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天空に投錨せよ~アメリカ海軍航空隊事始め・前半

2015-01-03 | 飛行家列伝

女性パイロット中心にお送りしているこの「飛行家列伝」ですが、
つい思い立ってリンカーン・ビーチェイについて書いたあと、
「アラメダのホーネット」のエントリを書くために写真を点検していたら、
艦内の一室で大々的にでこのユージーン・イーリーが紹介されていたのに
今頃気がつきました。

それによるとイーリーがビーチーと同時代の「カーティス・プッシャー」
を乗機としていたので、
ちょっとした偶然を感じ、調べてみることにしたのです。


エリソンEllisonは、これもたまたまイーリーElyを調べている最中、
ただ単に名前が似ているというだけで 名前が目に止まったのですが、
ほとんどあてずっぽうで今回の題材に選んでから、あらためて調べてみると
この二人の怖いくらいの因縁と、海軍を媒介にした関係の緊密さ、
不思議な一致に至るまで・・・・・・。

自画自賛みたいになってしまうのですが、数あるパイロットから
彼ら二人を選び出したことは我ながら凄いカンだったと驚いています。



この同世代の飛行家たちの生没年を並べて見ますと

エリソン   1885~1928

イーリー    1886~1911


ビーチェイ 1887~1915

一年ごと、順番に生まれたこの三人の男には、
飛行機乗りとして先駆であったというだけでなく、
こういう共通点がありました。

海軍のために飛んだこと、そして、飛行機事故で死んだこと



ホーネットの艦内展示にあった模型。

こうやって写真を撮ったのにもかかわらず、

リンカーン・ビーチェイのことを調べていて見つけたこの写真、



これとこの模型が、全く同じときのものであることに気づきませんでした。
飛行機黎明期のアクロバットパイロットであった

ユージーン・バートン・イーリー

が、アメリカ海軍にとって、歴史的な飛行を行ったときの記録写真です。
イーリーに授けられたタイトルは、

「世界で最初に飛行機で離着艦をした男」

というものでした。

1911年1月18日。

米海軍にとってこの日、
大きく歴史が変わろうとしていました。
サンフランシスコ湾に停泊したUSS「ペンシルバニア」の甲板に
飛行機をランディングさせること。

これが成功したら、海軍は飛行場がなくても飛行機を発着させることができ、
ビーチェイが説いたように、海上基地を拠点とした爆撃を行うことができます。

成功すれば、今までの戦闘の概念をすら覆すことになる画期的な挑戦でした。


このとき「ペンシルバニア」の表甲板は、飛行機の滑走のために工事が施され、
遮蔽物夾雑物を一切無くした「浮かぶ板」のようにされました。
甲板は全長40メートル、幅10メートル弱。
マストの前にはキャンバス地の幕が張られ、飛行機の壊滅的破損と
マストが折れることを防ぐ工夫が施されてます。

そして、民間パイロットで、当時アクロバット飛行のショーをしていた
イーリーがその歴史的実験飛行に挑むことになったのです。



彼が被っているのはフットボール用のヘルメット、
そして体に巻きつけたのは自転車のタイヤチューブで、
これは衝撃から身を守るためのものです。




前年の1910年11月、イーリーはカーティス・プッシャーを駆って、
「バーミンガム」から離艦することにすでに成功していました。




しかし着艦はまだ果たせていません。
当時の飛行機は木と布でできており、もちろんブレーキもありませんでした。
パイロットにできることと言えば、進路を車の運転のように操舵することだけ。

そもそも機体が完全にストップするのに、どんなに短く見積もっても
ペンシルバニアの甲板の全長と同じ40メートルを要するのですから、
彼のような名人といえども着艦は不可能やに思われました。



しかし、何としてでも船の上で飛行機を運用させたい海軍は、考えました。
そして思いつきました。

「そうだ、甲板にロープを貼ればいい!
それに飛行機のホイールが引っかければ、
短い滑走距離で飛行機は止まるじゃないか!」


空母の着艦ロープシステムがこの世に生まれた瞬間です。



サンドバッグを結びつけたロープを多数渡した甲板に機が侵入してきます。
三度目のアプローチののち着艦したイーリーの機は、かろうじて
一番最後のロープにホイールがかかり、停止しました。
マストの前に貼られたキャンバスのバリアーまで、
あと数メートルの距離だったと言います。


イーリーはその後インタビューに答えてこう嘯(うそぶ)きました。

「まあ簡単だったかな。
10回やれば9回は仕掛けが効いてくれると思う」



ユージーン・バートン・イーリーはアイオワ生まれ。

大学卒業後SFに移り、スポーツカーのテストパイロット兼セールス
(つまりテストレーサーともいいますが)をしていましたが、
結婚後ポートランドでグレン・カーティスの出資者である
ヘンリー・ウェンムのために働くようになったことから人生が変わります。

ウェンムの買った飛行機のテストパイロットとして、彼は経験を積み、
数えきれないほどの事故を経て、その飛行技術を芸術の域まで高めたといわれます。
1910年に州の飛行機免許を取り、
彼は正式にカーティスのテストパイロットになります。

その年11月、彼は、米海軍に積極的に飛行機を導入するための投資を進めていた
ワシントン・チェンバース大佐に会い、話の流れで()海上の艦船上から
カーティスの複葉機で飛び立つという挑戦をすることを承諾します。


(バーミンガムからの離陸)

このときに使用されたのはUSS「バーミンガム」で、賞金は500ドル
(今の1万ドル、つまり100万円くらい)であったといわれます。

このとき賞金を受け取っていたことが、彼の世間での評判を落とすことになり、
前述の「ペンシルバニア」への着艦の際も、海軍との癒着を噂されたりしました。

しかし、幸か不幸か、彼はその汚名を
自分自身の命を以て返上することになります。

ペンシルバニアへの着艦成功から9か月後の1911年10月、
彼は再び海軍の要請で、ジョージア州のメーコンでの着艦デモを行いますが、
この時、彼の乗った機体はロープを飛び越えて海に落ちてしまいました。


彼は海への墜落を避けるために、飛行機から甲板に飛び降りましたが、
その判断は彼の命を奪うことになります。

このために身に着けていたチューブもヘルメットも役に立たない箇所、
つまろ首の骨を折ったため、事故発生の数分後に死亡しました。

ユージン・バートン・イーリー
1911年10月19日、死亡
享年25歳

合掌。

明日に続きます。