ソーシャルナイト」といって、ロビーラウンジで
ちょっとした食べ物屋飲み物が出されるのも共通。

こんなにお得感がありながら、5つ星の半額くらいのお値段で泊まれるのが
キッチン付きスイートのありがたいところです。

朝食付きも売り物ですが、どこに行っても所詮アメリカなので、
卵料理にポテト・ベーコン、パンケーキなどにフルーツ、ヨーグルトだけ。
野菜はなぜか絶対に出てきません。

三日後、去年泊まった「ミッドウェイ」近くのホテルに移動しました。
チェックインの時に、

「実は去年もこのホテルに泊まったんです」

と言うと、ウェルカムバック!といってアップグレードしてくれました。
カードのポイント利用で取ったホテルなのに、なんか申し訳ない。

「高層階と低いところとどっちがいい?」

と聞かれたので、

「ハイヤー・イズ・ベター!」

と言って15階にアサインしてもらいました。
窓からは「スター・オブ・インディア」と空港が見えます。

そして・・・・。

また逢いに来たよ、ミッドウェイ。

コロナドの岸壁には去年と同じ「カール・ヴィンソン」が。

その隣に「セオドア・ルーズベルト」がいるのも同じ。
艦体のあちらこちらに白い「バンデージ」をつけて修理中です。

次の朝。
6時に起きて外を見てみたら、埠頭沿いの道はたくさん人が歩いたり
自転車で通ったりするトレイルになっていたので、わたしも歩くことにしました。

アメリカについてから、毎日1万歩から多い時で2万歩歩いています。
航空博物館や買い物、モールに行くだけでもたくさん歩くことになるので、
アメリカに行くとわたしは体の調子がとてもよくなるのです。

景色のいい道が近くにないホテルでは、ジムのトレッドミルを利用します。

さすがサンディエゴは海軍の街だけあって、
GIフィルムフェスティバルなどと言うものを街ぐるみでやってしまう。

「スター・オブ・インディア」の帆が朝日を受けて。

こちらは映画「マスター・アンド・コマンダー」で使われた帆船。
後ろにはソ連の潜水艦もいます。

海事博物館の展示の中心となっている蒸気船「バークレー」で
弦楽四重奏の奏でるハイドンを聴きましょう、という企画。

カクテルも出るようです。
特等席は50ドルで、日本の感覚だとこれでも安いですが、
学生と軍人はなんと10ドル。

アメリカでは普通にミリタリーサービスに就いている人は優遇されていて、
例えば飛行機などでもプライオリティシートの前に搭乗することができます。

ここでもお話しした実験潜水艦「ドルフィン」には、

WORLD'S MOST DEEPEST SUBMARINE
(世界で最も深く潜水した潜水艦)

と看板がありました。

あれ?こんなのあったっけ・・・?
去年も一昨年も気づきませんでした。

PCF 816

PCFとは「パトロール・クラフト・ファースト」のことで、
ベトナム戦争で哨戒を行った時には「スウィフト・ボート」と呼ばれていました。

このボートは一度アメリカ海軍からマルタ海軍に貸与されていたのですが、
マルタからサンディエゴの博物館に寄贈されて今日に至ります。

PCF-816, Vietnam Riverine boat passes USS Ronald Reagan, Oiler, and pleasure craft on San Diego Bay.

かつてメコン川を哨戒していたボートが元気にサンディエゴ湾を航行しています。

 

さらに海沿いを歩いていきます。
この辺りには個人がヨットを繋留するヨットハーバーがあります。

ここは向かいのコロナドが防波堤の役目をするため、
全く波がない、ハーバーには最適の場所となっているのです。

ヨット越しに空母が見える、これがサンディエゴ。

歩いていくと、沿岸警備隊の飛行隊基地が現れます。
ゴミが散らかり放題ですが、この辺にはホームレスも多く、
彼らの生活の残渣がそこここに散乱しているのです。

気候が穏やかで街が豊かだと、当然のようにホームレスが集まってきて
観光地でも御構い無しに、いやだからこそ住み着いてしまうんですね。

緑のボックスに落書きをしたのも彼らだと思うのですが、

”UFCK”

ってなんだよ・・・(笑)
結構文盲の人も多いっていうからなあ・・・。

U.S. COAST GUARD SECTO SAN DIEGO

セクトって新左翼か?と思ったら、単にSECTORの「R」が
白く塗られていて見えなくなっているだけでした。

コーストガードは、所在地の前に「セクター」をつけて、
陸上のオペレーション基地を、

「コーストガード・セクター・サンフランシスコ」

などと称します。

何か有名なカッター(コーストガードの艦船)のスクリューかと思ったら、
横のプレートには非常にわかりにくい亀の甲文字で

「 SEMPER PARATUS ALWAYS READY」(常に備えあり)

という沿岸警備隊のモットーに挟まれて、
1790年に始まった歴史が200年目を迎えた1990年、
この間に沿岸警備隊で任務に就いた人々を讃えるために、
このモニュメントが作られた、と言うことが書いてありました。

 

わたしはこの日ここでちょうど30分歩いたので、折り返すことにして、
ホテルに帰り、この日は3度目になる「ミッドウェイ」見学に出かけました。

続く。



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陸軍指揮官の条件〜合衆国陸軍士官学校 ウェストポイント

2018-09-19 | アメリカ

アメリカ陸軍士官学校、ウェストポイントにはミュージアムがあって、
誰でも見学できるらしいということで見学を決めたわたしですが、
例によってそれ以外のことを全く調べずに現地に着いてみれば、
バスに乗って学内を見学するツァーがあるらしいとわかりました。

『合衆国ミリタリーアカデミーはあなたを歓迎します』という言葉が、
大々的に壁に刻まれているのが、このビジター・コントロールセンター。
立派なロビーにカウンターがあり、そこでは左のバナーにもある
「ウェストポイント・ツァー」を受け付けています。

「参加してみようか」「時間が合えばいいけど」

カウンターで聞いたところ、ツァーには一時間コースと一時間半コースがあり、
なんと15分後に一時間コースのツァーが出発するとのこと。

なんてラッキーなんでしょう。

一人12ドルくらいの(正確には忘れた)フィーを払って、出発まで
「The long gray line」 のエントランスから入るミュージアム
(これはいわゆるウェストポイントミュージアムとは違い最近できたもの)
の見学をして待ったというわけです。

ウェストポイントの歴史、士官候補生たちがどんな訓練を行なっているのか、
というようなことを体験的に知ってもらいましょう、というのがここの目的です。

創立から今日に至るまで、国防の軍を率いる指揮官を育成してきた
陸軍士官学校は「国の宝です」と言い切っています。

当たり前ですよね。

防人と彼らを育てる教育機関が国にとって宝であるのは当然です。

それが普通の国の考え方であることを、普通の国でない日本に住むものとして
こんな表現からもつい思わずにいられないのですが、それはともかく。


上段左から二番目の、

シルヴァナス・セイヤー(Sylvanus Thayer )1875-1872

は、陸軍士官学校の父というべき人です。
彼自身も陸士を出ていますが、ジェファーソン大統領の命により、
セイヤーが取り入れた教育方針や軍人になるための躾などが
彼の監督時代に体系化して現在もそれが受け継がれています。

防衛大学校もそうですが、士官学校では工学を重んじ、
教育のコアにエンジニアリング(土木含む)を据えています。

左から三番目の写真は建造途中のワシントン記念碑ですが、
これにも多くの陸軍士官学校卒業生が加わった、と書いてあります。


最初に起こった大きな戦争、南北戦争への参加をはじめとして、
世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争など、卒業生のステージは
常にアメリカが行なってきた戦争とともにありました。

ウェストポイントを訪れた内外からの賓客のサイン。
上から主な人物を書き出すと、

1842 チャールズ・ディケンズ

1860 イギリス国王エドワード七世 ウェールズ公

1872 日本使節団

1862 アブラハム・リンカーン

1863 ラルフ・エマーソン

1881 マーク・トゥエイン

1895 ウィンストン・チャーチル

1902 セオドア・ルーズベルト

1916 ウッドロー・ウィルソン

1872年の日本使節団は咸臨丸を連れて行ったあの全権団です。

 Japanese Embassy Delegation

の文字(上から五番目)は几帳面で美しく、
いかにも日本人の書いた文字だなと思わせます。

ところで冒頭にもあげたこの4本の柱は、ウェストポイントの
指揮官に必要なものが刻まれています。

まず「リーダーの資質」と上にあり、柱には左から

Academic (学術)

Military (軍事)

Physical(身体)

Character(人格)

それを土台で支えるのが、

Duty(義務)Honor(名誉)Country(祖国)

なるほど。

しかし言うては何ですが、これだけのことを言うのに、
こんな大掛かりな舞台装置みたいなのをわざわざ作るって・・・。

士官候補生を教育し、訓練し、啓発することで、ここを卒業した者が
Duty、Honor、Countryの価値を踏まえた指揮官の資質を備えること。
そして秀でた専門知識を備えたキャリアを育て、国家に奉仕する
アメリカ陸軍の将校となるための準備を行うこと。

下手な訳ですみませんが、これが陸軍士官学校の「ミッション」です。

右手を上げる仕草は、士官候補生が晴れて任官する際の誓い、
自衛隊でいうところの服務の宣誓とともに行います。

 

「私、〇〇は、米国憲法を支持し、国内外ののすべての敵から
米国憲法を守ることを誓い、それをここに厳粛に宣言(または肯定)します。

同じくそれに真摯であり忠誠を負い、なんらの心裡留保も
忌避の目的もなく、また対価を求めずその義務を果たし、
誠実かつ十分に、自らに与えられた任務を果たすことを誓います。

神よご加護を。」


これもなかなか下手な翻訳で失礼いたします。
陸軍士官学校のOath (宣誓)には、

「any mental reservation 」

「purpose of evasion」

という、自衛隊の宣誓でいうところの

「事に臨んでは危険を顧みず」「身を以て責務の完遂に努め」

に当たるところに、英語圏の者でないと少し理解しにくい、
この二つの言葉が使われています。

メンタル・リザーヴァションを「心裡留保」と訳してみましたが、
これは、

はっきりした疑いではないが、心の底から信じることを妨げる何か

というときに使われます。

芥川龍之介の自殺の理由みたいですね。

日本語で「一点の曇りもなく」とよく心情説明のときなどに言いますが、
この場合も"without" を伴って同じように翻訳するのが良かもしれません。


これを読んで思ったのは、自衛隊の宣誓はその対象が「国民」ですが、
こちらは「米国憲法」となっていることです。

かの国では国民と憲法は一義であり、日本のように乖離した存在ではないことを、
こんなことからも感じ取ってしまうのですが、それはともかく。

指揮官養成のためのシステムについての紹介です。

学術的にも肉体的にも、鍛錬され、錬成されてこそ指揮官、
ということで、徹底的に厳しい47ヶ月のプログラムが組まれています。

特に軍事演習については、状況判断と意思決定の能力と、
的確で私心のない命令を下せることに訓練はフォーカスされます。

「個の集まりは個より偉大である」

切磋琢磨と言いますが、共に学び刺激し合い、協力することで
より一層そのリーダーシップを強固に培うことができるのです。

どう行動し、どう振る舞い、どう真実を撰び取るか。
指揮官は部下と言葉と行動で意思疎通をはかり、
モラルと尊厳ある立ち居振る舞いで任務を果たさなくてはいけません。

指揮官の人格は陸軍の価値に直結し、部隊の士気に直結します。
そのため指揮官はしなやかで強靭な肉体を備えていなければなりません。

そして、柔軟性のある精神が的確な判断力と独創を生むのです。

「責任の重みを感じること」

いやー、なんというか、軍隊指揮官の養成というのは、
おそらく世界どこに行っても同じような言葉を使うものですね。
「指揮官の条件」というのは古今東西共通なのに違いありません。

学生は「学生隊」(Corps Of Catdets)を組織し、そして
シニア(最高学年)の優秀な生徒から隊長が選ばれます。

夏の野外訓練では小隊が組まれ、上級生が下級生を指導します。

そして指揮官としてのステージが上がると同時に責任も大きくなります。

陸軍士官学校の学生隊の階級について説明しています。

下から

1年 カデット・プライベート

2年 カデット・コーポラル

3年 カデット・サージャント

4年 カデット・オフィサー

どうも乱暴な進級ですね(笑)
各学年の呼ばれ方とその目標は、

1年 (プリーブ pliebe)チームメンバー ついていくことを学ぶ

2年 (イヤーリング yearling)リームリーダーになる 下級生の指導

3年 (カウ cow )リーダーシップスキルの向上とスタイルの洗練

4年 (ファースティ Firstie)士官として学生隊を指揮する 常に考え、創造せよ


「プリーブ」はそのものが陸士の1年生のことを指します。
「イヤーリング」は一般的に動物の1歳児のことです。

「カウ」は文字通り牛ですが、「イヤーリング」の牛が、
3年になってやっと大人になったということなのかもしれません。

まあ、大人になったと言っても牛なんですけどね。

「ファースティ」は「ファースト」から来ています。

海軍兵学校でも4年生が「1号生徒」だったでしょ?

卒業生の紹介コーナーです。

まず左、2006年に卒業した、ルカズ・デーダ君。

ニューヨークはクィーンズの出身で、ポーランドから10歳の時やって来た
移民の息子さんです。
彼はやはりウェストポイントに在学していた長兄を訪ねて
ここにやって来たとき、

「この場所に恋してしまった」

ということです。
なんか当ブログ的に親近感が湧きます。

専攻はドイツ語。
はてポーランドの人ってドイツを死ぬほど嫌ってると思ってたけど・・。
かつての敵を知る、という意味があるのかな。

彼は今航空士官として活躍しています。

 

右は女性、2007年卒のレネー・ファラーさん。

インディアナ州出身の彼女がウェストポイントに入ったのは、
9・11同時多発テロ事件がきっかけでした。

「世界にある悪くなっていく物事を自分の力で変えることができ、
その変える力の一部になりたいと思ったんです」

在学中は英語専攻、フェンシングをし、弦楽合奏団にも参加していたという彼女、
今では
陸軍の武器科にいるということです。

 

さて、次回はこの展示から、ウェストポイントの毎日についてお話しします。

 

 

 

 

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「長き灰色 (グレイ)の列」〜陸軍士官学校 ウェストポイント

2018-09-17 | アメリカ

予告編でもお伝えした通り、今回ウェストポイントに行ってきました。

ニューヨーク州の田舎にある航空博物館と、州都にあった駆逐艦
「スレーター」に行った勢いで、この際ウェストポイントにも行こう!
と我が家で唯一の免許保持者であるわたしが強く主張し実現したものです。

前にも言ったかと思いますが、日本はもちろんアメリカで
一家を乗せてハンドルを握るのはわたし。

運転が苦にならないタイプなので、代わってくれる人がいればなあ、
と思ったことは
全くありませんが、こういう体制でよかったと思うのは、
自分の行きたいところに人にお願いすることなく行けるということです。

もちろんうちのTOという人は、妻の行動を制限したり咎めたりはせず、
むしろわたしが探し出してくるミリ系観光に喜んで同行してくれるので、
一人の時も家族といる時もわたしの乗る車の行き先はわたしの意のままですが。

そんなわたしの家庭事情はどうでもよろしい。
というわけでこの日、車はニューヨーク州のハドソン川沿い、広大な敷地をもつ
U.S. ミリタリーアカデミー、通称ウェストポイントに向かいました。

ナビの通りにフリーウェイを降りたら、そこはなぜかこんな街。
街全体がゴミゴミしていて薄汚く、看板の半分以上がスペイン語。
どうもヒスパニック系のエリアのようです。

言いたくないけど、移民街というのはどこもどうしてこう、
荒れ放題のシャビーで汚らしい雰囲気になってしまうのでしょうか。

他人の国に来てその経済の恩恵にあずかろうとしているだけの移民は、
そのほとんどが、移民先の国家の文化へのなんの敬意も遠慮もなく、
住んでいるところに自国の貧しさからくる混沌を持ち込む。

もともとの住民は眉をひそめてそこから逃げ出し、より一層
「外国化」が彼らの住み着いた地域を蝕んでいく・・・・。

これはアメリカに限ったことではありません。
わたしは最近、
17年前に2年連続で訪れ、いずれもアパートを借りて
月単位で住んだパリの街が、路上生活をする移民のせいで
目を覆うばかりの惨状になっているのを見て心から悲しく思っています。

日本でもそういう地域がそろそろ出て来ているようですね。


それにしても、軍施設、特に士官学校のある地域というのがこれ?
と違和感を感じながら進んでいくと、ある瞬間から急にそこは
上品な雰囲気の漂う落ち着いた、しかし質実な街並みに変わりました。

そうそう、陸軍士官学校の近隣はこうでなければ、と頷きながらなおも進むと、
「ウェストポイント・ゴルフコース」という案内が山間部の道路に現れました。

地図で見るとわかりますが、ウェストポイントが所有している地域は
総面積64.9 ㎢ で、千代田区、港区、新宿区、渋谷区を足したより広いのです。
その中にはハドソン川や山林を含むとはいえ、これだけ面積があれば
そりゃゴルフコースが一つや二つあっても不思議ではありませんね。

というわけでウェストポイント正門に到着。
エイブラムス・ゲートと名前がついています。

ここに来る手前にそれらしい門があったので、入っていこうとしたら、
そこは陸軍の関係者の住居区か何からしく、警衛ボックスにいた一人の軍人さんが、
すわ!という感じでこちらを睨み据えているので、慌ててバックしました。

その表情から見て、おそらくウェストポイント見学に来た人が皆同じ間違いをして、
車で入って来るのに結構うんざりしているんではないかと思われました(笑)

そこからすぐ先に戦車がある正門を見つけたというわけです。

このゲートの「エイブラムス」というのは、

クレイトン・W・エイブラムス・ジュニア将軍(1914-1974)

の名前から取られています。
エイブラムス将軍は1936年陸士卒業、戦車大隊の指揮官を経て
最終的には陸軍参謀総長を務めた軍人でした。

わざわざ台座に「戦車に登ってはいけません」という注意書き。
いたんだろうなー、過去若気の至りでやらかした士官候補生が(笑)

エイブラムスの名誉は、第二次世界大戦の時のヨーロッパ戦線で
パットン将軍を刮目せしめるほどの優れた戦車隊の指揮によるものです。

彼は装甲と攻撃力に優れたドイツ軍の戦車隊を破り、

「バルジの英雄」

と讃えられました。

サンダーボルト、Thunderbolt VII、 M4 A3E8 シャーマン

第二次世界大戦中、エイブラムスが搭乗した最後の戦車だったそうです。

エイブラムス・ゲートから足を踏み入れると、ウェストポイント博物館が
このように威風堂々の佇まいをたたえ現れます。

一般人の見学はオールウェイズ・ウェルカム。
エイブラムス・ゲートは、むしろ広報のために解放されているという感じ。
「本当の」ウェストポイントへの入り口はこの先にあり、そこから先は
一般人は指定の見学バスに乗ってでないと入ることはできません。

しかしここもよく見ると「ビジターセンター」ではなく、

「ビジター・コントロール・センター」

であるのが、観光地ではなく軍の施設であることを物語っています。

ビジターコントロールセンターは入るとすぐロビーになっていて、
そこからは全面ガラス張りの窓を通してハドソン川が臨めます。

窓に近づいて下方を撮影してみました。
こんな小道も舗装して傾斜には階段と手すりをつける至れり尽くせりな感じ。

とにかくアメリカの教育機関の中で最高にお金がかかっているのが
各種士官学校であることは間違いありません。

ハドソン川を眺める窓際には歴史的経緯の説明が設置してあります。

ウェストポイントはかつてイギリス軍に対する防衛の拠点(ポイント)でした。
1780年に、ジョージ・ワシントンがここに設置した要塞が

「フォート・アーノルド」(のちのフォート・クリントン)

です。

そして1778年、完成したもっとも広い要塞、

「フォート・パットナム」(Fort Putnum)

の跡地が、現在の陸軍士官学校となります。

ここには、訪れた人々に陸軍士官学校の歴史と現在を紹介するための
ミュージアムがスクール・ショップと併設されています。

そのミュージアムのエントランスが、これ。

士官学校卒の五人の将軍の候補生時代の肖像が掲げられています。
左から、

ユリシーズ・グラント(1843年卒)

ここにいる人たちは全員元帥位まで昇進した陸士卒の軍人です。

グラントは南北戦争で北軍に勝利をもたらした司令官で、
アメリカ人なら「グラント将軍」を知らない者はいません。

面白いのが、グラントの元々のファーストネームは「ハイラム」なのですが、
陸士に提出するときに間違ってミドルネームがファーストネームで記載され、
本人はそれを気に入ってこちらで通したという話です。

確かに「ユリシーズ」の方がかっこいいよね。

我が日本の西郷従道が、明治政府の太政官記録係に名前を聞き間違えられ、
本名の

「隆興」=「りゅうこう」を「じゅうどう」=「従道」

にされてしまったのを気に入り、
それを本名にしてしまった話を思い出します。

グラントはのちに合衆国大統領となりましたが、政治家としては評価されておらず、
それどころか彼を「史上最低の大統領」に推す人も結構いるようです。

 

ジョン・ジョセフ・パーシング(1886年卒)

もっと正確にそのAKAを加えた名前を書くと、

ジョン・ジョゼフ・“ブラック・ジャック”・パーシング
(John Joseph "Black Jack" Pershing)

ブラック・ジャックとは手塚治虫の漫画の医師のことではなく、
法執行官が持っている棒のことです。

彼は「バッファロー大隊」の起源となった黒人ばかりの部隊を率い、
戦果を挙げていますが、士官学校で教鞭を取ったとき、
あまりにも学生に厳しいので、怖れられ嫌われると同時に、

「ニガー・ジャック」

と黒人部隊の指揮官だったことを揶揄するあだ名で呼ばれていました。
(人種差別が当たり前だった時代ですからこれは致し方なし)

その後、パーシングを取材した記者が、「ニガー」という言葉はあんまりだ、
と考えたのか、一応公的にはそう書くのが憚られたからか、あだ名を勝手に

「ブラック・ジャック」

に変えて報道し、こちらが歴史に残っているというわけです。


ダグラス・マッカーサー(1903年卒)

説明はいりませんね。
マッカーサーが若い時って、こんなにイケメンだったんだー!
とちょっとびっくりしてしまいました。

奇跡の一枚かもしれないと思い、他の写真も調べてみました。
やっぱり男前・・・だけでなく実にノーブルな面持ちの青年ですね。

これなんかもヘアスタイルが今風でいいじゃないですか?

ちなみにマッカーサーの陸士での成績はレジェンドともなっていて、
首席で入学し、全学年首席で通し首席で卒業という凄まじいものでした。
彼以上の成績を取った生徒は史上まだ二人しかいないそうです。

元帥になったからといってクラスヘッドばかりではなく、グラントなどは
どちらかというと後ろの方(人数も少なかったけど)だったそうですが。

ところで昭和天皇陛下と並んで撮った写真のあの人って、
本当にこの美青年の成れの果て?

うーむ、時の流れというのは人を変えるものだのう。

マッカーサーの母はいわゆる「ボミング・マザー」で、彼を溺愛し、
小さいときには女の子の格好をさせ、
ウェストポイントに入学したら
息子心配のあまり学校の中にある
(今でもある)ホテルに、
彼の卒業まで住んで彼を監視、じゃなくて見守っていたそうで、
このため、
彼は

「士官学校の歴史で初めて母親と一緒に卒業した」

とからかわれることになったということです。
すごいなこのカーチャン。


ドワイト・デイビッド・アイゼンハワー(1915年卒)

昔「将軍アイク」というテレビドラマがあったそうです。

平時に16年も少佐のままだったパッとしないアイゼンハワーの軍歴は、
第二次世界大戦がはじまり、連合国の最高司令官になったことから、
わずか5年3ヶ月の間に大佐、准将、少将(同じ年に)中将、そして
大将に続いて元帥にまで昇進するという、アメリカ陸軍史上、
空前のスピード昇進記録を打ち立ててこちらもレジェンドとなっています。

その後彼が合衆国大統領になったのもご存知の通り。

ちなみにアイゼンハワーは原爆の使用には絶対反対の立場で、
トルーマンにも強硬に反対を進言していたそうです。


オマール・ネルソン・ブラッドレー(1915年卒)

この人誰だっけ?とわたしが思った唯一の一人。
卒業年がアイゼンハワーと同じで、つまりこのクラスは二人元帥を出しており、

「星が降りかかったクラス」”the class the stars fell on"

とまで言われたそうです。

歩兵出身の彼はヨーロッパ戦線で野戦部隊を率いて「マーケット・ガーデン作戦」
「バルジ作戦」などを戦いました。


さて、エントランスの写真をもう一度見てください。
五人の元帥の上部に、士官学校の帽子が見えますね?

そう、卒業式のこの瞬間の白い帽子を表現しているのです。
そして、肖像の下の

「THE LONG GRAY LINE」

は、ウェストポイント・アカデミーの変わることないグレイの制服に
身を包んだ、過去から現在に連なる卒業生たちの列を表します。

 

というか、この制服、ブルーじゃなくてグレーだったのか・・・。


次回はこのセンターのなかにあった展示についてご紹介します。

 

続く。

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東海岸の軍事博物館見学予告編

2018-09-13 | アメリカ

さて、息子が大学に残って夫婦二人になってから、東海岸近辺の
めぼしいミリタリー系博物館に行きまくりました。

それらについては、今後時間をかけて観たものをじっくりと
ここでお話ししていくわけですが、今日は東海岸でどんなところに行き、
何を観てきたか、予告編を兼ねてざっとご紹介します。

まず、ニューヨーク州北部にあるエンパイアステート航空博物館
地元の空港に併設された航空博物館で、全く期待していなかったのですが、
屋内の博物館展示も、外側の飛行機展示もなかなかの充実でした。

なんとびっくり、博物館内にはこんなものもありました。
巨大な「赤城」の模型です。

これについてもまた詳しくお話ししますので、乞うご期待。

実は・・・こんなところにも行ってしまったのだった。
当ブログ的には先にアナポリスに行きたかったのですが(笑)

というわけで、アメリカ合衆国陸軍士官学校、ウェストポイントです。

ちょうど学内ツァーの時間に間に合い、バスで学内を観ることができました。

ツァーではかつてイギリスの艦隊を防ぐため、ハドソン川に渡した
いわゆる「チェーン」と、そのチェーンを渡したポイントを見ながら
解説を受けることができます。

この鎖の一部はコーストガード・アカデミーにもあったので、
そちらを見学した時に書いたことがありましたよね。

未来の陸軍士官たちのピチピチした生の姿を垣間見ることもできました。

学内ツァーが終わってからウェストポイントミュージアムも見学。

日本軍の武器や制服、降伏調印式のサイン入り実物もここにあります。

昼ごはんを食べ損なったので、士官候補生御用達のマクドナルドへ。
ここの大きな星条旗も半旗になっていました。

とにかくこの地方は日差しが厳しくて蒸し暑かったです。
こんなところで候補生たちは大変だなあ・・と心から同情しました。

まあ、それをいうなら我が自衛隊の士官養成のための厳しい訓練も、
日本というとんでもない暑い国で行われているわけですがね。

おそらく日本では全く知られていないと思われる軍事遺産、
駆逐艦「スレーター」の見学にも行きました。

ニューヨークの州都アルバニーのハドソン川沿いに係留展示されています。

TOが帰ることになり、出発前ローガンのヒルトンに一泊しました。
ヒルトンにはフィギュアヘッドがロビーに飾ってあります。

最後の夜を懐かしのオールドボストンで過ごすことにしました。

ハーヴァード・スクエアは、夜になって一層人が集まってくるようです。
いつ来てもストリートミュージシャンの演奏がありますが、
ここで演奏するにはオーディションを受けないといけないそうです。

ここ出身で有名になったミュージシャンも多数。

TOが本を買いたいというのでザ・クープに来ました。
ここも懐かしいなあ。
実店舗の本屋がAmazonに押されて姿を消しているアメリカですが、
ここだけは今後も決して無くならないでしょう。

階段を上ったところにはティールームになっています。

ブランソープ・スクウェアには人がいっぱい。
ボストンはこの頃昼間暑いですが、夜になると爽やかです。

わたしたちがこの日夕ご飯を食べたのは、画面左の二階にある、
インド料理「マハラジャ」。

ボストンに住んでいた時、TOの同級生だったインド出身の
ラマナンドさん夫妻に初めて連れて来てもらいました。
あれからもう17年経つのに、変わらず盛況です。

サラダとチキンコルマ一つを二人で食べてちょうどでした。

マハラジャからの眺め。
アメリカの古い街並が夜になってクリーム色の街灯に照らされる様子は
胸が締め付けられるくらい美しく、懐かしい感じがします。

向かいにはジェラート屋さんができていて、アイス好きのアメリカ人が
夜にも関わらず詰め掛けていました。
この日は日曜だったせいで、夜ですが子供も結構います。

お父さんがコーンを食べているのを見ている子供の顔が・・・(笑)

わたしたちより先にこの近くのメディカルスクールに留学した友人が、
色々とボストンでの学生生活をレクチャーしてくれたことがあります。
その彼が

「あそこはいかにもニューイングランド、って感じで好きだった」

と言っていたスターバックスが、ここ。
ちょっとエドワード・ホッパーみたいです。

TOを空港で見送り、わたしは一人になって、
毎年来ているいつものホテルに投宿し、いつもの公園に歩きに来ました。

この日はレイバーデイの次の日で、レイバーデイに休めなかった人が、
休みが取れたのでバーベキューをしようと支度をしていました。

レイバーデイは「勤労感謝の日」ですが、そんな日にも
働かないといけないサービス業の人たちはいるわけで・・。

わたしが朝歩きにくる時間にはほぼ人はいません。
たまにすれ違う人とは必ず挨拶をします。

ここアメリカで挨拶をすることは、相手にとって自分が危険ではない、
と知らせる意味もあるのだと聞いたことがあります。
特にこんな人の少ないところでは必要かもしれません。

車を停めたところから約一時間歩いて、この堤防の上の
一本道を通って帰ってくるという、もう何年も歩いている同じコースです。

一人になってすぐ、ふらっとバトルシップコーブにやって来ました。

中には入らず、外から眺めるだけ。
どれも、皆さんに詳しくお話しして来た艦船です。

USS「ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア」。

戦艦「マサチューセッツ」と「ライオンフィッシュ」。

「ライオンフィッシュ」の横にはソ連で建造された「ヒデンゼー」
その流転の人生についてはぜひ当ブログ記事をお読みください。

「ケネディ」が一番かっこよく見える場所から。

そういえば一眼レフでバトルシップコーブを撮るのは初めてだった・・。
「マサチューセッツ」をハリネズミのように守る砲の列。

こんな遠くからでも「ライオンフィッシュ」にペイントされた
日の丸と旭日旗がくっきり写ります。

ところで、インターネット時代になって?改めて検索してみたら、
今まで毎夏来ていた所にミリタリーミュージアムがあるのを知りました。

ここが結構今回の目玉というか、面白いものを見ることができました。

第二次世界大戦博物館、という名前の通り、その時代のアメリカ、日本、
ソ連、ドイツのものを集めて展示してあります。

これらについてもそのうちお話しさせていただきますので、
どうかよろしくお付き合いください。


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リメンバリング9/ 11〜ボストンニュース雑感

2018-09-12 | アメリカ

息子の入寮を無事に見届けた後も、わたしは元気で東海岸にいます。

いるついでに調べておいたミリタリー系の博物館に行ったり、
いつもの場所で散歩したり、買い物したりしています。

今いるボストン郊外は、3日前まで昼間は日差しが強く、
日向にいると苦痛なくらい暑かったのですが、2日前の夕方、
こちらの言い方で言う「猫やら犬やらが降ってくる」ほど強い雨が
雷を伴って振って以来、いきなり秋になってしまいました。

昨日は昼前から1日雨が振っていて、気温は14度。
二日までの服がもう着られなくなるのでは?と思うくらい寒かったのに、
今日は日差しが復活して途端にまた蒸し暑い天気が復活。

寒い時にはコートを着ている人もいますが、次の日はノースリーブ。
アメリカ人に「衣替え」の習慣はないのに違いありません。


さて、こちらではネタ探し(笑)とニュースがどう報じられているのか
チェックするために、部屋にいるときにはテレビを流しっぱなしにして、
画面を写真に撮ったりしているのですが、今日はそれをご紹介します。

まず、大坂なおみ選手の全米オープン優勝での事件。
日本ではどう報じられてますか?

画像は、無敵の女王の自分が小娘に歯が立たなかったのでヒステリーを起こし、
それを審判のせいにしただけでなく、後から「セクシズムへの抗議」にすり替えて
殊勝な顔でコメントするセリーナ・ウィリアムズ選手。(だってそうでしょー?)

感情を爆発させてやりすぎ、聴衆を味方につけて場を無茶苦茶にしておいて、
後から尤もらしい言い訳をするなんて、傲慢以外のなにものでもありません。

この人が誰かチェックするのを忘れましたが、

「このオーサカと言う若い女性は、彼女の研鑽の結果を発揮した瞬間を
いわば盗まれたのと同じようなことになってしまったんです」

としてセリーナを激しく非難していました。
(これはセリーナが審判を『泥棒』と罵ったこととかけている)
審判への非難を性差別にすり替えたのも、ダブルスタンダードだ、
ともいっていました。

CBSはセリーナを擁護している、と言う日本のネットの噂も見ましたが、
少なくともわたしが見た限り、コメントを言う立場の人は
なべてセリーナに厳しく、試合当日の夜これを報じたキャスターは

「彼女も、ナオミにブーイングした彼女のファンも、
テニスというスポーツにもっと敬意を払うべきだ」

ときっぱり言い切っておりました。

後から知ったのですが、大会主催者も、これは我々が望む結果ではなかった、
みたいなことを言ったらしいです・・・これ酷すぎない?

夢叶って憧れの選手と決勝戦、四大大会の一つで優勝し夢を果たしたのに、
誰も自分の勝利を讃えてくれないどころか四面楚歌。
これじゃ二十歳の彼女が泣いてしまっても仕方ないと思います。

ところで、表彰式でナオミに観客がブーイングすると、いきなりいい人ぶって(笑)
皆にブーイングをやめるようにと叫ぶセリーナってなんなの一体。

こんなことになったのはそもそも誰のせいなんでしょうか。

「彼女は悪くない」

と言ったらしいですが、そもそもあなたの苛立ちは当初若い選手に向けられてたでしょ?

この言い訳くさいセクシズムへの抗議へのすり替えについては、大坂選手が
もしハイチ人と日本人とのハーフでなかったから、もっと強力な、

「人種差別」カードが使えたのに残念だったね、という辛辣な意見さえあります。

違和感があったのは、どこの局も、セリーナのラケットを折った映像ばかりを流し、
大坂なおみ選手の圧倒的だった試合運びについては全く触れずにいることです。

ペナルティがなくてもおそらく彼女の勝利は動かなかっただろうということも言及なし。

聞いていた限り、大阪選手が日本人であることに特に言及した局もゼロでした。
日本だと、おそらくお愛想でも勝者の健闘を讃えるような言辞が
誰かから出るものだと思いますが、なんだか不思議な感じです。

まあ、あれだな、アメリカ人としては本心ではセリーナに勝ってほしかったのね。


わたしがアメリカに行く直前、ジョン・マケイン議員が亡くなりました。

アメリカに到着すると、街のそこここの国旗が全て半旗になっており、
しかも約1ヶ月くらいはそのままになっていたと記憶します。
アメリカにとってのマケイン議員がいかに大きな存在だったかを知りました。

CNNなどは民主党寄りをほぼ公言していて、トランプを親の仇のように報じますが、
流石にマケイン議員に対しては丁重な扱いだったように思います。

ベトナム戦争で捕虜になり、自殺を試みるほど酷い拷問から生還した
マケインは右左関係なくアメリカの英雄なのです。

全ての海軍艦艇が艦尾の国籍旗を半旗にしていたそうです。
横須賀の第七艦隊でも同じようにしてマケインに弔意を表していたはず。

この時に番組に出てマケイン氏の思い出を語っていた政治家は、
海軍兵学校でマケイン氏と同期だったということです。
話しているうちに、目に光るものがあったのが印象的でした。

 

海軍といえばですね。

昨日、ついに?「ラストシップ」の最終シーズンが始まりました。

作業をしながら横目で観ていたところによると、米海軍艦隊、
フリート・ウィークつまり一般公開の時に敵機来襲があり、
チャンドラー艦長の艦もズタズタにやられてしまっていました。

散々だった1日が済んで鎮魂の喇叭が演奏されています。
喇叭手の軍服もボロボロです。

Huluで早く続きが観たい・・。

ところでこれを制作しているのは9月11日、そう、セプテンバーイレブンです。
テレビでは、事故の時間に行われているトレードセンタービル跡での
慰霊式での様子を中継しながら、当日の映像を流し続けています。

実はわたしは明日西海岸に移動することになっており、当初
カード会社は9月11日のフライトを提案してくれていたのですが、
事故当日、ボストンからサンフランシスコへの便がハイジャックされた、
ということを思い出してなんとなく一日ずらしてもらいました。

縁起が悪いとかそういうことではなく、空港もその日は
何となくいつも通りではないのではないかと思われたからです。

映像を司会するスタジオの女性アナウンサーが、

「わたしの祖父もパールハーバーで亡くなっている」

と言い出したときにはあんた何言い出すの?と思いましたが。
言っとくがなあ、真珠湾攻撃は「テロリズム」じゃないんだぜ!

昔WTCの跡地グラウンドゼロに瓦礫が残っている状態の時
見に行ったことがありますが、ご存知の通りその跡地は
現在慰霊のモニュメントがあるだけになっています。

国旗の先頭に立つ音楽隊はバグパイプ。

音楽隊はニューヨークのファイアデパートメントと、
ニューヨーク警察の合同メンバーで構成されていました。

事故の後、現場に飛び込んでいった多くの消防士と警察官が
ビルの倒壊に巻き込まれて殉職しています。

国旗を敬礼で見送るのは警察と消防士たち。

左の女性警察官は、911で父親を亡くしています。
この若さから見て、幼いときに殉職した父と同じ道を目指したのだと思われます。

遺族が自分の家族と、その他の犠牲者の名前を読み上げています。
右側の少女はおそらく事故当時赤ちゃんだったのではないでしょうか。

ペンタゴンでもシャンクスビル(飛行機の墜落したところ)でも、
同じような慰霊式が行われています。

ところで、遺族が読み上げた犠牲者に日本人の名前があったのですが、
同時に字幕をタイプする人には聴き取れなかったらしく、
どこの国の人だよ?みたいな妙な綴りになってしまっていました。

ペンタゴンでは海軍の喇叭手が「ラストシップ」と同じく鎮魂の譜を奏で、
純白の軍服に身を包んだ海軍のコーラス隊が、「ゴッド・ブレス・アメリカ」を
ハーモニーも荘重にアカペラで歌い上げました。


今日一日、アメリカの全国民が一つの事件を想い、こうべを垂れ、
17年前の今日失われた三千人以上の犠牲者(いまだに正確な犠牲者数は
特定できていない)の魂のために祈りを捧げます。

おそらく今日、アメリカは星条旗を半旗にしてその弔意を表すでしょう。




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わたしのワシントンD.C.滞在

2018-09-03 | アメリカ

今回、東海岸にいる間にワシントンに一泊してきました。

ワシントン空港到着。
ボストンに住んでいた頃来て以来ですから、ほぼ空港の記憶なし。

当時はレンタカーのゴールドメンバーなどではなかったので、
レンタカーを借りるのも、その都度カウンターに並んだものです。

今ではカーロットの「プレジデント・サークル」に並んでいる
選り取り見取りの車から、契約したクラスの値段で借りられる身分に。

契約はいつもカローラ・クラスでしますが、大型車があればそれを借ります。
今回も一泊ですがトヨタのハッチバックを選びました。

空港から市内に向かう途中、虹が出ていました。

これを見るとワシントンにやって来た、と思うワシントン記念塔。
高さ約70mあって、内部は上まで登れるそうです。
(調べてませんがまさかエレベーターなんてないよね?)

そしてたった今知った情報によると、ペリーが日本から持って帰った函館、
下田、琉球の石がどこかに使われているんだとか。

ワシントンでのホテルもいつものレジデンスイン・マリオットにしました。
一泊なので料理は多分しませんが、キッチンがあると何かと便利です。

次の日、早速わたしたちは3人でホテルを出ました。
目的はスミソニアン博物館。

というか、スミソニアンのためにだけワシントンにやって来たようなものです。
もちろんこれはわたしの強い希望によるものです。

アメリカの貨物列車は気が遠くなるほど車輌の列が長いのですが、
この時に遭遇した列車も丸々5分間は続いて行きました。

合衆国国会議事堂が工事現場の向こうに・・・・・。

おお、これが夢にまで見たスミソニアン博物館。
しかし誰も前にいないのはなぜ?

TOが開館時間を勘違いして1時間早く来てしまったのですorz

「じゃホテルに帰ろうか」

「わたしスターバックスで時間潰していく」

そのまま二人は帰って行ってしまい、結局博物館には現れませんでした。
その理由は、この後大雨になったからです。

ドワイト・D・アイゼンハワー記念館を作るつもりと判明。
施工許可者と言う意味か、トランプ大統領の名前が一番上に見えます。

こんな巨大な建物をアイゼンハワー一人のために・・・・?

と言うわけで、少し戻ったところにあるスターバックスに到着。
ただしこれはそこにあったシアトルの第一号店の写真です。

スタバ第一号店にはシアトル旅行の時に行って見ましたが、
ほぼ全員が観光客で、全員が店内の写真を撮りまくっていました。

開館10分前に行って見ると結構な列ができていました。
スミソニアンに行く予定のある方、開館30分後に行けば
行列は解消していてほとんど並ばずに入れます。

飛行機に乗る時のように金属探知ゲートを通り、
荷物はX線検査を行います。
アメリカの空港のように靴までは脱がされませんでしたが。

スミソニアンといっても、ここはたくさんの博物館のうちの一つに過ぎません。
正式名は、

国立航空宇宙博物館(National Air and Space Museum)

といいます。
スミソニアンの展示については、また例によって、
「ビニーリサイニーリ」方式で何日にも分けてお話しして行くつもりです。

歴史的な航空機の本物があるのはもちろん、宇宙関係は
ほとんどが実際に宇宙から帰って来たものだったりするのがすごい。

写真はマーキュリー計画でジョン・グレン飛行士が乗ったカプセル。
これを回収したのは「ミッドウェイ」艦上にあったヘリコプターです。

一目でわかるこの形、この色。

当ブログでもベルX-1、「グラマラス・グレニス」の前に立つ
チャック・イエーガーの絵を掲載したものですよ。

人類初めて音速を超えたロケット機がここにあります。

黎明期に空を飛んだ(あるいは飛べなかった)飛行機の数は数知れず。

ジェット機は胴体をそのまま輪切りにして中を見学できるようになっています。

歴史的な偉業を成し遂げた飛行機は言うに及ばず。
これは北極圏を飛んだ飛行機、ノースロップ・ガンマ・ポーラスター

お父さん、すっかり疲れてベビーカーの見張りをしつつ休憩です。

零式艦上戦闘機、もちろん本物です。

空母コーナー。
この巨大な模型は空母「エンタープライズ」です。

ここは展示室全体が空母のハンガーデッキと同じ作りになっていて、
個人的にはすごく馴染みました。
ここで見たものをご紹介できるのが楽しみです。

空中にもびっしりと航空機が展示されていて圧巻です。

アポロ計画の月面モジュール。
これが本当に月に行ったのか・・・と感慨に浸れます。

ここにある中である意味もっとも歴史的に価値のある展示かもしれません。

なぜか館内のIMAXでミッション・インポッシブルの新作が上映中。
わたしたちはアメリカに出発する前日に皆で観に行きました。

「アルビオン」を見学したその日の夜だったので、
寝落ちするかと思ったら、案外面白くて最後まで観てしまいました。

一人で写真を撮り歩き回ってお腹が空いてしまったので、カフェで休憩。

広いテーブルスペースの手前に食べ物のケースが並んでいて、
そこでピックアップしたものをお勘定して食べるというシステムです。

大きなモッツアレラチーズ入りターキーサンドとフルーツ。

アメリカの生んだ偉大なパイロットたちについても多くを学べます。
右側の女性はリンドバーグ夫人。彼女自身も有名な飛行士でした。

初めて見るのに初めて見る気がしない。なぜだろう。
マリー・アントワネットもこれが飛ぶのを見たというモンゴルフィエ兄弟の気球。
ここにあるのは模型だそうです。

夕方まで一回の休みだけで駆け回り、腱鞘炎になる一歩手前になるまで写真を撮って、
ホテルに帰って来たら、
一日の歩行距離は2万歩でした。

外は激しく雨が降っていたので、お土産ショップで傘を買いました。
ショップの一隅にはワシントンということで「桜」コーナーあり。

出口で見かけた素敵なTシャツのお父さん。

ワシントンの中心部には100年越えの建物と新しい建物が混在しています。
こちらは新しい方ですが、砂漠の中にありそうな雰囲気。

国立アメリカインディアン博物館だそうです。

こちらは古い方、スミソニアン産業博物館です。

航空宇宙博物館の周りには郵便博物館、聖書博物館などがあり、
どちらもこんなものをわざわざ観に行く人がいるのかと思ってしまいましたが、
車で通りかかるたびに誰か人が入って行くのをみました。

ワシントン滞在は二泊。スミソニアンだけが目的です。
にも関わらず、初日航空博物館に全く脚を向けなかったTOとMK。

彼らにしてみれば、スミソニアン航空宇宙博物館も
わたしにとっての聖書博物館みたいなものなのでしょう。


飛行機に乗る前に空港近くにあるスミソニアン別館には流石に
一緒に行くことになりました。

空港に向かう途中、息子に適当に風景を撮ってもらいます。

記念塔の根元は星条旗と柵で囲まれていますが、これは
1982年、反核派の男が核武装に抗議し爆博物を仕掛けたとして
立てこもり射殺された事件以降になされたという話です。

反核派が戦闘的というのは世界的な傾向だったりするのね。

のリンカーン記念堂のプール(フォレスト・ガンプとジェニーが入った池)
はこの木立の向こう側にあります。
今走っているのはコンスティチューション通りです。

観光バスから降りる観光客は絶えることはありません。

ポトマック川に渡るアーリントン・メモリアルブリッジを臨む。

「あー!今撮って!あれ撮って!」

と騒いで撮らせたレイセオン社(ファランクスなどを作っている)のビル。
でって言う。

そして約30分後、空港併設のスミソニアン別館に到着。
どちらかと言うとわたしはこちらがメインだったんですよね。

なぜって、ここには旧日本軍機やドイツ軍機などのコレクション多数。
何と言っても冒頭写真のB-29を直にこの目で見たかったからです。

博物館は空港から近く、飛行機の時間待ちに見学もできます。
空港からは頻繁にホテル提供のシャトルバスが往復しているようです。

まあわたしは飛行機の待ち時間ではとても時間は足りなかったですけどね。
全部見終わるのにたっぷり5時間かかってしまいました。

ワシントン空港に着いた途端、雷雨になってしまいました。
これは一旦止んでからの写真ですが、出発は遅れるとの通知。

ワシントンのダレス空港では、このようなバスがターミナル間を往復しています。
バスはほぼまっすぐにしか進まず、ターミナルで乗り込んだ客を、
向かいのバゲージクレームまで載せて行きます。

これは「モービルラウンジ」というもので、2本の筒は柱だそうです。
これを天井にはめると車体がラウンジの高さに応じて上下する模様

わたしたちの飛行機は遅れに遅れました。
一回乗り込んでまた降ろされ(荷物もピックアップ)、
結局いつになるかわからない出発をラウンジで待つことになりました。

アメリカ人は慣れているのか皆平然としています。
まあ、誰しも落雷の危険をおしてまで飛んで欲しくないですよね。

その辺が北海道の空港で暴動を起こした某民族との違い。

結局離陸したのは予定時間の4時間後でした。

わたしにとってのワシントンDC滞在はイコールスミソニアン、
しかも航空宇宙博物館のみ。
そして街一番と評判の、
しかしその割にいまいちだったイタリアンの夕食、
それが全てでした。

しかしその二日でいっぱいブログネタができたので大満足です。
またそのうちここでお話ししていくつもりですので、よろしくおつきあいください。

 

 

 

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ボミング・マザーにならないで〜アメリカの大学入学オリエンテーション

2018-08-30 | アメリカ

 

息子が入寮した次の日、大学のオリエンテーションが始まりました。

オリエンテーションはこの大学のホールで、朝早くから行われます。

日本の市民会館の大ホールくらいの規模ですが、実はここは小ホール。
同じ建物に大ホールもあり、
東京のオペラシティと同じくらいです。


ここで、学生生活に関わる各部門のディレクターによるレクチャーが
午前中いっぱい使って行われました。

学生生活一般、健康、安全、経済・・。

安全についてはスクールポリスのヘッドが、

「我々は万が一学校内で銃撃事件が起こった時の訓練も受けています」

学内をスクールポリスのパトカーが四六時中パトロールしており、
彼らはFBIとの連携を常にとっているということでした。

健康について、特にマインドの問題は専門のセラピストを設け、
LGBTQの問題についても対処しているというのですが、

「はて、L(レスビアン)G(ゲイ)B(バイセクシャル)
T(トランスジェンダー)はよく聞くけどQって何?」

と思い、家に帰ってから調べてみると、Qとは

Queer or
Questioning

クイアとは同性愛者を含むセクシャルマイノリティーの総称で、
とにかく「大多数の外にあるもの」という定義でしょうか。
はっきりとはしないが「クエスチョンズ」でもあるように、
ぼんやりとしたマイノリティという意味かもしれませんがわかりません。

この写真は、ボランティアであるソフォモア(二回生のこと)四人が
一つの質問に1分以内で答えていく20問、というコーナー。

「授業をスキップしたことがありますか?はい最初の人」

「イエス、アイムギルティ、バット・・・」

「はい次の人」(ドッと笑いが起こる)

骨折したとか、よほどの理由があれば仕方ありませんが、
一回でも授業を休むとリカバーするのが大変だ、ということです。
代返なんてことはアメリカの大学には起こりえません。
困るのは本人ですし、そんな犯罪行為に誰も手を貸してくれません。

また、1時間の授業に対し最低2時間から4時間のホームワークが必要だとか。

ちなみに、学業についてのレクチャーで、

「この学校に入ってきた皆さんのお子さん方は、ほぼ全員がハイスクールの
上位10%におり、その多くが首席か次席だったという優秀な生徒ばかりで、
しかもSATの成績、特に数学は満点で入ってきている人の方が多いのです!」

といきなり親たちの親ばか心をくすぐりまくった後に、

「しかし、皆が優秀なので、そんな生徒が
最初の試験でBとかCの成績を取ってショックを受けます」

あー、それは知ってますよ。

戦前の日本で、地元では神童とか天才とか言われていた青年が、
海軍兵学校のハンモックナンバーでいきなり最下位になってしまい、
ショックを受けるという話みたいなもんですね。

「それでメンタルを壊してしまう生徒も少なくありません」

日本のノーベル賞受賞科学者の息子がMITに入ったものの、
入学してすぐに自室で自殺していた(しかも一週間気付かれなかった)
という痛ましい話があったのをご存知の方もおられるでしょう。

彼の場合はいきなり英語の環境に放り込まれたことも原因かもしれませんが、
アメリカ人学生でも学業についていけずに自殺する、という事件は
名門校ほど頻繁に起こるというのが定説です。

学校としては自殺されるのは一番困りますから、なんとしてでも
そうなる前に専門家に相談してくれ、と声を大にして言いたいところでしょう。

「よくあるコミニュケーション」としてディレクターと学生の間で
ちょっとした寸劇が行われました。

1、男子学生と母親 2、女子学生と父親 3、単位を落としそうだと報告するメール

1と2はも日本でもありそうなやりとりでしたが、最後は、

「お父さんお母さん、落ち着いて聞いてね。
わたし、実はボーイフレンドの子供を妊娠してしまったの。
彼にはちょっと病気があるけど大丈夫、産んで育てるわ」

と言った後に、

「今のは嘘。ちょっと脅かしただけ。
わたしは妊娠どころかまだボーイフレンドもいないから安心して。
でもね、一つ単位を落としそうなの・・・」

親に、なーんだ、そんなことか、と思わせるためのテクニック紹介?でした。

アメリカの大学は専攻を途中で変えることができます。

つまり入学した時には何をするのか決まっていない学生もいますが、
一旦選んでから変えるのよりはギリギリまで迷うのもありらしいですね。

このガイダンスは、専攻を決めるにあたって、というテーマ。

また別の部屋で行われた学生への質問など。

驚いたのは、こんなステージを持つ小ホールが別のところにもあったことです。
この調子では、他にも後いくつかホールがありそうです。

この日はランチもディナーも申し込んで学校で食べることにしました。
ディナーは学校の一部にある「アラムナイ・ハウス」つまり
卒業生同窓会クラブのソーシャルルームで行われることになっていました。

この建物は学校の横にあった、いったい築何年?という古い家。
軽く150年くらいは経ってそうです。

大学のあちこちには、歴史に名を残した卒業生を讃えるコーナーがあります。
海軍士官の姿をした写真を見つけて目を輝かせて近づいていくと、
海軍にいた時代があった科学者でした。

アラムナイセンターにあった卒業生コーナー。
装甲艦、USS「モニター」の本がありますが、写真を撮り忘れたので
卒業生がこれを作ったのか、それとも海底から発見したのかわかりません。

右側は軍用航空機の開発者で、コンベアのB-58ハスラーなども手がけた
卒業生の紹介として本が飾ってあります。

アポロ計画時代、NASAのトップをしていた卒業生もいたようです。

なんと!あのリバティシップを大戦中740隻作り、効率性の点で
海軍と造船の現場に大変な効率性をもたらした人が卒業生にいました。

この他、シービーズで指揮をとった土木工学専攻の卒業生もいるなど、
軍事研究にも多数の卒業生が関わっていることがわかりました。

サラダとチキン、白身魚のビュッフェがこの日のディナー。

同じテーブルになった人たちと話しながら食事するのですが、
わたしたちの隣に座った男性は、なんとコロラドから、三日かけて
車で馬を乗せてここまでやってきた、と語り驚かされました。

なんでも彼の姪がどうしても愛馬を連れてきてほしい、と頼んだからだとか。
近隣の乗馬クラブに預けたりするつもりなんでしょうか。

それにしても、アメリカの金持ちはやることが豪快だわ。

息子と最後にこの食堂でランチを食べました。
冒頭写真の建物の内部がこれです。
外側は思いっきりロマンチックなのに、中は普通のダイニング。

入り口で8ドル払えば中で好きなだけ食べても構いません。
もちろん時間制限もありません。

学内を歩いていて東部の学校だなと思った貼り紙。

「建物の外側を歩くと上から雪が落ちてきて危険ですから
必ず内側を歩いてください」

さて、オリエンテーションも二日目になり、いよいよ最後です。

オリエンテーションの最後は親と子が一緒に受けることになり、
ロビーでコーヒーを飲んでいると、「よお」といって息子が近づいて来ましたが、
あとはずっと同級生と楽しそうに話をしていました。

もう友達になったのかしら。


ロビーには栄養について専門知識を持つ栄養士がアドバイスをするコーナーや、
学生専用銀行のコーナー、そして・・・・

なぜか海軍のコーナーがありました。

せっかくなのでパンフレットだけもらってきました。

まだ詳しく読んでいないのでわかりませんが、ちらっと見たところ、
海軍が月々2,000ドルくらいを出資するバカロレアディグリーで、
工学系大学で原子力や医学につながるバイオロジーなどを勉強し、
卒業後、海軍の原子力エンジニアや軍医、航空士官、軍艦乗組、
そして原子力潜水艦の乗組になってくれんかね、というブースのようです。

どちらにしてもアメリカ市民でないとダメらしいですが。

海軍のブースには三人もいましたが、陸軍と空軍は
テーブルが用意されていただけで誰も来ていませんでした。

いよいよクロージングセレモニーの始まりです。
それにしてもたかが一つの大学のホールなのに、この立派なこと。

セレモニーではディレクターの一人が今年の入学生の「優秀さ」について語り、
去年の入学生がこの一年どんな学生生活を送ったか、学生が製作したビデオを放映したあと、
スクールソングを皆で歌っておしまい。

息子の部屋には後から思いついたものを買って来て放り込みました。

他の生徒たちは今日が本格的な引越しです。
前の車が荷物を降ろし終わるまで、後ろは動けません。

近隣から来ている彼らは、荷物をバラバラで持って来ているのが特徴。
スーツケースなど一切持たず、ハンガーにかかった服を持ち込む男子学生もいました。

皆が買ったばかりの電子レンジ、掃除機、温熱器、
コーヒーポットやダイソンなどの箱を抱えています。

 

オリエンテーションのレクチャーではこんなことを言っていました。

自分たちで何もかもやろうとせず、ましてや子供を
「ダチョウ」のように何かあった時に殻に閉じこもらせず、
できるだけ我々を信頼して外部の専門家を頼ってください。

ただでさえ、大学というのは最低でも週32〜36時間の
勉強をしないと単位が取れないので、95パーセントの学生が
大変な思いをして時間を捻出しているのです。

だそうです。
アメリカの大学は入るより出るほうが難しいとはよく聞きますが、
とにかく皆猛烈に勉強させられるようですね。

親としては、私の子供は親元を離れて大丈夫かしら、と心配になるものですが、
そんな時に決して「爆撃型」「ヘリ攻撃(バラマキ)型」ペアレンツにならないで、
とこの講師は語りました。

愛情の爆撃、心配のヘリ攻撃、何れにしても大人になりかかっている
彼らには、負担にしかならないのは事実です。

わたしは皆さんも薄々お分かりの通り、興味の対象が子供にだけ向いている
ボミングマザーだったことはないという自信はありますが、
(ボムはボムでも本当の爆撃関係にこそ興味があるので、と言うのは冗談)
それでも息子からすれば、自分を信じていないと思われるような心配や小言が
疎ましく思われることだってなかったわけではないでしょう。

そんな点からいうと、親元から離れての学生生活は、子供の側にとっては
誰でも持つ「親の煩わしさ」からの解放であることは間違いありません。
逆に、離れて初めて親の有難さに気付く
機会であるとも言えます。

親にすればそうであってほしい、といいますか。

週一度程度のスカイプ、用事がある時のメール、せいぜいメッセージと、
この時代ならではの便利なツールを活用して適度なコンタクトを取りつつ、
遠い日本から保護者の務めを果たしていこうと思います。

息子が自分の人生を親の助けなく歩いていけるようになる日まで。

 

 

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バック・トゥ・スクール〜子離れの季節 in アメリカ

2018-08-28 | アメリカ

ついに大学が始まり、息子が旅立っていきました。

この場を借りてアメリカの大学と、またこの季節の風物詩ともいえる、

「バック・トゥ・スクール」

についてお話しようと思います。

アメリカの私立大学はどこでも、入学に際して学生本人に対してだけでなく
親に対しても、大々的なオリエンテーションを行います。

しかも、1時間2時間というものではなく、丸々二日かけ、合間には
ランチ、ディナー、学長主催のパーティ、その他ソーシャルを含んで
あらゆる角度から学校の紹介と、新入生の親の不安を解消するための
アプローチでより一層学校に理解を深める一大イベントです。

新入学生のオリエンテーションは日本の大学でも普通に行いますが、
親を対象にここまでするとは、と日本人の我々には驚きです。

アメリカの大学、特に私学はそれ自体がビジネスなので、
大金を出してくれるスポンサーに説明するのは当たり前かもしれません。

この期間にわたしたちは広大なキャンパスをあちこち歩くことになり、
かなり学校内の地理に詳しくなりましたが、それでもまだ行ってないところもあります。


この日は学生センターを探検してみました。

 

卒業生の寄付らしいスタンウェイのピアノが学生ユニオンのラウンジにあったので、
誰もいないのをいいことにショパンのエチュードを一曲弾かせてもらいました。

調律などはされていないらしくひどい状態でしたが、周りにはソファもあり、
このコーナーは防音装置で囲まれています。

キャンパスに必ずピアノがあるのもアメリカの大学の特徴。

広大な部屋の半分にビリヤード台が置かれていました。
こういうのもおそらく卒業生の寄付によるものでしょう。

男女兼用床屋の広さは自衛隊基地のそれくらいの感じです。
5分でも遅れたら予約はキャンセル、とアメリカにしては厳しいです。

ユニオンにはスクールショップがあります。
アメリカの大学は、学校の名前のロゴを入れた洋服やカップ、
その他小物を中心に、学生生活に必要なものを売っている売店を備えていますが、
その店内、ロゴ入りトレーナーのラックに飾ってあった昔の当大学学生の写真。

1900年初頭のケミストリー専攻学生という感じですかね。

売店では各種パソコンも現物販売しています。

売店の本棚で見つけた「トランプ塗り絵本」。
皆が見るのに誰も買わないという「ネタ本」扱いです。

どれどれ、中身は・・・?

本当にあるのかどうか知りませんが、別売りで、

上「トランプ 侮辱の数々」

「ばか」「ロウレベル」「メンタル・バスケットケース」・・・
彼がやらかした数々の暴言事件に楽しく色をつけましょう。

下「ロック・ハー・アップ!(彼女をぶちこめ!)」

クリントンと彼女の夫にまつわる疑惑の数々が数十ページにわたり掲載。
トラベルゲート、ホワイトウォーター、モニカ・ルインスキー・・・。
今蘇る思い出深い事件をあなたの感性で彩ろう!

・・・みたいな?

アンクルサムの他にも、名画に描かれた人物や、プレスリー、
ワシントン(の彫像)に扮したトランプが続きます。

ミサイルをぶっ放しているUSS「トランプ」はわかるとして・・・。

なになに、下にキノコ雲、飛行機はエノラ・ゲ(略)

 

この日の売店は、お土産にロゴグッズを買う新入生と親で大混乱。
息子娘が行っている学校を世間様に自慢したい親のために、

「〇〇〇(学校名)Dad、〇〇〇Mom」

というグッズまで販売されていました。
わたしは買ってませんが。

学内はスターバックスは必須として、アイスクリームのメーカーも参入しています。
ダイニングも構内にいくつもあり、例えばその一つでは入り口で8ドル払うと、
中にあるものは何をどれだけ食べても構いません。

ケースの中にはアイスクリームまであってこれも食べ放題。

息子に言わせると、

「あれは罠だよ。
タダだからって好きなだけ食べるなんて最低」

大学からしてこうだから、アメリカ人って皆太るんですね。

スクールユニオンを出ると、にゃーと声がして猫が走り寄ってきました。
日本でもよくあるのですが、わたしのもつ「動物アンテナ」に感応したようです。

これが本当の猫まっしぐら。

しゃがんで写真を撮っているとずんずん近づいてきて、
たちまちピントが合わなくなりました。
猫氏の目的は、自分を可愛がってくれる人物にスリスリすること。

日本では見たことがないグレイのふさふさした尻尾を持つ猫でした。
首輪にお魚の形のタグをしているので、学校の誰かの猫でしょう。

トウブハイイロリスは普通にあちらこちらにいます。
(今住んでるホテルでは朝ゴミ箱に侵入してるのをよく目撃する)

何か見つけて食べだしました。

わたしがこの様子を激写していると、インド系の学生らしい男の子が
横に来て一緒にスマホで写真を撮り出しました。

きっとリスのいない国から来た留学生なのね。

こちらのリスさんは頬袋に食べ物を貯蔵したままこちらを窺ってます。
やっぱり大きなカメラは怖いんでしょう。

今回カメラはニコンの一眼レフ一台、レンズもオールインワンで乗り切ります。

いよいよ息子が入寮のために荷物を運び込む日がきました。
ただし、何かの手違いで実際の入寮は次の日からということがわかり、
この日は荷物を運んで部屋の掃除をしてやることにしました。(TOが)

ドミトリーの個室は二人一部屋です。
三人一部屋のドミトリーもあるそうですが、二人でよかったかな。

「友達が嫌な奴だったらどうするの」

「ルームメイトは友達じゃないよ」

「だったら尚更、こいつウゼーとかなったらどうする?」

「どうもしない。ルームメイトだから」

息子は案外人間関係にクールなところがあるのですが、
この辺の感覚はすでにアメリカ人的になっているようです。

今回ルームメイトは前もってSNSで自分の好みと傾向を公表し、
募集して応募してきたアメリカ人(近郊出身)だそうです。

到着してからこの日まで、ベッドリネン類から始まって、
あらゆる学生生活に必要と思われる品々を揃えるために、
毎日のように大型店に日参することになりました。

どんなものが必要かは、SNSによる先輩のアドバイス、
例えばすぐに寒くなるから冬の装備はもう持ち込んでおけとか、
(その心は学校が始まると忙しいので買い物に行っている間がない)
暖房器具があると朝助かる、とかいうのを参考にします。

LLビーン、ベッド・バス&ビヨンド、ターゲット、ベストバイ・・。

アメリカの便利なところは、全米どこに行っても同じ名前の大型店があり、
ほとんどが同じ店の作りで何をおいているかも共通なので、
不慣れな地で欲しいものを探すのに店を探しだす必要がないことでしょう。

わたしたちも他のアメリカ人のように、リネンを買うために「バスビヨ」、
電化製品のためにベストバイ、シャワーに必要な小物のために
ターゲット、冬用衣類のためにLLビーン、と毎日走り回りました。

今の時期、お店ではどこに行っても

「バック・トゥ・スクール・セール」

と銘打って学生生活に必要なものを集めたコーナーがあります。

そして、どこの店でも、お父さんお母さんと新入生らしい子供、
くっついてきた下のきょうだいという組み合わせがうろうろしています。

到着すると早速拭き掃除をして、ルームメイトのところまで
ブラインドを掃除しておきました(TOが)

息子はダストアレルギーがあるので、これに加え、ベストバイで
ダイソンの温熱&空気清浄機付き扇風機を購入して万全の態勢です。

この日と次の日の荷物運び込みは、インターナショナルスチューデント、
海外からの学生と、遠隔地からの学生に限られていたため、
廊下で荷物を運ぶ人と鉢合わせするということもなく、
掃除もしっかりしてやれた(TOが)のはラッキーでした。

後から知ったところ、遠隔地組のオリエンテーションは宿泊の関係で
入学日に一番近いギリギリですが、東海岸の近郊の出身学生の回は
すでに7月から始まり、5回に分けて行われていたということです。


わたしたちが荷物を運び込んだのはオリエンテーションの始まる2日前。

アメリカの大学には入学式というものはなく、それらが終わり、
寮に(新入生は必ずドミトリーに入寮しなくてはならない)残る息子娘と、
彼らを残して家に帰る両親とが抱き合って別れを惜しむのが
入学式のセレモニーといえばセレモニーとなっているのです。

学校は入ってくるものに対してはこれからの生活の指針を与え、
つつがなく学生としてやっていけるようにスタートアップするだけ。

そして全米で、ほぼ同じ時期に新入生が大学生活を始めるにあたり、
家族と別れるための準備に始まって入寮に至るまで、
新入生の数だけ別れを惜しむ家族があり、泣いてしまう母親があり(笑)
これからの自分の生活に不安と期待でそれどころではない学生あり、と
同じ光景が繰り返されるのが、バック・トゥ・スクールの季節なのです。

 

ちなみにわたしは、流石に息子が寮に入った次の日には
いろんな思い出が走馬灯のように巡ってしんみりしたものですが、
この後二日にわたり行われたオリエンテーション行事を経て、
何か一つ、「正しい子離れ」をしたような気がしています。

アメリカの大学は、生徒に対する親離れより、親に対する子離れロスに対して
ここまで手厚くケアしてくれるのだと驚かされた、その、
オリエンテーションイベントについて、後半でお話ししましょう。

 

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タスキーギ・エアメン・メモリアル〜ピッツバーグ空港

2018-08-26 | アメリカ

ピッツバーグ空港には、ウェイコ9「ミス・ピッツバーグ」の復元機が展示されています。

胴体に「メイル」の字が見えるように、郵便局の飛行機でした。
この郵便を運ぶための飛行機会社は、業務を拡大し、
今はユナイテッド航空の一部地なっています。

また、この空港のTSA(空港検査員)は、元軍人が多いそうです。
四人に一人が元軍人で、誇りを持って仕事をしています、とあります。

空港の一角にミリタリーラウンジなる部屋もあるくらいですし、
アメリカでは退役した軍人を積極的に雇用し、そのことが
企業のイメージアップにもつながるという土壌があります。

そしてこのように、普通に白人と黒人が並んでいる今のアメリカ。
しかしここに至るまで、黒人には長きに渡る迫害された歴史がありました。

 

飛行機を降りてバゲージクレームに向かうとき、
ムービングウォークで通り過ぎるところに冒頭写真のコーナーがありました。

「ごめん、ちょっと写真撮ってくるね」

家族に断って、少し逆戻りし、コーナーに入って行きました。

昔、第二次世界大戦中にアメリカ陸軍にあった黒人ばかりの航空隊、
タスキーギ・エアメンについて、映画を紹介しつつ話したことがあります。
その時の記憶によると、タスキーギというのは南部アラバマにあったはず。

どうして五大湖に近いここピッツバーグ空港に展示があるのかな。

ここにあった説明によると、ピッツバーグのセウィクリーというところにある墓地に、
アメリカで最大規模ののタスキーギ・エアメン・メモリアルがあるからだそうです。

ここには全ての戦争のベテランの墓が約100基くらいあり、
その墓の主の人種はそれこそ様々だということでした。

「彼らは身体検査と適性検査で選定を受け、合格した者は
航空士官として採用され、単一エンジン、のちに双発エンジン機の
操縦士、ナビゲーター、そして爆撃手としての訓練を受けた」

 

最初にお断りです。
アメリカでは黒人を「ブラック」ということはまかりならず、

アフリカ系アメリカ人といわないといけませんが、ここでは
(日本語に差別的意図はないとして)単純に黒人、と表記します。


アメリカでの黒人の人権は公民権運動に至るまで全く顧みられていませんでした。

国体を揺るがす戦争となっては、有色人種も戦力として取り込みたいが、
しかしながら白人の部隊に黒人を混ぜることは都合が悪い。
ということで、アメリカ軍は「セグレゲート」、有色人種だけの部隊を作ります。

日系人ばかりを集めた部隊もそうですし、黒人女性だけの部隊、
そしてこのタスキーギ飛行隊などを作り、白人の指揮官を置きました。

特に特殊技能を要するパイロットに黒人を採用したのは
この「タスキーギ・エアメン」が初めての試みでした。


アメリカでは1917年に一度だけ、アフリカ系の男性が陸軍で
航空偵察員を希望したことがあるそうですが、当然
拒否されています。

アメリカにいる限り黒人が航空機に乗ることは不可能だとして、貨物船で密航し、
フランスに渡ってパイロットとなったアフリカ系アメリカ人がいました。

ユージーン・ブラード(Eugene Jacques Bullard )

この人の経歴を見たとき、昔当ブログで扱った、ジャン・フランコ主演の

「フライボーイズ」

という映画を瞬時に思い出してしまいました。

ラファイエット基地に集められたアメリカ人ばかりの外人部隊の中に、
一人スキナーという名前の黒人青年がいたという設定です。


ラファイエット基地に外国人の航空部隊があったのは史実で、
このユージーン・ブラードはどうやらスキナーをモデルにしているようです。

スキナーが、アメリカでは飛行士になれないからフランスにやってきた、
という設定であったように、ブラードはアメリカでは果たせない空飛ぶ夢を
フランスで叶えるために密航までしてやってきたのでした。

第一次世界大戦の時、彼は勇気ある任務に対し、レジオン・ドヌール始め、
クロワ・ド・ゲールなど数々の勲章を授与され、

ブラック・スワロー・オブ・デス(l'Hirondelle noire de la mort)

「死の黒燕」という厨二的な渾名を与えられました。

ただ、撃墜に関しては、20回以上の空戦に参加して、1機、あるいは2機の
ドイツ軍機を撃墜したとされますが、公認記録ではありません。

戦争が終わってからはパリのジャズクラブのオーナーになり、
名士だった彼の店は、黒人歌手ジョセフィン・ベーカーや
ルイ・アームストロングなどが出演する超有名な社交場になりました。

第二次世界大戦が始まったとき、彼は早速外国人航空隊に志望しますが、
事故で背中を負傷していたこともあり、選ばれたのは白人でした。

非番の時にフランス人将校と口論になって罰せられたこともあって、
失意のうちに彼は帰国しましたが、アメリカでかつての名声は全く通用せず、
「ただの黒人」となった彼は、セールスマンや警備員、通訳などの仕事で
糊口を凌ぎつつ余生を送りました。

66歳で亡くなった時、彼の身分はロックフェラーセンターの
エレベーターのオペレーターで、晩年、テレビ番組に出演した時には
エレベーターボーイの制服を着てインタビューを受けたそうです。

不遇の余生を送った彼ですが、1994年になって名誉回復が行われ、
死後33年経ってからアメリカ空軍の中尉に任官されることになりました。

 


さて、アメリカ軍がアフリカ系をパイロットに登用することは、
必要性から生じただけではなく、有色人種側の熱い希望でもありました。

のちに公民権運動を指揮する全米有色人種地位向上委員会のウォルター・ホワイト
労働党のフィリップ・ランドルフ、連邦判事ウィリアム・ハスティなどが
それを実現するために運動を行なった結果、1939年、アフリカ系アメリカ人の
パイロットを養成するための予算法案が議会を通過しました。

これまで「バッファロー連隊」とあだ名される黒人だけの歩兵部隊は
第24、そして第25歩兵連隊、偵察部隊として第9、第10騎兵隊が存在しており、
新設される航空隊も、これらと同じ「分離方式」で編成されることになりました。

黒人にとって航空職種携わるための門戸となったこのシステムですが、
あまりにも選択に制限があったため、航空士官になれたのはごくわずかで、
1940年の時点で全米でたった124名だったそうです。

それだけに実際にタスキーギ航空隊員となれた一握りのアフリカ系は、
最高レベルの飛行経験を持ち、かつ高等教育を受けたエリート集団であり、
全体のレベルは下手すると白人の一般的な部隊より高かったといえます。

さらにその上で、米陸軍航空隊は、厳密な適性検査でスクリーニングを行い、
機敏さやリーダーシップなど個人的な資質をふるい分け、
パイロット、爆撃手、ナビゲーターと職種を決定していきました。

のちに彼らが精鋭部隊となったのも当然といえば当然だったのです。

 

後年タスキーギ・エアメンについていろんな媒体が取り扱いましたが、
そのうちHBOの「タスキーギ・エアメン」をこのブログでも取り上げたことがあります。

この中で大統領夫人エレノア・ルーズベルトがタスキーギ航空隊を訪問して、
首席指導員だったアルフレッド”チーフ”アンダーソンの操縦で空を飛んだ、
という実際のエピソードが語られます。

映画では、おばちゃんが気まぐれで飛びたいと言い出し、主人公である
ローレンス・フィッシュバーンを「ご指名」してお偉方大慌て、という

アクシデントとして扱われていましたが、実際は航空隊の宣伝活動として
前もってこのフライトを行うことは決まっていたそうです。

だからこそ、教官として何千人ものパイロットを世に送り出してきた
アンダーソンが選ばれたのですが、大統領夫人、飛行機から降りて、

「なんだ、ちゃんと飛べるじゃないの」"Well, you can fly all right."

と言い放ったという話を本欄でご紹介しました。

彼女が内心黒人パイロットをどう思っていたかが窺える一言ですね。


1941年7月、Chanute飛行場で271人のパイロットの訓練が始まりました。

ただし全員が黒人だったわけではありません。
教えている技術が非常に専門的で特殊なので、完全に分離することは不可能でした。

この通称「タスキーギ・プログラム」はタスキーギ大学での座学に始まり、
タスキーギ陸軍飛行場で実地に操縦訓練を行うことになっていました。

64キロしか離れていないマックスウェル飛行場は白人パイロット専用です。

その中でも図抜けて優秀だったパイロット、キャプテン・ベンジャミンO.デイビス,Jr
は黒人の部下の上に立つ指揮官となりました

デイビスはのちに黒人初の4スター空将(事実上の最高位)になりました。

その後、アメリカ空軍の歴史において何人かのアフリカ系、二人の女性の
空軍大将が誕生してきましたが、2018年現在、アメリカ空軍の最高位は

チャールズ・ブラウンJr.

この人もまたアフリカ系アメリカ人です。

 

徹底した分離政策をとったため、黒人航空隊であるタスキーギでは、
例えばフライト・サージェオン(医師)なども黒人で揃える必要があり、
そのため、アメリカ陸軍初の黒人医官が誕生するというメリットもありました。

しかし、あまりにも厳しいスクリーニングで弾かれた人員の「捨て場所」に
当局は実際のところかなり頭を悩ませたようです。
これらの人員は、管理部門や調理に回されることになりました。

パイロットにも同じような難しさがありました。
あくまでも現場は白人優先だったので、訓練を受けた黒人航空士官ではなく、
相変わらず黒人部隊の指揮官には白人士官がアサインされることになりました。
ブラウンJr.などは超例外中の例外です。

史上たった一人の空軍元帥、あの差別主義者”ハップ”・アーノルドはこう言っています。

「黒人パイロットは、現在のところ我々の航空隊に使うことはできない。
社会的状況が変わらない限り黒人士官に白人の指揮をさせることは不可能だからだ」

タスキーギ航空隊のデビュー戦は1943年5月。

シチリア攻略のシーレーン確保のために地中海の小さな島を爆撃し、
この成功後も、同盟国からその飛行機の赤い尾翼から

「レッド・テイルズ」「レッドテイルズ・エンジェル」

と呼ばれた彼らは、次々とその優秀さを発揮しました。

デイビス中佐が第332航空隊を指揮して行ったダイビング航空攻撃では
予想以上の戦果を挙げ、また第99戦闘機隊は、イタリアのある空戦で
わずか4分の間に5機を撃墜するという記録を作っています。

また、強敵であるメッサーシュミットとコメートと対峙し、
3機を撃墜したことがありました。

332航空隊が戦争中に受けたフライトクロスの数は実に96に上ります。

 

これら戦闘機部隊の成功を受けて、黒人爆撃隊の組織が計画されました。
陸軍に対し人権向上委員会や市民団体からの突き上げもあったと言います。

その結果、1943年にB-25ミッチェル60機を擁する第617爆撃航空隊が組織されました。

ただし、新しい指揮官となったロバート・セルウェイ大佐というのがまた差別主義者で、
航空基地内で白人と黒人の映画館での区画を分けたことで反乱が起こり、

フリーマン飛行基地の反乱

その責任を取ってやめさせれたりしています。

この反乱では162名の黒人将校が逮捕されることになりましたが、
結果として、軍隊の分離政策を廃止した完全統合に向けた第一歩となりました。

それでも一般世間よりはずっと黒人の待遇はましだったと言えるかもしれません。
基地周辺の白人経営によるクリーニング店では、ドイツ人捕虜の洗濯は引き受けても
黒人士官たちの洋服を預かることは拒否したと言われています。

ちなみに、分離政策を取っていた時の黒人専用クラブの名前は
マダム・ストウの同名の小説をもじって

「アンクル・トムズ・キャビン」といいました。

余談ですが、公民権運動以降、「アンクル・トム」は「白人に媚を売る黒人」
「卑屈で白人に従順な黒人」という軽蔑的な形容を意味しました。

ジンバブエのムガベ大統領がアメリカのライス国務長官を“アンクル・トムの娘”
と罵倒したことは、その蔑称としての意味をよく表している例です。

さらに、黒人と同じく合衆国の被差別民族であるインディアンたちは、
「白人に媚を売るインディアン」を「アンクル・トマホーク」と呼び、また、
中国系アメリカ人は同様に、「白人に媚を売る中国系アメリカ人」を
「アンクル・トン」(Uncle Tong)と呼んでいるのだとか。

アメリカ(特にニューヨーク)に行くと、アメリカ人にはヘイコラしているのに
日本から来た観光客となると偉そうにする日本人飲食店主が結構いるのですが、
これなどさしずめ「アンクル・トミタ」?(全国のトミタさんごめんなさい)

992人のパイロットが1941〜46年にタスキーギで訓練をうけ、そのうち
355人が海外に配備され、84人が事故や戦闘で命を落としています。

犠牲者の内訳は、戦闘や事故で死亡したのが68人。
訓練中の事故による死亡が12名。
戦争捕虜として捕らえられた32人のうち
死亡した人がその内訳です。

 

パンテレッリアというのは、最初にタスキーギ航空隊が爆撃した地中海の島です。
アメリカの象徴ハクトウワシが、黒い鳥が島に向かって飛んでいくのを

「頑張ってこい息子よ、お前はもう自分でやれる」

と言いつつ見送っているという図。
黒い鳥には

「初めての黒人航空部隊」

と説明があります。

映画を紹介した時、最後のキャプションで、こんなセリフがありました。

「332航空隊は護衛した飛行機をたった1機も失ったことはない」

この記録については、異議を唱える後世の研究も存在し、
ある研究者は少なくとも25の爆撃機が彼らの護衛中失われた、とし、
また別の研究者はそれは27機だった、とする報告を挙げています。

確かに前線で一機も爆撃機が撃墜されたことがない、という話には
かなり盛っている感が拭えないので、神話は神話に過ぎない、
というしかありませんが、それをもってタスキーギ航空隊の名誉が
貶められたということにはならないと思います。

同じ時期、同じ場所で戦っていた航空隊の爆撃機の喪失は
平均46機であったという記録もあるのですから。


このように、高く評価されたタスキーギ・エアメンでしたが、
戦後は普通に人種差別を受ける運命が待っていました。

4スターの空将になったもう一人のタスキーギ隊員、

ダニエル”チャッフィー”ジェイムズJr.

や、NORADとNASAで通信に携わったマリオン・ロジャースのように
その実績と資質を認められて活躍した者は極めて少数だったと言えましょう。

2012年、ルーカスが製作した映画「レッドテイルズ」が公開された時、
ロジャースはセレブレーションに招待されて、その席でインタビューを受け、
このように語っています。

“Our airstrips weren’t as nice as the ones shown in the film. ”

「我々の滑走路はこのフィルムに描かれたような良いものではなかった」

 



 

 

 

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ニューヨークの一日〜ミュージカル、極上鮨、そして渋滞

2018-08-23 | アメリカ

 

「今ニューヨークで一番ホットで人気がある店だって」

息子がネットで見つけ出して来た鮨屋情報に文字通り食い付いたのは
休暇を取って日本から来ているTOでした。

早速インターネットで予約を取り出したのですが、

「水曜と金曜の6時が空いてるけどどっちがいい?」

と相談している間に金曜日の予約が取られてしまいました。

「よっぽど人気があるんだね」

「というか、カウンターが8席しかなくて、板前が八人同時に握るらしい」

ほー、それは期待できそう。
せっかくニューヨークに行くんだからミュージカルも観ようということになり、
カードデスクが顧客のためにキープしてあった「アナスタシア」の
S席(オケピットの4列後ろ、ほぼ真ん中)を取ることができました。

用意も万全に整えて、さあ、いざ紐育へ。

しかしハドソン川を渡る手前から、恐ろしい渋滞にかかってしまいました。

それにしてもこれ見てくださいよ。
トールゲートがほとんどEZパスというこちらのETC対象なのはいいとして、
10個のゲートがその先で3車線に合流するんですよ?

「これ考えた人もしかしたらばかじゃないの」

「こんなの混むに決まってるよね」

その合理性にはよく感心させられるアメリカですが、時々
このように首を捻らざるを得ないシステムに遭遇します。

3車線になっても延々と続く渋滞。
かつて渋滞は無人料金所化すれば解消すると思われていたようですが、
いくら料金所を通り抜けても車線が少なく車が多ければ同じことです。

ロスアンジェルスの恒常的な広範囲の渋滞、日本でも
平日の都心部に向かう渋滞はどこも酷いものです。

これは世界中の大都市が持つ同じ悩みといえましょう。

気が遠くなるほどノロノロと進んで、ようやくハドソン川を渡ります。
ブリッジを渡りきったところで分岐があるのでまたここでも激混み。

橋の途中でニューヨーク市に変わるようですね。
かのビリー・ジョエル大先生も、アレンタウンの田舎から
グレイハウンドに乗って同じ橋を渡ったわけです。

♪ "I'm just takein' a grayhound on the Hudson River line...."

そのころはこんなに渋滞してなかったと思いますが。

ブリッジを渡ると、少しですが車が動くようになって来ました。

ハーレム川沿いを走っているとマコムズ・ダム橋が見えてきます。
この向こう側にはヤンキースタジアムがあります。

というわけで、なんとかまずホテルの近くまでたどり着きました。

映画などでご存知かと思いますが、案外緑が多いのがニューヨークの街路です。
ここなど、木々がまるでアーケードのように道路に日陰を作っています。

100年越えのビルディングが現役なのも、ここに地震が起こらないから。

1910年代初めから30年代初めまで、ニューヨークは高層ビルの建築ラッシュで、
現在のニューヨークで最も高い82のビルのうち、16はこの時代に建造されたものです。

ところどころに緑の多い公園があって、人々の憩いの場になっています。
これは公立図書館の隣のブライアント・パークです。

渋滞だけでなく、ドライバーのマナーも酷いものです。

イエローキャブの運転が無茶苦茶なのは当たり前ですが、
とにかく幅寄せをして威嚇するように割り込んでくる車の多いこと。

東京では滅多にクラクションを聴きませんが、ここニューヨークでは
しょっちゅう誰かがブーブー(文句を言うために)鳴らしています。

この写真は左のバスにグイグイと幅寄せされた白い車の運転手(女性)が
窓を開けてバスの運転手に怒鳴りつけているところです。
バスの方も負けておらず、わざわざステップドアを開けて、お互い
しばらく罵り合っていました。

それでなくても、ミュージカルの開演時間が刻々と迫ってくるのに。

この辺りではマチネーが一斉に始まる2時の前には大混雑になります。
わたしたちも少し遠くに停めて歩いて行かざるを得ませんでした。

おなじみタイムズスクエアを信号を待つのももどかしく駆け抜けて・・・。

劇場の前にたどり着いた時には2時だったので、もうだめだ!と思ったのですが、
先に行ってチケットをピックアップしてくれたTOが
まだまだ大丈夫、というので安心しました。

どうやら、開演時間というのは余裕を見て設定してあるようです。

「アナスタシア」はもちろんロマノフ王朝の末娘が生きていた、という
あの話をミュージカルにしたものですが、予想より面白かったです。

カード会社デスクは、「フローズン」(アナ雪)とどちらがいいか、
と聞いて来ていましたが、わたしは文句なくこちらを選びました。

音楽も初めて聴きましたが、意識したロシア風のメロディがなんとも切なく、
日本人好みのミュージカルだと思われました。

Anastasia

帰る時後ろを振り向いたら、二階席のバルコニー下にオケピットのモニターがありました。
もしかしたらこれ、出演者が視線を落とさずにに指揮者を見るための仕掛け?

ミュージカルが終わると、出演者が挨拶するドアの前に人が群がり、
さらにそれが道まで溢れるので、さらにこの付近は渋滞します。

というわけで自転車移動する人も多し。

インド人運転手が多い(イエローキャブもなぜかインド人率高し)
人力タクシーも、急いで移動したい人のために走り回っています。
車で来ていなければちょっと乗って見たい気もしました。

チェイス銀行が一階にあるこの古めかしいビルは、1918年に建造され、
当時は男性だけが使用できる社交クラブ、ラケット&テニスクラブだけがあり、
今は複合ビルになっていますが、まだクラブはあり、
二階に掲げられた旗にはテニスラケットが描かれています。

できた時には三つのダイニングルーム、ビリヤードルーム、図書館、ラウンジ、
ジム、4面のスカッシュコート、2面のテニス(リアルテニス)コート、

2つのラケットコートがあったそうで、実は外からは想像もできませんが、
今でも内部には4つの国際スカッシュコート、
1面のダブルスカッシュコート、
1面のラケットコート、2面のテニスコートがあります。

同じ名前のカフェ、確か六本木ヒルズとかにもありますよね。
調べてびっくり、日本のあのHERBSがニューヨーク進出してたのでした。

そういえばいきなりステーキも最近ニューヨークに進出したという噂です。
調べてみたらお店の名前は「Ikinari Steak」でした。

今日の目的地、寿司望(スシノズ)はHERBのほぼ隣にありました。

見ていると、オーナーシェフらしき方が出て来て暖簾を掛けました。
いよいよ開店です。

入り口脇に掛けられたこの風鈴は・・・・

海自の艦艇ごとに作る金属の銘板を制作しているということで
わざわざ富山県まで工場見学しに行った、
あの工房の作品ではないですか。

職人が全員を前に調理を行うという形式の関係上、時間ギリギリまで
待合所で待たされることになりました。

そして、いよいよ予約時間となり、8名全員が揃ったところで初めてカウンターに案内されます。
わたしたち三人は真ん中で、左側は男性二人、右側は女性一人を含む三人組。

ここでは黙って座ればまず「おつまみ」が、続いて寿司が出て来ます。

まず板前が出て来て挨拶をし、桶に入ったご飯に
黒酢を混ぜてすし飯を作るところから目の前で行います。

完璧に目で見て楽しむエンターテイメント系寿司。

左半分が「おつまみ」ですが、これはアメリカ人のために
便宜上そう言っているだけで、入魂の一皿が次々と続きます。

牡蠣、きんき、鮑、鰹。ダンジネスクラブ、鰻、
と素材だけ聞けば普通ですが、例えば蟹味噌をだいたいおちょこ一杯の
ご飯と混ぜた、まるでドリアのような舌触りの料理とか。
とにかく只者でない感じの工夫された小料理ばかり。

ようやく寿司に入った頃には実はわたしはかなり満腹で、
ご飯を少なくしてもらうことにしました。
寿司は、白いか、皮剥、高部、赤身、中トロ、大トロ、
鯵、石垣貝、雲丹、イクラ、赤ムツ、炙りトロ、穴子、
金目鯛の白味噌仕立て、そして玉子でおしまい。

 

特に炙りトロは、真っ赤に焼けた炭を乗せた金網を
並べたトロの上にかざして焼くという凝りに凝った方法で、
雲丹もそのままの形では苦手な人も多いアメリカ人のためにか、
ご飯に混ぜて食べさせてくれるというもの。

両側のアメリカ人は全員が白人で、時折聞こえてくる会話によると
どちらもが日本には行ったことがあり、日本文化が大変好きな模様。

TOの隣の人は、中国にも日本にも行ったことがあるが、中国人はどうも
食べ物は食べ物に過ぎないというか、鶏一つとっても頸がゴロンと入ってたり、
すごくぞんざいに扱うようだが、日本の焼き鳥なんか見てると全く違う、
彼らには食べ物に対する敬意がある、ということを力説していたそうです。

もちろん街の清潔さの絶対的な違いについても熱く語っていたとか。

コストパフォーマンスは、そういうことに詳しいTOに言わせると、
銀座で同じものを食べたらおそらく片手では済まないレベルだそうですから、
かなりお得に美味しいものを食べられたと言っていいと思います。

もしニューヨークで美味しいお寿司を食べたい方は是非どうぞ。

SUSHI NOZ

その日はマンハッタンの「ベストウェスタン・プラス」に宿泊。
パリのベストウェスタンでは酷い目に遭った思い出がありますが、
ここはおそらくその部屋の5倍くらいの広さで、キッチン付き。

窓から見える景色もニューヨークらしい(笑)

しかしニューヨークという街は夜も眠りません。

一晩中クラクションの音が鳴り響き、暗いうちから近所で工事が始まって、
工事人が大声で怒鳴りあうのが窓を通して聴こえてきてうるさかったです。

次の日のランチはニューヨークの知り合いのご招待でした。
有名なステーキハウス「エンパイア」で待ち合わせです。

これも確か同じ名前のが六本木にあったわね。

ここは昔ナイトクラブでステージがあったそうで、
壁にはエディット・ピアフがここで歌っている写真がありました。

確かめてませんがシナトラも出演したことがあったかもしれません。

しかしランチはデザート付きコースで22ドルと大変お手頃でした。
フィレミニヨンステーキはとろけるように柔らかかったです。
大きくて全部食べられませんでしたが。

パーキングで車が出てくるのを待っている間、横で遊んでいたスズメ。
アメリカのスズメは頭に黒い模様がありません。

MKが紀伊国屋に行きたいというので、またしても混雑する時間(2時前)に
ブロードウェイ付近を通り抜けるという最悪の選択をせざるを得ませんでした。
センチ刻みでしか動かない車列、さらに横からグイグイと割り込んでくるわ、
逆に車線変更しようとしてもウィンカーだけでは入れてくれないわ・・・。
(あ、それでみんな割り込むのか)

全く車でニューヨークを運転すると、心がささくれ立つような気分になります。

車が動かず暇なので車の窓から写真を撮って時間つぶし。
ここではキャロルキングのミュージカルをしていました。
キャロル・キングとジェームス・テイラーとの喧嘩シーンとかもあるのかな(笑)

ばったり街角で知り合いと遭遇しておしゃべり。
ニューヨークのマダムは結構なお歳でもピンヒール現役です。

歩けば2〜3分のこの道を通り抜けるのに20分はかかりました(涙)

ナスダックってもしかしてあのナスダック?

やっと車を停めて紀伊国屋まできました。
紀伊国屋は、日本人らしき人、日本文化が好きな人で賑わっていました。
漫画やアニメ、キャラクターグッズは普通に人気があります。

さて、というわけで帰ることになったのですが、またここからが大変でした。
一つのブリッジにニューヨークの数カ所から車が集中して来るのですから。

車窓から見た巨大な公文のビル。
そういえば公文もアメリカにはすっかり浸透してるんですよね・・。

あららー。

このトラック、右側車線を走っていてよそ見していたらしく、
まっすぐに路側の溝に落っこちてしまったようです。

何を運んでいるかにもよるけど、きっと運転手はクビだな・・。

ダメなところ、嫌なところもたくさん目についてしまうのですが、
うんざりしながら後にしても、しばらくするとまた行ってみたくなるのは不思議です。

それだけ人々を惹きつける魅力にあふれた街なのでしょう。

 

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ピッツバーグで大学見学をする

2018-08-19 | アメリカ

今回のアメリカ滞在、次なる目的地はペンシルバニア州ピッツバーグです。
ニューヨークとシカゴの中間くらいにあって、比較的五大湖の一つ
エリー湖に近いという位置にあり、昔は鉄鋼の街として有名でした。

空港で車を借りて市街に向かう途中、もう廃線になっているらしい
汽車の鉄橋の下を潜り抜けました。

ピッツバーグが造船業を最初にして鉄鋼産業を発展させたのは
1800年代初頭だといいます。
もしかしたらこの鉄橋も当時できたものかもしれません。

ピッツバーグというところは渓谷が多いので橋が446箇所にあるそうです。

List of bridges of Pittsburgh

この街を訪れた最大の目的は大学見学です。

ピッツバーグは大学の街でもあり、特に鉄鋼王と言われた
カーネギーが作ったこの大学が有名です。

アメリカの大学設備はどこも広い敷地にあらゆる目的に応じた施設があるのが普通で、
この大学も広いキャンパスに体育館ほどの大きさのジムがあり、それだけでなく
室内で楽しめるスカッシュのコートばかりの階があって圧倒されました。

キャンパスの一隅で目を引いた変なモニュメント。

なんかこんなコンセプトのアート、岡山の三井造船近くで見たなあ。
まあ、なんというか自己満足ですわ。

説明によると、

「評判が悪く、皆の顰蹙を買っている」

とのことです。

工科系の大学ですが、実は案外有名なのが同大学の演劇科。
そのレベルは世界でもトップレベルと言われているということです。

「ピアノ・レッスン」で聾唖の主人公を演じたホリー・ハンター、
「ヒーローズ」のサイラーを演じたザッカリー・クイントのほか、
アメリカでは有名な俳優が多数ここの卒業生です。

なんだか変な柵が見えてきました。

「これがこの大学二つ目の顰蹙です」

アメリカの大学にありがちな「受け継がれている変な風習」。
ザ・カットと呼ばれるこの柵は、昔はカーネギー工科大学と女子大を分けるものでしたが、
いつの間にか、在校生によって毎日(夜中や日の出前)塗り替えられ、ギネスブックにも

「もっとも頻繁に塗り替えられた柵」

として載っている「ネタ」になってしまいました。
この写真だと大変な分厚い柵のように見えますが、本体は細いもので、
その厚みのほとんどがペンキによるものだそうです。

ちなみに2006年のフェンス。こんなにスマートです。
どうやら日本人の先輩が書いたらしく、富士山にスイカ、祭りの団扇、

「富士ひとつ うずみのこして 若葉かな」

の句。(達筆)
ちょっと日本語が喋れるくらいのアメリカ人には理解できないと思うがどうか。

この建物が建てられたのはまだカーネギーが存命の頃。

内部は坂に沿って長い傾斜の廊下になっており、その両側に教室。

「大学を作った時、もし経営が失敗したら鉄鋼工場にしようと思ったようです」

傾斜になっていると引力を利用したラインができたということなんでしょうか。
まあ、ここが一度も工場に転用されることがなくて何よりです。

その当時の工学部ではこんなことをやっていました。

1906年、レンガ積み。

1910年、はんだ付け?

1920年、鉄鋼成型?

なんだか工学部というより工場でやってることって感じ・・・。
ちなみに創立は1900年、当時は「技術学校」と言っていました。

さすが鉄鋼王の作った校舎だけあって、スチールで補強された柱や廊下のアーチ、
丈夫そうなのは半端ありません。

そしてこれが「第三の顰蹙」なんだそうです(笑)

この学校を卒業した中国人の実業家だかなんだかの銅像で、
比較的歴史の浅い大学のせいか、権威的なものを嫌い基本銅像がない
(学校創立者の銅像すらない)この大学のキャンパスに、

札束で頰をひっぱたくようにして無理やり自分のを建てさせたのだとか。

まあ、これは説明してくれた人によると、と言っておきましょう。

キャンパスには、新旧取り混ぜてあらゆるタイプの建築がありますが、
中にはビル・ゲイツが寄贈したコンピュータ工学の建物もあるそうです。

続いて、研究室を見学させてもらいました。
まず、ドローンでのチェックシステムを研究しているゼミ。

日本の会社からの研究員がおられました。

この他にも、ブロック工法で作られた船舶の船殻を、
非破壊検査するロボットを日本の造船会社と共同で研究しているところで
詳しい映画を見せてもらいましたが、企業秘密なので公開不可です。

このドローンの実物大。
河川の突堤などのひび割れを無人でチェックするという研究でした。

3Dプリンターの特殊な成型機械。
DENSOのロゴがあります。

ここで成型しているのはこういうもの・・・ですが何に使うかは秘密。

移動の時にバナナの研究をしている人発見。

と思ったら娘と遊んでるだけのお父さんでした。
学校の課題を手伝ってるのかな?

この2倍の大きさの部屋いっぱいに工作機械が並びます。
この右側に並ぶ機械はシャープ製だったりします。

今の3Dプリンタで、人の顔の皮が作れるという話をしていて、ふと、

「ミッションインポッシブルみたいですね」

というと、まさにあれだそうです。
あれほど短時間で作れるかどうかはともかく、あのようなものを作ることは
今の技術的に全く不可能ではないというお話でした。はえ〜〜。

この研究室では、工学と医学をコラボしたテーマの研究が中心です。

例えばこれ、英語では「クラブフット」(蟹足)と言っていましたが、
日本語で言うところの先天性内反足を矯正するための器具なのです。

先天性内反足を矯正するには、夜寝る時に器具をつけて少しずつ足を
ねじって動かしていくというやり方があるのですが、その器具の開発には、
このように骨の模型にさらに透明の筋肉をかぶせた模型を使って
実際に動かしていくということを行います。

なんのことはないリサイクル用の紙置き場(笑)

さっきの足の模型のように、骨の形にほとんど筋肉と同じ感触の
透明の樹脂をかぶせ、さらに皮膚をかぶせてあります。

人体のパーツ模型があちこちにゴロゴロしてます。

足型を作るための原型を切り出したもの。
お花を挿す給水スポンジのオアシスみたいな材質ですかね。

医療現場でトレーニングに使うための模型も研究しています。
例えば太って脂肪の多い人が多いアメリカでは静脈を探しにくいので、
こういうのの「太った人バージョン」で針を刺して練習したりします。

脊椎の湾曲に対して矯正を行う器具。

こういうのを見ていてふと、

「脊髄液を取る時にする脊椎穿刺の練習用なんてないんですか」

と聞いてみると、それは聞いたことがない、という返事でした。

この大学には医学部はないのですが、冒頭写真の、ギネスブックに載っている

「世界で一番古くて高い建物」

を持つ同市内の大学の医学部や、イエール大の医者と提携して
研究を行うことが多いという話でした。

「特に脳外科医とかになると、エリート意識が高くて
『プリンス』みたいな人が多く、やりにくいことも多い」

というのはここだけの話です。
日本でも脳外科医や心臓外科医が、という話をよく聞きますが
これって世界的な傾向だったのね。

最後に見せてもらったのが教授の部屋。
日本の大学、例えば東京にある私学大学の教授室の4倍くらい広い部屋でした。

ここでも一連のスライドを見せていただいて、息子の参考にさせていただきました。

というところで学校の見学はおしまい。
今日は教授のお宅での夕食にご招待されています。

ピッツバーグの街並みは、イギリス風の建物が連なる、古き良きアメリカという感じです。
教授のお宅は山手にあるのですが、車で坂を上っていくと、どんどん家が立派になり、
そして家と家の間隔がとてつもなく広くなっていくのでした。

到着。
外側から見ても素敵ですが、中は吹き抜けの居間に客用ダイニング、
裏の森に向かってテラス兼サンルームを備えた日本規格で言う所の豪邸でした。

「今日はテラスでバーベキューをする予定だったのに、
雨が降ってしまったので予定変更です」

バーベキューになれば、活躍するのは一家の主人である教授のはずだったのですが。
(アメリカの家庭では、バーベキューは男の仕事、と決まっています)

夕食が終わってアメリカ人の家庭を訪問した時の恒例「ハウスツァー」が始まりました。
客間その2にいくと、古いアップライトピアノが置いてあったので、
急遽わたしと
息子さんのセッションが始まってしまいました。

彼は学校のジャズクラブでトランペットをやっていますが、ヴォーカルも得意で、
好きなアーティストはチェット・ベイカーだということです。

「Ain't Misbehavin’」「La mer」「Don't Get Around Much Anymore」

などの歌とトランペットにわたしがピアノで参加。
レパートリーのコード譜は前もってiPadに打ち込んであるので、
彼はわたしの伴奏のためにそれを即座に出してくれます。
さすがは今時の高校生。


ところで、この写真はその後のハウスツァーで地下室に行った時、
彼が楽器コレクションを見せてくれているところです。

高校生がフリューゲルホーンを含め4本も楽器を持っているなんて、
贅沢すぎないか?と日本の人なら思うかもしれませんが、
彼は状態のいい中古を上手に安くebayで探してくるのだそうです。

そういえば我が家の息子も、学校のドミトリーのルームメイトを、
フェイスブックか何かで条件をつけて募集して、感性の合いそうな同居者を
早々に見つけていたことに驚かされたばかりです。

今時の学生には、アナログ時代に学生生活を送った旧人類には想像もつかない、
ネットを媒介とした情報処理の方法があり、ごく自然にそれを活用しています。

この息子くんは音楽だけでなく絵も得意で、この地下室(総鏡張りのスタジオが隅にあって、
そこだけでも10畳くらいの広さがあった。前の住人がジムにしていたらしい)
に、プロ用の天板に傾斜のつけられる机を設置してそこで絵を描いているそうです。
車でホテルに送っていただく車の中、

「クリエイティブなお子さんをお持ちで将来が楽しみですね」

というと、父親である教授は

「わたしとしては科学者になって欲しいのですが」

と実に世間一般の親らしい希望を漏らしておられました、

 

 

 

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第二次世界大戦とその後のサンディエゴ軍港〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-03-29 | アメリカ

空母「ミッドウェイ」甲板上にあった「サンディエゴと海軍」シリーズ、
最終回です。
サンディエゴに海軍が来るきっかけになったのは、なんと日露戦争に勝利した
日本に対して釘をさす意味で行われた示威運動とされている

「グレイト・ホワイト・フリート」

に地元民が熱心に寄港を誘致したことであった、ということを知りました。

つまり、ぶっちゃけサンディエゴに海軍があるのは日本のおかげなのです!

というのは勿論冗談ですが、無関係ではないわけですよね。良い意味ではないにしても。

◆ ウォータイム 

そしてそのブースターとなったのが、1941年の開戦でした。
開戦と同時に市内に労働者がなだれ込むように移入してきて、
サンディエゴ市の人口は5万人以上も爆発的に増えることになったのです。

交通や住宅事情はたちまち人口増加とともに混雑を極めるようになり、
街外れの空き地だったところですら、トレーラーでごった返すようになりました。

そして政府主導で、約3000世帯が新たにメサ(メキシコ特有の台地)
の近隣の空き地に作られた住宅地に移入してきました。

各写真を引き伸ばしてみました。

人でごった返す市街地は、それまでここでは見られなかった光景でしょう。
海軍がやってきたので彼らを相手の商売も絶好調です。

この「サムの店」では、水兵さんのセーラー服などを専門にしていたようですね。

街のいたるところにセーラー服が見られる街。

戦争中だというのに、この写真から見られる街の活気はいかなることでしょうか。
戦争が「産業」であることはアメリカという大国の実相であると
我々はなんとなく歴史から想像するわけですが、こういうのを見ると
少なくともサンディエゴという街は、日本との戦争が起きなかったら
これほどの発展を遂げたかどうか疑問であるとすら思えます。

艦隊のお兄さん御用達の店、「ボマー・カフェ」。
こういった便乗商売?も含め、サンディエゴは海軍関連企業で振興しました。

エンターテイメント産業も大いに賑わった分野で、水兵たちを乗せた
トロリーやバスは、次々と彼らをダンスホールに運び、
そこではアーティ・ショーやグレン・ミラー、ベニー・グッドマンなど
綺羅星のようなタレントが、連日朝から晩までショウを繰り広げていました。

のみならず、タトゥー・バー、ペニー・アーケード(ゲームセンター)、
このボマー・カフェやエディーズ・バーなどのランドマーク的なお店が
それこそ休む間も無く営業を行っていたのです。

 

戦時中、海軍の空母は太平洋戦線に戦いに赴く前には必ず
航空部隊の機材と人員をノースアイランドで搭載するのが常でした。

一隻の空母が出撃していったあとは、別の空母が途切れることなく
やってきて、艦載機のパイロットはここで文字通り「月月火水木金金」
(アメリカ風にいうとセブン・デイズ・ア・ウィーク)の体制で
訓練を行いました。

かれらが、戦闘で失われることが既定路線となっているパイロットの
補充要員であることは誰もが知っていました。

街に海軍は産業をもたらした、というのはなんども言うことですが、
海軍が次々と投入する飛行機に携わる労働者も膨れ上がりました。

写真は、コンソリデーテッド・エアクラフトの組み立て工場で働く
労働者の出勤風景です。

そういえば、わたしが今密かに?楽しみにしている漫画
「アルキメデスの大戦」で、「大和」を作らせまいとする主人公
櫂少佐に向かって、艦隊派の平山中将はこう言います。

「これがどれほど呉の地域経済に貢献していることか。
呉だけではない。
船渠改修工事には中国、四国、九州からも出稼ぎに来ている。
海軍工廠の仕事によって日本全国の人々の仕事が
支えられているといっても過言ではない。
雇用を創出し経済の好循環を育むためのこの事業は
日本の将来を見据えた、いわば投資である。

つまり国防とは国家の経済政策!
公共事業なのだ!」

櫂少佐はそれに対し、

「軍需産業を活況にする目的ならば大型戦艦
建造である必要はない。
空母や直掩型戦艦でも同様の経済効果は得られます」

と反論するのですが、その話はご興味がありましたら
本編を読んでいただくとして、戦争が雇用を生み出す
経済活動でありひいては国の経済政策であることは
アメリカに限ったことではないのです。

海軍に志望してくる入隊希望者に軍事訓練を行うことも
どんどん拡大していく海軍基地では一層盛んに行われました。

上、行進の訓練を受ける新入隊員。
下は海軍トレーニングセンターで「ジェイコブズ・ラダー」
と呼ばれる縄ばしごを登る訓練を受けています。

Jacob's Ladder ヤコブの梯子(ヤコブのはしご)

とは、旧約聖書の創世記28章12節でヤコブが夢に見た、
天使が上り下りしている、天から地まで至る梯子ですが、
このことから日本でいうおもちゃの「パタパタ」、
いつまでも続く階段のようなものの総称に使われることがあります。

海軍でこの単なる縄ばしごをこう呼んでいるのは、
登っても登っても終わりがないからに違いありません。


そして、ここサンディエゴからは、次々と、日本との戦いのために
太平洋に向かう海軍の船が出航していきました。

上は「エセックス」。
24機のSBD偵察爆撃機、11機のF6F戦闘機、
18機のTBF艦攻を乗せ、太平洋を西に向かって進んでいます。

下はUSS 「ワスプ」。
西方に出撃する前にサンディエゴに帰還するときの姿です。

左から時計回りに

SBD ドントレス F4F ワイルドキャット TBF アヴェンジャー爆撃機
F6F ワイルドキャット F4U コルセア 戦闘爆撃機 PBYカトリーヌ

当時海軍航空基地は6箇所にあり、例えばカタリナ水上機は
サンディエゴ湾をくまなくパトロールして、敵の潜水艦が
この要所に忍び込むことのないように見張りを行いました。

アドミラル『ブル』ハルゼーの率いる第三艦隊が
1945年8月、機動部隊を率いて日本に出撃するときの様子です。

ハルゼーは1943年に第3艦隊司令官になって以降、一言で言って

「特攻と台風」

との戦いに明け暮れていました。
1944年10月末、フィリピンで特攻を受け、12月18日、コブラ台風に巻き込まれ、
(駆逐艦3隻沈没、7隻が中小破、航空機186機、死亡者約800人)

1945年、4月末、ニミッツの命令で作戦途中でスプルーアンスと指揮官交代させられ、
同時にこの時、海軍の損害が戦死者数百人、負傷者数千人、損傷船舶20隻前後に達し、
この損害が神風特攻によるものと知ってショックを受けます。

さらに6月5日、またまた台風に遭遇。(艦船36隻が損傷、航空機142機喪失)
更迭されかかるもマッカーサー一人に勝利の功績を独り占めさせてはならじ、
という海軍の陸軍に対する敵愾心がなぜか彼を守って、無罪となっています。

7月、日本攻撃の際イギリス海軍空母部隊が援軍で到着するも、この目的が

「マレー沖海戦の汚名返上と日本降伏立役者に名乗りを上げるため」

という漁夫の利を狙うものと疎ましく思ったハルゼーは、
(この人たち案外こんなことばっかり考えてるのね)
イギリス艦隊を艦船がほとんどいない大阪港に向かわせ、
アメリカ艦隊を日本艦隊本拠地呉に向かわせています。

もうほとんど反撃する力のない日本海軍相手にフルボッコ、
これは本当のところ、誰が日本に引導を渡したかはっきりさせるための
イギリスとの権力争いから来ていたということを意味します。
一方日本にとって、このときのアメリカ艦隊の攻撃は

呉大空襲

で残っていたわずかな海軍艦船を永久に失うことを意味しました。

この写真は8月に入ってからの日本行きということなので、
おそらくハルゼーが広島・長崎へ原爆が投下された後に、
再度爆撃を行うために出撃したときではないかと思われます。

ハルゼーは「日本は降伏したがっている」というサンフランシスコの
ラジオが報じた噂を聞いて、そうはさせまじと(笑)もう一度爆撃を行うために
エニウェトク島(マーシャル諸島)への帰港を取り消して、日本へ引き返したのでした。

 

ところがちょうど日本が8月15日に降伏してしまい、ニミッツは最高機密で最優先の電報で
「空襲作戦を中止せよ」との命令をハルゼーに対して送って来ました。

しかしハルゼー、此の期に及んで

「うろつきまわるものはすべて調査し、撃墜せよ。
ただし執念深くなく、いくらか友好的な方法で」

という命令を出していたということです。
おっさんよお・・・。

戦争が終結する頃、サンディエゴの人口は以前の二倍にまでなり、
経済規模が増大して西海岸でも経済の中心地の一つとなりました。

写真右上は終戦の知らせを受けたサンディエゴ市民。
市民の中に普通に水兵さんが混じっています。

俯瞰写真に見えているのは、1944年にクェゼリンの戦い、
マーシャル諸島侵攻でその役目を担った軍艦ばかりだそうです。

ちなみに、今「ミッドウェイ」が係留されているのはこの写真の
右下の赤い線で指し示された部分に当たります。

 

◆ PROSPERITY (繁栄) 1945ー

現在のサンディエゴです。
赤で指し示された部分は、全て海軍関係の施設となります。

コロナドの砂州途中には「海軍水陸両用部隊基地」があり、
内陸には海軍病院や補給処、海兵隊基地などもあります。


軍隊の施設が第二次世界大戦後縮小されたのに伴い、
海軍は業務をウェストコーストでのオペレーションに集中して行きました。
冷戦中にはこの地域は人員、艦船、そして航空機補給のための訓練施設がほとんどとなります。
(トップガンなどもその一環ということができますね)

写真は USNS「コンコルド」に洋上補給する補給艦(左)


こんにち、9万5千人以上の人々がこのサンディエゴエリアにいるわけで、
海軍はこの地で一つの組織として
もっとも巨大な雇用先という言い方もできるわけです。

付け加えれば、海軍だけでおよそ14万2千500人もの民間人の仕事を
艦隊のサポートのために生み出しているのです。
この数字は、サンディエゴ地域全体のトータルの雇用者の20%を占めます。

例えば「ニミッツ」。

この空母一隻に関わる軍人と民間人の数を考えただけで万単位の数字が浮かびます。

「チャンセラーズビル」。

このパネルが制作されたのは2015年以前であったらしく、
現在横須賀にいるはずの「チャンセラーズビル」の写真が(笑)

それまではサンディエゴが母港だったんですよね。

F/A-18 ホーネット。
ついこの間墜落してパイロットが二人亡くなっていましたが・・。

そういえばホーネットドライバーの唯一の知り合いであるブラッドは

「ベイルアウトすることは、たとえ死なずに済んでも、
搭乗員としてもう終わりということでもある」

と言っていましたっけ・・。
死なずに済む確率はだいたい2分の1、残りの2分の1が
頚椎損傷などで二度と操縦はできなくなるとかなんとか。

ところで艦載機1機にも雇用という意味では莫大な人間の数を必要とします。

SH-60 MK IIIシーホーク。
対潜哨戒のほか、救助ヘリとしても運用されます。

 

この紳士はピーター・バートン・ウィルソン。
サンディエゴ市長、上院議員、カリフォルニア州知事として、
サンディエゴ市のダイナミックな発展に寄与した人物です。

特に上院議員時代、サンディエゴ地域における海軍の
強いプレゼンスを維持し続けることを効果的に提唱しました。

軍港には最適な海深を持つ現在のサンディエゴ軍港は、
例えばニミッツやカール・ヴィンソンなどの原子力空母であっても余裕で擁し、
9隻もの輸送艦も備えています。

アメリカ海軍とサンディエゴは、100年以上パートナーシップを結んできました。
軍港に最適な地形、訓練に最適な環境をを海軍はサンディエゴに見出し、
サンディエゴは1908年の祖先が結びつけたその関係をさらに発展させ、
街の繁栄を共存することで、一層強固なものにしていくことでしょう。

 

続く。

 

 

 

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アメリカ東部春休み旅行

2018-03-28 | アメリカ

息子の春休みを利用してアメリカに行きました。
今回の目的地はアメリカ東部、ニューヨーク州とコネチカット州です。

ユナイテッドコードシェア便なので、シカゴのオヘア空港でトランジットです。
シカゴ空港は巨大ハブ空港ですが、ダラスなどより雰囲気がまともです。
空港ロビーにはシカゴ空港の名物、恐竜の骨がこのように鎮座しています。

もちろんレプリカです。

ターミナルの地下を繋げる通路は、シカゴ空港のシンボルともなっており、
映画によく登場します。

今回ユナイテッドの広告がすごいことになっていました。
スタッフがスーパーヒーロー風です。
ちゃんと登場人物の人種も偏らないようになっているのがミソ。

パラリンピックの応援を兼ねているようですね。

空港のラウンジで6時間もの時間を過ごしたのち、乗り換えです。
ニューヨーク州の某地方は、内陸なのでいまだに雪がこの通り。

最高気温が1度と聞いていたのでかなりビビって重装備をトランクに用意しましたが、
流石に3月だけあって、思ったほどではありません。

体感的には日本の12月といった感じでしょうか。

よく知っているホテルチェーンを宿泊先に選びました。
ホテルの佇まいも、カントリーロッジ風です。
田舎のせいか、駐車場の IDタグも、Wi-Fiのパスワードも必要ありません。

夏にパロアルトで泊まったのと全く同じ部屋の形です。
ロフト風の二階があって、ここを今回もわたしが独占しました。

二階から下を見たところ。

一階のベッドが全面引き出し式でした。
壁のようですが、これをよいしょっと引き出すとダブルベッドが現れます。

ホテル敷地内も田舎ならではの佇まい。
折しも夕焼けが真っ赤です。

この一棟に同じ二階タイプの部屋が4室があります。

バックヤードにはまだ積雪が残っていました。
夜間は零下まで気温が落ちるので、街のあちこちに雪が解けないまま積み重なっています。

アメリカには全米にどこにいっても同じチェーン店が展開しているので、
それを探せばだいたい同じものが手に入るというのが便利なところです。

ここでも迷いなくホールフーズを探し出し、食材を買いに行きました。
やはり土地の安い地域の店舗は占有面積が大きくて立派です。

ニュースでアマゾンがホールフーズに参入したというのは聞いていましたが、
オンラインで購入し、ここに商品を取りに来るというシステムのロッカーを
初めてここでみることになりました。

店舗に来ることはできるけど、店内をお買い物して回る時間のない人向け。

アメリカでは今、高校生が主体となって銃規制に対して反対デモが起きています。
高校で頻発する銃撃事件に対し、なんと

「教師に銃を所持させる」

というアホな選択をした結果、その教師によって、間違えて
(この時のニュースの聞き間違えがなければ)
二人の生徒が射殺されてしまったので、皆が怒っているのです。

彼は高校生ですが、亡くなった二人のティーンの名前を挙げ、
銃の規制と撤廃を呼びかける演説をして喝采を浴びていました。

到着して次の日、わたしたちは車で近郊のある街に行きました。

実はうちのティーンがいよいよ大学進学という運びになったのですが、
行ったことがなく、ツァーにも参加していない大学から合格通知が来て、
学校を決定しようにも判断材料を欠くということで、実際に見に来たのです。


アメリカの大学を受験するシステムというのは、学校の成績と共通テスト、
エッセイと推薦状を送ればよく、全く行ったことが無い学校でも、 
受験することができてしまうので、こんなことも多々起こります。

大学の周りの街並みを見るのも大事な目的、というわけで、
街の中心街?でお昼ご飯を食べました。

 

アメリカに住むのにいちばんの問題となるのは治安です。
先ほどの話題では無いですが、銃撃事件が頻繁に起き、
治安の悪いことで有名な街に名門校があることも珍しくありません。

ただ、ここの場合は田舎ということもあってその心配はなさそうです。

古い町並みに、落ち着いた雰囲気のお店が並ぶ、鄙びた郊外の街という感じ。

街の中心の広場に、モニュメントがありました。
イギリスとアメリカの間に起こった海戦について記念するプレートが埋め込まれ、
その中にはコンスティチューションとイギリス海軍の戦いもありました。

額縁屋さんのショーウィンドにあった「歴代大統領トランプをする」の図。

ケネディ、クリントン、カーター、ニクソン、FDR・・・
後ろ向きのはもしかしてジャクソン?

うーん・・・人選の基準がわからん。
にしても誰が欲しがるんだ、こんな絵。

ちょうど滞在中にキャンパスツァーがあることがわかったので参加することにしました。
対象は来年度以降の受験者ですが、別に受かっていても参加は可能です。

実は

「もし他のところに受かっていてもうちに来てね」

という意味の合格者対象のお願いパーティが既に開催されていたのですが、
そちらには都合がつきませんでした。

アメリカの大学は、メインの建物以外に、学外に一軒家のような施設があり、
そこが入試オフィスだったり、事務だったりします。

そしてレクチャーが1時間。
これから受験する人たちに向けての説明ですから、プログラムについての他に、
当大学にどんな企業が協賛しているかという説明があります。

そして、

「うちは工科大学なので、一流企業からのオファーがたくさんあります」

ということで、みんなが気になる卒業者の就職先です。
錚々たる大企業ですが、やはり技術系大学の出身者は安定してますね。

アメリカの大学のシステムとして、工学部に入り、その後、
自分が興味があり、向いていると思えば
医学に進む、ということも可能です。

この一覧を見てちょっとわたしが個人的にうけてしまったのが、
ファランクス・シウスなど武器を製造しているレイセオン、そして
ロッキード・マーチン、ボーイングがあることでした。


それから実にプラクティカルというのか、この大学の卒業生は就職後、
サラリーは最低でもいくらから始まって、
平均給与はいくら、
という具体的な説明までありました。

この説明会の後、化粧室で他のお母さんが

「どう思いました?」

とか話しかけて来たけど、何について聞いているのかわからず、

「いいんじゃないでしょうか」

と適当に答えておきました。

続いて、現役の学生を案内役にしての校内ツァーです。
アメリカの大学は大きいので、1時間たっぷり歩き回ることになります。

どう見ても教会にしか見えないこの建物、現在では
コンピューターセンターとして使われているということでした。

ランキングで常に上位につける、当大学建築学科の卒業者が設計したコンサートホール。
ほとんどの日本のホールよりモダンで立派なので、軽くめまいがしました。

ちなみにこのコンサートホールの出入り口はこのようなもの。
まるで宇宙船に乗り込んでいくようなエントランスです。
それを温かみのある木材で作ってしまうのがポイント。

歴史のある学校なので、古い建築物が多いですが、中身は近代化されています。
、敷地には開放感があり、明るい感じもわたしの気に入りました。

あとは研究室や教室なども見て回ります。
3Dプリンターだけの部屋(外から見える)もありました。

「3Dプリンタ、熱が出るし、臭いから一つにまとめてるんだと思う」

と息子。
そうだったんだ・・・。

 

何でもこの学校は入ってからが難しく、(アメリカの大学の傾向ですが)
就職率がいいのもその厳しさに耐えた人材であるという保証があるからなんだとか。

都会の誘惑がないのが不幸中の幸いと言えるかもしれません。
田舎というのは親としては治安の点から言っても安心ですが、息子は

「女の子が・・少ないんだよ」

まあ工学部ですから。
でも、キャンパスツァーで回って歩いたところ、結構女子もいたよ?

「30パーセントしかいないんだって」

母数が多いから30パーセントでも十分じゃないかという気がしますが、
若者にとっては大きな問題なのかもしれません。

「その代わり、街に女子大があって、そこで彼女を探したりするらしいよ」

君はそんなことを前もって調べているのか。

この大学からは、過去宇宙飛行士を輩出しています。

学生なら無料で使い放題のジムもあり。
ヨガなどの教室も定期的に開かれているということです。

まるで中世の城のような大学正門。
古い建物に近代的な建築が溶け込んでいます。

学生のドミトリーは三人部屋が基本で、一人部屋もあるそうです。
全く外に出なくても4年間生活できるだけの環境ですが、
やはり皆外のアパートを借りたりすることもあるようです。


さて、というわけで一つ目の学校のツァーが終わった途端、
わたしたちはその足でコネチカットに向かいました。

コネチカットにあるリベラルアーツの大学も見ておきたいと思ったのです。

時差ボケで睡眠不足のため、途中で仮眠を取りながら瀕死でたどり着いた、
これが全米トップ3のリベラルアーツ大学だ。

息子は受けておきながら、あくまでも工学部優先なので、
こちらにあまり興味はないのか乗り気ではなかったのですが、
見るだけでも見ておこう、となだめすかしてやってきました。

いやー・・・こちらの大学もすごい。

こちらも街の雰囲気はボストンのウェルズリーあたりに似ていて、
古くてリッチな感じの街並みで、治安的には大合格です。


あとは息子の行く気ですが、さて、どうなることやら。

おまけ;

コネチカットの街にあった海兵隊の宣伝。

 

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アメリカ空母発祥の地 サンディエゴ〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-03-19 | アメリカ

「ミッドウェイ」についてお話ししていくと言っておきながらなんですが、
その前に、ここ「ミッドウェイ」のあるサンディエゴと、海軍のつながりについて
艦内見学に入る前に3回に分けてお話してみようと思います。


「ミッドウェイ」フライトデッキの艦首に立つと、
この写真のようにその向かいにある海軍基地が見えます。

昔はそう大きくなかった砂州のような土地に基地を作り、
だんだん土地ごと大きくしていった結果、現在のような
西海岸最大の海軍の根拠地が形成されていったのですが、
ここに立って基地を眺める人誰もがおそらく知りたいと思うかもしれない
「海軍基地の成り立ちとその歴史」が、パネルにまとめられていました。

こんな感じです。

「サンディエゴ:海軍基地発祥の地」

として、

◆ 先駆者たち 1911ー1924

から説明は始まっていました。

一番初めに顔写真があるのは「海軍航空機の父」である

グレン・H・カーチス

”グレン・カーチスは自らがデザインした飛行機を自分で操縦した
例えばエルロンロッドは自分の肩で操縦したりしていた
このようにしてライト兄弟のシステムは大きく進歩することになったのである”


サンディエゴのイブニング・トリビュート、1911年1月21日付の記事です。

「グレン・H・カーチスの偉業により世界がサンディエゴに注目」

とヘッドラインがありますね。

サンディエゴに到着してわずか6週間後、カーチスはここに飛行学校を設立しました。
それは、この「ミッドウェイ」のちょうど艦首の左側にあったそうです。
(タイムズスクエアのキスのあたりかもしれません)

その時の初めての生徒の中に、当ブログでもお話ししたことがある
「海軍パイロット第一号」となった

セオドア・ゴードン・エリソン中尉

がいました。
エリソン中尉の他の3人は陸軍士官です。
写真の水上艇の上にいるのはカーチスと4人の生徒たちの授業風景です。


カーチスの最大の功績は水上艇の発明をしたことでした。
陸上と水上のどちらからでもテイクオフすることができる優れものです。

上の新聞記事は、カーチスがサンディエゴ湾を横切り、
機体を見事着水させた記念すべき偉業を行った時のものです。

その時カーチスは巡洋艦「ペンシルバニア」に機体をホイストさせ、
続いて甲板から もう一度舷側に沿って海上に機体を降ろさせています。

(つまり船での運用の方法を示したということですね)

彼のこのデモンストレーションを目の当たりにして、
これからの海軍に航空機が重要な役割をするであろうことを
誰一人否定する者はありませんでした。

カーチスは彼の初期の水上艇を「スパニッシュバイト」という
彼自身の水上艇基地で製作していました。

デモを見た海軍は、早速カーチスに3機の水上艇の注文をしましたが、
翼の上にオプションで「浮き」をつけることを要求したということです。

海軍としてはいまいち飛行機の「浮上性能」を信じてなかったんでしょうか。

 

さて、その後1917年9月25日、海軍は初めての「海軍航空基地」を
半島のノースアイランドに設立し、早速ここから「ミッドウェイ」のある
陸地と直接往復を開始しています。

なんのことはない、航空機運用の練習も兼ねて、水上艇はノースアイランドと陸地を
頻繁に往復し、便利な交通手段として早速活用され始めました。

ノースアイランドの飛行学校には、パイロットの養成だけではなく、
同時にメカニックの学校も併設されています。

その海軍最初の飛行機パイロットとなったセオドア・エリソン中尉。
白黒で写真からはわかりませんが、赤毛なので「スパッズ」とか呼ばれていたようですね。

海軍は次に彼にカーチスの基地のあった「スパニッシュ・バイト」で
11名の士官とともに訓練を受け、史上初の

「空飛ぶオフィサー」

となっています。

後年彼が娘の病気を見舞うため乗り込んだ飛行機が墜落し、
帰らぬ人となったという話は、当ブログ

「天空に投錨せよ〜アメリカ海軍航空隊事始」

でお読みください。

1941年までに、ノースアイランドは「スパニッシュバイト」として
知られている浅い入江によってコロナドと分けられました。

つまり上から言うとコロナド、スパニッシュバイト、そしてノースアイランドです。

この写真の赤い矢印のところに海軍基地ができたのは1917年のことでした。

1924年までにはノースアイランド海軍航空基地は
国内でももっとメジャーな海軍基地となりました。

この写真にある赤の矢印2つの部分が、水上艇の離発着の場所となります。
当時は「ミッドウェイ」のあるあたりを、しょっちゅう飛行機が行き交っていたのです。

 

◆ 空母の発展 1924ー1940

 

1924年、海軍の最初の空母、「ラングレー」がノースアイランドに繋留されました。
石炭による動力で、500フィート(152m)の長さの甲板を持ち、
34機の戦闘機、爆撃機、そして偵察機を搭載することができました。

写真は「ラングレー」とそのハンガーデッキです。
ハンガーデッキには当時の爆撃機と戦闘機がぎっちり搭載されています。

そういえば当ブログでも「機動部隊」というゲイリー・クーパーの
主演映画をご紹介したことがあるわけですが、この映画でクーパーは
「ラングレー」の最初の艦載機パイロットという中尉の役を
40がらみで無理やり演じております。

甲板から海に落ちて殉職した同僚パイロットの奥さんと結婚するという
実にありがちなストーリーでしたね。

1925年に行われたノースショアでの「ラングレー」からの
カタパルトでの発艦実験の写真。

思いっきり「ラングレー」が岸に近く着けているのが目を惹きます。

この時に使用された飛行機はカーチスの

SBC-4「ヘルダイバー」Helldiver 偵察爆撃機

でした。
1934年には「ダイブ・ブレーキ」「ランディングギア」など、
空母に着艦するための革新的な技術が導入され艦隊に導入されました。

パイロットの他に後部座席に銃撃手を配する、というその後の
戦闘機の基本となる形もこの時に確立されることになります。

1928年、アメリカ海軍は空母「サラトガ」と「レキシントン」を導入しました。
どちらも巡洋艦の艦体に空母使用の甲板を備えた仕様です。

写真は現在のサンディエゴのブロードウェイ・ピアに投錨した
竣工したばかりのUSS「サラトガ」。

写真の丸で指し示した棒の先が、現在のネイビーピアの当時の姿です。

こちらはUSS「レンジャー」

少し後のことになりますが、1935年に初めて最初から空母として建造されました。
ちなみに、我が帝国海軍では「ラングレー」登場の3年前に当たる
1922年において既に最初から空母として建造された「鳳翔」を生んでいます。

実は「鳳翔」は「世界最初の空母」と言っていいかと思います。

世界で最初の空母として船を建造していたのはイギリス海軍でしたが、
(1918年起工)その「ハーミーズ」は第一次世界大戦が終了し、
完成を急ぐ必要がなかったのでのんびりと建造していたら、
後発の「鳳翔」に竣工だけ先を越されてしまったというわけです。

「鳳翔」は確かに国産ですが、その技術は多くをイギリスと
イギリス海軍から招聘した技術者に頼っていたということもあり、
イギリスの立場では

「日本が最初に空母を完成させた」

と言うことには渋い顔をしていると思われます。

写真は、完成後の「レンジャー」が初めてサンディエゴにやってきたときのものです。

ここの説明には、

”1928年、「サラトガ」と「レキシントン」が「ラングレー」に続き
サンディエゴにやってきて、海軍搭乗員の訓練が行われるようになった

このことは14年後のミッドウェイ海戦でアメリカに勝利をもたらすことに
大きく寄与したと言うべきであろう”

と書いてあります。
まあ言われてみれば確かにその通りなんですが・・・・。

単に「ミッドウェイ」と言う文字を使いたかったので無理やり
こじつけてみました、みたいな?

「ニューホーク」(新鷹)と言うあだ名で知られていた

カーチス BF2C-3 爆撃戦闘機

は、

「上空から敵の船を見つけ、それを沈めることができると言うことで広まった」

と割と当たり前の説明をされていますが、当時の常識からは
これは全くの「新戦法」で画期的だったのです。

ちなみに「ヘルダイバー」と言うのは実は鳰(カイツブリ)のことですが、
急降下爆撃をすると言うイメージと「地獄の」「ダイバー」と言う響きが
ぴったりだったため、後年誰もこの名前を鳥だと思わなくなりました。

こちらは「レンジャー」に艦載されていた偵察機SU-4。

偵察機の当時のミッションとは、敵の艦船を発見したら
その位置を空母に報告し、攻撃・爆撃機を発進させることでした。

PM-1 長距離偵察機。

1923年には海軍に導入され、沿岸部の警戒に当たりました。
小さくて航空機が搭載できる無線セットが普及した後は、
無線情報を沿岸の無線局で中継し陸上や艦載機に送ることができるようになります。

1930年、空母「サラトガ」に着陸する海兵隊の第14偵察部隊の飛行機。

 

1940年、サンディエゴには空母「ヨークタウン」そして「エンタープライズ」が
サンディエゴを母港としていました。

第二次世界大戦前夜のノースアイランドには、あらゆる航空母艦で
活用されることになる航空機が集結していたのです。

なぜかハルゼーの写真と説明がありました。

ウィリアム・F・”ブル”・ハルゼー・Jr.提督
初めてサンディエゴを訪れたのは、彼の少尉時代。

1908年に「グレイト・ホワイト・フリート」の一員である
USS「カンサス」に乗り組んでいたときのことです。

「グレイト・ホワイト・フリート」とは1907年12月16日から1909年2月22日にかけて
世界一周航海を行ったアメリカ海軍大西洋艦隊の名称です。

略称「GWF」、日本語では「白い大艦隊」「白船」と訳されることもあります。
名前の由来は、GWFの艦体が白の塗装で統一されていたからでした。

この艦隊の目的は、実は

日露戦争で勝った日本を牽制するため

であったと言われています。
呉の三宅酒造の資料室でこの艦隊を迎えたときの日本の論調について
あまりにも無邪気にその立派なことを讃えたグラフを見つけ、

「これは確信的か、それとも故意的か」

とここでも書いてみたものですが、実はそのとき、
若きハルゼー・ブルドッグは日本に来ていたわけですね。

この時に彼は日本で東郷元帥にも会っていますが、実際に会って
東郷元帥のファンになった
ニミッツやスプルーアンスと違い、彼は

「舞踏会の日本人はニヤニヤした顔の裏でよからぬ事を企んでいる」

と言い放ち、日本嫌いをさらにこじらせていったようです。
まーなんと言いますか、最初から

「日本海海戦は日本の卑怯な奇襲攻撃」

と決めてかかっての日本来航ですから、頑固(そう)な彼には
日本で見るもの聞くものそれを覆すことに至らなかったのかなと。


ともかく、ハルゼーはGWFのサンディエゴ寄港の際、
初めてこの地に立ち寄ったということになりますが、実はこの寄港、
その後の海軍とサンディエゴを結びつける大きなきっかけとなった出来事でした。

その経緯については次回お話したいと思います。


ところでここの展示にも書いてありますが、ハルゼーは52歳の時に
訓練を受け、
搭乗員資格を得ています。

当時のアメリカ海軍のシステムで、パイロットの資格がなければ、
航空関係の指揮官になることはできなかったからなのですが、
彼は航空オブザーバー課程という上級士官中途教育コースを受け、
後にパイロットコースに変更し、成績は最低ながらとにかく終了しています。


彼が偉かったのは、52歳で大佐という階級でも訓練課程を一切省略せず、
パラシュートをたたむなどの雑務も自分でこなしたということでしょう。

失敗をした者に与えられる不名誉なマーク(多分デメリット)も甘んじて受けました。

ダグラス TBD  「ディバステーター」Devastator 艦爆

は、最初の総金属製単葉機で、海軍の注文によって製造されました。
1937年には艦隊に導入された、最初の電動式折りたたみ翼機でもあります。

クルーはパイロット、爆撃手、銃撃手で構成され、「サラトガ」や
「レキシントン」「レンジャー」などの空母の艦載機の基準となりました。


1940年ごろ、サンディエゴにあった海軍の組織は以下の通りです。

ノースアイランド海軍航空基地 

32番ストリート 海軍駅

バルボア 海軍病院(現在のバルボアパーク)

海軍無線中継基地 (チョラス・ハイツ)

海軍補給処 (ブロードウェイ・ピア)

海軍訓練センター(ウェストコースト)

海兵隊入隊事務所 (ウェストコースト)

 

 

続く。

 

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「ミッドウェイ」のある光景〜サンディエゴ

2018-03-17 | アメリカ

サンディエゴで「ミッドウェイ」を見学するというのを2年続けて実行したわけですが、
後半の「ミッドウェイ」見学編に突入する前に、サンディエゴという街の様子を
少しご紹介しておきます。

最初の年に泊まらせていただいたジョアンナの家。
大学の同窓つながりで知り合ったボーイフレンドのうちも近所です。

当たり前のように自宅にプールがあります。
今年行ったら、

「今年はトイレをジャパニーズスタイルにしたの!」

ジャパニーズスタイルって?と思っていたら、TOTOのウォシュレットを導入したのでした。
何を今更、という気がしますが、アメリカでのウォシュレットの普及は、現在でも
わたしの知る限り公的な場所ではゼロで、裕福な個人宅に限られています。


眼下にはサンディエゴのシーワールドを一望できる眺めです。

二回ともロスアンゼルス空港から車で向かいました。
アメリカのフリーウェイを走ったことのある方には「あるある」な光景でしょう。

ジョアンナのうちの近くでみた光景。
一人ずつゴミ袋を持ってゴミを拾って歩く仕事で、従事しているのは非白人ばかりです。
マイノリティやホームレス予備軍にも仕事を与えるという市の施策によるものです。

そういえば、サンディエゴは街の中心部にもホームレスはあまり見なかった気がします。
気候的にはホームレスが暮らしやすいので集中しそうなんですが、
こういった公的な対策が功をそうしているということなんでしょうか。

2回目のサンディエゴ滞在のホテルはわたしが自ら選びました。
ポイントはキッチン付き、そして「ミッドウェイ」に近いところ。
となると会員にもなっているマリオットのレジデンスインしか選択肢はありません。

ミッドウェイまで歩いて5分という、これ以上ない立地です。

近隣には同じレジデンスインが他に二つありますが、ここが
一番新しく、インテリアのセンスも他より洗練されている感じ。

パーキングは4つ星、5つ星ホテルと同じようにバレーを頼むことができます。

部屋は2ベッドプラスソファーベッド。
息子が大きくなってからはいつもこのタイプの部屋を選びますが、
誰がソファーに寝るかは適当にその日の気分で決めます。


素晴らしかったのは窓からの眺め。
ミッドウェイとじゃ反対側でしたが、海事博物館の帆船
「スター・オブ・インディア」の帆と星条旗がこんな風に見えます。

こちらは車上から撮った「スター・オブ・インディア」。
海沿いの遊歩道は朝方散歩やウォーキングをする人で賑わいます。

寝室の角は全面ガラス張りで、この開放感!

眼下にはパシフィック・ハイウェイという幹線道路が走り、サンディエゴの
「タワマン住み」御用達のツインタワーレジデンスが真横に立っています。

朝、ゴミ収取車がいたので、連続写真を撮ってみました。
路上に何曜日朝、と決められた時間に出したゴミの巨大なケースはゴミ収集車が
抱えて持つことができるスライドを両脇に備えています。

アームをグイーンと操作すれば、中のゴミがちゃんとタンクの中に。
この時にゴミが残っていると、アームを戻す時にぶちまける結果になります。

その例


ホテルには中層階に一応アメリカのホテルには必須のプールがあります。
朝、誰もいないプールをカモメが泳いでいました。

朝ごはんはバッフェ式で、ピーク時には座るところを探すのも大変です。
この日は外のテラスが空いていました。

プールで水浴びしていた鳥さんたちが虎視眈々と見張りを・・。


ウォーターフロントに建つのはホテル以外は駐車場や倉庫だけ。
向こう側はサンディエゴ空港で、飛行機は右手の山側から着陸し、海に向かって
離陸するのがずっと見ていると幾度となく繰り返されて飽きません。

エレベーターホールは景色を見るために全面ガラス張りで、
そこからの眺めはわたしにとって眼福としか言いようのないものです。

「ミッドウェイ」の向こうの海軍基地、そこに係留されている空母。
サンディエゴの海軍基地は正確には

ノースアイランド海軍航空基地
(Naval Air Station North Island, NAS North Island)

と言います。

ちなみに左の建設中の建物もホテルになるようです。

手前が「ミッドウェイ」と来客用のパーキング、そしてその向こうに空母。

「ホテルから空母が見えました」

というと、サンディエゴ在住のジョアンナのボーイフレンドは

「何だろう・・セオドア・ルーズベルトかな」

こちらはまずこの時にiPadで調べて、

「カール・ヴィンソン」USS Carl Vinson, CVN-70

であることがわかりました。

「カール・ヴィンソン」の愛称は「スターシップ・ヴィンソン」。
ハインラインの「スターシップ・トゥルーパーズ」と関係あるのかどうかは知りません。

2017年にはメンテに入った「ロナルド・レーガン」の代わりに西太平洋に進出し、
北朝鮮半島沖に展開、「あしがら」「さみだれ」と訓練を行い、
「レーガン」が復帰してからはその打撃群艦隊、海上自衛隊の「ひゅうが」、
「あしがら」及び航空自衛隊F-15戦闘機と共同訓練を実施しました。

この画像を撮った時には、その訓練から帰還してすぐだったことになります。

艦橋部分をアップにしてみました。
白い車以外は人影もなく、稼働している様子は全くありません。
帰港して乗組員は夏休みでも取っていたのでしょうか。

ちなみに今現在時点でスターシップヴィンソンは日本近海におられます。

空母の周りには手前に見えている柵が張り巡らされ、船が侵入できないようになっています。
この柵はグーグルアースでも確認できます。

そして、「カール・ヴィンソン」の隣にももう一隻空母が。

「セオドア・ルーズベルト」(USS Theodore Roosevelt, CVN-71)

ボーイフレンドはさすがサンディエゴ在住だけあって、ここを母港にしている
空母の名前をちゃんと認識していたんですね。

「セオドア・ルーズベルト」の愛称はコールサインとおなじ「ラフ・ライダー」。
ルーズベルト大統領が米西戦争に参加した時に指揮した騎兵隊の名前です。

以前、湾岸戦争における「バトルフォース・ズールー」という3隻の空母を
航行させる示威作戦についてお話ししたことがありますが、
そのうちの一隻、唯一の原子力空母が「セオドア・ルーズベルト」でした。

思い出していただきたいのですが、この作戦で「ルーズベルト」が一緒に航行した
「ミッドウェイ」は、今彼女の向かいで展示されているわけです。

「ズールー戦隊作戦」の後、「ルーズベルト」は

「ミッドウェイ」「レンジャー」(CV-61)「サラトガ」(CV-60)
「アメリカ」( CV-66)、「ジョン・F・ケネディ」(CV-67)

とともに、史上稀に見る空母6隻による戦隊航行に加わっています。

 

また「セオドア・ルーズベルト」は「砂漠の嵐作戦」に参加した
唯一の原子力空母となりました。

なお、「セオドア・ルーズベルト」は2017年11月12日、日本海において、
「ロナルド・レーガン」「ニミッツ」と護衛艦「いせ」「いなづま」
「まきなみ」他、艦艇数隻と日米共同訓練を実施しています。

つまり、この写真の後「ルーズベルト」はここを出航して日本に向かったのです。

エレベーターホールのガラス越しに、望遠レンズを投入して写しました。
スーパーホーネットらしい戦闘機が一機甲板の上に見えますね。

71という艦番号はライトアップできるようになっており、
番号の横の黄色い文字は、「プロペラとローターの回転に注意」とあります。

「ミッドウェイ」の手前は「ネイビー・ピア」という突堤ですが、
ここからはクルーズ船が発着します。

「ミッドウェイ」甲板上には数多くの飛行機が展示されているのがお分かりでしょうか。

ヘリのローターや、艦載機の折りたたまれた翼などが雑然と。
もう見学時間は終わり閉館しているはずですが、「ミッドウェイ」艦上ではこれから
パーティが行われるらしく、テーブルセッティングされ、人の姿もチラホラ見えます。

結婚式や誕生日パーティ、会社のパーティ、そして海軍関係者のパーティと、
この甲板は市民に会場を提供してそのお金を運営費に回しています。

他の展示軍艦とは桁外れに集客数を誇る「ミッドウェイ」ですが、維持していくために
寄付以外にもパーティスペース、子供のキャンプ会場として貸し出しているのです。

 

赤いシャツの人は「ミッドウェイ」の従業員、パーティ参加者はついでに見学もできます。

岸壁側の「ミッドウェイ」。
赤で描かれている飛行機のシルエットは実は「ミッドウェイ」艦載機の
戦闘機パイロットが撃墜したMiGなのですが、これについてはまた後日。

「ミッドウェイ」はもうアメリカ海軍の軍籍にないので、旗の掲揚も軍艦のそれとは違います。

甲板に展示されているF-8C(F8U-2)クルセイダー。

今回は前には同行者の体力的に無理だった甲板に行って
艦載機を全部見学することができました。
そのうちご紹介していくつもりなのでどうかお付き合いください。

ホテルのテラスは「ミッドウェイ」と海軍基地の灯りを見るための特等席です。

「ミッドウェイ」の三色のライトアップと艦燭は、サンディエゴの夜景のシンボルです。

こちらはジョアンナたちに連れて行ってもらったコロナド(海軍基地側)
から見たサンディエゴ市街と「ミッドウェイ」。


さあ、これで準備が整いました。
次号からは「ミッドウェイ」についてお話していくことにしましょう。



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