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呉の造船ドックと「大和の大屋根」

2015-01-30 | 海軍

呉に行ったとき、所用の前日に同行者を誘い「歴史の見える丘」に行きました。
そこはただ、中途半端な空き地に呉ゆかりの碑をあつめただけ、と見たときにも思ったのですが、
これらの碑について知ることで
一挙に呉の歴史を知ることになったとお話ししたかと思います。

その丘は、ただ碑が立っているだけでなく、そこにたたずめば
眼下にはかつて呉海軍工廠だった港湾が一望に広がり、現在も稼働しているドックのありさまが見渡せます。

海軍兵学校の同期会の後、ここを通りかかった時にバスの窓越しに
撮った写真よりもはるかに鮮明なものが撮れたので、ご紹介していこうと思います。

年末に「お節介船屋さん」にドックの写真はどの程度公開可であるか、ということを尋ね、

「オープンにして誰にでも見られるようにしている限りはSNSでの公開は構わないと考えても良い」

というお言葉をいただき安心して本エントリ製作にかかりました。
ちなみに「歴史の見える丘」について調べた時に朝日新聞が

「軍港の見える地域は立ち入りを禁止された」

と非難がましい論調で「観光案内に」書いていたわけですが、
昔は立ち入り禁止どころか軍港は地図にも書かれることがなかったのです。



昔海軍工廠のどこかの起工の碑。そして・・、



港湾を見下ろすところにこのような俯瞰図を発見。
現在と昔の呉を説明してあります。



現在見ている「大和のふるさと」と書かれた大屋根、戦艦大和建造ドックは、
産業文化遺産に指定され、
大屋根は当時のまま保存されています。



これですね。
黒々とサビた鉄骨もそのままですが、戦後補強も行われたらしく、
それが入り口の白い鉄骨部分かもしれません。




中には巨大な鉄鋼板が見えていますが、ここは今でも使われていて、
船の本体である板を作る工場となっています。

いかにそれが大きなものかは、自転車で移動している人物と比べてみてください。



大屋根はなぜか半分だけ色が違うのですが、左の部分は元の部分、
右は戦後になってから葺き替えられた部分のようです。

地図の右のほうに「旧呉鎮守府」とありますが、これは現在
昨年訪問させていただいた呉地方総監部となっています。



多分この赤煉瓦の部分も旧呉鎮守府のものだと思われます。
呉にはいたるところにこのような赤煉瓦の建物が残っていて、そのことごとくが海軍関係の建築物でした。

このすぐ近くには防空壕に爆弾が直撃して亡くなった呉市民の慰霊碑などもあるというのに、
アメリカ軍は港湾施設を
占領後に使用するということを踏まえて、あまり破壊しませんでした。

その分、思いっきり住宅地に爆弾を落としたわけですね。



港の向こう側には


旧火工部、旧光学工場、旧潜水学校

などがありました。
この部分は、今地図で調べたところ、海保大学があります。
やはりなんらかの関係のある施設となっているんですね。

旧軍需部の跡は、現在バブコック日立というボイラーの会社です。
海上自衛隊呉資料館、通称「てつのくじら館」があるのもここに軍需部があった関係かもしれません。



丘に立って左の方向を見てみると、旧潜水艦部、並びに旧潜水艦繋留桟橋のあった部分が、
現在も
海上自衛隊によって使われているのが見えます。

いわゆる現在のアレイからす小島のあたりですね。
「男たちの大和」で、大和に乗艦する乗組員たちが内火艇に乗り込み、
家族がそれを見送るシーンがここで撮影されました。

その向こう側は

旧砲熕部、甲板工場、製鋼部、電気部など。

砲熕(ほうこう)という言葉に見覚えがなかったのですが、この

「熕」

という字は、「おおづつ」とも読むので、まあ見ての通りです。
つまり、鉄鋼関係の工廠工場が集まっていた部分なのですが、ここが面白いことに、現在、



この前写真を撮った、日新製鋼と淀川製鋼、そう、製鉄会社となっているわけですね。

海軍工廠の後の施設をそのまま引き継いだと考えられます。



さて、地図にはここで建造した船も示されていたのでついでに。

航空母艦、赤城、蒼龍、千歳、日進、葛城、阿蘇。



戦艦は安芸、摂津、扶桑、長門、大和。



巡洋艦は那智、愛宕、最上、大淀、二代目伊吹など11隻。



水上機母艦千代田、潜水艦は約60隻、駆逐艦22隻、
特殊潜航艇咬龍・・・・・・多数。

戦争が終わってからは巨大タンカー、日精丸が作られました。



さて、この辺でドックで建造中の船に目を転じ・・・。


うーん、これはどうやら船の艦首部分船底(手前)と、艦首部分デッキ?(向こう側)

本当にプラモの部品のようにそうとわかる形のものがあちこちに。
ブロック工法というのは日本のオリジナルと聞いたことがありますが、
本当に部分部分を作ってくっつけていくんですね。



アップにしてみました。
護衛艦の艦首と違って艦首なのにまあるいのがなんだか不思議。
まあ、大和だって丸かったしな。
・・・・艦首ですよね?

まだ組み立て前なので、面白いところに階段がついていますが、
この階段にはどうやって登るのかというと、下の梯子段をかけて登って行くみたいですね。
船ってこうやって作っていくんだ~、と新鮮な驚きです。



さらにアップ。(くどい?)

艦首のポールがもうすでにあるのに注目。



船底のようですが、もしかしたらこの上に向こう側の部分を
えいや!とクレーンで乗っけるのでしょうか。




さらにアップ。
まだ固定していないらしい板のようなものが並べられています。



これは、二つ上の画像の上部分ではないだろうか。
まるでパズルです。 
丘の上から見ていると、ちょいとつまんで部品を組み立てられそうです。

 

こちらに見えてるのはさっきの案内板によると第3ドック。
もうすでに艦体がある程度の形をして入っています。
手前に斜めのフェンスのようなものがあるのですが、
これは進水式の時には全部閉じられ、この向こうに海水が溜まるのでしょうか。



ところで前回の写真。
工事がここまで進んだってことなんですね。


 

船体部分さらにズーム。

大きく四角い穴が二つ空いていますが、ここがのちに艦橋になるんですね。

あっ、3つ上写真の部品はここに填めるのか!



よく見ると、組み立て前の部品は地面に置かず、このような柱の上に設置するようです。
白い作業服の人が写っていますが、それを見ると
この「支え棒」は人間の背より高く、2メートルくらいありそうです。



さて、こちらは現在補修ドックと呼ばれているはずですが、
前回写真を撮った時に写っていた船舶は作業が終わったのか、空になっていました。

ここには護衛艦が入ることもあるそうですが、もしかしたら、この空いた部分に入るのも・・・・?



(mizukiさんに言われて後ろの山が全く同じであることに気づきました。
比べるために大和艤装時の写真を掲載しておきます)



手前の建物は前回工事中だったかな、と思って確かめてみたら、

補修ドックに大きな船が入っていて見えなかったのでした。



まるでクレーンカーがミニチュアみたい。



手前のこの、崩壊寸前みたいなプレハブ小屋と、その横の、いかにもこれも戦前からありそうな建物・・。
小屋の方はもうトタンの屋根が剥がれまくっているのですが、
これは下手に屋根の上に上がろうものなら危険なので放置してあるのではないでしょうか。



これもガラス窓だったりするんですよね。

間違いなく「大和建造」の頃からあったものだと思うのですが、
これも文化遺産に指定されてしまってもしかしたら建て替えられないのかな。

とにかくわたしのような「古いもの大好き人間」にはゾクゾクする眺めではあります。


この船は竣工のあかつきにはここから進水式を行うことになるわけですが、
ちょうどその時この丘に来れば、式典が見られるわけですよね。

うーん、見てみたい。 



 



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7 Comments

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呉海軍工廠 (お節介船屋)
2015-01-30 16:04:44
俯瞰図があったのですね。
知りませんでした。
旧砲塔ビットが見えますが、見たことはないですが現在も違う目的で使用されていると聞いたことがあります。

大和建造ドックは埋立られブロック組立場となっていますね。

エリス中尉の指摘のとおり真ん中のブロックが船首船底、上のブロックを逆さにしてそのうえへ、左のブロックが船首楼(ウンドラスの架台が見えています)とその下部分、右にあるブロックが船尾船底部分(機関室の床になる)、本当にパズルと一緒です。

これも当工廠西島技術中佐の発想からの賜です。

船首船底にある板は工事用の足場板でこの上で作業し、終われば撤去します。
船首が丸いのは撒積船は航海速力14Ktくらいでそれに合わせた波切の最も良い形です。
目黒の大水槽の外を見学された事があると思いますが、各造船所も水槽を持っており、理論に裏付けされた模型を走らせ要求される速力で最低の抵抗(馬力)になるよう確認、改正等します。
省エネは可能な限り要求されますので、各造船所はその船型が売りですので、抵抗が1%でも少ないようギリギリ努力します。
燃料の使用量は海運会社の死活問題ですので。

建造ドックのなかの船も撒積船です。
大きな穴はカーゴホールド(船倉口)で、大きな開口のため横から三角形の補強材が見えます。
この写真から前回のコメント訂正しなかった方が良かったようです。船側外販は一枚なので。

タンカー等は法律でダブルハルとしなければなりませんので勘違いしたみたいです。

赤いクレーンカーは移動足場です。
先端のカーゴ部分に人が乗って、その作業員がその位置で移動、上下が出来ます。
昔のように足場を船側上下左右に取り付けずに、このクレーンカーで溶接、塗装等実施します。

エリス中尉のご明察のとおり、JMU呉は建造ドック2基ありますが昔は30万トンタンカー等を建造していましたが、
現在は半分に仕切って5万トンくらいの撒積船を2隻ずつ建造しているようです。
大変楽しかったです。ありがとうございました。
呉工廠 (雷蔵)
2015-01-30 18:08:23
扶桑型、長門型、大和型戦艦の一番艦は、皆、呉工廠で建造しているんですね。扶桑型二番艦(山城)と長門型二番艦(陸奥)は横須賀工廠、大和型二番艦(武蔵)は三菱長崎で建造しているので、呉工廠は最も能力の高い造船所だったと思われます。

扶桑型は36センチ砲連装砲塔6基という、世界に先例のない船だったのでうまく行かず、二番艦山城の設計は何度も何度もやり直ししています。扶桑型の三番艦と四番艦として計画された伊勢と日向は、川崎神戸と三菱長崎で建造されていますが、あまりに高額の建造費を捻出するために山城の後、時間が空いてしまい、扶桑・山城の実績を設計に反映する時間的な余裕が出来て、出来映えは扶桑・山城がちょっと無理がある形(艦橋構造物がアンバランスだったり、砲塔配置に無理がある)であるのに比べて、伊勢・日向はよくまとまった、絵になる格好です。(我が家にも伊勢型(1/700)は配備されていますが、扶桑型は不格好なので、いません)

昨今の防衛省の艦船建造は毎年入札ですが、かつて防衛庁の頃は、○○年度の護衛艦は××造船所と建造所が決まっており、造船所はそれに合わせてドックを整備したり、人の手配を行っていました。一番艦の建造はかならず呉工廠という記事を見て、防衛庁は昔のやり方でやっていたんだなと思いました。
ところで前回の写真(小さなサイズ) (お節介船屋)
2015-01-30 20:08:12
エリス中尉の写された真ん中の小さな写真は船の強度が一番分かり易い写真です。
軍艦と商船の縦強度の取り方は違うのですが。
商船のやり方が一目瞭然。

細長い長方形の強度を保つには?
4か所の角部がそれぞれ三角形の部材が入れてあります。これで波に乗っても折れない強度となってます。
板を厚くしたり骨を入れたりしますが。
貨物が多く搭載できるように考慮します。
撒積船は穀物等をそのまま搭載しますので荷揚げにも貨物倉がこの形が良いのです。

隔壁も波打たせて骨を入れないで強度が出るようにしています。

この写真一枚で船が語っており、大変嬉しいです。
今頃気付きました。
時を超えて (mizuki)
2015-02-05 22:41:20
下から5枚目のお写真を一目見て、彼方に臨む稜線が、大和の有名な写真と同じだー!とドキドキしました
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)#mediaviewer/File:Yamato_battleship_under_construction.jpg

本当にそうですね! (エリス中尉)
2015-02-07 22:42:53
この写真より左側から撮ったようですが、稜線が同じですね。当たり前かもしれませんが。
わたしも感激したので、本文に大和のドックでの写真を追加しておきました。
ぜひ二つの写真を見比べてみてください。
圧巻 (Nate)
2015-02-15 08:32:45
昨年末同じ場所から補修ドックを見下ろしたのですが、
その時はいせが入渠中で大変圧巻でした。
望遠レンズをカメラにつけて撮影するとまぁ艤装が見えるわ見えるわでとても面白かったです。
本当ですか! (エリス中尉)
2015-02-17 10:49:29
Nateさん、初めまして。
コメントへのお返事が遅くなってすみません。
歩道橋の上から見られたんですね。

実は「いせ」の慰霊式の後、「いせ」がドック入りするのがこのドックかどうかというのは
わたしに取って関心事だったのですよ。
というのは以前のエントリにも書きましたが、戦艦「伊勢」は、7月24日の空襲で艦橋をやられ、
艦長ら幹部が戦死した後、28日になってこの4番ドックに修理のために曳航しようとしていたところ、
作業中に米軍機が来襲して着底しました。

つまり、「伊勢」の慰霊式の後、「伊勢」が70年前入るはずだったドックに「いせ」が入ったとしたら
これはすごいことだと、個人的な思いというかノスタルジーに過ぎませんがそう思っていたのです。

降ろされたのが全く違うパースだったのでそのときはがっかりしたのですが、
Nateさんのお話によると、その後ちゃんと4番ドックに入ったということになります。

あのときは一般人が慰霊式参加のために乗っていたので、補修ドックに直接入れるわけないですよね。
よく考えたら。

とにかく「伊勢」が70年前入るはずだったドックに「いせ」が入渠していたことを知って、感激です。
本当に教えてくださってありがとうございました。

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