ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

平成29年度 年忘れ絵画ギャラリー

2017-12-31 | つれづれなるままに

 

今年もあっという間に最後の日になりました。

恒例の絵画ギャラリーをしようと思ってフォルダを確認したところ、
本当に今年は絵を描くことがあまりなく、いつものように「映画」「ネイビー」
など分けるほどもなく、1日でまとまってしまうことが判明しました。

見学したり自衛隊関係のイベントに参加することが多くなったので、
勢い絵を上げる回数も少なくなってしまうわけです。

冒頭画像は年明けすぐにアップした映画「勝利への潜航」挿絵です。

映画「勝利への潜航」前半

映画「勝利への潜航」後半

ちょうどナンシー・レーガンが亡くなり、その流れでこの映画で
二人が共演していたことを知って観てみました。

画像の二人は主人公の潜水艦艦長と副長。
映画は、艦長のミスによって部下の命が失われ、そのことに
副長が強く反発し、二人で対日本通商破壊作戦に参加するうち、
次第に互いに対する信頼が芽生えてくるという人間関係を横糸に、
当時多くの民間船と民間人が命を失った「オペレーション・バーニー」
に参加する潜水艦の戦闘を縦糸に進んでいきます。

潜水艦映画に駄作なし、という言葉を裏切る作品、とまで日本では
酷評されていたのは何故なのかを見極めてみようと思いました。

と言うか面白くないという映画にツッコミを入れたいという本能ですね。

「ヘルキャッツ・オブ・ザ・ネイビー」

これが原題です。
ヘルキャッツというと飛行機しか知らない我々にはピンとこないのですが、
「オペレーション・バーニー」という群狼作戦で、レーガンの潜水艦が
「ヘルキャッツ」という潜水艦部隊に加わっていたことから来たタイトルです。

また、冒頭に、当時バークレーに住んでいたニミッツが、自分のうちの
「フリートアドミラル」と書かれたポストと一緒に出演して、
その時この作戦が自分のの立案だったと誇らしげに言い切っております。

感想として一言余計なことをいっておくと、のちのレーガン夫人、
ナンシー・デイビスが、
あまりにも良妻賢母タイプすぎて、映画の

「艦長と付き合っているのに自分の女としての実力を知りたいと言う理由で
別の男(しかも彼氏の部下)の膝に乗って気を引く魔性の女」

には到底見えなかったことですかね。
どうして死んだ乗組員の片思いということにしておかなかったのかと思います。


映画「海軍」昭和18年版〜海軍兵学校入学

映画「海軍」昭和38年版〜「海軍兵学校入学」

真珠湾の九軍神の一人、横山正治少佐をモデルにして、彼と海軍を描いた
岩田豊雄の小説「海軍」の映画化作品を取り上げました。

この「海軍」シリーズでは、わたしは

昭和18年版映画「海軍」

昭和38年版映画「海軍」

原作小説「海軍」

について全てを取り上げ、各方向からのアプローチを試みました。
戦前と戦後では当然同じ原作を元にしていても、違ってくるものがあるだろうという
わたしの予想は怖いくらいに当たりました(笑)

当たり前ですね。
海軍省の後援で戦時中に作られたものは「国策映画」であり軍神となった
特殊潜航艇の搭乗員たる横山少佐の死を讃え、顕彰するのが目的。

青春スター総出演となった戦後版は、尊い任務を帯びて死んでいく軍人と
彼を慕う女性のひたむきな気持ちに焦点を当てた悲劇として描かれたからです。

両作品とも、主人公が青雲の志を持ち海軍兵学校に入るまでを前半、
後半が真珠湾作戦に出撃するまで、と同じ分け方をしました。

したがって、どちらの作品の挿絵も前半は登場人物の紹介、
後半は
特殊潜航艇の中の主人公谷正人の姿を選びました。

小説「海軍」〜古本に見つけたある書き込み

二つの映画を観たあと原作の小説を読み、あまりにも多くのことが
映画の表現から抜け落ちているのにちょっとした衝撃を受けたため、
最終企画として、二つの映画では描ききれなかった原作のエピソードを
本文を抜粋しながら紹介するということをやってみました。

ただし、もう新たに絵を描く余力が残っていなかったので、
この章はネガポジ反転させて加工した画像でお茶を濁しました。


ところで、ここまで来てハッと気がついたことがあります。
先日ご紹介したばかりの、本年最後に紹介した映画「ペチコート作戦」まで含め、

今年紹介した映画は全部潜水艦映画だったことです。


映画「人間魚雷回天」〜出撃前夜

まあそれだけ「潜水艦映画に駄作なし」ってことなんだろうと思います。
この「人間魚雷回天」は、海軍予備士官だった松林宗恵監督作品。

回天特攻に行く予備士官たちを当時の第一線俳優たちが演じました。

こういうキャラ分けがされた映画の出演者たちの絵を描くのは好きです。


それにしても、これだけのトップ俳優を使いながら、
わたしには残念ながら全員演技力はあるとは思えませんでした。
あえて演技力だけをランク付けすると、

宇津井<木村<沼田<岡田

という感じかな。(あくまでも個人の感想です)

特にこの頃の宇津井健は、セリフ以前に顔の表情が全く動かせない能面演技で、
演技力未満という感じだったのが意外でした。

映画「人間魚雷回天」〜出撃

木村功演じる玉井少尉と津島恵子の幸子、この二人の恋人が
最後の時間を夜の海辺で過ごし、お姫様抱っこをして歩くシーン、
これを観たときにぜひこれをタイトルにしたいと思い描いてみました。

ここだけの話ですが、木村功の足の長さはかなりサービスしています(笑)

実は後から気づいたのですが、この二人、前年に公開された黒澤明の
「七人の侍」では
「勝四郎」「志乃」として惹かれ合う役柄なんですよね。

この映画の二人も当時の観客にはそのイメージで捕らえられていたはず。

 

超蛇足ですがこの出演者たちはもう全員鬼籍に入っています。

木村功  1981年 58歳

岡田英次 1995年 75歳

沼田曜一 2006年 81歳

津島恵子 2012年 86歳

宇津井健 2014年 82歳

岡田英次は東大卒の予備士官役でしたが、実際は慶應義塾大卒、
沼田曜一は慶応卒の役で実際は日本大学卒、
木村功は文化学院卒、
宇津井は早稲田大学で役と同じです。(ただし中退ですが)

それにしても木村功の早逝が惜しまれます。
後せめて10年長生きしていたら、良い役柄をたくさん残せたのに・・。


映画「人間魚雷回天」〜散華

回天を搭載した伊号潜水艦内での彼ら搭乗員の姿。

最後の攻撃シーンを正確に、そして誠実に描くことで、この映画は
「最高の回天映画」といえる作品になり得たのだと思います。

覚悟ができているはずの隊員たちの額ににじむ汗、
出撃が一旦中止となった時の動揺と苦悩、そして最後の瞬間目を瞑る姿。


彼らが出撃中止命令を受けた瞬間の、額に汗をにじませた
表情を描いてみたいと思いました。


激闘の地平線〜不良(おれ)が自衛隊に入った理由(わけ)

潜水艦映画じゃないじゃないか!とおっしゃるあなた、お言葉を返すようですが、
この映画をアップしたのは2016年の暮れのことですのでセーフです。


という訳で、なぜか「戦争映画コレクション」で配信されたDVDに入っていた
陸自のレンジャー隊員を主人公にした映画。

調べるほどに、この頃の世間一般の自衛隊に対する見方やイメージが
限りなくマイナーなのがわかって愕然とさせられました。

この頃レンジャー課程の創成期(設立2年後)。
当時映画界に不信感を持ちまくっていた自衛隊がこの映画に協力したのは、
レンジャーを世間に広報したかったんだろうなという裏側が透けて見えます。

というわけで冒頭で「警察予備隊時代からの自衛隊とメディア(の対立)」
について多くを割いて語ってみました。


本作品出演俳優でその後名前の残っているのは三ツ矢歌子と沼田曜一だけ、
主人公の松原緑郎さんは松原光二と芸名を変えてしばらく活動していましたが、
70年代には表舞台から姿を消しました。

もう少しお金があれば、主人公には新人ではなく人気スターを使い、
演出も凝ることで映画の評価は少し変わっていたかもしれません。

激闘の地平線〜自衛官(かれ)が殺意を抱いた理由(わけ)

陸自のレンジャー課程を広報するという主目的で作られた映画で、確かに
富士学校周辺で自衛隊の大々的な協力によって行われたロケ部分には
見るものがありましたが、それ以外があまりにもお粗末。

女性自衛官に一目惚れして入隊し、彼女の婚約者がレンジャー隊員だと
嘘をつかれてレンジャー課程に進む。

動機としては百歩譲ってありだとしても、陸曹になるのもレンジャー隊員も
いくらこの時代とはいえこんな簡単になれたら誰も苦労しませんわ。

・・・え・・・もしかしたら本当に簡単だったとか・・・?


アメリカ海軍サブマリナーの肖像その1

「潜水艦のふるさと」(ホームタウン)とアメリカ人の言うところの、コネチカット州ロンドン、
川のほとりのグロトン潜水艦基地に、潜水艦博物館があります。

東海岸滞在中、コネチカットに行く用事があったので、見学しました。

そこでの見学は報告するのに何日もかかるほどのネタを提供してくれましたが、
潜水艦博物館で特に「ヒーロー」としてコーナーを設けて紹介されていた
サブマリナーたちに焦点を絞ってお話ししてみました。

左から時計回りに

ジョン・フィリップ・クロムウェル大佐 

  潜水艦隊司令官旗艦「スカルピン」とともに自沈

リチャード・ヘザリントン・オケイン少将

  敵撃沈記録歴代一位の艦長 日本での捕虜経験あり

ジョージ・レヴィック・ストリート3世

  「ティランティ」艦長 

ヘンリー・ブロー水兵

  仲間を救うために事故で沈没していく潜水艦に戻った 生還

 


アメリカ海軍サブマリナーの肖像その2  

ローソン・パターソン・ラメージ中将

  「隻眼のサブマリナー”レッド”」と言うあだ名が全て

ユージーン・ベネット・フラッキー中将

   撃沈船舶トン数歴代一位の艦長「雲鷹」も彼の手によって沈む

サミュエル・デイビッド・ディーレイ少佐

  「サブマリナーズ・サブマリナー」「ハーダー」艦長として戦死

ポール・フレデリック・フォスター中将

  史上初めて敵艦を攻撃した潜水艦艦長 ただし相手はメキシコ 

  

本当は、アメリカ軍人でなく日本の潜水艦艦長について書いてみたいのですが、
いかんせん日本では潜水艦艦長の名前が歴史として残ることもなく、
(佐久間大尉除く)そもそもほとんどの潜水艦はどこでどんな最後を遂げたか
わからないままに海に沈んだので、資料などが全くないのです。

さらには生きて帰ってきた艦長は、ごく一部を除いて戦後ほとんどが
戦争について語らずひっそりと市井の人としてこの世を去ったからですね。

日米彼我の戦争と戦争にいった人たちに対する考え方の根本的な違いが
こういったことにも表れていると思いました。


こうしてアップした絵が少ないのを見ると、今年は実働で忙しかったんだなあ、
と実感しますね。
来年はどうなるかわかりませんが、よろしくおつきあいください。

 

それでは皆さま、良いお年を。

 

 

 

 


士官食堂の序列〜ソビエト連邦海軍潜水艦 B-39

2017-12-30 | 軍艦

さて、艦内に入る前、入ってからもくどくどと冷戦時代に起こった
このソ連海軍の「フォックストロット」型潜水艦B-59が遭遇した
核戦争危機の話をさせていただいたのですが、関係資料を読むほどに、
そのとき世界は戦争に限りなく近づいていたことを知り、今更ながらに
胸を撫で下ろしているわたしです。

1962年10月の13日間、米ソの間に戦争が起こらずに済んだのは
直接的な理由だけでいうと、ソ連が、というかB-59が
「最初の一発」を撃たなかったからです。

翻って、今の日本が直面している状況はなんなんだろう、と
ふと我に返って考えてしまうのですが、ここでその話題に突っ込むと
さらに潜水艦から離れていってしまうので今日は我慢して。

 

前部魚雷発射室から次の区画に行くには、この丸いハッチを潜ります。
潜水艦の場合、水密性のために区画ごとに密閉できるようになっているので、
ほとんどの潜水艦の区画ハッチは小さいのですが、小さくてもとりあえず
脚を上げて頭を下げれば通れるレベルのがほとんどです。
こんな土管サイズのハッチは初めて見ました。

外にこの円の大きさを穿ったパネルを設置し、

「ここをくぐれない方は入場を諦めてください」

と告知するだけのことはあるなあとまずここで感心させられます。
物理的に穴が体が通っても、この高さでは、足腰のおぼつかない方、
ハンディキャップのある方は、それだけで見学は不可能です。

ハッチの右上に

「サウンド・アンド・ライトショウのあるメインコントロールルームへ」

と書いてあります。
音と光のショー・・・何があるんだろう。

とりあえず最初に出てきたのは洗面所でした。
アメリカの潜水艦も同じですが、前部魚雷発射室に続いているのは
士官の居住区となります。

シンクの下には暑いお湯の出るタンクが備えられており、
司令官クラスしか使用を許されていませんでした。

それにしては・・・と言う気もしますが、潜水艦ですからこんなものです。

不思議なコンソールですが、通信機器であろうと思われます。

ちなみに例の13日間の時、B–59の通信は遮断されており、
モスクワと連絡を取ることができなかったので、アメリカ本土の
ラジオ放送を傍受して情報を得ていたそうです。

アメリカ艦隊に見つかり、威嚇のための爆雷を落とされたのを
戦争が始まったから、と勘違いして核ミサイルが発射されそうになりました。

ソ連海軍ももう少し通信関係をなんとかしておくべきだったのでは・・。

ここはレイディオ・ルームでよろしいんでしょうか。

潜水艦映画だと、エンジン音でもなんでも聞いたらわかってしまう、
ものすごく耳のいいソーナー係がこんなところに座りヘッドフォンをつけて
汗水タラタラ流しながら

「敵は今我々の上で停止しました!」(小声)

とか言ったりするわけです。(たぶん)

おそらく艦長しかもらえない一人部屋。

壁には書記長レオニード・ブレジネフの写真が飾ってありますね。

このBー39、起工が1967年の2月9日、就役がその2ヶ月後の4月15日。
冷戦只中と言うことでめっぽう急いで建造したようですが、
つまりキューバ危機の時に書記長だったフルシチョフのあと、
ブレジネフ時代に計画され、任務に就いていたのです。

ですからこの潜水艦そのものはキューバ危機とは全く関係ないのですが、
同じフォックストロット型と言うことで、ここでの展示も
その紹介に大変力を入れているわけです。


ところで豊田真由子的余談ですが、ソ連で書記長を名乗ったマレンコフから
最後のゴルビーまで、歴代書記長の頭髪の状態をご存知でしょうか。

余計なお世話すぎますが、一覧表にしてみました。

マレンコフ あり

フルシチョフ なし

ブレジネフ あり

アンドロポフ なし

チェルネンコ あり

ゴルバチョフ なし

と、見事に交互になってるんですよ!
ちなみにゴルバチョフの後成立したロシア連邦大統領も

エリツィン あり

プーチン なし

メドベージェフ あり

プーチン なし

と続いているので、現在もその神話は継続中です。
(プーチンを最初も現在もなしとすることについては
異論もあると思いますが、まあ割とそうですよね?)

以上、それがどうした話でした。

 


ベッドの上には士官の軍服が置いてあります。
共産国の軍隊はどうも帽子が大きすぎてそれはちょっと、と思うけど、
とにかく海軍はどこの国のものでも皆かっこいいや。
ソ連海軍は水兵さんの夏服が特におしゃれでよろしい。

ここは釣り床のある二人部屋なので、上級士官の部屋でしょう。
フォックストロット型潜水艦には士官12名、下士官10名、
水兵が56名、計78名が基本として乗り込んでいました。

士官の居室は個室とベッドが二つの部屋(×2)、そして四つの部屋(×2)
があったのではないかと推察されます。

政治将校や副長、司令官クラスの士官は二人部屋だったのでしょう。

士官がどこに寝るかは階級によって厳密に決められており、もちろん
兵のように「ホットバンク」(交代で一つのベッドを使う)はあり得ません。

どこかで撮ったらしい潜水艦乗組員全員での記念写真です。

B–39の構成が艦内の展示で説明されていたので書いておきますと、
まず上の三役が

艦長 captain 2nd rank (中佐)

第一士官 3rd(少佐)

政治将校 3rd (少佐)

で、その他の上級士官は

ナヴィゲーター captain Lieutenant(中尉)以下同じ

砲術士官 

電気関係(通信)士官

メカニカルエンジニア

補給士官

軍医

となります。
軍医も中尉というのが意外な感じです。

政治将校とは共産党から派遣されてきた海軍に属さない軍人です。

ザンポリット(Zampolit )ともいい、主に一党独裁国家において、
政府あるいは党が、軍隊を統制する為に各部隊に派遣した将校です。

政府に従わない軍司令官を罷免する権限を有していることもあり、
通常
軍とはまったく異なる指揮系統に属していて、プロパガンダ、
防諜、
反党思想の取り締まりを担う軍隊内の政治指導を行います。

最初にこの存在を知った時そうではないかと思ったのですが、やはり

「広義のシビリアンコントロール」

という意味合いをもつ役職だということです。


B–39における少尉クラスと士官候補生、特務士官などの配置は

● ナヴィゲーション

● 魚雷・武器

● ソナー、通信、レーダー

● メカニカル(モーター、浮上装置、メンテナンスも含む)

などで、このうちメカニックがもっとも大きな部署でした。

気になるお給料ですが、下は新兵さんの月20ドルくらいから、
艦長クラスの月250ドルまで色々でした。

どこの海軍でもそうだと思われますが、特殊な環境である潜水艦勤務には
特に厳選され、厳しいトレーニングを受けた者しか勤まりません。

潜水艦は過酷なので若年の間しか勤務できず定年は40歳ですが、
元サブマリナーであればその後海軍の中でもいいポストに就くことができ、
給与も同じ海軍の同ランクの
1.5倍もらえたということです。


しかしながら、退職金はそうよくはなかったという話もあります。
映画「Kー19」で、艦長だったハリソン・フォードが、元乗員と一緒に
事故の犠牲者の墓参りに行くため家で身支度をして出かけるシーンがありましたが、
彼の住んでいるらしいアパートがあまりにもみすぼらしいので
見ていてちょっと驚いたことを思い出しました。

 

ところで潜水艦の外側に「閉所恐怖症を感じることもあります」と
注意書きがありましたが、基本そういう傾向の人は潜水艦など
乗らないのではないかと我々は思うものです。

しかし、恐怖症というものはそんな単純なものではないし、
短時間や訓練で平気でも、実際の長期航海で深層の恐怖症が
芽生えてくるということもあるのでしょう。

ソビエト時代の海軍で艦長を務めたある人物の話によると、
潜水艦の勤務をする者には閉所恐怖症について二つのチョイスがあるそうです。

"Get over it or shut up." 

(克服するかさもなければ遮断する)

これはつまり海軍格付け評価と海軍士官として期待される振る舞いを
考慮すると、このどちらかの選択しかないということなんでしょう。

ここにあった説明によると、ここ士官用ワードルームでは、座る位置が
階級によって厳密に決まっていたということです。
もともとその階級ヒエラルキーも大変厳しかったということですが、
その序列を乱すことはほぼ反社会的行為と同等と見なされました。

テーブルに座る順番は階級と「危急を要する」配置が考慮されます。
その序列を入り口に近い順番にあげておきます。

1、メカニカルエンジニア

2、見張り士官(ナビ、魚雷、電気など見張りに立つ士官)

3、砲術士官

4、ナヴィゲーター(必ずエレクトロニクスオフィサーの隣)

5、エレクトロニクスオフィサー

6、補給士官

7、第一士官

8、政治将校

艦長はテーブルの奥

 

第一士官というのはロシア海軍独特の階級付なのだと思いますが、よくわかりません。
軍医は序列に含まれないようですが、どこに座っていたのか気になります。

 

どこの潜水艦でもそうですが、このワードルームは緊急時に手術室となり
食卓テーブルで手術が行われることになっていました。
病人が出た時も基本ここに寝かしたそうです(その時食事はどこで・・・)

B-39に乗っていた軍医は、一人で全ての症状を診なくてはなりませんから、
内科、外科はもちろん、想像しうる体の不調にはとりあえずなんでも
対応できるような訓練を受けていました。

なんと、歯科の勉強もしており、虫歯に詰め物をするくらいなら
潜水艦の中でやってしまっていたそうです。
ただし、あまりややこしい症状はお手上げなので、その時は
母港に帰還するまで患者は待たされることになりました。

軍医は時折ブリッジや潜望鏡に呼ばれることもありました。
それは大抵、外国語に長けたインテリの軍医に、外国の船に書かれた
船名を読ませるためでした。

おそらく旧ソ連の街を行進するサブマリナーたち。
右の潜水艦はもちろんフォックストロット型です。

何が書いてあるか全くわからないので想像するしかないのですが、
どうも実際にBー39に乗っていた乗員の顔写真を、適当にコラージュして
貼り付けたようでね。

右下にはドレスから脚を出している女性がいるし、
なんかお猿さんがいると思ったら
その右に

「♪えいこーらーえいこーらーもーひーとーつーえいこーらー」

「♪あいだだあいだ あいだだあいだ」

でおなじみの(おなじみかな)ヴォルガの舟歌みたいに、
みんなで船引いてるシーンがあるし・・。


参考画像

ロシア人ってあまりユーモアとかなさそうに見えるけど、
海軍軍人さんともなるとやっぱりこういう自虐ギャクをやってしまうのね・・。

 

続く。



”核戦争まで毛一本の距離”〜ソビエト海軍潜水艦B–39

2017-12-28 | 軍艦

サンディエゴにある海事博物館の展示の一つ、ソ連海軍の潜水艦
Bー39についてお話ししています。

前回「世界を救ったかもしれない男、アルヒポフ中佐」について
結構楽しんで書かせてもらったわけですが、アルヒー(愛称)について
現地の別のところにも記述があったので、ご紹介しておきます。

上のカップルはもちろんアルヒーポフと妻のオリガ・アルヒーポワ。
下の勲章だらけのおじさんはご本人の約30年後で、中将アルヒーポフ。

右側の、ここにあるのと同じフォックストロット型B–59潜水艦の
艦橋から疲れ切った表情で顔を出しているのは、前回お話しした
キューバ危機最中に核ミサイルを撃つという艦長の決定に反論し、
結果として「世界を救った」直後のアルヒーくんです。

ソ連潜が浮上したのは米艦隊のど真ん中で、
新鮮な空気を求めて艦橋に上がってきた乗員たちは、周りの米艦の
カメラマンの格好の被写体になったのでした。

「サヴィツキーとアルヒーポフに何が起こったか?」

というこのパネルの内容を翻訳しておきます。

ソ連はキューバに潜水艦基地を確立することを目論んでいたが、
その「オペレーション・カーマ」のために4隻の核ミサイルを積んだ潜水艦が
キューバに向かい、ことごとく失敗に終わった。

4隻のフォックストロット潜水艦の士官たちはロシアに帰国後、
厳しい非難にさらされることになり、上からもその失敗を叱責される。

実質的に実行不可能な作戦であったにもかかわらず、カーマ作戦の失敗への
非難は止むことはなく、それが後々まで彼らの肩にのしかかったのだった。

我々が今日知る以上に、キューバに派遣されたフォックストロット潜水艦の
艦内では様々なことが起こっており、しかも公的文書や調書などに記された
それらは
2002年まで陽の目を見ることがなかった。

最近ロシアでも不承不承といった感じで情報公開がなされているが、
しかしながら、その中でもBー59の艦長であった
バレンティン・サヴィツキーについては全くといっていいほど情報がない。
彼がその後どうなったかということすらソビエト軍の記録の奥深くに隠されている。

アルヒーポフについては、彼が潜水艦隊の指令であったこと、
B-59に乗り組んでいたこと、あの「Kー19」の原子炉事故で
英雄的な活躍をしてK-19を救った一人であったことなどが知られている。

 K-19の事故の一年後、アルヒーポフはB–59の一員としてキューバに行き、
そこで艦長に意見具申してB-59がミサイルを撃つことを思いとどまらせた。

アルヒーポフはその後も海軍に残り、潜水艦長をつとめ、
そればかりかキーロフにある海軍士官学校の校長になり、
1981年には中将にまで昇進し、その数年後に退役している。

彼は72歳で亡くなったが、他のK–19の生存者と同じく、
その死因は被曝の影響によるものだった。

 

相変わらずここでもアルヒーポフとKー19の生存者が全員
被曝していたので死んだとかいってますね。

それじゃ何か?
被曝しなかったら72歳じゃなくて82歳まで生きられたとでも?

それはともかく、同じキューバ危機で「カーマ作戦」に失敗し、
アメリカ軍に疲れ切った写真を撮られてしまったにもかかわらず、
アルヒーポフがサヴィツキーのように歴史から抹殺?されずに済んだのは、
つまりK–19の当事者だったから、ってことを言いたいのかな?


それから、この時のソ連潜水艦の乗員はほぼ全員が衛生用の水不足のため
感染症の発疹に悩まされていたということですから、被曝というより
もし寿命が縮まったとすれば原因はこっちじゃないのかといいたくなります。

本当にこんな大きな窓で潜水していたのか?
潜水可能なるや?

と思わず木曽の艦長のように問い質したくなりますが(笑)
上の写真でアルヒーポフが写っているセイルの写真を見る限り、
全く同じ状態であることがわかります。

赤い星はないようですが、作戦遂行中はつけないことになっていたんでしょうか。

今回大ウケした入り口の案内板。
同志(タヴァーリシチ)レーニンが力強く

「ここからお入り下さいッ!!」

という感じで指差し指示してくれてます。

 

 

さて。いよいよ艦内に潜入(文字通り)していきます。
展示にあたっては、手すりをつけて構造物のむこうには行けなくしてあります。

どうも前部から見学するようですね。

前から入って後ろに移動し、そこから退出。
ここには見学の際の注意事項などが書かれていますが、

「人によってはClaustrophobic(閉所恐怖症)を感じます」

って、そりゃー当たり前だろう的なことばかりです。
あと、「一度に艦内に入るのは15人まで」とあります。

階段を降りると、通路沿いに進んでいくようになっています。
潜水艦の展示は一方通行にしておかないと大変な混乱になるからですね。

サンフランシスコの「パンパニート」艦内で、フィリピン人の観光客が
何を思ったのか艦内を逆行してきて、とっても迷惑だったのを思い出します。

この区画は前部魚雷発射室で、「普通の」魚雷発射管が6基あります。

ちなみにフォックストロット型の前々級である「ズールー」級潜水艦に
核弾頭を備えたR-11FMミサイル(SS-1B Scudの改良型)を2基
セイルに搭載したのが、世界初の弾道ミサイル搭載潜水艦(SSB)でした。

階段を降りたところで後ろを振り返ってみました。
白と赤のが搭載魚雷です。

ちょうどその時階段から後ろの人が降りてきました。
こういう体型であってもハッチは潜ることができるのでご安心を。

近くに寄ることはできませんが、魚雷発射管はハッチを開けてくれています。

左最上段には魚雷の尻尾?が見えていますし、その下には
違うタイプの魚雷が装填されているという設定です。

発射管のハッチが白いのはオリジナルとは思えませんが、
字も含めて塗り直したものでしょうか。
発射管の番号が右上5、左中段6となっているのは謎。

B-39にはその他の当時の潜水艦と同じく、艦首と艦尾に魚雷発射室がありました。
前部発射室にはメインの攻撃用武器である魚雷と機雷が収納されており、
核弾頭魚雷を搭載している時には魚雷発射室に繋がっている外の前部ハッチは
承認を受けた者以外はたとえ乗員でも立ち入り禁止になっていました。

そして武器類ははもちろん、マッチ、ライターや各種道具、
とにかく火花の出るものを持ち込むことは禁じられていたということです。

「ファイア・アラーム」の矢印の下に、人の顔(鼻から上)が見えますが、
これは地縛霊ではなく完璧に壁のしみですので念のため。

 

魚雷発射管室のスペースには、「ザ・スペシャルウェポン」として、
このようなことが書かれていました。


アルヒーポフ中佐が参加していた「カーマ作戦」で、ロシアが
キューバに潜水艦基地を置くために
参加していた4隻のフォックストロットは、
通常のグレーの魚雷と違いを識別するために紫色にペイントされた
10キロトン核弾頭魚雷をそれぞれ一基ずつ搭載していた。

その管理は特別にその任に当たる専門の士官(潜水艦隊ではない)が行い、
彼は”ザ・スペシャルウェポン”の真上で寝起きしたと言われる。

B-59では、核魚雷発射の承認に三名が必要であったが、それは艦長、
政治将校、そしてもう一人は核弾頭魚雷担当の士官であり、
それはアルヒーポフ中佐ではなかった。 

彼は小隊の司令官ではあったが、核弾頭魚雷の発射の可否を
決定する権利はなかったことになる。

(幸運だったのは彼がサヴィツキーと同じ階級だったことでしょう)

にもかかわらず、アルヒーポフは艦長を説得し、核魚雷の発射を中止させた。
1962年10月27日、核戦争が既のところで回避されたのは
ワシリー・アルヒーポフのおかげであったということである。

外の看板では

「彼が世界を救ったのか?」

と疑問形でしたが、ここではもう彼が世界で救ったと言い切っていますね。


ここでは改めてキューバ危機についての説明がされています。
前回会話仕立てで核魚雷発射決定の討議を想像してみましたが、
実際は少し事情は違っていたということになります。

 


 

ところでわたしはここにさらっと書いてあった

ちなみに発射には鍵と暗証番号が必要で、規則により艦長には
基地を出発する前にそれが与えられていたはずであったが、
実際に承認する段階でサヴィツキーは記憶が曖昧だったと言われる。

 

という一文が気になりました。

 

たとえ3人がイケイケだったとしても、スイッチを解除する
暗証番号がわかっていなかったら撃てなかったってことなんでしょ?

サヴィツキーは途中でそのこと(自分が暗証番号をおぼえていなかったこと)
を思い出し、ちょうどアルヒーポフが反対してくれたのをいいことに、
意見具申を聞き入れる振りして中止にした、ってことはないですか?

それに、別の記述でも、

「サヴィツキーは最初大変興奮していたが、中止を決めたときには
すっかり冷静になっているように見えた」

とあるんですよ。
これ、討論の最中で

(あれ?暗証番号なんだっけ・・・俺、忘れてね?
・・・・あーやっぱり思い出せねえ)

と気づき、

(魚雷発射することに決まってからやっぱり暗証番号が
わからないから中止しますなんて言えないよな?
だったらアルヒーの具申を今聞き入れたほうが収まりいいよな)

となって、

「よしわかった、アルヒーポフ中佐の意見通り、発射は中止しよう」

となったのでは・・・。


サヴィツキーのその後がソ連の記録から一切抹殺されてしまった今となっては
その真実を知るすべは今後もなくなってしまったわけですが、
 
まー、何れにしても全ての要素が見事に絡み合って、何が欠けていても
あの時世界は核戦争に突入していたということには違いありません。


それにしても、もしサヴィツキーが暗証番号を何かの弾みに思い出していたら?

・・ああぞわぞわする(笑)



 

"A Hair's Breadth from Nuclear War"

というのは、「核戦争と毛一本の距離」とでもいいましょうか。
ロバートケネディの回想録から文章が書き出されています。

「その後、混乱した海軍から露潜水艦が米艦隊と対峙している報告があった。
私はこれらの数分が大統領にとって最も重大な懸念の時だと感じた。

彼手のひらで口を覆い、拳を開いたり閉じたりした。
彼の顔はまるで絵で描かれたように見え、その目は苦痛のため灰色に見えた。
私たちはテーブルを横切って互いを見つめあった。
暫くの間、誰もそこにいないかのように・・・・・。
その時の彼はもはや大統領ではなかった」

「もし侵攻を行えば、その結果流される血について糾弾されるという事実に直面する。
軍事攻撃が始まれば、核のボタンが押される可能性を受け入れなければならない

(本当はここに書いてあるのはこの部分ではないのですが、
回想録からもっと面白い?部分を抜粋しています)

そして、右側はロバート・マクナマラ長官の
「あの『13日間』から40年」という2002年の衝撃的な報告の出だし、

「何年もの間、私はキューバのミサイル危機を、過去半世紀の中で、
”最も管理された外交政策の危機”と考えていた。
危機の決定的な瞬間にケネディ大統領がとった行動は
核戦争を防ぐのに役立ったと言っても良いだろう。
しかし、本当のところ、1962年10月16日から10月28日までの13日間、
核戦争を回避するための重要な役割を果たしたのは”運”だった」

 という文章が書かれています。

それでは魚雷発射室から隣の区画に移動することにしましょう。

続く。

 

 


世界を救った潜水艦副長〜ソビエト海軍潜水艦Bー39

2017-12-27 | 軍艦


「ミッドウェイ」を3分の1だけ見学した後、推定年齢67歳、
サンディエゴ在住のジョアンナは、おそらくわたしたちのために死んだ気で
サンディエゴの海事博物館で本物と(スター・オブ・インディア)、
レプリカ(HMSサプライズ)の二隻の帆船を見学した後、
さらにそこで展示されている全ての潜水艦見学に同行してくれました。

この二つの帆船については、その歴史と経歴を調べるほどに
すっかり興味が出てきたわたしですが、残念ながらこのころは
帆船より潜水艦に目を輝かせるお歳ごろだったものですから、
ジョアンナが控えめに

「あちらの潜水艦もみる?」

と聞いてくれた時には遠慮せず見ます見ます、と彼女の表情に潜む
疲労の影を見て見ないふりしてキャッキャウフフとはしゃぎながら
潜水艦までスキップしていった(比喩的表現)のでございます。

まずは、海事博物館に行く前にランチをとったレストランの窓越しに
撮った潜水艦の写真を見てみようではないか。

うおおお、アップにすると艦体がサビと藻に覆われ、
ところどころ穴まで空いたボロボロ状態なのにびっくりだ。

何度か塗装もやり直しているようだけど、そのせいで表面はボコボコです。

それにしてもこの潜水艦、今まであちらこちらで見てきた
アメリカの潜水艦のどれにも似ていないなあ、と遠くから見て首をかしげます。

上部構造物にある窓がどう見ても歪んでいる上、
白い窓枠っていうのは如何なものか、と思いながら見ていたところ、

あれー?なんだか艦橋にが見えるんですが・・・・。

もしかして、赤い星のお国製?

おおお、よく見ると赤い旗が翻っているではないの。
これは紛れもなくソビエト連邦海軍に属していた潜水艦?

それにしても激しい経年劣化で、アップにして見ると
ものすごいものに成り果てております。

そして、曲がりなりにも潜水艦発祥の地であるグロトンの潜水艦博物館で
ある程度のことを勉強したわたしは、この形状の潜水艦が
どこの国のものであっても少なくとも第二次世界大戦後に造られたことを
この時点で鋭く考察していたのであった。

そしてその後わたしたちはまず「スター・オブ・インディア」、続いて
HMS「サプライズ」を見学しました。
この写真は、船尾から身を乗り出して撮った潜水艦です。

こうして見ると、特に艦首上部部分は手作り感満載ですね。
それと、セイルの窓、多すぎませんか?

というわけで、潜水艦の前までやってきました。
息子が見ているのはこの潜水艦の説明です。
それによると・・・・

本艦は冷戦時代に活動していたソ連の潜水艦でbー39と言います。
徴兵制度で集められた18歳以上が乗り組んでいました。
ほとんどの兵は大変若く、士官は20代〜30代ほどで、
ほとんどが専門の厳しい訓練過程を経ていたため、
世間ではもちろん海軍内でも一目置かれる存在でした。

水兵の勤務シフトは4時間で、士官たちは「寝られる時に寝る」という勤務体制。
アメリカ海軍で「チーフオブザボート」に相当する「michman」という下士官もいました。

この後、ホットバンキング(ベッド交代制)のことなど、艦内生活についての
記述があり、なぜか続いて潜水艦の歴史について延々と説明が続きます。

「michman」はなんと発音するのかわかりませんが、
「Мичман」、さらになんと読むのかわかりません(笑)

ただ、これを翻訳機にかけると「ミシップマン」で、
これだと士官候補生ということになってしまいます。

NATOの標準ランクでいうとこれはOR-9となり、

准尉(スペイン、イギリス)上級執行役員(ラトビア)
フラッグマスター(ノルウェー)曹長(ルーマニア)

そしてアメリカ海軍だとマスターチーフペティオフォサーとなります。

ちなみにこのページを翻訳にかけてみると、

マスターチーフPO=「海軍最高司令長官」

PO1stクラス=「獣医官ファーストクラス」

スペインのSuboficial mayor=「不衛生な市長」

スロベニアのCPO=「チーフセクシーオフィサー」

という面白翻訳になってしまっていて笑わせてもらいました。
みなさんくれぐれも自動翻訳を当てにしないように。

さて、潜水艦の中を見学しようと歩いて行くと、その途中に
こんな構造物が設置されていました。
子供が喜んですっかり遊び場にしておりますが、実はこれ、

「艦内はこの大きさのところを通りますので、
この輪をくぐれない方は乗艦をご遠慮ください」

と真面目に警告するための「お試し穴」なのです。

まさかと思われるかもしれませんが、アメリカには
この輪をくぐれない方が実際に結構たくさん生息してるのですから
中でつっかえて押しても引いても動かないという事態を防ぐために、
こんなものをわざわざ設置せねばならないのです。

まあ、さすがにこれを潜り抜けることもできないような人は
自力で歩けず電動チェアで移動しているレベルでしょう。
(それでもスーパーに行くと毎日一人くらいはそんな人がいる)

そもそも自力で歩けない人はこんなところにやってきて
潜水艦なんてものに乗り込むはずがないと思うのですが。

突き出しているのでフィンを間近に見ることができます。
二つ穴が空いているのですが、これ中は空洞なのに水が入ってもいいの?

ここまでやってきてこのプレートを見て、初めてこれが

「フォックストロット型潜水艦」

というらしいことに気がつきました。
同型艦に

「ズールー」「ジュリエット」「ケベック」「ロメオ」「ウィスキー」

とあるので、フォネティックコードをそのままつけただけと想像されます。

それにしてもソ連なのになぜフォネティックコード?と思ったら、
これは単にNATOコードネーム、つまり昔連合軍が勝手に日本の飛行機に
ジュディだのベティだのオスカーだのバカだのと名付けていたように、
NATOが冷戦時代ソ連の艦船をこう呼んでいただけなのです。

ソ連ではこの潜水艦は

641型潜水艦Подводные лодки проекта 641

という面白くない名前がついていました。

もっとも同型艦は五十八隻もあったようなので、ソ連海軍としても
名前を考えるのも面倒という面があったのではないでしょうか。

ところでこの

「この男が世界を救ったのだろうか?」

ですが、この男、つまりワシリー・アルヒーポフ中佐の
決断が世界大戦になることを既のところで止めた、ということが
こんな看板にさらっと書いてあります。

ちょっと気になるので説明しておきましょう。

 

キューバ危機について、2002年になってマクナマラ元長官が

「当時の我々の認識以上に、我々は核戦争に近づいていた」

と証言したとき、世界に衝撃が走りました。
問題は、どこまで核戦争に近づき、何がきっかけでそれを回避できたのか。

我々は漠然とキューバ危機を回避できたのはJFKのおかげ、くらいの
イメージを持っていたわけですが(え?わたしだけですか?)、
実際のところはJFKも当初空爆を提案していたわけで、
もし彼一人で決定していたら、それが戦争へのトリガーとなっていたかもしれません。

ケネディ政権があの13日の間に各専門家を招いて戦争回避のための討議を繰り返し、
最終的にフルシチョフがキューバに配備したミサイル撤去という英断をしたからこそ、
米ソは一線を超えずに済んだということになっています。

しかし、国同士の戦いは得てしてたった一発の銃弾から始まるものです。

もし、B59に乗っていた3人目の士官がアルヒーポフでなかったら、
その「一発の銃弾」が撃たれ、それがきっかけとなって全てが動き出していたかも?

という歴史のイフがこのパネルに簡単に述べられているのです。
わかりやすく会話形式で説明しておきましょう。


1962年10月27日、キューバ危機の最中

アメリカ海軍の空母ランドルフおよび駆逐艦11隻からなる艦隊が、
キューバ近海でソ連のフォックストロット型潜水艦B-59を捕捉する

米「こいつ・・核積んでやがる!とりあえず演習用爆雷じゃあ!」

どご〜〜ん

米「おら浮上してこいやコラ」

B59艦長サビツキー「う、撃ってきやがった!どういうこった?
   おのれ米帝ギリギリ・・・深度を下げろ!」

乗組員「深度を下げたらアメリカのラジオ電波が聞こえなくなりますが」

艦長「構わん!情報は入らんから推測だが、これは開戦したってことだ。
   核魚雷発射用意!

政治将校マスレニコフ「ちょっとお待ちください艦長。
   核爆弾については承認ルールがあります」

艦長「おお、君さえ許可すれば発射できるんだったな」

副艦長アルヒーポフ「通常はそうですが、我がB59は、
   それに加え、わ た し の 認証が必要となります」

政治将校「なんでやねん!」

アルヒ「わたしは潜水艦小艦隊の司令でもあり、艦長と同じ階級だからです」

艦長「そ、そうでしたね・・・で、貴官も賛成なんだろうな」

アルヒ「そう思うでしょう。ところがどっこい反対なんだなこれが」

艦長「なぜだ!この状況で何をためらうことがある!」

アルヒ「開戦したかどうかをこの状況で判断することは間違っています。
  単なる威嚇だったらどうするんですか!
  もし核ミサイルを発射したら、本当に戦争が始まってしまうかもしれない」

艦長「うむ・・・・」

 

まあ、全部単なる想像なんですが(笑)

艦長と政治将校が口論の末アルヒーポフの反対意見通り、
発射を取りやめることにしたのは、彼がその前年にあの映画にもなった

K-19の事故

の際、副長として乗り込んでおり、その際の彼の勇敢な行動と名声が、
彼の主張に有利に働いたとみる意見もあるそうです。

ちなみに映画「Kー19」で副長を演じたのはリーアム・ニーソンでした。
かっこよかったですよねミハイル・ポレーニン副長。

結局、B-59は魚雷発射を中止、浮上してモスクワからの指令を待つことになりました。

B-59のバッテリ残量はごく僅かで、空調も故障していたため、
米艦隊の中央に浮上せざるを得なかったのですが、開戦していなかったため
拿捕されることなくその後、帰投することができたといいます。

しかし、もしアルヒーポフが艦長の説得に失敗していたら、
瞬時にB59は周りの米艦隊にフルボッコにされたでしょうし、
その状態では離脱しようにも電池切れとなって、どちらにしても
彼らが生きて祖国の地を踏むことはなかったのは間違いありません。

何より、彼一人の反対が「最初の銃弾」が引かれることを阻止しました。

「世界を救った男」

というのは決して大げさではなかったのです。

アルヒーポフ中佐は後に潜水艦戦隊司令となり、中将まで昇進しています。
1998年に72歳で死去しましたが、この死因をK-19の事故の際の被爆だ、
とする意見もあるそうです。

まあただ、35歳で被曝して、その後37年間仕事しながら生きてたわけですし、
被曝が原因と言ってしまうのもなんだか少し違うような・・・(個人的見解です)


これも余談ながら、事故当時のK-19の艦長ニコライ・ザテエフ
(ハリソン・フォードが演じた)
は、アルヒーポフの死から9日後、
1998年8月28日に同じく72歳で亡くなっています。

こちらも被曝が死因だとか言っちゃう?

 

さて、ここに係留してあるB−39とアルヒーポフの話は直接関係ありませんが、
冷戦時代の逸話として最初に紹介させていただきました。

彼らが世界の運命を決定した「口論」が行われたのと同じ仕様の艦内に
いざ、入っていくことにしようではありませんか。

 

続く。

 


 


"LET FLY! "〜映画「マスター・アンド・コマンダー」とHMS「サプライズ」

2017-12-26 | 軍艦

 

サンディエゴの海事博物館に展示されているレプリカ船、
HMS「サプライズ」を、彼女を使って撮影されたラッセル・クロウ主演の

「マスター・アンド・コマンダー」

について、重ね合わせながらお話ししています。
今まで、船についても映画についても、こんなアプローチで語ったことがありません。
おそらく今後もないものと思われます。

さて、このyoutubeは、同映画の戦闘シーンです。

何度となく対峙し、一度はやられて二度目は逃げ、
三度目の正直として今度こそ国王の命令通り、イギリスを「征服しようとする」
フランス軍の「アケロン」号を仕留めなければなりません。

コマンダー、ラッキージャック・オーブリーが、
ガラパゴスから持ち帰ったナナフシを、自然学者でもある
親友の軍医
マーチュリーから見せられた時、
ピコーン!と閃いたのは「擬態作戦」でした。

最初のシーンでみんながただの船員のような格好をしているのもそのためです。

 

「サプライズ」を捕鯨船のように偽装すれば、私掠船である「アケロン」は、
その目的として船を無傷で手に入れるため攻撃せずに近づいてくる。

至近距離までやってきたところを、待機していた砲術隊がマストを狙って

「テー!」(イギリスなので”ファイアー”ですが)

と一気にやっちまおうという考えです。

全員が地味な格好をし、司令官もロン毛を縛らずに小汚い格好に身を包み、
そして冒頭写真にも見られる船尾の「サプライズ」という文字をわざわざ削って
「セイレーン」に書き直すという念の入れよう。

近づいてきた「アケロン」が望遠鏡で見ても、「サプライズ」の上では
いかにも私掠船に見つかって慌てて右往左往している(ふりをしている)
捕鯨船の船員たちにしか見えません。

海軍だと見破られないように相手が近づいてくるまで操帆をわざと不器用にし、
合図があれば一気に風を抜いて急停止することになっています。

「そこのイギリスの捕鯨船、止まりなサーイ。
逃げてもムダデース。

止まらなかったら船デストロイしマース」

とフランス訛りで警告してくる「アケロン」が真横に来た瞬間、
相手に背中を見せていたオーブリー、

「LET FLY!」

と叫びます。
翻訳では「今だ!」となっていますが、まあそうとしか訳せなかったとはいえ、
このニュアンスがもう少し伝わる言葉はなかったんでしょうか。

youtubeで確認していただけるとわかりますが、いよいよ
「アケロン」が接近してくるという時になって、司令官と軍医に
従兵が紅茶をソーサー付の陶器のカップに入れて持ってきます。

士官同士が互いに必ず「Mr.」をつけて呼び合うことや、いつでもどこでも紅茶、
こういう表現に
いかにもイギリスが感じられて、お好きな向きにはたまらないでしょう。

ちなみに先日ご紹介した「ペチコート作戦」でも、乗員は互いに「Mr.」をつけて
呼び合っており、米海軍の慣習もイギリスから来たものであることがわかります。

おそらく、現在でもMr.(その後出現した女性軍人はMs.、Ma'am)
と呼び合っているものと想像されますが、どうでしょうか。


ちなみに、紅茶のシーンで従兵が

「角砂糖(ランプ)3つ入れときました」

というのに、軍医は

「How kind.」(『気前がいいな』みたいな)

と呟きます。

「LET FLY!」

それを聞いた砲手たちは、隠していた砲を一斉に窓から押し出します。

後輪をわざわざ外し、砲に仰角をつけ、一発勝負でメインマストを狙い、
絶対に外さぬようにと訓示された砲手たちは見事にそれを果たします。

その後、赤い制服を着て乗り込んでいる「マリーンズ」(海兵隊となっていた)
が、マスケット銃でデッキの上を総攻撃し、甲板から人を払うという流れ。

ここに、キャノンの仕組みを表した模型が展示されていました。
砲窓から筒を押し出すには、砲と窓をロープで連結し、滑車で一気に移動します。

一つの砲には6人が携わることとになり、日頃の訓練によって
彼らは2分で装填から発射までの作業を済ませることができました。

6人目のクルーが小さいのは、それが子供であったことを表します。

装填、照準、発射までの各自の動きが描かれています。
子供らしい六番目のメンバーが何をしているのかちょっとわかりません。

砲弾には普通の丸い弾丸以外にも破壊力を高めるためのチェーンショット、
中に細かい鉄球を詰めたキャニスター、グレープショットがありました。

 

さて、「アケロン」を至近距離までひきつけた「サプライズ」は、
司令の掛け声と同時にそのマストに海軍旗が翻ります。

その頃にはオーブリー司令、ちゃんと上から下まで軍服に着替えております、

帆船時代は、相手の船にダメージを与えたあと、船に乗り込んで
敵の船長なり司令なりの首をとる(比喩的意味)までが海戦ですから、
司令官であることを主張するためにも着替える必要があったのかと思われます。

航海で実際に使われた大きさのチェストの中に、フリル付のシャツ、
純白のベスト、キュロット、
そして白いカツラまでが一式収められていました。

ロイヤルネイビーのキャプテンの持ちものです。

「海のジェントルマン」とは?

前回お話ししたように、英国海軍における艦長は(他の君主国も同じですが)
国王自らが一人一人を任命していたということもあって、たとえどんな小さな
フリゲート艦の艦長であってもその権限は絶大でした。

今でもそうですが、キャプテンとは乗組員全員の生命と健康に責任を持っています。

18世紀のイギリス社会では彼らはジェントルマンであるべきと考えられており、
戦時と平時に限らず、そのように振る舞うことを要求されました。

義務を持つものの特権として、どんな小さな船でも、キャプテンとなれば
他の士官や乗組員よりも格段に贅沢な生活をすることができたのです。
凝ったデザインで瀟洒に仕立てた軍服を与えられ、船の中でも
貴重な広いスペースを
使用することができるといった具合に。

グレートキャビンという船室、日中の執務室、専用の風呂やトイレ、
そしてクォーターデッキと言われる船尾のキャビン。

これらの潤沢なスペースに、18世紀の軍艦の艦長はありったけの私物、
本、趣味のもの、愛用のものを持ち込むことができましたし、
家具も内装も
好みのままにデコレーションすることができたといいます。

本作でオーブリー司令が友人の軍医とともに楽器を持ち込み、
合奏をしていたのも彼らが特権階級であったことを表します。

また、18世紀はカツラは正式な服装の時には欠かせないもので、
おしゃれというよりは身だしなみという位置付けでした。

映画では艦長始め士官たちの何人かは髪を長く伸ばして
リボンでくくっていますが、カツラをつけていた人は
衛生上の問題から地毛は刈り込んでしまっていたようです。

カツラが流行したのは、当時のヨーロッパでは男女を問わず
髪が豊かに見せることが流行っていたからだと言いますが、ご想像通り
薄くなってきた人には大変歓迎されるべき流行でもありました。

長期航海を行う船では、どうしても自動的にロン毛になってしまうので、
出航の時には限界まで短くし、それを隠すためにカツラを持っていった
おしゃれなマスター・アンド・コマンダーもいたのかもしれません。

司令のキャビンにも砲が一門備え付けられていました。

右側にドラムがありますね。
最初に「アケロン」を発見し、戦闘開始がコールされた瞬間、
赤い制服の海兵隊が16ビートでうち鳴らしていたものです。

司令官や士官などの食事を用意するコーナー。
専門の従兵は、戦闘が始まりそうになると

「艦長の銀器を先に片付けろ!」

 と叫んでいましたが、銀器がいかに贅沢品だったかってことですね。

ところでこの鶏小屋の横にあるすのこのようなもの、これを見ると
映画のある印象的なシーケンスを思い出さずにいられません。

29歳にしてまだ士官候補生のホロムは、最初の「アケロン」との戦いで
出した命令のせいで水兵を死なせた、として部下から嫌われる存在になります。

ある時、彼を嫌う水兵(死んだ水兵の友人)がわざとホロムにぶつかったのを
司令官のオーブリーが見咎め、規律を守るためとして水兵を鞭打ちの刑に処します。


鞭打ちになった男が両手を縛られて立たされていたのが、こんなすのこ。
本当にこういうものを使ったのかどうかはわかりませんが、反対側から
その苦悶の表情がよく見えるグッズですね。

上官に造反するというのは船の上ではもっとも重い
規律違反となりますから、この映画のように厳罰に処せられるのです。

皆がそれを知っていますから、司令官がその命令を下すことについては
仕方がないと思っていますが、その代わり怒りの矛先はホロムに向かいます。

 

その後、ホロムに対する船内の雰囲気は最悪になりました。
甲板下にいると自分の悪口を言う声が上から聞こえてきます。

たまらずうっかり下の階に逃げ込むと、そこは水兵の巣窟。
全員から額に拳を当てる敬礼をされながら悪意をぶつけられ、
そしてついに追い詰められた彼は・・・・。

一番彼のことを心配してくれたブレイクニー候補生がワッチ中に
甲板に立ち、さりげなく砲弾を拾い上げて胸に抱え・・・

"You've always been very kind to me. "
(君はいつも僕によくしてくれる)

「グッバイ、ブレイクニー」

そして彼は砲丸を持ったまま海に飛び込んでしまうのでした。

あああああ〜〜〜


昔、元海自の方に、

「誤解を恐れずに言うと、船での虐めは’自然淘汰’でもある」

と聞いて軽くショックを受けたことがありました。

判断ミス、命令ミスが一蓮托生の運命である船の上で起こることが

仲間や、自分の命に直結するとなると、できの悪い者であれば
上官であろうと同僚であろうと徹底的に排除すると言うのは
船乗りにとって生命維持、危機回避のための本能ではないかと思うのです。

この映画のホロム士官候補生のエピソードは、人が集団で
船という運命共同体の乗り物に乗り込むようになったと同時に
形を変えて何度となく繰り返されてきた「よくある悲劇」と言えないでしょうか。

 

帆船時代の軍艦は、

艦長、掌帆長、航海長、掌砲長、海兵隊長

によって構成される一種のコミティーによって統率されました。
イギリス海軍にその基礎を学んだ日本の海軍も、海兵隊を除いては
ほぼ同じ組織図となったことを思い出してください。

専門知識を持たないものはその「コミティー」に加わる資格はなく、
艦長の命令が唯一絶対のものという原則も、この頃に確立されました。



さて、「サプライズ」が「擬態作戦」で臨んだ「アケロン」との対決です。

奇襲が功を奏して、マストを叩き折ることに成功したあと、
「サプライズ」の司令官や船長は相手の船に乗り込んでいきます。

帆船時代の海戦は15世紀に「マン・オブ・ウォー」(武装帆船)
が開発されてから以降ずっと、戦術的には発展を見ましたが、
最終的に相手の船に乗り込んで銃や剣で戦う、
という構図は
何世紀もの間変わることがありませんでした。

 

帆をコントロールする水兵たちは「トップメン」と呼ばれていました。
当然ですが、実際にマストに登り、帆を張ったり畳んだりするのです。

 
 
 
 
 
向こうに本物の帆船「スター・オブ・インディア」を臨む「サプライズ」の舳先。
最初に遭遇したフランス軍の「アケロン」に奇襲をかけられ、
このヘッドフィギュアはボロボロになるのですが、水兵たちが

「すぐに美人に戻してやるからな」
 
と言いながら修理をしているのを思い出しました。
 

最後に蛇足ですが、この映画が日本公開された時、配給会社は
幼い少年たちが軍艦に乗り込んでいたことを悲劇として強調し、
 
「あなたは教えてくれた 愛する人のために一人の戦士となることを」

「ぼくたちは戦うすべを知らなかった 死にたくはなかった」
 
などと見当外れで独善的かつ嘘八百の宣伝文句を予告に加えたため、
ファンの(というか心ある人たちの)間から猛烈な抗議が起こり、
この顛末は週刊誌(文春)でも取り上げられたそうです。


まー、はっきり言ってわたしは全く驚きませんね。
「非情都市」で、大陸から逃げてきた共産党に虐殺される台湾人の話を
 
「日本の占領から逃れて激しく美しく生きるなんとか家の人々」
 
などと宣伝して恥じないのが日本の配給会社のレベルですから。
多分、こういう人たちは翻訳される前に現物をザーッとみて、
なんとなく煽り文句を直感(笑)ででっちあげてるんだろうなと思います。
 
 
さて、宿敵「アケロン」との対決がその後どうなったか。

実はこのストーリー、最後にあっという「オチ」が用意されているのですが、
わたしはぜひみなさんにこの映画を見ていただきたいので、
珍しくネタバラシせず終わりたいと思います。

(ヒント:ラストシーンは戦闘準備)
 

「マスター・アンド・コマンダー」、海軍や大航海時代がお好きな方、
海の男(特にクロウとプリングス海尉を演じるジェームス・ダーシー)
のかっこよさを堪能したい方に熱烈オススメします。
 
 
 
 
 
 

映画「マスターアンドコマンダー」とHMS「サプライズ」号

2017-12-24 | 軍艦

サンディエゴ在住のジョアンナに案内してもらって
「ミッドウェイ」に続き、「スター・オブ・インディア」を観たあと、
その隣にある帆船も当然のように流れで見学することになりました。

ジョアンナと埠頭のレストランで食事をした時、シーサイドビューのテラスから
船の上に見学者がいるのが見えていました。

帆船の名前はHMS「サプライズ」。

HMSという限りはイギリスの帆船なんだろうなくらいの認識で
船の中に入っていったところ、いきなりこんなものが。

この鐘には「HMS ローズ」と刻印されているではないですか。
これは一体どういうことなの?

隣にあった看板にその事情が説明されていました。

つまり今わたしが乗っているのは、イギリス海軍のフリゲート艦で、
アメリカ独立戦争の時にサバンナ沖に沈んだHMS「ローズ」の設計図を元に
カナダのノーヴァ・スコーシアにある造船会社が作ったレプリカです。

建造されたのは1970年で、その後売買されてコネチカットに渡り、
練習船として稼働していたところ、2001年、20世紀フォックスが

「マスター・アンド・コマンダー」

というラッセル・クロウ主演の映画のために購入しました。
その後、フォックス社は「パイレーツ・オブ・カリビアン」の撮影で
この船を「HMSプロビデンス」として使っています。

船内にあった「マスターアンドコマンダー」のポスター。
船を見学し、そのことを知った時も特に観たいとは思わなかったのですが、
この項を制作するためにアマゾンで借りて観て観ました。

いやー、面白かったです。

よく考えたら帆船時代の海戦を描いたものは「パイレーツ」くらいしか
ちゃんと観たことはなかったんですよね。

ハリウッド制作で、ニュージーランド出身のクロウを主役に抜擢、
というものではありますが、脇を固める俳優に全てイギリス人を使い、
大航海時代の終わり頃、イギリス海軍と海戦をリアリティを持って描き、
特に海軍に関心のある向きにはその世界観にどっぷりハマれること請け合い。

映画に使われただけでなく、未だに定期的に航海を行う「生きた船」です。

「マスター・アンド・コマンダー」というタイトルは(日本でも原題と同じ)
「主人と司令官」ではなく、18世紀末まで存在したイギリス海軍士官の役職であり、

「海尉艦長」

と翻訳され、帝国海軍でいうと海軍中佐に相当する階級のことです。


「サプライズ」には少年たちが士官候補生として乗り込んでいます。
映画では彼らのうち一人が士官になり「ルテナント」になるわけですが、
「マスター・アンド」コマンダー」を海尉艦長と訳すことを踏まえ、
日本語字幕では
「少尉」ではなく「海尉」と翻訳してあります。

「マスター・アンド・コマンダー」は「マスター兼コマンダー」、
すなわち指揮官であり、自国の
歴史を知るイギリス人であれば、ズバリ

「指揮官」

というイメージで捉えているわけです。


映画は、イギリス海軍のHMS「サプライズ」が、国王の命を受け、
フランス海軍の私掠船(戦争中にある相手国の民間船を攻撃して荷を奪う船)
最新型の「アケロン」を拿捕するための航海に出るというストーリーです。

南米やガラパゴス周辺まで「アケロン」を追い回し、ついには捕鯨船に偽装して
おびき寄せて相手を叩くことになった時、ラッセル・クロウはこう言います。

「我々は今世界の裏側にいる。
The ship is England.(この船が祖国なのだ)」

このセリフは、HMSをタイトルに持つイギリスの船が
国王に任命された「国の代表」であると自負していたことを表します。


この時代より昔、近世ヨーロッパでは国王が所有する艦艇の艦長、
つまりキャプテンは、各国の
国王によって直々に任命されていました。

いまだに英国海軍の船が艦船接頭辞に

Her Majesty's Ship (女王陛下の船)/ His Majesty's Ship(国王陛下の船)

を付けているのは、この時代の名残です。
イギリスだけが王室を残しているので、この表記も昔のままなわけです。

帝国海軍では名前ではなく、当初特務艦や雑役船以外の軍艦の艦首に
天皇陛下の船を意味する菊の紋章をつけることでそれを表しました。

ただ、艦艇が増えてくると、天皇陛下の船であることが当たりまえ?の
海軍軍艦の全てに紋章をつけることに意味がなくなってきたので、
戦艦など「国家の威信」を特に象徴する艦艇に限られるようになります。

イギリスでは国家が艦隊を保有するようになり、艦艇の数が増えると
その全ての艦長をいちいち国王が任免することができなくなり、
HMSの接頭辞は残して、艦長任命は海軍組織が行なうようになったのです。

「艦長の地位は、陸軍の中佐或は少佐に相当する階級」

と決まっていったのはそれから後のことになります。


 

イギリス海軍では勅任艦長(Post Captain)が配属されない軍艦のことを

「ノン・ポスト・シップ」

と言いましたが、ノン・ポスト・シップではコマンダー(指揮官)が
艦長も兼ねており、その兼任ポストを

「マスター・アンド・コマンダー」

と称したのでした。


し か し (笑)

わたしはここで大変なことに気づいてしまったのだった。

「マスター・アンド・コマンダー」という役職名は、
マスター(つまり艦長)がノンポストシップにも配属されるようになると
“マスター兼”ではなくなったため、1794年にはなくなり、
代わりにただ「コマンダー」が使われるようになりました。

映画はナポレオンの世界征服に立ち向かうイギリス、つまり、
1805年という設定なので、すでにこの映画のタイトルとなった
「マスター・アンド・コマンダー」というタイトルは

この時代には存在せず、

この時代には存在せず、

この時代には存在せず、

ラッセル・クロウ演じる’ラッキー’・ジャック・オーブリーは

 

シンプルに「コマンダー」であるはずなのです。

映画ではそのことを言明していませんが、事情は踏まえていたようで、
それが証拠に、ポストシップであったこのHMS「サプライズ」には
司令官の他に「サプライズの艦長」という人が登場します。

あえて当時は存在しなくなったこの役職名をわざわざタイトルにしたことに、
作者(パトリック・オブライアン)の意図が表れていますね。

映画の最初のシーンはこの鶏小屋から始まります。
髭面の水兵が、まさにこのケージを開いて、たった一つだけ
卵を取りに来るのです。

船の上ではガーデニングもしていました、ってことで。

この映画には、こんな少年士官候補生が出てきます。
子供なのに士官候補生なので祖父のような水兵に命令を下していました。

当時のイギリス軍艦には士官候補生と“サーバント”及び“ボーイ”の
3種類の子供が乗り組んでいました。
規定としては13歳以上、但し海軍士官の子弟である士官候補生は11歳以上、
とされていましたが、結構適当だったそうです。

この映画でも乗組員一同の崇敬の的としてその名前が出てきた
三代提督のうちの一人ホレーショ・ネルソンは12歳で士官候補生として
船に乗り込んだのが海軍人生の第一歩だったと言われています。

ちなみに写真の彼、ブレイクニー士官候補生は、最初の「アケロン」との戦いで
右腕に銃弾を受け、軍医に切断の処置を受けることになります。

当時は抗生物質などがないため、負傷した手足は切り落とすしかなかったのです。

 

この映画で、艦長のオーブリーの友人でもあるマチュリン軍医は、
軍医でありながら自然博物学者でもあります。

船の中の数少ない?インテリの一人として、艦長のヴァイオリンと一緒に
チェロを奏でる素敵な軍医。
(ちなみに水兵たちは”またギーコギーコが始まった”などと陰口)

ちなみにこの時に二人が演奏するのは

モーツァルト ヴァイオリン協奏曲 第三番 ロンド

のトリオ部分からとなりますが、この選曲が個人的にはしびれました。

Master&Commander - Captain Quarters Melody 1


彼が博物学者であることはこの映画に大きな役割を果たしています。

フランスの「アケロン」号を拿捕するために南米まできた「サプライズ」、
ガラパゴス諸島に着岸することになり、マチュリン軍医、大はしゃぎ。

新種の生物の発見者として学会デビュー!を夢見ちゃったりするのですが、
そんなものに興味のない司令官オーブリーは、いざ敵艦見ゆの報を聞くや否や
軍医の望みも虚しく、
島を後にすることを非情にも命令するのでした。

そして、事件が起こります。

ガラパゴスを出航した直後、島からついてきたカモメを仕留めようとした
HMS「サプライズ」の船長
(ネイビーとは違う赤い制服を着て乗り込んでいる)
に、マチュリン軍医、過って腹部を撃たれてしまいます。

 

傷ついた軍医はちょうどこんなハンモックに寝かされました。

手術をしたこともない彼のアシスタントでは腹のなかの銃弾と服の切れ端
(残っていたら化膿する)
を取り出せないので、オーブリーは
「アケロン」の追跡を諦め、ガラパゴスに戻る決断を下します。

そして揺れない陸地で鏡を見ながら軍医が自分で自分を執刀し、
手術に成功し、自分で自分の命を取り留めます。

ちなみにこれが英国海軍士官と士官候補生の軍服です。

左側の士官候補生は、乗艦中に海尉に昇進するのですが、
「アケロン」との
最後の戦いで戦死する運命です(ネタバレ)

こちら船内に飾ってあった映画の一シーン。

この時代の帆船には、船尾に司令官の部屋がありました。
司令官、副長、士官になったばかりの海尉などがこの部屋でディナーをとります。

目を輝かせた少年海尉に、

「ネルソン提督にお会いになったそうですが、どんな方でしたか」

と聞かれ、二回とも”塩を取ってくれ”と言われたと皆を笑わせた後、
提督の国王と祖国への思いを表すエピソードを披露するオーブリー。

皆はその話に感動して提督に乾杯を捧げるのでした。

司令のオーブリーの居室となっていた船尾のキャビンは、
アクリルで仕切りをされていて中に立ち入ることはできませんでした。

映画での士官の食事シーンを見ると、テーブルは画面に向かって縦に置かれ、
わずかに左に傾いている照明器具が、全く同じ状態で映っています。

スタジオではなく、まさにこの部屋で同じ調度を使って撮られたようです。

 

また、画面右側に譜面台があり、ヴァイオリンが置いてありますね。
オーブリーが軍医と合奏したのはカーテンの向こう側であり、
チェロを弾く軍医は、窓際に設置された椅子に腰掛けていました。

チェロの音はこの軍医の「テーマソング」のように扱われており、
初めてガラパゴスに「サプライズ」が到着した時、

無伴奏チェロ組曲 第一番 前奏曲

がバックに流れるのですが、これがなぜかガラパゴスの風景と
軍医たちが新しい生物に出会い興奮するシーンにぴったりだと思いました。

J. S. Bach: Prelude & The Galápagos ('Master & Commander' scene)


 

続く。

 


「エリスのキャビン」〜帆船「スター・オブ・インディア」

2017-12-23 | 博物館・資料館・テーマパーク

サンディエゴで展示公開されている「生ける帆船」、
「スター・オブ・インディア」についてお話ししています。

「スター・オブ・インディア」は港町であるサンディエゴの、
ダウンタウンにあるノース・エンバルカデロという埠頭に、
サンディエゴ海自博物館の展示船の一つとして公開されています。

これは「スター・オブ・インディア」船上からみた埠頭前の様子です。

右側に「スター・オブ・インディア」。
その向こうには海自博物館所蔵の船舶が見えています。

右側の帆船は「HMS サプライズ」という復元船で、左の潜水艦はなんと
ソ連の攻撃型潜水艦B−39です。

このBー39も見学してきましたので、そのうち取り上げるつもり。
このほかにもの潜水艦「ドルフィン」なども公開展示されていました。

「スター・オブ・インディア」は実際に可動するだけあって
手入れが行き届いていましたが、潜水艦はどれも放置されていてボロボロでした。

 

さて、「スター・オブ・インディア」の説明に戻りましょう。

「スター・オブ・インディア」は、アメリカに渡ってその名前になる前、
「エウテロペ」時代に、英国からニュージーランドへの移民を運んだことがあります。

このコーナーは、そんな中の一家族の残された日記から
彼らにスポットライトを当ててみたもので、

ステッド・エリスとその家族(子供6人)

について説明されています。
イギリスからニュージーランドまでの5ヶ月の航海の間、エリスは
奇しくも同名であるネイ恋ブログの主も顔負けの詳細な日記をつけ続け、
航海中の天候や家族の健康状態に始まり、操船のあれこれについても
記録を残し続けました。

ニュージーランドに無事入植後、エリス氏は教育委員会の事務局長となっています。

写真は、新天地に到着し全員で写真を撮るエリス家のみなさん。

ニュージーランドに到着して2〜3年後に撮られた家族写真。
いつのまにか子供が3人増えて9人になってるんですが・・・。

到着した後は生き生きと子供を増やし新天地に増殖することに
成功したエリス家ですが、それでは「スター・オブ・インディア」での
半年はどのようなものだったのでしょうか。

当時(1879年)の帆船で、5ヶ月の船旅。
これはよほどの覚悟と気力、何より健康に自信がないと不可能だったのでは?

ここに、当時を再現したコーナーがありました。
薄汚れた(展示しているうちに埃が積もったという説もあり)洋服に
伸び放題の髪と髭。
ベッドには生気なく横たわる妻の姿が。
あまりの揺れに起きていられないという状態だったのかもしれません。

しかも夫婦だけならともかく、彼らには子供が6人もいたのです。
展示場所とご予算の都合で子供の姿は一人しかここにはいませんが、
実際にもエリス家の子供は不安で退屈な日々をこのように過ごしたのでしょう。

「ひどく寒い朝、海は黒い氷のように見え、雪混じりの風が吹き渡っていた。
今日のリジー(妻)はとても具合が悪く、ベッドから頭を起こすこともできない。
赤ん坊が泣いたりするので夜中彼女は休むことができないのだ。
あまりに寒いので3人でバンクの隅にひとかたまりになって寝た。
狭くて彼女の腕を退けねば息子を置く場所がない。
なのに、船が時化で揺れると、バンクは広すぎて皆が転がってしまう。
狭いバンクで少しでも快適に過ごそうと思えば、体を縛り付けるしかないのだ」

彼らの名前をとって、ここは「エリスのキャビン」と名付けられているそうです。
全く関係ないですが、なぜか親近感が湧きます。

エリス家は二等船客として船会社に25ポンド(現在の2748ドル)
を払い、ニュージーランドまで行ったということらしいですが、その船賃で
家族全員がベッドと食器、什器、リネン類を貸与されました。

彼らのように数ヶ月かけてニュージーランドにこの船で入植した人数は
400人に上るということです。

「朝食は、スプーン2杯の煮た米に、モラセスか砂糖、
コーヒー、バター付きパンというものだ。
夕食には牛肉か羊の缶詰にポテト、週に一、二回ピクルスがつく。
望めば週に三回か四回、ボイルした塩漬け肉を食べることができたはずだが、
なぜかその機会はあまり訪れなかった。
私の丸い布袋腹はすっかりどこかに消え失せ、
それがいつも何かを欲しがっているような気がした」

そんな数ヶ月をおしてまで、どうして彼は移民したかったのか・・・。

寝て起きて食べ物を求めるだけの生活にはとても耐えきれない、
と思ったエリス氏は、「パッシングタイム」(暇つぶし)のために
日記をつけるだけでなく皆に配る読み物を発行しようと考えます。

「エウテロペ・タイムズ」と名付けたニュースをインクとペンで書き綴り、
他の乗客に読んでもらうことで、人を楽しませることを思いついたのでした。

賛同したもう一人の人物と共に発行したそのニュースには、
詩、随筆、スポーツニュース、地理や自然についてのトピック、
そしてローカルニュース(船の中の?)などが掲載されていました。

ますます同名のブロガーとしてはエリス氏に親近感が湧くところです。

過酷な船内生活を少しでも人間らしく過ごしたいというのは皆同じ。
夜になると、弦楽器や空き缶などで深夜まで賑やかに演奏が行われたりしました。

ある乗客はこんな風に日記に書き記しています。

「もしこんなことを陸にいるときにやったなら、
我々はどんなに無教養で粗野だと思われていたことだろうか」

ちなみにここにある楽譜は「エウテロペ」という曲名で、
ピアノのために書かれた平凡で(ごめんね)ロマンチックなワルツです。

発行元がニュージーランドなので、おそらく移民が
無事に入植したあと、思い出のために楽譜を発行したのかもしれません。

Chantey、シャンティとは水夫が船の作業をしながら歌う歌。
このほかにも「フォクスル・ソング」という、オフの時に歌う歌もありました。
内容は有名な海戦だったり、ラブストーリーだったり。

人魚伝説もそんな中から生まれてきたということです。

ここにはバンジョー、フィドル、ハーモニカ(バンジョーの上)など、
実際に船上で使用された楽器が展示されていました。

最初にボトルシップなる模型をこの世に生み出したのは、
実は余暇を持て余した海の男であった、とここには書かれています。

船底を仕切りを通して覗くことができたので、カメラを出して撮りました。
昔からここにあったらしい樽と、電気コードが混在しています。

さて、ここでまた再びエリス氏親子が登場してきました。
サニタリーコンディションズ、つまりトイレ事情です。

"Disgracefully Constructed" (恥ずかしい設計)

とタイトルがあり、エリス氏がトイレット、イギリス人のいうところの
W.C (ウォッシュ・クローゼット)について不満たらたらで
このように書き残していたことが説明されています。

どう恥ずかしいのか。

つまり穴の空いた板の上に座り、下の桶でそれを受ける。
非常に原始的な仕組みであったわけです。

ところで、日本でトイレのことを昔「ダブリューシー」と
称していたこともあったわけですが、イギリス式だったんですね。

ボースンズ・ロッカーと称された区画は立ち入り禁止になっていました。

Boatswainと書いて「ボースン」と発音するこれは帆、索、錨、などを
扱うオフィサーのことを称しました。
この区画はオフィサーの監視下において扱われる索具などに
必要となる作業をするところであり、道具の収納場所でもあります。

錨鎖のロッカーはこの階下に位置しました。(先ほど覗いた部分)
錨鎖の鎖一つの重さは35パウンドでした。(6.8kg)

というわけで船内の見学をすべて終わり、再び甲板に上がってきました。

説明がないのでわかりませんが、JOHN H WILSON & Coでググってみると、
1800年台後半に船のためのホイストやクレーンを作っていた
リバプールの会社だとわかりました。

つまり、これは「エウテロペ」時代からここにあったことになります。

工作室のようにも見える一室は雑然といろんなものが並んでいます。

艦橋の操舵室は改装工事中らしく見られませんでした。

船首部分にたどり着きました。
もやいの巻きつけ方がいい加減だと思うのはわたしが日本人だから?

これももしかしたら本来の用途ではないのかもしれないと思ったり。
というかこれなんでしょうか。

甲板下の階の空気抜き・・?じゃないだろうし・・。

スター・オブ・インディア」を次世代に残すために、150年そのままだった
甲板を張り替えることにした、というお知らせ。

しかしそんなプロジェクトも資金がなくては動きようがありません。
というわけで、船上ではいつもこうやって寄付を募っています。

企業や団体がこういうことに理解を示すアメリカにおいても、
民間レベルでは歴史的遺産を残すことにやはりそれなりの苦慮があるのかもしれません。

 

 

 


フローティング・ウェアハウス〜帆船「スター・オブ・インディア」

2017-12-21 | 軍艦

1800年代後半に生まれ、1900年初頭まで名前や用途を変えながら
現在その優美な姿をサンディエゴの埠頭に見せている帆船、
「スター・オブ・インディア」についてお話ししています。

1864年に就航した時にはイギリスで「エウテロペ」と名付けられ、
その当時は貨物線として活躍していた彼女。

その頃の資料がこのようにパネルにされています。

1906年にアメリカに渡るまで、「エウテロペ」はプーケットから木材、
オーストラリアの石炭、ハワイの砂糖、インドのジュート、綿、穀物、
アジアの香辛料、アラスカのサーモンの他に、イギリスから
ニュージーランドやオーストラリアに移住する移民を輸送したりしました。

左下の版画は、積荷を満載した「エウテロペ」の断面図です。

前回、「スター・オブ・インディア」がアラスカでサーモンを獲り、
それを輸送してくる「スター艦隊」として活躍していたことに触れましたが、
この「フォグホーン」も旗も、その時代に使用されていたものです。

帆船の時代、衝突を防止するためにこのホーンをふき鳴らしました。

アラスカでサーモンを獲って缶詰にする仕事は季節労働です。
氷の少ない6月に始まって8月に操業を終了するまでの間、
「スター・フリート」の船は

「フローティング・ウェアハウス」(浮き倉庫)

となって、中国、フィリピン、日本、インド、スカンジナビア、
モロッコなど、他民族混成による従業員が共に働きます。

「ダイバース・チーム・ワークド・トゥギャザー」

と聞こえのいいタイトルがこの説明にも見えていますが、
彼ら非白人系の労働者たちの船内での待遇は過酷なものでした。

わたしはそのことを「バルクルーサ」こと「スター・オブ・アラスカ」
の見学で知りかなりの衝撃を受けたのですが、それはまたいずれ。

もちろん白人労働者だって決して楽をしていたわけではありません。

「ハードワーク、ロウ・ペイ」(ブラック労働)

という言葉がその全貌を言い表しています。

沈没せずに今ここに当時の姿を見せてくれている「インディア」も
アラスカで試練を受けたことが書かれています。

今の我々の感覚でいうと、アラスカに帆船で行って何ヶ月もそこで操業する、
なんて、無謀というか無事でなくて当たり前としか思えないんですが。


これは、「スター・オブ・インディア」の遭難について述べたもので、
上の写真は、船から氷の海に放り出され、助かったうちの一人を
祖父に持つ人から寄贈されました。

右下は、引き揚げられた遺体を現地で葬っているところです。

乗組員家に帰ってきた時、彼の妻はそれが誰だかわからないくらい
人相風体が変わってしまっていたというお話。
60パウンドということは27キロ体重が増えて帰ってきたことになります。

これらは、船内に作り付けのベッドを利用して展示されています。
これを「バンク」といいますが、これは当時の典型的な水兵のバンク。

木製のクランプや熱い鉄を扱う「トング」、ペンチ的なもの。
船のメンテナンスに必要な器具数々。

こちらは帆船を作るための工具色々。
手前にあるのが木片の面取りをするスポークシェーブ、
デッキをコーキングするためのヘラ、ゲージにディバイダーなどなど。

年に一度実際に帆を張って出航する「スター・オブ・インディア」。
右の写真には船底の赤いペイントが完全に見えています。

昔と違って彼女は積荷なしで航海するためなのですが、
帆船にはバラストが必要なので、船底にはコンクリートを積んでいます。

メインデッキの艦尾部分にやってきました。
ここには大きく外が見えるように船殻がくり抜かれています。

こんな船でアラスカに・・・しかもこの階には乗員が寝起きしていたのです。

木材がもやいで結びつけられています。
ダメコン素材かな?と思ったのですが、そうではなく、彼女が
「エウテロペ」時代に木材の輸送を行っていたことを説明しています。

もしかしたら木材も当時からのものかもしれません。

「エウテロペ」であった頃の「スター・オブ・インディア」。
イギリスで撮られた写真でしょう。

船内で使われていたシンガーミシン。
シンガーは1851年創業、「スター艦隊」が結成されるかなり前から
ミシンのトップメーカーとなっていました。

ところで余談ですが、このブログで何度もお話ししてきたあの

ノルデン爆撃照準器

を第二次世界大戦中作っていたのがこのシンガーだったってご存知でした?

同社は戦争に突入するやいなや各国政府と兵器製造の契約を結び、
ミシンの製造を停止して、ノルデン爆撃照準器の他

M1ガーランドライフル

M1911拳銃

などをアメリカに供給し、同社のドイツ国内の工場はなんと

ナチスに兵器を供給していたということです。

政府の命令によって拳銃の生産研究に取り掛かったシンガー社ですが、
最初の500丁を政府に納入した後、社の方針で生産を大砲や爆撃照準機に切り替えたため、
その500丁は市場では超レアとなり、今でもコレクターが高値で取引しているそうです。

ちなみにシンガーのサイトでは、日米ともにその歴史に武器製造の記載はなく、
1939年から戦後までは空白となっています。


サンフランシスコのアラメダ(空母ホーネットの展示してあるところ)
におけるスター艦隊の船とアラスカ・パッカーズ・アソシエーションの労働者たち。

茶などを運ぶための木箱、皮革と木製でできた大型トランク、
そして荷物を積み込むための滑車など。

モデルシップ(帆船の部)コーナーもありました。
いずれも「エウテロペ」以前、これは1628年建造の船。

説明を撮るのを忘れたのですが、どうもオランダの「バタヴィア」のようです。

艦尾に揚がっているのはフランスではなくオランダ共和国の側で、
当時この船の所有はあの東インド会社でした。

「バタヴィア」は香辛料を積んで340名(水夫、兵士、一般乗客、船員、その家族)
を乗せ出航しますが、最初の航海中、船長と船団長が諍いを起こします。
船長はナンバー3と手をくんで船団長を殺害し、船を乗っ取り海賊となることを企てます。

そんな航海中、バタヴィア号は運悪くオーストラリア沖で珊瑚礁に座礁してしまいました。

近くの無人島に生き残った乗員乗客の大半が上陸し、沈没した船から脱出したナンバー3が
リーダーとなるのですが、反乱を企てていたことが発覚し死刑になるのを恐れた彼は、
自分に不要な生存者たちを手下とともに次々と抹殺していくのです。
あまつさえ残虐な本性を現して、虐殺を快楽のために行うようになっていきました。

そのうち追放されていた兵士の一団が島に戻ってきてナンバー3の一団を制圧し、
船団長とともに反乱を起こしたナンバー3ら一派の数人はかなーり残虐な方法で処刑されました。

まるで小説のようですが、事実は小説よりも、の通りこれは実話です。

後世、バタヴィア号をテーマにした創作物が多く著されましたが、
最近では20世紀に入って書かれた「バタヴィア号の惨劇」という
ノンフィクションも出ています。

 

こちらも同年建造されたもので、スウェーデン海軍の「ヴァーサ」

1628年8月10日に処女航海を行ったこの64門戦列艦は、
同じ処女航海でも、とりあえずちゃんとオランダからオーストラリアまで
航海を行い、座礁で没した「バタヴィア」と違い、
単純に設計ミスが原因で、その日のうちにその現役としての生涯を終えています。

もともと砲甲板が一層の予定だったのが、建造途中で変更され、
二層に増やされるなど構造に無理があるのに加え、武器を積みまくったため
極端にトップヘビーな状態になってしまった彼女は、
最初の航海で1,300 m ほど帆走した地点で横風を受け、
復原性の低さが災いしてそのままあっさりと横転沈没してしまったのです。

大砲や貴重品は引き揚げたものの、船体の回収には失敗し、
海底に沈んだ状態でずっと放置されていました。

ところが没後300年も経った1950年代に入って、ヴァーサは引き揚げられることになりました。

バルト海は水温や酸素濃度が低く、フナクイムシが生息していないことで、
ヴァーサの船体は復元可能であるらしいことがわかったのです。

そして1961年、333年ぶりに引き揚げられ陽の目をみることになりました。

さらに四半世紀にわたる復元作業をへて、彼女は1988年からその名前をつけた
「ヴァーサ博物館」でその姿を見ることができます。

300年の間海の底にありながら、船体はもちろん調度も原形を残しており、
当時の戦列艦の姿、建造方法、設備などを知る貴重な資料となっているのです。

そしておそらく、300年前も、ヴァーサは船舶建造の格好の失敗例として
貴重な教訓を当時の設計者たちに与えたことだろうと思われます。

ところで「世界の三大記念艦」ってなんだかご存知ですか?

まず、我が海軍の戦艦「三笠」。
このブログでも散々取り上げたアメリカのフリゲート「コンスティチューション」。

そして、一等戦列艦「ヴィクトリー」です。

H.M.S(His/ Her Majesty's Ship ) を冠したイギリスの「ヴィクトリー」は
国運をかけたトラファルガー海戦において、これも世界の三大提督である
ネルソンが(ちなみにその他はジョン・ポール・ジョーンズと我が東郷元帥)
座乗してフランス・スペイン艦隊に大勝利を納めた「ナショナル・シップ」です。

この中で稼働しているのは「コンスティチューション」のみ。
「三笠」は戦前からコンクリで水面下を固められていますし、
「ヴィクトリー」は1922年にドック入りして以来展示されているだけで
航行は行われていません。

ただ、歴史的海洋国家であるアメリカとイギリスは、未だにこの記念館を
海軍に所属する艦船として扱っており、ここでも再々お話ししたように
「コンスティチューション」には中佐が約一年交代で艦長を務め、
メンテナンスと訓練を維持する乗組員もちゃんと配置されておりますし、
「ヴィクトリー」の方は海軍少佐を艦長としているのです。

かつての栄光艦をレガシーとして受け継ぎ後世に残すことに
これだけ両国が大変な努力をしているのは、両国が海洋国家であり
海軍が自らを「ブルーウォーター・ネイビー」と任ずるからこそでしょう。

そして、堂々たる現役艦、「スター・オブ・インディア」。

「スター・オブ・インディア」に似ていますが違う帆船。
この船の名前は写真を撮るのを忘れました

Edward John Perry と名前のある少年は、こんな幼くして
船員見習いとして船に乗っていた、ということで紹介されています。

 

あと一回、続きます。

 

 


スター・フリート〜帆船「スター・オブ・インディア」

2017-12-20 | 軍艦

サンディエゴは港町です。
112キロに及ぶ海岸線をもち、昔から海軍と海兵隊の基地を抱えていたため、
どちらかというとリベラルが多い西海岸で保守的な土地柄と言われています。

有数の世界都市の一つでありながら、大都市特有の荒んだ部分がなく、
一年を通して穏やかな気候に恵まれたサンディエゴ。

アメリカに住んでいた時にも何度か訪れましたが、
サンディエゴが海軍の町であることを知ってからは一層、
その魅力に惹かれ、今ではすっかり好きな街になりました。

クルーズ船とカモメ、ヨット。
その光景にさりげなく空母が映り込んで来るのがサンディエゴです。

ちなみに向かいにあるナーバル・エアステーションは、
サンディエゴ湾に浮島のように下から伸びている半島の先に存在します。

海軍基地のあるコロナドとウォーターフロントの間は
ヨットで楽しむ人がいつ見てもたくさん。

USS「ミッドウェイ」が展示されているところから海沿いに歩いて行くと、
サンディエゴ海事博物館として数隻の船が展示公開されています。

サンディエゴ在住のジョアンナは、埠頭にあるレストランでランチの後、
この見学に連れていってくれました。

まずは手前の帆船から見学することに。

1863年イギリスで建造された「スター・オブ・インディア」という船です。

イギリスで建造されたとき、彼女の最初の名前は「エウテルペ」といいました。
エウテルペは音楽の「ミューズ」です。

43年間、彼女はその名前でインド航路で貿易のにを運ぶ仕事をしていましたが、
その後アメリカに売却されると同時に現在の名前になり、
石炭を積んだり、サケを取るためにベーリング海を航海するなど活躍し、
蒸気が船舶動力の主力になった時に仕事を引退しました。

そして1926年からずっとここで展示されているということです。

しかし彼女はこう見えても稼働する帆船です。
現役艦として、一年に一度、海事博物館のメンバーであるボランティアの
熟練メンバーによってサンディエゴ湾にその帆を張り、出航します。

大抵はサンディエゴ湾内から出ることはなく、一日でドックに戻るそうです。

彼女がここにやって来たちょうどその時、折悪しくアメリカは大恐慌に見舞われ、
その後は戦争に突入してしまったため、ここで繋留されたまま放置されていたそうです。

そして永らく荒れ放題になっていたこの歴史的帆船に対し、1959年、
保存作業が行われることになり、その後現在に渡ってメンテナンスは続けられています。

このパネルは

「メンテナンス工事中はこれらを見ることはできなくなります」

というお知らせですが、この日見学したところによるとほとんどが終了しているようでした。


ところで右上の写真に見られる「POOP DECK」ですが、先日「ミッドウェイ」で知った
「フォクスル」(船首楼)の反対で、船尾楼のことをさします。

poopはフランス語の「poupe」(スターン、船尾)が語源となっています。

アメリカ人なら知っているのでしょうが、「トイレ」とは関係があるようでないような・・・
(と言葉を濁す)

船内に入るといきなり「サルーン」と呼ばれる船室の見学から始まりました。
船内にいた人が皆でこちらをガン見してお迎えしてくれました。

写真右側の壁面を見ていただくと、微妙に歪んで入るのがお分かりでしょう。

この船のすごいところは、キャビンも船体も、ほぼ100パーセント
(ほぼ100パーセントってどういう意味なんだろう)オリジナルで、
例えばコンスティチューションなどのようにあちらこちらを取り替えていって
今ではほぼ100パーセント(笑)オリジナル部分がなくなっている船とは
全く違う、というところだそうです。

ということは、この歪んだ壁も建造当時の部分が多いということになります。

上下段になった船員ベッド。
ベッドの下を引き出しにするというアイデアは1863年からあったんですね。

すりガラスアート、曲線を描くカウチソファには優美な織りの布。
「ほぼ100パーセント」の「ほぼ以外」には、鏡や布などの交換も含まれているのでしょう。

それにしてもこのゴージャスさ、アラスカでサケを取っていた船の内装とは思えません。

キャビンのソファも革張りです。

イギリスで「ランチング」、つまり進水式をした日の「エウテロペ」。
186311月14日という日付けが残されています。

2009年の改装時に追加されたに違いないSOI(スター・オブ・インディア)の
姿を刻んだガラス。

金のプレートには修復に際して巨額の寄付をした人の名前が刻まれています。

今でも出航時やイベントなどではここが食卓となることもあるのでしょう。
テーブルには船が傾いた時のためのストッパーが打ち付けてあります。

現代の船であれば滑りにくい素材などを使ってテーブルを作ることもできますが、
何しろこの船は「ほぼ100%オリジナル」を謳っていますから、
昔のままの木のテーブルを維持し続けているのです。

テーブルに所在無げに座っている(笑)黒のポロシャツのお兄さん。
どうもボランティアの説明係のようですが、誰も話しかけないので暇そうです。

甲板階の中央には、かまぼこ型のガラスドームがしつらえてあり、
それが自然光を取り入れて船内が明るく見えるように工夫されています。

説明のパネルによるとここは「Surgeon Cabin」のはず。
"Surgeon"は外科医の他に「船医」の意味もあります。

松葉杖など、当時の備品が少し見えていますが、
Surgeon superintendents cabin とあり、
サンディエゴで小児科医を務めていたロバート・G・シャープ医師の子孫が

「永遠の小児科医である彼の思い出のために」

この部屋の修復に寄与したことがわかります。
シャープ医師がこの船に乗っていたのかどうかはわかりません。

ファーストクラスのパントリー、つまり食事の用意をするところ。
食器を収納してある戸棚がなんというかすごいアイデア賞です。

ここは説明によると「キャプテンズ・キャビン」、船長室ということなのですが、
どう見ても改装真っ只中。

アンティークのインテリアなどをこれから飾り付けるようです。

以上で甲板の下のメインデッキを全部見学したことになります。
さらにもう一階、セカンドデッキに降りていく階段がありました。

「世界は水(海)で繋がっている」

という看板あり。

この階にはかつて彼女が現役でお仕事をしていた時代の資料が展示されています。

「当時その国の経済発展を決定するのは海路による輸送力であり、
”シーパワー”が帝国の隆盛と没落を分けることになった」

という言葉とともに、彼女が「エウテロペ」であった頃の
海上輸送の重要さを説明しています。

七つの海を支配したスペインも、それに取って代わったイギリスも、
その発展は海運国であったからです。

今やかつての繁栄が嘘のようなポルトガルも、ブルーウォーターネイビーを保有する
フランスも、その国の発展は大西洋に面していたことと無関係ではありません。

アメリカで彼女が「スター・オブ・インディア」になってから。
彼女を購入したのはサンフランシスコにある

「アラスカ・パッカー・アソシエーション」

というサーモン専門の缶詰会社でした。
彼女が同社で稼働することになったのは、彼女が帆船だったからで、
この会社は

「スター・フリート」

と名付けられた帆船を使うことで、動力を安く上げていたのです。
「スター・フリート」は文字通り、「スター・ライン」と言われた船群のことで、

「スター・オブ・イタリー」

「スター・オブ・ロシア」

「スター・オブ・アラスカ」サンフランシスコ海事博物館蔵

「スター・オブ・イングランド」

「スター・オブ・フィンランド」

「スター・オブ・ベンガル」

「フランス」「ラップランド」「スコットランド」「アイスランド」・・

などの「スター」がいました。
「エウテロペ」もその一つとして艦隊に加えられたので、
名前を「スター・オブ・インディア」に変えたというわけです。

「アラスカ」は「バルクルーサ」という名前で、現在サンフランシスコの
マリタイムミュージアムで公開されて降り、わたしはこちらも見学してきました。

いつになるかはわかりませんが、いずれここでお話しするつもりです。


「ベンガル」はこの中で操業中に遭難した船で、1908年、
荒天の中帆の張り方を誤り、アラスカのコロネーション島付近海域で
沈没し、膨大な価値となる積荷とともに多くの犠牲者を出したことで有名です。

この時乗り組んでいた138名の乗員のうち生存したのはわずか27人。

当時このような船には多くの東洋人労働者が乗り組んでいましたが、
この時に「スター・オブ・ベンガル」には中国人、フィリピン人とともに
日本人もいたという記録があります。

ただし、彼らの名前は現在では(おそらく当時も)明らかになっていません。

 

 

続く。

 

 


フォートポイントとジョセフ・シュトラウスの英断

2017-12-18 | アメリカ

 サンフランシスコのフォートポイント、フォートの内部を見学しました。

雪は降りませんが、夏でも決して暑くならず、むしろ霧のため
夏が一番寒いと感じるのがここサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ近くです。

建物内部では嘗て兵舎であった頃を再現しています。

この回には士官の居住区があったと思われます。

当時使われていたコーヒー豆の箱。
「コーヒーミルズ」は商品名だと思われます。

1864年、南北戦争の頃の兵士のレーションとは?

塩づけあるいは新鮮な牛肉(あるいは塩漬け豚肉かベーコン)
3/4パウンドのハードブレッド
(あるいは1.5パウンドのソフトブレッド、コーンミール)

2.5ozの豆
1.5ozのグリーンコーヒー(かローストコーヒー)
砂糖、ビネガー、キャンドル、ソープ、塩コショウ


アメリカ人が野菜を食べないのは昔からだったみたいですね。
グリーンコーヒーというのは読んで字のごとく焙煎しないコーヒー豆を
抽出してのむコーヒーですが、最近ではこの飲み方が健康志向の層に
じわじわと流行っているということをたったいま知りました。
この頃のグリーンコーヒーにそんな意味はなかったと思いますけど。

それから、キャンドルとソープもレーションに含まれていたようです。


右下のは小冊子で某大尉によって書かれた

「キャンプファイヤー、キャンプクッキング」

「ソルジャーのための料理のヒント」

で、

「携帯野外オーブンで作るパンのレシピ」

が含まれているということです。
この本の内容が別のところに掲示してありましたが、その

「キッチンフィロソフィー」

によると、


豆を下手に煮ると、銃弾よりそれは人を殺すことを覚えておくがよい。
そして脂肪は火薬よりも人を死に至らしめる
調理というものはこの世における全ての作業の中でも特に
『急がば回れ』の精神で行うべきで、5分早く調理を切り上げて
火が通っていないくらいなら1時間遅れる方がまだましである。

強火にするとスープは焦げ付くし、顔は焼けるし、
君自身もカリカリになり(笑)
ろくなことはない。

よい調理の秘訣というのは「Skim, Simmer, Scour 」である 

(上澄みを掬うがことく丁寧に、コトコト煮込み、食材をよく洗う)


まさかアメリカで「アク取り」という技があったとも思えないので、
このように翻訳してみましたが、単に「S」でまとめたかっただけかも・・。

電気による灯りがなかった頃、ろうそくは各自に配給され、
1日に一本使い切っていたようです。

こちらの部屋は二段ベッドの寝室です。
「ミッドウェイ」など軍艦の中の寝床を散々見て来た目には、
この広々としたスペースの使い方とベッドの天井の高さは破格に見えました。

上の段のベッドにも靴や帽子をおく棚が上に付いていますが、
この人たちは一体いつ靴を脱いだのか気になるところです。

当時の兵士たちの軍服や帽子、バッグの実物が展示されていました。

寝室で使われていたベッドをそのまま無造作にパネル置き場にしています。
写真は写っている人の服装から見て南北戦争時代でしょう。

この写真をよく見てください。
なんと手すりがありません。

最初からなかったというわけではなく、さらによく見ると劣化して
落ちてしまったという感じです。

南北戦争終了後しばらく使われず放置され、荒れていた時期に
わざわざ写真を撮った人がいたようですね。

ベッドには上段下段ともに所有者の名前がペンキでしっかり書かれています。
ちなみに上段がカルロ・アンドレオリ、下がティモシー・J・バーンさんです

兵士の居住区を「バラックスルーム」と称したようですね。
ここで兵士たちがどう過ごしたかが描かれています。
ベッドが広いので上の段でトランプに興じたりしていたんですね。

上の階から下の広場を見下ろしたところ。
第二次世界大戦の時にはここは日本軍の襲撃を防ぐ重要なポイントとして強化され、
各ケースメートは完璧に塞がれていました。

1948年頃の写真を見ると、それがわかります。

第二次世界大戦中、ここにはアメリカ陸軍砲兵隊が駐留していました。

さて、この時には時間があったので、屋上にも上がってみました。

1926年に建築家協会は、軍事建築遺産として保存することを提案したそうですが、
資金難で計画は頓挫し、1930年代、ゴールデンゲートブリッジを作ることになった時、
今度は工事にも支障があるということで撤去されそうになってしまいました。

要塞の真上に橋をかけることになったのですから当然です。

GGブリッジの主任設計者であるジョセフ・シュトラウスは、
このことを受け、要塞を壊さなくてもいい方法を目指しました。

漢です。

シュトラウス氏は、

「フォートポイントに今や軍事的価値はないが、芸術的、歴史的な価値はある。
国家のモニュメントとして保存され、復元されるべきだ」

と述べ、設計をやりなおしたのです。

シュトラウス氏の苦心がよくわかる、橋と建物の位置関係をご覧ください。

要塞がちょうどブリッジを支えるアーチの南のアプローチの真下に位置するように
設計されているのがお分かりでしょうか。

シュトラウス氏の苦心の設計を表すもう一枚の写真。
このあつらえたようなカーブとそこにちょうどはまり込む形で
存在する要塞のバランスをご覧ください。

 

ちなみにゴールデンゲートブリッジの工事中、ここフォートポイントは

工事関係者の車の駐車場になっていたようです。

この屋上階は「バーベット・ティアー」(barbette tier)
と呼ばれ、大砲のマウントが並んでいました。

許可を受けた専門の砲手だけがここから手すり壁越しに
砲撃することを許されていたということです。

その理由。

これが手すりの外側なのですが、安全上の理由でここが分厚い
(7フィート2インチ)ため、下手な人には撃たせられなかったのです。

かつてはこの砲座の全てにキャノンが乗っていました。

しかし、バッテリーと呼ばれる砲台があったのはこの屋上だけではもちろんありません。

第二次世界大戦が終わってから、本格的にここを保存する動きとなり、
1970年10月16日、リチャード・ニクソン大統領は、

Fort Point National Historic Site

を作成する法案に署名しました。

現在の状態になる前に、大々的な保存&復元工事が行われ、
それが終わったのは2005年のことです。

わたしはその前にサンフランシスコに住んでいて、ずっと毎年
この近くまでやってきていたのですが、ずっと工事をしていて
近寄ることもできなかった記憶があります。

フォートポイントの灯台です。
今は稼働していないと思われます。

かつてはこんな風に大砲の砲列が太平洋とサンフランシスコ湾の入り口に向けて
睨みをきかせていました。

結局この要塞から、実際の敵に向かって砲撃が行われたことは
一度もありませんでした。

ただサンフランシスコは1906年に巨大地震に見舞われ、その時に
ここでも壁の一部が崩れたりして被害も出たようです。

この要塞の海側に面した構造がこのようになっているのは、
海岸線にカーブを揃えて砲弾が等しく届くようにしたからだと思われます。

外から見ることしかできないこの部屋は、三つの区画を持つ牢屋だそうです。

勤務中に規則に違反した兵隊を収監するために使われ、
真ん中は独房となっていたということです。

螺旋階段を上から見たところ。
できるだけ外側を歩かないと階段が狭く、手すりもないので非常に危険ですが、
造形的に確かにシュトラウス氏がいうようにこれは「芸術」というものでしょう。

この歴史的な建築物を残すために建築家として大変な決断をしてくれた
シュトラウス氏に、後世のものはすべからく感謝すべし、ということを述べて
フォートポイントシリーズを終了します。

 

終わり。

 

 

 

 

 

 


東京音楽隊第57回定例演奏会 @ すみだトリフォニーホール

2017-12-17 | 音楽

週末の夜、海上自衛隊東京音楽隊のコンサートに行ってきました。
東京音楽隊は定期演奏会の他年間120回くらいの演奏会を行っていて、
この日もそのうちの一つ「定例演奏会」。
この時期の定例演奏会はクリスマスコンサートと毎年決まっているようです。

ステージには隊員が皆で飾り付けをしたというツリーが。

確かこのバナーはブルーだったと記憶するのですが・・。
やっぱりiPhoneの写真は調整できないのでダメですね。

クリスマスツリーも近くで撮ろうとしたのですが、ちょうどその時
開始を告げるアナウンスがあり、慌てて階段を最上階まで駆け上りました。


♪ ゴッドスピード S.メリロ

Godspeed! By Stephen Melillo

 

GODSPEED、と聞くと、わたしは「アンチェインド・メロディ」という曲の

I need your love

I need your love

Godspeed your love to me

というサビ部分の歌詞を思い出します。

「仮面ライダーカブト・ゴッドスピードラブ」という映画のタイトルや、
歌詞サイトなどでは「GOD SPEED」と切ってありますが、一つの単語で

「GODSPEED」

意味は古語で「幸運・安全・成功の祈願」。
作曲者のメリロはこの言葉を私生活でも頻繁に使用
そのもので旅の道中安全という意味もありますから、当然ながら

「ご安航を」

の意味で使われることもあるでしょう。
海上自衛隊東京音楽隊のコンサートのオープニングにふさわしい曲です。

メリロは1957年生まれのアメリカの作曲家で、このゴッドスピード以来
日本の吹奏楽シーンで大変人気が出ました。
面白いことに、彼のウィキペディアは日本語にはありますが英語では存在しません。

8分の7拍子のスピード感のある導入部には変拍子オタクの血が思わず騒ぎます。

ところで、このメリルという作曲家のHPで、

「 USSインディアナポリスに敬礼」

という映像を見つけたので貼っておきます。

Forever Strong, A Salute to the USS Indianapolis from Stephen Melillo on Vimeo.

「ゴッドスピード」と曲調が全く一緒な気がするのはわたしだけ?

♪ きらきら星変奏曲 天野正道編曲

おそらく「きらきら星」=クリスマス、みたいなイメージで選択されたと思うのですが、
もともとモーツァルトの「きらきら星変奏曲」は星とは全く関係ありません。

「トィンクル、トィンクル、リトルスター」

というきらきら星としての歌詞がこの曲に当てられたのは1805年、
モーツァルトが亡くなってからのことになります。
もともとこの曲は、

「ああ、お母さん、あなたに申しましょう」"Ah, vous dirai-je, maman" 

という子供の歌を題材にモーツァルトが速度や調、曲調を変化させて繰り返していく
変奏曲という形式のピアノ曲として作曲したものです。

きらきら星そのものに版権?はないので、これをヴァリエーションにすることは
コロンブスの卵的な発想だなと思いました。

天野正道は1957年生まれの作曲家で、「進撃の巨人」「シンゴジラ」の
吹奏楽アレンジなども行っています。

この「変奏」が、例えば代理コードを使ったり、リズムをラテン風、行進曲風にする、
というような「今風の」ものであるところが、この曲のポイントです。

 

♪ クリスマス・シーン 歌劇「ラ・ボエーム」より G.プッチーニ

Christmas Scene from The Opera YDAP-A05

ラ・ボエーム、という言葉が何を意味するかご存知だったでしょうか。
「ボヘミアン」、つまりこの歌劇に出てくる芸術家の卵たちのことです。

クリスマスイブに始まるこの歌劇の第二幕は、イブで賑わうパリの街の情景。
貧しくとも夢を失わないボヘミアンたちの日常と恋を描いています。
その吹奏楽版では「ムゼッタのワルツ」のドラマチックな盛り上がりで、
思わず左半身に鳥肌がたつのを感じました。

【衝撃】音楽を聴いて鳥肌が立つ人は「特別な脳」の持ち主であることが判明!

 

♪ 海と涙と私と 木下牧子 やなせたかし

「あんぱんまん」の作者やなせたかしが作詞した、胸が締め付けられるような美しい曲です。
三宅由佳莉三等海曹が素晴らしく抑制の効いた歌唱でしみじみと聴かせてくれました。

とりあえずアップされている動画を全部聞きましたが、この男声合唱が
音質、演奏、画像の見やすさなどを総合判断して一番いいと思いました。

もちろんこの日の演奏がアップされたら、間違いなくそれがベストでしょう。

この曲を聴いていると、やなせ氏が95歳の死の直前に言ったという

「まだ死にたくねえよ。
面白いところへ来たのに、俺はなんで死ななくちゃいけないんだよ」

という衝撃的な言葉をなぜか思い出してしまいました。

 

♪ 富士山〜北斎の版画に触発されて〜真島俊夫

 

演奏が行われたのがすみだトリフォニーホール。
墨田区の生んだ世界の偉人、葛飾北斎を記念して

「すみだ北斎美術館」

が去年オープンしたことにちなんで選ばれた曲だそうです。

真島俊夫氏は昨年惜しくも逝去されましたが、その作品は
吹奏楽シーンで確固たる不動の人気をえて今日も演奏され続けています。

この「富士山」は、和太鼓や拍子木のリズムで和旋律を使い、
北斎の版画、すなわち富嶽百景をイメージしています。

この動画でいうと4:40から始まるホルンのテーマ、
(ホルントップの川上一曹が演奏)

♪ラドレ〜ミドシド〜 ラドレ〜ミドレミ〜
ミソラ〜ソミレド〜ラ〜 ラドレ〜ミドシド〜(固定ド)

というなんとも心憎い旋律がクライマックスで打楽器を伴って壮大に戻ってくる、
誠に名曲だと思います。

この「美味しい」部分までいかにだれずに緊張をキープできるかが
指揮者の腕の見せどころ。
くるぞくるぞ、と思っていて『きたー!』が思い通りのものだった場合、
ほぼ確実にこれも鳥肌がたちます。

この日2回目の鳥肌、いただきました。


♪ ハレルヤ! バンドとゴスペルコーラスのための ヘンデル

 

第二部の始まりは、これは楽しい、ゴスペルハレルヤ。
このバージョンは、歌なしで行われることもあるようですが、
今回は三宅三曹とこの日司会を務めたハープの荒木美佳三曹、
そして男性ボーカル(多分『はしだて』で歌っていた人)の3人が
ゴスペルのリズムでコーラスしました。

ちなみに普通にアメリカのゴスペルチャーチではハレルヤを
このように歌います。

みなさん重量級ですね・・・。

Howard Gospel Choir - "Hallelujah! - From Handel's Messiah: A Soulful Celebration"

こちらはアクション多め。
宗派にもよりますが(笑)こういうのが割と普通です。

 

「世界の約束」「人生のメリーゴーランド」ハウルの動く城より 久石譲

 

宮崎アニメ「ハウルの動く城」より二曲です。
安定のジブリメロディ。

「世界の約束」は倍賞千恵子の歌のイメージが強いので、
ここで三宅三曹の歌があってもいいかなと思ったのですが、
吹奏楽アレンジのまま、「人生のメリーゴーランド」に続きました。

好きなんですよねーどちらも。
もしかしたらジブリの曲で一番好きかもしれない。

♪ ビューティフル・ネーム タケカワユキヒデ

クリス・ハート - 「ビューティフル・ネーム」

1979年にゴダイゴがリリースした曲で、1979年の『国際児童年』協賛歌でした。
今日は参考動画にクリス・ハートというサンフランシスコ出身の
アフリカ系日本人歌手の歌をご紹介します。(ただし途中まで)

この曲を三宅三曹が歌いました。
キイを1音くらい下げたほうが良かったと思います。


♪ マイ・フェイバリット・シングス R.ロジャース

〔熱帯JAZZ楽団吹奏楽アレンジ〕

クリスマスの夜には「私の好きなもの」という歌詞がマッチしますが、
最初にこの曲をクリスマスソングとして歌ったのはバーブラストライサンドだそうです。

 

ご存知「サウンド・オブ・ミュージック」の挿入歌ですが、
コルトレーンの名演をはじめ、名だたるジャズミュージシャンがこの曲で
インプロヴァイズを行ってきました。 

この日、満を持して東京音楽隊がぶちかましたこのジャズバージョン、
トランペットに始まり、4本のサックスのソリなど、息詰まるソロが展開しましたが、
わたしが大いにショックを受けたのはピアノソロです。

実はその前、電子ピアノを弾いている奏者にわたしは注目していました。
彼女は遠目に見ても書かれた譜をみてその通り弾いているのではなく
明らかにコードネームを見て弾いていると思われたからです。

コードプレイはジャズピア二ストには基本ですが、クラシック出身の人には
アドリブと同じく超えられない壁であることが多いのです。

彼女の弾き方は明らかにそれを乗り越えたか、あるいは最初から
そっち出身か、と思えるもので、他の楽器で入隊したけれど、
ジャズピアノを趣味でしかもかなりやってきた人なのかな、と思っていました。

この曲でで初めてアコースティックピアノの前に座った彼女が
HIiromi(上原ひろみ)ばりのインプロヴィゼーションを始めた瞬間、
わたしは自分のの観察がほぼ正しかったことを知りました。

ただし、彼女、兒玉苑香二等海士は他の楽器で入った人ではなく、
なんと今年ピアノで入隊した二人目のピアニストだったのです。

経歴によると、歌手の中川麻里子士長と同じ愛知県立芸大の作曲科卒、
ピアノ科ではないだろうという予想も当たりました。

街角ネズミの長い夜 CHAMELEON

学生バンドで演奏している動画が見つかりました。

なお、彼女は2019年に行われる『いきいき茨城ゆめ国体』のイメージソング
『そして未来へ』の作詞、作曲を担当したということです。
彼女の参加によって東京音楽隊の演奏を聞くのが一層楽しみになってきますね。

樋口隊長はパーカッショニストとして演奏しつつ指揮を行いました。

吹奏楽の名門である駒澤大学で打楽器奏者であった樋口隊長、
常々その指揮ぶりにはパーカッシブなキレの良さ、エッジを感じるのですが、
吹奏楽の指揮者が打楽器奏者であることは、指揮者に求められるカリスマ性にも
大いに寄与しているのではないかとふと考えた次第です。

その時には激しく、時にはエレガントな後ろ姿には注目せずにはいられません。

 

♪ 美女と野獣 アラン・メンケン

Celine Dion & Peabo Bryson - Beauty And The Beast (HQ Official Music Video)

ご存知、ディズニー映画の主題歌です。
もうこれはこの日すみだトリフォニーにいて聴けた人だけの至福というべき時間でした。

パイプオルガンの演奏台のあるところ、バルコニー状のステージに、
「5分で早変わりして」夏の白い制服に着替えてきた三宅三曹と
上下を純白の第二種軍装(ごめんねー違うのはわかってるけどこう言いたいの)
に着替えた男性歌手(多分”はしだて”で『蕾』を歌った人)とでそれはそれは美しく、
切なく、涙が出るほど清冽なデュエットを聴かせてくれたのです。

二人が歩み寄って、向かい合い、最後の「Beauty and the beast」を歌い終わった時、
なぜか心臓がドキドキしてしまったのはわたしだけだったでしょうか。

♪クリスマスキャロル・ファンタジー 星出尚志

陸上自衛隊第1音楽隊 第18回クリスマスチャリティコンサート

陸自の演奏があったので貼っておきます。

「神の御子は今宵しも」「 もろびとこぞりて」「まきびと羊を」
「あめには栄え」「もみの木」

など、思いつく限り?のおなじみの曲が登場し、最後もう一度「神の御子は」で終わります。
コードやリズムが凝っているので、なかなか新鮮に聴けるアレンジです。

♪ ブラームス ワルツ 第15番 変イ長調 Op.39-15

ジャズピア二ストの出現に衝撃を受けたこの日のステージですが、

クラシックのピアニスト太田佐和子二曹がソロで弾きました。

昔これを聴いた時「お姫様の曲だなあ」と思ったものですが、
優雅なワルツはまさにお姫様のスカートがくるくると回る様子を想起させます。

♪ 行進曲「軍艦」

海上自衛隊のコンサートでは最後に必ずこの曲をすることになっています。

が、この日、樋口隊長が何度目かになる(笑)指を一本立てて見せる仕草に続いて
いつも通り始まった「軍艦」。

音楽まつりでこの曲を歌付きで演奏したことを、激賞し絶賛したわたしです。
特に「海行かば」の部分に託す特別な思いについて熱く語ってみたわけですが、
まるでその思いを汲んでもらったようなサプライズが待っていました。


「海行かば」の始まる直前に三宅三曹と川上一曹が正帽着用で登場し、
男女のデュエットでその続きを歌ってくれたのです。


音楽まつりの時にも「海行かば」の後の部分でパブロフ犬並みに
必ず涙が出て困る、と書いたものですが、この日もきっちりそうなりました。

それだけではなく、その後オルガンのテラスに白い制服の管打一個小隊が現れ、
ファンファーレ風に最後の部分を演奏するというだめ押しつき。


何が感激するといって、軍艦をルーチンではなくこれほど大切に、
思い入れを持って演奏し聴かせてくれるというその心ですね。

音楽まつりに続いて、そのことを強くわたしは感じましたし、何より、
わたしの周りにいたオールドネイビーの諸紳士がたの感激は如何ばかりであったでしょう。

帰りにホールの外に出ると、オリジナルカレンダーを配っていました。
わたしも一つ持って帰りましたが、山のように抱えている人もいました。


というわけでその魅力と実力に魅了された素晴らしい演奏会。
この日も心から満足して帰路につきました。


この日の参加にご配慮をいただきました皆様方に心から感謝を申し上げます。
どうもありがとうございました。

 

 

 


キャノンボールからミサイルへ〜フォートポイント遺跡 サンフランシスコ

2017-12-16 | アメリカ

サンフランシスコはゴールデンゲートブリッジの袂にあるフォートポイント。
前回からサンフランシスコ防衛の最重要地であった要塞についてお話ししています。

前回にも書いたように、フォートには「出撃路」と呼ばれる出入口が一つしかありません。

「出撃」だけで帰還はスルーしているあたり、いかにも要塞です。

その出撃路の扉らしきものが内部に飾ってありました。
経年劣化したものを70年代から80年代の階層の際に取り替えたのでしょう。
扉の表面は補強のために鋲が無数に穿たれています。

これが要塞の図です。
海に面した三面に砲台が張り巡らされ、
陸側となる画面下部分にこの出撃路があると御考えください。

かつてはこの陸側部分に兵舎など居住区がありました。
現在はかつての姿を再現したり、資料を展示する部屋に使われています。

要塞が健在だった頃の武器関係のものが実物展示されています。

左【実弾】「ソリッドショット」Solid Shotとされています。

   砲郭から海上の敵船を狙ったもので、熟練の砲手は、
   海面や地面をバウンドさせて目標に当てることができました。

中【キャニスター】鉄球とおがくずが詰められたブリキのシリンダーです。
   筒の一方は木製のプラグで留められ、反対側は折りたたんで密封されました。 

右【摩擦火管】(フリクション・プライマー) 
   大砲のベントに発砲時挿入することで、火薬のカートリッジに点火するものです。

【グレープ・ショット】  

以前「コンスティチューション」の武器についてお話しした時に
この名前の砲弾について書いたことがありますが、
もともと帆走軍艦の索具類破壊と人員殺傷を目的に考案された武器です。

左の縦型グレープショットは9個の鉄球を内臓しており、
着弾と同時にこれらが飛散してダメージを与えます。

コロンビヤード砲やロッドマン砲の砲弾より大きな気がします。

「フィリングルーム」というのは、砲弾に火薬を仕込む部屋。
それらの作業に使われた道具が展示してあります。
弾倉で火薬を装填するために運ぶツールなどです。

丸い砲弾は動かないよう台座に乗せて、オカモチのような
取っ手付きのケースに入れて一つずつ運搬します。

火薬の樽は4階建てのラックに積んでいます。
樽の重さは相当なものになったと思うのですが、一番上の段のものを
どうやって降ろしたのか、気になります。

倉庫の鍵は司令官のポストにある者が管理をしていました。
ここでの仕事は基本士官が受け持ち、有能な下士官がその下で仕事を支えました。
軍曹クラスの任務は、倉庫の重点やヒューズの調達などです。

弾薬庫で最も重要なことは一にも二にも換気。
通気性がよく、湿度が少なく、清潔であることが求められました。

サンフランシスコ湾沿いに建っている要塞ながら、
サンフランシスコの特性として年中気温が低くて温度差が少なく、
空気が湿気ることはまずありません。

弾薬庫で仕事が行われている様子を描いたものです。
高いとことに立って偉そうにしているのが士官ですね。

少しわかりにくいですが、庫内はもうもうと煙っています。

弾薬庫はいわば要塞の心臓部とでもいうべき場所でした。
セキュリティも安全管理も厳密に行われなくてはいけません。
不注意による火花の発火、敵の「ホットショット」(熱した砲弾)を受けようものなら
要塞全体の破壊につながります。

そこで、重量があり燃えにくい樫の木が扉や窓に使われ、
通路と弾薬庫を隔てる通路は二重構造の壁になっていました。

弾薬庫は三箇所に分散させ、さらにそれぞれを6つの区画に分け、
リスク分散をした上でそれぞれを厳重に施錠して管理しました。

ここにある飛翔体の正体はわかりませんが、横の説明には

「キャノンボールからミサイルへ」

として、

「長年の間に、古今東西の軍の指導者たちはより強力な武器を創造しようと苦心を重ねてきました。
石の球が鉄球になり、そのパワーを強大にするために工夫が凝らされ、
その結果ぶどう弾やキャニスター、ホットショット、バーショット、
そしてチェーンショットなどが生み出されました。

同時に火薬にも開発が加えられ、それに従って破壊力が増してきます。

1880年代の後半、サンフランシスコの防衛は、それまでの先込め式、
(マズルローディング、前装式という)からここにあるような巨大な砲弾、
25マイルの飛翔距離を保つものに置き換わってきます。

それらの砲台は鉄筋コンクリート性でサンフランシスコの丘陵を生かして設置されました。
(去年お伝えしたこの地域に点在する砲台の数々です)

好ましからざる訪問者が湾内に侵入してきたときに1発お見舞いする、
という当初の目的でしたが、48年間何も起こらなかったので、
1946年にここを防衛するサービスは廃止されました。

1959年1月、カリフォルニアのフォートバリーに、陸軍の対空部隊が駐留し、
1974年にはナイキミサイルがアメリカの対空防衛に採用されるようになりました。」

と書いてありました。

フォートポイントを建造した業者の紹介もされていました。
右下のおじさんが CEOのナグリー氏である模様。

建築にあたっては、現地で調達できる建設資材が限られていたため、
中国など遠方から材料となる花崗岩を輸入することになり、
約800万個ものレンガは要塞の建設現場にほど近い工場で制作されました。

しかし、工事の終了と同時に、フォート・ポイントは改修作業が必要になります。
その理由は、南北戦争の東海岸での戦いにおいて、 石造要塞は
新型の施条砲での攻撃を防ぎきれないことが証明されてしまったのです。

1870年代以降には、南東部の急崖に位置するバッテリー・イースト防塁が、
要塞の岬先端部での防御力増強を担いました。

当時ここに勤務していた兵士の軍服と国旗、カリフォルニアの旗がなぜか。

今は絶滅してしまったアメリカングリズリーがあしらわれた
カリフォルニア州旗は、南北戦争の頃にはまだなく、
制定されたのは熊が絶滅した頃とされる1911年のことです。

兵士たちが私物を入れていたチェストには、制服やノート、歯ブラシなどが納めてあります。

「兵士の給料」とあるのは、南北戦争の1861年頃、
兵士がどういう手当をもらっていたかが示されています。

戦争前には例えば月13ドルの給料が戦時中は16ドルまで上がり、
戦争が終わるとまた13ドルに戻されたりしたそうです。
例えばある兵士の実際の天引きの内訳は、

洗濯代 1ドル

食費 3ドル

タバコファンド1ドル

弾丸紛失  50セント

装備紛失 50セント

軍法廷罰金 12セント

家族控除 12セント

装備紛失 2ドル56セント

床屋 50セント 洋服屋 50セント 

などなど。
軍法廷の罰金が12セントって、何をやったんだこの人は・・・。

肩にモールがついたなかなか立派な制服ですが、士官ではなく
下士官ではないかと思われます。

生活の場でもあったフォート・ポイントでの憩いのひととき。
膝にボードを置いてチェスに興じています。

弾薬庫を出ると、螺旋式の階段で上に上るようになっています。
弾薬庫は階段の近くに作られ、宿舎である二階と三階からすぐに
駆けつけられるようになっていました。

ご覧になればお分かりかと思いますが、この階段ものすごく怖いです。

手すりはありませんし、段が護衛艦の中並みに小さいので、
降りるときにはそろそろと壁伝いに歩きました。

 

砲郭の内部、ここから砲口を突き出します。
要塞として使われていた頃には、砲口口は蝶番のある扉を開け閉めしましたが、
その後レンガとセメントで塞がれていたようです。

真ん中に穴が空いているのは経年劣化で剥落してしまったのでしょう。

そこからカメラを持った手を突き出して外部を撮影してみました。
なんと、びっくり!外側は自然の岩に囲まれています。
もしかしたら、砲口を出すために岩を削ったのかもしれません。

海上の船舶からもし要塞を武器で狙ったとしても、自然の岩が
シールドとなるように作られたということでしょうか。

今ではゴールデンゲートブリッジの橋脚がその前に立ちふさがっています。

この砂浜にはよほど物好きでもない限りやってくる人はいないだろう、
と思ったのですが、手前の砂浜には足跡がありますね。

カモメのいい休憩場所らしく、雛がいます。

二階に上がり、回廊をもう一度砲郭の並んだ方向に歩いて行くと、
火薬庫やその上の士官居室の窓が並んでいます。

この棟だけに居住区があり、二階は士官、三階が下士官兵の居住区となっていました。

 

さらに進んで行くと、建物の角部分にこのようなものが・・・。
なんの説明もありませんでしたが、これは明らかにトイレの跡。
トイレの遺跡です。

個室はもちろん、全く部屋として仕切られてもいないわけですが、
二階にあるということはこれでも士官用だったのでしょう。

外部の一般人が決して入ってこない上、サンフランシスコは
年じゅう寒いといっても雪が降ったり凍えることはないので、
こんなトイレでも大丈夫だったようです。


続く。


バッファロー大隊(おまけ 中華系米人の日米離反工作)〜フォート・ポイント

2017-12-14 | 軍艦

サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ下に今もある
要塞、フォートポイントについてお話ししています。

南北戦争が始まる頃作られたこの要塞は約2メートルの厚さの壁、
そして何層もの砲郭を備え、沿岸地域防衛を目的に設置されました。

当時、東海岸には30を超える要塞が存在しましたが、
フォート・ポイントは西海岸唯一の要塞でした。

1861年、戦争が迫る頃、陸軍は最初の大砲を要塞の砲台に設置し、
太平洋司令部の司令官であったアルバート・ジョンストン大佐
要塞の最初の部隊を指揮しました。


そしてその後南北戦争開戦。
1865年8月、
南部連合軍の奇襲船「シェナンドー」号は、
サンフランシスコ攻撃のため太平洋を北上していましたが、
攻撃に向かう航海の途中で終戦となっています。

もし戦争終結がもう少し遅ければ、フォートポイントの兵士たちは
「シェナンドー」号を相手に月月火水木金金な訓練の成果を
発揮していたことになります。

もし戦闘になっていればどんな戦いが繰り広げられたのか、
不謹慎ですが見てみたかった気もしますね。

戦わず終戦を迎えた兵士たちはその知らせを受けたとき
やはりホッとしただけでしょうか。
ちょっとくらいは日頃の訓練の成果を発揮してみたかった、
という気持ちはなかったでしょうか。


さて、今日はその時代の兵士の生活についてお送りします。

冒頭写真は1900年に行われた兵士野球大会の勝者のようですね。
メンバーを見ると、アフリカ系の兵士が混じっているのがわかります。

「バッファロー大隊」という黒人ばかりの部隊の名をご存知でしょうか。

アフリカ系には運動能力の秀でた者が多いとよく言われますが、
彼らのずば抜けた身体能力は視力にも及びます。

米西戦争の後1904年、米
陸軍がライフルでの射撃能力No. 1を決めるために
フォート・シェリダンで行った競技会で、1位から3位までの3トップは
全員バッファロー大隊の黒人兵で占められたことがありました。

ここに掲げられた写真はその時の優秀者たちのものです。

砲術軍曹だったホレス・ビビンスはその中でも特に優れた射撃手で、
ライフル部門とリボルバー部門で1890年から1910年までの間、
高いスコアでトップの座にあったということです。

また彼は1894年には歴代最高記録をマークし、1897年には1年の間に
三つの金メダルを獲得するという快挙を成し遂げました。

写真に「Marksmanship」とありますが、「射撃能力」を意味します。

「ファースト・ブラック・オフィサー」と書かれている人物は

ヘンリー・オシアン・フリッパー(Henry O. Flipper1856-1940)。

彼は黒人として初めてウェストポイントに入学し、初めて士官になりました。

卒業年度は1877年で、これに続きジョン・ハンクス・アレクサンダー1887年、
チャールズ・ヤングは1889年と士官学校を卒業して任官することになり、
また1890年台には5人の黒人牧師が士官として従軍していました。

牧師には教育を受けた人物が充てられ、神職者としての勤めの他に、
黒人兵士たち基礎的な(読み書きなどの)教育を施すのも彼らの役目でした。

国が黒人士官の養成に着手したのは、バッファロー大隊のような
黒人だけの「分離部隊」を結成し運営するのに黒人指揮官が必要となったからです。

軍隊のような大きな組織ともなると、白人の監督が上に立つだけで
黒人はどれほど優秀でも昇進することができないということになると
部隊の士気は下がり、優秀な人材を集めにくくなるという理由によるものでした。


右の、映画化されたらモーガン・フリーマンが演じること間違いなしの

アレン・アレンズワース(Allen Allensworth1842〜1910)中佐

も、当時希少だった黒人佐官です。

若い頃のアレンズワース

アレンズワースは奴隷として生まれ、南北戦争の時に脱走して
連合軍の兵士になったと言いますから
ますます映画化決定の波乱万丈な人生です。

ケンタッキーに生まれ、メンフィスで「出荷」されたアレンズワースは、
ルイジアナで競馬の騎手をしていましたが、南北戦争が始まり、現地にきた
第44イリノイ志願歩兵大隊の兵士と接触したのがきっかけで、
雇い先から逃げて大隊の病院隊にかくまってもらいます。

大隊の看護兵として働いているうちに、外科医に気に入られ引き取ってもらうという
幸運を得た彼は、その後外科医の協力で海軍に入隊し、ガンボート乗組となります。

その後海軍を退役して牧師の仕事をしていた彼を、陸軍が
バッファロー大隊付きの従軍牧師として採用し、そのことで彼は
最終的に大佐の地位にまで昇進することができました。


左上は

ジョン・ハンクス・アレクサンダー(Johon Hanks Alexander

黒人で初めてアメリカ正規軍の指揮官となった人物で、
さらに史上二人目のアフリカ系ウェストポイント卒業者です。

数学と英語に優れていた彼の成績は64人中32位。
学校では優れたボクシングの選手でもありました。
卒業後はバッファロー大隊で初めて黒人として指揮官を務めました。

左下、

チャールズ・ヤング( Charles Young1864~1922)

はアレクサンダーに次いで史上3人目にウェストポイントを卒業しました。
なお、彼は黒人で初めて大佐のランクまで昇進した人物です。

地域トップの成績で入校した(2位だったが1位が辞退したので繰り上がり)
ヤングですが、ウェストポイントではひどい差別の洗礼を受けています。

まず、入学早々「The Lord Of Coal」(石炭卿)とあだ名をつけられ、
食堂では白人の候補生が

「黒人が取った後の食べ物など食べられない」

と騒いだため、彼はその後皆が取り終わるまで待つことになりました。

またウェストポイントでは互いをラストネームで呼び合うのが慣習ですが、
ヤングだけは周りから「ミスター・ヤング」と呼ばれていたそうです。

敵意をむき出しにしてこない「善意の」同級生たちであっても、
彼に対する態度は遠慮がちな、腫れ物に触るようなものにとどまり、
したがってアナポリス在学中の彼は孤独に悩まされました。

彼の同級生の一人は、ウェストポイントでの彼はドイツ人の下働きと会話して、
辛うじて人付き合いを維持していた、
と後年語っています。

ウェストポイント最後の年の5年目にはその状況もかなり改善し、
彼の肌の色を気にせずに付き合う級友も何人か現れたということですが、
彼にとってここでの生活が快適なものになるほどではありませんでした。

任官してから彼は一貫してバッファロー大隊の黒人部隊の指揮官として
任務を遂行しています。


バッファロー大隊がここプリシディオにあったという関係で、
彼は司令官としてジェネラル・グラント・グローブとセコイアという
この地域の国立公園の監督に任命されています。

不思議な人事に思われるかもしれませんが、当時国立公園は軍が管理していたからで、
指揮官としてその能力を評価された彼は
黒人初の監督に任命されたのです。

セコイア国立公園はカリフォルニアのシエラネバダ山脈にあり、
ジェネラル〜の方は、フレズノにあるどちらも古い国立公園です。

 

1901年には、ジョン・E・グリーン Johon. E. Green

という下士官が黒人として初めて士官に昇進しています。

ベンジャミン・O・デイビスBenjamin. O. Davis(1912-2002)

デイビスについては、黒人ばかりの飛行部隊「タスキギー・エアメン」を扱った

「レッド・テイルズ」という映画に実名で出てきた関係でお話ししましたが、
黒人として初めて中将となりました。

南北戦争後、黒人の入学を3人許してきたウェストポイントですが、
これ以降それは途絶え、4人目となるデイビスが卒業した時には
チャールズ・ヤングが卒業して実に45年も経過していたのです。

黒人兵士たちは、戦場での戦いとは別に軍の昇進の点でも戦いを余儀なくされました。

すらりと長身で超イケメンの黒人兵。
着ているのは絶滅したアメリカングリズリーの毛皮かもしれません。
彼もまたバッファロー大隊の兵士です。

これは、現地のインディアンたちが黒人兵たちの髪の毛が黒いことから
バッファローに似ているとしてそう呼んでいたのが語源です。
似ていたのは髪の毛の色だけでなく、彼らに取って手強い敵となった黒人兵の
ファイティングスピリットもまたバッファローを想起させるものでした。

この名称が最初に出現したのは1873年、開拓者であり陸軍軍人の妻が
「ザ・ネイションマガジン」に寄稿した手紙です。

すぐにライターやジャーナリストの間にその名称は広がりました。

兵士たちがその名称を自ら使用することはほとんどありませんでしたが、
彼らはそれを大変気に入って、最終的には第10機甲部隊のシンボルになりました。

またフォートポイントの展示室にはこんな紹介もありました。
チャイニーズ・アメリカン、中国系アメリカ人と軍という企画です。

「真珠湾戦争の10年前から中国は日本と戦争をしていました」

ここはこんな出だしで始まります。
その日中戦争に、実はすでにフライング・タイガーとかで
参加し日本と戦っていたのがアメリカなんですけど(嫌味)

あまり考えたことはありませんが、この時、中華系アメリカ人は

「中国の孤立した戦いを支援していました

ということで、何をしたかというと

「お金を集めて資源や鉄がアメリカから日本に輸入されるのを阻止しました」

そして

「アメリカも最後には、なぜ日本が武力で占領した中国の領土
を保持しなければならないのかを知った」

だそうです。
資源国であるアメリカには、資源のない日本の意図がぴんと来なかったけど、
中華系の運動のおかげでそれを知った、ってことですか。

中国戦線でアメリカ軍人に中国風の「わな」を説明している中国軍軍曹。

おそらく現地の中華系がサンフランシスコ市に働きかけて
前回訪問の時にはなかったこのようなコーナーを作ったのでしょう。

そういえば前回来てから今回までの間に何が起こったかというと、
先日謎の急死を遂げた中国系のリー市長が就任したということですかね(棒)


「第二次世界大戦で日本と戦うアメリカに、中華系はこれだけ
協力して手を取り合い一緒に勝利を勝ち取りましたよ!」

という諂った調子で、あるいは

「日本のファシズムと戦うために」

などとアメリカ人のあの戦争を肯定したい心理をくすぐるワードを駆使し、
勧善懲悪の語調でで戦争を語っているこの展示には、
中華街に「慰安婦像」を建てて中国系の市長に先導させ

市の共有物にさせてしまうのと全く類似の「工作の匂い」を感じました。

 

日本人は今回の慰安婦像だけしか見えていないし、知る機会もないですが、
住んでいる、あるいはわたしのように定期的に訪れる人間には、
ただでさえ昔からここで力を持っていた中華系が、行くたびに街を占領していき、
市の太平洋側からは白人系も逃げ出していくのが手に取るようにわかります。

そして、公職に中華系が増えるのと正比例して、ここの展示のような
反日、中国礼賛といった種類のものが少しずつ、少しずつ、
目に見えない速度で増えていっているのを感じます。

リー市長も当局から疑われていたそうですが、公職の中華系は中国共産党と繋がり、
意を受けて日米の離反工作を地道に行なっているという噂を
不自然なこれらの展示が裏付けているようにわたしは感じました。


というわけで正直あまり気分が良くなかったので、展示の内容を三行でかくと、


日本と戦っている中国を中華系アメリカ人はアメリカにいながら支援した

日米が開戦してからはファシズムと戦うアメリカと協力し、一丸となって戦った

蒋介石と宋美齢は悪の枢軸の日本に一貫して戦いを挑んだ正義の人だった

 

続く。

 

 


勇者の肖像〜PTボート バトルシップコーブ

2017-12-13 | 軍艦

PTボートを戦後有名にしたのは、映画「コレヒドール戦記」とともに
のちの米国大統領、ジョン・F・ケネディが船長をつとめ、さらにはその船が
日本の駆逐艦に撃沈されてなおかつ生きて帰ってきたということでしょう。

この一連の物語については以前お話ししましたので今回は割愛します。

PTボートについて各部の詳細が説明されていますので、
今日はこれについて紹介しておこうと思います。

1)40ミリボフォース

スウェーデンのボフォース社が開発した有名な対空銃撃システムです。
ここで見学した「マサチューセッツ」にも「ケネディ」にもあったように、
第二次世界大戦中における最も有名な銃の一つであり、現在でも
いくつかの国ではまだ使用されている名作です。

2)オリコン銃

オリコン20ミリ銃はブローニングよりもレンジが広く、
破壊力があるとして対空銃として重宝されました。

最終的にはボフォース40ミリに置き換えられましたが、
この驚くべき性能の武器は今日でも多くの海外の海軍で使用されています。

3)ブローニングM2重機関銃

現地の説明には『.50 Cal』(フィフティーキャル)とありました。
calはキャリバー、口径を意味します。

「1920年から2008年まで」(このボートができたのが2008年らしい)

戦車や装甲車、トラックやジープなどの車載用銃架、地上戦闘用の三脚架、
対空用の背の高い三脚銃架、連装、または四連装の動力付き対空銃架、
艦船用対空銃架、軽量銃身型の航空機用固定機銃、航空機用旋回機銃架、
動力付き航空機用旋回機銃架など、様々な銃架に載せられ
陸・海・空軍を問わず広く配備されている銃です。

 

4)魚雷

PTボートの主流武器で、最も重量があります。
アメリカのPTボートは三種類の魚雷を搭載しましたが、それは
Mk8、Mk14、そしてのちにはMk13などでした。

 

5)37ミリ機関砲

墜落したPー39が搭載していたこの銃をPTボートに流用したのが始まりで、
より一層強力な火力が、日本の舟艇を攻撃するのに役立ちました。

終戦前には全てのPTボートに最初からこの銃が搭載されていました。
この写真の人はどうやら

「自分がこのアイデアを思いついたのに、
今は一部の作家(ペンシルプッシャー)がそれでお金を儲けている」

と言っているような・・。

ここんとこどうも翻訳に自信がないのでどなたかお分かりの方教えてください。

7)レーダー/IFF

 

PTボートのオペレーションは基本的に夜行われることが多く、
そのためレーダーが大きな役割を果たしました。

ターゲット追尾、ナビゲーション。
しかしながら、それは慎重に使用されなければ、敵のRDF
(ラジオディレクションファインダー、探知機)に探知される恐れがありました。

PTボートはさらにIFF(Identification Friend or Foe、敵味方認識)を搭載しており、
これで同士討ちを防ぐことにしていました。

(んが、前にも『フレンドリーファイア』について書いたように、実際には
同士討ちで戦没したPTボートは何隻かあったようです。合掌)


6)パッカード船舶エンジン

アメリカ軍のPTボートは、パッカードpdk4M−2500エンジンを搭載していました。
空冷式のガソリンパワーエンジンです。

パッカードは今は亡きアメリカの自動車製造会社です。
高級車の代名詞となったパッカード車は、日本でも皇室、華族の御用達になるほどで、
一時は一世を風靡しましたが、大恐慌の後凋落の一途を辿り、戦後消滅するに至りました。

戦争中は自動車業界が一斉に軍用エンジンを手がけたこともあり、パッカードも
大恐慌で体力が落ちていたところ、これ幸いと仕事を引き受けたのでしょう。


余談ですが、ソ連のヨシフ・スターリンがこのパッカードの大ファンだったため、
(繰り返しますが、ハリウッド俳優や富豪が好む高級車です)
ルーズベルト大統領は対枢軸国(つまり日独伊ですね)戦略上機嫌をとるために
大型パッカードのプレス型をソ連に売却させるということをしています。

このためソ連ではパッカードそっくりの高級車が生産されるようになったとか。

1945年:

さて。第二次世界大戦は終わりました。
生き残ったPTボートは全て破棄処分になってしまいました(T_T)

写真は海上で焼却されるPTボートの最後の姿です。

1960年:PTボーター、ジェームズ・ニューベリーがPTボート同期会を結成  
   のみならず、そのための会社を作ってしまう

幸い、元PTボート関係者の中に、財力と実行力があり、PTボートをこよなく愛する
ニューベリーのような人物がいたことで、歴史の片隅に忘れ去られようとしていた
PTボートのことが世間の注目を集めることになりました。

戦後の1946年、彼は海軍博物館を含む公式の海軍の情報源が、
PTボートに関する情報をほとんど保持していないことを憂えて、
その年のクリスマスにかつての仲間にクリスマスカードを出すところからはじめ、
PTボーターの組織を結成することから始めたということです。


今日わたしたちがほとんどかつてのままの姿のPTボートを見ることができるのも、
おそらくはこの人がいたからこそです。

1967年:マサチューセッツ出身のトーマス・ケリーさん(だれ?)が
   ベトナム戦争でのガンボートでの戦闘を指揮したとかで叙勲される

詳細な説明がないのでこれは想像ですが、このケリー氏は、おそらく
かつてのPTボーター、若い時に乗り込んでいた経験を生かし、
ベトナム戦争では昔取った杵柄(違うかな)で類似のガンボートを指揮し、
その結果戦果をあげたということではないかと思われます。

1976年:ニューベリーの作ったPTボート社がヒギンズ型のPT796を修復
   バトルシップコーブに展示される


1985年:PTボート社、今度はエルコ型のPT617を修復

このPTボート社というのが、先ほどのニューベリー氏の作った会社です。
調べてみたところ、この会社は未だに存在しており、非営利組織として、
PTボートの偉業を後世に伝える使命を持った人々によって運営されています。

2001年:同時多発テロ発生後、沿岸警備隊のパトロールボートが
   重武装してアメリカ沿岸の警備に当たった

2003年:ナショナルジオグラフィックの撮影隊が、海底に沈んだ
    PTボート109の撮影に成功
    他ならぬJFKが艇長であったPTボートである

これは驚きました。
JFKが乗って『天霧』に沈められたPTボートが海底から発見されていたとは。

The search for PT 109

まあ、この間参加した海底の潜水艦探査の時のお話にも出ていましたが、

「沈んでいる船そのものの価値」
 
のあるなしでいうと、ただのPTボートではここまで探してもらえたかどうか。
やはりJFKが乗っていたということだけで、プライオリティが高かったということです。

冒頭のケネディ中尉も言ってますね。

「どうして僕が戦争の英雄になれたかって?
そりゃ僕の船が撃沈されたからさ!」


2009年以降:ネイビーシールズのマークVボート特殊任務艇は
   50ノット 

   人体に20Gがかかるため、乗員はあざ、足首捻挫、
   歯を欠損するのは日常茶飯事

   しばしば首と背中のジョイントを骨折する
   

なんてことが書かれているわけですが、これに16人も乗るんですと。
どんなバケモノ、いや鍛えられた屈強の戦士にその栄誉が与えられるのでしょうか。

ていうか首とか背中骨折したらその時点でもう使い物にならないのでは・・・。


「この技術のおかげで僕はオスカーがもらえたのかも」

とパッカード製のエンジンを前に言っている海軍士官姿の俳優は
モスキートフリートの一員だったロバート・モンゴメリー

この人が映画「コレヒドール戦記」の主人公に抜擢されたのは、
彼が当事者、つまり大戦中に他ならぬPTボーターだったからに他なりません。

先日の映画「ペチコート作戦」で「奥様は魔女」の二代めダーリン役だった
ディック・サージャントが少尉役をしていたのを紹介しましたが、
こちらは同番組サマンサ役の女優エリザベス・モンゴメリーのお父さんです。

 

エンジンとオスカーは、はっきりいって直接関係ないですが、
彼が戦死せずに無事に帰って来て映画に出ることができたのも、
優秀なエンジンのおかげだったといえないこともありません。


ところで海軍出身の俳優といえば有名なのが
ダグラス・フェアバンクスJr.

彼は開戦になったので予備士官に志願しました。

1941年にはソ連に物資を送るPQ17船団に加わる第1巡洋艦隊の
巡洋艦「ウィチタ」に乗り組んでいます。

その後、俳優だからというわけではないでしょうが、欺瞞作戦に従事し、
ビーチ・ジャンパーという名前のユニットの作戦隊長を務めました。

サービス画像

この海軍士官姿、さすがは美男俳優でならしただけあって、美しい!

フェアバンクスは戦前、俳優としても第一線の、しかも大富豪でしたが、
海軍軍人としても大変評価されており、この作戦中PTボートに乗り、
あげた功績に対してシルバースター勲章を授与されています。

 

というわけでPTボートシリーズ、小さくとも勇敢で強かったボートの
ヒーローだった人々を紹介して終わります。






平成29年度阪神基地隊年末行事〜「しまかぜ」と「けんりゅう」

2017-12-12 | 自衛隊

平成29年度阪神基地隊の忘年会的イベント年末行事の開始は11時半。
しかし、開門は9時からとなっていました。

この年末行事に伴う重要なイベントとして、艦艇公開があります。
始まりまでの間、ゆっくりと艦艇を見学してもらうのが目的です。

わたしたちは掃海艇「なおしま」の見学を終わって、その後ろの護衛艦
「しまかぜ」に行ってみることにしました。

 「しまかぜ」は初代の「あまつかぜ」に始まり、「たちかぜ」型
(たちかぜ・あさかぜ・さわかぜ)の次級である「はたかぜ」型の2番艦です。

実生活で聞いたことはありませんが多分「かぜ型」と呼ばれているのだろうと思われます。

ちなみに艦番号でいうとこの次の173「こんごう」型からがイージス艦となります。

「はたかぜ」は「ミサイル護衛艦」という種別で、ここでいう「ミサイル」とはつまり
「ターター・システム」を搭載しているということなのですが、
面白いことに現在のミサイルは厳密な意味でのターターではありません。

どういうことかというと、初代「あまつかぜ」は最初にRIM-24ターターを備え、
文字通り「ターターミサイル」搭載でしたが、現在の「はたかぜ」を含む
ミサイル護衛艦が搭載しているのはスタンダードミサイルです。

それにもかかわらず、射撃指揮装置、発射機をセットとしたミサイルシステムは
未だに「ターターシステム」と呼ばれているのだということです。

リスペクトなのか、それとも単に書類上の種別に過ぎないのか・・。

岸壁を歩いていると、ちょうど甲板上でそのミサイルの動的展示が始まっていました。
あっちを向けたりこっちを向けたりだけですが、その異様な動きに人々がどよめいています。

そういえばわたしもミサイル護衛艦の展示は初めて見る気がします。
動かすだけとはいえ、実弾を装填してですから、迫力は満点。

展示はここで終わってしまいましたが、わたしたちも乗艦してみることにしました。

アスロック、ハープーン、短魚雷、シウスと標準的な武装は他と同じですが、
ミサイル護衛艦をその名たらしめているのがこのターターシステムなのです。

ラッタルは二箇所に設けられていたので中央のを登って乗艦。

わたしがラッタルを降りて自衛隊旗に礼をするため右を向いた途端、
そこにいた自衛官たちが「あっ」とばかりに一瞬制止しようとしました。

見学は艦首側からと誘導することになっていたのに、わたしがいきなり
後甲板に行こうとしたように見えたのに違いありません。

しかし艦尾に向かって軽く頭をさげると「なんだ」といった空気が漂いました。
きっとあの瞬間、彼らのなかでわたしは元自衛官認定されていたと思います。

元自衛官じゃなくて単なる自称中尉なんですけどね。

というわけで問題の?ミサイル発射機を見に行きました。
アメリカ海軍がよくやっているシャークペイントに、おそらく当艦の認識信号。

「あれ?さっきとミサイルが違う。下から見たときタコだったよ」

確かにタコですありがとうございます。

「裏側がタコなんじゃない?」

念のため反対側を見ましたが、そんなはずもなく、つまり先ほどの動的展示の後
引っ込んでしまったミサイルの代わりにこれが出てきたということのようです。

動きが終わったら自動的に次のが装填されることになっているんでしょうか。

こちらはアスロックの訓練用ミサイル。(部分です)
訓練用ってことは、打ち上げて海に落ちたら回収にいくんだろうか。

前甲板手前では「しまかぜ」グッズの販売もあり結構賑わっていました。
帽子、タオル、ピンズやパッチなど。

そして後甲板。

CIWSが両舷に一つずつあるというのもよく考えたら初めて見る気がします。

この配置はイージスシステム以前の防御の思想を表すものかもしれません。(知らんけど)
ちなみにイージス艦のファランクスは前後に1基ずつとなっています。

こちら側からは見にくいですが、マストに向こうを向いて薄型の
テレビモニターみたいに設置されているのがミサイルのレーダーと思われます。


ところで、「しまかぜ」の甲板に立って驚いたのはこの眺めでした。

 

 

潜水艦「けんりゅう」です。

こんな至近距離の、しかもこんな角度から潜水艦を見られる機会はそうありません。
「そうりゅう」型独特のX型舵もこんな手に取るように。

あまりに近くなので「けんりゅう」艦体に付着している苔まで確認できます。

 しかも、「けんりゅう」の前には受付のテントが設置されているではないですか。

「あ、普通の人が乗ってってる」

「いいなあ・・・中も見せてもらえるんだ」

もちろんわたしもその点素人ではありませんから、潜水艦の見学をするには
前もって申し込みをし、身元の確かな人の中から抽選で選ばれないと無理、と
よーくわかっております。

あとで基地司令に伺ったところ、とにかく応募倍率がすごかったそうです。
そりゃ潜水艦の中、誰だって見てみたいでしょうさ。

岸壁には自衛官も含め人がいっぱいです。

「前まで行ってみようか」

前に立って眺めていると、「けんりゅう」の乗員が、

「あの小屋は見張りの隊員が入るところです」

と教えてくれました。
呉で「そうりゅう」型潜水艦を見学した時にはここで荷物を預かってもらいました。

この舷門の見張りは24時間休みなく行われます。

「そうりゅう」型の潜水艦の大きな特徴はセイルの付け根のカーブです。

バナーのかかったラッタルの向こうにはちょうどハッチがありますが、
何人かが佇んで、中に入る順番を待っています。

少しの間見ていたのですが、一人が中に姿を消してから次の人が入るまで
たっぷり5分くらいはかかっていたと思います。

それはなんといっても潜水艦の出入りが特殊な方法だからです。
「けんりゅう」の繋留してある岸壁の防波堤には、このように
「潜水艦入リ方」が見学者への説明のためにパネルにしてありました。

写真で見ると大したことはないように思われますが、
実際に降りていくと、外殻が二重構造になっているせいで、
足をかける段が見えないのに不安を感じるでしょう。

遊覧船や客船ではない軍仕様の装備は徹底的にアンタイ・バリアフリーです。

ちょうどハッチの部分には手の形に穴が空いていて、そこを掴みます。

潜水艦見学の前に重々言われることですが、ヒールのある靴などとんでもありません。
先日紹介した「ペチコート作戦」では看護士たちが全員パンプスで乗艦していましたが、
まず潜水艦にやってくるゴムボートにこれはありえませんし、
アメリカの当時の潜水艦のラッタルはそうりゅう型よりずっと作りが大きく、
パンプス以前にあの陸軍のタイトスカートで降りることができるとも思えません。

リアリティがあるようで、実はこの辺は全然ダメだったというお話。

たとえなんとか降りられても、区画を移動するだけでこうですから。

アメリカの潜水艦のハッチはどれもこれより大型だった記憶がありますが、
サンディエゴで見たソ連の潜水艦はこのくらいでした。

説明してくださった自衛官に

「けんりゅう、って特にかっこいい名前ですね」

と常々思っていることを言うと、

「はい、よく言われます!」

この名前の潜水艦の乗員であることの誇りが窺える様子で答えました。

「またこの漢字のロゴがかっこいいじゃないですか」

「これは、NHKのタイトルなんかを書いている書家に依頼したんです」

確かにこの字体は只者ではない。
マークもなかなかの出来ですが、なんとこちらは乗員の作品です。

この後の懇親会で、「けんりゅう」の海曹、先日進水式に立ち会った
「しょうりゅう」の
艤装員の方お二人とお話ししましたが、
この「けんりゅう」のロゴは凝りすぎていてメダルにできなくて困るとか(笑)
そして「しょうりゅう」、こちらはまだマークは鋭意考案中だそうです。

ちょっと笑ってしまうのですが、その理由というのが

「翔龍という名前は実は全く予想外だったので・・・」

どうも関係者の間では別の(あああなんだったか聞いたけど忘れてる〜〜!)
名前がかなり確信的に予想されていたらしいです。

防波堤の潜水艦紹介コーナーパネルより。

呉でもAIPシステムを見せてもらいましたが、AIPすなわち
非大気依存推進システムはこの「そうりゅう」型から搭載されました。

従来のスノーケル(外気を取り込む)航走と、酸素のないところでも
推進システムを稼動できるAIPの併用によって残存能力が向上しました。

スターリングエンジンというのは正式には

ディーゼル・スターリング・エレクトリック方式

といい、AIP、非大気依存で動かせるエンジンのことです。
4番艦の「けんりゅう」はもちろん、先日進水した10番艦
「しょうりゅう」までがこのエンジンを搭載します。

そのあとはどうなるのかといいますと、噂のリチウムイオン電池式。
リチウムイオン電池にすると、高速航行が可能な時間が増えます。

メリットはいくつもありますが、従来の鉛蓄電池と比べて、
水素ガス発生の危険がなく、充電時間が短くなるというのが特に大きな利点です。

すぐそこにX舵をまじまじと眺めることができます。
この舵も「そうりゅう」型から搭載が開始されたものです。

さて、そんなところで見学を終え、時間になったので体育館に向かいました。

本日のメインイベントである餅つきの臼(どうも毎年やるらしい)を後ろに、
阪神基地隊司令、深谷克郎一佐が挨拶をされました。

深谷一佐は昨年の9月から当基地隊司令を務めておられます。

歴代司令官の名前を見ていると、先日の海底に沈んだ潜水艦探査の学会報告会で、
後半の司会をなさった古庄幸一元海幕長、そして現海幕長の村川豊海将も
2009年から10年まで阪神基地隊の司令であったことがわかりました。

23代司令の袴田氏は某防衛団体で存じ上げていますし、それから
以前海軍の食について書いた時に参考にした本の著者で、主計士官だった
瀬間喬氏の名前を発見し、なかなか阪神基地隊司令には縁を感じました。
(こっちが勝手に名前を知っているだけなんですが)

深谷司令はまず阪神基地隊の歴史についてお話されたあと、特に
阪神淡路大震災における当基地の果たした役割について触れ、

「高い割合で何年か以内に確実に起こると言われている南海トラフ地震についても
いつ起こっても対応できるように備えをしたい」

というようなことを述べられました。

前回阪神基地隊の震災対応について書いた時に、少なくともあれ以降、
阪神基地隊の司令を拝命した自衛官はあの震災の時の基地の姿を念頭に、
並々ならぬ覚悟と使命感を持ってこの職に臨むのだろうと思ったものです。

司令は最後に

「本日は艦艇見学に潜水艦も見ていただけるようにしました。
空前絶後の!インスタ映え写真を撮って帰っていただきたいと思います!」

と強調して会場に笑いが起き、懇親会が始まりました。

空自と違うのが海自の宴会のテーブルには必ず海産物が並ぶことです。
手前は実はシーフードサラダなのですが、これが意外なおいしさ。
わたしはほとんどこれで食事を済ませたような感じです。

そして本日の目玉である餅つき大会が行われました。
てっきり基地司令が杵を奮うのだと思っていたのですが、そうではなく、
次々と紹介されて台上で餅つきをするのは全て議員の先生方。

司令は先生方に杵を渡し、餅つきを横で見守る役目です。

この基地のこういった催しに行っても、司令官は会の間中
ひっきりなしに挨拶にやってくる人々に夫人と並んで挨拶をし続けるのが仕事で、
飲み食いをしているのなど見たことがありません。

臼の横にいるのも確か自衛官だったと思います(笑)

舞台上で何人かが餅つきを終わったら、そのあと臼は下に移動し、
やってみたい人が順番に餅つき体験をしていました。

それこそインスタ映えのためにチャレンジした人もいたかもしれません。

TOがどこからともなくもらってきた「つきたてのきな粉餅」。

まだ暖かくて、お米の粒の感触が少し残っているのが
いかにも手でついたお餅という感触。

そういえば杵と臼でついたお餅を食べる経験は初めてだったかもしれません。
大変美味しいものだと感激しました。

 

会場では何人かの自衛官とも話をしましたが「しょうりゅう」の艤装員、
そして「けんりゅう」の乗組員の方との会話は特に面白かったです。

先日進水した「しょうりゅう」の艤装員の仕事は、書類仕事だったり、
先ほども言ったようにマークやロゴを決めることだったり、あるいは
これまでの「そうりゅう型」の実績から導き出した運用上の改善点などを
導入するためのいろいろだったりと、とにかく大変なんだそうです。

今この段階では乗員は集まっておらず、これから決めていくのだとか。

それから、ちょっと驚いたのは一人の方は水上艦出身だったことで、
潜水艦乗りは最初から最後まで潜水艦、という訳ではないということでした。

その方は「水上艦は教育も厳しい」とおっしゃっており、その文化の違いを
教育に生かすこともできるのでそれは決してデメリットではないようです。

教育といえば、その方たちがシーマンだった頃にはとにかく
「昭和の自衛隊」ならではの手が出る足が出るの「教育方針」で、
殴られながら

「ちくしょー、上官になったら部下におんなじことをしてやるう!」

とか思っていたら、時代が変わってしまい、体罰などとんでもない、
という健全な自衛隊になってしまった、とか(笑)

このことを帰りのご挨拶をしにいった時深谷司令に報告?すると、


「潜望鏡一つ取っても、昔は一人で覗き込んでいたのが、今は
皆で画像を見る時代。
運用方法だけでなく教育も全てが変わって当然です」

潜望鏡をを覗き込むという潜水艦にとって象徴的なスタイルが失くなる、
などと、昔の潜水艦乗りに果たして想像できたでしょうか。

たまたま大戦中の潜水艦映画について書いたばかりだったわたしは、
この日訪れた阪神基地隊で、潜水艦を通じて
70年余の時の流れを一気に飛び越えて見るような気がしました。


司令に二人でご挨拶したあと車で阪神基地隊を後にしたわたしは、
神戸を経由して懐かしい地元を運転しながら空港に向かったのです。


今回の出席をお取り計らいくださった皆様がたに心からお礼を申し上げます。
ありがとうございました。