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海軍兵学校同期会@江田島~最後の帝国軍人海幕長

2015-01-20 | 海軍

江田島の海上自衛隊での一日が終わりました。
真白い制服に身を包んだ自衛官がバスの通る道ぞいに
きっちりと整列し、5台のバスが全部門から出て行くまで
「帽振れ」をし見送ってくれたことは、わたしにとってもですが、
わずか1年半の間海軍軍人であった彼らにとっても、
さぞ感激であったことと思われます。


教育参考館から赤煉瓦前の道をバスが通ることは許されていないらしく、
5台のバスは、切串港のフェリーに乗る4台も、音戸の瀬戸を回って
地続で広島まで渡る我々のバスも、同じように裏門から出ました。
この裏門は一般公開の見学客が決して通ることがないので、
たとえば



このような校内からの眺めもご存知ないでしょう。

皆さん、この可愛らしい自衛艦、なんだかご存知ですか?
YTE12とYTE13、ちょっと艦橋が違う二隻の船。
これは練習艦、すなわち江田島で学ぶ自衛官たちのための
トレーニングシップなんですね。

幹部候補生や術科学校の課程で使用されるもので、
江田内ではよくこのどちらかが目撃されるそうです。
左の「12」が110トンクラス、右「13」は170トンクラス。

突堤には車が2台停まっていますが、これは両艦の艦長の車?
停泊していましたがこの日は平日で艦長は在艦しているはずですから、
多分そうだと思われます。 

このようなものが見られるというのも中々役得だわ、
と喜んでいたら・・・



うおおおおー!

古物現物唯物懐古教の熱心な信者であるところのエリス中尉歓喜。

こっこっここっこここれは!ってニワトリじゃないんだから。
これは間違いなく戦前からあったと思しきトタン張りの
倉庫のような秘密基地のような・・・。

トタンは錆びて木で作られている窓枠もそのまま、
そしてこの黄色いトロッコ?みたいなものは?
もしかしたら魚雷のような武器兵器を運んだりとか?


 
運用実習講堂。

「運用実習講堂」「江田島」でググると、三番目くらいに
当ブログの先日の記事が出てくるわけですが(笑)
それくらいしか記述がないのでそこから引用すると、

「海軍兵学校沿革」という蔵書の明治21年の項には

四月 江田島ニ新築中ノ建物、物理講堂、水雷講堂、運用講堂、重砲台、
官舎、文庫、倉庫、活版所、製図講堂、雛形陳列場、柔道場等落成ス

と書かれており、この「運用講堂」がここだったのではないかと思われます。
もちろん明治21年の建物がこれだとは思えないのですが、
当初から運用講堂の場所がここであったことは十分推測できます。
おそらく昭和になってから建て替えられたのでしょう。

この、非常に原始的な?機構の引き戸には張り紙がありますが、
赤丸にペケで「禁止」となっているのはどうも携帯電話の模様。

もしかしたらライターとかタバコかもしれませんが、
走るバスから撮った写真なので惜しいところでわかりません。



クーラーは窓を中途半端に開けて設置されており、
この窓の佇まいを見ても間違いなく兵学校の遺物でしょう。
何でもかんでも壊して新しくしてしまう日本人ですが、
ここ江田島はおそらく昔からのものに手を入れることに
厳しく制限がかかっているのかとも思われました。

でなかったら、いくら使えるとはいえこんな建物、
壊して建て替えたっておそらくOBにはわかるまいし、
とっくの昔になくなっているはずだからです。

でも、いいですよねー。

ここが何で具体的にどう使われているのかぜひ知りたいものです。
っていうか「運用講堂」って何を運用するんです?



グーグルアースで見たところ、半分が茶色く錆びた屋根がこの

「運用講堂」のようです。
なぜ半分だけ綺麗になっている・・・。

そういえば大和の大屋根(旧ドック)も、半分だけこのように
塗り替えられていて変なのですが、同じ理由でもあるのでしょうか。




ここは運用講堂の横なのですが、つまりこれも
自衛隊の施設ということになります。
ヨットのような船がグーグルアースだと8叟見えていますが、
それがこれ。
こんな船も実習に使われるのでしょうか。
(それともクラブ活動?)



グーグルアースを見ていると、所々に紺色の点々が
規則正しく並んで行進しているらしいのが見て取れました。
さすがは自衛隊、ちゃんと列を作って歩くんですね。



術科学校の「裏門」は、こちらの方は本当に形だけのような警衛詰所が、
ポツンとあって、そこを通るときも自衛官が帽を振っていました。

こうして完璧に江田島を後にしたのです。



地元の釣り船などが停泊していました。
牡蠣の養殖業者もいるので、そういったところを回るための船でしょうか。




対岸にある山のように見えますが、実はこちらと地続きで、
津久毛瀬戸という細い細い海峡は、この山を向こうに回り込んで、
対岸との間に走っています。
江田島湾とは本当にここにだけ切れ目がある湾ですから。
どうりで波が全く立っていないわけです。

さて、わたしたちのバスはフェリーに乗るその他4台とすぐに別の道に
別れました。
今から音戸の瀬戸方面に回るので、わたしたちのバスだけが
もう一度術科学校の玄関(裏門、ね)の前を通ることになったのです。



到着の時に気付いたのですが、学校前の街灯は
錨のデザインがなされています。
なんどもここに来ていながら今まで気づかなかったのは、
この街灯の高さが歩いていると気づかなかったからで、
バスの車窓からはちょうどいい位置に見えました。



今見ると大変不思議な写真。
バスが学校の門の前を通過し、こちら側の警衛の自衛官が
やはりみんな帽振れをしてくれたので、バスの中の人々も
みんなで手を振っているのですが、どうしてバスがこの時
完璧に学校の中に向かっていくように見えているのか・・・。


運転手さんは女性で、観光案内もしながら走ってくれたのですが、
最後にバスのノーズを学校の門に向けてくれたのかななどと考えました。


さて、前回も少しお話ししたのですが、この期からは
「最後の海軍出身海幕長」が出ています。
第16代海上幕僚長の長田博氏がその人なのですが、
この人のことについて少しお話ししておきます。

長田海将は兵学校に「四修合格」しています。
当時、中学校の就業期間は5年で、兵学校には4年を終了した時に
受験することができ、それを「四修」と呼び、
5年生を卒業して合格した者を「五卒」と称していました。

前にも一度「ネイビーシリーズ」で書いたことのある大野竹好中尉はこの
「四修」組、
すなわち兵学校の中でも「できるやつ」という位置付けだったわけですが、
長田生徒は
柔道の稽古中骨折していたため、体力検査ではねられ、
次の期であるこの学年に入学したのでした。


戦争が終わり、長田氏は他のこの期の生徒たちと同じように
「生徒を免ずる」という辞令を受け取ります。

その際、1号は旧制大学の1年に、2号は旧制高校か、あるいは
旧制専門学校の2年生に転入学できるということになっていました。

入学の時に5卒であった、今回わたしの仲良くなった件のダンディ生徒が、
旧制大学を
受けたものの、面接ではねられたため旧制高校に行った、
という
話をしたことがありますが、この時にGHQの方針で、
旧帝大には10パーセント以上の軍校出身者を入れるな、とされたため、

軍人(しかも高官)を父に持つこの生徒が不合格になったのも
まあ当たり前といえば当たり前であったと言えましょう。

長田氏は進路を決めるとき農林水産講習所の関係者から

「将来もし海軍が再建されたら、遠洋漁業科卒業生は
海軍に戻ることができるであろう」

と聞き、躊躇することなくここに入学を決めました。
現在の東京海洋大学です。

その後長田氏は海上自衛隊の道を幕僚長まで歩いて退官し、2年前に死去しました。

その長田氏が一等海尉で、呉第7艦隊、護衛艦「あけぼの」
砲雷長として勤務していた時のことです。

第一護衛隊群の訓練で津軽海峡を航海中、当直の哨戒長だった長田1尉は、
出撃配備に占位する前に艦橋に上がってきた
「あけぼの」艦長(兵学校69期)に、
信号で「右の端」と指定された占位位置を
誤って「左の端」と報告してしまったのです。

艦長は占位運動中CIC(戦闘情報センター)からの報告により、
その位置が間違えていることを知り、
正しい位置に戻す際、同じ訓練中の「いなづま」に衝突してしまいます。

当ブログで

「いなづまに巡る因果」

というエントリを起こしてこの事故について触れたことがありますが、 
これはこの衝突によって「いなづま」 の乗員2名が死亡、そしてそれのみならず
衝突の応急処置のためドック中だった「いなづま」の艦内で火災が発生し、
合計6名が殉職するという、海上自衛隊史上に残る大事故だったのです。

審判は函館で行われました。
長田1尉は事故の責任はすべて自分にあるとし、退職を覚悟したそうです。
しかし「あけぼの」の艦長は、

「操艦していたのは自分であるから全責任は自分にある。
砲雷長には責任は無い」

と主張し、審判の結果、衝突の原因を作った長田1尉は不問に付せられました。 

艦長はそのまま艦を降り、二等海佐のまま退官したそうです。
そののち長田氏が海幕長に就任した時に、新聞のインタビューで

「尊敬する先輩は?」

という質問に対し、長田海将はその艦長の名前を挙げました。
事故の原因を自分一人が負い、若い部下の失敗をも引き受けて、
自衛隊をひっそりと去った人の名前を。

そのインタビューが新聞に載ってからしばらくして、長田海将は
かつての艦長から手紙を受け取りました。
それには

「君の活躍をいつも嬉しく思って見ていました。
しかし自分から連絡することで、君に迷惑をかけてはいけない、と思い、
陰ながら応援していました。

先日、君の記事を読み、そして身にあまる言葉をもらい、
驚きと感謝の気持ちでいっぱいになり、迷った末手紙を出すことにします」

という出だしに続き、やっぱりあの事故の責任は自分にあった、
ということとともに

「わたしの自衛官としての人生は幸せでした」

という言葉が添えられていました。

あの事故の時、普通にその責任の所在を長田1尉ひとりに被せたとしても、
事故を起こした艦長が、自衛隊で出世することはなかったと思われます。
しかし、たとえ自己防御の意識からそうしたところで、
誰にもそれを責められることはなかったでしょう。

ただ、確実に言えることは、もし「あけぼの」艦長がそれをしていたら、
「長田海上幕僚長」はおそらく生まれることはなかったということです。

制服を脱いだあと、この元艦長は、長田氏の順調な昇進を応援しながら、
「自らの身を顧みず」、事故の全責任を一身に負ったことで
この未来を守ったのだ、という充実感を味わっていたのかもしれません。

そして、その思いが彼をして「自分の自衛官人生は幸せなものだった」
と言わしめたのではなかったでしょうか。



長田海将はこの手紙を読んだ後、こう誓ったのだそうです。

 「あけぼの」艦長の言葉や行いは、海軍の良き伝統の上にこそ
生まれた。
  ”最後の海軍経験者”として、このような
生き方を示し
  後世に伝えていくことこそが、私自身の使命である。

と。 



そして「今、あの艦長に対して恥ずかしくない自衛官であるか」
を常に自分に問いかけながら、海上幕僚長として自衛官人生を終えました。

長田海幕長が退官した時、朝日新聞はそのことを伝える記事で、彼を

「最後の帝国海軍軍人海幕長」

と呼んだそうです。

 

続く。 


 



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7 Comments

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練習船 (お節介船屋)
2015-01-20 14:22:32
練習船(YTE)12号は防衛庁技術研究本部が日立造船神奈川工場に発注したFRP実験船「ときわ」の後身です。
たしか昭和57年頃の建造です。(掃海艇をFRPにする場合の諸試験用だったのでは?)
もっとシンプルな船型でしたが、海上自衛隊への移管後上部構造物を増加させ練習船に改造したものと思います。
船齢30年以上もはやお婆さんでなおかつ他目的の改造した船ですが、護衛艦も艦齢延伸の時代、いつになったら代替えしてもらえるやら?
エリス中尉に日を当ててもらえて喜んでいるでしょう。

練習船13号は鋼船で、新潟鉄工所で平成14年頃建造された船です。
写真のようにこちらの船が50トン以上大きいと思います。

黄色いトロッコ?
カッターの上架(すべりからこの架台に乗せて陸揚げ)及び整備用台車と思います。

ヨットはカッター、伝馬船と同様教育用の支援船です。
ヤマハ発動機製造の7.5mヨットと思います。
運用 (雷蔵)
2015-01-20 18:05:09
砲術=大砲関係、水雷=魚雷関係ですが、運用とは船体整備です。

護衛艦だと、砲雷長(二佐か三佐の幹部自衛官)の下に砲術長あるいは水雷長(砲雷長が射撃職域だと砲雷長+水雷長となり、砲雷長が水雷職域だと砲雷長+砲術長になることが多い)となりますが、砲雷長は武器を所掌する他、船体整備も担当し、その配下(海曹士)には、射撃員とか魚雷員と同じように船体整備が職務の運用員がいます。

護衛艦以外の支援艦(補給艦、輸送艦や南極観測艦等)では、武器がないので、船体整備が主になり、砲雷長とは呼ばず運用長と呼ばれます。

長田さんは、よくメディアに登場する香田洋二元自衛艦隊司令官の義父に当たる方です。任官した頃、香田さんはそのへんで砲雷長をやっていました。調べて見たら、長田さん自身、自分の父親と大して年も変わらないので、海軍というのは、案外、そんなに昔の話じゃないんだなと感じました。
お聞かせ願えませんか? (うろうろする人。)
2015-01-20 22:05:02
エリス中尉様
コメント欄をお借りして大変に、申し訳ございません。
ご存知かと思いますが、ニュースでの通りイスラム国が日本人人質を取り、「日本国」に対して身代金を要求してきております。阿部首相もある意味では岐路に立たされる事態となって来ました。中尉は如何お考えでしょうか?
ご多忙の中、その様な時間を取って頂けるなら、メールでお考えを聞かせて頂ければ、大変に幸甚です。あくまで、あくまでも中尉のお気持ち一つでの事で結構です。
大変に、失礼いたしました。

うろうろする人さん (エリス中尉)
2015-01-21 11:58:32
メールに書きましたが簡単に言ってテロに屈しないという世界の趨勢に準じるしかないでしょう。
冷たいようですが、危険を覚悟で現地にわたった二人を生かすために
将来にわたって多くの日本人を危険にさらすわけにいかないのです。

わたしがこの件で憂慮するのは「どちらを取ってもマスコミは非難するだろう」ということです。
それこそカツカレーや体の調子ですら非難して炎上させようとしていたくらいですからね。
悪いのはどう考えても人質を取って脅迫することですが、すでにここぞと政府批判が始まってます。
民主党は具体案も示さず「適切な対応」なんて言っていますね。
どちらを取っても後で非難する気満々です。(笑)
わたしとしてはいつマスコミが「安倍は織田信長の再来」
と言い出すか楽しみにしています。
というのは冗談ですが、公開された写真は明らかに合成ですし、もう二人は生きていないという
可能性は大いにありますね。
運用 (Unknown)
2015-01-21 12:03:51
運用は船体整備ではありません。
Boatswain、ボースンです。
帆船時代、索具で帆を操る船乗りそのものがボースンでした。武器がないので、
整備が主となるから運用長なのではなく、古来のボースンの仕事だけが 残るから運用長なのです。

わたしは、航海員と運用員こそが船乗りの原点だと思っていました。
船乗りの原点 (雷蔵)
2015-01-21 13:14:50
が運用と航海であるのは間違いないと思います。船乗りなのか戦闘艦乗りなのかの違いでしょうね。
運用講堂 (Unknown)
2015-01-21 22:54:28
運用講堂懐かしいです。
雷蔵様の書かれたとおり、ここでは候補生学校修業前、船体整備に関する実習がありました。ところどころ錆が出ている鉄板を渡され、教官から錆打ちのやり方(金槌でたたいて落とす、いわゆる「カンカン虫」)の実習です。「この程度の錆はもう少し育ててから錆打ちする。」など、ある意味、新鮮な実習でした。その他にもカッターやヨットを陸揚げして船体手入れを行ったのも「運用講堂」脇のスペースでした。

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