ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

元ペルシャ湾掃海派遣部隊司令官の語る集団的自衛権

2015-05-31 | 日本のこと

現在の国会では集団的自衛権についての議論が佳境を迎えています。
野党はここぞと集団的自衛権はアメリカの戦争に巻き込まれる法案だ、
という一点に絞ってそこをオールスター()でついてきているわけですが、
たまたまわたしはそのオールスターの質疑のうち、民主党代表の岡田克也氏と、
共産党の志位和夫氏のをリアルタイムで聞きました。

んーーー。

志位さんの質疑はわたしはあまり聞いた記憶がありません。
さすがに法案が法案なので、共産党もラスボスを投入してきたみたいなんですが、
失礼だけどわたし、思いましたね。
志位さんってこんなに頭悪かったんだ。って。
お父さんが陸軍軍人でご本人も東京大学を出てるはずだし、性格も
勝手に温厚な人だと思っていたんだけど、どうやらそれは単なる買いかぶりで、
所詮は「普通のサヨクの親玉」にすぎなかったんだと。

内容を簡単にまとめると、

アメリカは昔から侵略を繰り返してきた。
例えばトンキン湾事件ではマクナマラ長官の指示によって米艦艇が攻撃されたことにし、
それをきっかけにベトナム戦争に突入した。
イラク戦争も、大量破壊兵器を持っていると事実でない決めつけのうえ攻撃を開始した。
その間自民党はアメリカを一言も非難しなかった。
陰謀によって侵略をするアメリカを非難したことのない自民党、自民党もアメリカと同類だ! 

ベトナム戦争の時、日本は後方基地となった。

イラク戦争でも自衛隊を派遣して治安維持を行い、アメリカに協力した。
今後アメリカが行うかもしれない侵略戦争で、日本は集団的自衛権によって
派兵してアメリカの戦争を支援するつもりか!


まあ、こういう面から見たらそうとも言える、としかわたしには言えませんが。

集団的自衛権でアメリカの戦争にまきこまれる、というのはもはや定番の反対意見ですが、
安倍首相が懇切丁寧に、それについては我が国の平和と安全が侵される時に限る、
と繰り返して実証をあげ説明しているので、この部分の反論についてはそれを見ていただくとして。

じゃ、世界はその時アメリカを非難して制裁決議でもしたのか、
国連はベトナム戦争に介入してたのか、って話なんですがね。

非人道的な侵攻を非難しなかった=与している

という二元論は、この「複雑怪奇な」世界情勢においてあまりにも
物事を単純化してませんか?

じゃ、日本はかつて公式に天安門事件を非難したか?
現在進行形で行われているチベットへの弾圧を非難したか?
南沙諸島でまさに今行われている中国の侵略を非難したか?

とまず志位さんにはそのことに対するご意見を聞いてみたいものです。
 
 

さて本題。

先日、「沖縄県民かく戦ヘり」という最後の電文を残して自決した、

沖縄の陸戦隊司令官だった大田實海軍少将についてのエントリをまとめました。
大田少将については以前から書きたくて仕方がなかったのですが、
やっとのことで6月13日の大田少将の命日に合わせてアップすることができます。

このエントリ製作のために各種検索していて、偶然、大田少将の息子であり、
戦後海上自衛隊でペルシャ湾掃海派遣部隊を指揮した、落合(たおさ)氏が、
新聞のインタビューに答える形で憲法改正について語っている記事を発見しました。


まず写真を見て、そこに在りし日の写真に残る大田少将そっくりの面影を認め、
大田少将について調べるために読んだ本に載っていた家族全員の写真では、
幼い子供だということを考えても全く父に似ているとは思えなかった落合氏が、
かつて沖縄県民を守るために立ち上がった戦いに敗れ、この世を去った父と
同じ年代になってこれほど同じ雰囲気を湛えているのに驚きました。

日本にとって国際貢献第一号となるペルシャ湾掃海部隊を出すにあたって、
海上自衛隊の幕僚監部は、指揮官である落合さんの紹介パンフレットを作りました。
それにはこのように書かれていました。

「部隊の能力は指揮官の能力を超えることはないと言われる。
指揮官はあるときは十分に深い知識を持ったエキスパートであり、
あるいはどっしりとした山のような存在となって部下に安堵感を与える父でもある。
このような観点から、(略)総会派遣部隊指揮官として任命された1等海佐、
落合(たおさ)の人物像について触れてみたい。

落合1等海佐を語るには、まずその父、太田実中将について語らねばなるまい」

以下、陸戦隊の一人者である大田少将の「かく戦ヘり」が述べられるのですが、
これは6月13日の当ブログ記事で詳しくお読みいただければと思います。

今日は、大田中将の息子であり、国際派遣部隊の指揮官として、各方面から
その頼もしさを信頼され、人間性を慕われた落合元海将補が、
憲法改正と集団的自衛権についてどのように言及しているかをお話しします。


落合1佐が率いた掃海部隊が出されたとき、日本には自衛隊の海外派遣に関する
明確な根拠法は議論すらされていない状態でした。

1990年の湾岸戦争のとき、日本は90億ドルもの巨額の支援金を出しながら、
その「金は出すが人は出さない」という姿勢を「国際貢献していない」として
世界から非難されることになり、支援感謝の広告に名前を載せてもらえなかったのです。

このときには国名もよく知らないような小さな国でも、
たった一人か二人参加すれば十分国際貢献を認められていたということで、
日本のように
たとえ何億出しても人をよこさない、
つまり「汗をかかない国」はむしろ軽蔑の対象でした。



落合氏は、この待遇が不満でたまらず、総会に参加した9カ国の指揮官会議の二次会で、


「俺んとこだって90億ドル、日本人の大人一人が1万円ずつ払ってるんだ」

と悔し紛れに言ったところ、その場の皆がこう言ったのだそうです。

「大人一人が100ドル払えばペルシャ湾に来なくて済むんだったら世界中誰でも払う」


この国際貢献のために、自衛隊法99条「機雷等の除去」の範囲を広げて
自衛隊を派遣することを、
国会で決定することになった時、
共産党、社民連が牛歩戦術(笑)で抵抗し、
メディアは一様に
「日本が戦争に巻き込まれる」という「市民の声」だけを選んで報道しました。


(あれから13年ほど経つわけですが、日本は戦争に巻き込まれてなんかいませんね~棒)


いろいろあって派遣が実現したのですが、当時、湾岸戦争は休戦協定が成立してはいたものの、
現地は戦争でも平和でもない、
混沌とした状態が続いていたため、
自衛隊は派遣中、ずっと米海軍に警護してもらっていました。


にも国際的には「軍」であるのに、なんとも情けないことではあります。
機雷の除去のため、という大義名分で、それでも紆余曲折の末海外に派遣された自衛隊ですから、
与えられていた権限は正当防衛と緊急避難だけでした。
信じられないことですが、自衛隊は丸腰で行ったのです。

共同で任務に当たった8カ国からは「非武装で来たのか」と驚愕されました。


しかし、この初めての国際派遣を決めたことは、戦後日本におけるターニングポイントとなりました。
とにもかくにも、国会の場で、それまでタブーとされていた自衛隊のこと、あるいは
軍備についてを議論のテーブルに乗せることができるきっかけとなったのです。
その範囲は今日に至るまでじわじわと拡大し、ようやく集団的自衛権行使の成立にまでたどり着きました。

この掃海部隊派遣以降、国連平和維持活動(PKO)への参加や周辺事態法の制定、イラク戦争。
憲法との整合性を問われ続けながらも、自衛隊の活動範囲は広がってきました。
それでも自衛隊は創設以来、他国の人を殺さず、戦闘で死亡した隊員は一人もいません。


落合氏は今その時の任務を振り返り、現場では落合氏だけでなく皆が、
自分たちの任務だから、攻撃に遭う可能性があるとしても覚悟を持って臨んでいた、と言います。
その覚悟は、国家、国民に奉仕することを誇りに思う気持ちから生まれてきたものだったと。


自衛隊は軍隊でないし、隊員は軍人ではなく国家公務員という立場で、
これは今も変わることはありません。
ただ、国際社会では実質、軍隊に等しいと受け止められているし、落合氏も軍隊だと明言します。

そして、部隊が派遣先で力を発揮できるようにするには、必要な法整備をして
自衛隊員の精神的な基盤となる身分と権限をはっきりさせるべきだといいます。

何かあるたびにその場しのぎで関連法案を作るなどということをするから、
国会を震源地にマスコミが煽って結果大騒ぎにるのであって、

大きな枠組みとしての法的基盤を作らなければ、今後もそれが繰り返されるだけです。

これはとりもなおさず、憲法の改正につながっていくとわたしは見るのですが、
どっこい憲法9条を「守る」ことが平和への道であると信じている人々は、
改正イコール「戦争のできる道」と短絡的に直結して拒否反応を起こすわけです。

いつぞや、カタログハウスの某通販生活という左翼系オルグ型通販雑誌の読み物で、

「血を流すべきという人は本当にその意味を考えたことがあるのでしょうか」
「集団的自衛権を決める人は、自分が行くわけではないからですよ(^◇^)」

などという香ばしい対談を読んで、げっそりした話をしたことがありますが、
こちらの落合(恵子)さんのそれのように、集団的自衛権の行使を認めれば、
日本がかつて来た道を歩き、戦争するのではないかという意見に対しては、
落合氏はわたしと全く同じ考えをお持ちのようでした。

 集団的自衛権は、戦争が起きないようにするための抑止力になる

というものです。
これについては、先日、元海幕長の講演会について書いたエントリで、

”国家間の話し合いに、我が国が戦争という手段を取ることはありえない。
ゆえに日本が集団的自衛権を行使するとき、それはどこかが攻めてきたときである”

という趣旨のことを書いたのですが、落合氏は別の言葉でこのように言っています。


日本が攻めてくると思っている国があるだろうか。

そして、わたしが、

「集団的自衛権とは双務的、つまり対等に行使されるべきである」

とした部分についての氏の考えはこうです。

「日本が攻撃されたら助けてほしい。
しかし、あなたたちの国が攻められても、日本は助けることはできません」。
今の状況ではこうなるが、とても世界で通じない。
日本と同盟関係を結ぶ米国は、よく我慢していると思う。
現在の国際社会は、特に安全保障分野では多くの国々が互いに補完し合っている。
「平和憲法があるから」と言われても、となるのではないか。


抑止力についてもですが、現状、実際に懸念すべき国が隣にあること、
そして日本もまた国際社会の一員であるということを論点からすっぽりと外してしまって、
ただひたすら、

「集団的自衛権で戦争のできる国になる」
「憲法改正したら徴兵制になる」
「アメリカの戦争に参加させられる」

というような極端な仮定におののいている(ふりをしている?)志位さんをはじめとする人々は、
日本という国が、国際社会において戦争という最悪の問題解決の手段を回避するだけの
知性や理性の類を一切持ち合わせていない、と固く信じているようです。

そして実際にも
戦後70年の間一人も死なせず、一人も犠牲になっていない平和国家である自国より、
現在進行形で覇権拡大を実行しつつある国や、我が国と価値観を共有できない国の方を
信頼しているらしいというのは、どうにも解せないのですが・・・。



自身が国際貢献活動の現場で、かつての、”金だけ出す国日本”の孤立を肌で知った者として、
むしろ落合氏は、

太平洋戦争の時のように国際社会で孤立してしまうことの方が心配だ。 

と考えています。



落合氏は、沖縄で自決した父のことを、今でも

親父は軍人として本当に最も良い死に場所を得た」

と考えており、自分自身、父の死に様に「指揮官先頭」を学びとったといいます。
そしてペルシャ湾掃海の任務に就くにあたって、落合1左は何より「父に負けまい」と思いました。
「覚悟を持って臨む」ということです。

その覚悟から、最初に母艦「はやせ」に乗り込んだ時、

「ようしッ、一番最初に俺が”故・海将補”になる!」

と言ったところ、とたんに皆の

「やめてくれ」「やめてくれーッ」 


という叫びが一斉に起こったそうです(笑) 

 

 

参考:憲法 解釈変更を問う 元海上自衛隊ペルシャ湾掃海派遣部隊指揮官・落合さん
   中國新聞 広島平和メディアセンター

   「沖縄県民斯ク戦ヘリ」太田實海軍中将一家の昭和史 田村陽三 光人社NF文庫
   
   海上自衛隊 苦心の足跡 「掃海」 財団法人水交会 



 

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海軍設営隊の大東亜戦争

2015-05-30 | 海軍


何回にも分けてお話をしてきた呉海軍墓地の碑にまつわる逸話シリーズ、最終回です。
そこで今日は呉海軍墓地の歴史についてお話ししておきたいと思います。

呉海軍墓地がここにできたのは明治23年。
呉鎮守府が開庁されたのが前年の明治22年ですから、海軍は戦没海軍軍人の霊を祀る、
人々の心の拠り所となる慰霊の場を何よりも優先して設けたということになります。

海軍はここ長迫に用地8,503坪を買収し、墓地の管理は呉鎮守府が行い、
開廟以来毎年秋季に慰霊祭を執り行ってきたのですが、昭和20年の終戦と同時に廃止されています。

終戦直前の7月24日、28日の呉軍港大空襲、次いで9月の枕崎台風による水害で、
海軍墓地は無残に荒れ果てたのですが、呉復員局が中心となって地元有志の力で復旧させました。

以降、心ある人々、団体、付近住民の奉仕によって清掃と供養が続けられてきましたが、
昭和43年になって「呉海軍墓地顕彰保存会」(のち財団法人化)が組織されました。
その後ここは呉市が維持管理を行い、環境整備と年一回の慰霊祭を行っています。



墓地の南端には、古い墓石ばかりが肩を寄せあうよう並べられていました。
苔むし遥か昔に建てられたと思しき墓石は、その文字すら判然としないのですが、
一番左の石にこの事情がわかる文字が刻まれていました。



といっても、こちらも文字が欠けたりしてろくに読めないのですが、

「本地域一在」「九基墓」「不明のため移転す」

そして昭和10年の日付並びに呉海軍の文字がなんとか読み取れます。
どうも、昭和10年ごろ、この墓地が再整備されたときに残されていた墓石を、
海軍墓地の隅にまとめて移転させたということを、わざわざ断っているようです。

もう手入れすることもない個人墓(しかも大きさから言って庶民のもの)であっても、
決して粗末に扱って廃棄してしまうなどということをせず、
こうやって説明のための石碑まで作って、ちゃんと場所を与えているのです。
海軍だったから、というより日本人であれば当然の行いであると思われます。


余談ですが、近年、日本の各地で神社に放火されたり、御神木が枯らされたり、
道祖神が盗まれたり、京都の神社仏閣に油が撒かれたりする事件が相次いで起こっていますね。
偏見でもなんでもなく、こういうことを行えるのは、まず日本人ではないとわたしは断言します。
日本人なら理屈抜きで、そんな行為には必ず祟りがあるとその血が信じている筈だからです。



墓地南端にはいつ整備されたかわからない、誰も通らなさそうな階段があり、

さらには何のために作られたかわからないテーブルと椅子がポツンとありました。
春にはきっとここには桜が花を咲かせるのでしょうけど、花見を楽しむような場所ではないし・・。

そしてこの石碑。

「皇太子殿下御降誕記念樹 昭和八年十二月廿三日健之」

とあり、今生陛下のお誕生を祝って植樹されたことがわかるのですが、
周りにはそれらしい樹は全く見当たらず、どうやらその木は戦災に焼けたか、
あるいは台風の時に倒れてしまったかで喪失し、碑だけが名残りをとどめているようです。




「第103海軍工作部 戦没者之碑」

工作艦というのがありましたが、工作部というのもそれと同じ、工廠の仕事をする部門で、
工作艦が「移動工廠」ならばこちらは「出張工廠」とでも言うべきでしょう。
艦船修理、小型艦船建造等の技術部隊である第103海軍工作部は、呉海軍工廠の人員を
部隊として、そのままフィリピンの軍港に派遣したものでした。


ちなみにこの「工作部」という名称は現在も自衛隊に引き継がれており、

「 横須賀地方総監部横須賀造修補給所工作部」

などが現存します。

艦船修造技術を習得する教育機関としては、かつて横須賀と沼津に

「海軍工作学校」

があり、船匠・鍛冶・溶接・潜水作業などの工作術を始め、ダメージコントロール、
築城術、設営術、航空機整備術の技官や職工を養成していました。
こういうところの出身者が海軍工廠、あるいは根拠地に工作部として派遣されたのですが、
この第103部隊は、昭和17年にフィリピンに進出してそこを根拠に修理などを行います。

しかし、戦況はますます厳しく、アメリカ軍がフィリピンにも進出してきたため、
工作部長早川海軍少将以下200名の本部隊員たちは、昭和20年、ルソンに転出を余儀なくされます。
艦艇修理ではなく、今や陸軍の後方部隊として生産・輸送に携わりますが、
米軍の進出にまたしても追い詰められたため、山岳地帯への移動を余儀なくされました。

艦船修理という元々の任務など、ここでは全くお呼びではありません。

山中を逃げ回り、食べ物を探すのがやっとの毎日の中で、工作部員たちは次々と飢餓に倒れ、
マラリアに伝染し、 終戦後、山から下りることのできたのはごくわずかだったのです。

また別の第103工作部の部員1500名も、隊長である技術中佐の指揮のもと、
マニラで武器製作に携わっていましたが、 やはり陥落寸前に街から脱出して陸軍とともに
山岳地帯を転戦し、果ては食料欠乏のため部隊を解散するに至ります。

四散した隊員たちはやはり飢えと病気、ゲリラの襲撃に次々と斃れてゆき、
終戦のときに生き残っていたのは、わずか数名であったそうです。

技術者の集団で、武器を扱う訓練も満足にしていなかった工作部が
山中に逃れてゲリラと戦っても、生き残る見込みはまず無きに等しかったでしょう。
彼らの多くは昭和20年6月20日に死亡が認定されており、これはおそらく
大規模なゲリラとの戦闘がこのときに行われたからではないかと思われます。 



慰霊碑の傍らには施錠された名簿を収納するボックスが設置されていました。
関係者だけが鍵を開けて名簿を閲覧することができるようです。

このようなツールが備えられている墓は少なくとも見た中ではこれだけで、
いかにも技術者の慰霊碑だなあと思わされました。

おそらく生き残った元工作部隊員が考案して設置したものに違いありません。 



さて、そこで冒頭写真の慰霊碑です。

 呉海軍設営隊 顕彰慰霊碑

長迫公園の海軍墓地の説明を見て、

この慰霊碑が海軍設営隊、27部隊の大合同慰霊碑だったことを知りました。

割り振られた番号はすべて地域ごとであり、パラオ、ラバウル、ペリリュー、香港、バリ、
ブーゲンビル、鎮海、マニラ、カビエン、ブカ、タラワ、バリクパパン、昭南島、宮古・・。

大東亜戦争における激戦地をほとんどすべて網羅するかのように地名が記されています。

わたしは海軍設営隊についてを知るために、海軍技術大尉だった予備士官(日大土木工学科卒)
佐用泰司氏の著書、

「海軍設営隊の太平洋戦争」

という本を読んでみました。
技術下士官としてニューギニアに転進した部隊の指揮官をしていた人で、
その体験記は、簡単に言うと、先ほどの工作部と全く同じ。
すなわち、

進出→戦況悪化→転進・餓えやマラリアとの戦い→転進・自活生活のノウハウ→敗戦

といった現地での悲惨な思い出がほとんどすべてといっていい内容でした。



海軍といえば、誰しも艦隊、航空隊考えるのが常です。
戦争映画というとこれら兵科の戦いが描かれ、ごくまれに陸戦隊が加わります。
次にはこれらの艦艇、砲、飛行機を製造する工廠や航廠について目がいきます。
近年零戦などの名機を作った技術者に目を向けた作品も増えてきましたが、
これらの膨大な施設を建設管理する組織について関心が払われたことはかつてありません。

しかし、すべての基礎である施設の建設がなくては何も行うことはできないのであり、
設営部隊の存在は(現代でもそうですが)大変大きなものなのです。

大東亜戦争は補給戦でもありました。
補給の防衛は海洋築城の重要性を必要とし、その急激な発展を見たのです。
太平洋の要所に多数の築城施設を整備し、邀撃決戦を行おうとする考えです。

敵国であるアメリカの設営隊は略称シービーズ(C.B's)と言いましたが、
設営隊員は自らを「See-bees」(海のハチ)と誇りを込めて自称していました。
ハチのように勤勉に、島伝いに基地を設営しながら進撃するという意味です。
国力の違いはここでも重機機器の装備となってあらわれました。

シービーズたちは新型のキャリーオール・スクレーパーなどを駆使して、

超スピードで航空基地もあっという間に造ってしまいます。

対して日本海軍では、国産機械を装備した設営隊が前線に出動したのは昭和18年の後半。
しかしその国産機械の多くはアメリカ軍の鹵獲品の模造にすぎず、
操作技術の未熟もあって、故障が頻発するという始末です。 

設営隊の段階で、すでに日本は圧倒的に負けていたのです。


そして米軍設営隊が自らの任務に誇りを持っていたのと違い、ありがちな話ですが、
大砲や軍艦ではなく、ブルドーザやパワーショベルで戦う部隊は軍隊扱いされず、
海軍技師が指揮官、幹部は文官、隊員は土工、鳶工、大工などの軍属部隊だったので、
いくら上層部が、

「工員に自覚と誇りを持たせよ。海軍工員は陸軍の工兵に相当する施設兵だ」

と強調しても、

「気持ちは兵隊でも身分上は工員」

という中途半端な時代が長らく続いていたといいます。

昭和19年5月、「技術下士官及び兵」の制度ができて「軍人設営隊」が編成され、
ようやくこの半端さが身分上は解消されたのですが、それはつまり、
南方の根拠地の防衛戦のために急速設営が必要だったから、という理由によるものでした。

加えて彼らは名目上の軍人であり戦闘部隊ではありませんから、自衛のために必要なわずかの小銃、
そして手榴弾の他は武器らしい武器などもたせてもらえず、そもそも戦う技術もありません。
しかし、太平洋の島々に配置され、敵と相見えることになった時、
彼ら設営隊は最後までこれと戦わなくてはなりませんでした。


そして最後の一員まで戦い抜くと悲壮な決意を持っていながら、戦う武器を持たぬ彼らは
多くの設営隊がサイパン、テニアン、グアム、硫黄島、沖縄などで玉砕することになります。

ここに合祀されている設営隊のうち、
第214設営隊(ペリリュー)と大318設営隊(グアム)はほぼ全滅、
第218設営隊(グアム)は玉砕つまり全滅しています。

太平洋で玉砕した設営部隊(ここに合祀されていない)は14部隊に上ります。


ところで、佐用氏の本にもブーゲンビルの戦記でも見られたことなのですが、
どういうわけか、陸軍部隊の自活は海軍に比べて常に遅れをとっていました。

海軍部隊が自活の必要性を見越して、耕地の開墾に身をやつしていた頃も、
陸軍は対空遮蔽を犠牲にしてまでも畑を作ることを頑としてしようとせず、
海軍の作った畑が収穫期を迎える頃、陸軍では皆が栄養失調になりかかっており、
全員の体力が失われて、層原始林を切り開くことなどできなくなってしまう悪循環。

見るに見かねて海軍側が貴重な甘藷の苗を割譲しましたが、三ヶ月後の収穫も待てず
植え付ける前に食べてしまったりして、さらに状態は悪くなるばかりです。

佐用氏は、サラワテにいた陸軍指揮官の指揮官が、

「開墾したくても道具がなく本土の師団からは何も送ってきてくれない」

と嘆くので、

「我々の使っている道具はトラックのスプリングやシャフトから鍛治で作ったものです。
陸軍も工夫して作って見られたらどうですか」

と提案すると、

「しかしふいごもないし石炭もない・・」

創意工夫というものを全く放棄して、ただ本土からの支援を待っているだけの指揮官に、

「ふいごも我々は自分たちで作ったのです」

と激励のつもりで言ったのですが、内心「絶対的な命令と服従」によって動かされてきた軍隊
(つまり陸軍)には将兵の間に唯々盲従と諦めが蔓延しているのではないか、
なぜ此の期に及んで忍耐強く命令と補給を待つのだ、と絶望したと回想しています。

しかし、前線の小部隊、つまり本土との連絡などもう全く当てにならなくなった部隊は、
陸軍であっても「背水の陣」の創意工夫を発揮し、自活への道を切り開いています。

彼らは「漁労班」を結成して(軍隊ですから)精米袋をほぐして漁労用の網を綯い、
敵機来襲の隙をみてはそれを引いて魚を獲りました。
そして海軍部隊の農作物と陸軍部隊の魚で体力を回復した一行は、
互いに競争するように工夫を出し合い、ボートを作り、鶏を養殖し製塩を行い、
「エビオス錠」から麹を取り出して醤油を作り、酒を製造し、石鹸を作り・・。

必要からは工夫が生まれるという言葉の通り、何もないジャングルで
彼らは知恵を出し合って生きる闘いを余儀なくされていたのでした。


戦争で多くの人命が失われましたが、南方に陸上部隊として前進した人々の多くは
戦闘でなく、自然との戦いに斃れていきました。
その際、上からの命令に対して比較的フレキシブルな体質だった海軍の方が、
命令系統が厳格で、従属を是としていた陸軍より、生存自活に長けていたというのは
なかなか興味深い傾向ではあります。


 
というところで、何回かに分けて語ってきた、「海軍墓地シリーズ」、終了です。

またいつか機会があったらここ長迫公園の海軍墓地を訪れて、今度はゆっくりと、
今までここで書くために調べて知ったことを思い返しながら、
海軍の英霊たちに慰霊を捧げたいと思っています。



 

 

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遺骨帰還事業と宇都隆史議員のお話

2015-05-29 | 日本のこと

先日防衛省のお膝元にある市ヶ谷で行われた防衛団体、GO!友会の懇親会。
この日をもってこの団体に参加することが決まったわけですが、与えられた肩書きは

防衛部長

防衛部長ですよみなさん。
防衛部長って何をしたらいいのかさえわかりませんが、とにかくまた名刺に書くことが増えたわ。
地球防衛団体の顧問もそうですが、こういう関係団体って仕事らしい仕事がないせいか、
肩書きといっても考えつく限りのそれらしいものを濫発してるみたいで、
ふと民主政権時代に一人でも多く「元大臣」の肩書きを与えるために、節電大臣とかボランティア大臣とか、
学級会の係みたいな大臣のポストを増やしていたのを思い出しました。

防衛団体というものが、社会的には実質学級会くらいの位置付けだってことなのかもしれませんが。





さて、この懇親会には、何人かの国会議員の中に自民党の宇都隆史議員がいました。


外務大臣政務官として、世界を飛び回っている宇土議員、この懇親会の挨拶でも

「7時間後は日本を出発する飛行機に乗っています」(行き先は失念)

ということでした。
このように外務大臣政務官は激務であるようで、先月は国某協会主催の講演会が
政務官としての任務が入ったため中止になり、残念に思っていたところです。

ここで見かけたが千載一遇のチャンスと思い、直接ご挨拶をさせていただきました。



この日の水交会会長の挨拶では、奇しくも海上自衛隊の練習間隊出航が 
この直前に行われたことの報告があったのですが、遡ること1年前、
平成26年練習艦隊を晴海埠頭に見送ったわたしは、半年の航海を終えた彼らを、
同じ埠頭に迎えるという光栄に浴しております。

このとき、海上自衛隊の歴史上初めて、外地で戦没した旧日本軍将兵のご遺骨が
練習艦隊の旗艦「鹿島」に抱かれて日本の土地を踏む瞬間を見たのですが、
この帰還の実現には宇土議員が


「党遺骨帰還に関する特命委員会事務局長」

として奔走し、外務大臣政務官として現地にも赴いたことを知る身として、

そして国民の一人として労いの一言を述べさせていただきたいと思ったのです。



遺骨に花を手向けるため歩むその日の宇土議員。



このとき、やはり出席していた佐藤正久議員。



ところで、民主党政権時代、全てのことは暗転し、日本は没落への道をひた走り、
国体崩壊までまっしぐらだった、と思っている方は多いかと存じます。

確かに民主党の支援団体を見ただけでも、よく3年3ヶ月の間国が保ったものだとは思いますが、
細かいところでは必ずしも日本の不利益だけを目的に政治をしていたわけでもないのです。


・・・・って当たり前なんですが、こんな解説をしなければいけないこと自体、

あの政権がいかに異常だったかってことでもあるんですけどね。

特にこの戦没者の遺骨収集事業。

「史上最低の無能総理」とまで言われた菅直人が、ことこの遺骨事業に関しては
やるべきことをやっていたことだけは認めなくてはフェアではないでしょう。

硫黄島の遺骨収集作業の大幅な効率を上げるため、アメリカの公文書館で戦闘当時の
資料を探せといったのも菅元総理本人だったという話ですし、その結果、
公文書館で見つけた地図に「エネミーセメタリー」の文字を見つけ、そこから集団で埋葬された
日本軍将兵の遺骨を収集することにつながったわけですから、これは紛れもなく「功績」です。

そういえば菅元総理が、ある日の国会で唐突に

「硫黄島での遺骨収集事業は、わたし”が”やった」

と言いだしたことがありました。

わたしはちょうどそれを車の中で聞いていたのですが、もともとそのようなことが
議題に挙がっていない答弁のさなかの、まさに唐突な発言に思われました。

今考えれば、ご本人としては、これは誰からも評価されるべき功績の筈で、
俺がこんなことをやっているなんて知らないだろう!
責めてばっかりいるんじゃねーよ野党!これは認めてくれよ、という、いわば
日頃追い詰められてばかりいる者の”窮鼠猫を噛む”的唐突発言だったのかもしれません。



この功績が顧みられなくなったのは、たとえば遺骨に軍手のまま手を合わせている写真を
うっかり撮らせてしまい、それが報道に流れて

「票のためのパフォーマンス」


なんていわれてしまったり、それを打ち消すに余りある日頃の行いだったり、
失礼ながら当人の人徳のなさから来たこととはいえ、少し同情に値します。

まあ、菅直人が始めたことでもないし、彼だけがやったってわけでもないのですがね。



それはともかく、こと戦没将兵の遺骨帰還に関しては、それこそ超党派で
少しずつではあるとはいえ、切れ目なく前に進めているのは確かですが、
今までは法制化されていなかったため、それを宇土議員は特命チームの長として
佐藤議員らとともに推し進めており、ついに今国会で承認されたとのこと。

しかし法制化にはある程度タイムラグがあるため、実施は今の予定では8月になるそうです。

「それは何としてでも8月15日までに間に合わせていただきたいものですね」

わたしがいうと、宇土議員は

「もちろんその日には何が何でも間に合わせるつもりでやっています」

と返答されました。
この日、やはりお話を伺った元陸幕長は

「日本の終戦は8月15日じゃないです。
天皇陛下のお言葉があった日を終戦にしてしまっているけど、
本当の敗戦はミズーリの上での降伏調書に調印した9月2日です」

というのが持論で、 まあわたしも厳密に言うとそんな気がするのですが(笑)

いずれにしても遺骨の帰還を法律ですることが戦後70年の節目には実現するのは、
遅きに過ぎるという気はしますが、また一つ「戦後」から一歩進んだと言えるのかもしれません。


しかし、ご遺骨の収集事業そのものは、まだまだ「法制化で緒に就いただけ」です。


海外などからの戦没者の御遺骨の収容は、昭和27年度から南方地域において始まりました。
その後、平成3年度からは旧ソ連地域における抑留中死亡者について、
更に平成6年度からはモンゴルにおける抑留中死亡者についても御遺骨の収容が可能になりました。

 

この結果、これまでに約34万柱の御遺骨を収容し、
陸海軍部隊や一般邦人の引揚者が持ち帰ったものを含めると、
海外戦没者約240万人のうちの約半数(約127万柱)の御遺骨を収容しています。

 


戦没者の御遺骨が残されている地域には、相手国の事情や海没その他の自然条件等により
収容ができない地域等が残されていますが、政府としては今後も現地政府などからの
残存遺骨情報の収集に努め、そうした情報に基づき、御遺骨の収容を実施することとしています。

相手国の事情により御遺骨の収容ができない国には、外務省と連携して、
御遺骨の収容の実現に向けて努力しているところです。

なお、旧ソ連及びモンゴル地域においては、先の大戦の後に約57万5千人の方々が抑留され、
約5万5千人の方々が抑留中に死亡されていることから、
こうした抑留中死亡者の方々に関する埋葬地の特定や計画的な御遺骨の収容の実施に努めており、
平成26年度までに19,445柱の御遺骨を収容し、モンゴル地域についてはおおむね収容が終わっています。

そして厚労省では、日本人戦没者のための慰霊碑を建立することと、
慰霊巡拝を計画的に実地して、遺族の方々の巡拝を支援しています。

(厚労省HPよりの抜粋)



まだこのような法制が敷かれていないにもかかわらず、去年の練習艦隊が遺骨を持ち帰ることになったのは、
宇土議員や佐藤議員らと防衛省、そして当時の海幕長であった河野統幕長、
現場のすべての熱意によって実現したものだそうで、わたしが

「練習艦隊が遺骨を持ち帰るというのはこれから恒例となるのですか」

と尋ねると、

宇土「河野統幕長、当時海幕長なども大変そのことに乗り気で是非そうしたいと
いうことになったので、おそらく間違いはないですが、
練習艦隊が旧日本軍の戦跡に毎年寄港するかというと、そうではないので・・。

たとえば今年の練習艦隊は、マゼラン海峡を抜けた後は南米一周です。
日本軍の戦跡となると、パールハーバーしかないんですよ。
ですから毎年というわけには行かないのですが、寄港できる年には実現させたいとの意向です」

わたし「もちろんどんな方法で帰ってきても、日本の土を英霊が踏むことには違いないですが、
海軍艦で日本の地を後にした方々ですから、できるだけ海自の艦で帰して差し上げたいですね」

宇土「そうなんですよ。
ああいう儀式の時には、海自は殉職者の慰霊の際に使う”葬送の譜”を演奏するのが
恒例となっています。
”葬送の譜”って、らーらららーら♪(とメロディをフルで歌うw)というあれですが、
わたしは、”それではだめだ”と。
”お迎えには彼らが知っている曲でないとだめです” と言って、
”海行かば”を演奏することを
・・・、こう言っては偉そうですが、命令?したんですよ」


わたしああ、それで”海行かば”だったんですね・・・。
わたしは旧軍の将兵のみなさんをお迎えするのにこれ以外ない曲だと思っていました」

宇土「あの曲が流れた時ですね、わたしもですが、あそこにいた者は皆涙を流しました」

わたし「わたしも涙を抑えられませんでした・・・。
このメロディを今、英霊の方々はここで一緒に聞いていると思って」


 あの「海行かば」の演奏がご本人の指示によるものだったと聞いて、
わたしは思わず目の前の宇土議員に頭を下げずにはいられませんでした。

わたしが、幕僚の1佐から聞いた、

「航海中、ご遺骨を安置した”鹿島”の船室には常に誰かが手を合わせるために訪れ、
実習士官達にとって、また乗組員達にとっても、
これに勝る精神教育は無かったに違いないと思っております。」

という言葉をもうご存知だったかもしれませんが、お伝えしたところ、
こんな話をきかせてくれました。

ホニアラ島でご遺骨を明日は「鹿島」に乗せるという日、現地は篠突くような大雨に見舞われ、
明日の式典はどうなるかと皆は危ぶんでいたところ、

当日は昨日の荒天が嘘のように晴れ渡り、抜けるような青空が広がったというのです。

前日の雨は、日本からの迎えが来てくれたことに対するの英霊の涙雨だったのかもしれない、
と皆は言い合ったそうです。

が、 ガダルカナルのご遺骨の全柱帰還までにはまだまだ及びません。
宇土議員も、

「 わたしはあの雨は、未だあの地にあって帰還できない方の涙でもあると思いました」

自分のこれまで成したことは、まだ道半ばにすぎないことを肝に銘じている人の表情でこう言いました。




 



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” I HAVE THE CONN"(もらいます)~空母「ホーネット」艦橋ツァー

2015-05-27 | 軍艦

空母「ホーネット」艦橋ツァー、続きです。
前回空母「ホーネット」の指揮所について艦隊司令だったマケイン中将と
ハルゼー元帥のハートウォーミングな逸話()で終わりにしましたが、
このマケイン中将は第38任務隊の司令官であったミッチャー中将と
任務隊隷下の第一群司令を交代し合っていた関係で、「ホーネット」に坐乗したのは
そんなにしょっちゅうだったわけではなさそうです。

自衛隊の護衛艦などでもそうですが、海軍軍人の任期というのは艦長職でもだいたい1年。
我々の感覚からは驚くほど短いものです。

 

艦隊指揮所らしい部分から移動する途中にあった得体の知れないもの。

「PELORUS」(方位儀)と書いてあるので方位儀だと思うのですが、
舷側に置かれているせいか蓋が閉められた状態です。
このおかまの蓋みたいなのを外せば方位儀の盤面が現れる?

 

ツァー御一行は艦橋をほぼ一列になって移動します。
次に案内されたのがこの船室。



ツァーガイドは必ずこのような「手頃な」年齢のお子様に椅子に腰掛けさせ、

彼なり彼女なりにアメリカ人らしくまず名前を聞き、

「ジェイミー、それではこの椅子に座ってまず何が見える?」

みたいな質問をしてそれを説明の導入につなげるというようなことをします。
この時の”つかみ”が何だったのか日にちが経って忘れてしまいましたが、
彼が要するにこの椅子が誰のためのものなのか、きっかけになるような発言をしてくれれば
こっちのもの、というわけです。

子供が座ってもかなり高い位置にあるので窓から外が見渡せるこの席、
このことを、ガイドは
 
「ホーネットのコマンディングオフィサーの席」

であると言っていた覚えがあるので()艦長席のことだろうと思われます。

ところで艦橋に配置される構成員は三種類に分けられます。

1、OOD、The Officer of the Deck(当直士官)

2、JOOD、The Junior Officer of the Deck(副直士官)

3、JOOW、Junior Officer of the Watch(操舵員)
 

OODは海軍海自でいうところの「当直士官」。

ナビゲーションについての責任、たとえば衝突回避などの措置を取るのもこの役目。
メインエンジンの制御についても受け持ち、コマンディングオフィサー(艦長)の
判断に必要な報告書を作成する係でもあります。

 

 

往時の使用例をどぞー。

これを見てふと思ったのですが、海上自衛隊の慣習である
赤だったり赤と青だったり黄色があったり、という椅子カバーの色分けは米海軍にはないんですね。

このセイバーリッチという軍人は1969年から1年だけ「ホーネット」の艦長だったのですが、
現在はもちろんそのお仕事中の写真を見ても、カバーがそもそもかかっていません。
「ファイナルカウントダウン」でカーク・ダグラスが色付きの椅子に座ってた記憶もないな。

というわけで、改めてあれは自衛隊独特であるらしいことが分かったのですが、
ということは、双眼鏡のストラップの色を含め海軍時代に生まれた慣習なのでしょうか。



さて、このセイバーリッチ艦長の任期を見ても、日米ともに艦長職は短期であるようですが、

wikiにも書いていないほどたくさんいる「ホーネット」艦長経験者の中で
どうしてこのセイバーリッチ艦長が有名なのかと言いますと、彼の在任中、
「ホーネット」は第二次世界大戦の功労艦として最後の花道ともいうべき、

「アポロ11号ならびに12号の乗員とカプセルを回収」

というミッションに参加しており、セイバーリッチ艦長はそのどちらもの任務を完璧に
やり遂げたのち、最後の艦長として「ホーネット」の退役を見送ったからです。

「ファイナルカウントダウン」でも、カークダグラス扮するイエランド艦長は
ずいぶんお高いところにふんぞり返って座っていた記憶がありますが、
「艦長の椅子」は、360度回転し、窓の外が一望できる高さにあります。



近くで盤面の写真を撮ることができなかったのでわかりませんが、
羅針儀かテレグラフ(速力通信機)であろうかと思われます。



年代を感じさせるテレビ型のモニターと、左側は風力、風向計。
風速は単位がわかりませんが83を指しているので、多分作動していないんでしょう。



艦長の椅子と羅針儀の後方にはこのようなコーナーが。
ここも中に入って写真を撮りたかったのですがお子様が退かなかったので
色々と重要なものを撮りそこなってしまったようです。

今年の夏はちゃんと撮ってきます。(−_−;)



時計もいつの頃からか針の動きを止めてしまったようです。

窓カラスの張り巡らされた艦橋の天井角の丈夫そうな時計には蜘蛛の巣がかかっていました。



空母にもサイドミラーがあったとは・・・・。
この鏡にもさぞかしいろんなものが映し出されてきたのだろうとついしみじみ。
経年劣化で鏡の層が剥がれてしまっていますね。





これが羅針儀でしょうか。
だいぶ部品がなくなってしまっているように見えます。



ALIDADEとは平板測量用器具で、水平器と定規を備え,平板上に載せて
地上の目標の方向距離高低差を測定するものの意味だと思うのですが、
ここに書かれているのは転じて「平板」から、もしかしたら甲板のこと?




扇風機、照明器具、スピーカー、電話の線らしいのがもう一緒くたになってカオスです。



これなんだと思います?
機械の横の黒いプレートにはレーダーと書いてあるのでレーダーなんですが、
昔のモニターは陽の光のもとでは見にくいものだったせいか、
光が入らないようなカバーをして覗きこむようになっていますね。

レーダーの後ろのスイッチのいっぱいついたボックスは、マイクです。




ベトナム戦争にもちょっと参加した「ホーネット」。
甲板上から哨戒のために飛び立つグラマンのトラッカー。

「ホーネット」は1967年の夏、作戦行動でずっとベトナムの海にいたこともあるそうです。



ニクソン大統領が「ホーネット」に坐乗したこともありました。
フラッグブリッジ、すなわち「ホーネット」が旗艦だったときに、
マケイン中将とミッチェル中将が代わりばんこにここに乗り込んだ、というところですね(笑)

「ホーネット」は人類初の有人月面着陸を果たしたアポロ11号の乗組員と司令船、
そして12号の乗組員と司令船を回収したのですが、アポロ11号の回収時には、
ホーネットの格納庫甲板内において、ニクソン大統領が、移動式の隔離室に収容された
アームストロング船長以下計3名の乗組員と対面したからです。


さて、わたしが「いせ」の艦橋で出航作業に立ち会った時、海軍海自伝統の
「いただきます」を目撃(しゃべっていたので正確には目撃しそこないましたが)
したのですが、アメリカ海軍にもこのような形式がちゃんと存在します。

たとえば、
当直士官の交代の様子を見てみましょう。


スミス中尉(仮名)はOOD、デッキオフィサーで、(ジョン・)ドゥ中尉が彼の交代員です。
ドゥ中尉は戦闘情報センター(CIC)をチェックし見張り中に起こると予想される必要な処置、
ナビゲーションで航路をチェックし全ての命令に目を通し、周囲の船舶の位置を確認。

これらが済んだら、ドゥー中尉はスミス中尉の前に立ち、

"I am ready to relieve you, sir."

あなたを交代させるための用意ができました、つまり交代準備完了です、といったところでしょうか。
このようにいい、 スミス中尉も

 "I am ready to be relieved.”

交代される準備完了、と告げます。
その後二人は引き継ぎ事項として自分が任務に立っていた時の確認要項を申し送り、
それらが済んだ時点で

"I relieve you, sir."

と改めて言い、スミス中尉の方は

 "I stand relieved. Attention in the  bridge, Lieutenant Doe has the deck."
(ブリッジに交代に立ちます。ドゥー中尉は甲板へ)

しかるのち敬礼を交わし、甲板に移動したドゥー中尉はそこで

"This is Lieutenant Doe, I have the deck."

と任務を引き継いだことを表明するということです。
海軍から続く慣例で現在の海自でも操舵を「いただきます」と言うように、
アメリカ海軍の持ち場を「I have」という独特の言い回しが定型化されているのも
おそらく昔からの船の上の慣例というものだろうと思われます。

ちなみにどちらも中尉であるのにドゥー中尉がスミス中尉に「Sir.」を使用しているのは
実際の階級に関係なく「こういうことに決まっているから」だそうです。

2番のJOOD、副直士官は、自衛隊だとだいたい1尉か2尉が充てられ、
必ずOODは3尉あるいは1佐というように階級が決まっています。 

 3番のJOOW、ジュニアオフィサーは、"conn"という任務を通常負うことになっています。

 connとはそのまま「操舵」という意味を持っており、つまり操舵員のこと。
「いせ」では艦長に航海長が「いただきます」と言っていましたが、上からだと「もらいます」
と言い、米海軍ではこの「いただきます」「もらいます」のときに

"I have the conn,"

というのが一般的で、他の言い方は

"I have the deck and the conn," 

となります。

全体的に組織でもラフで、形式を合理的に省略することの多いアメリカ人ですが、
海の男たちのしきたりは、ほかの世界ではないくらい厳格にそのまま引き継がれているようですね。






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マケイン中将と神風~空母「ホーネット」艦橋ツァー

2015-05-26 | 軍艦

「ホーネット」の艦橋ツァーに参加したのは実は相当前、2013年のことです。
そのうちお話ししようと思いながらイベントが重なって、延び延びになっていました。
あまりにも日にちが経ちすぎて、せっかくツァーで解説員の話を聞いてきたのに、
こうして久しぶりに写真を見てもあまり思い出せることがなく(笑)、
つくづく、帰ってすぐにエントリをまとめるべきだったと後悔しています。



さて、日本では現存されているかつての軍艦は「三笠」だけだと思うのですが、例えば
学校の社会見学が行われたり、近くの園児が遠足で来たり、ということは・・・というか、
「三笠」に限らず、およそ自衛隊関係の資料館が課外授業に使われることはあまりなさそうです。

知覧の特攻記念館や広島の原爆資料館は修学旅行の目的地にもなるようですが、
(何を隠そうわたしの卒業中学の修学旅行は広島~四国で、原爆資料館見学が組み込まれていた)
それは日本の歴史の「負」の部分だけをクローズアップした”平和教育”の一環としてであって、
翻って旗艦として勝利を収めた日本海海戦を語ることになる「三笠」や9条的に「憲法違反」
の存在である自衛隊施設は対象外、
というのが日本の教育現場の総意だからではないかと思われます。

この「ホーネット」博物館を訪れたとき、何組もの学校単位の見学や、

幼稚園児の群れを目撃したのですが(いずれもサマーキャンプのアクティビティだと思われる)、
日本とはこういう軍事的なヘリテイジに対する考え方が随分違うものだと思わされました。



軍事的遺跡ではあっても、歴史や軍事について「だけ」を学ぶ場所という位置付けではなく、
特に学齢層が見学に訪れることを踏まえてか、「ホーネット」艦内には
いたるところにこのような教材的説明のポスターが貼られていました。

例えばこれですが、飛行機の上昇、下降の基本的メカニズムみたいなのがわかりやすく
図解で記されています。航空力学の範疇ですかね。


機体は浮力より重力が上回った時上昇するが速度は落ちる

浮力は重力より劣位になる

機が下降すると浮力が失われるが速度は増す

速度が増すと機に上昇するために必要な浮力を与える

浮力が重力より優勢になるまで機は上昇を始める


当ブログは航空の専門家も見ておられるので、用語的に正しいのかどうか、
書くのが少しためらわれるところですが、とりあえずこう翻訳してみました。

で、それが何か?


とわたしなど思ってしまうというか、なぜ「ホーネット」博物館で
航空力学の図解を必要とするのかいまいち解説の言いたいことがわからぬのですが、
これも学校単位で訪れる見学者のための「サービス」かなあと思ったり。

わからないといえば、この近くにあった、



これも、なぜここで説明することなのか少しわかりかねます。
一応これも翻訳しておきますと、

#1 暖かい海水(26~7℃)はハリケーンにエネルギーを与え、
  さらに水蒸気が湿度の高い空気と雲を作る

#2 上昇気流となる

#3 空気が上昇するため風はストームの上を外側に流れる

#4 湿った空気が嵐の雲を発生させる

#5 風が外からハリケーンを攪拌することによって規模が増大する 


はい、よくわかりました。・・・・・でそれが?

とここでもおもわず真顔になってしまったのですが、航空力学はともかく、こちらの話題は
「ホーネット」と若干どころかかなり関係があったことが後からわかりました。

 前のシリーズエントリで、この日本軍に沈められた「ホーネット」の後釜として急遽
「ホーネット」と名付けられたところの航空母艦が、まるで先代の仇を討つかのように、
阿修羅の様相で(というのはかなり適切でない表現かもしれませんが)宿敵の日本軍と次々交戦し、
その武功抜群を讃えられて(この表現もあまり適切ではありませんが)、

7つの従軍星章、殊勲部隊章をあたえられた全米の9隻の空母のうちの一隻となった、
というようなことを縷々お話ししたわけですが、そんな最強空母にも勝てないものがありました。

沖縄近海で見舞われた台風です。



あらあら、甲板がまるで紙のように折れてしまっていますね。
「大和」特攻となった海戦で「スーパー・バトルシップ・ヤマト」(本当にそう書いてある)は
俺たちが撃沈した!と大威張りの「ホーネット」でしたが、この坊ノ岬沖海戦後、
米軍の沖縄上陸を支援していたホーネットは台風に襲われ、あっさりと崩壊してしまいます。

この「神風」にはひとたまりもなく、彼女はサンフランシスコへの帰港を余儀なくされたのでした。




さて、アイランドツァーは最上階の艦橋にまず上がってきました。
日本の軍艦では戦闘指揮所と操舵が一緒になることはまずなく、というのは
ひとところに全てが集中しているとそこが攻撃された場合ジ・エンドになってしまうからですが、
米空母も同じ理由で役目が分散されているのだそうです。




これが「ホーネット」の「司令官の椅子」だ!

「ホーネット」は旗艦でもあったので、艦隊司令が坐乗し指揮を執る艦隊用の指揮所と
艦長が指揮する操艦用の艦橋は別になっていたはずです。
冒頭にもお断りしたように、このアイランドツァーに参加してから日が経って
記憶がすっかり薄れてしまったので断言はしませんが、ここは艦隊指揮所の方です。



レイテ沖海戦は、連合国側からは延べ734隻の艦船が参加していますが、
このときの「ホーネット」は、第3艦隊38任務隊の4つのタスクグループのうち、
第1群の旗艦として、空母ワスプを含む約40隻の陣頭に立っています。

このとき「ホーネット」に艦隊司令として坐乗したのが、

ジョン・S・マケイン中将

でした。
共和党のマケインさんのお祖父ちゃん(シニア)で、息子のマケインJr.も
大将まで出世した海軍軍人ですが、この元祖マケインのアナポリスでの成績は
全く奮わなかった(116人中79位)ということでです。

51歳でなぜかパイロットを任命されるなど、
出世の王道をひた走ったわけではありませんが、
部下を鼓舞させるような
カリスマ性のせいか、はたまた飲む・打つが豪快だったせいか、
いつのまにか(笑)
海軍少将に昇進し、アーネスト・キング大将という後ろ盾を得て、
キングの肝いりで
創設された航空部の司令官の座と中将への昇進を手に入れることになります。

とにかく、「ホーネット」のマケイン中将は、この海戦で退却する栗田艦隊に痛打を浴びせ、
その後38任務隊の司令であったマーク・ミッチャーを蹴落として(?)代わりに司令官となりました。


艦隊司令としての彼の仕事はほとんどが「神風との戦い」に尽きました。
「フランクリン」「ベローウッド」「レキシントン」をことごとく特攻隊にやられ、
マケインはいかにこの恐ろしい攻撃を回避すべく作戦の陣頭指揮を取り、ある程度それは功を奏したのですが、
同じ「神風」でも、前半でもお話しした「自然の神風」には敗北を喫することになったのでした。

海戦終了して司令官になったばかりの第36任務隊は、沖縄海域で「コブラ」という名の台風に遭遇しますが、
あの「レッドブル」こと猛将ウィリアム・ハルゼー提督

「台風を避けずに中を突破する!」

と力強く言い切ったのに対し、マケインはもみ手をしながら(かどうかは知りませんが)

「そうです!台風何するものぞ!さすがはハルゼー閣下!あんたは大将!」

(といったかどうかは知りませんが)追認してしまったのが運の尽き。
案の定艦隊は大自然の威力には到底太刀打ちできず、駆逐艦3隻がこれにより沈没してしまいます。
国民に人気があったので更迭とまではいきませんでしたが、この責任を問われて
ハルゼーはスプルーアンスと交代、我らがマケインはもう一度ミッチャーと交代して
38任務隊司令から元の第1群司令に格下げとなりました(T_T)

しかしハルゼーとマケインコンビの不幸はこれに止まらなかったのです。

沖縄戦が始まった時、またしてもハルゼーはスプルーアンスと、マケインはミッチャーと
交代しており(このあたりの人事が全く理解不可能なのはわたしだけでしょうか)、
艦隊の指揮を執ったのですが、この二人が組むとなにかネガティブなものを引き寄せるのか、
(後者の名前のせいだ、と思うのはわたしが日本人だからでしょうか)
第38艦隊の進路に再び大型の台風が接近していることがわかりました。

さあ、今回はどうする、ハルゼーとマケイン!

「台風の只中を突破するっていうのも今考えたら無茶だったな」
「そうですよ閣下。今回は進路を予想した上でちゃんと避けないとですね」
「・・・きさまあ、何を上から目線で言ってやがるんだ!
前回俺の意見に全面的に賛同してたのはどこのどいつだこのマザー◯ァッカー野郎」
「伏字で罵らないでくださいよ~。今はそんなこと言っている場合じゃないでしょ」
「うむ、そうだな・・・・で台風の進路はどうなっとる」
「ここがこうでこうくるはずですから、この際台風の南にまわり込みましょう!」

というような会話ののち(かどうかは知りませんが)二人が予測した台風の進路は
大外れ。

きいさまああ!全くハズレやのうて大当たり、台風直撃やないかい!」
「閣下!落ち着いてください!今はそれどころでは」
「きさまがこの責任を取って今すぐ台風から抜け出せ!
たった今から戦術指揮をきさまに全て移譲する!」

「ひええええ」

という会話の後(かどうかは知りませんが)マケインはハルゼーに変わって艦隊指揮をとり、
なんとか台風から抜け出したのですが、被害は甚大でした。
・・・・・それが、前半でお話しした「ホーネット」の甲板破損、「ベニントン」も同じく大破、
重巡「ピッツバーグ」は艦首をもぎ取られて漂流という災難だったのです。

この「ハルゼー・マケインコンビ」は今度こそ厳しく訴追されました。
ハルゼーはまたも国民の人気を理由になんとか首の皮一枚つながったようなものですが、
マケインの方は後ろ盾だったキング大将からも見捨てられ、更迭の通知を受けます。

その時には病に侵され体重が45キロになるなど憔悴しきって、帰国したらすぐに退役しようと
決意していたマケイン中将は、「最後の花道」として戦艦「ミズーリ」艦上の
日本の降伏文書調印式に参列し、帰国と同時にこの世を去りました。

この参列はハルゼーの好意(か罪滅ぼしかは知りませんが)により実現したと言われています。

合掌。



艦橋の指揮所窓からは、かつて軍港でありここから「ホーネット」が出撃した
アラメダの港湾地域が一望に広がっています。
向こうにうっすらと見えているのが、このときわたしが車でここに来る時渡ってきた
サンマテオブリッジという連絡橋で、方角でいうと南になります。

かつてマリアナ海で「七面鳥撃ち」をした航空機や本土空襲に向かう飛行機の発着はじめ、
坊ノ岬沖での「大和」の沈みゆく姿、初めて月着陸を果たした人類を乗せたカプセル、
そしてマケイン中将を苦しめた二度の「神風」・・・・・・・。


いたるところにひびの入ったガラスは、それら全ての出来事を、この艦橋に映してきたのです。



続く。

 

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「レーダーピケット艦」~空母「ホーネット」艦橋ツァー

2015-05-25 | 軍艦

航空母艦「ホーネット」の第二次世界大戦中にどんな戦歴を残したのか、
あまり認識してこの博物館に行ったというわけではなかったのですが、
前項でお見せした対日戦の成績をわざわざ巨大なボードに仕立てた力作を見て、
あらためてこの空母の恐るべき実績と、日本人が持たずにはいられない一種の感慨を 
同時に感じ取ったエリス中尉でございます。

アイランドツァーの解説員は元海軍軍人で「ホーネット」 の乗員だったという
「特別」感を漂わせる人物でしたが、この解説員がせいぜい70歳くらいで、
少なくとも「マリアナの七面鳥撃ちのときのことだが」などと言い出しそうにないのは
わたしたちにとってラッキーなことだったのかもしれません。




どこの区画も、丸くくり抜かれた舷窓以外はスピーカーと計器の類、
そして何十本単位でまとめられているコードが壁を張っています。

 


プラスチックの壁のようなところに書かれた駆逐艦らしい艦名。
調べてみたのですが、

オブライエン(DD-725)、
アルフレッド・A・カニンガム(DD-752)
ウォーク(DD-723)
フランク・E・エヴァンズ(DD-754)

これらはいずれも第二次世界大戦中の駆逐艦の名前です。

「チェリーツリー」「ビッグ・リーグ」「ストロー・ボス」 

駆逐艦にこういったあだ名をつけるのは洋の東西を問わずやっていたようですが、
日本人の我々にはいかなるイメージからつけられたかの見当さえつきません。

「フラッグオフィサーのコマンドをアナウンスするシステム」

と円形のマイク?の上に書いてあります。
フラッグオフィサー、すなわち海軍将官が発令する専用の放送システムであると。


各送信スイッチには

「パイロットハウス&オープンブリッジ」
「メインコマンダーステーション」「ソナーコンテナ」

などの部署名が書かれています。 

 

これを見た頃には大して興味を持たなかった艦隊配置図、
その後連合艦隊についてかなり勉強することになったので、
この度あらためてこれをじっくり見てみることにしました。



「ホーネット」は旗艦です。
皆が汚い手で「ホーネット」のところを指差すもので、そこだけ黒ずんでいます(笑)


「ホーネット」の左前方を、


「ベニントン」(CV20)

という空母がまず固めています。
先代の「ホーネット」CV-8はヨークタウン級の正規空母でしたが、建造中の
「キアサージ」を急遽日本軍に沈められた後釜に据えるという決定を認め、
この「ホーネット」は旗艦であっても正規空母の中でも短船体型の空母です。

「ベニントン」については先日その生涯について詳しく語ったばかりですね。
そして、

「サン・ジャシント」(CVL-30)「ベローウッド」(CVL-24)

という2隻の軽空母と共に旗艦の周りをぐるりと囲むように配置されています。
「サン・ジャシント」には若き日のパパブッシュ、ジョージ・W・ブッシュ
艦載雷撃機のアベンジャーのパイロットであったときに機が被弾してパラシュート降下し、
九死に一生を得たということがありました。

このときも一人のパイロットを救うため、アメリカ軍は航空機によって彼の着水位置を確認、
それを潜水艦に打電して現場に急行させる間、周りの日本艦船を銃撃で追い払い、
大変な努力を払っています。




艦隊の一番外には駆逐艦ばかりが16隻、まるで時計の文字盤のようにきっちりと
縁を形作るように配置されており、円の最前端と最後尾には

「ブラッシュ」(DD-715)と「コラハン」(DD-658)

が固めています。
円の中ほどには

「ミズーリ」(BB-63)「インディアナ」(BB-58)『ニュージャージー」(BB-62)
「マサチューセッツ」(BB-59)「ウィスコンシン」(BB-64)

などの戦艦が配され、その間を埋めるように

「ボルチモア」(CA-68)「ピッツバーグ」(CA-22)『インディアナポリス」(CA-35)


などの重巡洋艦群、そしてさらに

「マイアミ」(CL-83) 「ヴィックスバーグ」(CL-83)


などの軽巡洋艦が配置されます。



 
ここまでは十分素人にも理解するに易い構成だったのですが、
上の図で言うところの円の外側をごらんください。

「レーダーピケット」「50マイル外」

これらは米海軍が定めた

「レーダーピケット艦」

の役割を担っている駆逐艦です。

レーダーは第二次世界大戦中に急速に発達しました。
大戦終盤、日本の「神風特別攻撃隊」などの特攻攻撃が行われるようになってから、
米海軍機動部隊は駆逐艦などの自衛能力に優れた小型戦闘艦に大型レーダーを搭載し、
「レーダーピケット艦」として早期航空警戒と迎撃戦闘
隊の誘導に使用しました。

この配置図に「50マイル外」と書かれているように、レーダーピケット艦は
機動部隊本隊から遠く航行し、敵空母艦隊
が存在すると予想される方向に展開します。
ここでレーダーによる情報収集を行い、敵の攻撃隊を探知し次第、
味方機動部隊本隊にその情報を送信する役目を行います。

この情報を受け、艦隊旗艦は迎撃戦闘機隊に迎撃を命じ、
必要に応じて追加の戦闘機を発進させるなどの指令を下します。

もし、戦闘機による迎撃をくぐり抜けた敵の攻撃隊があったら、空母を護衛する艦艇が対空射撃を行い、
さらにその対空射撃を突破した敵航空機には空母自身による対空射撃が待っているという次第。

アメリカ海軍はレーダーピケット艦を駆使した

「戦闘機による迎撃」「護衛艦の対空射撃」「空母の対空射撃」

といった三段構えのシステムで敵攻撃機を迎撃していたのです。

「ホーネット」を旗艦とする艦隊の作る巨大な円の四方外に配置された駆逐艦4隻、

「カッシング」(DD-550)、「マッドックス」(DD-73)、 
「シュローダー」(DD-50)、「フランクス」(DD-554)、

これらのレーダーピケット艦に指名されたフネはいずれも精鋭艦だったはずで、
というのは このレーダーピケット艦は敵を長距離から感知できるだけあって、
敵からも感知され、攻撃されやすい艦位であったからです。


そこでアメリカ海軍は第二次世界大戦直前に、レーダーピケットの役割を
駆逐艦ではなく潜水艦に負わせることにしました。
潜水艦ならとりあえず潜行することによって駆逐艦より生存率は上がります。

しかし、この図面によると、艦隊のレーダーピケットは従来通り駆逐艦が行っているわけで、
はて、どうしてだろう?従前の艦隊配置図ってことかな?


「レーダーピケット」を艦船に役目を負わす戦法は、原子力潜水艦が運用されるようになった
1959年を最後に完全に不要のものとなり、廃止されました。
性能が向上したレーダーによって探知距離も増大し、わざわざ専用の艦艇を先行させなくても
敵の攻撃に対応できるようになった
 ためです。




そしてこちらが現代の艦隊の配置図となります。

空母が中心であることは同じですが、ずっとコンパクトな構成となっています。
昔と大きく違うのは、E-2Cホークアイ(あのお皿を背負った飛行機)などを早期警戒機として
飛ばすようになったことです。 

図の上には

「空母戦隊の指令は空母に座乗しているリア・アドミラル(少将)によって下される」

と書いてあります。
補給艦、給油艦、ammui
ition shipという、弾薬を補給する船までいますね。



艦船の機能が大きく変わり、艦隊戦の考え方も変遷してくると、

こういう戦略も当然のように変わってくるわけですが、
日本にはこういうことを”
学問”として一般人が学ぶことのできる機関が全くないらしいですね。

軍事学の範疇となるわけですが、軍事学は実質防衛大学ぐらいでしか学べないようです。
インテリゲンチャとは軍事に無知であるべき、というのが戦前からの傾向でもあったわが国では、
これも極めて当然のことに思われます。

しかし軍事学は戦術学などだけではなく、
防衛や安全保障という一面を持つものなのですから、
他国のように一般教養として
軍事学を(なんなら”軍”を使わない別の名前で)
学べるようになっていくべきである、
とわたしなど思ったりもしますが・・・。

まあ当分わが国では、夢のまた夢みたいな話でしょうね。






続く。



 

 

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防衛団体懇親会に出席

2015-05-24 | 自衛隊

決して脳内組織ではない防衛団体、「地球防衛協会」(仮名)某地方支部顧問、
という肩書きを持っているわたしですが、つい最近それに

「水交会会員」「海軍兵学校76期会会員」

というあらたな肩書きが加わりました。
その経緯については、近々兵学校76期会の参加記の続き(まだ終わってないのよ)
でご報告するつもりですが、実はそれ以外にも元陸幕長が会長をしている防衛団体、

国某協会(仮名)

と、本日懇親会に参加してきた、

GO!友会(仮名)

にもいつのまにか名前を連ねているのでした。 
GO!友会の参加は、地球防衛協会の副会長がこの会の地方会長を務めていて、

「東京で統幕長や政治家の先生などと懇親会があるから行きませんか」

とお誘いをいただいたため、自動的に会員になることも決まったのです。
どの会もわたしが会員になったからって、そこで何ができるというものではありませんが、

一人でも国防についての問題意識を共有する会員が増えたということに意味が有るわけで。

わたしの場合はこっそりとではありますが、こうやってブログで広報活動をし、
世間への周知を図るという「使命」もありますしね(笑)




懇親会は会合(決算報告、活動報告など)のあと、防衛省御用達の

市ヶ谷グランドヒルホテルで行われます。
ちょうど防衛省の正門前の信号ですが、これを右に曲がったところ。
防衛省御用達ということは、自衛隊関係、防衛団体の会合や、たとえば自衛隊員の結婚披露宴なども
ここで行われるということです。



お誘いくださったFさんとは会場前ロビーで待ち合わせ。

Fさんが招集した「GO!友会地方支部」は、わたしを入れて3人で、そのいずれもが
地方支部に名前を連ねていながら関東圏に在住という「なんちゃって県人」ばかり。

しかもそのうち二人は女性で、Fさんは皆に

「◯◯地方支部は美人を選りすぐってきたんですか」

などと”お約束”で突っ込まれてご満悦です。



招待されている政治家たちの花付き名札。
この、偉い人の名札にブーケを飾るというのはおそらく世界でも
日本国だけの現象ではないかと思うのですが、どうでしょう。

小池百合子、長島昭久(保守だけど議員になりやすいからと民主に入った人)
など、防衛政務にかかわる議員の名前が見えます。



ここでびっくりしてしまったのが、防衛大臣の左隣にあるリボン。

小西洋之〜〜〜〜?!

国会で憲法クイズをして安倍首相を苛立たせ、そのことを名前を出さずに批判した
新聞社をなんと訴えるという、ほとんど恫喝、脅迫に抵触すれすれをやらかした「クイズ王小西」がここへ?
(一般女性を訴えるとか恫喝した前科ことがあるらしいので表現控えめ)


「なんでこんなのを呼ぶんでしょうかね」

となんちゃって県人の女性の方にいうと、

「民主党の外交防衛の委員かなんかじゃないんですか」

今ご本人のHPを見ても、どうも該当するそれらしい肩書きがないのですが。
しかし、支援している政治家が保守系で、自衛隊の支援団体であるこのGO!友会に、
しかも昨今、一般には全く無名ではあるけど、ネットでは反日とまで言われる反安倍派の有名人、
「あの」小西議員が来るなんてことがあるのだろうか?


もし来るとすれば、去年の練習艦隊艦上レセプションに、のうのうと(と見えた)
現れた白真勲議員のように、思いっきり一般人から白い目を向けられるのも覚悟の上で?

どちらにしてもオラわくわくすっぞ。



これが懇親会会場でございます。

すでにあちこちでは名刺の交換などが始まっていました。



GO!友会会長のご挨拶。
この日、とても名前が覚えきれないほどの名刺交換をしましたが、会の上層部には
元自衛官が就任しているらしいこともわかりました。

その中のお一人が「わたしは昔陸自のパイロットで」とふともらしたのが100年目。(彼にとって)

「固定翼ですか?回転翼ですか」

早速目を輝かせて質問するわたし。

「回転翼です」

「ど、どんな機種を・・・」

「いろいろ乗りましたが・・・OH-1とか」

「おおおOH-1ですかっ!宙返りとかされましたか」

・・・・・中学生かあんたは。


「ああ、宙返り、あれはすごく難しいんですよ。
回転しようと思ったら(ここ忘れた)しなくてはいけなくて、
ヘリは失敗したらもうおしまいですから簡単に挑戦なんかできません」

ということは・・YouTubeで見る宙返りは、よほど熟練の上級者しかできないのかしら。
そう聞くと一層、一度はこの目で見てみたいものです。



続いて水交会会長の挨拶。
水交会といえばこのわずか3日前に練習艦隊壮行会でご挨拶されたのを聞いたばかり、
と思う間も無く、

「2日前に練習艦隊を見送りましたが、今年の練習艦隊はマゼラン海峡を通過します」


という話が・・。
まわりは口々に、ほお、マゼラン海峡、などと反応しています。
やはり自衛隊に関連の深い人ばかりが集まっているこの会合で、
このことは興味深いニュースとして受け止められたように見受けました。

2013年の10月には中国海軍が初めてここを通過したというニュースがありましたが、
当時海上の風速は20.8-28.4m/s、波高は4-6メートル、艦艇の揺れは10度以上に達したそうで、
海峡に入った後も風速は8.0-13.8m/s、平均波高は3メートルだったとのこと。

航行の安全を確保するため、全将兵は指揮官を務める南海艦隊副参謀長の指揮の下、
真剣に研究し、入念に準備し、精確に操作し、狭い水路の航行、霧の中の航行、
強い波風の中の航行の手はずを厳格に整え、いかなる過ちも犯さず、順調に海峡を通過した。”

ということですが、やっぱり大変なところなんですね。
しかし我が日本国自衛隊の練習艦隊もそれ以上に入念な準備と訓練で臨んでいることでしょう。




会が始まって国会議員の先生方が到着し始めました。
なんとわたしの真横で到着のご挨拶をされているのは・・・?

そう、髭の隊長こと佐藤正久議員でした。



「1分以内でご挨拶を」


と政治家に対して無茶な注文をつける運営(笑)
最初の若い自民党議員(お名前失念しましたorz)も1分ではすみませんでしたが、
佐藤正久議員も3分くらいにはなったのではないかと思います。
政治家には1分と言っておけば3分くらいで納めるだろうという意図だったのかも。



こちらも自衛官出身議員、宇都隆史議員。

後でご挨拶に行き、結構長時間お話もさせていただきましたが、
そのことについてはまた別の日に。



「30年前にここで結婚式を挙げたのを思い出します」


と言うことはこの議員も自衛隊出身?
と思ったのですが
ちなみに、元自衛官の現役国会議員は、防衛大臣の中谷元議員、佐藤、宇土議員以外は

中谷真一・自民党・元陸自第一空挺団

だけだったので、多分違うと思います。
しかし、もう少しいてもいいですよね、自衛官出身議員。




壇上の自民党議員を撮るふりしてこっそり佐藤議員を撮りました。
近くで他の会員の方とお話ししている様子は、あの独特な喋り方といい、
国会中継で見るそのまま。(当たり前ですが)



そこにやってきた河野(かわの)統幕長。
去年海幕長から統幕長になられ、ますます貫禄が増しておられます。



乾杯の発声は統幕長。
またしても佐藤議員の後ろ姿をフレームに入れて写真を撮るわたし(笑)



国会議員の先生方は到着したらその都度壇上で一言ご挨拶。

この女性議員は・・・・お名前失念しました。



おそらくですが自民党の秋元司議員。
つまり壇上に立って挨拶をしたのは全員自民党議員だったのですが、

全員が集団的自衛権の「積極的平和主義」という言葉を盛り込み、自主憲法の成立につなげる
意欲を語り、皆様方のご支援をお願いしたい、と結びました。

「共産党と社民党は戦争法案などと言いますが、我々は平和法案だと思っております」



もしここに小西先生がいたらどう反応したのか、ぜひそれを観察するべく、
わたしはこころから先生の出席をお待ち申し上げていたのですが、どうやら
民主党の長島議員共々来られなかったようで、大変残念です。

小西先生の心臓には白先生ほど毛が生えていなかったということでございましょうか。



同じテーブルを囲んでいたこのエトロのネクタイの紳士も元自衛隊員。

GO!友会の顧問でいらっしゃいます。
一応わたしも同じ肩書きを持っているのですが、それはともかく、この方は、
若き日になんとあの三島事件の時に現場におられ、刀で切られて病院に運ばれたという
歴史の生きた目撃者であります。

あまり詳しくお話しできませんでしたが、何人かが斬られたのに
自分が一番傷か深かったようなことをおっしゃっていました。

そういえば、三島由紀夫は

「マッカーサーのサーベルの下で作られた憲法下、日本人が民主主義の美名のもとに
物質の繁栄とは裏腹に精神を荒廃させていることへの警告と、その社会に亀裂を入れるための楔」

としてあの行動を起こしたのでした。
本日出席の議員たちが全員改憲を口にしたことと、この人物を目の当たりにしたことが、
わたしにとって何か不思議な符号のようにも思えました。



本日の出席者は水交会の実習幹部たちとは違い、運ばれてくるものを瞬く間に食い尽くすような

そんな旺盛な食欲を持ち合わせていないので、テーブルの上はいつも賑やかでした。
食べるよりも話をする方に皆が忙しかったせいもあります。



佐藤議員は途中で退席してしまったらしく、ご挨拶できずじまいでした。
宇土議員は議員の皆さんがほぼ全員途中で退席する中、最後まで
話しかける人々と熱心に会話をしており、おそらくほとんど食事をしていないと思われました。



このあと地方支部会長が河野統幕長のところに連れて行ってくれ、
写真を一緒に撮っていただきました。

「ふゆづきの就役のときにもご挨拶させていただきました」

というと、

「そうでしたね。あのときは大変な雨で」

と即座におっしゃるので、ちょっと驚きました。
海幕長時代からそれこそ新鋭艦の就役には何度となく立ち会ってこられたのに、
艦名をきいただけでそのときの天候がすらりと出てくるなんて・・。
やっぱり自衛隊という組織の頂点である海将になられるような方は違う、
とこんなところでも思った次第です。

違うといえば、この日はわたしの所属する国某協会の会長であるもと陸将とも
久しぶりにお会いしてお話しをさせていただきました。



元陸将とも撮れ、と地方会長がいうので一枚。
(だいたいわたしはあまり自分の写真を撮らないので言われるまでこういうことをしません)



何を言っていたか忘れたけど、熱い。見るからに熱い元陸将である。
えー、ちなみにこの人が「初弾は0800だ」(過去エントリ)の方です。念のため。

元陸将は中国政経懇談会という会の会長ですが、曰く

「これで戦争をやってます」

日本と中国に今後も友好はあり得ない、付き合っていくしかないが融和はないと言い切り、
それを政経懇談会では中国側に向かってはっきりと言い放ったそうです。

おお、言ってやれ言ってやれ。じゃなくて言ってやってください。お願いします。

というか、こんなことを面と向かって言い放つ人物に対してはさすがの中国も

ハニーもマニーも全く意味をなさないと思い知ったでしょう。


この日、ある議員が、

「我々は情報戦争の最前線で戦っているところです」

とスピーチしたように、銃火を交えるだけが戦争ではないのです。
匕首を突きつけあいながら片方の手で握手する、というのが現実世界の外交であり、
その情報戦において、例えば昨今の軍艦島ユネスコ遺産登録についても

「戦っている最中です」

なのだそうです。



豪遊会会長最後の挨拶。



最後に万歳三唱。
右は河野統幕長です。

つまりこの防衛団体は、武力での備えである自衛隊と、そして、
情報戦、外交戦での尖兵である国会議員や元陸幕長のような人々を、
民間の立場で支援し後押しをする後方部隊、ということになりましょうか。



ホテルの前に駐車していたのは、あの有名な播磨屋おかきの新作街宣トラック!
噂は聞いていたけどこの日初めて見ました。
店主によると、今の自衛隊には戦うための大義が与えられていない、
ゆえに軍隊になどなりようがないということで、安倍晋三は木偶の坊なのだそうです。
安倍首相でこうなら、民主党政権の時はどんなトラック走らせていたのか興味あるなあ。

まあ、どこかで三島由紀夫の思想にもつながる部分があるのかもしれないけど、
「皇太子奉じ王道クーデター」・・・・
皇太子殿下御自身はおそらく奉じられたくないと思われると思うがどうか。


今日一番のインパクトは実はこのトラックでした(笑)



終わり。 

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2015静岡ホビーショー〜「模索する型(かたち)」

2015-05-22 | 博物館・資料館・テーマパーク


コメント欄でも少し話の出た「龍田」のパッケージです。
雷蔵さんのコメントで特にこの絵がいい、と言っていただいてまさに我が意を得たりでした。
篠突く雨の中、白波を蹴って進む「龍田」の艦尾には、軍艦旗が雨にもかかわらず翩翻と翻って。
雷蔵さんもおっしゃってましたが、これ探照灯を照射しているところなんですよね。

わたしも会場でこの絵を見たとき、つい立ち止まってどんな人が描いているのか聞いたくらいです。
なんでもまだ30代の画家だそうで、デジタルで描かれたものだとのこと。
今はほとんどがデジタルアートですが、未だに紙に筆と絵の具で描く人もいるそうですよ。

アメリカの「ホーネット」艦内の博物館には、そういえば「ハセガワ」の模型の箱絵を
そのまま額に入れて展示してあったわけですが(HAS"A"GAWAとなっていたのはご愛嬌)
模型の箱絵は昔から芸術作品みたいな格調の高い絵が選ばれていたんですね。

先日のコメント欄で話題になった「遼寧をやっつけているひゅうが」ですが、
改めて検索したところ、わざわざやっつけられているところに丸をつけた図をあげて

「日本の模型会社がこんな絵を描いて我が国をバカにしているアル!」

と怒りまくっている(らしい)サイトもでてきました。
悔しかったら自分たちで「遼寧」の模型作って仕返しでもすれば〜? 



さて、ハセガワさんの展示はこれでおしまい。
模型業界ではツートップのひとつタミヤのコーナー。



「お菓子の家」ジンジャーブレッドハウスをつくるキット。
登場人物はジンジャーブレッドマンです。
あれは本物のクッキーで作るからいいのであって(以下略)



あれ?これタミヤだったっけ。
もっといろいろあったような気がするんだけど写真がない(−_−;)

この戦車はリモコンで動かすタイプで、坂とか砂利道、レンガも超えてしまう(はず)



会社の人が実演していた空飛ぶ円盤。
そういえば東京ミッドタウンの広場で、ある運動靴メーカーが
こんな円盤をプイーンと飛ばして、高いところに置いてある靴をとってくる、
というパフォーマンスをしていました。
商品そのものよりもその円盤に皆は注目していましたがこれだったのでしょうか。

操作していた人に聞いたところ、だいたい1時間もあれば誰でも動かせるとのことでした。



おお!懐かしい〜!俺これ乗ってたんだよ!

という方はおられませんか?
トヨタのトレノというのが、走り屋さんが乗るというイメージを持っていたのも、
昔これに乗っていた自称走り屋さんを知っていたからですが、
なんとこの日会場をご案内くださったFさんも、かつては乗っておられたとか。

頭文字(イニシャル)Dに使われていたからには本当だったんですね。走り屋専用。



さて、というあたりでお昼となったため、お弁当を購入してFさんに関係者が休憩する
上のフロアに連れて行っていただき食べることにしました。
テーブルとかはなく、ソファに座って皆膝の上にお弁当を乗せて黙々と食べていました。

横のスペースでは模型雑誌数社のカメラマンが、模型の撮影中。
下の展示場から借りてきては撮り、戻しては次のを取ってきて、とやるそうです。

「模型を撮影している時展示はどうなるんですか」

「ちゃんとそれをお断りする札をウチでは作って置いています」



お弁当を食べた上階から見た会場。
普通の客はもちろん、業者でも見ることのない光景です。



業者日ではありますが、ちょくちょくわたしのように招待された一般人らしい人も。



お昼を食べてからはわたし一人で会場を見て歩きました。
真っ先に目に付いたのが、航空自衛隊の航空祭という設定の模型。
ジオラマに航空模型を組み合わせるとなると航空祭はピッタリです。
それにしても駐機展示の顔ぶれがが異様に豪華な航空祭・・・。

F-2、ファントム、イーグルに・・もしかしてラプちゃんもいますか?


これはタカラトミーの「技ミックス」シリーズ。
先日ハーロック三世さんがフネの技ミックスを教えてくれましたが、
これはその飛行機バージョンです。



滑走路を飛び立っているのはT-4という設定?
そして、日の丸をつけたV-22オスプレイが!

と、このオスプレイがプロペラを回しているあたりが「技ミックス」なんですね。
このシリーズは、


「今からでも楽しめるプラモデル」

がキャッチフレーズで、彩色作業を省いてその分「ギミック」、
たとえばプロペラを回転させたりアフターバーナーを再現したり、
なんとジェット発進ユニットを付ければ実際に旋回飛行するという・・。
そうやって集めた飛行機を飾るステージとして「基地ストラクチャー」として
このような航空基地のリアルな建物や観客なども用意しているのです。

「ギミック」を楽しみたい人向けに、工程を一つ省略してくれてるんですね。
しかしこんな手取り足取りのメーカーの誘導にもかかわらず、
5年間作業が進まないという人も、世の中にはいらっしゃると聞きます。



どこのメーカーかは写真を撮らなかったのでわかりませんが、
この紫電改の箱絵は誠に失礼ながら少し大雑把なような(以下略)



ここに来るなり、なんだかウッディでほのぼのとした飛騨高山の民家が現れ、
そういえば小さい時うちにはこんな水車小屋の形をしていて屋根を開けると音がなる
オルゴール(曲は峠のわが家)があったなあと思い出しました。



石臼が中にあって、横に小川が流れている光景。
ジオラマ好きのわたしがつい熱心に見ていると、

「今日はどこから来られたんですか」

とこのブースの社員さん(年配の男性)が話しかけてきて、説明してくれました。



この会社は一切プラスチックを使わず、木と金属だけの模型を扱っています。
雷門に銀閣寺。



国宝姫路城は圧巻です。
お値段はこれが5万8千円となっていますが、ここの商品は小さいものでも2万円から。



五重塔。



五重塔は一段ごとに取り外せるので、その状態で手に取れるように展示しています。
欄干の木の細工なんか緻密ですごいですね。

「レーザーカットの技術ができてからこういう細工ができるようになりました。
やはりそれまでの模型はこういうところは荒かったですね」



ここの主力はお城などの建物と帆船です。
慶長時代に遣欧使節を乗せていった「サン・ファン・バウティスタ」号。

「このネットみたいな縄ばしごは一体どうやって作るんですか?」

「一本ずつ糸を撚っていって作ります」

東郷平八郎のフィギュアくらいでビビっている場合ではありません。
気の遠くなりそうな細かい作業です。



石巻にはこの帆船が繋留展示されているそうです。
津波がやってきた時、このサン・ファン・バウティスタは浮き上がり、
周りのものにぶつかったものの決定的な被害には至らなかったので再建されました。



カティサーク。
昔うちにカティサークの小さな模型がありましたが、遊んでいるうちに潰してしまいました。
そのときについていた帆は茶色くて羊皮紙みたいにみえたのですが、そのことをいうと

「それは羊皮紙に見せた紙だったんじゃないでしょうかね。
うちのは布を糊で固めて作っています」



ボトルシップもあります。
こんなものどうやって作るんだろうと兼ねてから不思議だったのですが、

「折りたたんである材料を中で形にするだけです」

ちなみにこの方は、

「私はボトルシップは好きではありません」


だそうです。



時間と飾る場所と根気があれば、これ作ってみたい。
というか、もっと本音を言えばできたものが欲しい。
東京駅の模型は後ろから明かりを照らすことができます。

ところでボトルシップの写真のボトルの後ろにあるのがこの東京駅の壁素材。



なんと、これ裏に薄い布を張った木なんだそうです。
これもレーザーカッターで切れ込みが入ったものがあらかじめセットされているので
それを組んでいけばいいという話なんですが、たとえこの細工をせずにすんだとしても
木のじゃなくて気の遠くなるような作業を繰り返さないとこんな大物はできません。

この会社の模型に「お客さんが作った」という展示物がありました。

「いくつもうちのを作ってくれる人なんですが、飾ってくれと言って持ち込んで来られるんです」

こんなものを作ったらそりゃ一人で眺めていないで多くの人に見てもらいたいでしょう。
昔、阪急京都線の京都行き特急ロマンスシートに乗ったとき、隣に座ったじいちゃんが
いきなりアルバムを出して、こういう模型の写真を次々と見せてきたことがあります。

こういうときに決して嫌と言えないわたしは、30分の間、
ずっとその写真のお城を作るのにいかに大変だったかという苦労談に
付き合わされ、相槌を打つはめになったのですが、あのじいちゃんもきっと、
せっかくの大作を隙あらば?誰かに見てもらうつもりで、いつでも
アルバムを持ち歩いていたのに違いありません。



この木の模型店ではお店の人が気合を入れてつきっきりで説明してくれたため、
異常なくらい長居するはめになって、あとはほとんど駆け足でした。

ここは宮崎アニメに登場するものをプラモにしている会社。



「紅の豚」は気合いが入っていて、登場する水上機にカーチスのフィギュア。
ジーナさんのフィギュアもあります。



こちらも宮崎アニメですが、これは以前ご紹介した紙を積んでいってつくるタイプ。
たとえばトトロだったら、輪切りにした丸い紙を一枚ずつ重ねていくのです。
これならわたしも作れそう。
本格派モデラーの人には、何がそんなの面白いんだ、って言われそうですが。



ガンダムシリーズは大きなコーナー一角全部を占めていました。




模型の世界の奥の深さをつくづく思い知ったコーナー。

これ、「エンジンの模型」なんですよ。
奇しくも模型会社の人から「わたしたちが再現するのは外側だけ」という至言を聞いたばかりですが、
この会社はその「内部」の模型に興味のある人もいるよね?と商品展開しているのです。

飛行機や船、お城や帆船やトトロやジオラマ、何れにしても興味のない人には意味がなく
興味のある人にはたまらない惹きつける魅力を持っているものですが、
世の中には「エンジン」にそれを見いだす人がいるってことなんです。




模型、というものは人類の「興味」のあらゆる可能性や方向性を「模索する型」ではないのか?

つい自分で誰がうまいこといえと、と思ってしまったわたしです。

タミヤのお土産コーナーでウケた静岡ホビーショー限定品。
こんな人、いるよね(笑)



終わり。



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平成27年度「練習艦隊壮行会」

2015-05-21 | 自衛隊

去年、平成26年度の海上自衛隊練習艦隊を晴海埠頭に見送り、
そして再び半年後に帰国してきた彼らを出迎えました。
艦上で行われたレセプションにも参加し、若い実習候補生の
覇気あふれる姿に接して心から頼もしく思ったばかりでなく、
南方で収集された旧軍将兵たちのご遺骨を、日本の埠頭に迎える光栄に浴したものです。

さて、本年度は、練習艦隊を見送る壮行会に参加してきました。

海上自衛隊の支援活動が大きな目的の一つである水交会では、旧軍の昔から
練習艦隊の出航に際して壮行会で彼らを励ます夕べを持つのが慣わしです。

というわけで当夜の様子をお伝えしていきますが、基本的に
候補生と自衛官の皆さんは写真の目隠しなしでアップしてあります。

 

さすがは海軍5分前の海上自衛隊。
時間ぴったりにアナウンスがあり、候補生が入場してきました。

入場とともに鳴り響いたのは「海をゆく」です。

海を守る わ~れ~ら~♪

というあの曲ですね。



水交会は広い宴会場などを持っていないのですが、この日ばかりは
ロビーを含めて全ての仕切りをぶち抜いて場所を確保してあります。

・・・・・が、初級幹部が入場してくる前ですら、立錐の余地もないといった感じ。
さらにそこにこうやって初級幹部が170人入ってくるわけです。
あんなところでどうやってパーティをするのだろうかと危ぶんでいましたが、
やっぱり大変な混雑になりました。 



わたしなどギリギリに行ったものですから、部屋の中に入ることができず、
廊下のところから彼らの入場を見ることになりました。

ちなみに前で拍手をしておられるのは元海幕長です。
この後後ろを振り向かれたので、ご挨拶をさせていただきました(笑)



行進してきたといっても奥に入れる場所など限られていますので、
この辺りの実習幹部は渋滞のため立ち止まってしまっていました。



なんとかかんとか皆がそれなりの場所に落ち着き、まずは
水交会の一番偉い人のご挨拶。

「年金生活の中からやりくりしたお金で皆さんのために催した夕べです。
どうか心して大いに飲み大いに食べ・・」

というセリフで会場はどっと受けました。

水交会側の出席者は4種類。
海上自衛隊、海軍、そして賛助会員と有志です。
海上自衛隊のOB、旧海軍出身者には年金生活者の世代が多いということですね。
わたしはもちろん「有志」という立場での出席で、名簿を見たところ女性の出席者は
ほとんどが「有志」となっていました。



廊下にあるドアの外で中を覗き込む場所に立っているので、
挨拶が行われているところは全く見えません。
というわけで、艦隊司令の挨拶は音声だけ聞こえてきましたが、
どの方が艦隊司令の中畑海将補なのかよくわからずじまいでした。

ただ、艦隊司令の、

「我々はやります!やってのけます!」

という力強いこれからの航海に対する決意表明は心に残るものでした。



この後、司令官始め、首席幕僚、群先任伍長、「かしま」「やまぎり」「しまゆき」の
各艦長と先任伍長始め、主要幹部の紹介が行われました。

狭いところにひしめき合っているので、名前を呼ばれた人はその場で
返事をして挙手、皆はそれに対して拍手という流れです。

わたしの立っていたところには実は偉い人たちが固まっていて、
この写真に見えているのは技本開発官、中央病院副院長、教育航空集団司令官だったりします。



法人賛助会委員の企業名も呼ばれました。
出版会社、艦船技術会社、ビール会社、生命保険会社、日立、三菱、IHI、
そして東郷会からも。

ちなみに名前を呼ばれて手をあげる時、自衛官は皆グーでした。

それがすんでから乾杯です。



人が移動しだしたのでようやく式次第の前まで来ることができました。



始まって数分でものの見事にこの状態である。
お寿司は一瞬にしてかき消えてしまった模様。



食べ盛りの皆さんがいちどきにテーブルを囲めば、
まるで吸引されているように食べ物は無くなっていくのだった。

若い人、しかも朝から規則正しく体を目一杯使っている人たちの食べっぷりは
見ていて気持ちがいいほどです。



会場の隅にはコック帽をかぶったシェフが三人ほどいて、カレーをサービス中。
このカレーは「海軍カレー」で、賛助会員の寄贈だそうです。
わたしはサラダとこのカレー一皿をいただいてこの日の夕食としました。



会場に人多すぎで負け出てしまった実習幹部か?と思ったら、

白い煙が立ち上っているので喫煙していると知りました。
水交会のロビーはタバコ好きの海軍さんが多いせいか喫煙可ですが、
今日は外でしかタバコを吸うことができないみたいです。

今時の若い男の人はあまり喫煙をしないというイメージがありましたが、
結構な数の初級幹部がタバコを吸っていました。



煙草飲みのおじさんたちと一緒に外で一服。

しかし、年配の方に声をかけられれば話し相手になるけれども、
実習幹部の方から会員に声をかけることはなく、仲間同士で固まって話している幹部が大方でした。

先日取り上げた映画「機動部隊」では士官候補生がアナポリスの教官の奥さんと
ダンスを踊ってお愛想の一つも言ったりしていましたが、そういう社交は
日本ではまず考えられません。(上官も奥さん連れてきてないしね)

これも先日取り上げた海軍兵学校67期の遠洋航海アルバムで、
候補生たちが壮行会のパーティで仲間同士集まっていたのを思い出し、
こんなところでも帝国海軍の伝統の継承を見る思いがしました(笑)




わたしは乾杯直後に近くにいた元海幕長が声をかけてきてくださったので

しばらく共通の知人のことなど話していましたが、息子のことを聞かれたので、ふと

「わたしとしては防衛医大なんかにいってくれると嬉しいんですが・・」

と漏らしたところ、即座に近くにいた防衛医大出身の海将を紹介しされてしまいました(−_−;)
いや、わたしはそう思っているのですが本人には全くその気はなくて・・・と言う間もなく、

「お住いの地域の地本に行けば受験の詳細がわかりますし、
もし連絡したら
自衛官が家まできて説明してくれますよ」

そ、そうなんですか・・・・(^◇^;)

このときにいただいた名刺を見ると中央病院の副院長。
前の防衛医大出海将も中央病院「副院長」だったし、そういうことに決まってでもいるのでしょうか。

この海将のお話がきっかけで愚息が防衛医大に行くなんてことになれば、
色々と美しいのになあ・・・。



一番右は呉でお会いした当時の幹部学校長。
その後今年になってからの人事で海将に昇進されました。
同時に下総の教育航空集団の司令官に赴任されたため、幹部学校から
ずっと一緒の学生もたくさんいるそうです。

驚いたのは、海将はP-3Cのパイロット出身なのですが、海将となった今でも
操縦を現役でするのだそうで、ご本人曰く

「やはり現場の空気にいつも触れていたいので」

ということでした。
誰でもそうなのかというとやはりそれはご本人の意向があるのだそうです。
そういった意向をちゃんと汲んでもらえるというのも海自ならではなのでしょうか。
しばらくお話をしたあと会場を回遊していたところ、海将がもう一度近づいてきて
この三人娘を紹介してくれました。

それぞれ艦艇志望と調達(だっけ)志望のお嬢さんたちです。
艦艇志望のコに

「末は女性艦長ですね」

というと、

「頑張ります!」

と元気に答えてくれました。頼もしいのう・・。
女性初の艦長だった東さんが初めて自衛官として初めて1佐になった感想を
お聞きすると、なんと彼女たちは知らなかったようで「そうだったんですか!」と・・・。

いや、自衛隊、特に初級幹部のころって「秘密の花園」みたいに外界の雑音が、
たとえ自衛隊内のことでも遮断されているらしいということがこの会話で垣間見えました。

さて、やはり若い女子なので「恋ばな」についても聞いてみますか。

「いません。仕事が恋人です」

「同期でいいなあと思う人いるでしょ?」

「えー・・それは」

「じゃ上官とか?」

「あ、それならいますねー」

そこでどういうきっかけだったかは忘れましたが、去年の艦隊副官、阿川大尉の話がでました。

艦娘A「わたしはお祖父さんの(阿川弘之の)本が好きなんですよ」

わたし「お父様(阿川尚之)も黎明期の自衛隊についての本を書かれてますよ」

艦娘A「知りませんでした。今度ぜひ読んでみます」

彼女と同世代でこんな話ができる女の子は今の日本に何人いるでしょうか(笑)

わたし「あの方素敵ですよね」

艦娘B「しゅっとしてますよね」

「しゅっとした」という表現はわたしが時々イケメンなどを表現するときに使うのですが、
彼女が普通に使っていたのでちょっと驚きました。



宴たけなわ。
元海軍のじいちゃんなども若い人に声をかけて楽しそう。



ここで廊下にある真珠湾攻撃の絵に気がつきました。
アメリカ海軍の軍人でフィリピン系アメリカ人のトロタ博士が寄贈したもの。
説明によるとトロタ博士は「稀に見る日本海軍の礼賛者である」ということで、
紹介したのは千早正隆千早正隆会員(戦後有名な海軍軍人ですね)だそうです。

この「礼賛」というのがどういう意味なのか興味ありますね。



うろうろしているうちに玄関まで来てしまいました。
ふと外を見ると、黒塗りの車の前に一人ずつベテラン海曹(運転手)が立って待っています。
いつ出てくるかわからない海将たちのために、パーティの間中ずっとこうやって待機しているのです。



初級幹部ではありませんが、胸の体力徽章に目を留めてお話を聞きました。
去年の実習幹部たちも何人かがこのバッジを胸につけていましたが、
体力テストであるレベル以上いくとその次の年はこれをつけることが許されます。
彼は「水泳でとった」とのことでした。

「そんなに速くないです。50m26秒ですから」

女子の日本記録くらいの線はいっているのでなかなかのものだと思います。

この後わたしはひとりでいた女子にも声をかけてお話を聞きました。

彼女は操縦、それも固定翼機志望であるとのこと。

「狭き門なのですが・・・」 

女性だから難しい、というより、男性でも女性でも操縦に必要な適性は同じなので、
やはり体力の劣る女性はその点で何かと不利になってくるのだそうです。
わたしは彼女を励ますつもりで、回転翼機のパイオニアであるジーン・ティンズリー
(このあいだ当ブログで取り上げた”ウィリーガール”です)のように、80歳でも
現役で飛んでいる女性がいるのだから、などと話したところ、彼女は目を丸くして

「そんなすごい人がいるんですか」

と言いました(が、これ、励ましになったかな?)

この彼女のようなチャレンジ精神のある女性がこれからどんどん増えていって、女性海将や
女性のパイロットも増えていくんでしょうね。

ぜひこの彼女にも頑張って欲しいと思います。 



このあたりで実習幹部代表の決意表明。
彼はクラスヘッドですかね。 




続いて元海幕長が締めの挨拶。

「えー、もらった給料30万円、東京で飲んだり食ったりして散財せず(皆笑)

ぜひ海外で交流を深め自分を高めるために使ってください」

・・・30万円って本当ですか。



ばんざーい。



そして練習幹部たちは退場となりました。
がっちり手を組み合う・・・向こうは統幕学校副校長で、海将補同士です。



おそらくこの方が練習艦隊司令官、中畑海将補。




おそらく艦長。



練習艦隊の退場は「軍艦」に乗って行われました。
「軍艦」が終わった時、ちょうど最後の一人が玄関を出て行き、
さすがは時間に正確な海上自衛隊、と感心しました。



懇親会で会話した水交会会員を見つけて握手をする実習幹部。



体力徽章の金バッジを持っている人がいますね。
さっきの人は水泳で取ったとのことですが、金バッジは
「体力」(走る飛ぶなどの基礎体力)「水泳」どちらも1級をとった印です。

「たいしたことない」と先ほどの自衛官は言いますが、体力検定1級は


腕立て伏せ制限時間2分82回以上

腹筋80回以上(制限時間2分)

3000m走10分38秒以内

走り幅跳び5m10以上

ソフトボール投げ60m以上

懸垂17回以上


というとんでもない規定をパスしなければなりません。
体力自慢の多い自衛隊でもめったに金色がいないのも当然です。
しかも、1年後の検定で基準値に達しなければバッジは召し上げです。



海自には珍しくものすごく大きな人。

船や潜水艦に乗るのにあまりに大きいと大変だから、大きな人は陸に行くようなイメージがありましたが。

ところで、さきほど自衛隊のHPで「あなたの適性を知る」というのをやってみたら、
わたしは「空自」職種は気象・航空管制、なぜか警備という答えが出ましたorz



ところで、水交会の会長は挨拶の中で

「今年の練習艦隊はマゼラン海峡に挑む」

ということに触れたのでそのことを初めて知りました。

マゼラン海峡は南北アメリカをつなぐあたりにある海峡で(適当)
その発見者のマゼランの名前が冠されています。

マゼラン海峡

マゼランは初の世界周航者として、歴史に名を残しながらその一生は不遇でした。
功績を横取りされ、一家はその後断絶、そして本人も非業の最期を遂げています、

なにより自分の名を冠したマゼラン海峡が、あまりにも危険な場所ゆえに、
後の世にうとまれ、無用のものとされ、パナマ運河が開通するとともに忘れ去られてしまいました。



というくらいマゼラン海峡は難所だというのですが、今回の練習艦隊は
そこを抜けるということなのです。 

「帆船が通れたのだから君たちができないはずはありません」

といって水交会会長は場内の笑いを誘いました。
現在のマゼラン海峡は対岸を結ぶフェリーが普通に運行しているくらいですから、
帆船時代はともかく現代の船であればそう難しいことではないと言いたいところですが、
現在でも大型船の難所であることはまちがいなく、熟練した経験者でないと
ここを通過するのには苦労するといわれています。

日本国練習艦隊がここに挑むことは初めてなのだそうで、
彼らがここを通過する6月後半から7月にかけては、ぜひ艦隊動向に注目しましょう。


本日晴海埠頭から出港する日本国練習艦隊の皆さん、
この航海で多くのものを得て帰ってきてください。


 

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2015静岡ホビーショー~「模型少年がいっぱい」

2015-05-20 | 博物館・資料館・テーマパーク

「ネイ恋」で旧海軍や海自について語っているうちにご縁ができ、
いつの間にかこういうホビーショーにも足を運ぶようになったわけですが、
きっと5年前のわたしにこんな未来を見せたら驚いたことでしょう。

というくらい、人間の将来は読めないものなのですが、5年前のわたしに
冒頭写真のようなジオラマを見せたら、普通に目を輝かせていたことと思います。
昔から好きなんですよ。ジオラマ。

これも最初に見学したハセガワのシリーズなのですが、どうもここは
「街と電車」をテーマにしている模様。


冒頭写真は立体駐車場に古い建物の立ち並ぶごくありふれた街。
少し変わっているのは道路に路面電車のレールがあることです。



ビルの屋上にはちゃんと給水塔まであるこだわりよう。
よく見ると街灯や信号機、盲人用のカラーブロックまで。

路面にロッテリアのあるビルの広告はハセガワです。
拡大してみるとさらに凝っていて、道を歩く人が大きな荷物を持っていたり、
ちゃんとマンホールもあったり・・。



これなんかすごいですよ。
街神輿の列はどうやら練習らしいのですが、周りには
写真を撮っている人や、呉服店、陶器店などの店先に仕事途中で神輿を見に
ふらっと出てきたらしいお店の人まで表現されています。



こういうタイルの、しかもあまり趣味のよろしくない色のマンションってありますよね(笑)
マンションの最上階のベランダにはちゃんと人がいます。
洗濯物を干している人と、犬と遊びながら水を撒いている人。



このジオラマは別の会社のものです。
「気仙沼風ジオラマ」とありました。

大震災後の応援企画だったりするんでしょうか。



駅前に停まって待っているタクシーに今から乗り込む人、
右下の青い屋根の建物はコーヒーショップで、店先では女の人が掃除中。
横断歩道で信号待ちをしているのはあきらかに老人、と、小さいのに全てが表現されているのです。



山間部を走る線路を中心にした大きなジオラマ。



橋の上をアップにしてみました。
黒いコートを着て一人で下を覗きながら佇んでいる人が・・・・!

映画「The Bridge」を思い出してしまいました(; ̄ー ̄A 




線路の脇にはがけ下にもかかわらず普通に商店が!
八百屋さんの店内は黄色ですが、遠くから見ると灯りに照らされているよう見えます。



阪神電鉄が1927年から廃線まで運用していた路面電車。
実家の地域を長らく走っていた形だということですが、あまり覚えてません。

何れにしても京都なども次々と路面電車は廃止されていきましたね。
たしか広島や岡山ではまだ走っていたと思いますが・・。 



ボーイング747と「赤城」日の丸仕様バージョン。
甲板に日の丸、という仕様はミッドウェー海戦のときだけだったそうですが、
珊瑚海海戦で艦載機が間違えて敵空母に降りてしまったのでこのようにしたとか。

ということは、これは「赤城」最後の姿だということになるのですが・・。


日の丸なしバージョンもありまっせ。



こちらの特色は甲板の「裏」。
裏といっても空母ですから下から見えるのでこんなところもディテールに手を抜きません。
(当たり前か)


向こう側は説明不要の「大和」。こちらは氷川丸。



氷川丸は横浜の日本郵船歴史博物館の所有なのですが、ここでも何かタイアップがあった模様。
この日本郵船歴史博物館は、昔日本郵船の待合室でもあった本社ビルの建物を使い、
会社の、そして日本の船舶の歴史を企画などによって知ることができる貴重な博物館です。

横浜の空襲にも無傷だったのは、もちろんアメリカがこれを占領後使用するつもりで
爆撃などを一切しなかったからです。

この博物館には籾山艦船模型製作所の製作による氷川丸の模型がありますが、
これは第2次世界大戦前、カナダ・バンクーバーの日本郵船代理店で保管されていたものです。
戦中の対日資産凍結により、カナダ政府に没収されたものが、戦後、競売で落札され、
その後ウィスコンシン海洋博物館に寄贈され、同博物館に展示されていました。

どうしてそこにあるのかがわかったかというと、そこで生まれ育った人が、
老人になって日本郵船のクリスタルハーモニーに客として乗ったときに、船員に向かって

「この船には小さい時に町の博物館で見ていた模型と同じ模様がある」

と、煙突の赤い2本線を指したことがきっかけでした。
その後日本郵船は模型の返還を求めて交渉し、難航の末返還されたのです。


船舶模型に興味のある方は、ぜひ博物館でこの芸術品と言っても過言ではない、
「氷川丸」の模型を見に行かれるといいかと思います。 




日本海海戦110周年記念モデル。

今年はそういう記念となる節目の年だったんですね。



模型には付いていませんが箱絵にはちゃんとZ旗が揚がっています。

「天気晴朗なれど波高し」の電報通り、海は高く波が立っています。



110周年記念モデル特典は東郷平八郎と秋山真之のフィギュア。


「これだけ売ってないんですか~!!」

思わずわたしは聞いてしまったのですが、これに色をつけるのも買った人のお仕事。
いったいどうやって・・・・。

このフィギュアにも製作者の名前が記載されていますが、
きっとこういう人は米粒に般若心経とか書いてしまうに違いありません。



「しんかい6500」


「しんかい」は2012年現在世界で2番目に深く潜れる有人潜水艦です。
その名称が示す通り、6,500mまでの大深度の潜水調査を目的とし、その主な任務のなかには、
地殻や地層の調査の他に海底生物の生態系や進化の解明などというのもあります。




「しんかい」が就役してから2014年で25周年が経ちました。

というわけで「しんかい6500」ディティールアップバージョンに特別に付いてくるのは、

ダイオウイカ1匹とダイオウグソクムシ3匹!

「しんかい」のスケール1/72に合わせてあるので、まるでオキアミのイカバージョンとまるむしですが、
実際の大きさはイカが6m、まるむしの方が60センチ位あることになります。




初めて見た、「列車砲」。

クルップ K5(Krupp K5)こと28cm列車砲K5 (28 cm Kanone 5 (E)) 。
レオポルドとありますが、、そのうちの一両に付けられた固有名詞です。


線路の上からドコーンと大砲を撃ってしまううわけですが、こんなのちゃんと狙い通りに飛ぶのか?
そもそも、線路の軌道上に敵を攻撃するのにちょうどいい場所があるのか?という疑問が・・。

なんかあのドイツにしては、アバウトな兵器を作ったものだなあと思うのですが、
連合軍がこれを鹵獲して解析しておきながら、似た武器さえ作らなかったというのが全てです。



ロボットバトルというアニメのキャラクターシリーズ。



VF-1 バルキリー(ブイエフ・ワン バルキリー)。
テレビアニメ「超時空要塞マクロス」の架空兵器。 



前回、東京のホビーショーでも見たニッサンサニートラックとバイク。
どちらもぐるぐる回って展示されています。


それよりこの模型を覗き込んでいる男性の顔!
顔半分を隠しましたが、それでも彼の表情がキラキラ輝いて(笑)いるのがお分かりいただけるでしょうか。

模型ショーでは、みんながかつて模型に夢中になった少年の頃に戻れるのかもしれません。


続く。 

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MAST Asia 2015を見てきた~科学の粋

2015-05-19 | 博物館・資料館・テーマパーク

横浜パシフィコにて行われたMAST Asiaに潜入(本当に場違いでこんな感じだった)
してきた報告、後半です。

前回のエントリを上げたあと、自衛隊について色々と勉強させていただいている
元自衛官が、同日同時刻にパネリストとして講演をしておられたことを知りました。
教えていただいて慌ててディレクトリをみたところ、会場ですれ違っていたというタイミング。

全く気づかなかったのは現地にそのようなお知らせがなかったのと、告知HPも
会場で配られる資料も全て英語であることでしょう。
パネルディスカッションも当然英語で行われ、通訳もないのかもしれません。

英語でだけ告知をするのは誰でもかれでも来てもらっては困る、ということと、
妙な団体に絡まれるといった不要のアクシデントを防ぐためなのかと思いました。

ところで、このイベントの「プラチナ・スポンサー」で、どの媒体でも
一番最初に名前が出てきていたのが、 このロッキード・マーチン。

これが全体プログラムの裏表紙ですが、冒頭写真の

「我々はより良い明日を約束します」

といい、

「次のミッションにできることから何かのために」(適当)

といい、気合が入りまくっている感じがひしひしと伝わってきますが、
彼らの気合はこんなところにも。



アメリカ人の考えるところの「和」をさんざんあしらってみました(笑)
丸障子に(紙なし)紙のランプシェードの照明。
日本庭園をイメージしたフェイクグリーンはわざわざ白石を敷き詰めて。

障子の桟ごしに、こちらはいかにもアメリカーンなソファに、これも
いかにもアメリカンなおじさまが談笑しているロッキードマーチンのブース。

ブースというとパネルに囲まれた3畳くらいのスペースがほどんどなのに、
このコーナーは仕切りすらありませんでした。



ロッキードマーチンがヘリコプターを作っているという話は、
大統領専用機のVH-71「ケストレル」くらいしか聞いたことがないのですが、
これはどう見てもシーホーク・・・・。



なんだかすごく見覚えのある形、と思ったら「こんごう」でした。
ロッキードマーチンはイージスシステムを導入しているからですね。



艦番号がないですが、「アーレイバーク」型駆逐艦でしょうか。



ネクストジェネレーション「フリーダム」ということなので、ロッキードマーチン社が手がけた
次世代型「フリーダム」級のようです。

フリーダム (USS Freedom, LCS-1) は、沿海域戦闘艦(LCS)。

本艦は正式採用を目指してロッキードマーチンによって設計され、ジェネラル・ダイナミクス社の
インディペンデンス (USS Independence, LCS-2) と競合して建造されました。

艤装中に火事が起こって就役が遅れたそうですが、2008年9月から運用されています。





サーブってあの車のサーブですよね?
いやー、軍需産業にも手を出していたとは初めて知りましたが、もともとこの会社は
航空機メーカーで、第二次世界大戦中には軍用機を生産していたという歴史があり、

今でもその流れで対艦ミサイルや無反動砲なども作っています。


車メーカーのサーブは、昔は同じだったのですが、今は資本関係はなく別会社だそうです。

このポスターを見てお分かりのように、サーブは「シージラフ」というものを作っています。
そこで「Girraffe」って何かしら、と調べてみると、レーダーなんですね。



これはもう「キリン」以外の何物でもないというシェイプである。

これはエリクソン・マイクロウェーブ・システムズであった現在の「サーブ」が、
最初に開発した探知距離40kmのレーダーですが、第3世代の今では
それはアンテナをフェーズドアレイ化した三次元レーダーとなっています。

今のシステムになっても見た目はやっぱりキリンです。



サーブ、こんなものも開発しているのだった。

黄色いのは、機雷探査機。
右側の赤いのは、オペレーターのトレーニング用に使う無人の訓練機だそうです。



無人機といえばこれ。
愛称「ブラックジャック」と言われるRQ-21 インテグレーターが飾ってありました。
それを見ながら無料のコーヒーを飲む来場者。

何に使うのかわかりませんが、とにかく回収の仕方が面白い。
スカイフックというもので回収するのですが、その映像が見つかりました。

無人航空機 RQ-21 インテグレーター(Integrator)


なんか信じられませんが、空中に張った糸に翼がうまく引っかかって止まります。
”とんぼつり”という言葉を思い出してしまいました。




これもサーブと同じくスウェーデンのボフォースという会社の57ミリ砲。
なんとピアノブラックの豪華家具調対空砲?!

・・・と思ったら、これはただ実物の大きさを示しているだけのようです。



本物はこの色。そりゃそうだ。
なかなかすっきりしたシェイプの艦砲ですね。



ブラジル海軍も使ってるよ!ということですが、速射能力、追随能力に優れ、
多くの国海軍に採用されており、最新型はアメリカ海軍と沿岸警備隊の大量導入が決まっているそうです。



ソリューションズという会社でしょうか。



こちらは英国の企業コーナー。
ということはこの後ろ向きの軍人さんも英国海軍?

それにしても、海軍の夏服というのは全世界共通なんですね。



イギリスの会社がヘリコプターを作っているという話も初耳でしたが、
それを海自が導入しているというのはさらに初めて知りました。

アウグスタウェストランド社の掃海・輸送ヘリ、MCH-101。

現在すでに5機が導入されており、全部で11機を運用する予定だそうです。 




潜水艦の潜望鏡やオプティカル・センサーの会社。



潜水艦の前を泳ぐイルカさんたちに注目。



航法装置などを専門に製作している会社です。
搭載するものによって仕様が違い、例えば奥の緑のものは戦車用。



機雷処理のためのセンサーですね。



この会社は海底探査機を開発していました。
どんな機械か写真を撮るのを忘れたのですが(←)、海底に沈む戦跡、
航空機や船舶などをこうやって探査するためのシステムです。

これはもしかしたら旧日本軍機・・・零戦でしょうか。



機雷対策・水中偵察・港湾セキュリティ・捜査&探索

についての製品開発をしている会社のポスター。
まるで昔の戦闘機のようなシャークの顔が書いてあるのが「脅威」の象徴?

わたしはGE日本支社にいたとっても偉い人を知っているのですが、
彼のお父さんは元海軍軍人でした。 
ユーボートに沈められた船に乗っていて、漂流の末助かったという経歴があるそうです。

彼はまた硫黄島にいたこともあり、目の前で海兵隊の兵隊が投降してきた
日本兵を容赦なく撃ち殺すのを見て心からショックを受けたという話を聞きました。
その父上は、わたしがその話を聞いたわずか1ヶ月後にこの世を去ったそうです。

と、全く関係ない話でしたが、GEも軍需産業だったんですねー。 



主にエンジンを製作しているそうです。



ローデ・シュワルツはドイツのエレクトロニクス企業。
日本では、主に高周波用高性能測定器のメーカーとして知られています。

「情報優越」って、日本人にはイマイチというか、いかにも外人さんが考えたって感じ?



入場者は多くはありませんでしたが、なんらかの形で参入している業者など、
関係者がほとんどのように見受けられました。
わたしのように「物見遊山」組はおそらく超少数でしょう。



我が日本からNEC。
電子情報システムの分野で参入しています。



prevent illegal activities というのは不法侵入などを予防するということだと思うのですが、
そのためのシステムについてちょうど来訪者が社員の説明を受けていました。



そのために開発されたのがこの「NEXTER」のようです。



衛星システム「ネクスター」は、例えば地球を視る目として、
短期間に低コストで高機能な人工衛星を市場に提供し、より一層の宇宙利用促進に貢献します。
NECでは長年に亘るバス機器開発のノウハウを元に、その機能構成を大幅に見直し、
機器間を標準ネットワークでつなげ、オープンアーキテクチャや民生技術などを
積極的に採用しシステム開発を進めています。(NECのHPより)



ネクスターでできること。
衛星写真から地図を作ったり、大災害の被災による地形の変化を調査したり。



オーストラリア企業群の展示。


さて、わたしが注目した展示はこんな感じでしたが、少なくとも本日一堂に会した国は
「国防」を目的とした装備をお互い売ったり買ったりしているわけで、
ということは皆「こちらがわ」(西側とも言いますが)なわけです。

それでは我々の仮想敵は彼らの敵であり、彼らの敵は日本の敵、ということになるのですが、
MAST Asiaというわりに日本以外の企業はいなかったし、どうもわたしの浅薄な知識では、
この催しに見える構図は少し理解にあまりました。

単純に、この日の参加企業国は日本と同じ価値観を有する、で良いんですよね?


日本が降伏した時、最もそれを悲しんだのはボーイング社の社員だった。

という冗談があるように(わたしが今作っただけですが)、世の中には
戦争が金輪際なくなってしまうと困る人たちもいるわけです。
しかしそういう構図はともかく、産業革命以降の科学技術というのは
軍需産業ありきで発展してきたという現実があります。


科学を大きく推進させた軍需。
かつての航空機の発達に始まり、今は衛星システムを駆使した情報の分野

(イージスシステム含む)にこそ、科学技術の粋が結晶されているらしいということを
改めてこの目で確かめることになったMAST Asiaでした。






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2015静岡ホビーショー~「いずも」1/700発売!

2015-05-17 | 博物館・資料館・テーマパーク

模型会社の「中の人」から、「模型の聖地」静岡でのホビーショーに
ご招待をいただきました。
この週末は一般客でおそらくにぎわったこのホビーショー、去年東京ビッグサイトで行われた
模型ショーとほとんど同じ・・・・ではないのです。

大きな違いは何か、というと、わたしの興味はなんといってもヘリ搭載型護衛艦「いずも」が
就役に合わせて発売になることでした。
自衛艦旗引き渡し式という歴史的な瞬間をこの目で見た関係上、やはり「いずも」には
今後もきっと思い入れを持つものと思われますが、それはたとえばプラモの発売、
といったことであっても例外ではないのです。

んが、わたしには懸念がありました。
そう、先日から噴火レベルが2に引き上げになったという箱根山です。
会場の静岡にはどうしても新幹線に乗らなくてはいけないのですが、万が一のときには
新幹線の線路は大変怖いところにあるため、こういうことにはやたら注意深いわたしは

「箱根山が心配なので様子を見ます」

と返事をしたところ、

「そうまでして来るようなもんではありませんから」

となんとも返事のしようのないお気遣いの言葉が返ってきました。
しかし、前日になっても別に噴火レベルが引き上げられる様子もなく、
というか世間的には全く無いことになっているみたいだったので、
安心したわけでもありませんが、今日1日は大丈夫だろうと判断して行くことにしました。

当日の新幹線はやたら混んでいて、皆静岡で降りるという感じ。
現地に着いてから関係者にそれを言うと、

「そんな大したイベントでも無いのに・・・」

ただ、彼らの中には業者招待の今日ではなく、明日からの一般招待のために
モデラーズクラブの作品を展示するために前日に乗り込む人もかなりいたようです。

静岡駅のプラットホームには「模型の首都静岡」というロゴがありました。



会場には駅前からシャトルバスが出ています。
それに乗り込み、だいたい10分くらいで会場のツインメッセ静岡に到着。 

業者招待日は初日は混むのですが、二日目のこの日は大したことはないということで
お誘いをいただいたというわけです。

 

今回「いずも」を発売するのはハセガワ模型でした。
会場に入って右手を見るとまずこの看板がパッと目に入ってきます。

「いずも」のような話題&人気艦の模型は、就役となった途端、
各社がこぞって趣向を凝らしたパッケージで発売したりするのだと思っていましたが、
実はそうではなく、タミヤ、ハセガワ、そしてあと一社が(青島だったっけ?)
話し合いをしてどこが出すかを決めるのだと聞いて驚きました。

カルテル・・・・?

ちなみに「ひゅうが」のときもそうやってどこかを決めたようですが、
今はフジミ模型、アオシマなどが出しています。
ある程度の期間が過ぎたら解禁になるってことなんでしょうか。




見よこれが1/700モデルの「いずも」である。

無駄に焦点を艦橋に合わせてしまい艦首がボケていますが、
この部分に見える金色の部分はオプションの柵で、金属製です。
わかりやすいように色を塗装していませんが、ここは将来白く塗られます。

オプションは2000円くらいのプラスになるそうです。

下に敷いてある大きな「いずも」のマークは、記念グッズとして同梱される模様。

(註*・・・と思っていましたがマークは付かないそうです。訂正いたします<(_ _)>)

 

 

これが切り取り前のパーツでございます。
模型作りをしたことはなくこれからもする予定がないわたしとしましては、
こういうものをみせられると、よくこんなものを切って組み立てて、
間違いなく接着して正しい形に持っていけるものだと心から驚嘆してしまいます。




防衛省は模型業界に協力的ではありますが、さすがに就航の前に
どういう構造になっているかまでは質問に答えてくれることもなく、
ゆえに会社は就航になってから初めて全てを動かしていくことができます。

これは防衛機密上当然ですが、同時に装備がギリギリとなっていきなり変更になる、
という可能性だってないわけではないからなのです。

精密さと組み立てやすさが両立したパーツ構成、というところには、

「艦橋はスライド金型を使用して少ないパーツで複雑な形状を再現」

「船体は前/左/右/後/底底の分割式で、桁を挟みこみながら組み上げる設計」

などと、全く門外漢には理解できないメリットが書かれています。 




パッケージデザインと細密図がパネルになっています。



展示されている「いずも」はおさわり禁止ですが、こちらには
わざわざ手に取って見る用の艦体が置いてありました。
艦載機はもうくっつけてあります。

 

こういうのも組み立てないといけないんですかね(呆然)

艦載機は

MCH-101  2機

SH-60K  2機

MV-22(オスプレイ)  1機 

で、こんなに小さいのにSH-60Kのローターが完璧にわかるという・・。
搭載ヘリはローターをたたんだ状態にもなります。(手前から2番目)

横のさらに小さなのは各種車両。



トラック、牽引車、フォークリフト、清掃車、クレーン車、
高所作業車、救難車、なんと、パック3まで。

やっぱりみんな自分で色つけるんですね・・・(T_T)

パック3の右前にあるかじりかけのドーナツのような形のものは
なんと無人の牽引車で、ヘリをリモコンで移動させるものだそうです。

わたしの記憶に間違いがなければ、このお値段は確か1000万円以上するとか。

 

いかに「いずも」が大きいのか示すために置かれていた「きりしま」と「こんごう」。
そういえば、「いずも」の就役のとき、同じ岸壁に「きりしま」がドック入りしていて、
上空から報道各社が撮影した空中写真でその比較ができましたね。



「あたご」といえば、ご案内くださったFさんは、取材のために「あたご」に乗って以来、
すっかり「艦(ふね)派」になったそうです。
その取材も飛行機と船が同日にあり、たまたま船を選んだのが運命の分かれ目だったとのこと。

模型会社の人といっても、全員が会社の扱っているにくまなく詳しいかというとそうではなく、
ましてや「戦歴」などについての知識は「趣味の範疇」みたいなものだということです。 

特定の船だったら艦これファンの「俺の嫁」に対する知識の方がよっぽど上なのかもしれません。

「わたしたちに必要な知識は”外側”だけですから」

模型会社ですから考えたら当たり前なんですが。


 

と話が繋がったところで「艦これ」です(笑)
なぜか「島風」だけが大きく取り上げられてコーナーになっていました。



こちらは小さな模型とフィギュアの組み合わせ。
うーん、これは「島風」さんファンなら欲しいかもわからんね。

これはマックスファクトリーという会社が企画しハセガワが扱っていて、
つまり「艦これ」ファンをモデルの世界に呼び込もうという試みのようです。

ここに書かれている「艦船模型の常識を覆す完全新規開発」というのは、
初めての人にも迷わず組めるような工夫がパーツにも、説明書にも網羅されていて、
例えば塗装も最初から施されていたりするそうです。 

元からがっつりやっている人ではなく、

「模型に興味はあるが作るのは面倒なのでできたのが欲しい。
でもどうしてもというなら簡単に作れるならば作ってもよい」

などと考えている向きにはぴったりの企画といえましょう。

1/350スケールの島風の模型化は世界初で、艦娘島風だけでなく、
連装砲ちゃん(なぜちゃん付け?)もセットでついてくるそうです。



従来の飛行機モデル。



P-3C。
この中では比較的大きなモデルです。



ドイツの模型も扱ってはいますが、本日は受注はしておりません。

模型会社というのは世界中にあるわけですが、やはり日本とドイツの模型は特殊だそうです。
国民性と言ってしまえばそれまでですが、

「電車が時間通りに来る国はいいものを作る」

というのが「世界の模型首都」の大手と言われる会社(しかし実態は中小企業だとのこと)
の中の人のお話でした。 



今模型会社がヒットを祈願しているのがこの

「紫電改のマキ」

(これぜってー紫電改のタカのパロディだろっていう)で、なんでも
美少女が紫電改やスピットファイアーで通学しているという・・。



読んでみたいようなみたくないような・・・・。



前回東京のホビーショーでこのコーナーを見た時には全くわけがわからなかった
松本零士先生の戦場漫画シリーズ。

「スタンレーの魔女」「復讐を埋めた山」「アクリルの棺」

皆読みましたよ~!
おかげでそれぞれ一式陸攻、ゼロ戦52型、キ84四式だとわかります。
ここでふと版権のこととかが気になって質問してみました。

「松本零士先生には今でも使用料が行っているんですか」

「もちろんです。一箱いくらが使用料として松本先生に行きます」

「本の印税みたいですね」



これは読んでません。「キャプテンハーロック」。
なんと2015年6月、これからの発売となります。 
いまだにこういうパッケージのものを買い求めるファンがいるってことなんですね。 



宇宙海賊戦艦「アルカディア」1番艦。(だそうです)



こちらゲームの架空航空機のモデル。
この「エース・コンバット」を息子に聞いたら知っていました。



前回の東京でのホビーショーで注目した「たまごヒコーキ」。
向こう側のブルーインパルスにピントがあってぼけてしまいましたが、手前に注目。
NASAでボーイング747がスペースシャトルを乗せて運んでいるところ。

かわいい(笑)



こんなものもあります。
思わず欲しくなってしまうミニチュアシリーズ。
パイプいすなんか欲しいかな。



小さいものというのは無条件にかわいい。
船や飛行機の模型に人が惹かれるのも、こういう原初的な萌えが根本にあるんでしょうね。


続く。


 

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MAST Asia 2015を見てきた~MAST is a MUST!

2015-05-16 | 博物館・資料館・テーマパーク

パシフィコ横浜で行われたMAST Asiaを見てきました。

"MAST is a MUST!"

というのがHPの最後の文句だったりして、考えることは皆同じと思ってしまうわけですが、
mastというこの展示会は、アメリカの支援によって防衛省が主催する防衛見本市で、
経産省や自衛隊が支援して、現行の防衛グッズ?を一同に展示しているわけです。

防衛グッズ?そりゃー武器兵器のことだろ?

と思ったあなた、主催が平和国憲法下専守防衛を旨とする防衛省であることにご注目ください。
武器兵器といっても、地雷そのものや銃の類は展示されておりません。
もちろん地雷(機雷含む)や銃を自衛隊もまた防衛のために運用しているわけですが、 
見終わって思ったのは、やはり主催国のニーズに対応したものか、展示商品の大きな部分を
海底探査器や機雷発見のための器具が占めているということです。

今回、関連企業を経営されている方が

 「ブログのネタにもなると思いますよ」

と、この開催を教えてくださったので、行ってみることにしました。



というわけで横浜である。
この日はいきなり真夏日となって、ただでさえホットだったのが、
イベントへの期待で熱気もムンムンです(あーつまんない定型句)


パシフィコ横浜に来るのは生まれて初めてです。
同じ日、別のホールでは「アジア栄養学会議」というイベントをやっていました。

アジア栄養学会議・・・・少し見てみたい。




わかりやすく支援団体(というか主催?)は向こうで受付、のお知らせ。
自衛官用に「制服着替え用の別室」も用意されていました。
彼らはここまでわざわざ私服で来て、イベント会場に入るために制服に着替えるみたいです。

国防を担う軍人が普通に制服で街中を歩いたり電車に乗ったりできない国って?
と思うんですが、まだまだ当分こういう風潮は無くなりそうにないですね。

この入り口からいきなり入っていこうとすると、

「招待状はお餅ですか」

と尋ねられたので、持っていないというと、受付で名刺を求められました。
ていうかわたし、地球防衛協会の名刺しかないんですけど・・。

ところが、本イベント的には地球防衛協会顧問というのは十分な肩書きのようです。
受付の青年が独自に「地球防衛協会」を英訳してこんなIDを作ってくれました! 



うふふ、なんだか意味ありげでそれらしい人みたいではないの。
おまけに彼はこれを渡す時に、流暢な巻き舌英語で高らかに内容を読み上げてくれました。
なんというか、こんなところでもお得感満載です。

さあそれでは、この胡散臭い()名札をつけて、いざ会場へ!




おっと、その前にこれをいただくのを忘れてはいけません。
書類やパンフレットなどを入れるために用意された布バッグ!

普通こういうのはせいぜい紙袋だとおもうのですが、なんとスポンサーが
ロッキードマーチンという超大物であるせいか、扱っているものの単価が高いせいか(笑)
販促グッズにも手を抜いておりません。
今回は自衛隊といっても海自の主催という形になるので、自衛隊旗がデザインされてます。



裏側には参加企業のロゴが。
やはり一番出資している企業が一番上に名前を載せていますね。

さて、わたしはたまたま教えていただいてなんとなく行ってみただけなので、
何がどう展示されているのか全く予備知識なしだったのですが、
会場に入るなり、



US-2の大きな模型がお出迎えしてくれたのですっかり瞳にお星様状態です。

「ああ、US−2が!来て良かったあああ」



しっかりパンフレットも記念にいただいてまいりました。
US-2といえば、インドに販売するという話が先日あったと思うのですが、
これについては日本とインドの間で若干意見の食い違いがあって、
日本としては輸出したいのだけど、インドは3機くらい買ったら、
あとはライセンス生産をしたいという意向なのだということです。

日本とアメリカもそうやっている飛行機は多いし、別にいいのでは?
と思ったのですが、インドはさらにそれを輸出したがっているということで、
素人から見ても、それはちっと図々しくないか?と思ってしまうわけですが。

川西だって並大抵でない苦労と犠牲を払って今日のUS-2を造ったんだし。



パンフを見て初めて知ったのですが、US-2って、海水を汲み上げることもできるんだそうです。
右下の写真は、そうやって貯めた水を消化活動に散水しているところ。
消防飛行艇の場合、20秒水上滑走するだけで15トンの水を汲むことができます。

「猿沢池にも降りることができる」

というくらい、局地着水の能力に優れているのですから、たとえ山火事でも
付近の湖と現場を往復して消火することができるというわけですね。

エンジン換装によってパワーアップできるので、EEZ内はもちろん、
大きな行動可能範囲で離島保全、海洋管理など、多様化が期待されています。

 

そしてその横には、「いずも」が!
モニターで流している映像は、就役の式典のものだったと思います。

ところでUS-2は外国に販売するという今後の目的があるわけですが、
日本が「いずも型」をどこかに売るという話は今後もないはずなので、
なぜ見本市に「いずも」が飾ってあるのかという気もしますが、
これも会社の技術力をアピールするという意味なんでしょうか。



この模型は小西製作所という大阪の会社が製作しています。
博物館のや、こういった用途のために船舶模型を作る会社で、
愛好家が自分で作るパーツを買うような模型会社ではありません。

おそらくこういう模型は一台30万円クラスだろうと聞いたことがあります。
改めて小西のHPで調べてみたら、一応パーツ売りもしているのですが、
完成品になると1/200の金剛・愛宕が55万円、「大和」だと同じスケールで100万円以上。

あと百万越えは1/200の「長門でした。
空母型は戦艦より安くなりそうですね。構造物が少ないので。



やっぱり艦載ヘリの尻尾、はみ出してる・・・。
ところで、このエレベーターに乗ったことのある人の話によると、
「ひゅうが」と違って、このエレベーターの動きはかなり粗く、
がくっ、がくっ、という感じで稼働するそうです。

観艦式の「ひゅうが」はあのエレベーターで人を一気に輸送していましたが、

おそらく「いずも」はここに見学者なんか載せないでしょうね。

落ちそうだし。




「いずも」の近くにあったIHIのブースにはこのような不気味なものが(笑)

これについては見ていたら会社の方が説明をしてくださいました。

これは無人海洋システムの「洋上中継器」だそうです。

母船から放たれたこれは、これをもう少しスマートにした形のやはり黄色い
「AUV」を、海面直下を航走させながら管理するものです。
子分のAUVに集めさせたデータを集めて、衛星を通じて母船に情報を伝える、
というものだと(言っておられたように)思います。


複数の無人機を運用することで、広い海域を短時間で効率よく探索できるんですね。

このノーズを見て、航空機のドローンを思い出したのですが、
なぜドローンって皆こういう形の下さがりノーズをしているんでしょうか。



「ふゆづき」「ましゅう」「おおすみ」「しょうなん」・・

「ふゆづき」ですぐおわかりのように、ここは三井造船のコーナーです。



入るなり馴染みのあるものばかりだなあと思ったら、それもそのはず。
会場の入り口近くには「JAPAN」ブースばかりが集まっていたのでした。
つまり防衛省の展示ということです。

場内には海自の自衛官が見られましたが、若い人(2尉クラス)が多く、
自衛隊の中でも技本などに勤務しているのではないかという雰囲気でした。



これ、なんだと思います?
後ろの説明には「アンフィビアス・ヴィークル」とあるように、「水陸両用車」です。
検索してみたら軍事ニュースのサイトに記事が上がっていました。

JMUの防衛装備品開発・製造部門であるJMUディフェンスシステムズは
MAST ASIA 2015の会場で、水陸両用車(Amphibious Vehicle)の模型を展示した。

展示された水陸両用車は、同社が陸上自衛隊向けに開発し、製造した
94式水際地雷敷設装置をベースに自社開発しているもので、基本的な車体レイアウトは
94式に準じているが、94式水際地雷敷設装置が4×4の車輌であるのに対し
6×6となっており、不整地を含む路上での走行能力が向上していると思われる。

車体は装甲化されていないが、必要に応じて増加装甲の装着も可能とされている。
ペイロードは6t程度で、人員であれば28名程度の輸送が可能と見られる。
浮航時は94式水際地雷敷設装置と同様、左右のフロートを倒して浮力を向上させる。

航行時の推進システムは、94式水際地雷敷設装置(プロペラ)と異なり、
2基のウォータージェットを使用する。

シーステート3での運用が可能とされているが、会場で公開された試験時の映像では、
限りなくシーステート4に近い海面での浮航が行われていた。

同社は水陸両用車の用途として、水陸両用部隊用の輸送や
大規模災害の救援などを想定しており、防衛省に提案を行なっている。
また離島の多い国や地域での需要を探ることも視野に入れている。


というものです。
どこかで見たことがあるなあと思ったら朝霞のりっくんランドでした。
あのとき、機雷を積む場所に隊員を乗せて、大震災に出動したという話を聞きましたが、
この「両生類」も大規模災害を想定しているようです。



水から上がってくるところ。
なんかシュールです(笑)



ブレーキテスト中。


 
聞いた話によると、これは防備の点でイマイチなので、揚陸、たとえばですが、
ノルマンディ上陸作戦レベルには使えない、という問題があるらしいです。

日本が運用するならいいんじゃないか?という気もしますが、
離島奪還などという最悪の場合も想定するのが国防というものですから・・。




上から

「きりしま」「いせ」

海賊対処「パシフィック・ヴィーナス」

洋上給油

とあり、ロゴは

Defence Technology Foundation

これは「防衛技術振興財団」のことらしいですが、HPにあった住所を
拡大していったら、なんと

皇居宮殿長和殿

に行き当たりました。
いいのか。 



防衛計画の年次に建造された航空機の一覧。


こちらは掃海艇ですね。
掃海艇が「~しま」という命名基準になったのは1970年代からのようです。

というような雑学にまたくわしくなってしまったmastでした。




続く。


 

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天皇海山列とロバート・シンクレア・ディーツ

2015-05-15 | 日本のこと

ちょっと今日は息抜きに変わった話題をお届けします。

先日、息子が学校で科学のプロジェクトに「火山」というお題をもらいました。
息子の学校では歴史や科学に、研究課題が出され、それについて調べて
一冊の冊子を作るというような授業が行われるのですが、一つのテーマについて掘り下げ、
文章をタイピングし、必要であれば図面や写真を盛り込んで、
まるで大学でやるような研究(学習ですけど)レポートを書き上げるのです。

先生は一つ一つのレポートに目を通すのですが、Wikipediaなどの規制の文章を
コピーアンドペーストすることは絶対に禁じられていて、一つでもそれがあると
点数が貰えません。

「そんなのどうやってわかるの」
「わからないけどそういうの探すソフトでもあるんじゃない?」

今の時代、先生も丸ペケだけで点数をつけていればいいわけではないんですね。
愚息はこういった研究課題形式のものが得意で、いつも高得点を取ってくるのですが、
実はその陰には父親であるTOの身を惜しまぬ協力が(少しは)あるのでした。

「こんど研究課題いつでるの」「出たら教えてね」

というのが彼の口癖で、特に科学系課題はドラフトを書かせ、それに目を通して、
「先生の立場で」それを読み、ここはどうしたらいいとかアドバイスするだけでなく、
実際に関連書籍を買い込んできて自分も仕事の合間に読み込み、
必要とあらば実際にその関係するものを見に連れて行ったり・・・。

孟母三遷ではありませんが、こんなことに関してだけは協力を惜しみません。
むしろ、自分が楽しむために手伝っているのではないかと思うこともしばしば。

息子の課題に「火山」が出た時には、TOは何冊かの本を読むうち
すっかり火山博士になってしまっていたようですが(笑)、あるときその検索の過程で

「こんなのあるの知ってた?」

と教えてくれたのが、本日タイトルの天皇海山列でした。
冒頭写真の妙に男前の科学者が、天皇海山群の命名者である

ロバート・シンクレア・ディーツ(Robert Sinclair Dietz)1914~1995

です。
教えてくれたTOも、もちろんわたしも初めて知ったのですが、この天皇海山群は、
アリューシャン海溝と千島−カムチャッカ海溝の結合部から南に向かって
約2500kmにわたって海底に存在する海底山脈です。



わかりますかね。
画面の中央に少しだけ右に振れるように降りてきている線がそれです。
線は降り切ったところで右に向かっておおきく曲がっていますが、
そこからは「ハワイ海嶺」と称する海底火山で、長さは3,500kmあります。


天皇海山列一発見・命名のいきさつ と生成の謎一杉山 明 より


海の中の山脈のことなど、大抵の人は何の関心も持たずに一生を終わるのだと思いますが、
今回わたしとTOがこの海山列にふと関心を持ったのは、その名前が、
「天皇」の名の通り、我が日本国の歴代天皇の御名より取られていたからです。

この上の図を大きなモニターで見ておられる方は少し良く見てみてください。

「桓武」「応神」「推古」「応仁」・・・。

古くは8500万年前にできた海底山に、日本の天皇の名をつけたのが、
先ほどの男前学者、ロバート・シンクレア・ディーツだったのでした。



もう一枚、男前だから写真サービスしちゃう。
海底火山の研究なんて地味なことをやってる学者でなければ、
どこかでプロデューサーのの目に止まって科学者の役で映画に出そうだわ。


さて、このイケメン科学者がどうしてこの海山群に天皇の名をつけたのか。
地図をお借りした杉山博士の論文によると、この海山列の現在の正式名は

「北大西洋海山列」Northwest Pacific Seamount Chain

というものらしいです。
こういう名称は「海底地形名統一のための小委員会」という機関で決められ、
こちらの名前は日本人の研究者、田山利三郎が1952年に命名したものです。

ところが、その2年後の1954年、ディーツが

「天皇海山群」Emperor Seamount Chain

と同じ海山群を名付けました。
ディーツは田山氏の論文を知らなかったから、という説と、
知っていて無視をした、という説があるそうですが、どちらかわかりません。

研究のデータは、わかっているところによると1935年、
日本の淀鑑という船が測量を行ったものが元になっているようですが、
ディーツは1953年にアメリカの海洋研究所が行った測量を基にし、
このときに発見された火山群に対して個々の名前をつけたというわけです。

それでは、日本に近いところから順番に名前を記していきます。
名前の後ろの数字は海面から頂上までの距離です。
すなわち、少ないほど「高山」ということですね。

「明治」 2,009m
「デトロイト」 309m
「天智」 1,819m
「神武」 1,296m
「推古」 1,029m
「用明」 980m
「仁徳」 959m
「神功」 792m
「応神」 1,608m
「光孝」 18m
「欽明」 1,095m
「雄略」 11m
「大覚寺」11m
「桓武」 280m

こうしてみると「デトロイト」の異質さが謎ですが(笑)、
この「デトロイト」は、あの「キスカ島」「アッツ島」に最も近い海山です。
それにしても「雄略」「大覚寺」の11mというのは、ほとんど海のすぐ下にあるわけですが、
これがある日海面から顔を出して
島になってしまう可能性なんかはないんでしょうか。



それにしてもどうしてディーツは海山群に天皇の名前をつけたのでしょうか。

彼はアメリカ人なので、命名といっても「Meiji 」「Kanmu 」「Yomei」という調子で、
いまいち我々にはいい命名とは思えないのですが、それはともかく、戦後、
まだまだ戦争の傷がお互い癒えていない時期に、アメリカ人の学者が
自分の発見した海山群に、日本の歴代天皇の名前をつけたわけです。

学者らしく、戦争のあったことには全く拘泥しなかった、ということでもありましょうが、
先の杉山氏の論文によると、

「日本の古代史に興味を持っていたから」

ということを後で当人が言っていた、という話があった、という話です(笑)
ディーツはフルブライト研究者として東京大学に留学し、海上保安庁水路部において
研究を行っているので、やはりそれは本当だったのだろうと思います。

世の中には自分の嫌いな国に留学に来て、留学先でその国をわざわざディスる国民もいるそうですが、

ごく常識的に考えれば、敬意を払える国であるから留学に来るのが普通だろうと思います。

どうしてディーツが天皇の名前をつけたか、ということについては、
かの偉大な知恵袋において、いくつか質問がなされています。
そのうちの一つに、こんな回答が寄せられていました。

命名するときに日本に居たから「たまたま」じゃないでしょうか?
あくまで想像ですが、こういう命名って学者さんは途中から真剣に考えなくなるんですよね。
当たり前ですが、生まれてくる我が子の名前を必死に考えるようには考えません。

ちなみに台風の名前も適当すぎるんですよ。
http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/typhoon/1-5.html
日本の名付け分でも「コップ」だの「コンパス」だの適当です。

そんなもんですよ。意味なんか無いと思います。
強いて言えば少なくとも皇室に敬意は持っていたんでしょうが・・・


うーん・・・なんでこの回答者はこんなに必死なのか。
「たまたま」とか「真剣に考えなくなる」とか「必死ではない」とか、「適当」とか
「意味がない」とか、言葉を尽くしてこの命名を矮小化しようとしているけど・・。

だいたい学者の命名がほとんど適当であるなんて、想像だけで決めつけていいの?
学者ならなおさら、自分の死んだ後も永遠に残されるであろう学名に、
「意味もなく」名前をつけるはずはないんですが。

 台風の名前と比べているのもなんだか変ですよね。
台風に名前をつけた人の名前って、 台風と共に記録に残るようなものですか?
そもそも台風って、学者の業績と比べるようなもんですか?


最後でお茶を濁しているけど、実はこの人、天皇の名前が使われたこと
そのものが、
気に入らなくて仕方がない人なんじゃないかと思いました。




というわけで、こういう話になると、こういった皇室反対論者なんかが噛み付いてくるし、

今のところ気づかれていないけど、「日本海」という名称を変えさせようとしている国が、
もしこのディーツの命名に気がついたら、発狂してえらいことになるのは必至なので、
海保の地図には、「天皇海山群」ではなく「北大西洋海山列」とだけ記されているのかなあ、
などと穿ったことを考えてしまいました。



最後に超蛇足になりますが、息子の火山プロジェクトは父親の影の助力の甲斐あってか、
99%(つまり99点)のA+がつきました。<(_ _)>
もしかしたら・・・?などと、早速ディーツのような科学者になる将来を想像し、
悦にいる親バカ全開のわたしでございます。

 



 

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工作艦と「幻の急設網艦」

2015-05-14 | 軍艦

工作艦「明石」慰霊碑


みなさん、工作艦ってなんだと思います?

日露戦争の時の「旅順港閉塞作戦」みたいに、「工作」をする艦?

まあわたしは最初そうだと思っていたのですが(←)そうではなく、

クレーン・溶接機・各種工作機械などを装備し、艦船の補修・整備を行うための艦、
つまりいわば「移動工廠」とでもいうものです。


艦船の補修・整備はドックに入渠しなくてはいけませんが、
拠点から遠くに展開している場合は往復に時間がかかり、作戦展開上それは難しい。

そこで、作戦海域の近くで整備・補修が行えるようにと作られたのが工作艦です。
行動拠点の港湾や泊地内に停泊し、整備が必要な艦船に対して作業を行います。

小学生に説明するように言うならばフネのお医者さんってところですね。


「明石」は改造や改装ではなく、最初から工作艦として作られた唯一の艦でした。
その目的に応じて艦体は大変大きく、工作のための器具を行き来させるため

全艦バリアフリー

だったそうで、実に先取です。 

内部には17もの工場があり、原材料を精製する溶鉱炉から部品を鋳造する鍛冶施設、

旋盤による削り出しや製品の組み立てなどの仕上げ作業までが可能でした。
しかも搭載されていた機械は国内の海軍工廠にもないドイツ製
移動式工廠でありながら、本物よりもずっと先端の装備を備えていたのです。



「明石」さん(右から三番目)お仕事中。


開戦後はトラックを泊地に、南洋を駆け回り、多くの艦船の修理に携わりました。
当然、敵からは最重要目標としてマークされることになります。

給糧艦の「間宮」が狙われたようなものですね。

乗組員は779名のうち半分以上の443名が工作部の工員で、
軍人だけでなく一部民間人も乗り組んでいました。
これら工作艦に乗っている「兵曹」に相当する階級は


「工曹」(一工曹、二工曹などという)

とされていたそうです。
特務艦乗り組みという使命感のなせることか、「明石」の工員たちは、
海軍工廠勤務より勤務態度が良かったという話もあります。

しかし、一般人である大多数の工員もまた、アメリカ海軍の「最重要攻撃目標」
である「明石」に乗っている限り、死の危険から逃れることはできませんでした。 

昭和19年2月、トラック島を空襲した米機動部隊の攻撃で「明石」は大破。
そのあと「修理のために」パラオに回航されます。

「明石」は自分自身の修理ができなかったということなんでしょうか?

おそらく、ある程度ならできても大破してしまってはもうどうしようもなかったのでしょう。
「明石」はパラオに停泊した直後、またもや空襲に遭い、今度は着底して戦没しました。

「明石」の喪失は日本海軍にとって大変な痛手となります。

これ以降、南洋の日本軍艦船は当地で修理をすることが不可能になったため、

内地に帰ることを余儀なくされた艦船はその航路、次々と米潜の攻撃の前に喪失していきました。
 

 

ひっそりとあった、これも工作艦「朝日」そして「山彦丸」「山霜丸」の合同慰霊碑。

日本海軍は全部で5隻の工作艦を所持していましたが、
そのうち4つの碑がここ呉海軍墓地にあるということになります。

「明石」以外の工作艦は全て元からあった船を改装したもので、
「朝日」は明治時代、英国から購入され、その後戦艦として日露戦争に参加しています。

そう、「朝日」。「ア・サ・ヒ」です。 覚えてませんか?
なに、お分かりにならない?それでは。



これですよこれ。

先ほど少し「旅順港閉塞作戦」の話が出ましたが、そのとき部下の
杉野孫七兵曹を探していて下船が遅れ、戦死して軍神となった広瀬武夫少佐は、
「朝日」の水雷長をしていたことがあり、杉野は「朝日」の回航メンバーでもありました。 

「坂の上の雲」では、広瀬が、恋人のアリアズナに自分の乗っていた日本語の
「朝日」の意味を教え、彼女がそれを「ア・サ・ヒ」と繰り返すという回想をしたところで
爆死したんでしたね。とても感動的なシーンでした。(←本気で言ってますよ?)


つまりこの「朝日」は、旅順港閉塞作戦で「工作船」となり、その後改装されて
全く違う意味の「工作艦」にされたということです。
だれがうまいこといえと、と海軍省の中の人がウケを狙って決めたに違いありません。(ゲス顏)

改装されて工作船になった「朝日」ですが、日露戦争で広瀬武夫が載っていたというだけあって、
もうすでに老朽艦(1900年竣工)のお婆ちゃんです。
ゆえに速度が遅く、米潜水艦の格好の餌食となってしまいました。


1942年、シンガポールで任務に当たっていた「朝日」は自身の修理と移動のため、
内地に帰国する途中、米潜水艦「サーモン」の攻撃を受けて転覆沈没しました。

多くが救助されましたが、それでも数十名もの戦死者を出しています。


あと二つの工作艦「山彦丸」「山霜丸」は共に山下汽船の貨物船を改造したものでした。

山彦丸

「山彦丸」は昭和16年徴用と同時に工作艦となり、南西方面で任務に就いていました。
トラック島から船団を編成し横須賀に航行中、鳥島沖で米潜「スティールヘッド」の
魚雷を機関室に受けて航行不能となり、艦長以下そこにいた全員が戦死。
その後曳航中に船体が切断し、沈没してしまいました。

また「山霜丸」は1941年徴用されたもので、こちらは元々徴用後輸送任務についていましたが、
昭和18年、ここ呉で特設工作船に改造工事を受けました。
昭和19年、サイパンから横須賀に向う途中、米潜水艦の魚雷を受け、
やはり艦長以下船員3名が艦橋で戦死しています。


海軍の所持していた5隻の工作艦のうち、あと一隻は「関東」といいます。
これも明治年間の建造で、日露戦争の時にロシアから鹵獲した「マンチュリア」とう船を改造して
工作艦としたものですが、こちらは戦前(1924年)、福井県沖で岩に激突して沈没したので、
ここに唯一慰霊碑がないというわけです。

このとき「関東」の乗員は99名全員が死亡しています。




軍艦「初鷹」の碑

自然石の立派な基礎がある大きな慰霊碑なのでなんとなく空母かなと思ったのですが、
じつは「初鷹」は当初、急設網艦という艦種として建造されました。

工作艦ならこれだけでなんとなく意味はわかっても、この言葉から
その役目をすぐに答えられる人はあまりいないかもしれません。(わたし含む)

世界の海軍にとって、第一次世界大戦後最も脅威となったのは潜水艦です。
やってくる敵を深海に潜んでじっと待ち、近づいては魚雷を打ち込んでくる恐ろしい敵。
それ自体の消耗率も高かったのですが、潜水艦の攻撃によって沈んだ船はとても多く、
アメリカ海軍では特にUボートの投入以後、潜水艦への危機感は高まる一方でした。


そこで艦隊の停泊する泊地を潜水艦の攻撃から守るために、防潜網を張ることが考え出され、

日本はこれを敷設するための艦を世界で最初に造ったのです。
こういうのを真っ先に思いついて、実際に造ってしまうあたりが日本人だなあと思わずにいられないのですが、
世界初の急設網艦「白鷹」は、なぜか就役の時には「急設網艦」ではなく「敷設艦」とされます。

新たに「初鷹」「蒼鷹」という
二隻の「初鷹型」急設網艦も、敷設艦に区分けされたので、
「急設網艦」というものは海軍史上一つも存在しない「幻の艦種」ということになります。 

wiki 


ここに慰霊碑のあるのはその「初鷹」型敷設艦の一番艦。
急いでいたので正面の写真が撮れずわかりにくいのですが、立派な石碑には凝った字体で
「軍艦初鷹慰霊碑」の文字が彫り込まれ、その傍には第4代艦長土井申二大佐と、
第5代艦長である尾崎隆少佐の名前が刻まれています。

おそらく慰霊碑建造の時に生存していた艦長経験者は6名のうちこの二人だけだったのでしょう。

昭和14年に播磨造船所で起工され就役した「初鷹」は、開戦後は南遺艦隊として
あの「落下傘部隊」で有名になったパレンバン攻略作戦を支援しています。

防潜網を敷設するのが目的で作られたといっても「初鷹」のように比較的大型なものは
艦隊に随伴し、前進基地で輸送任務、対潜哨戒を行うのがが主な任務でした。
「敷設艦」は英語で「マインレイヤー」といい、機雷の敷設が「本業」です。

「初鷹」は触雷で小破したこともあり、最後は米潜「ホークビル」の雷撃で沈没しています。
どちらに対しても「専門家」であった「初鷹」ですが、これを自らが避けることはできませんでした。


「初鷹」の同型艦は「蒼鷹」「若鷹」。
「蒼鷹」も米潜「パーゴ」の雷撃に没し、「若貴」は敵潜の雷撃で艦橋を切断した状態で終戦を迎えています。

 






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