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偵察機のパイロットたち〜スミソニアン航空博物館

2022-02-27 | 航空機

スミソニアン航空宇宙博物館の展示のコーナーから、
航空軍事偵察・写真の歴史を取り上げてきました。

今日は少し視点を変えて、やはり現地で紹介されていた
航空偵察機のフライヤー(パイロットではない)たちについてです。

戦闘機のパイロットや爆撃機のチームとは違い、
直接敵を攻撃することがないだけに、軍事航空の世界では
ほとんど取り上げられることのない彼らですが、
さすがはスミソニアン、そんな角度からもちゃんと光を当てています。


偵察パイロットやその他の飛行要員は、多くの場合、非武装で単独で行動し、
多くの戦闘やキャンペーンを陰で支える縁の下の力持ち、
そしてアメリカ人の好きな言い方で言うところの「知られざるヒーロー」でした。

彼らが収集する相手の位置、動き、兵力、そしてその意図に関する貴重な情報は、
我が方が十分な情報に基づいて意思決定を行うのに必要な知識、
条約遵守の保証、そして来るべき危険に対する警告そのものとなります。

彼ら「フライヤー」が歴史的にも注目されず、認識されなかったかというと、
その理由は全て、彼らの仕事が機密事項であるからに他なりません。

ここに数人のアメリカ人が紹介されています。

彼らは敵地の空に勇敢に立ち向かい、
決定的な一枚の写真を集めようとした無名のヒーローたちです。

■ カール・ポリフカ中佐(Karl L.Polifka 1910-1951)


「キル・イン・アクション」任務中戦死という言葉が没年に加えられていたのは、
ミリタリー・ウィキのページであり、普通のウィキには名前すらありません。

しかし、アメリカで最も有名な偵察パイロットと言われています。

その名前からおそらく東欧系アメリカ人と思われる彼は、
第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空隊の中佐でした。

陸軍航空隊のカール・L・ポリフカ中佐は、第二次世界大戦中の1943年、
イタリアの山岳地帯上空での空中偵察任務中に、F-4偵察機のパイロットとして
敵軍と空中戦を行い、これに対し殊勲十字章を授与された人物です。

朝鮮戦争の頃になると、すでに彼の年齢は三十代半ばになっており、
危険な偵察任務に就くには歳を取りすぎていると思われていましたが、
彼は出撃名簿を「ジョーンズ中尉」と偽名を記して飛んでいました。

責任感が強いというのか、いつまでも飛んでいたいという人だったのでしょう。

ある日武装したF-51機で目視偵察のために低空まで降下した際、
敵の激しい地上砲火に遭遇し、機体に大きな損傷を受けました。

損傷した機体で味方陣地へ帰投を試みるも、それ以上の操縦は不可能と判断し、
ポリフカ大佐は機体からパラシュートで降下しようと試みたのですが、
パラシュートが尾翼に引っかかり、脱出に失敗して死亡しました。

■ エリオット・ルーズベルト
(Elliott Roosevelt 1910-1990)



偵察で有名だったゴダード准将の天敵を失脚させるためにどうしたこうした、
という話をした時、このルーズベルトの息子が登場したわけですが、
5回の結婚歴やらその「黒さ」にちょっと驚いてしまいました。

そして、大統領の息子だからといって多目に見られていただけで、
どうせろくなもんじゃないだろうぐらいのことを思っていたのですが、
偵察の世界では、それなりに名前を残しているということがわかりました。

謹んでここにお詫び申し上げます。

写真は、1942年、北アフリカでドワイト・アイゼンハワーに偵察報告をする
エリオット・ルーズベルト(もちろん左)。

この年、ルーズベルトは第12空軍の写真部隊の司令官となっています。
その間、カメラマン、オブザーバー、ナビゲーター、ラジオオペレーターなど、
任務を帯びて、多くの偵察飛行に自発的に同行していたということです。


仕事してまっせ

北アフリカの写真偵察隊の指揮官として、エースパイロットの一人、
フランク・L・ダン中佐(左)と地図を確認するルーズベルト大佐。

なにしろ現大統領のご子息なんで、危険な偵察任務の類は、
周りも忖度したかもしれませんし、本人が望むなら、
後方でお飾りの任務をしてやり過ごすこともできたかもしれませんが、
彼はノブレスオブリージュという概念を理解していたようです。

1943年には地中海の広い範囲で連合軍の偵察活動の指揮をとった彼は、
1945年には准将となり、殊勲飛行十字章をはじめ多くの勲章を受けています。


■ウィリアム・B・エッカー海軍少佐
William Ecker (1924 –2009)


彼がなぜ偵察飛行家として有名かというと、それは
1962年のキューバ・ミサイル危機で活躍したということからです。

1962年10月23日、写真偵察隊62(VFP-62)の司令官であった
ウィリアム・エッカー中佐(当時)は、キューバ・ミサイル危機の最中に、
キューバ上空で初の低空偵察飛行を行い、
ソ連のミサイル基地を初めてクローズアップして撮影することに成功しました。

この任務では、RF-8クルセイダーを使用していました。


偵察士官って頭良さそうに見えませんか

キューバ危機終了後、エッカーはその功績により殊勲飛行十字章を受章。
彼が指揮したVFP-62部隊は海軍部隊表彰を受けることになりました。
1962年11月26日の式典でジョン・F・ケネディ大統領から直接表彰を受けました。

余談ですが、軍退役後、エッカー大佐は
スミソニアン国立航空宇宙博物館の施設で案内係を務め、
一般向けのツアーを行っていたということです。

やっぱり自分の展示の前では力が入ってしまったりしたんでしょうか。

2000年、ケビン・コスナーがプロデュースした映画『サーティーン・デイズ』で、
JFKの甥であるクリストファー・ローフォードがエッカー大佐を演じています。

キューバ危機についてはもう一度別の項でお話しします。

■ルドルフ・アンダーソンJr.少佐
Rudolf Anderson, Jr




ルドルフ・アンダーソンJr.はアメリカ空軍の少佐でありパイロットであり、
アメリカ軍および空軍の2番目に高い勲章である空軍十字章の最初の受賞者です。

アンダーソンは、キューバ・ミサイル危機において、
乗っていたU-2偵察機がキューバ上空で撃墜され、
敵の攻撃によって死亡した唯一の米国人パイロットとなりました。

彼は朝鮮戦争にもパイロットとして参戦しており、
その頃は日本の小牧基地から偵察任務に出撃していたということです。

戦後アメリカでロッキードU-2の資格を取得、キューバ危機において
U-2Fドラゴン・レディで6回目となるキューバ上空でのミッションに出発。 

二歩、キューバのバネス上空で発射された2発のソ連の
S-75ドビナ(NATO呼称SA-2ガイドライン)地対空ミサイルのうち、
1発に撃墜されたとされています。

爆発した近接弾頭の破片が彼の圧力服に穴を開け、高高度で減圧されたのが
直接の死亡の原因だったと結論づけられました。



事故直後の機体。
アンダーソン少佐の遺体は危機終了後の11月4日にキューバから返還され、
2日後、グリーンビルのウッドロー記念公園に埋葬されました。


メモリアルではなく、これそのものがお墓のようですね。
アンダーソンの乗っていた機体は現在もそのまま遺されています。


エンジン


エアインテイク

フロントランディングギア

1964年、ケネディ大統領の命令により、アンダーソンは空軍十字章のほか、
空軍特別功労章、パープルハート、チェイニー賞を授与されました。

キューバ危機の際に実際にキューバ上空を飛行したU-2パイロットは
全部で11名いましたが、アンダーソン少佐はその中で唯一の戦死者となります。


■ ジェームズ・R・ブリッケル中佐の写真


1967年ベトナム戦争中に撮られたタイ・ニュエン製鉄所



これを撮影したのはベトナム戦争のトップ偵察パイロットの一人、
ジェームズ・R・ブリッケル中佐
Lt. Col. James R. Brickel

この写真は、飛行中に85mm砲弾を受け、左エンジンとエルロンが損傷した
ブリッケル中佐の乗っていた偵察機(どうなっているのかわからない)。

ご本人、コーヒーを手に渋い笑いを浮かべて余裕です。


【DICING(ダイシング)】



ノルマンディー海岸のダイシングショット

「ダイシング」とは?
偵察目標を斜め方向から接近して撮影するための低空飛行のことです。
この写真はその代シングショットで撮られたノルマンディ海岸です。

この言葉は、"dicing with death "に由来します。
ダイシングはご想像の通り「ダイス」サイコロのことで、
この低空飛行にいかに命の危険があるかを表しています。


最後は、女性戦場カメラマンについてです。

■ 戦場写真家 マーガレット・バーク-ホワイト



冒頭写真は、何を隠そうHMS「ザ・クィーン・エリザベス」です。
ハドソン川でタグボートが巨大な船の入港作業を行っている様子ですが、
このブログをご覧の方の多くは、この後船がどうタグボートによって
方向を変えていくか想像がつくことでしょう。



撮影は女性写真家であり戦場カメラマンの草分け、
マーガレット・バーク-ホワイト(Margaret Bourke-White 1904 –1971)で、
1952年発行のライフマガジンのフォトエッセイ、
「アメリカを見る新しい方法」のために撮られました。

マーガレット・バーク-ホワイトは常に世界をその目を通して見る時
常にユニークな角度を模索していた写真家でした。

飛行機やヘリコプターのドアからぶら下がって、
空中から見た地上をフレームに収めるという極端なことさえしています。



どうやって撮ったんだろう、と首を傾げる写真が
一枚ならずあるので、ぜひお時間のある方はご覧になってみてください。

バーク=ホワイトは、コロンビア大学では爬虫類学を学んだそうですが、
興味を持っていた写真を仕事に選びました。

結婚は2回して二回とも短期間(2年と3年)で離婚しています。
パーキンソン病を発症し、後半生はその症状と戦いつつ
治癒することなく亡くなりました。

経済的には大変困窮した生活の中での孤独な死だったそうです。

若い頃、彼女のクライアントの一つ、製鉄業のオーティス・スチール社
セキュリティ担当者が彼女の撮影に難色を示しました。

製鉄会社が防衛産業であるからだというのですが、
国防の観点からなぜ女性であることが懸念されたのかはわかりませんね。

もう一つの理由は、製鉄所内の猛烈な暑さや危険で汚い環境に、はたして
女性とデリケートなカメラが耐えられるかどうか疑問視されたのです。

しかしなんとか懇願し、撮影の許可が出た後、彼女をトラブルが襲います。

当時のモノクロフィルムが、高温の鉄の赤やオレンジではなく、
青い光に反応したため、写真は露出不足で真っ黒になってしまいました。

そこで彼女は白い光を出す新しいタイプのマグネシウムフレアを持参し、
アシスタントにフレアを持たせて撮影を敢行しました。
その結果、当時としては最高の製鉄所の写真が撮れ、
この写真が有名になって彼女は全国的にも注目されるようになったのです。

1930年、彼女は西側の写真家として初めてソ連への入国を許可され、
またナチス政権下のドイツ、オーストリア、チェコスロバキアの撮影のため
ヨーロッパにも渡っています。

ソ連では5カ年計画を記録し、スターリンとその家族を撮影しました。



彼女は第二次世界大戦が始まると、1941年、
戦闘地域で働くことを許された最初の女性となってソ連に渡りました。

ドイツ軍が侵攻してきたとき、彼女はモスクワにいた唯一の外国人写真家でした。
彼女はアメリカ大使館に避難し、大火災の様子をカメラに収めました。

戦争が進むと彼女は北アフリカのアメリカ陸軍航空隊を始め、
ヨーロッパに進出した陸軍に配属されるようになりました。



1943年1月22日、飛行隊指揮官のルドルフ・エミール・フラック少佐は、
バーク-ホワイトを乗せたまま、第414爆撃隊B-17F
「リトル・ビル」
でチュニジアの敵飛行場を爆撃しています。

行動中、地中海で魚雷を受け、ドイツ空軍の空爆を受け、北極圏の島で立ち往生し、
モスクワで爆撃を受け、ヘリが墜落してチェサピーク号から引き上げられた彼女は、
『不滅のマギー』 'Maggie the Indestructible'
と呼ばれました。

こんな彼女を嫌う人たちはたくさんいたようですが、
ドワイト・D・アイゼンハワー将軍もその一人だったようです。

ここで紹介したことがあるベトナム戦争の女流カメラマン、
ディッキー・シャペルも、軍関係者にはえらく嫌われていたそうですが。

1945年の春、彼女はジョージ・S・パットン将軍とともに行動し、
悪名高い強制収容所、ブッヘンヴァルトで撮影を行いました。

このときも、のちの朝鮮戦争でも、パキスタンでも、彼女は
散乱した死体うや虚ろな目をした人々を記録しましたが、彼女自身は
対象物と自分の間にカメラがあったことはまだしも「救いだった」と述べています。



また、1948年、ガンジーが暗殺される数時間前に、
彼にインタビューして、あの有名な写真を残したのでした。


続く。


U-2事件と捕らえられた偵察パイロット〜スミソニアン航空博物館

2022-02-25 | 飛行家列伝

スミソニアン航空博物館の軍事偵察・写真のコーナーから、
今日は偵察機ロッキードU-2を取り上げます。

その前に、アメリカ空軍の偵察パイロットであり、
数奇な運命により有名になったある人物の話をしましょう。

■捕らえられたU-2パイロット
 フランシス・ゲーリー・パワーズ大尉
Francis Gary Powers 1929-1977


パワーズ大尉

米ソ冷戦の真っ只中であった1960年5月1日、アメリカのU-2偵察機が、
ソ連領内深くで空中偵察を行っている最中に、ソ連防空軍に撃墜されました。

これをU-2撃墜事件といいます。

CIAパイロット、フランシス・ゲリー・パワーズが操縦する単座機は、
スベルドロフスク、現在のエカテリンブルグ付近上空で
S-75ドビナ(SA-2ガイドライン)地対空ミサイルを受けて墜落し、
機体から脱出したパワーズはパラシュートで降下し、捕らえられます。

アメリカ政府は当初、NASAの民間気象調査機が墜落したと言い張っていましたが、
数日後、ソ連政府が捕虜となったパイロットとU-2の監視装置の一部、
作戦中に撮影されたソ連軍基地の写真などを公表したため、
それがアメリカ軍の軍事偵察機であることを認めざるを得なくなりました。


【U-2事件の背景】

当時の両国首脳はアイゼンハワー大統領とフルシチョフ首相でした。


キャンプデービッドにおけるアイクとフルシチョフ

まずいことに、両巨頭は2週間後にパリでの東西首脳会談を控えていました。

フルシチョフとアイゼンハワーは、前年すでにキャンプデービッドで
歴史的な直接会談を行なっており、その成果がまずまずだったことから、
アメリカ政府は、次の会談を、米ソ関係の雪解け、
冷戦の平和的解決につなげようと大きな期待を持っていました。

ところがよりによって最悪のタイミングでこの事件が起こってしまったのです。

先の会談の開催地名から、両者の歩み寄りと友好具合をして
「キャンプ・デービッドの精神」と世間にもてはやされているときに事件が起こり、
予定されていたパリでの首脳会談は中止となってしまいました。

U2の事件はアメリカの顔に泥を塗ることになってしまったのです。
アイゼンハワーは、この知らせを受けて俺おわた、と思ったに違いありません。


そもそも、どうしてよりによってこんな時期に、
アメリカはソ連の領地奥深くに入り込んで偵察をしていたのか。

そのきっかけとなったのは、他でもないアイゼンハワー大統領その人でした。

キャンプ・デービッド会談の前年となる1958年7月、
アイゼンハワー米大統領は、パキスタンのフェローズ・カーン・ヌーン首相に、
パキスタン国内にアメリカの秘密情報施設を設立することを求めました。

当時のソ連戦闘機では届かない高高度を飛行し、ミサイルも届かないと考えられた
U-2偵察機を、ソ連になんとか潜入させることができる場所、ということで
ソ連領内の中央アジアに交通至便なパキスタンが選ばれます。

その結果、アメリカ国家安全保障局(NSA)は大規模な通信傍受を行い、
ソ連のミサイル実験場、主要インフラ、通信の監視が可能になったのでした。

U-2、通称「空のスパイ」は、衛星観測の技術がない時代に、
敵の重要な写真情報を得るための大変有効なツールであったのです。

【アイゼンハワーの誤算】

しかしながら、アイゼンハワー大統領本人は、そもそも
自国のパイロットを直接ソ連の上空に飛ばすことには否定的だったといいます。

それは、もしこのパイロットの一人が撃墜されたり捕らえられたりすれば、
それが侵略行為とみなされる可能性があると考えたからに他なりません。

とくに冷戦時代には、侵略行為とみなされるだけでも、それが
両国間の紛争に発展しかねない一触即発の緊張関係にあったからです。

しかし、せっかくパキスタンに偵察の根拠地を得たので、なんとかここを使いたい。

というわけで、CIA(中央情報局)の代わりに、同盟国であるところの
イギリス空軍のパイロットがソ連の空を飛ぶ
という案が浮上しました。

当時イギリスは、スエズ動乱でエジプトに負けてスエズ運河を取られ、
国内もしっちゃかめっちゃかという「スエズ後遺症」が残っており、
アメリカの要請を無視できる立場ではなかったので、
結局この提案を飲み、英軍パイロットを偵察に出すことを了承します。

U-2をイギリス人パイロットに操縦させることによって、
アメリカは何かあってもシラを切れる、いや関与を否定できるというわけです。

汚いさすがアイゼンハワー汚い。

しかしこの作戦、イギリスには一体どういうメリットがあったのかと思いますよね。
ジャイアンアメリカの機嫌を損ねることを恐れていたのかな。
イギリスさん、スエズ動乱でそんなに弱り目だったのでしょうか。

それはともかく、最初の2人のイギリス人パイロットは偵察に成功しました。
これはいける、と喜んだアイク、ソ連の大陸間弾道ミサイルの数を
より正確に把握するために、さらに2つの偵察ミッションを許可しました。

その後、2回の成功で調子にのって、パイロットをアメリカ人にしたことが、
アイクとアメリカ政府にとって大きな後悔を生む結果となります。

これが5月16日に予定されていた4カ国首脳会議(パリサミット)の前のことです。

そして1960年4月9日、CIA特別部隊「10-10」のU-2C偵察機は、
ソ連の南側国家境界線をパミール山脈付近で越え、セミパラチンスク実験場、
Tu-95戦略爆撃機が配備されているドロン空軍基地、
サリシャガン付近にあるソ連防空軍の地対空ミサイル(SAM)実験場、
チウラタムミサイル射場(バイコヌール宇宙基地)
という
ソ連の4つの極秘軍事施設の上空を飛行しました。


国家境界を飛行した時点でソ連防空軍に探知され、U-2は飛行中に
MiG-19とSu-9による数回の迎撃を受けますが、これを回避し、
諜報活動をまず一回成功させました。

【U-2撃墜さる】

パリでの東西首脳会議開催予定日の15日前の5月1日。

ロッキードU-2C偵察機「アーティクル358」に搭乗した
ミッションパイロットのフランシス・パワーズ大尉は、
作戦コード「グランドスラムGRAND SLAM」を受けて基地を出発し、
バイコヌール宇宙基地プレセツク宇宙基地のICBM発射場などを偵察、
撮影するというミッションを成功させました。

しかしながらソ連側はU-2の飛来を十分予測していたため、
ソ連ヨーロッパ地域と極北のソ連防空軍の全部隊が警戒態勢に入っていました。

機影が探知されるやいなや、全空軍部隊の指揮官に、

「進路範囲内を全てくまなく警戒飛行し、
侵入者を攻撃、必要とあらば『体当たりram』せよ」


という過激な発令が下されました。


ramというのはAir rammingともいいます。
昔の軍艦に装備されていた衝突用の「衝角」をラムといいますが、
航空機のラムは、空中での体当たりのことで、
戦法として行うため自身は生き残ることを目的としているところが戦略であり、
自死が前提の神風特別攻撃とは全く違っています。

このときソ連軍司令部が出した「体当たりしてでも」という命令は
偵察機に対する戦法としてはあまりにアグレッシブですが、
「資本主義者の侵略意地でも許すまじ」とでもいう気概だったのでしょう。


しかし、ソ連軍の戦闘機による迎撃は失敗に終わりました。
先ほども書きましたが、U-2の航行高度が極端に高かったためです。

戦闘機の攻撃を難なくスルーしたU-2はウラル地方のコスリノ付近まできました。
そこで、ミハイル・ボロノフ中佐が指揮する砲台が発射した
3発の地対空ミサイルSA-2ガイドライン(S-75 Dvina)のうち、
最初の1発がU-2にヒットし、撃墜されることになります。



なぜか写真ではなく似顔絵しか残っていないボロノフ中佐


U-2を撃墜した対空ミサイル


スミソニアンに現物展示中

皮肉なことに、CIAはすでにこのミサイルの発射位置を
情報活動によって把握していたはずでした。

このとき、U-2を追っていたソ連のMiG-19戦闘機の1機も
ミサイル一斉射撃で破壊され、結局撃墜されて
パイロットのセルゲイ・サフロノフ中尉死亡しています。

さすがはおそロシア(あ、ソ連か)と思ったのですが、
いくらソ連でも、味方と分かって撃ったわけではなかったようです。

サフロノフ中尉にとって不幸なことに、この日5月1日が祝日だったため、
MiGのIFFトランスポンダーが5月の新コードに切り替わっておらず、
その結果、機体がミサイルオペレーターに敵と認識され、
さらに一斉射撃が行われたというのが真相のようです。


気の毒すぎるサフロノフ中尉(享年30歳・妻子あり)

しかも、サフロノフ中尉には赤旗勲章が授与されたものの、
勲章には死亡理由などは書かれておらず、彼の存在は、そ30年後の
グラスノスチの時期まで明らかにされなかったそうです。
(やっぱりおそロシア)

没後50周年には、ボリショエ・サビノに駐留するミコヤン製のMiG-31戦闘機に
サフロノフの名前が付けられたそうですが、なんだかなあ。


【パワーズ捕虜になる】

パイロットのパワーズは、この時点では軍人ではありません。
U-2を運行していたのは、軍ではなく、CIAだったからです。

もともとF-84のパイロットであった彼は、朝鮮戦争で数々の戦果を挙げ、
CIAに引き抜かれた後、空軍を除隊し、CIAのU-2による偵察活動に加わりました。


操縦用のスーツを着用したパワーズ

撃墜された機からベイルアウトしようとしたパワーズは、
酸素ホースを外すのを忘れていたため、ホースが切れるまで格闘した末、
ようやく機体から離脱することができました。

さすがのベテランも初めてのことで少しパニクっていたのかもしれません。

パラシュートで降下したパワーズは落下地点の住民に救出されました。
当初ソ連軍兵士と思われていたのですが、すぐに
所持品からスパイであることがバレて逮捕されることになりました。

U-2パイロットのためのサバイバルキット。
U-2パイロットは、フィールドでのサバイバルのために、
驚くほど完全かつコンパクトなキットを装備していました。

マチェーテ(サバイバルナイフみたいな刀)
リップバーム(左真ん中の注射器状のもの)
水分補給キット
サメよけ
浄水タブレット
日除けゴーグル
虫除け

シャープストーン(砥石)
サンスクリーン
バッテリー
サバイバルマニュアル
ホイッスル
コンパス

釣り道具(左下のカードのようなもの)
ウォーターバッグ
ラジオ
シーダイ・マーカー(海難救助用マーカー)
シグナルミラー
単眼鏡


この他、おそらく偵察パイロットの多くが、捕らえられたときのために
何らかの自決用道具を持っていたと思われるのですが、このときパワーズも、
貝由来のサキシトキシンを含んだ致死性の針を改造した銀貨を持っていました。

しかし、彼がそれを使うことはありませんでした。
すぐに没収されてしまってできなかったのか、それどころではなかったのか、
あるいは自決は全く考えなかったのかは謎です。


アメリカ軍司令部は航空機が破壊されたことに30分以上も気づきませんでした。


ソ連当局に捕らえられたパワーズは公開裁判にかけられました。
偵察スパイ行為を行っていたことを自白し、有罪判決を受けた彼は禁固10年、
それもシベリア((((;゚Д゚)))))))送りの刑を言い渡されます。

ちょっと待て、アメリカがパワーズのために何もしなかったはずはないだろう?
と思われた方、あなたは正しい。

もちろんアメリカ側もパワーズの救出のためにいろいろと画策しましたともさ。

その策とは、アメリカでスパイ容疑で逮捕されていた
捕虜KGB大佐ルドルフ・アベルとの身柄を交換するというものです。

結果申し入れが成立してパワーズは解放され、無事帰国することができました。


パワーズの有罪を伝える国内紙



帰国することを知り涙するパワーズの妻(美人)

【アメリカ帰国後のパワーズ】

パワーズがアメリカに帰国したとき、アメリカ国内では英雄扱いどころか、
偵察員としての彼の行動に非難の声が起きました。

つまり、撃墜されてからソ連側に逮捕される前に、U-2機密情報や偵察写真、
部品を自爆装置を用いて処分するべきだったでしょ、というわけです。

そして、やはりというか、一部からは
CIAの作った自殺用毒薬を使用しなかったという批判
もなされました。

戦時中までの日本なら当たり前だったかもしりれない、この
「生きて虜囚の辱めを受けず」論ですが、アメリカでも
軍人に対してはこういう言説があるのかとちょっと驚かされます。

もっとも、今回はパワーズが偵察員であったことが批判の原因でした。
「恥」などではなく、機密保持のためなら自殺も辞すな、というわけです。

パワーズは、帰国後にCIA、ロッキード社(U-2の製造者)、空軍から
事情聴取を受けたあと、1962年3月6日、上院軍事委員会に出頭しましたが、
その結果、重要な機密は一切ソ連側に洩らしていないと判断されました。
無実が証明されたというわけですが・・・・本当かしら。

彼はその後、ロッキード社にテスト・パイロットとして勤務し、
1970年、事件における自身の体験を綴った本、
“Operation Overflight”を共著で出版しています。

この本の中でパワーズは、かつてソ連に一時亡命した、あの
リー・ハーヴェイ・オズワルドがソ連側に渡したレーダー情報が
U-2撃墜事件につながったと指摘しているそうです。

これはどういうことか、5行くらいで説明しておきます。

オズワルドというと、ケネディ大統領の暗殺犯の疑惑がかけられたまま
暗殺されてしまっったあの人物ですが、彼は海兵隊員として
厚木で航空管制官をしていたことがあり、そのときに得たU-2の情報を
のちにソ連に亡命したときに当局に売り渡し、その情報をもとにして
ソ連軍はこのときU-2のミサイル撃墜を可能にした、というのが彼の説です。

ケネディ暗殺が謎に包まれているのでこの辺のことも全く明らかになっていません。



1998年、U-2偵察活動についての情報が極秘解除され、
この偵察活動は合衆国空軍とCIAの共同作戦だったことが判明しました。

今もなおアメリカ国内では、パワーズは逮捕時自殺すべきであった、
との世論も根強くあるといいます。

しかし、高度2万メートルで搭乗中にミサイルに撃墜された事例は他になく、
また通常脱出装置が作動しても生還できないケースも多いことから、
自爆操作や自殺が可能であったかなどについては疑問が残されています。

■パワーズが着用したU2フライトスーツ


このときのパワーズの写真が添えられたU-2搭乗員の装備が展示されています。


フランシス・ゲリー・パワーズがソ連から帰国後
ロッキード社のU-2をテストパイロットとして操縦した際に着用した高高度分圧服。
(実物です)

高高度飛行による生理的影響を防ぐために1950年代に開発されました。
U-2の高高度服のさらなる改良は、
初期の宇宙服開発の技術革新によるものでもあります。

U-2のフライトスーツは、パイロットの体にスーツを密着させるために、
膨らませたチューブとクロスステッチを使った
「キャプスタン原理」を初めて採用していました。

キャプスタン原理については詳しいことはわからなかったのですが、
おそらくこれが関係あるかと・・・。

キャプスタン方程式

これにより機械的な圧力が発生し、
高高度での体内のガスや液体の膨張を抑えることができました。

【フランシス・パワーズの死】

1977年8月1日、パワーズは、ロサンゼルスでKNBCテレビのレポーターとして
ヘリコプターに搭乗中、墜落死しました。

事故の原因は燃料計の故障でした。

自分の操縦する機体を撃墜されてその人生を狂わされた男が、
その人生を墜落事故によって終わらせたということになるのですが、
運命とはなんと手の込んだ皮肉な真似をするものです。

墜落中の彼は、かつてU-2から脱出した瞬間を思い返したでしょうか。

2000年、事件から40年後、既に亡くなっていたパワーズに
捕虜章(Prisoner of War Medal)、
殊勲飛行十字章(Distinguished Flying Cross)、
国防従軍章(National Defense Service Medal)
が授与され、
彼の遺族がそれを受け取りました。




パワーズの遺体はアーリントン国立墓地に埋葬されています。

続く。


令和3年 海上自衛隊東京音楽隊第61回定期演奏会@サントリーホール

2022-02-23 | 自衛隊

去る令和3年2月20日に東京赤坂のサントリーホールで行われた
海上自衛隊東京音楽隊第61回定例演奏会に参加させていただきました。

前日の雨は止みましたが、予報は一日曇りを告げる日曜です。
わたしは会員となっている商業施設の駐車場に早めに車を停め、
日曜で森閑としているビル内のスターバックスで開演を待ちました。

コロナ前であれば、オフィスは休業でももう少し人で賑わっていた場所です。
サントリーホールの前まで行ってみると、なんと向かいのビルは
カラヤン広場に面したカフェこそ営業していたものの、
ビル内部に続く扉はオフィス休業日ということで鍵がかかっていました。

サントリーホールには開館以来何度となく足を運びましたが、
こんな寒々しい開演前のカラヤン広場を見るのは初めてです。

昔・・・・・といってもまだバブルの尻尾的名残が残っていた頃、
当時の全日空ホテルに行くために広場前を横切ったら、
サントリーホールの前に、日本ではついぞ見たことがないような
ロングドレスにブラックタイの観客が、おそらくオペラの幕間だったのか、
外に出てきてなんとシャンパングラスを手に笑いさざめく光景を目撃しました。
(シャンパンはおそらくロビーカウンターから持ってきたもの)

流石にそんな光景を見たのはその時だけでしたが、
今にして思えばあれは日本が華やかな時代を享受し尽し終わる前の
最後の残光のようなものだったような気がします。

あれからいろんなことが起こり、今ではそんなことがあったのが
夢ではないかと思えるそのまさに同じ場所で、わたしは一瞬感慨に耽りました。


今回は届いた座席番号の書かれたハガキ状の入場券を見せると
係はそれを手に取って確認することなく、プロブラムを自分で取って、
席に着くという「非接触型」の開場になっていました。

ロビーに人が出てソーシャルになるのを防ぐため、
休憩時間を設けずに短めのプログラムを一気に行うのも以前と同じです。

わたし自身もコンサートというものにはしばらく足を向けていませんでした。
自衛隊以外では非常事態宣言前のペンタトニックス以来行っていないのですが、
これがコロナ禍下でのコンサートの新しい常識というものなんでしょうか。

席は前回と同じく一席ごと空席を設け、ステージ前数列も空席です。

ホール内では写真撮影禁止というアナウンスはありませんでしたが、
前回のように何が変わったかわからなかったので、
カラヤンが助言して設置されたというサントリーホールの流麗な
オーストリアのリーガー社製パイプオルガンの写真も我慢しました。

「サントリーホール オルガン プロムナード コンサート」
お昼休みの無料コンサート/演奏:坂戸真美(2017年11月2日)

ちなみに、サントリーホールは定期的にパイプオルガンの
無料コンサートを行なっています。

パイプオルガンは使用していないと、最悪ネズミ一家が住み着いたり、
埃などでいろんなところに不具合ができるので、料金が発生しない集客で、
演奏者にもボランティア的に出演してもらってでも稼働させないといけないのです。


今回は、会場内での会話を禁止するアナウンスはありませんでしたが、
演奏中の写真撮影、演奏後の時差退出などを告知するアナウンスの、最後に
「ブラボー」という掛け声などもご遠慮ください、というのには苦笑しました。

余談ですが、クラシック鑑賞業界?には「ブラボーマン」というのがいます。
それは、演奏終了後ブラボー!と叫ぶのを我が使命とし、あわよくば
有名演奏家の来日公演ライブレコードに我がブラボーを永久に残そうと、
演奏内容より終わりの瞬間を待ち受けることに全神経を傾けて
コンサート会場に通う、「自称クラシック通」のおじさんのことです。
(女性にはいない。見たことがないし聴いたこともない)

このブラボーマン、静かな曲の終演後にやったり、チャイコフスキーの交響曲6番で
3楽章の終わりについフライングしてしまったりするので、一般に評判が悪く、
演奏家にとってもあまり歓迎されていない(と思う)存在なので、
このようにホール側が堂々と「ブラボー禁止令」を出すことができたのは、
ある意味コロナ禍下における「奇貨」と言ってもいいんじゃないかと思いました。

そういえば、わたしの知り合いの演奏家の父上は、息子専門のブラボーマンで、
息子の演奏後、朗々たる美声で「ブラボー」はもちろん、
「マエストロ!」などとアレンジして叫ぶのを楽しみにしている方でしたが、
この楽しみがなくなってさぞがっかりしておられると思います。

っていうか、そもそも演奏会自体もできなくなっているかも・・。




■ 前半・イタリアオペラの世界

さて、前回、定例演奏会で海上自衛隊初の男性歌手が「お披露目」をした、
とご報告し、さらに今回の定期演奏会での曲目に
プッチーニの「誰も寝てはならぬ」があったことから、
今回のコンサートはこの男性歌手の正式なデビューになるだろうと予想しました。

プログラムは、どうやらそこに焦点を当てたらしく、1番から4番までは
イタリアオペラから、序曲、女性アリア、男性アリア、間奏曲という構成です。

1、歌劇「ウィリアム・テル」序曲より スイス軍隊の行進
ジョアッキーノ・ロッシーニ


演奏者の髪型と画質からかなり前の演奏?

イタリアオペラの序曲といえば、知らない人のいないこの曲。
もしかしたら、この部分が正確には序曲の4部であり、
「スイス軍の行進」という題がついているということを
知らずに聴いている人も多いかも知れませんね。

吹奏楽のアレンジが合うのでよくこのような編成で演奏されます。

案内なしで一曲目が終わると、おなじみ、ハープ奏者の荒木美佳2等海曹
(幕僚監部総務課広報部と自己紹介された)の司会により、
今回の定期演奏会はいよいよ始まりました。

曲と作曲者紹介の際、ロッシーニが美食家だったこと、それゆえ
世には「ロッシーニ風」料理がたくさん残されている、
という楽しい話題を取り上げて、掴みは万全のMCです。

ロッシーニ風はステーキとかカツレツとか、とにかく肉系の料理に多いようですね。
特にロッシーニ風ステーキとくれば、フィレ肉とフォアグラに、
マディラワインに黒トリュフソースという成人病一直線みたいな一皿でございます。

そんな贅沢料理を愛したロッシーニの死因は直腸癌だったとか。
自業自得とはいえ、本人も以て瞑すべしだった・・・と思いたい。

わたしは、料理についての彼の箴言?のうち、

「女が作る料理は、バターをケチるからいけない」

とか、自分の銅像が生きているうちに建つと聞いた彼が、その建造費を聴いて、

「それだけくれたら私がずっと立っていてあげるのに」

と言ったという話が好きです。


2、歌劇「ランメルモールのルチーア」より 辺りは沈黙に閉ざされ
ガエタノ・ドニゼッティ


まず、先輩歌手?の中川麻梨子三等海曹がオペラの大アリアを歌いました。

コアなオペラファンでもない限りご存じないオペラだと思いますが、
ヒロイン、ルチアの「狂乱のアリア」とこの曲は大変有名です。

この日中川三曹が選んだのは、好きでもない男と結婚させられそうになるルチアが
泉のほとりで、恋人を刺されて泉に沈められた女の幽霊話のついでに?
自分が本当に愛している男を思って歌うシーンのアリアでした。

ちなみにメトで歌い終わった後、12分間拍手が鳴り止まなかったという、
伝説の歌手ジョーン・サザーランドの歌唱はこちら。(アリアは5:00から)



お聴きになれば、いかに技巧の難しい曲かはお分かりいただけるでしょう。
中川三曹は声楽コンクールにも入賞している本格的なソプラノ歌手で、
歌いこなすだけでも大変なこの曲を見事に仕上げておられました。

ただ一つ残念だったのは、吹奏楽団の伴奏とのバランスの関係で、
ところどころ声が伴奏に埋没してしまったことでしょうか。

しかしこれは、自衛隊音楽隊における宿命のジレンマみたいなもので、
オケの曲を吹奏楽に編曲する限り、作曲者の意図とは乖離する部分が出てきます。

特にクラシック声楽曲と吹奏楽の相性は難しいと考えます。
一般にオペラ歌手は増幅装置一切なしでフルオケバックに声を響かせられますし、
今回は足元に目立たないマイクを置いて調整していたように見えましたが・・。


3、歌劇「トゥーランドット」より 誰も寝てはならぬ
ジャコモ・プッチーニ


Luciano Pavarotti's Last Public Performance - Torino 2006 Opening Ceremony | Music Monday

せっかくなので、トリノオリンピックでのルチアノ・パヴァロッティの演奏を。
トリノの時には、閉会式でアンドレア・ボッチェリも歌っていましたっけ。

つくづく、世界一の歌手がゴロゴロいる国は、いざオリンピックとなっても
アトラクションの方向性に一切迷いがなくていいですね(ため息)

今回大注目の男性歌手、ハシモト・コウサク二等海曹のデビューです。
自衛隊のポリシーとして隊員個人をクローズアップしないので、
バックグラウンドどころか名前の漢字すらいまだにわからんのですが、
音楽大学でオーソドックスな声楽の勉強をされた方のように思われました。

この曲は幸いオーケストレーションが元々そのようにできているので、
バックとのバランスはさほど気にならなかったです。


思うに、オペラのアリアは、その数分間で登場人物とその世界を演じ切る芸術です。

この「ネッスン・ドルマ」(誰も寝てはならぬ)という曲は、
何かの理由で結婚したくないがため、求婚者に謎解きをさせて(かぐや姫?)
解けない者を斬首させてきた紫禁城のトゥーランドット姫の元に現れた王子が、
謎をいとも簡単に解いてしまったにもかかわらず、往生際悪くゴネる姫に向かって、
今晩中に私の名前(カラフ)を当てたら私を殺すが良い、
私は朝には必ず勝利しあなたを手に入れる、と力強く宣言する歌です。

ハシモト二曹が「ビンチェロー!」(勝利する)の後の後奏の間、
カラフがそうであったように、勝利を確信した風に拳を握りしめて
炯々とした眼を宙に据えた立ち姿は、その長身もあって姿勢が実に美しく、
(この辺りは自衛官としての任務の賜物かも)この様子には心底感動しました。

まだお若いので、これからいろんな経験値を加えて身体作りを含め、
音楽家としての幅を広げていかれることを期待します。


4、歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より 間奏曲
ピエトロ・マスカーニ


前半のイタリアオペラパートの最後に選ばれたのは、マスカーニの
翻訳すると「田舎の騎士道」というタイトルの歌劇の間奏曲でした。

イタリアンパートとしては最後の曲ですが、コンサート全体としては
この曲が中間点となる、という意味で選ばれたようです。

有名なこのオペラの中で最も人口に膾炙したと思われる間奏曲で、
誰もが一度は聞いたことくらいあるのではないでしょうか。

ただ、この曲に関しては吹奏楽のアレンジに物足りなさを感じました。

前奏部分が終わって主旋律となった時に、オケ版では弦楽器がメロディを奏で、
ハープ2台とコントラバスのピッチカートがそれを支えるのですが、
このアレンジだと、吹奏楽をハープ1台とコンバスだけで支えることになり、
このピチカートのメロディが埋もれて全く聴こえてこなかったのです。

マスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」より間奏曲
[吉田裕史指揮]


僭越ながら、原曲のスタイルにこだわらず、
いっそポップス風にアレンジしてしまった方がよかったのでは、と思いました。



■中間・海上自衛隊紹介(艦Tubeのことなど)

本来ならここで休憩というところで、改めて海自の宣伝が入りました。
海上自衛隊の「艦tube」(かんつべと読みます)の紹介などですね。

制服系公務員ユーチューバーとして、中の人が紹介しています。

【艦Tube】輸送艦「おおすみ」に潜入してみた!


【艦Tube】P-3Cで離陸してみた!


東京音楽隊の内部潜入バージョンも!(おすすめ!)

【艦Tube】東京音楽隊で演奏してみた!


■ 後半  ザ・吹奏楽曲

前半では歌手の歌声を堪能し、それはそれで大変満足しましたが、
その関係上、オーケストラ曲の吹奏楽編曲が続くことになったため、
後半最初のこの曲では、出だしのこれぞ吹奏楽!という響きに心が沸き立ちました。

遥かな海へ 川邊一彦

海上自衛隊 ~遥かな海へ~


ご存知、かつて東京音楽隊長でいらした川邊一彦氏の曲を、
海自の公式チャンネルが素晴らしい映像に被せた名作です。

海上自衛官にしか作れない音楽と海上自衛官ならではの素晴らしい編集、
海上自衛隊ファンなら1日に一度は必ず見たくなること請け合いです。

そして実際にネイビーであった人であれば、この、波の音や風の音まで再現し、
「出港用意」「入港用意」の声を配した曲に特別の感慨を持たれるでしょう。

わたしの一つ置いた隣にはアメリカ海軍らしき方が座っておられたのですが、
同じネイビーとしてこの曲をどう思っておられるかな、などとつい考えていました。

ところで、楽譜に書かれている「出航用意!」「入港用意!」の声を
このステージではどの楽器が担当しているんだろうと思っていたのですが、
最後に樋口隊長が、後ろに座っている歌手のハシモト二曹を紹介しました。

なるほど、男性歌手の「使い方」として何たる適材適所。

そして、予想通り、演奏が終わってから樋口隊長は客席を探す仕草をしてから、
観客の一人となって演奏を聴いておられた作曲者を紹介しました。

座っておられた席が近かったので、退場の時声をかけられる距離を歩いておられ、
わたしはこの曲が大好きであることと、川邊隊長が退官前の音楽まつりで
歌声を披露され、すっかりそれに魅了された記憶があったことを
お伝えするチャンスだったのですが、こういうとき極端に引っ込み思案のわたしは、
結局どうしても声が出ず、心の中で称賛を送るにとどまりました。



吹奏楽のための第一組曲 Suite for Military Band op.28
グスターブ・ホルスト

「吹奏楽のための第一組曲」イギリス式 金管五重奏 
海上自衛隊 横須賀音楽隊『按針フェスタ2017』


ホルストといえば「惑星」ですが、この曲は原題である
「For Military Band」の通り、元々は軍楽隊のために作曲されました。

この曲の解説では、吹奏楽が軍楽隊から発展したものであることなど、
その起源が紐解かれて、観客の興味を引きました。

説明の通り、吹奏楽=軍楽とはっきり記録に残されているのは
1557年に結成されたロイヤル・アーティラリーバンドだと言われます。

しかし、「ミリタリーバンド」というのは英語の解説によると、
必ずしも軍楽隊だけを意味するものではなく、20世紀以降は
地元の警察や消防団、さらには工業会社が組織する民間バンドなど、
木管、金管、打楽器を含むあらゆるアンサンブルに
「ミリタリーバンド」という言葉が適用されるようになったとあります。

この日の前半がたまたまそうであるように、当初イギリス軍楽隊では
演奏していた音楽の大半がポピュラー音楽やオーケストラの編曲だったそうです。


つまり、吹奏楽というメディアのために特別に作曲された本格的な音楽はまだなく、
従って楽器編成も標準化されていなかったということですね。

これは、管楽器群からなるアンサンブルは音色のまとまりに欠ける、
という管弦楽至上主義的な考え方が浸透していたことに加え、
決まった楽器編成がないことが作曲家にとって大きな障害だったようです。

ホルストがわざわざ「軍楽隊のために」と楽器構成を指定して作曲したのが、
この「変ホ長調組曲」で、吹奏楽というメディアを念頭に置いて作曲された
ほとんど初めての試みだったとする説もあります。

しかしながらわざわざそう断るだけあって、非常によく練られており、
響きも計算されていて、それというのもホルスト自身、
トロンボーン奏者としてバンド経験を重ねる中、従来の吹奏楽レパートリーに
大いに不満を抱いていたことが作曲のきっかけだったからだそうです。

ただし、この作品については詳しいことはほとんどわかっておらず、
委嘱作品であったという記録もないため、作曲の直接の動機は不明だそうです。


ともあれこの組曲は、吹奏楽のために書かれた本格的な作品であり、
軍楽隊特有の課題に対応するためのオーケストレーションで書かれています。

先ほども書いたように、当時は軍楽隊に標準的な楽器編成がなかったため、
ホルストは19の楽器のスコアを書いているものの、
残りの17のパートにはなんと、「ad lib.」と記されています。

ちなみに当時のイギリスの軍楽隊は20人から30人程度だったので、
19のパートをカバーした後、残りのパートは文字通り「アドリブ」で
作品の完成度を損なわずに追加したり削除したりできる仕組みでした。

この第1組曲は音楽史的、というか吹奏楽音楽史的に重要な意味を持ちます。

多くの著名な作曲家たちに、この曲以降、木管楽器、打楽器、金管楽器という
組み合わせを使って本格的な音楽が書ける確信を与えたのです。

レイフ・ヴォーン・ウィリアムズの「イギリス民謡組曲」(1923年)、
ゴードン・ジェイコブの「ウィリアム・バード組曲」(1923年)
などがその代表的な例と言われています。

曲は3楽章から成り、どれも「スコッチ風」が色濃く匂いました。


「ハイランド讃歌」より フラワーデール
フィリップ・スパーク


フィリップ・アレン・スパーク(1951年生まれ)はロンドン生まれ。
コンサートバンドやブラスバンドの音楽で知られています。
ホルストに続いてスパークで、後半は川邊氏以降オールイギリスだったわけです。

初演は2002年で、テーマはスコットランドですが、民謡は使われていません。

組曲全体は7つの楽章からなり、すべてスコットランドの
ハイランド地方にちなんだ名前となっていますが、この日はその中から

フラワーデイルFlowerdale - ソプラノ・コルネット・ソロのための

が演奏されました。
この曲はその地名ごとにユーフォニウム、コルネット、フリューゲルホルン、
ホルン、バリトンにソロを与えるという形式がとられていたので、
この日はヒラタ・クンペイ三等海曹がこのソプラノコルネットを演奏しました。

ソプラノコルネットは普通の楽器より短く、吹奏楽の最高音域を出します。
ピッコロよりも高いってことですね。
どんな音が出るのかは下のよーつべでお確かめください。

Flowerdale-Soprano Cornet Solo-


宇宙の音楽Music of the Spheres
フィリップ・スパーク


作曲者自身が指揮をしているバージョンを見つけました。
最後に、選ばれたのは、同じスパークの吹奏楽の大曲です。

宇宙の音楽とは普遍音楽、musica universalisとも言います。
曲の題名にスフィアとあるのでお分かりかと思いますが、これをまた
球体の音楽、球体の調和とも呼ぶこともあります。

古代ギリシャで生まれ、ピタゴラス学派の教義となっていた理論で、
太陽、月、惑星などの天体の動きの比率を音楽として捉える哲学的な概念です。

16世紀になって、天文学者ヨハネス・ケプラーがこの理論を発展させました。
ケプラーは、この「音楽」が耳に聴こえるものではなく、
魂によって聴くことができると考えていたようです。

この思想はルネサンス末期まで学者たちを魅了し続け、
人文主義を含む多くの思想家たちに影響を与えました。

スパークもまたこの思想に着想を得て、宇宙の創生から未来を表しました。

1、「t=0」テナーホーンの独奏により宇宙の始まりを表す
2、激しい「ビッグバン」
3、「孤独な惑星」生まれたばかりの地球
4、「小惑星帯と流星群」地球に迫る危機
5、「天球の音楽」6、「ハルモニア」宇宙全体が奏でる音楽
7「未知なるもの」宇宙の未来

という7つのパートに分かれます。

演奏をお聞きいただくとわかりますが、打楽器パートの目覚ましい活躍をはじめ、
その音の洪水が織りなす「宇宙観」には飲み込まれずにはいられません。

最後に、「遥かな海」でも使われた風を表すための大きなローラーを演奏した
打楽器奏者を、樋口隊長がスタンドアップさせる時、
ぐるぐる手を回す動作をされていたのに個人的にウケました。

この曲、元々は管弦楽のための曲だったそうですが、
作曲者本人の手によって吹奏楽のスコアも書かれました。

ホルストの「軍楽隊のために」で音楽としての定型を得た吹奏楽が、
その後進化したその一つの最終形、という言葉が出てくるほどの完成度の高さ。
それを演奏した東京音楽隊の完成度と意欲の高さもまた素晴らしいものでした。


そして、海上自衛隊音楽隊の終演時には必ず演奏される行進曲「軍艦」の後、
時差退場が始まり、ステージの上の隊員の皆さんが、
演奏時の表情から一転破顔して両手で客席に手を振ってくれるのに
送られながらサントリーホールを後にしました。

そして、会場のロビーでアンケートの回収などの作業をおこなっている
自衛官の方々の応対も、丁寧で温かく、言葉を交わしただけで
心が癒されるようだったということもぜひ付け加えておきたいと思います。


素晴らしいひとときを本当にありがとうございました。




オーマー大佐のカリフォルニア偽装大作戦〜スミソニアン航空博物館

2022-02-21 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン亜博物館の「スカイ・スパイ」シリーズ、
前回は第一次世界大戦から第二次世界大戦までに撮られた
歴史的な軍事空撮写真をご紹介しました。

今日は、その空撮に「対抗」した相手側のカムフラージュからです。
飛んでくる飛行機の撮影を防ぐことができないのなら、
その努力を阻止したり、写真の解釈を混乱させればいいのです。
そのためにいろんな技巧が凝らされました。


【影のないクレムリン】

第二次世界大戦中にドイツ軍の偵察隊が撮影したクレムリンのカモフラージュ。
訓練された目で見ると、「ダミー」の建物がはっきりとわかります。

ヒントは影。
本物の建物には長い影ができますが、平らな偽物にはほとんど影ができません。



【ゴムの装備隠し】

inflatable、ということなので、ゴムで空気が入れられるものを
戦車などの上にかけて形を分からなくするカモフラージュ方法のようです。

おそらくアメリカ陸軍の写真だと思われます。

【日本軍のベジテーションデコイ】

ものすごく念入りに艦船を植物でカモフラージュしています。

【墓地に見えますか】

これはオーストラリアのカモフラージュ例です。
オーストラリアでは日本軍の空襲に備えて、多くの飛行場が偽装されましたが、
この写真はそのうちの一つガーバット飛行場で、
上空から見ると墓地のように見えるようにカモフラージュされていました。

舗装された場所には、偽の木材でできたデコイの飛行機を置き、
格納庫を迷彩に塗り替えたりと言った具合です。

でもこの写真はどう見ても墓地には見えないような・・・。

■ オマー大佐の「カリフラージュ」大作戦

さて、ここからは、おそらく第二次世界大戦で、というか
かつて人類史上で、もっとも大掛かりで馬鹿馬鹿しく、
ある意味何よりアメリカらしい軍事偽装作戦と思われた、
オマー大佐のカリフォルニア偽装大作戦についてお話ししようと思います。

まずはこのビフォーアフターの写真をご覧ください。


【ビフォー】

カリフォルニアのロッキード社の工場。
もしカムフラージュをしていなければこんな感じです。


【アフター】

工場が並んでいたところは全て緑地帯になり、
家が立ち、畑となっています。
写真では不自然さは隠し切れていませんが、これが
陸軍の「迷彩の魔術師」、オマー大佐の一世一代の作品でした。


矢印の先に「道」のようなものがありますが、出口がなく、
どこにも繋がっていません。
しかし、これもじっと見ているからこそわかることで、
おそらく航空機からは認識されないと思われます。



そこでもう一度アフター写真をご覧ください。
ちょっとわかりにくいですが、要するにこういうことです。

工場の屋上に畑と家を作って上空からは農村地帯にしか見えないという。
造園家に依頼してデザインされたそうで、とてつもなく大掛かり。
夜に電気がついていなければバレるのではという気がしますが、
つまり日本軍のパイロットの目さえ欺けばいいので、夜はどうでもいいのです。


よくできているように見えても、実物はこの通り。
それにしてもこのお姉さん何者?

現在「ボブ・ホープ空港」となっている
バーバンクのロッキード・エア・ターミナルでは、敵の攻撃に備えて
施設を大々的に偽装していたことで有名です。
その方法も、空港全体を迷彩ネットで戦略的に覆うという異例なもので、
さすが金持ちアメリカというか、お金はものすごくかかりそうですが
非常に効果的な方法がとられていました。

映画「1941」で描かれた「ロスアンジェルスの戦い」を覚えていますか?

あの映画ではサンフランシスコ湾の外で三船敏郎艦長の日本軍の潜水艦が
いきなり浮上するというオープニングでしたが、実際には同じように
1942年2月、サンフランシスコに到達した日本軍の潜水艦が数日後の夜、
サンタバーバラ沖に浮上して石油貯蔵施設に数発の砲弾を撃ち込みました。

そこで陸軍省は西部防衛司令部の責任者であるジョン・L・デ・ウィット中将に、
太平洋岸の重要施設を守るよう命令したのです。

守ると言ってもどうするの、というところで考え出されたのが偽装でした。
カリフォルニア州全土のカモフラージュ、つまりカリフラージュです。

その任務は、陸軍技術者ジョン・F・オーマーJr.大佐に任命されました。
なぜこの人だったかというと、1940年のバトル・オブ・ブリテンで、
大佐が指揮した入念なカモフラージュのおかげで
ドイツ空軍に何千トンもの爆弾を何もない野原に撒き散らし無駄にさせた、
という実績があったからです。

オーマーは、いわば迷彩の技術と科学に魅了されていた人で、
陸軍に入隊してからは、マジックと写真を組み合わせて、
目とレンズを欺くための独創的な方法を模索していました。

もし陸軍が、陸軍第604工兵迷彩大隊の隊長だったオーマーの、
ハワイのホイーラー・フィールドをすっぽり覆って隠すという案を
高すぎるという理由で却下しなければ、その年の末、
日本軍の真珠湾攻撃からこの基地だけは被害を逃れたかもしれません。


この時ホイーラー飛行基地は83機の戦闘機を失いましたが、
皮肉なことに、それらの1機当たりの値段は、ほとんどが、
オーマーが提案した隠蔽工作のコストに匹敵しました。


日本軍のカリフォルニア空襲はいまや差し迫った脅威となっていました。
特に上層部は木造の航空機組み立て工場が狙われることを恐れました。

結果としてオーマー大佐には「夢のような」任務があたえられます。

概念は単純、しかし範囲は巨大。
それは、サンディエゴからシアトルまで、
爆撃されそうなものを全て消滅させるという計画でした。

飛行場、石油タンク、航空機警報所、軍事キャンプ、防衛砲台など。
特にロッキードのような飛行機を製造する主要施設が1つでも失われれば、
軍が期待していた戦闘機、爆撃機、貨物機など約3,500機を失うばかりか、
工場の復旧には1年以上かかるでしょう。


オーマーが、最も優秀な民間人を探すために目をつけたのはハリウッドでした。

映画スタジオに出向き、セットデザイナー、アートディレクター、画家、大工、
造園家などのスキルをこの緊急課題に活用し、さらにアニメーター、
照明技師、小道具デザイナーなどの意欲的な人材を集めました。

映画のセットを時間との競争で作り上げる彼らが、誰よりも
イリュージョンの基本を理解していることを知っていたのです。

ハリウッドのほぼ全ての映画スタジオ・・・メトロ・ゴールドウィン・メイヤー、
ディズニー・スタジオ、20世紀フォックス、パラマウント、
ユニバーサル・ピクチャーズ
などの背景デザイナー、画家、アートディレクター、
風景アーティスト、アニメーター、大工、照明専門家、小道具係などの協力を得て、
オーマー大佐は街を丸ごと偽装する作業を開始したのです。

まずは、ダグラス・エアクラフトをはじめとする、
敵のターゲットとなりうる主要な工場や組立工場からです。

それこそあっという間に、プロの手によって、ロッキード・ベガ航空機工場は、
キャンバスに描かれた長閑な田園風景にゴム製の自動車が点在する
「田舎」に完全に偽装されていました。

動物がいる小さな農場、納屋、サイロなどの建物。
何百本もの木や灌木は、針金に接着剤をつけ、葉っぱには鶏の羽を使って、
さまざまな色の緑(茶色の斑点もある)に塗られ、
エアダクトは消火栓のように塗装されました。

キャンバス地の切れ端や配給箱、麻ひもをチキンワイヤーに貼り付けたデコイ機、
平らにしたブリキ缶などは、近くで見ると全く本物に見えないのに、
遠くから見ると目を欺くには十分でした。

おそるべしハリウッド。

しかし、一番お金がかかったのがロッキードで、他の、
コンソリデーテッドなどは偽装網をかけるだけで十分でしたし、
たとえば石油貯蔵タンクなどは、この写真のように、

【石油タンク隠し】

ごく簡単に偽装のための屋根をかぶせてカムフラージュしています。



タンクに屋根をかぶせているのですが、よく見ると家には見えません。
しかし、パイロットの目を一瞬欺くことができれば十分です。

【カモフラージュの下の世界】

上をカモフラージュで覆われていると、したの通路はこんな感じです。
まあ、日除けにはなったかもしれませんが。

結局ボーイング社の屋上は、53軒の住宅と10数軒のガレージ、温室、
サービスステーション、店舗で構成されていました。
それら建築物の幅と長さは実物大のままでしたが、
スピードとコスト、そして戦時中の物資不足を考慮して、
高さだけが6フィートとなりました。
高速で飛行する航空機からは高さまでは把握できないからです。

オーマーの「策略」にまずひっかかったのは味方のパイロットでした。
陸軍とハリウッドのスタッフは、要するに
パイロットを数分間混乱させさえすればいいというクォリティで
この「イリュージョン」を作り上げたのですが、
ダグラスを探す味方のパイロットたちは、見慣れた風景がなくなって
当初迷子になったりしたと言いますから、
関係者はそんな話を聞くたびにおそらく快哉を叫んだに違いありません。

もちろん、そのマジックが効果を持つのはせいぜい1万フィートの高度からで、
低空で着陸態勢に入ると、フェイクであることは丸わかりとなるのでした。

そして、それなりの「公害」もありました。
雨が降ると、塗料が染み込んだ羽毛はひどいにおいを放ち、暖かくなると、
緑色のタールでコーティングされたモコモコした羽毛が漂い、
工場から出荷されたばかりの飛行機に付着しました。

最後に、これはいわゆるつまらないアメリカンジョークの類です。

この仕事で特に中心となって仕事を受けたのはワーナーブラザーズでしたが、
そのため、社長のジャック・ワーナーは、ロッキードに媚びるあまり?
自社施設でロッキードの代わりに飛行機を作っているのだろうと思われかねないと、
ワーナーの社屋に「ロッキードはあちら→」と描かせた、
という嘘のような本当でない噂が関係者の間で流れたそうです。


続く。



第一次・第二次世界大戦の空撮写真(の名作)〜スミソニアン航空博物館

2022-02-19 | 博物館・資料館・テーマパーク

イーストマン・コダック提供によるスミソニアン博物館のシリーズ、
「軍事偵察写真」のコーナーをご紹介しています。

今日は、偵察写真の歴代「名作」を取り上げます。

スミソニアンにはこのように歴代の空中写真が説明付きで展示されています。

【第一次世界大戦の塹壕】



フェアチャイルドが開発した航空機空撮用カメラで撮影された
第一次世界大戦の戦線の写真です。
至る所に這うように伸びているジグザグの線は、塹壕を表します。

第一次世界大戦が「塹壕戦」であることを何より証明するこの写真は、
おそらくこの戦争における空撮写真の最高傑作と呼ばれています。


【フェアチャイルドKー3Bカメラ】



前回まででK-2までをご紹介してきましたが、
第二次世界大戦で主要な航空カメラとなったのが1920年代に開発されたK-3Bです。

垂直・斜め方向に撮影をし、合成画像で地上写真を作成しました。
手動と電動があります。

【フェアチャイルドK-20カメラ】


K-20は、第二次世界大戦中に使用された軽量の手持ち式航空カメラです。
高速シャッターを搭載し、1941年から1946年まで使用されました。


【Dデイ〜ノルマンジー上陸作戦】



ノルマンディーの海岸で繰り広げられている戦闘のはるか上空で、
飛行機は偵察風景を記録していました。


侵攻に先立ち、敵の防衛状況を詳細に把握するため、
大規模な写真解釈作業が行われています。


【遠すぎた橋 A Bridge Too Far】



映画「遠すぎた橋」で有名になったナイメーヘンのワールリバーの橋。
1944年9月20日、多くの犠牲を払った末連合国軍によって攻略されました。

28行でわかる「マーケット・ガーデン作戦」

ノルマンディー上陸作戦後、パリを解放しベルギー領内にまで達して
順調かに思われた連合国軍は、補給拠点確立に失敗し、足が止まってしまいました。

そこで、港湾都市を確保し、英国-欧州間の兵站を早急に確立するために、
英国軍バーナード・モントゴメリー元帥は、オランダへと進み、港湾施設を奪取後、
ルール工業地帯を突破してドイツの継戦能力を失わせるという作戦を立案します。

連合国軍側最高司令官であるアイゼンハワーもGOサインを出し、
ナイメーヘンを含むオランダの各都市奪取のために、
そのために空挺部隊による降下作戦『マーケット』作戦
アーネムまで4日で進出する『ガーデン』作戦を実施することになります。

ちなみにアーネムまでは200キロありましたが、
これを4日で突破というのはなかなかにして無理ゲーだと思われていました。

おまけに、現地のこの写真には何の説明もなかったのですが、実は
作戦開始直前、連合国は軍偵察により最北のアーネム郊外に
SS装甲師団が配置されていることが確認されていたはずなのに、
なぜかこの写真は破棄され、情勢が部隊に伝わらなかったのです。

案の定、空挺作戦は降下場所が目標通りでなかったり、装備を失ったり、
ミスで無線機が使えなかったり、時間通りに出発せずに予定に遅れたり、
捕虜がドイツ軍に作戦書類を渡してしまったり
、という体たらく。

ドイツ軍は囮の意味でこの橋を落とさなかったため、
連合軍は待ち伏せされているところに正面突破を試み、猛攻に曝されてしまいます。

その後色々あって橋を確保できないままジョン・フロスト中佐
(アンソニー・ホプキンスが演じた)率いる部隊は弾薬が尽きて降伏。

アーネムに降下した英国空挺師団1万名のうち、7千名が捕虜になり、
全滅判定を受けることになりました。
最終的に投入した3万5千名のうち、半数を戦死・捕虜で失ったことになります。

アーネム橋は作戦失敗後、連合国軍が爆破しました。
戦後「ジョン・フロスト橋」という名前で再建され、
今現在もその名前のままです。


現在のジョン・フロスト橋。
かつて先人たちが苦労した空撮も、今はクリック一つで画像が手に入ります。

【V-2ロケット基地】


第二次世界大戦中、ドイツのロケット研究の拠点となった
ぺーネミュンデを撮影した偵察写真です。

ロケットとはあのV-2ロケットのことで、戦後アメリカで
ロケット開発を行ったヴェルナー・フォン・ブラウン博士がいました。

もともとドイツは(というかフォン・ブラウンのいた民間組織は)
宇宙旅行のために液体燃料ロケットを研究していたはずなのですが、
陸軍がその民間に出資をして陸軍兵器局で研究を続けるよう勧誘したのです。

科学者ヴェルナー・フォン・ブラウン 
Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun(1912 - 1977)
は陸軍のために研究と実験を繰り返し、
V2の開発に成功しますが、それを察知したイギリス軍情報部は
早速ペーネミュンデの写真偵察を行いました。

その時に撮られたのがこの写真です。



画面の左上の白い部分に矢印がありますが、
この矢印が示しているのは横に寝た状態のV-2ロケットです。

この偵察をもとに、連合軍は1943年8月から「ハイドラ作戦」によって
ペーネミュンデを数回にわたって爆撃し、研究と生産を遅延させました。


左手にギプスしているのがフォン・ブラウン博士。
みんな(´・ω・`)としていますが、それもそのはず捕虜になった後の写真だそうです。

左の帽子の人物はロケット推進者で科学者、
ヴァルター・ロベルト・ドルンベルガー(1895-1980)

アメリカ軍の捕虜になった後、他の多くのドイツ人技術者のように
オハイオのライト・パターソン空軍基地でアメリカ空軍の顧問を務めました。

ベル・エアクラフトでは、ロケットで宇宙空間に出て
マッハ5の超音速で帰還するというX-20の開発計画相談役を務めています。
これはのちのスペースシャトル計画の先駆けとなるものでした。

そして、前にも書きましたが、ヴェルナー・フォン・ブラウンは、
ジュピターなど人工衛星打ち上げやサターンロケットの開発を行いました。

もともと「宇宙旅行のためのロケットを作りたかった」彼は
手段のためなら悪魔に魂を売り渡してもいいと思った
とナチスに協力したことをこのように言ったそうですが、最終的に
アメリカに来ることで、その夢を実現させたことになります。

【モンテ・カッシーノ】


モンテ・カッシーノは、1944年の初期に連合軍が
集中的に空爆・攻撃を行った場所でした。

当ブログでも、ナチスの略奪した美術品というテーマの時に、
連合軍によって破壊された歴史的な街、としてここを紹介したことがあります。



イタリア南西部にあるモンテ・カッシーノの大修道院が破壊されていく様子が
航空写真で克明に映し出されています。

【太平洋の激戦地】


『クワイ川の橋?』


タイのクウェーヤイ川に架かるこの橋は、
日本軍の補給路の要として捕虜たちによって建設されました。
1945年2月、アメリカ軍のB-24飛行隊によって爆撃され、
落下している様子が捉えられています。

ん?タイならクウェーヤイ川じゃなくて「クワイ河」って読むんじゃないの、
と思った方がもしかしたらいるかもしれませんね。

たしかに「クワイ河」なら、「クワイ河マーチ」なんてのもありますし、
映画を見てご存知の方も少なくはないかもしれません。

「クワイ川に架かる橋」
(The Bridge over the River Kwai)
第二次世界大戦中、日本軍によって橋の建設を強制された
英国人捕虜の苦境を描いたフィクションですが、
これは、名前が似ているだけで全く違うものだそうです。

そもそもクワイ河という河は存在しておりませんし、
当時もこの川は「クワイ・ヤイ」などと呼ばれていたわけではなく、
それどころか「メークローン河の一部」で、固有の名前がなかったのです。

ところが、映画がヒットしたため、現地では、フィクションのイメージを
現地の観光資源にできるとでも思ったのか、
1960年になって、わざわざ「クワイ・ヤイ」と映画に寄せて命名したのです。

これが本当に「クワイ川」ならば歴史的な写真に違いなかったのですが、
いろんな点で微妙にハズしているといえなくもありません。

補給のために日本軍が設置したからこそ米軍が爆破したわけで、
捕虜を使役したのも間違っていないかもしれませんが。

ちなみに、鉄道建設中に亡くなった捕虜たちの墓も近くにあるそうです。

コレヒドール

フィリピン北部のマニラ湾口に位置する戦略的な島、コレヒドール。
米軍とフィリピン軍は1942年5月に日本に降伏し、
約3年間日本軍の駐留地となっていました。

ラバウル

南太平洋、ニューギニア島の東に位置するラバウルは、
1942年1月に日本軍に占領され、海軍と航空隊の重要な拠点となっていました。
火山に囲まれ、優れた港を持つこの日本軍の拠点は、
アメリカ軍の度重なる空爆の標的となり、最終的には無力化されることになります。

ソロモン諸島

ソロモン諸島は、ニューギニアの東に位置する南太平洋の島々です。
第二次世界大戦中、ガダルカナル島をはじめとする
ソロモン諸島の島々は日本軍に占領されていました。



ジャングルにおけるどちらにとっても過酷な戦いの結果、
1943年にアメリカ軍は島を奪取しました。

写真には島の先端に見えるのは大型の艦船でしょうか。


【アウシュビッツ】



1944年に航空偵察で撮影されたポーランドのアウシュビッツ収容所の様子。

1 処刑の壁
2「ブロック11」懲役ブロック
3 受付ビル
4 受付を待つ囚人の列(蛇行した線が見える)
5 収容所厨房
 6 ガス室と死体焼却所
7 収容所管理棟
8 収容所司令室
9 収容所長の官舎


続きます。





「バグリーの3レンズカメラ」と「ゴダードの法則」〜スミソニアン航空博物館

2022-02-17 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン博物館の「The Sky Spies」軍事航空偵察のシリーズから
続きをお送りします。

【陸軍偵察航空】

■ジェイムズ・バグリー3レンズカメラ

第一次世界大戦の頃、航空機からの写真を撮るために、
こんなカメラが開発されたことがあります。


なんかこういうシェイプの海洋生物いるよね?って感じですが、
キモは先端に角度を変えて設置された三つのレンズ。

アメリカ陸軍のエンジニアだったジェイムズ・バグリー
1917年に普及させた、「スリーレンズカメラ」です。



ジェームズ・ウォーレン・バグリー少佐(James Warren Bagley 1881~1947)
は、アメリカの航空写真家、地形工学者、発明家です。

第一次大戦に招集されるまで地質調査所の職員だったバグリーは、
アラスカの地形を記録するため、他の二人の地質学者と共同で
このカメラのアイデアを考案しました。

これはどういうものかというと、垂直方向に1枚、斜め方向に
2枚の写真を撮影することで、それまでの単レンズカメラにはできない
広範囲の写真を画像に残すことができるというものです。


3レンズカメラによる地上写真。
上がそれぞれのレンズの捉えた写真で、下のように
「合成」して地形を把握します。

偵察写真を素早く現像するために、飛行機を降りたところに
「ポータブルラボ」なるラボラトリーがセッティングされることもありました。

現像用とプリント用に分かれた部屋を備えたテントは、自家発電機を備えており、
1時間に200枚のプリントを処理することができました。


偵察機そのものにポータブルラボが搭載されている例もありました。
これなら迅速に現像処理ができますね!

レンズを三眼使ったこの空撮用のカメラは、
アメリカ陸軍が関与してきて実験を指導したようです。

この3眼マッピングカメラを製品化したのが、
前回お話ししたフェアチャイルド航空カメラ社でした。
「T-1」「T-2」「T-2A」はいずれもこの製品化されたものです。

T-2Aは垂直レンズ1枚と35度に設定された斜めレンズ3枚で、
飛行方向に直角な120度の視野を確保していました。

陸軍が関与したせいで、バグリーは工兵隊の大尉に任ぜられ、
後に少佐になりましたが、1936年には中佐の位で軍を引退し、
地理探査研究所の講師に就任しています。

軍には便宜上所属したものの、それは目的ではなかったということでしょう。

その後彼はオハイオのライト飛行場のエンジニア部門の責任者となり、
軍事用途の航空写真の研究を重ねて写真測量の基礎を作りました。

このときに開発した「T-3A」5つのレンズを持つカメラで、
2点の距離が分かっている地質学者が残りの距離を計算すると
2次元の平面地図を作成することができる機能を持っており、
第二次世界大戦中に活躍しました。


5つのレンズ(四方と真ん中の写真)を持つT-3の画像。
3つのレンズでうまくいったからレンズを増やせばいいんじゃね?
的な発想で増やした結果です。
欠けたところは想像力で補っていたのでしょうか。

このT-3Aカメラでは、約640四方キロの範囲の撮影が可能です。
面積測定マップから作成された仮の地図から、標高を求め、等高線を埋めていく。
陸軍の地形大隊は1日に160平方キロ以上の
等高線の地図を作成することができるようになり、
戦場でのマーキングやターゲティングに欠かせない技術となりました。


ただしプリントされた5レンズのカメラの画像は、
体育館に並べていたようです。
これもう少しなんとかならなかったのかしら。
足の踏み場もないとはこのことだ。


スミソニアンには陸軍軍人がポータブル暗室を使っている模型もあります。
偵察機に搭載されたフィルムを迅速に処理するためのもので、
時には一刻を争う状態で情報が必要になる戦場では、
「写真通訳」が偵察任務に同行して、飛行中に現像されたフィルムを
直接目視で分析して無線を送るということもなされていました。



使われた年代は第二次世界大戦中。
偵察機に搭載され、フィルムを即時処理しました。
内部が「暗室」となっており、大きく穿たれた穴から両手を入れて作業します。



最終的にバグリー大佐はハーバード大学の講師となり、
そこでいくつかの論文と本を執筆する余生を送りました。
その時に執筆した記事の中で、こんなことを書いています。

「航空写真部隊は、軍事作戦中の空軍において、2つの目的を持っている。
第1に、敵地の軍事地図を提供すること、
第2に、敵の軍隊や装備の動きに関する詳細な情報を提供することである」

当たり前すぎて何を今更、という記述ですが、
バグリー中佐以前にはこの方法はなかったところがポイントです。

戦後は、この目的のために、より高高度から偵察する航空機に合わせて、
カメラはより大きなものが搭載されていくようになってきます。




■海軍・航空偵察の先駆 ジョージ・ゴダード准将



ジョージ・ウィリアム・ゴダード准将(George William Goddard 1889-1987)
もまた、航空写真の先駆者とされています。

イギリスに生まれて帰化したイギリス計アメリカ人で、
グレン・カーチスの飛行を目撃してから航空に興味を持ったそうですが、
陸軍信号隊の航空に入隊する前は、
フリーランスの漫画家をしていたという変わり種です。

コーネル大学で軍事航空学校の航空写真コースに入ったのは、
航空の興味と漫画家という前職が関係あるかもしれません。

機上でカメラを扱う彼に感銘を受けた 、あの
ビリー・ミッチェル将軍の勧めで空中写真の研究担当になった彼は、

赤外線や長距離写真、特殊な空中カメラ、写真機、携帯用野外実験装置

などを研究制作します。

1921年にミッチェルは、以前もここでお話しした、
航空機による軍艦爆破実験を行いますが、
この報道写真撮影を指揮したのは、他ならないこのゴダードでした。


また、1925年には夜間の偵察写真開発のために
80ポンドのフラッシュパウダー爆弾に点火して街全体を照らし出し、
世界初の空中夜景写真を撮影しています。


その時の写真がこれ。

夜間撮影されたとはとても思えないような鮮明さです。
この撮影はNYのロチェスター州の上空で行われ、
近隣の人々はそのフラッシュに驚かされた、と記録にあります。

ゴダードはこの時の夜間撮影の方法の特許を取り、
1950年代までこのシステムは使用されていました。

その後ゴダードは立体写真、高高度写真、カラー写真の先駆者となり、
フィルムストリップカメラを開発します。

ゴダード(左)Kー7カメラ(真ん中)


画面中央に写っている煙はカモフラージュのための煙幕ですが、
ゴダードの技術にあっては対空陣地の撮影はご覧のように可能でした。


【海軍に移籍】

ゴダードはまた偵察写真にカラー、動画のの手法も取り入れました。

彼とそのチームは100機のP-38ライトニングをF-4規格に改造しようとします。
んが、当時USAACの写真部長だったミントン・ケイ中佐と(個人写真資料なし)、
公的にも個人的にも激しく対立したゴダードは、中佐の策略によって
性病対策のセクションに追いやられてしまいました。

しかし海軍が、彼の開発したストリップカメラ(日本語ではスリットカメラ
カメラのレンズとフィルムの間にスリット(細い隙間)を設け、
撮影中にフィルムを巻き続けることでカメラの前方を通過する被写体を
1本のフィルムに連続的に撮影する手法)

が太平洋での水陸両用作戦に役立つと考えていたため、
ゴダードは引き抜かれる形で、この件以来海軍に転職することになるのでした。


海軍でゴダードは、F-8モスキートをレーダー撮影用に改造したり、
エドガートンD-2スカイフラッシュを使った夜間撮影の開発を支援しました。

そして自分を窓際に追いやった天敵に復讐することも
決して忘れていませんでした。


エリオット・ルーズベルト(ちなみに結婚歴5回)

当時同じ偵察隊にいたルーズベルト大統領子息の
エリオット・ルーズベルト大佐補佐して、
ストリップカメラを導入させることに成功した後は、大佐を巻き込み、
2人でケイ大佐をワシントンのポストから外すことを要求する手紙を大統領に送り、
そのせいで、ケイは昇格を目前にしてインドに左遷されることになりました。

ケイ大佐がその後も不遇を託つことになったのはいうまでもありません。

(-人-)合掌

「寄らば大樹の陰」あるいは「虎の子の威を借る狐」というべきなのか。
アメリカ軍も相変わらずドロドロしているようですな。

天敵を葬り去ったその後のゴダードのキャリアは順風満帆で、ついには
ハップ・アーノルド将軍の寵愛を受けることになりました。


パリが解放されると、ゴダードはパリに司令部を設置し、
戦地の米空軍の偵察開発を主導し始めました。

パリではF-6マスタングにステレオストリップカメラを搭載する実験を行い、
ドイツが占領されると、シュナイダー光学工場、カール・ツァイス社、
そしてショットAG社の工場を買収してデータや資料を押収し、
多くの光学科学者を説得して西側に移住させたりしています。

冷戦期、朝鮮戦争期間にも彼は夜間撮影システムの革新を試み、
悪天候下での低高度ジェット機の運用に大きな成果を上げて、
アメリカ写真家協会から写真学修士の名誉学位、
写真家としては最高の栄誉とされたジョージ・W・ハリス賞を受賞しました。

この賞は、航空カメラ、機材、技術の開発を監督し、
航空写真の芸術に貢献したことが評価されたものです。


ゴダードは自分で言ったのかどうか知りませんが
「ゴダードの法則」なるものを遺しています。
それは、

「偵察の優先事項において、焦点距離
(focal length)にとって代わるものはない」

これも何を今更、って感じですが、当時としては画期的な理論だったのでしょう。

続く。




THE SKY SPIES 航空偵察の歴史〜スミソニアン航空博物館

2022-02-15 | 航空機

スミソニアン博物館プレゼンツ、「軍事偵察の歴史」、
このコーナーには本日タイトルの「The Sky Spies」が冠されています。

意味はそのまま「空のスパイ」ですが、「SPY」という単語は
日本語の「スパイ」の他に「みつける」「見張る」という意味もあります。
前回の「鳥の目」のように、高いところから偵察を行うとき、
新しい方法として航空機が使われるようになったのは当然の成り行きでしょう。

航空機より一足早く人類が手に入れた写真という手段と
航空機が組み合わされ、偵察が行われるようになります。

軍事情報の収集としての航空写真の命はなんといっても正確性にあります。
その意味で偵察パイロットはもちろん、
「Photointerpreter」の技量は重要な役割を担っており、その結果の成功か失敗、
正確か不正確か、準備ができているかどうかの分かれ目を決めます。

というのがスミソニアンの説明なのですが、この「Photointerpreter」
(Photo+interpreter)は直訳すれば写真通訳者となります。

この言葉は1940年代に生まれた造語で、
「航空写真の解釈を専門に行う人」
であり、黎明期にはそういう名称はなかったものの、そういう人がいたようです。

つまり、パイロットが撮ってきた写真を現像し、
そこに写っているものをアナライズするという専門職があったようですね。

■ 初期の航空偵察技術とその機材



スミソニアンの「スカイスパイ」コーナーには、実物大展示として
前回の気球のカゴから写真を撮る人と、この
de Havilland DH-4
から航空写真を撮っている人がいます。

【第一次世界大戦の写真偵察機DH-4とL-4カメラ】



まず、このデ・ハビランドの汎用機「DH-4」ですが、
軍用機としても民間機としても多くの役割を果たした機体でした。

第一次世界大戦では爆撃機の任務を負っていたDH-4は、
観察と写真偵察のための航空機でもありました。

1917年4月6日にアメリカが第一次世界大戦に参戦したとき、
陸軍信号部隊の航空課は戦闘に耐えうる航空機を保有していなかったので、
国内で生産するため、前線で使用されている連合軍の航空機を調査します。

そして検討されたのは、ランスのスパッドXIII、イタリアのカプローニ爆撃機、
イギリスのSE-5、ブリストル・ファイター、DH-4
などでした。

どれも当ブログでは紹介済みですし、これも繰り返しますが、
第一次大戦ごろのアメリカの航空技術は、欧州、ことに
イギリスやドイツと比べると大人と子供レベルで遅れていたのです。
(さらにソ連はというと、そのアメリカのレベルにも達していないくらいでした)

DH-4が選ばれたのは、構造が比較的シンプルで量産性に優れていたことと、
アメリカ製400馬力リバティV型12気筒エンジン
の搭載に適していたからです。

アメリカ人の好きな「リバティ」なんとかがここにも・・・・って、
リバティ・エンジン、リバティ・プレーン・・・
これ前にもご紹介していますよね。


そのときの展示室にはリバティエンジンはありましたが、
DH-4はこの模型だけでした。


ちなみにこの左側にあるのがリバティエンジンです。

その時の項にも書きましたが、おさらいの意味でもう一度書くと、
機種は決まったものの、アメリカの量産方法を採用するためには、
イギリスのオリジナル設計からかなりの技術的変更が必要でした。

アメリカ製はパイロットと偵察員の間に燃料タンクがあってコンタクトしにくく、
墜落した時危険という設計上のミスというか問題点がありましたが、
「リバティ・プレーン」と呼ばれて1918年にフランスに送られることになります。

余談ですが、アメリカのカルチャーというのか、アメリカ人はよく、
自国の軍事行動に「リバティ」「フリーダム」の冠を被せたがりますね。

ちょうど我が家が西海岸に住んでいた頃、イラク戦争が起こりました。
フランスがそれに反対したことでアメリカ人は怒り、なぜか
フレンチフライに八つ当たりを始め、
フランスけしからんから「フリーダムフライ」と呼ぶお!となった、
という「ニュースが」流れました。

そんなある日、カリフォルニアのフリーウェイでロスアンジェルスまで行く途中、
ランチを取るために入ったメキシコ料理店で、隣のテーブルで
ちょうど注文のフレンチフライを食べながら、父親が息子(小さい)に
「なんかこれ、これからフリーダムフライになるらしいよ」
と笑いながら説明しているのを見たわたしは、むしろ、
メディアとそのやらせ以外でどこのだれがフリーダムフライと呼んでいるのか、
と疑問に思ったものです。

そして、どうして他国に攻撃をかけることが「リバティ」「フリーダム」なのか、
わたしはマイケル・ムーアは嫌いですが、彼が発したこの疑問だけには
全く同じ疑問(というか懸念)をいまだに感じ続けています。

理屈がわからん。

そして、あの日から今日まで、フレンチフライのことを
フリーダムフライと呼ぶ人や店を一例たりとも見たことがありません。

さて、約100年後、フレンチフライにまで目くじらを立てることになる
そのフランスに、アメリカは、DH-4を1,213機送りました。
そのうち進攻圏に到達したのは696機です。

DH-4の戦闘期間は4ヶ月に満たなかったが、その価値は証明されました。
第一次世界大戦中に飛行士に授与された6つの名誉勲章のうち、
4つはDH-4に搭乗したパイロットとオブザーバーが受賞したものです。

つまり、その真価は攻撃より偵察で発揮されたと言ってもいいでしょう。

第二次世界大戦になってもDH-4は「リバティ・プレーン」として、
森林警備や地質調査、陸軍航空局の航空地図、
写真撮影用の標準機として10年間使用されています。


ここにある航空宇宙博物館の機体は、この中で最初に製造されたものです。

さて、その偵察についてですが、DH-4に搭載された空撮カメラは、
手持ち以外に、後部コックピットの内側または外側に取り付けることができました。

展示されている機体には、コックピット内に
コダックのL-4カメラが設置されており、
床の小窓から写真を撮ることができます。



四角い穴と丸い穴が機体の底に空いていますね。

DH-4のマネキンが持っているのは、A-2カメラといって、
コダック社が開発したカメラで、第一次世界大戦の航空写真に使用されました。

Kodak製A-2カメラ

オリーブドラブ色に塗られた金属製のカメラで、木製のハンドルが付いています。

第一次世界大戦中、アメリカ陸軍航空局がオープンコックピットの航空機の側面から
斜め方向の写真を撮るために使用したコダックA-2ハンドヘルドエアリアルカメラ。

カメラには2つの4x5プレートマガジン、「アイアンサイト」、
ストラップが付いています。
A2型は陸軍航空局が使用したもので、海軍はA1型を使用していました。



ここには、イーストマンコダック製が第一次大戦時に
偵察のために設計したK-1カメラ実物が展示されています。
15センチのフィルムを使用し、フィルム用マガジンが内蔵されています。


初期の航空カメラは、垂直方向の映像を得るために、この写真のように
飛行機の外側に固く取り付けられていた時期がありました。

しかし、これ、問題がありますよね。
飛行機の振動です。
そりゃま機上で手持ちよりはマシだったのかもしれませんが、
細かいエンジンの振動がブレを産むことの方が多かったでしょう。

だからといって、垂直方向にこの大きなカメラを手に持って
機体から乗り出すのは、あまりにも危険な気がします。
まあ、この方法だと少なくともカメラを取り落とす心配だけはなかったかと。

【フェアチャイルドの空撮飛行機と空撮カメラ】


むむ、まるで映画俳優のようなダンディ氏、これは誰?
その名も、シャーマン・ミルズ・フェアチャイルド(Sherman Mills Fairchild)

その名前からも想像がつくかと思いますが、名門の生まれであり、
当たり前のように実業家・投資家として成功した人物で、
フェアチャイルド・エアクラフト、フェアチャイルド・インダストリーズ、
フェアチャイルド・カメラ&インストゥルメント
など70以上の会社を設立し、
航空業界に多大な貢献をし、1979年には全米航空殿堂入りを果たした人物です。

資産家の息子で、28歳にして父の数百万ドルの遺産を手にし、
父が保有していたIBMの株式も相続し株主になり、いきなり人生イージーモード。

これもごく当たり前のようにハーバード大学に入学し、
1年生のときにカメラの同期シャッターとフラッシュを初めて発明しています。
その後、アリゾナ大学、コロンビア大学で学び、企業家になることを決意。

こんな名門超金持ち高学歴高身長(最後はたぶん)のイケメンですから、
さぞモテたと思うのですが、いかんせん彼は生涯結婚しないまま通しました。
(LGBT関係であったという噂もなかったようです)
そして会社の経営以外に建築、料理、ジャズ、ダンス、哲学、テニスなどを楽しみ、
写真には特に造詣が深かったようです。

カメラの性能を地図作成や航空測量にまで拡大したいと考えた彼は、
1921年、フェアチャイルド航空測量社を設立し、
第一次大戦で余っていたフォッカーD.VIIを購入して航空写真の撮影を始め、
写真地図作成や航空測量を受けを行うをための会社を設立。

地上調査より航空写真の方が早くて安価で正確であるという評価を得ます。


フェアチャイルドFー1航空カメラ



F-1は、フェアチャイルド社が第二次世界大戦中に開発した航空カメラです。
手持ちで斜めからの写真を連続して撮影することができるため、
軍事施設の高所撮影に多用されました。


フェアチャイルド社製F-1によるニューヨークの空中写真

空中撮影を行ううちに、フェアチャイルドは既存の飛行機では
空撮で頻繁に遭遇する状況には適していないことに気づきます。
そこで1925年、フェアチャイルド・アビエーション・コーポレーションを設立し、
正確な航空地図の作成と測量のための専用機、FC-1を製造しました。


FC-1

この時期、フェアチャイルド社は航空業界で圧倒的な存在感を示し、
米国最大級の民間航空機メーカーにまで成長していました。

この後継となるFC-2は後にチャールズ・A・リンドバーグ
アメリカ横断旅行に使われることになります。

フェアチャイルド社はわずか9カ月の間に、
初期生産から世界第2位の航空機メーカーになったのでした。

しかしその後いろいろあって、ファチャイルドが亡くなると
会社も吸収合併を繰り返したすえ、跡形も無くなってしまうわけです。

ちなみに彼は亡くなったとき、50人以上の親戚、友人、
元従業員一人一人に遺言をのこしていったそうです。

2億ドルを超える遺産のほとんどは、彼が生前に設立した2つの慈善財団に寄付され
その他病院、救世軍に20万ドル、アメリカ動物虐待防止協会、
また、母校のコロンビア大学への新校舎の寄付にと見事に使い切った形です。

私見ですが、こんな逸話から彼が孤独だったような感じは受けません。
あまりにやりたいことが多すぎて、家庭を作ることまで時間が至らなかった、
という感じなのかなと思ったりします。

さて、そんなフェアチャイルドが若き日に生み出した
「K-3」は、画期的な航空カメラでした。
電気駆動のK-3は、新しいシャッターとマガジンを搭載し、
航空写真の技術を向上させることに成功しました。



カメラマンが高高度で斜度撮影を行うために
焦点距離61cm(24インチ)のK-3カメラの準備を行なっています。


戦間期(第一次と第二次世界大戦の間)に、
長距離航空写真の実験に使用されたK-3カメラ。


手持ちの空中斜度用カメラ、K-5

航空機からの撮影の歴史について、もう少し続けます。


続く。

A BIRD'S EYE VIEW 軍事偵察の航空史〜スミソニアン航空博物館

2022-02-13 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、「フライング・レザーネック航空博物館」シリーズも終わったので、
次シリーズとして、今度はスミソニアン博物館の展示から、
軍事航空偵察に関するテーマでお話ししようと思います。

「歴史を通じて、我々は世界を上空から見ることによって
自ら住む世界をよりよく理解しようという欲求を持ち続けてきました。

最初に木や丘、要塞の塔に登り、高みから土地を観察します。
今日、航空機と宇宙船は地球を見下ろして、天気を予測し、地形を調査し、
作物を、森を監視し、都市を計画し、資源を見つけ、情報を収集しています。

気球から航空機、そして宇宙船と進化していく過程で、
我々は自らをさまざまな目標や課題に沿って高みへと押し上げているようです。

それでも、これらのスリリングな冒険に参加した多くの人は、
最後には「我が家」を振り返ることを忘れませんでした。」

こういう文章で始まるこのコーナーのスポンサーは、
聞いて納得、イーストマン・コダック社です。

■ バーズ・アイ・ビュー(鳥瞰)

人類の歴史に写真が登場すると、それはすぐに空に飛ばされ、
スパイの成果を残す手段として使われ始めました。

それまでは高いところから地形をスケッチするしかなかったわけですが、
この新技術使えばそれ以上の高いところから偵察できるんでね?
と言うことに世界中の人々が気づくのに時間はかかりませんでした。

【フォトカイト(カメラ凧)】



1895年にアメリカ陸軍の一中尉が行なった凧写真の実験風景。
この凧の糸の先にカメラを取り付けました。



糸の先につけられていたカメラがこれ。
結局180mの高さからの撮影に成功したそうです。


そのときの写真。
当時のカメラで遠隔操作してこのピントの合い方はすごいと思ってしまった。

【フォトロケット】



この頃、「ロケットカメラ」なるものが設計されていました。
1888年にフランス人のアメデ・ドニース(Amédée  Denisse)が考案したもので、
この種のものとしては史上初めてのデザインとされています。

ロケットのノーズコーンの下に12枚のレンズを持つカメラが装着されており、
フィルムを露光した後、カメラとロケットはパラシュートで地上に帰還する仕組み。

このドニースという人はイラストレーターで写真家、発明家だったそうですが、
このロケットが実際に作られたかどうかまでわかっていません。



また、ノーベル賞に名を残す、アルフレッド・ノーベル
1897年に「フォトロケット」を発明しています。


アルフレッド・ノーベルが発明したフォトロケットで撮られた
1897年のある日のスェーデンの村の鳥瞰写真。
ノーベルは当時、気球を使ったカメラの実験もしていたそうですが、
これはロケットの方で、高度は100メートルだったそうです。

なんか現在のトイカメラみたいな画像になっていますね。


アルフレッド・ノーベルのフォトロケット設計図。
当時にしてはすごい発明(だと思う)。


それから10年経過して、フォトロケット系の発明では
パイオニアと言われているドイツの
アルフレッド・マウル(Alfred Maul 1870–1942)
が1904年に撮った空中写真がこちら。
ノーベルのとは段違いに画質が良くなっています。

マウルはドイツの技術者であり、航空偵察の父ともいえる人物です。
実験はともかく、実用化した人がほとんどいなかったロケットに
カメラを取り付けて大地を撮影するというアイデアを思いつき、
実行に移した実業家で、自身の工場を持っていました。

1903年、彼は「マウル・カメラ・ロケット」の特許を取得しています。
カメラは黒色火薬のロケットで空中に打ち上げられ、
ロケットが高度600~800mに達した数秒後に、上部が開き、
カメラはパラシュートで降下する仕組みになっていました。
撮影はタイマーで行われる仕組みでした。


右側のがロケット発射台。

これを軍事利用する動きになったのは当然の成り行きでしょう。
1906年、軍人たちの前で極秘のデモンストレーションが行われ、
マウルは軍事偵察のためにさらに発展型のカメラロケットを披露しています。

1912年、マウルのロケットカメラは、20×25センチの写真プレートと、
安定した飛行と鮮明な画像を確保するため、
ジャイロスコープによる操縦を採用したものへと進化していました。
ロケットの重量は41キロと大変重いものでした。

このころには運用はドイツ軍が行なっていたようで、
写真に写っているのも軍人です。

まさかとは思うが右の人の持っているのがロケット?

ただし、彼の発明が脚光を浴びたのは航空機の発達まででした。
第一次世界大戦では、従来の飛行機が空中偵察の役割を果たしたため、
マウルのロケットは軍事的な意義を持たなくなり、
彼の発明品はその名前とともに忘れられていきます。


しかし腐ってもパイオニア、メダル受賞各種

■ 鳩カメラ(Miniature Pigeon Camera)


1903年、ユリウス・ノイブロンナー博士( Dr. Julius Neubronner )は、
タイミング機構で作動するハトのミニチュアカメラの研究を始めました。

これが本当の「バーズアイ・ビュー」写真です。

凧はカメラを搭載できますが、欠点は動きや速度に大きな制限があったので、
より速く、より活発な空中偵察が必要となったのです。

薬屋であり、ハト愛好家でもあったユリウス・G・ノイブロンナー博士は、
1907年、ドイツの特許庁に「ハトカメラ」を提出しました。


鳩とおじさま

彼はそれまでも、フランクフルト近郊の自宅から数キロ離れた療養所との間で、
ハトを使って処方箋や緊急の薬の交換を行っていました。
鳩の帰巣本能はかなり確実なもので、あるときノイブロンナー鳩が
1ヶ月も行方不明になったあと無事に厩舎に帰還するという事件があり、
この出来事をきっかけにノイブロンナー博士が思いついたのが、
宅配便の飛行を記録するために、鳩が身につけられる軽量のカメラです。


ハトグラファーたち(誰うま)

ノイブロンナーは、一定の間隔でシャッターを切るための空気式タイミング機構、
革製のハーネス、アルミニウム製の胸当てなどを備えたモデルを試作しました。


鳩グラファー用装備設計図

60マイル離れたところから鳩を放すと、鳩は最も近道を通って帰宅します。
重荷なので寄り道もしないというわけですね。
博士は機動性を高めるために、暗室を備えた鳩舎を作り、
鳩が持ち帰ったフィルムを即座に現像できるような工夫も加えました。


しかし、この申請に対しドイツの特許庁は、当初、
「家鳩では75gの荷物は運べない」という理由で出願を却下しました。

ノイブロンナーは論より証拠の写真を並べて反論します。


羽が・・・・写ってます。

この写真で写っているのはクロンベルグのシュロス・ホテルだそうですが、
勇敢な作者の翼端を偶然にも撮影したことで特に有名な一枚です。






こっちを見ている人が写ってます


Google マップ並み



もしかしたら屋根の上で休憩中?

そんな努力の甲斐あって、特許庁は1908年にようやく申請を許可しました。
この発明は、1909年から11年にかけてドレスデン、フランクフルト、
そしてパリで開催された博覧会で発表され、世界的な注目を集めることになります。

ドレスデンでは、カメラを搭載した伝書鳩の到着を観客が見守ることができ、
撮影された写真はすぐに現像されて絵葉書として販売され好評を博しました。

当時としては全く画期的な「鳩写真」。
特に、ドイツ軍はこの映像を十分に評価し、
西部戦線の戦場で鳩カムのテストを行うところまででした。

しかし、ロケットと同じく、飛行機による偵察が急速に進歩したため、
ノイブロンナーの鳩はメッセージを伝えるという伝統的な役割に終始しました。

■ 気球(Baloons)



タデウス・ロウ(Thaddeus Lowe)
なぜかこの名前にものすごく聞き覚えのあるわたしです。

しかし残念ながらそれ以上の記憶がなかったので、自分のブログ内検索で
この名前をかけてみたところ、南北戦争時代に
気球部隊を陸軍に作るため、携帯用の水素ガス発生器を開発させた人でした。

ロウは気球偵察のパイオニアという称号を持っています。



ロウは南北戦争中、戦場の上空を飛んで部隊の動きを観察していました。
この写真では、北軍の将校が味方しかいないと予想していた地域に、
南軍の連隊が接近したことを報告しているところだそうです。


1860年、気球カメラで撮られたボストンの街。
ジェームズ・ウォレス・ブラック(James Wallace Black)
高さ1,200フィートの気球から撮影したものです。


なまじ知らない街でもないので、どの部分を撮ったか調べてみました。
この楕円を左上空から見たのが気球の写真です。
当時の建物でこの写真に残っているのは、左の
パークストリート教会の白い塔でしょう。
空撮写真の左の方に見えています。
高さ660mなので当時はその辺で一番高い建物でした。


ボストンの革新的な写真家・肖像画家であったブラック(1825-1896)は、
ボストンコモンに繋がれていたサミュエル・アーチャー・キングの熱気球、
「Queen of the Air」号に乗り込み、ガラス板ネガを露光しました。

撮られた写真は
「Boston, as the Eagle and the Wild Goose See It」
(ボストン、鷲あるいはワイルドグースの見たまま)
と題され、アメリカで初めての航空写真となったのでした。


気球を開発したキングは、何度も墜落するなどの実験の失敗を重ねながら、
「クィーン・オブ・ジ・エアー」を飛ばしました。

そのうち気球は人々の関心を集め、博覧会や巡回ショーなど、
大きな行事の目玉となっていきます。
アメリカが建国100年を迎えた1876年には、キングは
記念博覧会が開催されていたフィラデルフィアからたくさんの気球を飛ばしました。

彼はアメリカ東部のほぼ全ての都市から気球をあげるという
実績を積んでおり(合計450回以上といわれている)、
その旅に毎回のように写真家を同行させていますが、
ボストン上空を撮影した写真家、ブラックはその最初の一人として、
歴史に名前を残すことになったのです。

冒頭の写真はスミソニアンの展示で、説明が見当たらなかったのですが、
おそらくこのときのカメラマン、ブラックだったのではないでしょうか。



1907年、気球のカメラから撮られた最初の空撮写真。
ワシントンD.Cです。

その後も人類は、空から見た風景を記録に残すべく、より高く、
さらなる高みへと、技術と経験を積み重ねていくことになります。


続く。


映画「水兵さん」〜卒団

2022-02-11 | 映画

昭和19年5月に制作完了した海軍省後援による宣伝映画、
「水兵さん」の後半です。



山鳥はまだ寒いのに海に落ちたせいで、熱を出してしまいました。



その日、分隊長の留守により、遊興が許された分隊では、
急遽隠し芸大会が行われていました。

おっさんの浪曲など聞いて何が楽しいのかという気もしますが、
娯楽の少ない当時、少年たちは目を輝かせて聞き入っています。



そのとき、鈴木教班長に山鳥の姉が面会を求めてきました。
新兵の間は面会ができないのでかわりに教班長に会ってくれというのです。

演芸会の途中で教班長に生徒の姉が面会に・・・?

これと全く同じシーケンスが「特別年少兵」にもありましたよね。
あの時は、小川真由美演じる生徒の姉は、いわゆる「商売女」でしたが、
こちらではもちろんのこと、そうではありません。


浅田真央ちゃん似

「父がこの度靖國神社に合祀されまして」


母を既に亡くしていた山鳥家は、父を戦地でなくしたので
今はこの姉一人が田畑を守っているのです。

鈴木兵曹はそれらの事情を既に身上調査で全て知っていました。


「特別年少兵」では姉は弟にタバコやお酒を託けようとしますが、
この姉が預けようとしたのは、母の墓の土です。

父も母もいるこの土を、船に乗る時、身体につけていけるように
弟にこれを渡してほしい、といわれ、兵曹は厳粛な面持ちで頷きます。


隠し芸大会はたけなわ。
いつ練習したのか、森村の班員によるハーモニカ合奏が聞こえてきます。


鈴木教班長は山鳥をベッドに見舞い、姉が面会に来たことを伝えます。

「どうしてお父さんのことを誰にも言わなかったのだ」
「父親を戦地でなくしている者は他にもいるでしょうから」


鈴木兵曹は山鳥の健気な言葉に泣きそうになりながら、
預かった母のお墓の土を彼の手に握らせて励ますのでした。


病室に森村が教班長を呼びにきました。

「皆が鈴木兵曹の演奏を待っております」


隠し芸大会のトリは、鈴木兵曹のバイオリンでした。
ところで皆さん、いまさらですが、この鈴木兵曹役、誰だと思います?

若き日(35歳)の小沢栄太郎なのです。

左翼劇場出身の俳優小沢栄太郎は、1940年、所属していた新劇を
軍からの弾圧によって解散させられ、自身も検挙されています。
この映画で海軍兵曹を演じた小沢は、直後に応召され戦地に行き、
復員して日本に帰ってきたのは昭和20年11月でした。

鈴木兵曹がバイオリンで演奏したのは「海行かば」でした。
   

ソロのバイオリンの旋律は、2コーラス目には荘厳なオーケストラへと変わり、
雨の中、弟を訪ねて会えずに帰って行く姉の姿に重ねられます。


去って行く姉の姿をまぶたに描く山鳥。
彼は知っていました。

鈴木兵曹は、国に命を捧げた、山鳥の父のような人々の魂のために
この調べを捧げているのだということを。


■ 山口中尉の出征



主人公森村新八の所属する92分隊の分隊長、山口中尉が
特別に修身の講義を行いました。

 今日(けふ)よりは顧(かへり)みなくて大君(おほきみ)の 
醜(しこ)の御楯(みたて)と出(い)で立つ我(われ)は

山口中尉が吟じた万葉集の防人の歌の意味は、

「今日からは後ろを振り返らず天皇の至らぬ盾となって出発する私」

であり、黒板に見えるもう一首の歌は、

大君の命畏み磯に触り海原渡る父母を置きて

大君の命令を受けて父母を置いて大海原を渡るという意味です。
映画の冒頭の歌もそうですが、このころの陸海軍では
万葉集の防人歌を軍人精神の涵養に用いていました。


日本で軍人を表す防人が形成されたのは大化改新以降で、
当時の「仮想敵国」、唐からの襲来に備えるため、各国から兵隊を募集して
防波堤となる北九州に集めたが最初と言われています。

防人歌はそんな各国から集められた軍人たちが詠んだものです。
ちなみに任務地は九州でしたが、どこから行くにしても
交通費は自費、食料も武器も自分で用意していたそうです。



「お前たちは畏れながら」

山口中尉が背を伸ばしながらこのことばを口にしただけで
全員が姿勢をしゃんと伸ばします。

「陛下の御盾となって国を守る武人である」


山口中尉が特別に修身の講義を行なったのは、これが最後となります。
中尉に出撃の命が降ったのでした。



「姿勢を正せ!敬礼!」

さすがに海軍直々の監修だけあって、無帽の挙手は行いません。
このような場合の敬礼は、軽く低頭するのみです。



「分隊長!」
「おめでとうございます」

部屋を出ると、教班長らが後から出てきますが、
この時には全員が着帽しているので敬礼を交わし合っています。

その敬礼の角度もさすがに文句のつけようがないほど海軍流。



そして後任の河野大尉(ちゃんと”だいい”と発音している)に引き継ぎ業務。
この大尉が誰かは皆さんもお分かりですね。
笠智衆です。



その夜が、山口中尉にとって内地で過ごす最後の夜となります。
軍服のまま端然と書を記す夫を、



妻は万感の思いを秘めた表情でただ見つめるだけです。
しかし、夫はむしろ淡々と、書の配り先などを指示し、
何か言いかける妻の様子など全く気づかぬ風で、



ゴクゴクー
「もう一つもらおう」

茶碗を持って部屋を出かけた妻ですが、たまりかねて、



「あなた」
「なんだ、あらたまって」

生きて帰ってきてほしい。

本当に彼女が言いたいのはこの言葉であるはずです。
映画の製作者にも、見ている人にもそれがわかっています。
しかし、防人の妻である彼女はこう言うしかありません。

「ご武運をお祈り致します」

これを聞いた山口中尉、むしろちょっと驚きながら



「改まっておかしいぞ。船乗りが船に乗るんだ。別に変わったことじゃない」

うーん、そう言うことじゃなくってだな。

■ 陸戦訓練


軍歌「総員起こし」に合わせて銃を担い行進する少年たち。
今から海浜で陸戦訓練が始まるのです。

「海軍特別年少兵」は、この映画からいろんなシチュエーションを
そのまま流用していますが、これもその一つです。

本作で描かれているのは横須賀海兵団が二つに分かれ、
第二海兵団として分かれた武山海兵団です。
武山海兵団のあった横須賀市御幸浜には、現在
海上自衛隊横須賀教育隊があって、海の防人の養成が続けられています。

彼らが隊列を組んで向かっているのは辻堂だということです。
まさかとは思うが、御幸浜から辻堂まで歩いて行ったんだろうか。
距離にすれば26〜7キロで、普通に歩けば5時間ですが・・。



「特別年少兵」では、梅雀演じる落ちこぼれ少年が短銃を紛失し、
責任を感じて自殺するというストーリーが用意されていましたが、
こちらは海軍の宣伝映画なのでそんな展開にはなりません。



演習を指導するのは新分隊長、河野大尉。


分隊長の指令によりこの水兵さん(多分本物)が手旗信号を送ります。
陸戦訓練の様子は「総員起こし」の歌のもと、音声なしで描写されます。


「特別年少兵」では、演習で旅館に泊まった少年たちが、
久しぶりに畳の上で寝られるので喜びはしゃいでいましたが、
なんとそんなことまでこの映画からの流用であることがわかりました。

森村新八が家族に出した葉書に、そのことが書かれています。


 
葉書には、もうすぐ横須賀の「三笠」見学があるので、
そのとき家族で会えないかということも書かれていました。

戦後、米軍の手によって陵辱にも等しい扱いを受けた「三笠」ですが、
この頃はオリジナルの姿のまま、日露戦争での
日本海軍の偉業を示す資料館として公開されていたのです。


新八の父母に叔母、従姉妹のとき、そしてなぜか
山口中尉の父である近所の御隠居が繰り出してきました。


「いよっ」
この後、新八と家族がお互い相手を探して艦内をうろうろし、
あっちへ行ったりこっちに行ったりするのが、ちょっとした
微笑ましい様子となって描かれます。






新八と父は三笠をバックに二人で写真を撮りました。



彼の訓練ももう終わり、卒業が近づいています。

■ 海戦



ちょうどその頃、太平洋某所では山口中尉の乗り組んだ艦が、
まさに戦いに投じられようとしていました。
超粗い画質での艦隊が単縦陣で波を切る実写映像が流れます。



そして戦闘開始。
もちろんこれらは模型を使った特撮となります。



炎の効果を表すためか、夜戦という設定です。



いきなり「軍艦」が鳴り響き、この海戦に帝国海軍艦隊が
勝利したと言うことになっております。



聯合艦隊大勝利のニュースをラジオで聞いた河野大尉は、
喜び勇んで早速皆にこのことを知らせることにしました。



艦艇実習の最中なので、総員が後甲板に集められます。



メザシになった他の艦からも白い事業服がラッタルを渡ってやってきます。



実習艦の甲板を使っての撮影でしょうか。



「我が水雷艇隊が〇〇〇〇で(聞き取れない)敵の基地に夜襲を決行、
敵戦艦1隻、巡洋艦2隻、その他を撃沈、または撃破した。」

このときから2年前の昭和17年11月、駆逐艦隊8隻が
ルンガ沖夜戦で勝利していますが、その時の戦果は
重巡1隻沈没、重巡3大破でした。

夜戦の勝利というのは同じ時期に二度ありますが、
どちらも一応勝っているものの、特に前者は
「戦術で勝って戦略(輸送)に負けた」と言われています。

まあしかし、海軍の宣伝映画では勝利を描くしかありませんから、
2年も前の戦果をちょっと盛って表現しているわけです。

昭和19年の春くらいなら、まだ国民は、実際には
聯合艦隊が追い詰められていることを知らなかったでしょう。

河野大尉は全く軍人らしくない喋り方でこう続けます。

「しかも、その水雷艇隊の指揮官が誰だったと思うか。
お前たちの分隊長だった山口中尉だぞ」




「山口中尉はそれこそ文字通り、必死妄執、
敵の懐中深く飛び込んでこの偉勲を成し遂げた。
お前たちの分隊長がだぞ」


「このことを深く腹の底に刻み付けて覚えておけ。いいか」


「お前たちの覚悟はいいか!」


艦艇実習が終わった夜、鈴木軍曹は、班員たちが立派になるまでと
いままで我慢していたタバコを晴れて吸うことができました。



ハンモックの中で目が冴えてしまう新八。



眠れないのはみな同じでした。
山口中尉の殊勲を聞いて興奮しているうえに、
明日は彼らの海兵団生活の最後を飾る日です。

「こんな夜に寝られる奴は山鳥くらいだよ」



「寝てやしないよ。ちゃんと起きてますよ」



「何だ起きてたのか」

見回りに鈴木兵曹がやってきました。

「お前たちが明日この団門を出れば、戦艦が、巡洋艦が、
駆逐艦がお前たちを待っている。
海の決戦場が待っている。
ただ立派な、一人前の水兵として、この団門を出てゆく。
そのことが大事だぞ。いいか」


「ここに諸子が蛍雪の功成ってめでたく海兵団の過程を終了することが・・」





いよいよ彼らが海兵団を巣立つ日がやってきました。



子供のような彼らを一人前の水兵に育て上げ送り出す教班長たち。



今から諸子の双肩には日本海軍の大責任がかかったことを
忘れてはならない、という言葉が述べられ、
彼らは海兵団の門を出ていきます。



敬礼しながら門に進む、連綿と続いてきた「海軍流の旅立ち」の姿です。



彼らが左手に下げているのはどう見ても桶なんですが・・・。

「海の男の初陣の 血潮高鳴る太平洋
見事撃滅し遂げねば 生きちゃ戻らぬこの港


君は血潮の陸戦隊 俺は千尋の潜水艦」

そんな流行歌っぽいメロディの歌が流れます。



そして、最初とは別人のようにたくましくなった森村の姿が。



多くの森村新八のその後を知っている我々には、この写真が
その後どんな思いで眺められることになるのだろうとか、
親子で撮った最後の写真になったかも、などということを考えずにいられません。

写真を見る父と母の笑顔に、森村の思い詰めたような
防人の表情が重ねられ、この国策映画は終了します。



「我に敵なし太平洋」

こうして発った森村は、山鳥は、そして山口中尉や鈴木兵曹は、
日本という国体を守るという使命の下、戦いに身を投じていきました。

その結果、彼らは生きて終戦を迎えることはできたか。

その点にのみ焦点を当てて答えを出そうとしたのが、
同じ昭和の、30年後に作られた映画「特別年少兵」といえましょう。


終わり。


映画「水兵さん」〜入団

2022-02-09 | 映画

松竹映画が海軍省の後援で昭和19年に製作した国策映画、
「水兵さん」をご紹介します。



横須賀鎮守府の検閲も行われていますが、これは、
物語の舞台が横須賀海兵団であるからです。



昭和19年5月5日完成、とありますが、この頃、米軍は飛び石作戦で
アドミラルッティ諸島を占領しており、海軍乙事件で古賀峯一大将が殉職、
民間では疎開が始まるなど、戦況の不利が目に見えてきた頃です。

この時世に戦地に送り込む対象をより引き下げたい海軍としては、
海兵団への志願を募るために絵に描いたような宣伝映画を製作しました。

それが本作「水兵さん」です。

軍艦行進曲に乗って連合艦隊の勇姿が現れたかと思うと、
それに万葉集の和歌が字幕で重ねられます。


於保吉美能 美許等可之古美 伊蘇尓布理 宇乃波良和多流 知々波々乎於伎弖

万葉集の原文が振り仮名つきで最初の画面に現れます。
防人であった丈部造人麻呂の歌で、

「大君(おほきみ)の、命(みこと)畏(かしこ)み、磯に触(ふ)り、
海原(うのはら)渡る、父母(ちちはは)を置きて」

意味は、

天皇陛下の命令に従い、磯づたいに海原を渡ります。父母を故郷に残したまま

となり、それはそのまま国のために軍隊に身を投じ、
海軍軍人となって海に出ていく防人のことばとなっています。

つまり、主人公である海兵団の少年たちの未来ということになります。

横須賀海兵団といえば、昨年当ブログでご紹介した
映画「海軍特別年少兵」は、まさにこの横須賀海兵団が舞台でした。
戦後に反戦をテーマに作られたこの映画は、言うならば
「水兵さん」の「その後」ということになります。

両作品を見比べてみると、後者には前者の表現や設定流用したものが多く、
明らかにいくつかのシーンは前者を参考にしていることがわかります。

「特別年少兵」は、つまり戦後の「反省の立場」に立って、
「水兵さん」に釣られて海軍に志願した純粋な少年たちが、
その後どうなったかを糾弾した映画、とでも言ったらいいでしょうか。

あからさまな宣伝を目的にされた本作は、それゆえ綺麗事すぎて
そこに描かれる世界はいかにも作り物めいており、喩えは変ですが、
アメリカの原爆実験でネバダの実験地に作られた家の中に配された
マネキンの家族のように、不気味ですらあります。


■ 志願


さて、それでは始めましょう。
軍艦が描かれた少年誌を熱心に眺めている少年森村新八、それが本作主人公です。


実に素朴で当時としては普通の、その辺にいくらでもいそうな少年ですが、
演じているのは子役出身の星野和正という俳優です。

ちなみに星野は1930年生まれですから、この頃14歳と
ちょうど海兵団の入団資格年齢であったことから抜擢されたようです。
子役として騒がれ、この頃が俳優としての全盛期で、
同じ年に「君こそ次の荒鷲だ」という航空兵徴募宣伝映画、
「陸軍」という陸軍省後援映画に立て続けに出演しましたが、
戦後は数えるほどの作品のチョイ役のみで、いつの間にか映画界から消えました。

演技も上手いとはお世辞にも言えず、この容姿では
失礼ながら当時でも宣伝映画の少年兵以外役はなかったでしょう。


少年は悩んでいました。
海兵団の願書の締め切りが迫っているのに、父親の許可が得られないのです。

彼は母親に父の説得を頼み、母ははいはい、とまるで
ボタンつけを頼まれたように軽く請け負っております。

普通母親ってもう少しこういうことに慎重じゃないのかな。


父親は表具師で、自分の後を継いでほしい一方、息子がとにかく弱虫なので
海軍なんぞでやっていけないだろうと決めてかかっています。


やはり海兵団を受験する友達は、
「君のお父さん、笑ったことある?いつも怖い顔してるね」

この手の映画で興味深いのは、合間に映る当時の街並みです。
ほとんどの地面が当たり前ですが舗装されていない地道です。



その夜、母親が「石頭」の父を説得している間、彼は
なぜか瓢箪に紐を巻きつけています。
この瓢箪が何のためにあるのかも謎ですが、これも表具師の仕事とは・・。



そしてこの母親。
当人が23で嫁いできたと言っているので、すぐに子供ができたとして
せいぜい38歳〜40歳のはずですが、ものすごく老けて見えます。



ここで突如登場した眼鏡っ娘、近所に住む新八くんの従姉妹ですが、
戦時中のこととて、セーラー服にモンペという当時のスタンダードスタイルです。


彼女は新八が友達と海軍に入る約束までしたのに、
いまさら志願を辞めるなんて卑怯者だといきなり責め立てます。

「だって親の承諾がないと応募できないんだよ・・・」(´・ω・`)



眼鏡っ娘としちゃんの母である新八の叔母は、父親の妹。
近所で床屋さんをやっています。
あの父親の妹がこれ?というくらいの美人です。


夫婦は息子の受験について、「近所の御隠居」とやらに相談に行きました。

「近所の御隠居」というワードが普通に存在していた時代。
夫婦はお互いが「内内」のつもりで息子の海兵団受験について
相談に来たのですが、御隠居宅でバッティングしてびっくり。


二人にお茶を運んできたのは、御隠居の家の嫁で、
彼女は海軍軍人である御隠居の息子と結婚したばかり。
夫婦が御隠居に相談に行ったのは、息子が海軍士官だからでした。

「(夫が)家に帰ってくるのは月に一度か二度でございますの」

海軍士官が見染めた美人妻という設定ですが、どうにもこの女優さん。
何やら見ていて不安になる微妙な容姿をしています。
失礼ですが、おそらく歯並びのせいではないかと思われます。



その夫である海軍軍人というのが、本作出演中当時最も有名だった俳優、原保美

当ブログで紹介した映画でも海軍」「乙女のゐる基地」
「日本戦没学生の手記 きけ、わだつみの声」「ひめゆりの塔」
「激動の昭和史 軍閥」
などに出演しています。
当時はいわゆるイケメン俳優枠で各映画に出演していました。



今回、この原保美が原阿佐緒の息子だと知ってカナーリ驚きました。
阿佐緒は当時一世を風靡した「美人すぎる歌人」です。



この写真は昔から原阿佐緒のバイオグラフィで知っていましたが、
左端が保美だったことも今初めて知りました。
ちなみに右端の玉木宏似は阿佐緒の長男で映画監督の原千秋(つまり千秋様)です。


さて、尺の関係なのか、近所の御隠居がどう夫婦を説得したのか、
全く成り行きが描かれないまま場面は検査会場。



検査では体力試験や健康診断などが行われます。
そしてすぐにその場で合格証書が渡されるというご都合設定。



家に帰っってきた号泣寸前の息子を見て、父親は、

「だからおとっつぁんやめとけって言ったんだ!」



「合格した・・・」
「バカ!合格して泣くやつがあるかい」



これが横須賀鎮守府の海軍水兵採用証書だそうです。
鎮守府長官の名前がないようだが。


その夜、父は息子に風呂で背中を流してもらいながら、
ごくありきたりの激励を行うのでした。(いいシーンという設定)



それからが大変です。
近所の御隠居がなんかわからん近所の人たちを引き連れてやってきて、
海軍に関する本をおしつけていったり、



眼鏡っ娘、ときちゃんから宝物の東郷元帥メダル(レアもの)を押しつけられたり。


入団の朝、親子は地元の護国神社に武運長久を祈願します。

■海兵団



ここからは横須賀海兵団での様子が活写されます。(おそらく本物)



教班の分隊長が原保美演じる山口中尉が、
入隊した水兵の名簿に、森村新八の名前と写真を見つけました。

実際は知り合いが分隊長になる確率は低いだろうと思うのですが。


教班ごとに食事の卓が分かれているというこのシーン、
全く「特別年少兵」と同じアングルですね。


ただし本作における教班長は、「特別年少兵」の、
少年たちを理不尽に扱きまくる地井武男のような鬼兵曹ではありません。

「厳しいところもありますが、とても優しいいい方です」

まあ、宣伝映画で、何かあるごとに竹刀で殴られるとか、
集合が遅い班は机を抱えて立たされるとか描かんわなあ。



新八は早速海軍の大掃除が徹底的なのに驚かされます。
海軍の清潔好きは好きというより必要からで、狭い艦内で
伝染病などの病気が蔓延することを極度に警戒することからきています。



初めて水兵服を支給され、敬礼の練習。
そういえば、どこかの海自基地でこんなシールが貼られた鏡を見たことがあります。



相撲の教練には、本物の力士が部屋ごとごっそり稽古をつけにやってきます。
これは兵学校でもそうだったし、何なら水泳の教師として
オリンピックの選手レベルが来たという話もあります。



お次は伝令訓練。
報告を受けて別部署にそれを伝えるという訓練なのですが、



この山鳥という訓練生、何度やり直しても伝達が復唱できません。
「特別幼年兵」にも若き日の中村梅雀演じる落ちこぼれがいましたが、
どうやら本作におけるそういう少年がこの山鳥くんのようです。



銃を持って小走りに走る訓練生たち。
銃は本物で、本当に海兵団の訓練施設から借りているのだと思われます。


山鳥がどうしても復唱できない時には笑っていた教班長が、
色をなして激昂する出来事がありました。



訓練生の小山田が銃を収納する時安全装置をかけ忘れたのです。

「バカっ!貴様それでも軍人か!中は軍人の魂だ!
貴様来い!軍人魂を教えてやる」



二人がどこかに行ってしまったので彼の班は昼ごはんが食べられません。
山口中尉が見回りに来て脚を止めます。



「小山田の銃の取り扱いが悪かったんであります」
「銃か・・」


ところが黙っていればいいものを、森村新八、わざわざ

「小山田もわざとやったんじゃないので許してやってください」

などとでしゃばり、こっぴどく中尉に叱られるのでした。

自分が山口中尉の知り合いだということで、
取りなせば多目に見てもらえるとでも思ったのかもしれません。


道場に連れて行くといったとき、流石に銃に関わる失敗とあっては
鉄拳制裁発動やむなしとわたしも思ったのですが、なんと海軍、
この後に及んで宣伝の妨げになるような実態描写を避けてきました。

教班長の下した小山田への罰直。

それは道場でただ正座して、無言の時間を過ごすことでした。
んなあほな、と戦後この映画を見た人は誰もが思うでしょう。
しかも、教班長である鈴木軍曹、実に悲痛な様子で、



「お前の不注意は俺の教育が足りなかったためなんだ!俺の責任だ」


「・・・・教班長!」

うーん、これは気持ち悪い。じゃなくて、いたたまれない。
鉄拳制裁よりある意味こたえるかもしれんね。

■ 父の転職



次のシーンでいきなり造船所での作業が映し出されます。


当ブログが、プロパガンダ映画で大した筋でもないとわかっていながら
本作をあえて取り上げたのは、こういうシーンがあるからです。
海軍工廠のものか、民間の物かはわかりませんが(この写真は民間船?)。


三菱や玉野などの造船所の内部を歩いたことがありますが、
それでいうと、基本的にいまの造船所とあまり変わらないような・・。

なぜこういうシーンが現れたかというと、それは新の父が、
息子の海軍入りに触発されて、いきなり妻に内緒で
造船所で働くことを決めてきたからでした。

妻も妻で、全く驚きもとがめもせず、むしろそれを大喜びします。
たしかに戦時中は表具屋よりは軍需工場の方が身入りも良さそうですが、
問題はこの1年半後です。

こ敗戦を待たずおそらく父親は軍需工場での仕事はなくなっただろうし、
下手したら空襲に遭うことになっただろうし、無事に終戦を迎えても
戦後は表具の仕事に戻ったところでそんな仕事はなかっただろうし・・。



さてこちら新八くんには、海兵団に入って最初の試練が訪れていました。
マスト上りです。


下を見るなと言われるのについ見てしまい、怖くて体が動きません。


一方造船所に勤め始めた父ちゃんも頑張っています。
作業に入る前に研修?として、皆で槌を振るうポーズの練習。

「イチ、ニ、イチ、ニ!」


こっちも「イチ、ニ、イチ、ニ!」と平泳ぎの陸練習。
何と横須賀海兵団には室内プールが完備していた模様。


続いてはおなじみカッター漕。



ここで海に落ちる生徒が出てくるのも「特別年少兵」と同じ。
場所を交代しようとして落ちるのは、案の定要領の悪そうな山鳥です。
そして、落ちる生徒は必ず泳げないというお決まりのパターン。


「年少兵」とちょっと違うのは、この山鳥、櫂に捕まらず、
「山鳥泳げます!」
を連呼して自力で泳ごうとしてそれに成功するところです。



「嬉しかったー!」
とりあえず何とか泳げたことを皆に自慢する山鳥。



教班長もまた、彼の班のカナヅチの一人が泳げるようになったので、
他の教班長に自慢したりしております。


そんなある日、新八の父が山口中尉に手紙をよこしました。
かれは、父が軍需工場に転職したことを山口中尉の口から聞かされ驚きます。


山口中尉はついでに新八の成績がいまひとつであることをやんわりと説教します。

「お父さんはいつもお前のことを自慢しているというが、
それにふさわしいと自分で言えるか?」

山口中尉は要するに、先日森村がでしゃばったことを含め、
自分たちが知り合いであることで勘違いするな、と釘を指しているのです。

それどころか、教班長にもわざわざ、
「分隊長の知り合いであるからと言って特別扱いは決してせぬように」
と言い含めるのでした。

海軍は、宣伝映画を通じて、海軍の知り合いがいたからといって、
特別扱いはしませんよ、と警告しているように見えます。


山口中尉の叱責を受けたその次の自習時間、森村は姿を消しました。


心配した教班長が探すと、苦手なことからとりあえず克服しようと
一人でマストに登って行く森村新八の姿がありました。




続く。



MATCALS(海兵隊航空管制&着陸システム)〜フライングレザーネック航空博物館

2022-02-07 | 博物館・資料館・テーマパーク

フライング・レザーネック航空博物館の展示紹介、いよいよ最終日になります。

最後に残ったのは航空博物館には非常に珍しいものなのですが、
その紹介の前に、この時滞在していたホテルからの
サンディエゴ軍港の眺めを貼っておきます。


ホテルはミッドウェイ博物艦から歩いて5分の距離でした。



このときはまだコロナ前で、普通にミッドウェイは観光客で賑わっています。


甲板の上に展示されている航空機も、名前がわかるくらいの近さです。



ミッドウェイの甲板の向こうには「カール・ヴィンソン」が。
この頃にはサンディエゴを母港として海自との合同訓練をしていました。

今年の夏から横須賀に来ており、10月には
日米英蘭加新共同訓練に空母「ロナルド・レーガン」などとともに参加し、
英海軍空母「クイーン・エリザベス」を中心とする空母打撃群CSG21、
海上自衛隊護衛艦「いせ」などと訓練を行っています。


手前から「ロナルド・レーガン」「クィーン・エリザベス」
「いせ」「カール・ヴィンソン」。
米英の巨大空母と比べるとなんて可愛らしいの、「いせ」。


隣で修復中?
「セオドア・ルーズヴェルト」。
やはりこのころ、日本海で日米共同訓練を終わって帰ってきたところです。


パンデミックでは結構えらい目にあったようです。

2020年3月24日、3人の水兵がCOVID-19に陽性反応を示し
その後数十人にまで感染は蔓延。
なんと「セオドア・ルーズベルト」は、洋上でCOVID-19が発生した
米海軍初の艦船に認定されてしまいました。

感染者が100人を超えたため、艦長のブレット・クロージャーは海軍に助けを求め、
上司である太平洋艦隊の提督・艦長10人にメールを送り、自艦の退避を要請。

それに対し、トーマス・モドリー海軍長官代理が、
「電子メールで支援要請を、しかも指揮系統上ではなく『幅広く』送った」
としてクロージャーの指揮権を剥奪し、さらに
その対応がプロらしくないと非難しました。
このあと乗員を前にした演説で前艦長のことを
「あまりにも愚か」と発言し、一部の乗員が罵声を浴びせた音声が流出し、
これが原因でモドリーは辞任しています。

その後乗員の陽性反応は585人に表れ、ついに一人が死亡。

隔離と検査を繰り返し、一旦は1000人近くが陽性反応だったのですが、
発生から1ヶ月半の5月21日に「セオドア」は海に戻りました。

クロージャー艦長は復職が期待されていましたが、
結局措置はそのままになりました。


ドーム状の建物の向こうには航空機が見えることから、
これは格納庫ではないかと思われます。



さて、余談はさておき、最後のFLAM展示はこれです。
迷彩柄にペイントされた巨大アンテナ付きのコンテナ。


これ関連の設備の配置図はご覧の通り。
レーダー付きのコンテナ、なしのコンテナ、
そして何かわからないもの。


この何かわからないものを横から眺めてみました。



プレートを読めば何か手掛かりが見つかるかな?



AN/TPS-73
AIR TRAFFIC CONTROL SUBSYSTEM

なるほど、こいつは海軍の宇宙海洋戦システム部門が開発したもので、
航空管制のサブシステムであるらしいことがわかりました。

AN/TPS-73は、完全なソリッドステート(SSD)の
一次監視用S-Band多機能レーダーの機種で、
長距離戦術航空管制レーダーとして、ギャップフィリング(間隙埋めって何)
や監視任務に使用することができます。

このシステムは、不明瞭なレーダースクリーンや電子対策が施された環境での監視、
検出、追跡、識別という航空管制上の要求を満たすように設計されています。

サバイバビリティ、軍事的優位性に必要な静音性に優れたレーダー特性を実現し、
監視領域全体で高い目標視認性が確保されるという優れものです。



アレーニア社製のオープンメッシュで先端を切り取ったパラボロイド・アンテナは、
クラッター性能を高めるためにデュアルビームで照射されます。

「AN/TPS-73は約3mのISOシェルターに格納されており、
アンテナ関係の部品を輸送中に保管することもでき、
陸、海、空(C-130、CH-53)で輸送が可能です」


とありますから、つまりこれそのものがシェルターで、
同時にアンテナ機器のコンテナであろうと思われます。

AN/TPS-73は、1990年に海兵隊が購入し、イラク戦争でも使用されました。

そして、TPS-73レーダーは、USMCの
Marine ATC And Landing System(MATCALS)
の一部ということになります。

ここにある三つの構造物がそのMATCALSで、
バリバリイラク帰りの退役装備なのです。


MATCALS(マトカルズ)の正式名称は、

Marine Air Traffic Control & Landing System
(海兵隊航空管制&着陸システム)


となります。



装備のセッティング例。



イラクでの使用例。

左にさきほどのTPNー22レーダーがあります。
このレーダー、つまりPrecision Approach Radar(PAR)ですね。

航空機のパイロットが着陸する際に、着陸しきい値に達するまで、
横方向と縦方向の誘導を行うためのレーダー誘導システムの一種です。

PARのディスプレイを監視しているコントローラは、
各航空機の位置を確認し、最終接近時に航空機が
コースとグライドパスを維持するようパイロットに指示を出します。


これにより、このパラボラアンテナが付いた装備を

TPS-73
AIRPORT SURVELLANCE RADAR(ASR)

(エアポート・サーヴェイランス・レーダー)

と呼ぶことがわかりました。


空港監視レーダー(ASR)は、空港で使用されるレーダーシステムで、
空港周辺空域の航空機の存在と位置を検出して表示する機能を持ちます。

一般の空港においても主要な航空管制システムで、大規模空港だと
安全性のため、一次監視レーダーと二次監視レーダーで二重に構成されています。



アンテナのついていないコンテナもあります。


土方セットは砂漠では必需品なのかも。
どういう場合に使うのかはっきりわかりませんでしたが、
もしかしたら砂でドアが開かなくなったりするのでしょうか。
入り口にあるからには、しょっちゅう使う事情があったものと思われます。



ドアには内部の見取り図が貼ってあります。
この猫の額のようなコンテナに入っていて非常口がわからなくなる事態とは一体。

右下は室内の脱出口が記されています。
ファーストエイドキットにカンテラランプ。

もしかしたらこれ、外側からの救出なんて事態もあるかもってことかしら。



任務中ずっとここに立って戸を締め切って機械に囲まれる生活。
一歩外に出ればそこは灼熱の砂漠。
これはなかなか辛いものがあるかもしれません。
何人でオペレートするのか知りませんが、一人だったら寂しいだろうし、
気の合わない人や嫌な上司と一緒だったらもはやそこは地獄。


そしてこのモニターをずっと監視しているわけですねわかります。



レーダー、アンテナなどの操作パネルですが、
さりげなくもう昔の機器という感じの佇まいです。

赤いパネルには、

危険!
フレームや露出した金属部分がすべて接地されていない状態で、
この機器を使用しないでください


とかかれています。
金属部分が全て設置されていない=アースがされてない
ってことかな。


展示のために、表面はすべてアクリルガラスで覆われていました。


これは発電のための電池群だと思われ。
一つの大きな電源でなく小さいのがたくさん、というのは
リスク回避のためでしょうか。


ん?こんなところに落書き?と思ったら・・・、



なんか重要なことなのでマジックで直接書いたようです。
アメリカ人、こういう数字の書き方する人多いですよね。
4だか9だかわからないこともあるんだこれが。



機器のステータスボードですね。
ラジオ、電話、インターコムと全てボタン式なのが時代を感じさせます。


ボードのラック




建物上部には空調のファンが見えます。
「一般目的コンピュータ」「特別目的コンピュータ」と分かれており、
これ全体がモニタとなっているようです。


これらのシステムは全部で18台が米軍に納入されたといいますから、
その数少ないうちの一台がここにあるというわけです。

製造はパラマックス社(ユニシス)、その後、ニューヨークの
ロッキード・マーチン・タクティカル・ディフェンス・システムズ社
イタリア・ローマのアレニア・SpA社が製造を手掛けました。

現在は、多機能レーダーAN/TPS-80「G/ATOR」に置き換えられています。

レーダー単体はアレニア社(現レオナルド社)がライセンス生産し、
「Argos(アルゴス) 73」の名称で販売されていました。



イラクに展開していたMATCALSサイトの様子です。

どういう勤務体系で、つまりコンテナには何人が入り、
何時間交代で、その間彼らはどういう風に任務をおこなっていたのか、
そういったことについての情報は、残念ながら見つかりませんでした。

決して楽な任務ではなかったという気はします。


ただ、狭いながらにカウンターらしきものが辛うじてあったので、
ここにきっとコーヒーメーカーくらいはあったと思うのです。

アメリカ人の職場にコーヒーがないなんてとても考えられませんから。
それがたとえアラスカでも、イラクの砂漠でも。


というわけで、フライングレアーネック航空博物館の紹介を終わります。
この「海軍の街」サンディエゴにいつかまた行ける日が来るのを願いつつ。


フライング・レザーネック航空博物館シリーズ終わり




ドローン・ランチャーと無人航空機〜フライング・レザーネック航空博物館

2022-02-05 | 航空機

前回のプラウラーを持ちまして、フライング・レザーネック航空博物館の
展示航空機の紹介を終わったわけですが、ここには
どういう経緯かわかりませんが、航空機以外のものもあります。


まずワイルドキャットの横にあったこれですが、
おそらくこれは何のことはない牽引式のトレーラーです。

向こうには給油用のタンカー車が見えます。


問題はこれ。機銃があったのでそのご紹介をしましたが、
ここには戦車もあったのです。
わたしにとって大変難儀なことに、戦車の類に説明がいっさいありません。


タンクの種類には違いないのですが、いかんせん砲が短いので
自走榴弾砲というようなものではないと思われます。

英語でいうところの
armoured personnel carrier、装甲人員輸送車的なものではないかと。
陸自の装備でいうと73式装甲車が一番近い気がします。




これはハウザー(榴弾)的な?


M60パットン戦車

これがパットン戦車であることくらいはわたしにもわかりました。
「パットン」は愛称であり、制式名称ではありません。

M60は46、47、48ときていきなり第二次世代バージョンで、
アメリカ軍では1991年の湾岸戦争まで使われていたそうです。

イランに供与された車両は異端イラク戦争でソ連製戦車と戦闘していますし、
トルコ軍のパットンはなんなら2014年でもISILと戦っていたそうです。

ところで超余談ですが、今回戦車画像を検索していて、
エジプトの自国製戦車の名前が「ラムセス二世」であることを知りました。
あと、カナダ軍は巡航戦車に「ラム」「グリズリー」という名前をつけています。
牡羊に灰色熊。
どちらも強いっちゃ強いですが、野生動物というのがカナダらしいですね。

■ ハンヴィーHMMWVとは


説明なしといえばこんなものもぞんざいに展示されていました。
陸自のLAVと言われる軽装甲機動車に似ています。

アメリカ軍の汎用軍用車のことを
「ハンヴィー」
HMMWV, High Mobility Multipurpose Wheeled Vehicle,
高機動多用途装輪車両)
といいますが、そのどれかといった面持ちです。

ちなみにわたしはつい最近までハンヴィーを車の名前だと思っていました。
現在アメリカ軍は、陸軍、海兵隊、特殊作戦軍統合による
ハンヴィーの後の
JLTV(Joint Light Tactical Vehicle, 統合軽戦術車両)
を制定したばかりで、(といってももう6年前ですが)
オシュコシュのL-ATVが2018年以降調達されているはずです。



これはハンヴィーの一部を、より大きな積載量を持つ、
より生存性の高い車両ファミリーに置き換えるという計画です。

■ ドローン・ランチャーRQ-2パイオニア


まず、航空博物館のヤードに、突如レールを乗っけた
迷彩のトラックが現れました。
これは

M939 5tトラック M939 Series 5t Truck



言うて全く普通のカーゴトラックなのですが、問題は
これが乗っけているレールです。
このトラックは実はドローンのランチャー装置を載せているのです。
打ち上げるドローンというのがこれ。

AA1 RQー2B パイオニア Pioneer


RQ-2パイオニアは、1986年から2007年まで
アメリカ海軍、海兵隊、陸軍で使用された無人航空機です。
当初は「アイオワ」級戦艦に搭載され、
砲撃スポットを提供するための偵察機としての能力がテストされましたが、
のちにその任務は主に水陸両用部隊のための偵察・監視に発展しました。

開発はアメリカの航空機関連企業であるAAIコーポレーション
イスラエル航空機産業会社の共同によるもので、
なぜここにイスラエルの企業が出てくるかと言うと、このプログラムが
もともとイスラエル発のドローン機、
 タディラン・マスティーフTadiran Mastiff UAV
の実戦運用をきっかけに生まれたことに由来します。


タディラン・マスティフIII

マスティフはイスラエルで製造・運用された無人航空機(UAV)ですが、
アメリカ軍がレバノンに駐留するようになってからは、
何でも欲しがる米海軍が(個人の感想です)興味を示し、
無人偵察機開発の要求を行った結果、イスラエルの製造会社はこれを引き受け、
アメリカ企業がこれに乗っかる形で共同開発という形をとったのでした。

これはアメリカ軍そのものが、外国製品の輸入をよしとしなかったからです。

パイオニアは、海軍の要請により、より大量のペイロードを搭載するため、
このタディラン・マスティフをベースに、
それまでのリンバッハ社製の2気筒2ストロークエンジンから、
フィヒテル&ザックス社製の2気筒2ストロークエンジンに変更しました。

リンバッハ・モーターには、カリフォルニア州サンクレメンテにある
プロペラ・エンジニアリング・アンド・デュプリケーション社
28インチ・プロペラが使われていましたが、
よりパワフルなフィヒテル&ザックス社製モーターには、
ペンシルバニア州ランカスターにある
センセニヒ・プロペラ・マニュファクチャリング・カンパニー社製の
29インチプロペラ(回転方向が逆)が搭載されました。


USS 「アイオワ」(BB-61)の乗組員がRQ-2 Pioneerを回収している

パイオニアは、ロケットアシスト装置(艦上)、カタパルト、滑走路から発射され、
34kgのペイロードを搭載して最長5時間飛行した後、
ネット(船上)またはアレスティングギアで回収します。

ビデオはジンバル式のEO/IRセンサーCバンドのLOSデータリンクを介して
アナログ映像をリアルタイムで中継します。
1991年以来、パイオニアはペルシャ湾、ソマリア(UNOSOM II)、
ボスニア、コソボ、イラクの各紛争で偵察任務に従事してきました。

2005年には、海軍がパイオニアを2機(1機は訓練用)、
海兵隊が2機を追加し、それぞれが5機以上を運用している状態です。

外国軍で運用しているのは「発祥」となったイスラエル軍以外は
シンガポール共和国空軍です。

2007年、パイオニアはアメリカ海軍での任務を退役しました。
後継機となったのはRQ-7シャドーShadowUAVです。

イラクで運用中のRQ-7

こちらはアメリカ軍以外ではオーストラリア、イタリア、パキスタン、
ルーマニア、スウェーデン、韓国軍が運用しています。

【日本の無人機】

こういうのがいかにも得意そうなのが日本人じゃないかという予想通り、
日本では無人機の軍運用は大日本帝国軍時代から始まっていました。

完全自動操縦装置(帝国海軍)

海軍航空技術廠(空技廠)兵器部が進めていた完全自動操縦技術の実験で、
1937年(昭和12年)頃には研究が始まっています。

敵機編隊内での自爆攻撃、無人雷撃、新型機の無人試験飛行、
標的機や囮機としての運用などを目的に開発されたもので、
中二的命名が好きな軍がなぜかこれには全く名前らしい名前をつけず、
「完全自動操縦装置」
というのがこの無人機の名称だったようです。

まあ無人機なんで、かっこいい名前をつけたところで
それを誰が操縦するわけでなし、士気高揚の必要性もなかったってことでしょう。


無線操縦は油圧を介して他の誘導機から行われるという仕組みで、
カタパルトで射出するとその衝撃によって時限装置が起動、
補助翼、方向舵、昇降舵の順で離陸前に所定位置に
セットされたクランプが外れていき、羅針儀と速度計の計測を元に、
一定高度まで自動上昇した後に無線操縦に切り替わり、
着水も誘導機からの信号を受けてエンジン出力が絞られ、
水面に接触するとスイッチが作動してエンジンが自動停止する仕組みでした。

という感じで大変有用な機体となるはずでしたが、
いかんせん製作費が高すぎて運用できなかったということです。

そのほか、1930年代には個人が発明した
低翼単葉ロボツト機
海軍が試作した軍用グライダー
無人標的機MXY3、
一式標的機MXY4
などがありました。

日本の無人航空機のリストを挙げておきます。
  • 無人標的機 UF-104J/JA(F-104型無人機1997年退役)無人標的機 J/AQM-1
  • 空対空用小型標的 J/AQM-2(2012〜)
  • 無人標的機 KAQ-1(1950〜生産終了)
  • 空対空用無人標的機 KMQ-5
  • 遠隔操縦観測システム (FFOS)(陸自・遠隔操縦観測システム)
  • 新無人偵察機システム (FFRS)(無人偵察機システム)
  • 無人機研究システム(元・多用途小型無人機TACOM 防衛装備庁・富士重工)
  • 携帯型飛行体
  • GPSカメラ搭載自律飛行機
  • 無人航空機用制御装置
  • 球形飛行体
  • JUXS-S1
  • IR-OPV
  • フジ・インバックB2
  • HYFLEX(NASDAによる極超音速実験機)
  • ALFLEX(NASDAの自動飛行実験機)
  • RTV(JAXAの完全再使用ロケット開発実験機)
  • HSFD(JAXA)
  • NEXST-1(NAL/JAXA小型超音速実験機)
  • LIFLEX(JAXA)
  • URAMS(放射線モニタリング無人機システム)
  • S3CM(低ソニックブーム設計概念実証プロジェクトの静粛超音速研究機)
  • McART3
  • RCASS(ヤマハ発動機・農業量無線操縦ヘリコプター)
  • R-50(ヤマハ発動機・無線操縦ヘリコプター)
  • RMAX(ヤマハ発動機・ドローンヘリコプター)
  • RMAX Type II
  • RMAX Type II G
  • FAZER(ヤマハ発動機・多目的無線操縦ヘリ)
戦後ドローン関係だけで日本はこれだけ運用した実績があります。
これはアメリカに次ぎ、ドローンの本場イスラエルより数は多くなります。
JAXAとNASDAがドローンを使った実験を行なっているためです。



【パイオニアの運用】

1991年の湾岸戦争で、アイオワ級戦艦USS「ウィスコンシン」(BB-64)
発進させたパイオニアは、USS「ミズーリ」が塹壕を攻撃した直後、
イラク軍が降伏したのを確認し、国際的に有名になりました。

戦後、海軍がパイオニアをスミソニアン博物館に譲渡することを申し出たところ、
国立航空宇宙博物館の学芸員は、
「湾岸戦争でイラク軍が投降した瞬間を確認したUAV」
の寄贈をリクエストしたといわれています。

1991年の湾岸戦争では、アメリカ陸軍はアリゾナ州の駐屯地にあったUAV小隊を
三度ホーク作戦に飛行監視と目標捕捉の任務に投入しました。

ちなみに、パイオニアの名称の「RQー2B」の意味ですが、
「R」は国防総省の呼称で、偵察を意味し、
「Q」は無人航空機システムを意味します。
「2」は、目的を持って作られた無人偵察機システムの
これが第2弾であることを意味しています。




主な機能 
砲兵の照準・捕捉、近接航空支援の制御、偵察・監視、
戦闘被害評価、捜索・救助、心理作戦
コントラクター
 パイオニアUAVs, Incorporated、イスラエル航空機産業
仕様

全長:4メートル
全高:1.0メートル
重量:205キログラム
翼幅:5.2メートル
速度:110ノット(200km/h)
航続距離:185kmで5時間(100海里)
高度:4600メートル
燃料容量:44〜47リットル
ペイロード デュアルセンサー(12DS/POP-200/POP-300)

在庫数 175台納入/35台就航


オペレーター
アメリカ海軍
VC-6「ファイアービーズ」ノーフォーク海軍基地(退役)
訓練航空団第6UAV分遣隊。海軍航空基地ホワイティングフィールド(退役)
アメリカ海兵隊
VMU-1「ウォッチドッグス」海兵隊航空地上戦闘センター
VMU-2「ナイトオウルズ 」

スリランカ空軍・海軍

続く。




EYES IN THE SKY 電子戦機EA-6Aプラウラー〜フライング・レザーネック航空博物館

2022-02-03 | 航空機

わたしがフライング・レザーネック博物館に行った時、
ただでさえ暑いサンディエゴの真夏の炎天下の下、
そこで何の遮蔽物もない航空機展示場を重いカメラを構えっぱなしで
しかも色々とそれなりに考えながら写真を撮って歩くのは
正直ベリーハードな体験でした。

展示されている航空機を一つも漏らすことなく短時間で説明まで撮影。
しかもアポロ13号ではありませんが、フェイリアーイズノットアンオプション、
撮影の失敗は決して許されません。(その心はおそらく2度と来ないから)

ですからどの航空機も全体1〜2カット、
細部で気になるところがあるときだけ直感で判断してズーム、
となると、どの機体も必要最小限のカットしか残っていないのですが、
あとで写真を見て驚いたのが、今日紹介するプラウラーだけは、
なぜかしつこくしつこく何カットも撮っていたことです。



うーん、わたしってそんなにプラウラー好きだったのか。

■ グラマンEA-6B プラウラー(Prowler)



EA-6Bプラウラーの主な任務は、敵の電子活動を妨害し、
戦闘エリア内で戦術的な電子情報を取得することにより、
攻撃機と機上部隊を支援する敵の防空を抑制することです。

戦いにも色々ありますが、敵の防御を崩すという
非常に巧妙な戦法を任務として負わされている、それがプラウラーです。


正確にはこのモデルノートEA-6Bは、1963年に
F3D-2Q(EF-10B)スカイナイトの代替として開発した、

EA-6A エレクトリック・イントルーダー
Electric Intruder(直訳;電気的侵入者)

の続編ともいうべき機体でした。
EA-6Aは艦上攻撃機として誕生したイントルーダーの初期の電子戦型です。


スカイナイト

【電子戦機Electronic-warfare aircraftとは】

電子戦(EW)
近年になって登場した、従来の陸空海の領域を超える、全く新しい戦争の顔です。

電磁環境の中で行われ、電子情報に依存した現代の戦闘において、
敵の情報収集を混乱させたり、誤った情報を与えたりする能力は、勝利に不可欠。

現在は多くの戦闘機がされたアビオニクス(航空電子機器)
を装備しているため、電子戦の定義そのものが曖昧になりつつあります。

たとえば戦闘機F-22ラプターひとつとってみても、
RC-135に匹敵する電子情報(ELINT)システム
ボーイング社の空中警戒管制システム(AWACS)
電子攻撃能力が搭載されているといった具合です。

【ジャミングとは?】

電子戦に特化した航空機EW機の基本任務は、
敵戦闘機の電子システムを妨害することです。

例えば、空対空戦闘中に敵機の無線機を沈黙させ、
他の航空機と通信できないようにするというように。

そのためにどうするかというと、使用するのがEWシステムとなります。
具体的には電波やレーザー光などの集束&指向性エネルギー(DE)を用いて、
相手の探知電子機器(レーダー、ソナー、赤外線、レーザーなど)
の機能を低下させるのです。

そのために、EW機は、必ず航空機のポッドに取り付けられたり、
機体に組み込まれたジャミング・システムを搭載しています。

EW機は電子戦に特化し、この目的のためだけに作られているので、
他の軍用機に比べると武装は必要最小限となっています。

EW航空機は防御手段も電子を利用して行います。
具体的には、敵のシステム上に複数の「デコイターゲット」を作成したり、
敵のターゲットディスプレイを不規則に動かなどの戦法で自らを守るのです。

それでは攻撃はどうするかというと、
アジャイル・レーダー周波数ホッピング・ラジオで、
相手のシステムの情報伝達を妨害するという方法で行います。


「ジャミング」ですが、無線とレーダー、両方の周波数で行います。
送信機を使って敵の受信機の信号を上書きし、代わりにノイズを発生させるのです。

音楽(!)ランダムノイズ、パルスなどで、敵のシステムに可聴ノイズをかけたり
「微妙な」妨害で、相手が全く音を受信できなくさせます。

レーダー周波数による妨害の方法は大きく分けて二種類。
機械的な妨害と電子的な妨害があります。

前者は反射技術を使って敵のレーダー信号を跳ね返し、偽の目標を作り出すもの。
この装置には、チャフ(異なる周波数を反射する金属片)、
コーナーリフレクター(立体的な反射物体)、
デコイ(航空機から独立した操縦可能な物体で、相手のレーダーに目標を示すもの)
などがあり、もう一つの電子妨害は、高濃度のエネルギーを送信して、
過負荷によるノイズ妨害、偽信号によるリピーター妨害を発生
させます。

【プラウラーの電子戦】


現在、グロウラーに移行しているプラウラーは、
レーダー妨害などの通信障害を利用して地上部隊や攻撃部隊を支援する
SEAD(Suppression of Enemy Air Defenses)オペレーターでした。

ICAP(Improved Capability)IIIプログラム
電子機器をアップグレードしたプラウラーは、
連続波(CW)送信機を搭載したALQ-99ジャミングポッド5基、
AN/ALQ-218 EW受信機、LR700リアクティブジャマー
HARM(高速対放射線ミサイル)、Link16データリンク
その他の非運動性の無力化機能を備えていました。

1994年、プラウラーは米軍の主要な戦術的EW機に指定されています。


【日本の電子戦機〜SIGINT】

電子戦機というのは高度な技術の総合体なので、
開発はもちろん、運用もいわゆる先進国に限られる、とされます。

というわけで、我が日本国自衛隊も国産の電子戦機を何機か保有しています。


Kawasaki C-1

あれ?これ輸送機ですよね。


EC-1

失礼しました。こちらでした。
って外側からはほとんど見分けがつかないわけですが。
EC-1は電子戦訓練機です。

ちなみにSIGINTsignals intelligenceからきた用語で、
今や電子戦よりこちらの方が優勢であると思われます。
耳で聞いたことはありませんが、おそらく「シギント」と発音するのでしょう。
違ったらすみません。

それではそのシギントってなんですか、って話なんですが、
通信、電磁波、信号等の、主として傍受を利用した諜報・諜報活動のことです。

それって電子戦と何が違うの?という気がしますが、
電子戦は同じようなハードウェアを使用し、その運用においては
部隊指揮官の意思決定が直接反映されるという点が違います。

RC-2、電子情報収集機

海自はP−3C型で データ収集機EP-3
画像データ収集機(電子情報集偵察機)OP-3C
電子戦訓練支援機UP-3D(標的の曳航やチャフ散布を行う)
試験評価機UP−3Cを運用しています。


EP-3C胴体上面のレドームが増設された(おそらく岩国)

【プラウラー(うろうろする人)】

何度か書いていますが、Plowrerとは「うろつく人」の意味があります。
情報収集が任務の航空機にはいいかもしれませんが、
日本語で「うろうろする人」と訳してしまうと、
とたんに単なるヒマな人か動揺している人みたいなニュアンスになってしまいます。

プラウラーの後継機であるグラウラー(Glowrer)は、
「唸るもの」という意味ですが、これはあきらかにプラウラーと
韻を踏んだ言葉を探してきた感じがあります。

プラウラーと名付けられた経緯はどのようなものだったのか、
そのエピソードなどがいつかわかるといいなと思っています。

EA-6A「エレクトリック・イントルーダー」は、
1960年代に海兵隊のEF-10Bスカイナイトの後継機として開発されました。

EA-6Aは、標準的なA-6イントルーダーの機体をそのまま転用したもので、
2つの座席を持ち、電子戦(EW)装置を装備しています。

ベトナム戦争中、海兵隊の3つの飛行隊で使用されました。
27機生産され、そのうち15機は新規に製造されたものです。

ほとんどは1970年代に、そして最後の数機は1980年代に退役しました。
いわばより高性能なEA-6Bができるまでの暫定的な戦闘機だったのです。

ここに展示されているのは海軍のEA-6Bです。
スカイウォリアーズ(AKA-3B)の後継機として開発されたもので
大幅に設計変更され、より進化していました。
1971年からは空母で運用されるようになります。

【仕様】

2基のターボジェットエンジンを搭載しており、高い亜音速を実現しています。
長い間(1991年まで)生産されていたため、メンテナンス性が高く、
海軍や海兵隊の他の航空機よりも頻繁にアップグレードが行われています。



空爆任務のための電子戦および指揮統制機として設計されており、
単独で地上目標、特に敵のレーダーサイトなどを攻撃することも可能で、
もちろん電子信号の情報収集も可能です。



最終的なアップグレードでは、EA-6Bはシュライクミサイル(AGM-45)
AGM-88 HARMミサイルを発射できるようになりました。

【デザイン】

EA-6Bは、空母基地および先進基地での運用を想定して設計されています。
長距離・全天候型の能力、そしてと高度な電子対策。
どちらも兼ね備えた完全統合型の電子戦機です。


垂直尾翼の上に乗っかっているように見えるのはポッド型フェアリングで、
ここには追加のアビオニクス機器が搭載されています。


これですわ

プラウラーの乗員は4名。
構成はパイロットと3名のElectronic Countermeasures Officer(ECMO)
「エクモ」というと最近は医療機器としか受け取られませんが。


前にも散々話題にしたツノのような給油プローブですが、
もしかしたらわたしの当機に対する「萌えポイント」はこれかもしれません。

この給油プローブ、右に曲がっているように見えますが、
実は本当に左右非対称の作りになっているのだとか。
プロープの根元にはアンテナが付いています。



キャノピーは、電子戦機器が発する電波から乗員を守るため、
金色の陰影がつけられています。
電磁干渉からの保護と一部の電磁放射の防止の役割を果たしているのです。

【運用の歴史】

EA-6Bは1970年艦隊補充飛行隊VAQ-129に就役し、
1971年には戦術電子戦飛行隊132(VAQ-132)が最初の運用飛行隊となりました。
USS「アメリカ」(CVA-66)でベトナムへの初の戦闘配備を開始し、
USS「エンタープライズ」(CVAN-65)
USS「コンステレーション」(CVA-64)に電子戦部隊が配備されました。

1995年、EF-111 「レイブン」Ravenが退役して以来、
EA-6Bは米軍唯一の空中レーダージャマー専用機として125機が活躍しています。

レイブンって感じのスタイル


【アフガニスタン・イラクでの活動】

報道によると、プラウラーは数年前からアフガニスタンでの
対爆発物作戦に使用されており、実際にガレージ・ドア・オープナー
(ガレージを自動で開ける時のスイッチ)や携帯電話などを使った遠隔起爆装置を
妨害して未然に防いでいるということです。

イラクにも2つのプラウラー飛行隊が配備されていました。

【FLAMのプラウラー】

機体番号161882のEA-6Bは、製造された170機の機体の105番目です。

ノースカロライナ州のMCASチェリーポイントで、VMAQ-1,2,3,4、
全ての海兵隊飛行隊に所属していました。

2011年、ワシントン州NASウィッピーアイランドの海軍に移動、
続いてVAQ-131ランサーズから海軍の乗員を乗せて飛行しました。

ランサーズの徽章。電子戦部隊らしさ満点

彼女をこの航空博物館に届けたのは、4名の乗員で、
パイロットは、


フランク「ウタWuta」ウィリス中尉


マーク「ハイクHaiku」ハーン中尉、以下2名でした。
(以下2名のうち1名女性)

「詩(うた)と俳句」

何と風雅なタックネームでしょうか。
きっとこの人たち、日本勤務が長かったか、日本勤務中に付けたんだろうな。



プレイン・キャプテンの女性の名前がペイントされています。
プレイン・キャプテンの仕事については、
海軍のフィルムがあるのでこちらをどうぞ。

U.S. NAVY TRAINING FILM THE AIRCRAFT CARRIER PLANE CAPTAIN 81144

続く。


2機のファントムII F-4J (S)とRF-4B〜フライングレザー航空博物館

2022-02-01 | 航空機

サンディエゴの海兵隊航空博物館、フライングレザーネックには、
F-4ファントムが2機展示されています。

我が日本国航空自衛隊では、ついこの間まで
このファントムが老体に鞭打って現役で頑張っていたものです。

アップデートにアップデートを繰り返し、
最後の頃には外側以外最初のオリジナル部分はすでになく、
わたしなどこれを現代のテセウスの船呼ぶべきではないか、
とさえ思っていたわけですが、とはいえ、
アメリカでは博物館でしかお目にかかれないこの機体が、
日本では相変わらず元気に飛んでいて、しかも最後まで
なかなか優秀だったなどという話を耳にしてからは、
むしろその運用方法を誇りに思ったものです。

■ マクドネル・ダグラス F-4J (S)ファントムII Phantom


F-4ファントムIIは、マクドネル・エアクラフト社が
アメリカ海軍のために開発した、タンデム式二人乗り、双発の
全天候の長距離超音速ジェット迎撃/戦闘機です。

適応性が大変高く、1960年にアメリカ海軍に就役してからは、
海軍のみならずアメリカ海兵隊やアメリカ空軍にも採用されるようになり、
1960年代半ばにはそれぞれの航空隊の主力戦闘機という位置を獲得していました。

ファントムは1958年から1981年までの間に合計5,195機が製造されました。
アメリカの超音速軍用機としては史上最も多く生産された機体であり、
冷戦時代の象徴的な戦闘機としての地位を確立した名機です。

【誕生までの経緯】

1953年、マクドネル社はアメリカ海軍に「スーパーデーモン」の提案を行います。

それはたとえば任務に応じて1人用または2人用のノーズを取り付けることができる
というユニークなアイデアのものでした。
しかし海軍は超音速戦闘機はもう間に合っているという態度だったため、
マクドネルは、全天候型の戦闘爆撃機に計画を作り直しました。

ところが、1955年5月26日、マクドネル社にやってきた4人の海軍将校は、
計画書を見て1時間も経たないうちに全く新しい要求を提示してきたのでした。

海軍はすでに地上攻撃用のダグラスA-4スカイホーク
空中戦用のF-8クルセイダーを保有しているし、ということで、同じ全天候型ならと
戦闘爆撃機でなく艦隊防衛用迎撃機を要求してきたのです。

スカンクワークスのケリー・ジョンソン
自社のマネジメント法則の第15番目として社員に伝えていた、

"Starve before doing business with the damned Navy.
They don't know what the hell they want and will drive you up a wall
before they break either your heart or a more exposed part of your anatomy."

「忌まわしい海軍と商売をする前にどうしても知らなければならない。
彼らは自分たちが何を望んでいるのかもわからず、あなたを壁に追いつめるだろう。
あなたの心臓、またはあなたの解剖学的構造のより露出した部分を壊す前に」

という「文章に書かれていない対海軍の法則」について以前書きましたが、
マクドネル・ダグラス社も、海軍相手の商売にはいろいろと苦労したようですね。


それはともかく、新型機は強力なレーダーを操作するために、
座席をパイロットとWTOの二人乗りとすることになりました。
設計者は、次の戦争での空戦では、パイロット一人に負わせるには
多すぎるほどの情報必要となるだろうと考えたのでした。

この決定あっての名作「ファントム無頼」の誕生だと思うと胸熱です(嘘)

デザイン面で特に際立っていたのは、特徴的なインテークです。
スプリットベーンという固定式の形状のインテークから空気を取り込みます。

ここには固定式ランプと可変式ランプがそれぞれ1つずつ装備され、
マッハ1.4〜2.2の間で最大限の圧力回復が得られるように角度が調整されています。

スプリットベーンの、各吸気口の表面から低速で移動する境界層の空気を
「排出」するために追加された12,500個の穴も特徴的な工夫でした。

穴だらけ

また、量産機には、境界層をエンジン吸気口から遠ざけるための
スプリッタープレートも装備されました。

また、主翼には特徴的な「ドッグトゥース(犬歯)」が付けられ、
高攻撃角でのコントロール性が向上しました。

これのことかしら

レーダーはAN/APQ-50を採用し、全天候型の迎撃能力を実現。
空母での運用に対応するため、着陸装置は
最大沈下速度7m/秒の着陸に耐えられるように設計されていました。


ネーミングにあたっては、「サタン」「ミトラス」(Mitras、光明神)
という案もありましたが、最終的には議論の余地のない
「ファントムII」という名称に落ち着きました。

ファントムIIは一時的にアメリカ空軍からのみ
F-110A「スペクター」と呼ばれていたこともあるそうですが、
これらは公式には使用されませんでした。



ファントムは、最高速度がマッハ2.2を超える大型戦闘機です。
空対空ミサイル、空対地ミサイル、各種爆弾など、9つの外部ハードポイントに
18,000ポンド(8,400kg)以上の武器を搭載することができます。

F-4は、当時の他の迎撃機と同様に、当初は内部に大砲を搭載しない設計でした。
後のモデルでは、M61バルカン・ロータリー・キャノンを搭載しています。



1959年以降、F-4は絶対速度記録、絶対高度記録を含む
15の飛行性能の世界記録を達成しています。

ちなみにそのファントムの記録と達成年は以下の通り。

1. Altitude - Top Flight
98,557 ft 
 1959 
2. 500 km closed course 
1216.76 mph 
 1960 
3. 100 km closed course 
1,390.24 mph 
 1960 
4. Los Angeles to New York - LANA
2 hr 49 min 9.9 sec 
1961 
5. 3 km Sage-burner
902,769 mph 
1961 
6. 15/25 km Sky burner
1,606.324 mph 
1961 
7. Sustained Altitude 
66,443.8 ft. 
1961 
8. Time-to-Climb - High Jump


3,000 m
6,000 m
9,000 m
12,000 m
15,000 m
20,000 m
25,000 m
30,000 m 
34.52 sec
48.78 sec
61.62 sec
77.15 sec
115.54 sec
178.5 sec
230.44 sec
371.43 sec 
1962
1962
1962
1962
1962
1962
1962
1962 
New York to London - Royal Blue 3
4 hr 3 min 57 sec 
1969

【運用】

F-4は、アメリカ軍ではベトナム戦争で広く使用されました。

空軍、海軍、海兵隊の主力制空戦闘機として活躍し、
戦争末期には地上攻撃や空中偵察の役割を担うようになりました。

前にも書いたことがありますが、ベトナム戦争では、
米空軍パイロット1名、兵器システム士官(WSO)2名、
米海軍パイロット1名、レーダー迎撃士官(RIO)1名が、
敵戦闘機に対して5回の空中戦勝利を達成し、エースとなっています。


もみあげのカットが時代を感じさせます

以前当ブログでご紹介したことがある、海軍エース、
デューク・カニンガムとウィリー・ドリスコール。
Randall “Duke” Cunningham (pilot) and William P. “Willy” Driscoll (WSO)


ファントムは二人乗りで、パイロットとWSOがチームとなるのですが、
操縦を行うのがパイロット、これに対し、
武器システム士官は火器管制、レーダーや武器などの操作を行う役目です。

ですから、ファントムの勝利の栄光は、共同作業の結果として
どちらにも同等に与えられることになります。



F-4は1970年〜1980年代にかけて米軍の航空戦力の主力として活躍しましたが、
時代が代わり、空軍のF-15イーグルF-16ファイティングファルコン
米海軍のF-14トムキャット、米海軍と米海兵隊のF/A-18ホーネットなど、
より近代的な航空機が登場すると徐々に置き代えられていきました。

ここにあるF-4Jは、F-4Bの改良型で、
空対空戦闘能力と地上攻撃能力の向上に重点が置かれていました。

その後1977年、F-4JはF-4Sに改良され、
スモークレス・エンジン、機体強化、機動性向上のため、
リーディングエッジ・スラットなどの改良が行われました。

なぜスモークレスエンジンに替えられたかというと、これはわかりやすい理由で
大量に排出される黒煙は敵に発見されやすかったからです。


展示されているF-4Jは、1969年1月10日にアメリカ海軍に納入され、
F-4Bの後継機としてNASミラマーを本拠地とする
戦闘機114飛行隊(VF-114)の「ツチノコ」に配属されました。

ツチノコってこんな生き物か?

もちろん英語では”Aadvarks"(アアドバーク)です。
そういえばこの名前、「ツチブタ」と訳したことがありますが、
確かそんな名前の航空機もありましたですね。

ツチノコ飛行隊は、USSキティホーク(CV63)に搭載されて
東南アジアに2回派遣され、ベトナムでの戦闘に参加しています。

その後同じくミラマーにあったVF-213「ブラック・ライオンズ」
VF-121「ペースメーカー」のツアーを経て、

MCASユマの海兵隊戦闘機攻撃訓練飛行隊101(VMFAT-101)に配属され、
その後は艦隊海兵隊の乗組員の訓練に使用されました。

1980年にはハワイのカネオヘベイ基地に移され、
海兵隊戦闘攻撃飛行隊235(VMFA-235)「デス・エンジェル」
VMFA-212の「ランサー」と一緒に活動しました。

その後、ノースアイランド、ハワイのVMFA-232「レッド・デビル」
そして最終的にはVMFA-235に所属しました。


1986年、17年の歳月と4,680時間の飛行時間を経て退役し、
博物館ではMCAS エルトロでファントムに乗っていた予備軍、
VMFA-134「スモーク」のマーキングが復元されています。

■ マクドネル・ダグラス RF-4BファントムII


Rとついているのですぐにお分かりのように、
ここには偵察バージョンのファントムIIもあります。

マクドネル・ダグラス社のRF-4Bは、汎用性の高い
F-4ファントムIIの写真偵察バージョンです。

1965年3月12日に初飛行し、1965年5月にはMCASエルトロを拠点とする
第3海兵隊複合ユーティリティー飛行隊(VMCJ-3)に最初の納入が行われました。

RF-4Bは、海兵隊複合飛行隊VMCJ-1とVMCJ-2にも搭載され、
1966年にはベトナムのダナンでVMCJ-1に装備されて戦闘に参加しました。

マクドネル・エアクラフト社が生産した46機のRF-4Bはすべて海兵隊に提供され、
1970年12月24日には最後のRF-4Bが納入されています。
(きっと”クリスマスプレゼント!”と洒落たのではないかと思われ)

このRF-4Bの最後の12機は、RF-4Cのフレームに大きなタイヤとホイールウェル、
強化された主翼を取り付けて製造されました。
RF-4Bはより長い機首に前方および側方斜視カメラを収納し、
夜間撮影用のフォトフラッシュカートリッジを搭載していました。



画期的だったのは、飛行中にフィルムを現像したり、
低空でフィルムカセットを排出したりすることで、
地上の指揮官が空中情報をいち早く入手できるようになったことです。

また、大型のAN/APQ-72レーダーは、はるかに小型の
AN/APQ-99前向きJバンドモノパルスレーダーに置き換えられました。
地形回避や地形追従に最適化され、マッピングにも使えます。

当初、現役の海兵隊航空団(MAW)には、
写真偵察機と電子対策機を別々に供給する運用中隊がありました。
1975年、海兵隊の写真偵察任務は第3海兵航空団のVMCJ-3が担当することになり、
この飛行隊はすぐに第3海兵写真偵察飛行隊(VMFP-3)と改称されます。

この飛行隊はその後、海軍と海兵隊の両方のユーザーに分遣隊を送りました。

海兵隊で使用された最後のRF-4Bは、「砂漠の嵐」前の1990年に退役しました。


【FLAMのRF-4BファントムII】



展示されているRF-4BファントムIIは、1965年10月15日に最初に受領され、
MCAS エルトロのVMCJ-3に引き渡され、そこでその生涯を過ごしました。

1981年には、チェリーポイント基地岩国基地、そして
空母ミッドウェイ(CV-41)にも派遣されています。
(ということはずっと横須賀にもいたということですね)

1990年4月25日に5,364時間で退役し、博物館に寄贈されたこの機体は、
MCAS エルトロを拠点とする海兵隊写真偵察部隊3
Marine Photo Reconnaissance Squadron Three, (VMFP-3)
ニックネーム「Eyes of the Corps」の塗装がされています。



続く。