ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

西澤広義エキジビット@戦艦「マサチューセッツ」

2016-11-30 | 海軍人物伝

戦艦「マサチューセッツ」の艦内で、西澤広義海軍中尉のイラストに遭遇し、
おおお!と思わず嬉しくなってしまった日本人のわたしです。

展示に当たってはアメリカ人のブラマンさんという人が
サインペンかなんかで描いたらしく、サインがしてありました。

「マサチューセッツ」艦内の展示区画には、「敵国軍コーナー」もあり、
このようにドイツ海軍将校のマネキンがひときわ人目を引いていたりします。

この軍服は少尉のもので、海軍独特のダブルブレスト、(今でもそうらしい)
右のボタンの上から二番目に斜めにあしらわれた赤と白のリボンがおしゃれ。

世界で最もそのデザインを高く評価されていると言われるナチスドイツの制服、
陸空だけでなく海軍もさすがのスマートさです。

ドイツの洋服製造業者フーゴ・ボスがナチスドイツのためにデザインした
突撃隊、親衛隊、ヒトラー・ユーゲントの制服は当時のドイツの青少年や
女子などの憧れを誘い、それは未だに「最も成功した軍服」の地位を縦にしており、
フーゴの会社は現在も紳士服のブランドとして名高い「ヒューゴ・ボス」として
ファッション界で評価を得ています。

アメリカでは日本より少し安価で流通していて、わたしもアウトレットで
薄い夏用の皮のワンピースを買ったことがあります。

フーゴ・ボスが海軍の軍服まで手がけたかという話は
どこにも言及されていずわかりませんでした。
 

さらに彼の周りには艦の模型もあったのですが、急いでいたので省略。

日本軍コーナーで詳細な説明をされていたのが、海軍の零式戦闘機。
感心なことに、「zero」ではなく、ちゃんと

MITSUBISHI A6M REISEN

と表示されています。
この下にある説明には

A6Mがアジアに出現したのは1941年のことであり、
これはイギリス、中国軍にとっては全く嬉しくない驚きとなった」

続いて

「同じ驚きがパールハーバー以降のアメリカ軍を待っていた」

零戦の初陣は1940年の9月、重慶ですから、しょっぱなから
年号が間違っていてることになります。
それと、実際に戦っていないとはいえ、中国大陸での零戦のデビュー、

少なくともフライングタイガー界隈は知ってたと思うんですけどね。

残りも訳しておくと、

「A6Mは駆動性にずば抜けて優れ、火力も強く、スピードのある戦闘機で、
経験豊かなパイロットたちが操縦し満州上空での優位を誇った。

これほど衝撃的な航空機は戦争中に零戦をおいて現れることはなかった。
1600kmの航続距離を誇り、その最盛期には太平洋においてほぼ無敵であった。

この図の零戦は210航空隊所属のA6M5であり、戦争最後の年に製作されたものである。
このころの日本はA7M「烈風」の製作に腐心していた(desperately clear ) が、
同時に多くのA6Mがカミカゼ特攻攻撃によって、敵艦船のデッキや
その周りの海でその生命を終わらせていった。

A6Mの総生産数はその派生型も含め11,291機であり、
そのうち6,897機が中島製である」

並んで「隼」。

「NAKAJIMA Ki-43 HAYABUSA

1930年代、日本空軍の主力飛行機はNakajima Ki-27、
ランディングギア固定式の飛行機だった」 

あのー、日本に空軍ってなかったんですけど・・・。
うちの軍事音痴のTOという人は、少なくとも5年前は
旧日本軍に空軍がなかったことを知りませんでしたがね。

「この後継型として1939年に中島が世に出したのが
Ki-43であり、その敏捷性を引き継ぎながら速度は大幅に増した。
7.7mmと12.7mmの2種類の機関銃の搭載が検討され、
結局後者が選ばれている。

隼という愛称で呼ばれたこの戦闘機は、デビュー当初
熟練された搭乗員たちによって操縦され、シンガポールにおいては
RAFのブリュースター・バッファローを一掃した」

バッファローというのはアメリカ軍では何かと評判が悪く、
日本側に熟練の搭乗員は殆ど残っていなかったとされるミッドウェーでも
19機のうち13機が零戦に撃墜されてしまっています。

「Ki-43は東インド洋でも勝利を続けたが、シェンノートの
フライングタイガース出現後は敗色が濃くなり、
その後次々と現れてくる敵の新型航空機の前に陳腐化していった。

この隼はKi-43-IIIで、1945年、満州の第48戦隊の所属である。
5,919機が生産され、そのうち2,631機が立川で製造された」
 

零戦を配したジオラマがありました。
アーサー・ドルモンドさんというモデラーの作品で、題して

"SAIPAN SURPRISE"

サイパンにアメリカ軍が上陸して1ヶ月後、日本軍は玉砕しました。
おそらくその後、島に不時着していた零戦を発見した米軍の部隊が
驚いてその操縦席を覗き込んだりしているシーンを再現したのでしょう。

飛行機の傍らには燃料の入っていたドラム缶が転がり、
日の丸の旗が地面に打ち捨てられています。

このコーナーには日本機の模型も幾つか展示してありました。

Kyusyu J7W1 "SHINDEN"。

局地戦闘機「震電」・・・・んんん?どれが?

wiki

もしかしたら「震電」はこの右側にあったのか?

その右側。全然違くない?
ちなみに現存する唯一の「震電」の機体はスミソニアンにあるそうです。

 

Nakajima A6M2 "Rufe"(左)

”ルーフェ”ってなんだよ。
連合国のコードネームをちゃっかり名前にしてんじゃねー。

と一人静かに突っ込んでしまった二式水上戦闘機。

Aichi M6A1 "Seiran"(右)

伊四百型潜水艦(のちに伊十三型潜水艦をも加える)を母艦として、
浮上した潜水艦からカタパルトで射出され、攻撃に使用されるために
計画された 水上機「晴嵐」。

伊四百が見つかったときのアメリカ人の興奮は大変なものだったと言いますが、
その潜水艦に折りたたみ式の戦闘機を載せてしまうなんてクレージー。
ということでこちらもアメリカ人的には大受けした「晴嵐」。

どちらもとんでもない変態兵器であることには変わりありません。
万が一日本がお金持ってたら戦争勝てたんじゃないかとこういうのを見ると思います。 

いや、そもそも日本にお金があったら戦争起こしてないか。 

奥のジオラマのタイトルは

"Totaled Zero"(完全なゼロ)

戦地にそのままの形で残されていた零戦を再現。

ここにアメリカ人パイロットの写真が一枚ありました。

ALFRED・B・CENEDELLA Jr.(セネデラ?)中尉

この戦艦「マサチューセッツ」に乗り組んでいた予備士官で、
本艦から発進する「キングフィッシャー」(ヴォート)のパイロットでした。

戦後は「マサチューセッツ」をフォールリバーに展示するために
大変な尽力をしたということで感状を受けたそうです。

この名前で検索すると、彼の息子と思しき「三世」が、
この夏(2016年)マサチューセッツで亡くなったという告知が出てきます。

 

B-29スーパーフォートレスの模型もありますね。(投げやり)

「震電」の正しい写真がこの後ろにあったりするんですが(笑)

旧日本軍機の写真がこのように展示されているケースに、


「〜の飛行士戦死者の霊に捧げ」

という部分が見えた襷状のものがありました。
日本人が書いたのは間違いないですが、なぜ逆さまに置いてある。

この、軍艦旗の模様も怪しい海軍搭乗員に捧げているつもりで
向こうを向けてあるのかと善意に解釈してみたのですが。

それにしてもこれ、誰?怖いんですけど。


さて、それでは最後に、「ニシザワ・エキジビット」とされている

西澤広義中尉の説明を訳しておきます。


ヒロヨシ・ニシザワ
海軍中尉

1920年1月27日〜1944年10月26日

長野県の山間の村に、造り酒屋の5人の息子の末っ子として生まれた。
小学校卒業後は織物工場で働いていたが、1939年、海軍航空訓練生に応募し、
71人の卒業生の16番で卒業した。

卒業後は大分、大村航空隊、ついで千歳航空隊に入隊した。
彼の最初の敵機撃墜は1942年3月、ラバウルにおいてであり、
乗機は三菱A6M4タイプ96式戦闘機(コードネームはクロード) だった。
42年の2月から彼は第4航空隊に所属しており、米空軍第7戦闘機隊の
P-40を共同撃墜している。

4月1日、第4航空隊は台南航空隊と合併する。
台南航空隊はラエから発進しポートモレスビー攻撃を行った。
 
西澤の最初の勝利はポートモレスビーにおけるPー39撃墜であり、
これは1942年の5月のことである。

1942年8月7日のアメリカ軍のソロモン諸島進出を受けて、 
西澤はガダルカナル攻撃に従事し、同日の間に
4機のワイルドキャットを撃墜したと報告している。
(連合国側の記録ではこの日喪失した機体は12機である)

10月の終わりまでに彼の空中戦における撃墜記録は30機となった。

台南航空隊はラバウルでの戦闘によって搭乗員がほとんど失われ、
解散して帰国後251空に改編されたが、彼はその生存者の一人であった。


1943年6月には、帝国海軍は撃墜数を個人記録ではなく、

隊全体の記録として申告するようにという布告を出したため、
西澤の記録は公的には正確なものが残っていない。

家族に出した手紙には、彼は147機を撃墜したと書いており、
のちに彼が死亡したとき、それを報じる新聞記事では150機となっていた。

彼は最後の直属の上司には撃墜数を86機だと申告しており、
おそらくこれが確実な撃墜数に近い数字であろうと現在考えられている。

彼は大分の航空隊での教官となったが、この仕事を嫌悪しており、
最後には忍耐の限界にきていたようである。

1944年10月24日、アメリカ軍のフィリピン上陸を機に
彼は戦地に戻ることを決意し、特攻隊を志願した。
しかし、彼の技量を高く評価していた上層部はそれを拒否し、
その代わりに最初の神風特攻隊の援護を任命した。

1944年10月25日、関行男大尉を隊長とする5機の特攻隊を
突入する敵艦隊のいるレイテ湾まで援護する任務である。

5機の特攻機は4隻の護衛空母に突入し、そのうちの1隻、
セイント・ロー CVE-63を沈没せしめ、ホワイトプレインズ、
カリーニンベイ、キトカンベイにいずれも大打撃を与えた。

西澤の援護隊はさらに2機のF6Fヘルキャットを撃墜し、1機を失っている。


翌日、西澤は他の搭乗員とともにセブに向かうため爆撃機に乗った。

彼らはルソン島のマバラカットで飛行機を受け取ることになっていた。

西澤が乗った爆撃機は、ミンドロ島上空で爆撃機は待ち伏せしていた
第14航空隊の
2機のヘルキャットの攻撃を受け、
ハロルド・P・ニューウェル中尉の
操縦するヘルキャットに撃墜された。

その魅力的な人生において、彼は自分が絶対に空戦で
撃墜されることはないと信じていたし、その通りになった。

自分が操縦者ではなく乗客として飛行機に乗るという、

彼にとって滅多にない機会に敵に襲われることになったため、
いかに天才の彼も
自分を救うことはできなかったのである。

第二次世界大戦では、日本軍は個人の戦闘機搭乗員の
戦功を広く告知するということをしなかった。
いかに英雄的な行為も単に任務の一部であり、
それ以上でもそれ以下でもないと考えられていたようである。

しかし戦争も末期になって本土攻撃が激しさを増すと、このポリシーは変化して、
搭乗員の功績を広報するようになってきた。

西澤の功績は1943年の時点で全軍布告され、草鹿任一海軍大将より
軍刀を授与され、中尉に昇進している。

 

明らかな間違いには線を引いておきました。
西澤が中尉に昇進したのは、戦死して2階級特進になったからです。


この大きなイラストと丁寧な説明にも見られるように、西澤広義は
日米両軍を通じたトップエースとしてアメリカで
認識されていました。

 

「マサチューセッツ」シリーズ、次回いよいよ最終回です。

 


「明日のリーダー」〜戦時中のボーイ&ガールスカウト

2016-11-29 | アメリカ




戦艦「マサチューセッツ」見学です。
前回は艦内に貼られていたポスターを中心に、どれも機会があれば
一度見てみたい映画ばかり(ネタとして)を紹介してきました。


その後艦内を歩いていくと、こんな展示がいきなりあらわれました。
ボーイ&ガールスカウトコーナーです。
なぜ戦時博物館でもある「マサチューセッツ」にこのような展示が?



よく考えればボースカウトの「スカウト」とは「斥候」の意。
創始したのはイギリス人の元陸軍中将(ロバート・ベーデン=パウエル卿)
であり、もともとは
下士官兵向けの斥候の手引き書を、青少年向けに
わかりやすく書き直したことが
スカウト創設のきっかけとなっています。

したがって戦時中には
スカウトが、

「少国民としての心構えを培う訓練」

という意味合いを
帯びてきても、ある意味当然の成り行きであったかと思われます。
少なくともアメリカではそうだったようですね。

ちなみに、創始者のベーデン=パウエル卿、通称BPは、二度までも
ノーベル平和賞の候補に挙がっていますが、1度目は逃し、
二度目は戦争中で平和賞の選定そのものが取りやめになっています。

こういう人物にこそ平和賞を授与するべきだと思うのですが、
対戦中は政治情勢の影響を受けやすいこの賞はそもそも発表が行われず、
しかもBPは1941年に83歳で亡くなったので、

「生存している個人」

という条件を満たさず、ついに彼の受賞はないままでした。

まあ、この平和賞、

国家間の友好関係、軍備の削減・廃止、及び平和会議の開催、推進のために
最大・最善の貢献をした人物・団体」に授与すべし

というのが設立の目的ですが、近年では「平和」の概念を広く解釈しており、

受賞対象者は国際平和、軍備縮減、平和交渉だけでなく、人権擁護、
非暴力的手法による民主化や民族独立運動、保健衛生、慈善事業、
環境保全などの分野にも及び、また政治的情勢や受賞後の影響を期待した
メッセージを発信するために贈られる場合もある。(ウィキ)

最後はそれなんてオバマ、という受賞ですね。

超余談ですが、平和賞といえば、劉暁波氏のノーベル平和賞に対抗して中国が

「孔子平和賞」

というのを作っておりますね。
いやこれ、皆さんwikiご覧になったことあります?

今まで海外の受賞者が誰一人(プーチン含む)賞を受け取りに
行っていない(つまり全員辞退)というのも、村山富市が候補に上がり
「健康上の理由で」辞退したのも(言い訳だと思うけど)さることながら、
2015年の候補者の名前を見ただけで思わずめまいが・・・。

福田康夫、村山富市、潘基文、朴槿恵、ビル・ゲイツ、ロバート・ムガベなど

福田さんもビル・ゲイツも辞退したと思うけど、もし潘基文、それから
パククネだったら、彼らは受賞・・・・しただろうなあ。
どっちも中国の軍事パレードにいそいそ参加してるし。

そして2014年、我が日本からの候補者に、もし受賞していたら、誰よりも
いそいそと中国に賞を受け取りに行ったに違いないあの人の名前が・・・。


 

閑話休題。

ユニフォームの左側には1940年から42年までのスカウトの制服の
写真がありますが、まるで軍服のようです。

 



1910年にアメリカでスカウトを創始したウィリアム・ボイスの写真をはじめに、
トレイルを読んでいくとアメリカのスカウトの歴史がわかる仕組みです。
やはり戦争中は国債を買おうという運動をしていたようですね。



1940年代のボーイスカウトとカブスカウト(左)の制服。
どちらも今とあまり変わらないように見えますがどうでしょうか。



ここからはボーイスカウトのポスターです。

子供達は昼間の疲れでぐっすり寝ている中、
寝ずに火の番をするリーダー。



「マイティ・プラウド」という題名の絵は、カブスカウトから
ボーイスカウトに進み、新しい制服を着付けてもらっている
少年の誇らしそうな様子と、それを暖かく見守る家族を描いています。

右側は「正しい道」。
上から下へと正しい道を伝えていく、それがスカウト運動であると・・・。



スカウトの少年たちの後ろに海軍の水兵がいますね。



これらはほとんどがノーマンロックウェルの作品です。
マサチューセッツ出身の画家で、わたしは一度
ノーマンロックウェル美術館に行ったことがあります。

題名は「我々が受け継ぐもの」

馬から降りて手を合わせている人物は、独立戦争の指導者でしょうか。



「スカウトのトレイル(ハイキングなどの道)」

ボーイスカウトの思い出を持つかつての少年たちなら、
どれも「こんなことあったなあ」という懐かしさを感じるのでしょう。

夜の闇の向こうに見えるのは、どこかに向かって歩く古の人々のシルエットです。



信号セット、ボーイスカウトの本、規則に「宣誓の言葉」。
スカウトの進級式のことを「上進式」といい、丸めた旗に手を置いて、
右手を上げ、宣誓の言葉を述べます。



戦争が始まって日系人たちは強制収容所に入れられました。
そこでもボーイ&ガールスカウトの活動は行われていました。
野球をしたり新しく入った収容者の面倒を見たり、そして
誰かが戦地で亡くなったときにはセレモニーを行いました。

写真は、収容所でガールスカウトの受付をするキム・オバタ。



ワイオミングにあったハートマウンテン収容所。
列車から降りる新収容者の荷物を受け取るために
ガールスカウトの一団が出迎えています。



同じくハートマウンテン収容所。
同収容所出身の兵士が7名戦死したので、
そのメモリアルサービスを執り行うガールスカウト。



「明日のリーダー」

国債の購入のように、世論一帯が戦時調になると、
スカウトのポスターもそれを意識した勇ましいものになっていったようです。 

戦時中におけるスカウト運動というのは、おのずと
国の姿勢を反映し、その目的も「国の誇り」「国の守り」ということに
フォーカスするとともにその存在そのものが小さな軍隊のようになるのは
ある意味当然のことなのかもしれないと思いました。

もちろんわたしはそれに対し、否定的な意見を持つものではありません。

なお、並べられている名誉メダル、メリットバッジのなかに

「マッカーサーメダル」(1940)

を発見。
このマッカーサーってあのマッカーサー?と思ったのですが、
どうもジョン・マッカーサー教会というのがあって、これが
スカウト運動となんらかの関係があるようなのです。
ただ、マッカーサーつながりでお話ししておきます。


我が日本では世界的にスカウトが普及した創設2年後の1913年には
ボーイ&ガールスカウトは輸入されており、10年後の大正11年には
あの「お髭の総長さん」、後藤新平が総裁となり連盟が発足しています。

翌年起こった関東大震災では、スカウトは各種奉仕活動を行いました。
大戦中も「大日本少年/青年団」として存続していたのですが、
終戦と同時にGHQによって活動を停止させられています。


これはおそらく、GHQが、「大日本少年団」という名称から、スカウトを
ドイツのヒトラーユーゲントと同様に認識していたからではないでしょうか。

さらにいうと、日本でのスカウト運動を禁じた、ということはとりもなおさず、
アメリカ国内におけるスカウトに、ナショナリズムによる国威発揚の傾向が
特に戦時中にはあったということを自ら認めていた、ということでもあります。

終戦後、中断していたボーイスカウトは1947年に復活のための委員会ができ、
そのさらに2年後に再開されることになりました。

この時に旧伯爵三島通陽および、元朝日新聞記者の村山有らが中心となって
活動再開を請願し、これに許可したのが、当時の日本における最高権力者である
GHQ司令官ダグラス・マッカーサー元帥だったことはあまり知られていません。






映画「音楽大進軍」〜「愛国行進曲」

2016-11-27 | 映画

 

この映画のクライマックスである演奏会のトリを飾るのは、
「我らがテナー」、藤原義江歌う「愛国行進曲」。

うちで引いている有線放送には「軍歌・戦時歌謡」というチャンネルがあり、
聞いていると、このチャンネルで流れる「愛国行進曲」は 
まさにこの「音楽大進軍」のときの録音であったことが判明しました。



さて、その藤原義江に演奏会の依頼を頼むときがやってきました。
表札でそれを表すという安易な演出。



戦中の日本にもこんな一般家庭があったんですねえ。
ところで、このときロッパの持っている音楽家リストには

「藤原義江 同夫人」

と書かれています。
ちなみにこれは映画上の設定で、藤原義江は、浅草オペラの下積み時代に
取り立ててくれた年上のソプラノ歌手と離婚して1930年には
2番目の妻(医師夫人だった宮下あき)と再婚していました。

宮下あきは歌手ではありません。

♪ マリア・マリ 若原春江

こちら藤原家のお手伝いさんと言う設定で、宝塚出身の歌手であり
女優でもある若原春江が庭に水をやりながら歌うシーン。



藤原夫妻の居場所を追って、汽車に乗るロッパと渡辺。
ここは箱根駅であろうと思われます。
ここでも社長令嬢のコネがものをいいます。



そしてここは山中牧場。



なぜか牛に囲まれて夫人(と言う設定の滝田菊江)と

♪ トスカ 愛の二重唱


を絶唱する藤原義江(笑)



滝田菊江という歌手は藤原歌劇団でも歌い、
この映画では妻と言う設定ですが、わずか38歳で夭逝しました。


この間、渡辺はわざと牛にぶつかって牛に怒られたりします。
ついでに牛を避けて抱き合うロッパと社長令嬢の写真まで激写。



会社でその写真が面白おかしく閲覧されているのを見て
唖然とする栄子と同僚の女性。

このあとこれをなじってロッパをひっぱたくシーンは検閲でカットされました。



こちら、指揮者岡倉に2度目の依頼に来た二人ですが、
またしても謎のデブ岸井が紹介状の依頼をしに来ていてバッティング。

二人は岸井が岡倉のマネージャー(英語が使えないため支配人と言っている)
と信じて疑わず、断らない彼を酒で懐柔して
もうすっかり全員に出演を取り付けたつもりになってしまいました。



新聞記事から岡倉のスケジュールを知り、ついでにマネージャーだと
思っていた岸井がにせものであることに気づいた二人、
逃げるデブを追いかけて、丸の内へ。



当時の東京駅付近の映像が人々とともに映し出されます。
ここは明治屋前。



明治生命ビルのお堀端とか・・・、



森永製菓ということは芝まで走ってきたのか・・・。



東京駅前はこんな広場でした。



さりげなく企業の前を走って宣伝をしております。
ここは三菱電機のビルだった模様。



東京駅丸の内側。
今工事中の部分ですね。(ここずっと工事してるけど何作ってるんだろう)



そしてなぜか汽車に乗って・・・・えええ?



なぜ汽車の中で捕まえない、と思うのですが、とにかく
一行は追いつ追われつしてなんとこんなところにやってきました。

藍壺という滝だそうですが、どこのかまではわかりません。
彼らのからみは実際にこの滝の上で行われました。



ちょっとこれはすごすぎる。



いやー、昔の役者は命張ってるわ(笑)
ロッパはこの危険なロケに怒り心頭であったとか。
とにかく、もみあううちに岸井が岩場に落ち、それを助けに行こうとして
ロッパも渡辺も滝壺に落ちてしまいます。

普通の人なら、死にます。




こちら演奏会場。



右のほうには最初の映画タイトルだった「音楽大夜会」という文字が。
辻久子のタイトルは「天才少女提琴奏者」とあります。



こちら滝壺三人組。
三人とも滝に落ちるも誰かに助けてもらったようです。

滝壺に落ちて骨折だけで済んだロッパ、頭の怪我の渡辺、
そして顔に絆創膏を貼っただけの岸井。
骨折だけなのに連絡もせず、演奏会場にも姿を見せないので、
皆が心配する中、



スポンサーの佐伯社長が

「南方慰問演奏会壮行演奏会を始めます」

え、ということはこの人たち全員南方に実際に行くってこと?
そりゃー無理だろう。と今更驚いてみる。



♪ イゴール公 ボロディン

この人たち全員が南方に行くなんて、絶対無理(断言)


とにかく演奏会は指揮者抜きで始まってしまいました。
それなのに、ロッパの彼女、栄子が、この後に及んで
岡倉の家に出演の
お願いに行ったりしてるんですよ・・・。
そして当たり前ですがマネージャーに「今から演奏旅行なので」と断られます。



しかしあきらめない。だから演奏会は始まってるんだと何度言ったら(略)
姉に続いて最終兵器の子供が岡倉に直談判のため突撃していきます。

中村メイコ演じる栄子の妹、のりこ。
不思議なことにこの兄妹は、どうみても30台後半の
兄、
20代の妹・栄子、末の妹が小学校2年生だったりします。

サザエさんの磯野一家もそうですが、昔ってこんな風にきょうだいの年が
離れていたウチも多かったのでしょうか。



なんと、岡倉先生、この演奏会の依頼が自分に来ていたことを
今の今まで知りませんでした(爆)



「普段なら出てあげるんだけど」

「いやん、いやん、いやだあ」

「先生ダメなの?どうしてもダメなの?」


中村メイコは「天才子役」と言われていたと聞いたことがありますが、
こうしてみると単なるこまっしゃくれたガキ、いやなんでもない。



そうこうしているあいだにもプログラムは進み、
平岡養一の

♪ チャルダッシュ舞曲

実はこの演奏を聴いてすげー、と思ってしまったわけですが、
実際にもこの平岡養一という奏者は日本人で初めてカーネギーホールに
出演したという有名な人だったりします。


チャルダッシュ -シロフォン(木琴)ソロ 陸上自衛隊東部方面音楽隊


同じ曲を陸自のソリストが演奏していましたので聴いてみてください。
長くて聞いてられない、という方は2:10から。



メイコ、送ってあげるという手を振りほどいて拗ねモード。
これは計算してますわ。



「・・・・(俺なんか悪いことしたっけ)」



椅子の背中を指でツンツンしながらクネクネしていたかと思うと、
本当に涙をこぼしてマジ泣き。



子供が泣いたからといってなんとかなるはずがないのだけど、
なんとかなってしまう、なぜってここは優しい世界。
岡倉はまんまと演技にほだされて汽車を遅らせ、演奏会に駆けつけることにします。

多分これ、日本版「オーケストラの少女」ってことににしたかったんだろうな。



一曲指揮するためだけにメイコを伴ってステージに駆けつける岡倉。
なぜかいつの間にかお色直ししているメイコ(笑)
あざといさすがは天才子役あざとい。

実はこの指揮者には、当初山田耕筰の出演が予定されていました。
劇中の岡倉ではありませんが、山田は撮影の時中国に視察旅行に行っており、
出演の返事がもらえず、仕方なく指揮者だけが俳優ということになったそうです。


そしてなんと岡倉、出会ったばかりのメイコをステージで歌わせます。

「ただいまからのりこさんと、のりこさんの共栄圏のお友達のために、
私の作りました小品を私の伴奏でのりこさんに歌ってもらいます」

ってこれが

♪ 夕焼け小焼け 

だったりするんですよ。
「夕焼け小焼け」の作者、草川信はこのころまだ存命でしたから、
了解を得てそういうことにしたのでしょうか。



のりこの真心に打たれて出演することになった、と岡倉が説明するのを
ラジオで聞いて驚いてからわずか5分後。(いや3分か)

怪我をして絶対安静だったロッパたち
一行は会場にやってきて
片隅で演奏を立ったまま見守ることにしたようです。


そんなに早く来れるなら最初から来いよ、と思ったのはわたしだけでしょうか。



そして藤原義江、滝田菊江のソロによる「愛国行進曲」。



指揮はもちろんのこと岡倉です。


さて、せっかく当代一流の音楽家に出演を仰ぎ、作りようによっては
これが音楽映画の最高峰になる可能性もあったというのに、
無粋で芸術の”げ”のも理解できない頭カチコチのお上の検閲に遭い、
結果としては全くの駄作となり映画史に残ることもなかったこの映画。

もともとは南方の戦線にまさにこの映画のように慰問のために
出来上がったフィルムを送るという
目的であったのに、
やれ軟弱だとかやれ感傷的だと、
あっちこっちに検閲のカットを入れまくり、
その結果、


● 「湖畔の宿」を歌うシーン
● タンゴ「碧空」
● 「荒城の月」ブギウギアレンジ
● 灰田勝彦の歌

などが無情にも消されました。
また、

「渡辺篤が慌てて靴を履いて家に上がりこむシーン」
「舞踊学校のシーン全て」
「女性がベッドに入るシーン」 
「栄子がロッパの頬を平手打ちするシーン」
「キャバレー・酒場シーン」

なども、いろいろ連想させるなどの理由でカット。

こんなにされてはあらすじも表現もへったくれもなかろう、
と言うくらいの国の干渉ぶりで、事実、結果は惨憺たる有様に。

しかも、結局この映画に漂う「アメリカ臭」が嫌われて、(どこがだ)
戦地の慰問に送られるということは結局一度もなかったといいます。


どうしてこれが戦争映画なのか。

「戦争映画コレクション」として
送付されてきたときには思いましたが、
これはある意味、
「戦争に蹂躙された映画」としてこのジャンルに入れられるべき
立派な戦争映画なのでは、と見終わって思ったわたしでした。





 


行進曲「軍艦」〜映画「音楽大進軍」

2016-11-26 | 映画

ディアゴスティーニの「戦争映画コレクション」の最終配信がこの映画でした。
「音楽大進軍」。

音楽映画でありながら戦争映画とされているのはなぜかというと、
この映画が戦時下で軍の検閲の元に制作されたという点でしょう。

話の筋は極めてシンプルで、楽器店の一店員がある日、
一流の音楽家を集めた皇軍慰問のための演奏会を行うことを思いつく。
実在の音楽家たちに出演を承諾させるというのが話のコアで、最後は
その演奏会のシーンで終わり。というものです。

はっきり言ってあまり面白い映画ではありません。
至るところで検閲のために回収されないままになってしまった伏線があり、
真面目に見ていると?となってしまったり、セリフが検閲を意識した
建前のものばかりで、笑いのツボも全く今とは違うせいです。


当時の日本における第一線の音楽家たちの演奏が記録されている
貴重な資料であるということを除けば、この映画ははっきり言って
ありがちな展開のなんのひねりもない駄作といってもいいでしょう。

しかし、むしろなぜ面白くないのかを考察する意味はあると思い、
その主たる原因となった政府の干渉について考えてみました。

劇中流れる音楽を取り上げながらお話ししていきましょう。



時代を感じさせるロゴですね。
この映画はもともと

「音楽大夜会」

というタイトルの予定でしたが、戦時下ということで、
このような内容ともそぐわないものに変えさせられました。
もうここからして波乱を感じさせますね。
ちなみに映画の始まる前に、

「撃ちてし止まむ」

という大きなロゴも現れます。


♪ 行進曲「軍艦」



昔の映画で目が釘付けになるのは、ロケで今も残る
建物がそのまま出てくるところです。

ご存知銀座和光ビル。
舞台は銀座の楽器店から始まります。



なんと、日本橋三越の吹き抜けのパイプオルガンではないですか!

現在でも演奏が行われ買い物客の耳を楽しませているこのオルガン、
昭和5年にアメリカから購入したもので、このホールには
昭和10年から設置されています。

映画ではこの下のフロアに楽器を並べて、ここが主人公の勤める
タカラ楽器店であるという設定。



このパイプオルガンの演奏から映画は始まりますが、
それがなんと「軍艦行進曲」なのです。

もちろん軍艦行進曲には何の文句もありませんが、パイプオルガンでねえ・・・。

それにこの井伊とかいう演奏者、メロディ間違えてるし、
パイプオルガンなのに足ペダルも使ってないんですー。(泣)



展示品のピアノで機嫌よく演奏に合わせて弾くふりをするロッパ。
当楽器店の店員にすぎませんが、音楽を愛することにかけては
人後に落ちない男、栗原六郎太を演じます。


 
こちら富士山麓のリゾートホテルに滞在する会社社長。
タカラの社長の盟友の佐伯が、楽器店にブラスバンドのための楽器を
大量発注することから話が進んでいきます。




そこでロッパ、社長命令により社長滞在のホテルまで営業で赴きます。
そのバスに同乗してきて意味もなくロッパに絡む謎のデブ。(岸井明)

最初から最後まで、このデブの正体はわかりませんでした。
全てをかき回す元凶となるキーマンなんですが(笑)

♪ 婦人従軍歌

バスに乗っている女性が車中歌うのがこの歌。
この女性たちは看護婦だったのか?と思いますが違います。
彼女らはホテルに慰問演奏に行く舞踊団のダンサーたち。



道中バスのパンクで客を一人下ろしていくということになり、
ロッパと岸井、さっそくお前が残れデブ、とデブ同士罵り合い。
いくらなんでも富士山麓で客を降ろして歩かせますかね。



社長の滞在している富士山五湖ぞいのホテル。
ここで、近くの療養所にいる皇軍傷病兵を招いての
慰問音楽会が行われることになっていました。

♪ 荒城の月 バイオリン 櫻井潔



櫻井潔というバイオリニストは、戦前戦後を通して人気があり、
様々な日本の歌をタンゴ風にアレンジしたりして、タンゴの
日本での普及を積極的に行ってきた人です。

この荒城の月の演奏も、導入はツィゴイネルワイゼン風ですが、
リズムはタンゴにアレンジしたものです。
中間部にはカデンツァもあり。



古川ロッパという名前は今ではあまり知る人もいなくなりましたが、
1936年頃に最盛期だった芸達者なコメディアンで、戦前は
ロッパ一座の座長として「天下を取ったような」(本人談)状態でした。

男爵家の出で、養子に出された先も満鉄の役員、祖父は帝大総長、
本人も早稲田大学から文藝春秋に編集者として入社したという経歴ゆえ、
プライドが高く、そのせいか傲慢で、エノケンなどのスターが次々に出てきて
時代に取り残されたときに、かつての知人は誰も付いてきれくれませんでした。

戦後にはその人気は凋落していたといいますが、このころは
その陰りが現れ始めたものの、威光はまだまだ健在、といったところでしょうか。

ロッパ一座が解散するのは戦後すぐのことになります。



このシーンで慰問されているという設定の傷病兵は、なんとびっくり本物。
伊東の療養所から招いた本物の軍人たちだったそうです。


 
メインダンサーは高田せい子。 
浅草オペラの時代に活躍した舞踊家です。

♪ 海行かば



海行かばの演奏ではオーケストラも全員が立ち上がり、
本物の療養兵士たちもこのように共に合唱を行います。
この後彼らは列を組んで芝生の向こうに歩いていくのですが、
遠目に見ても脚を引きずっている人が何人か・・・。

この人たちのうちどのくらいが生きて終戦を迎えたでしょうか。




「慰問演芸会を南方に送りましょう」

この慰問演芸会に感激した一楽器屋店員の一言でことが動き出します。
隣は社長の令嬢。

「大東亜共栄圏確立のために南方の前線で命を投げ出して
戦っていらっしゃる兵隊さんたちにも、今の演芸会を見せてあげたら
どんなに喜んでもらえるかと思うんです」

ロッパ、長ゼリフなので噛み噛み。

声帯模写の達人で、徳川夢声が病気で倒れた時に代わりにラジオ出演し、

後で徳川本人が「これは自分の声だ」といったという才能の持ち主ですが、
こういう演技はそう達者というわけではなかったようです。



本日の慰問団を仕掛けた会社社長、佐伯。(汐見洋)
この人のセリフがまたすごいよ?

「なるほど、慰問団を通じて銃後はこのように明るいということを知らせる。
そりゃいい思いつきだ。
皇軍慰問と同時に英米の勢力を駆逐した大東亜に生きる
我々の兄弟たち、特に南方の国々の兄弟たちにも是非見せてあげたいよ」

お上のご指導で言わされている感ありまくり。



楽器店が一流演奏家を集めるなんて、と反対の声もありますが、
予定調和でうまく収まり、(笑)ロッパは計画実現に奔走を始めます。

さっそく当代一の指揮者、岡倉雄作邸に依頼に行ったところ、
歌手として売り込むために日参していたデブとばったり。
慌て者のロッパと先輩社員(渡辺篤)はこれを岡倉のマネージャーと勘違い。
デブもその気になってマネージャーののふりをするので話はこじれる一方です。



ロッパと渡辺、ホテルの喫茶室で社長令嬢と面会。
この後庭で高杉妙子という歌手が「湖畔の宿」を歌うシーンは

「あまりにも脆弱で女々しく感傷的だ」

として丸々カットされました。
ついでに、会話では渡辺が池に落ちたということをいうのですが、
そこもカットされてしまったらしくなんのことだかわかりません。
慰問演芸会のシーンでも、タンゴ歌手の歌がカットされています。


さて、ここで社長令嬢、


「藤原義江さんなら私が話を通してあげる」

とノリノリで独身のロッパをぐいぐいリードして・・。



当時日比谷にあったNHK放送会館。
戦後は進駐軍に接収されていましたが、返還後ホールを増設し、
取り壊されてあとは日比谷シティ(富国生命本社ビル)となりました。

♪ さくらさくら

♪ 月月火水木金金

♪ 愛馬行進曲




和田肇というピアニストのことは全く知りませんでしたが、
その息子の和田浩治という俳優さんが亡くなる直前、

「僕の親父はピアニストで、年取ってからも毎日
必ずスケール(音階)の練習をしていました」


と言っていたのだけ覚えています。
ちなみにこの時に弾いているピアノはベヒシュタインです。

♪ 中国の太鼓 辻久子



なんと、バイオリニスト辻久子の演奏がフルで。
当時は「支那の太鼓」だったのですね・・・・。

この映画の制作時、1926年生まれの辻は18歳。
なんか18歳にみえないんですけど・・・。



ちなみに1951年の写真。何があった。
でも、現在のお姿はまた18歳の時に近くなっているようです。


♪ 兵隊さんよありがとう 東京音楽学校児童合唱団



まあ曲は慰問向きとして、まさかこの児童を
南方の慰問に送るつもりではないでしょうね?



放送センターで一線の音楽家たちの演奏を聴いて
何人かには出演依頼を済ませ、ご機嫌のロッパ。



「結構な催しじゃありませんか。ぜひ出ます」

社長令嬢のセレブ人脈恐るべし。
なんと当代一の人気俳優長谷川一夫山田五十鈴の依頼を取り付けました。



場面は変わり東宝映画撮影所。
東宝といえば映画「シンゴジラ」のオープニングは、昔のままのロゴでしたよね。



長谷川一夫と山田五十鈴の元禄花見踊り撮影がが行われております。
まあ、東宝撮影所と機材のいろいろを見せるためのコマでしょう。
ところが渡辺とロッパが撮影の邪魔をして追い出されるという波乱。

こんなことをしても出演を断られなかったのは奇跡です(棒)



渡辺には栄子という妹(里見藍子)がいてこの娘はロッパと恋愛中、
という設定なのですが、これもこの瞬間までわかりません。
検閲にあったせいか、惚れたはれたが全く語られないまま、兄が

「栗川と社長令嬢が怪しい」

と吹き込んで栄子がロッパに疑惑を持つという早回し展開。



「これ、あなたにあげます」

ロッパがカナリアをプレゼントして栄子は疑っていた自分を恥じるのでした。

なぜカナリアをプレゼントすれば浮気の疑いが晴れるのか。
むしろそれは怪しいと思うのが普通ではないのか。

といろいろ突っ込みどころはありますが、とにかく後半に続く。


国債ポスターと戦争映画〜戦艦「マサチューセッツ」

2016-11-25 | 映画

戦艦「マサチューセッツ」には資料として
戦時中のポスターなどがいたるところに展示されていました。
今日はそんな戦時「アート」をご紹介していきます。

まず冒頭は、おなじみウィリアム・ハルゼー提督。(ですね?)
色々と逸話が多く、当ブログでも「米海軍アイスクリーム事情」とか、
「マケイン中将と台風 」などのエントリにご登場願ったわけですが、とにかく
アメリカでもこのキャラクターは大変人気があったそうです。

台風のコースを読み違い、共和党のマケイン議員のお爺ちゃまである
ジョン・マケインと一緒になって台風への対処を誤り、艦隊の駆逐艦
3隻を沈めてしまった時も、その失敗にも全く学習せず、台風の進路を読み違え、
同じ状況でまたしても大損害を艦隊に与えた時も更迭にはなりませんでした。


ひとえに国民に人気があったからです。
 
このようなハルゼー大将を使ったポスターは、その人気をうかがわせるが如く、
いくつも制作されたようで、これもその一つ。

(注:ここまで書いておきながらこれがどうやらハルゼーではなく
アイゼンハワーだったことがcoralさんのコメントで明らかになりました。
謹んでお詫びしますが、ハルゼーのことを書きたかったので
この部分はそのまま残します<(_ _)>)

bondというのは公債のことで、戦時中アメリカでは「戦時国債」
を買うことによって戦っている軍隊を応援しよう、という宣伝が
いろんな形で行われています。

この国債は「リバティボンド」といい、なんと喜劇王チャップリンなどは
これを宣伝する「THE BOND」という映画まで自費で作っているのです。

Charlie Chaplin - The Bond (1918)


仏頂面で矢を放つキューピッドの子供が笑いどころ?
 

ただしチャップリン自身は基本反戦主義者で、この映画もいわば保身のために
しぶしぶ作ったとも言われており、また、彼自身アメリカ国籍を取っておらず、
こういった要素からアメリカの保守派からは攻撃されつづけました。

さらに戦後はマッカーシズムの「赤狩り」によってアメリカを追われ、
その左寄り思想が「ナイト」位の授与を遅らせたという話もありますが、
ここでは関係ないので省きます。

ポスターの「Back 'em up!」は「彼らを支援しよう!」って感じですか。



艦内はとにかく広いので、定期的に行われる「マサチューセッツ」や、
ここバトルシップ・コーブの運営に関する会合、青少年のキャンプ、
セミナーやパーティなどのイベントのためのスペースもあります。

その壁にもこのようにポスターが飾られているわけ。



「銃後の守り」
これも戦時国債を買いましょう、のポスター。
第3次戦時国債が売り出された時のものです。


 
すべてのアメリカ国民が 1ドルの「戦時スタンプ」を買ヘば、
「ミステリイシップ」シャングリラができます

あなたの余った小銭で東京を爆撃しませう 

戦時スタンプを買いませう
あなたのアルバムをスタンプで埋めませう

(戦時調の文章にしてみました)

空母「シャングリラ」は1943年に起工し、翌年には就役、
おそらく国民のこういった寄付活動の末資金を調達したのでしょう。

「シャングリラ」という理想郷の名前が軍艦になるのは
アメリカとしては珍しいことのように思われますが、
これは、東京空襲の後、ジミー・ドーリットルが記者会見で

「(攻撃機の)発進地はシャングリラ」

と答えた直後に起工したことからきています。
ポスターに「東京を爆撃」とあるのも、そういう経緯からでしょう。



これも子供を使った公債のポスター。

「この子の未来を守りたい」

というところでしょうか。



戦時公債の名前も発売されるたびに少しずつ変わったようです。

「彼らはシーレーンを切り開き続ける
ヴィクトリー・リバティ・ローンに投資しましょう」



「火を放て!」

 

クリスマスには「自由と地の平和のために」
戦時国債をクリスマスプレゼントに。

貰った方は全く嬉しくないような気がするんですが。


さてここからは戦争映画のポスターなど。

ロナルド・レーガンとナンシー・デイビス共演の映画。
もちろんこのナンシーとは、のちにレーガン夫人となる女優です。
このとき、ナンシーは看護中尉を演じています。

なんでフランス語のポスターなのかわかりませんが、フランス語では

「日本海のコマンド」

原題は英語で

「 Hellcats On The Navy」 

日本語では「勝利への潜行」として公開されたようです。
なんとレーガンの潜水艦ものねえ・・。
冒頭にはチェスター・ニミッツもでてくるというし、
アマゾンにDVDがありましたので、注文してみました。
もし面白かったらここでご紹介しますが、アメリカのポスターには

「DOWN.....DOWN..... DOWN.....

とあります。
潜水艦なんだから沈んていくってことで、

DOWN.....DOWN..... DOWN.....

の方がいいんじゃないかな(提案)

ヘルキャット「オン」ザネイビーというタイトルからも、

このポスターからも、潜水艦ものに全く見えないと思うのはわたしだけ? 



ケイリーグラント主演、「デスティネーション・トーキョー」
ええい、どれもこれもトーキョートーキョーと(イライラ)

というのもこの一連の映画、つまりはドーリットル隊の東京空襲が
それまで押され気味だった日本軍に圧倒的な敗北のきっかけとなった、
ということを喧伝されていたからこそ生まれているのです(アメリカ的に)

映画「パールハーバー」でも、東京空襲が我々のターニングポイントだった、
みたいなことを最後に言わせていましたし、あちらもそういうことにして
目一杯プロパガンダを行ったということが映画のテーマに現れています。

で、この映画ですが、又しても主人公は潜水艦の艦長。

米潜水艦コッパーフィン(銅のヒレ)は極秘命令を受けサンフランシスコを出発。

彼らの任務は敵国日本の東京湾に潜入、途中で合流する予備役将校を
東京にスパイとして潜入させ、それらの情報をUSS「ホーネット」、
つまりドーリットル隊に送り彼らの計画を成功させることだった・・。

という内容。
その効果、日本側に与えた心理的ショックは確かに大きかったですが、
実際は結構しょぼい戦果だったことはなかったことになっております。
これは、戦後のドーリットル映画すべてに言えることですが、
これも結果よければすべてよしということなんだと思われます。


グレン・フォード主演「トルピード・ラン」



この題名からもしやと思ったら、やっぱりこれも潜水艦ものでした。
日本公開の題名は「雷撃命令」だそうです。


潜水艦「グレイフィッシュ」の乗組員士官ドイル(グレン)は、
真珠湾攻撃で日本軍の飛行機を運んできた「SHINARU」
(実際にはまっったくありえない名前。梓鳴とか?志稔とか?)
を探していました。

その護衛船団「吉田丸」にはフィリピンで捕虜となった
彼の妻と娘が乗っていたのです・・・・・って、
ここでもうツッコミどころが満載なのですが、まあいいや。

運良くシナルを見つけたグレイフィッシュですが、艦長が
吉田丸にいる妻子の命の危険から止めるのにもかかわらず、
ドイルはイケイケで攻撃を開始してしまいます。
そして、グレイフィッシュの放ったトルピードはランして、
輸送船に見事大当たり。沈没させてしまいます。

日本軍は潜水艦の救出を拒み、グレイフィッシュも
乗員を誰一人救出することができませんでした。

さらに復讐心に燃えたドイルはシナルをやっつけようとしますが、
失敗し、命からがら真珠湾に帰港しました。

彼を陸上勤務にしようとする上の命令を断っても、
ドイルはシナルと戦うことを選び、哨戒に出たアラスカで
ついにかれは宿敵シナルに再会するのです。

グレイフィッシュがシナルに魚雷を放つと同時に、シナルの護衛である
駆逐艦が撃った魚雷がグレイフィッシュに命中(あちゃー)。

しかしラッキーなことに乗員は全員マンセン・ラングを着用し、
脱出した後駆逐艦で帰国の途につくことができました。
その航路途中、彼らはこのように言葉を交わすのでした。

「俺たちはシナルを沈めた」(きりっ)


・・・・・ほんまかーい!

と観客全員に突っ込まれてこの映画は終わります。



パワーがタイトルに関係あるのかと思ったら違いました。
タイロン・パワーという俳優の名前でした(笑)



アン・バクスターと共演したこの「潜行決死隊」
「Crash Dive」という映画ももちろん潜水艦ものです。

こちらは東京という言葉が出てこないなと思ったらなんと、
バリバリの恋愛映画でした。

 意思に反して潜水艦勤務になった海軍中尉(タイロン・パワー)。
艦長つまり上司の恋人(アン・バクスター)を知らずに好きになってしまいます。
これがまた悪い女で、二人ともキープしてたりするんですが、
男たちの潜水艦はともかくもドイツの潜水艦基地を粉砕して無事帰還。



タイロンパワー、これタバコ吸ってませんかね。
潜水艦でタバコ吸うってあなた・・・。 

女の取り合いをお預けにして戦った2人は和解し、凱旋帰国後、
彼女はイケメンのタイロン・パワーを選んで
めでたしめでたし。

って、めでたくないわ!(と艦長がひとこと) 

 

おしまいですが「マサチューセッツ」シリーズは続く。 

 


オーパス・ワン・ワイナリー〜ナパバレー・カリフォルニア

2016-11-24 | アメリカ

カリフォルニアのナパバレーは今や世界でも有名なワインの産地です。
同地域には600ものワイナリーがひしめいており、中には
ブランドとしてその地位を確立したワイナリーもあります。

その筆頭がオーパスワンだと思うのですが、わたし自身はお酒が飲めず、
従ってこのワインの価値も味も全くわかりません。

にもかかわらず、パロアルトから車を飛ばして2時間弱、
わざわざオーパスワンのワイナリーに行くことになりました。
なんでも日本から休暇で来ていたTOが(ちなみにこの人も下戸)
お遣い物&職場のお祝い事のためにまとまった数必要だということで、
観光かたがた買い物をして美味しいランチでも食べようということになったのです。



ナパに行くには、サンマテオブリッジを渡ってオークランドを北上するか、
ベイブリッジを渡って行くか(GGブリッジはさすがに遠回り)です。
ベイブリッジは乗るまでが混むのですが、一度くらいは走ろうと思い
あえて混んだ道を選択していきました。

架け替えが終わり、橋上のライトなどの構造物も整っています。
まっすぐな蛸の足みたいなのは照明です。



ベイブリッジはサンフランシスコから出るときには無料ですが、
入るときに料金を支払う仕組みです。
昔は全て手動だったので、週末の夕方など大変な渋滞になりましたが、
改装後は自動支払いのゲートも増え、合流地点に渋滞時だけ信号をつけて
車の流れを制限することで少しでも緩和しているようです。 



オークランドからひたすら北上すると、ソノマ・ナパといった
ワイン地帯があたりに広がってきます。

ここでのワイン作りは1500年代にスペイン人によって始まり、
決して歴史が浅いというわけではありません。
ここで初めてワインのためのブドウ畑を作ったのはやっぱりというか、
聖職者で、スペイン系の神父でした。

1800年代半ばにゴールドラッシュが起こり、人々が流入しますが、
このときにフランスから入植した者が苗木を持ち込んだりして、
ブドウの種類も豊富になってきます。

1906年の地震と禁酒法はこの地域のワイン業者に打撃を与えました。
地震ではほとんどのワイナリーが壊滅状態になりましたし、禁酒法時代は
ブドウジュースを売ったり、例外だった聖礼典用の酒を作ったりして
なんとか生き延びた業者もあったということです。



オーパス・ワンは1978年に誕生したと言いますから、まだ若いブランドです。
しかも二つのワイナリー(シャトー・ムートン・ロートシルトのロッチルト男爵 と
ロバート・モンダヴィ)の間でボルドー風のブレンドをつくる合弁事業として立ち上げられました。



幹線である一本道に門が面していますが、そこからは
まっすぐワイン畑の中を建物まで長い一本道が通っています。

この神々しい?というか権威ありげな敷居の高さこそが、オーパス・ワンです。



正面に掲げられたフランス国旗とアメリカ国旗。
これはロバート・モンダヴィと、フィリップ・ド・ロチルト(ロートシルト)
男爵の国をあらわすものです。

ド・ロチルト男爵がアメリカのワインに「ロートシルト」の血を入れたことで、
ナパワインは急激に格が上がったということだそうです。



こういうところは意図的に敷居の高さを演出するものですが、
敷居ではなくて天井が高い分ドアが高い。



ドアを入るとここが受付。
今時アメリカにこんな人が生息しているのか、と思うくらい、
小洒落た髭を生やした紳士(絵に描いたような執事風)と、
髪をポンパドール風に綺麗に結い上げた上品な老婦人がいて、
購入窓口となる別の部屋に行くようにと指示をしてくれます。



その部屋がこちらでございます。
ここではワインを紙コップではありますがテイスティングすることができます。
年代ものなどもあるわけですから、やっぱりね。




飲まないわたしにはオーパス・ワンの価値など猫に小判ですが、
いわゆる普通の「オーバーチュア」(序曲)というものであれば
1本が115ドル。
我が家は何年か前にも、日本からワイン通の人を案内してきているのですが、
その時には1本が80ドルといった値段だったそうです。

ここでこんな値段でも、日本のレストランでは5万円くらいになるとか。
アメリカでもワインリストをチェックしてみたら500ドルといった感じでした。

ワイン購入は転売を防ぐためか、一人あたり6本しか買えません。
1本410ドルの2005年は一人1本、360ドルの2010年は3本まで。



TOは木箱入で6本を日本に送ったようです。
ここのカウンターで働いているのは、これもどこから
こんな人たちを集めてくるんだろうというような美男美女ばかり。

やっぱりイメージって大切ですね。

ここを訪れてできることというのは「ワインの試飲と購入」だけで
ミュージアムやお土産屋や、レストランなど全くありません。
しかし、屋上のスペースは眺めもいいので、ぜひ立ち寄ってください、
とお店の人に勧められます。




米仏両国旗のすぐ裏側がテラスになっています。



建物の威容をこうやって眺められるのもここからだけ。
というわけで、立ち寄った客は必ず一度はここにやってきます。
試飲でもらった紙コップを手に、続きと洒落込む人もいます。



広がるワイン畑にはこのようなものが立っていましたが、
これはスプリンクラーでしょうか。



10年前に初めて来た時から通算3〜4回ここに来ていますが、
いつ来ても隅々まで磨き上げられたように美しいのがこのテラス。



格子のラティスが、日の光を幾何学的に遮って、影を作ります。
ナパ地方の太陽は強烈で、日向だとテラスなどに出られたものではありませんが、
これなら少しはましです。(もちろん長居は不可能ですが)



国旗の下からラティス越しに広がる前庭と道。



畑の向こう側に道沿いに走るワイントレインが見えました。
ワイントレインは、ナパ・バレーをランチやディナーをいただきながら
時速30キロの速さでのんびり巡る人気の列車です。

1915~1917年製の車両を完全復元したレトロ調の車両に乗って、
ナパ市とセントヘレナを3時間かけて往復するのです。
車内ではダイニングで料理を食べ、もちろんワインを楽しむこともできます。

WINE TRAIN

景色を眺めるだけのわたしたちは、写真を撮るとすぐ車に向かいました。
車を停めるスペースのすぐ横がもうすでに畑です。



ブドウがいたるところたわわに実っていました。
格の高いワイナリーのオーセンティックで高貴な佇まいを
堪能したわたしたちがそこで見たのは・・・。



おい(笑)

もう、どこにいってもゲンナリさせられるのが中国人。
どこにいっても中国人がいないことはないのですが、せっかくの
ワイナリーの雰囲気をその佇まいですでにぶち壊してくれるのです。

この一団は、ギャーギャー騒ぐ子供たち連れで、しかも全員が
バックパックにジーンズと運動靴、という歩きやすい(笑)格好。

いや、バックパックでもジーンズでもいいんですよ。それなりなら。
でもなんかはっきり言ってむちゃくちゃ違和感があるわけ。
似合ってないわけ。もっというと雰囲気だいなしなわけ。

写真を撮っているのか何をしているのかわからないけど、
あぜ道に入り込んでしかも座り込むか・・・・。


わたしたち以上にアメリカ人、こういうところに来る白人系アメリカ人は
そう思っているらしく、屋上のテラスでテーブルについて試飲のワインを
飲みながら話をしていたカップルは、彼らがやってくると、
露骨に嫌な顔をして反対側に移動していました。

ここは転売屋が爆買いできないので、それでもましなはずなんですけどね。



さて、用事が済んでこの地域のおすすめをカード会社に予約してもらい、
ランチを食べに行くことにしました。
道路沿いにある「ブリックス」というカリフォルニア料理の店です。

奥にあるシカのツノみたいなのはブドウの木です。



予約してもらって現地に行くと、前に来たことがある店なのに気付きました。



このドアもきっとワインと関係あるんだろうな。



大変暑い日だったのですが、外のテーブルにしてもらいました。
レストランの庭はそのものがブドウ畑の中にあります。



金髪の愛想のいいハンサムなウェイターのおすすめを頂いてみました。
スープはそこそこでしたが、えびの乗ったピザは絶品でした。



気候が乾燥して日差しが強いので、カリフォルニアでもこのあたりは
日本のガーデナー垂涎の植物がやすやすと育ちます。

なかでもラベンダーは産地でもあります。



食事をしながら庭を眺めていると、遠くにあるバードバスに
赤い頭の鳥さんがいることに気付きました。



House Finch、日本名メキシコマシコです。




ぷるぷると可愛らしい仕草で水浴びをしていると、
他の鳥(ヒタキの類)が二羽やってきました。

暑いのを我慢して外で食べた甲斐がありました。



デザートは味そのものよりも見た目重視。
添えてあるバラなどの花びらも食べられました。
あたりまですが、バラの花はバラの味がします。
そこで一句。

「薔薇の花が薔薇の味する何事の不思議なけれど」(by白秋)



デザートの頃、驚くほど近くをワイントレインがゆっくり通過しました。
おそらく汽車のダイニングでも、乗客がデザートを楽しんでいる頃です。

ワインを一滴も飲まずに、ワイナリーを満喫した1日でした。







「幸福な乗員とは(腹が)満たされた乗員だ」〜戦艦「マサチューセッツ」

2016-11-22 | 軍艦

戦艦「マサチューセッツ」艦内には、特別にメモリアルルームや
「戦時の女性たち」「PTボート」などのテーマにそった展示がありますが、
それとは別に所々に戦時資料などが飾られてあったりします。

この「日本軍の双眼鏡」もその一つ。
解説によれば、インドネシアはボルネオのバリクパパンで、
アメリカ海軍のモーター魚雷艇部隊36が鹵獲したものです。

バリクパパンというのは、18世紀末にオランダの石油会社が油田を掘り、
以降石油の産地として発達した街でしたが、1942年1月10日、同島の
タラカンを占領した日本軍が2週間後に占領しました。

このとき海軍は軽巡洋艦「那珂」を旗艦とする第4水雷戦隊の他哨戒艇、
そして掃海艇によって輸送船と揚陸の援護を行いました。

このとき泊地に侵入したアメリカ海軍の駆逐艦4隻の攻撃によって
輸送船「南阿丸」を沈めましたが、(バリクパパン沖海戦)
日本軍部隊のバリクパパンへの揚陸を阻止することは出来ませんでした。

ちなみにこのとき船団の一隻に主計中尉として乗り込んでいたのが、
のちの内閣総理大臣中曽根康弘でした。

wiki

その後日本軍は輸送船を使い2月10日にバンジャルマシンも無血占領。
これによってボルネオ島はほぼ日本の制圧下に置かれることになります。

幾つか行われた連合国軍と日本軍との戦闘の間で、この双眼鏡は
アメリカ軍の手に渡ったと言うことなのだと思われますが、
その説明に、こうあります。

「石油の産地で日本軍が侵略するまでは
オランダの石油会社がコントロールしていた」 

日本人としては、産油国からの日本への石油の輸入を遮断した
ABCDラインのDがオランダだった、ということ、そもそも
インドネシアを最初に侵略したのはどこだったのかということも
全くなしでこういう言われ方をすることには大変抵抗ありますがね。



さて、あらためて双眼鏡を見てみましょう。
口径は10cm〜15cmといったところでしょう。



俯仰角の調整ができることから、対空用であると思われます。



暗くてなかなか焦点を合わせることができない中、
なんとか製造プレートを見つけて撮ることに成功しました。

十二糎高角双眼望遠鏡

三脚架 第四十八號

日本工学工業株式会社(不明)製造

昭和14年11月

やはりニコン製、海軍の対空哨戒用であるらしいことがわかりました。





艦内のいたるところには展示用のガラスケースがあります。
左側は誰でも知っている、猛将ウィリアム・ハルゼー提督。
(まあ、山本五十六がどこにいるかわかる?といわれて
コンマ秒で指さしたら、『なぜわかるの』と驚かれたことがある
わたしとしては、ここでの常識が決して世間一般の常識でないのも
よーっくわかっておりますが)

右側はトーマス・キンケイド海軍大将。
まあこの辺になると「聞いたことがある」程度でも許しましょう。(何様?)
第7艦隊の司令としてレイテ沖海戦に参加した司令官で、
終戦と同時に大将に昇任しています。

では真ん中は?
ヘルマン・ゲーリングに少し似ているけど、こんな人見たことないぞ。

Jhon Hyes Hanly

名前も聞いたことがないし。

でも、まわりにずらりと並べられた勲章の数々は、明らかに
このリア・アドミラルの戦功に対してアメリカ海軍から授与されたもの。
ブロンズスター、パープルハート、アメリカンディフェンス、アメリカンキャンペーン、
アジアティック・パシフィック・キャンペーン、第二次世界大戦、
アメリカ海軍忠実勤務(フェイスフルサービス)勲章・・。

なのに、いくらぐぐっても出てこないんだ。この人の名前。
この人をかたどったメダルまであるのに、なぜ?



これなど、

右、太平洋で使われていた竹製阿片用パイプ

下、現地のスールー族の酋長がハンリーに送った手彫りの刀の鞘

左、同じく、刀の鞘

スールーとは南東フィリピンにいた部族です。
それはともかく、これすべてハンリーグッズなんですよ。
誰?ハンリーって誰?
それになぜアメリカ軍人が阿片のパイプを持っていたの?



しかしわからないのでスルーして次に行きたいと思います(おい)

さて、そこで、通路の上側になにやら説明を見つけました。
どうも右側のスピーカーから聞こえて来る、エンターテイメントの説明のようです。

艦内娯楽システム

艦内の娯楽として、士官及びおよび下士官兵には、非番の時はもちろん、
作業によっては任務中も好きなラジオ放送をセレクトして聞くことが許されていました。
ラジオの個人所有は許されていたりそうでなかったりと様々で、
(ゆるかったんですね)中央に設置された受信機からここにあるような
スピーカーで放送を聞くことができるように配信されていました。

スピーカーは乗員用には人が集まる共通の場所に設置されており、
士官の部屋にはそれぞれ個別のスピーカーが備え付けてありました。

通常、ニュースや音楽といった放送はこのシステムで放送されていましたが、
乗組員たちがこっそりと聴きたがった超人気の番組があります。

それは「トウキョウ・ローズ」でした。

「トウキョウ・ローズ」は個人の名前ではなく、
日本人と日系アメリカ人で構成された、連合国側に対して
プロバガンダ放送を行うブロードキャスターの「総称」で、
アメリカ兵の心を惑わせ、戦闘意欲を無くさせるような放送を行いました。

ある「マサチューセッツ」の乗組員はトウキョウローズについてこう言っています。

「もし自分たちがどこにいるかとか何をしたいかを知りたいと思ったら、
すべきことはたった一つ、トウキョウローズを聴くことだった」



もともとこの放送は、日本にいる連合国の捕虜が、

本国の家族に向けて手紙を紹介するという内容で行われた

「ゼロ・アワー」

という番組でした。
男性アナウンサーはその経歴を持つ捕虜が放送を行い、女性の方は
日系アメリカ人など、数人がいましたが、名前が分かっていて、
戦後裁判にまでなったのは、

「アイバ・戸栗・ダキノ」(1916〜2006)

ゼロ・アワーは終戦前日の8月14日まで行われ、特に太平洋戦線の
アメリカ兵に大変人気となりました。

「トウキョウローズ」という愛称は日本側ではなく、これらアメリカの
兵士たちによって誰言うともなく付けられたもので、若い男性である彼らは
その蠱惑的なため息に胸を躍らせたものでした。



さすがはアメリカの軍艦。
「マサチューセッツ」には専属バンドがありました。
音楽隊として入隊したのか、それとも楽器のできるものが志願したのか、
その辺については説明されておりません。



800人も人がいれば、バンドぐらい組めてしまうのがアメリカ。
これを見る限りかなり本格的な構成です。



捕虜の中にプロのアナウンサーが何人も見つかるくらいですから、
元プロという人を集めてもこれくらいできたのかもしれません。
バンマスというか指揮者は下士官っぽい雰囲気ですね。

こういうバンドにはなぜか士官が加わることはないようです。



さらに進んでいくと、アメリカのIKEA (イケアじゃなくアイケアと読んでね)
のレストランにあるような、また飛行機で食事を運ぶような
トレイケースが見えてきました。 



あら、いつの間にかさっきと反対側のgalleyに出てきたんですね。
一人で立っている水兵さんが向こうに見えています。

こちらにあるメニューは向こうと違って、ベーコン、ポテト、
そしてパン。
まあ、いずれにしてもアメリカ人の食べるものって感じです。
もう少しポテト以外の野菜を食べようよ。野菜を。

ここで、当キッチンの調理係だったハロルドさんが一言。



「俺のギャレーに食べに来る水兵は、みんな
”お皿を(なめて)綺麗にするクラブ”のメンバーだったぜ!」






このあたりは、ベーカリーや食器洗い場などがあります。



これは、パンを作るための「フラワーブレンダー」。
厳密に分量が決まっているのか、機械の上に書いてあります。

水、塩、ショートニング、小麦粉、ベーキングパウダー。

「必要に応じて粉ミルクも入れる」

アメリカのパンなんて、どれも同じだと思うんですが・・。
(砂糖の入ったあの柔らかいパンかホットドッグかハンバーガーのバン)



左側にずらりと並んでいるのは電気パン焼き器でしょう。
向かいはドウを寝かせておくスペースではないでしょうか。



パンが焼きあがってオーブンから出したところ。
いい匂いがいかにも漂っていそうですね。 



ベーカリー

このスペースは「マサチューセッツ」のベーカーが粉を混ぜ、
クルーのためのパンやパティスリーを作ったところです。

夜にここに来ると、焼きたてのパンがオーブンから出てきて、
試作品などを味見することもできたので、乗組員たちの人気のスポットでした。

パンやパイを焼く魅惑的な香りは水兵たちの食欲を刺激します。
食欲の満たされた乗組員は幸せな乗組員である。
さればこそ、調理員やパン焼き係は、 彼らを喜ばせることを目指しました。



続く。


 

”花は咲く”〜平成28年度遠洋練習艦隊帰国

2016-11-21 | 自衛隊

本年度の自衛隊遠洋練習艦隊はヨーロッパ各地に寄港しました。
岩崎司令の報告のなかで印象に残ったことは、

◯ロンドンではテムズ川に繋留したが川底が浅いので大変だった

◯リトアニアでは杉浦千畝記念館を見学した

◯同じくリトアニアで国境線に立った

◯フランスのブレストでは仏駆逐艦アキテーヌとUボートドックを見た

ということでした。

フランスにあるUボートドックはもちろんドイツ海軍の使用したもので、
戦後も堅牢な作りが評価されてそのまま使われたとかなんとか。

そして特筆すべきはなんといっても、

◯フィリピンで未だに現役である元護衛艦「はつひ」、
現フィリピン海軍フリゲート艦「ラジャ・フマボン」と遭遇した

 

ラジャ・フマボン (BRP Rajah Humabon PF-11) は2011年まで、
長年にわたりフィリピン海軍の旗艦を務め、最大の戦闘艦艇とされていましたが、
実は1943年にアメリカで建造され、その名を「アサートン」といって、
それこそ第二次大戦でUボートと戦いを繰り広げていた駆逐艦です。

ラジャ・フマボン
 

1955年、自衛隊に供与されあさひ型護衛艦「はつひ」と名前を変え、
同じく貸与された元はアミック (USS Amick, DE-168)である
同型艦「あさひ」と2隻で活動し、旧帝国海軍の駆逐艦「梨」こと
護衛艦「わかば」と共に、黎明期の護衛艦隊を支えたという経歴の艦。

それが、フィリピンでは今でもバリバリ現役で就役中らしいのです。
「あさひ」とともに1976年からフィリピン軍籍となり、
「あさひ」が台風被害などで退役するも、「フマボン」となった「はつひ」は
実に40年の時空を超えて、再び日本国海上自衛隊と邂逅したということになります。

さて、それではまた再び横須賀地方総監での帰国式典の様子を。

地方総監部も半旗を揚げていましたが、「かしま」も
ご覧のように国旗に弔意を表しており、これが
海上自衛隊と深い関わりを持っていた三笠宮親王閣下の
薨去を受けてのことであると場内に告知されました。 

さて、遠洋練習艦隊帰国に当たって、海幕長からの激励の言葉です。

無事の帰国を寿ぐ言葉の後は、

「リトアニア共和國始め各国海軍との

連携をより深化させるのに練習艦隊が寄与したと確信する」

と続きました。


諸外国海軍との交流を通じて海軍の負っている役割、各国の安全保障の現状、
そして取り組みを自らの目で確かめることになり、海上防衛を国防の要とする
我が国にとって自らの使命を自覚する航海となったことであろう、と。

わたしは前海幕長のときにも帰国激励を聞きましたが、

「海上自衛隊のすべての任務の基本が海上にあることを踏まえ、
いかなる配置であろうとも、海上勤務を基本としたものの見方、
考え方を持ち続けてもらいたい」

と一字一句違わず同じ言葉が繰り返されていることに気づきました。 
もしかしたら、必ずこの一文を入れることが決まっているのか、
あるいは帰国激励のときの「定型文」があるのかもしれません。 

ところで、これを聴きとるためにビデオを見直したのですが、
海幕長の言葉が時々聞こえないくらいの風の音、テントが揺れて
ポールの金属が軋む音に改めて驚きました。

この日の横須賀埠頭には、海幕長がアナウンス前に何かを飛ばし、
それを
横須賀地方総監が拾うという光景が見られたくらい
強い風が吹きすさんでいたのですが、式典が終わってふと気づくと、
テントのポールを
一本一本を自衛官が掴んで立ち、
万が一の事故が起こらないようにずっと抑えていました。

帰国式典は出港のときほど時間はかかりませんが、
それでも最初から最後まで、何人もの自衛官が同じ姿勢で
参加者の安全のためテントを支え続けていたのに気付いたとき、
わたしは心の中で彼らにお礼を言いました。

当日参列の国会議員の一人、青山繁晴氏。

政治家特有の辺りを睥睨するような、それでいてどこか下手に出るような、
全く笑っていない目とか隙あらば両手で握手することにためらわない
機械的な愛想というものが微塵もなく、目は伏せたまま。
こんなところにわたしがいていいんでしょうか的な場違い感が満載です。

コートを着込んでしかも襟を立てたままリボンを上につけるというのも、
いくら寒くてもこういった式典の席には奇異な感じが拭えません。

2016年に初立候補で当選した「新米政治家」である氏は、
やはり立ち居振る舞いや参加の服装何から何まで、
全くこういう場での自分の役割がわかっておられないように見えました。

地上での式典が終了後、新任幹部は隊列のまま「かしま」に乗艦。
海士のセーラー服の襟がはためくほどの風の強さです。
襟の裏に名前を書くところがあったことをこれで知りました(笑)

幹部たちは乗員とともにもう一度「かしま」に乗艦します。
式典が終わり、来賓などの退場が終わってから、もう一度
あらためて練習艦隊旗艦を退艦し乗員に別れを告げるのです。

「かしま」舷側には舷門に近いところから幹部が一列に並び、
歩いてくる練習幹部たちの姿を記録するための写真班もスタンバイ。

後甲板に整列した練習幹部(もう練習幹部じゃないですが)が、
敬礼をしながら進んでいきます。

航海中に特にお世話になったとか、仲が良くなった乗員の前では
白い歯をみせて笑いながら通り過ぎていきます。

ラッタルを降りる途中、自衛艦旗が見える位置にくると立ち止まって敬礼。

写真が撮れた幹部のなかでも敬礼姿が決まっていたナンバーワン。

前の人が敬礼をするところを見た幹部は普通に敬礼しますが、
それを見ずに降りてしまった幹部のなかには、
旗に敬礼せずに下艦してしまった人も何人かいました。 

そして全員が岸壁に整列。

サイドパイプが響き、岩崎練習艦隊司令官が退艦の敬礼を。

「帽、振れ」

海軍時代から変わらず行われている、美しい別れの慣習です。

「かしま」幹部の貫禄の帽振れ。

帽振れが行われているのは一瞬です。
したがって前に写りこんでくる後頭部を避ける術なし。

デッキで帽振れをしていた乗員たちも笑顔でお見送り。

幹部たちは行進してこんどは「あさぎり」の前に行き、
そこで敬礼を行うようです。

写真に撮ってみると幹部は敬礼しているのがわかります。

「あさぎり」乗組員も帽振れを行っています。
デッキでは乗組員によって振られる旭日旗が翻って。 

 

練習幹部は全員が「かしま」に乗艦するわけではありません。
「あさぎり」「せとゆき」に分乗して航海が行われます。

それも固定的なものではなく、場合と事情によっては
A艦からB艦に一時的に移乗するという措置が取られることもあります。

今回わたしはたまたま「あさぎり」で帰ってきた幹部の
ご家族からこのタオルと、冒頭写真でばーん!と上げた
記念クッキーのお土産をいただきました。

お土産用にこんなパッケージのクッキーを自衛隊が企画し、
練習艦隊がこれを積んで遠洋航海に出たというところに注目ですね。


さて、今回の寄港地行事のなかで特にわたしが注目したのが、
フランスのブレストで行われた「永田丸」の慰霊でした。

「永田丸」についてはわたしも知らなかったのですが、
第一次大戦中の1916年11月、食料不足に陥っていたフランスに
米を運ぶ途中、フランス近海でドイツの潜水艦に撃沈された日本の船です。

3521トンの民間貨物船で、沈没当時、「永田丸」は神戸を出港して
フランスのル・アーブルに食品を運ぶためにウェサン沖合を航行中でした。

この攻撃によって船は沈没し、49人の乗組員のうち5名が死亡、2名が行方不明。
生存者は近くにいたスェーデンの輸送船に救助されましたが、船長が

「港内の船がことごとく半旗を掲揚して迎えてくれ、思わず涙が出た」

と語ったことが当時の新聞に掲載されています。

「永田丸」の船体は今でも周辺の海底に沈んだままであり、このことは
関係者以外の記憶から忘れられていたのですが、2012年、
「永田丸」船員の墓があるのを、この墓地を管理するボランティア団体
「スーブニール・フランセ」(フランスの記憶)が気づき、両国による
資料の調査を行ったところ、この史実が明らかになりました。

今年が第一次世界大戦開戦から100年目であるということで、
当時のフランスに支援をしようとしていた日本の船に感謝する
セレモニーが催されることになったのですが、その7月16日、
練習艦隊がこの地を訪れていたという縁で、岩崎司令以下練習艦隊幹部なども
追悼式に参加することがかなったということです。

最初から練習艦隊の予定に組み込まれていたのか、それとも現地で
偶然その行事と寄港が重なったのでそういうことにしたのかはわかりませんが、
いずれにせよ、国際支援を行うために命を落とした先人に慰霊の祈りを捧げ、
また、100年後にも支援への感謝を忘れないでいてくれるフランスに対し、
日本人を代表して感謝を返してくれた彼らにもお礼を言いたいと思います。

慰霊はもちろんこれだけではなく、

戦艦アリゾナ

えひめ丸慰霊碑

アーリントン国立記念墓地

コレヒドール

その他各国の墓地などに訪れて行われました。 

初級士官としての各種訓練や試験などだけではなく、遠洋練習航海は、
海という共通点で結ばれた世界の各地に、日本の代表として訪れ、
そして見聞を広めるにとどまらず、外交を行うというのが任務です。

わたしたちには望んでも不可能なこの大々的な世界一周によって得た経験を、
これからの自衛官人生に大いに生かしていってほしいものです。

わたしが横須賀地方総監部を後にし、ヴェルニー公園から
振り返ってみると、また「かしま」の前に幹部が帰ってきて
家族との交流をしている様子が見えました。

このあと彼らはすぐさま赴任地に着任することが決まっています。
今回は世界一周コースなので、いつもより10日ほど航海期間が長く、
その分着任までの休みが削られてしまったのだとか。

当初帰国したらその日に赴任地に行くということになっていたようですが、
お土産をくれた幹部のご家庭では、かろうじて1日だけ帰郷して
一晩の家族再会を楽しむことができたということです。
親御さんは 

「息子も少しは潮気がついたかと思ってましたが、変わってません」

とおっしゃっていましたが、それはきっと親の目から見る「欲目」の反対で、
厳しい訓練の合間に広い世界を見、公に私に様々な経験をしてきた若者が、
何も変わらないということの方が、逆にあり得ないとわたしは思います。

この航海で得た体験は、きっと撒かれた種のように彼らの心と血肉に根付き、
自衛官として
歩んでいくこれからの道に、順次花を咲かせていくに違いありません。

ヴェルニー公園で公開準備中の「陸奥」の主砲越しに望む練習艦隊。


練習艦隊シリーズ 終わり

 

 

 

 

 

 


”この素晴らしき世界”〜平成28年度遠洋練習艦隊帰港

2016-11-20 | 自衛隊

平成28年度の遠洋練習航海は5月20日に横須賀を出港し、
11月4日に同じ横須賀に帰港しました。
帰国歓迎の式典については当初お声がかからなかったのですが、
ある事情のため、急遽”駆けつけお迎え”をすることになったのです。

その後、練習艦隊司令の航海報告会が水交会で行われ、
そちらにも参加してきましたので、そういった話を交えながら
この日のことをお話ししてみたいと思います。

その日の横須賀は真っ青な空が澄みわたる快晴日でした。
地方総監部の建物は海を表すブルーで彩られていますが、
ほとんどそれが空と同じ色に見えます。

中央の国旗が半旗になっているのにこの時気がついたのですが、
不敬にもわたしにはその意味がわかりませんでした。

「かしま」の前にはすでに多くの家族が訪れ、待ちわびていた
練習幹部や乗組員との半年ぶりの邂逅を果たしています。
 
練習艦隊の横須賀帰港はこの日ではなく前日であったようです。

なおわたしは家族ではないのでこんな風にのんびりと到着しましたが、
待ちかねた家族の方々は開門に列を作って並び、このときにはすでに
艦内を
幹部に連れられて見学し終わったころでした。

例年晴海埠頭での出港帰港だった練習艦隊ですが、
今回は何か事情があって(実は聞いたけど忘れた)横須賀になったとのことです。

晴海も練習艦隊入港時、岸壁には誰でも入れるわけではありませんが、
横須賀は地方総監部の敷地内となるので、さらに身分チェックは厳しいようです。
出迎えにくる関係者は前もって自衛隊に年齢、職業などを提出してあります。

入り口には各艦別にテーブルが並べられ、名簿と本人を照合して
(ただし身分証明書等の確認はなし)
手荷物検査を受けて、初めて岸壁まで行くことができます。

手前はプロのカメラマン。

向こう側には赤ちゃんを抱いた妻と一緒の海曹がいます。
赤ちゃんの月齢から見ると、もしかしたら半年前は出産したばかりか、
航海中に出産して、実際に会うのは初めてという可能性もあります。

一旦航海に出ると、しばらく帰ってこられないのが
海上自衛官の宿命とはいえ、若い父親が可愛い盛りの赤ちゃんの成長を
見守ることができないのだけは、本当になんとかならないのかと思います。

愛おしそうに我が子の頭を撫でている自衛官の様子をカメラに収める
カメラマンの背中越しに、わたしは勝手に胸を熱くしておりました。 

こちら皆と離れたところで語らう恋人たち。(多分)
若い二人にとって半年はあまりにも長い時間です。

艦をバックにお茶目ポーズをとる可愛いお母さん。

開式前には中央の来賓席だけが空いています。
この頃には幹部も乗員も、全員艦に戻ってしまっていました。

埠頭に「自衛隊の皆様、お疲れさまでした!」とかかれた横断幕が出されました。
防人と歩む会というのは、自衛隊のみならず海上保安庁、警察、消防等、
一身を擲って国民の為活躍して戴いている人々と共に歩みその応援をするために
啓蒙活動を行っている民間団体のようです。

出港行事と違って音楽隊による演奏はありません。
遠洋航海には音楽隊も乗り組んでおり、各地での行事に必要な
式典のための演奏を行うのはもちろん、艦上レセプションや、
あるいは寄港地での親善演奏会などに大活躍しましたが、
昨日の帰港の後音楽隊はお役が終わって現地解散となったのか、
この日は全員の歩調をとるためのドラム奏者一人が奮闘しました。

ドラムのリズムに合わせて、「かしま」から幹部が降りてきました。
先頭の7人(背の高い人の前)までは、訓練幹部の中の
グループリーダーという役目の者でしょうか。

「かしま」艦長かと思ったのですが、違うようです。 
首席幕僚の一佐でしょうか。 

ここで今回の遠洋練習航海の航程を図で見てみます。

日本を出港後ハワイを通過して西海岸(サンディエゴ)着。
パナマ運河を抜けて東海岸に到達した後、ヨーロッパ各地、
そしてジブチのあとはアフリカからフィリプン経由で帰国と、
まさに世界一周の大航海であったことがわかります。

航海日数の169日に対して停泊していたのはわずか54日。
3分の2はずっと航路にあったということになります。

遠洋航海は旧軍時代から新海軍士官に潮気をつけるための
大事な初級訓練として変わることなく行われてきました。

戦前の若者にとっては、当時は一般人にとっては夢のまた夢であった海外に
遠洋航海でいけるということが海軍を目指す大きな動機になったそうですが、
この行程を見る限り、今の若者にとって決してそれが目的にはなるまい、
というくらいハードな旅程です。

機会とその気があれば誰だって飛行機で楽にいけるところにわざわざ船、
しかも豪華客船などではなく軍艦で行きたいとは誰も思わないでしょう。

現代の若者にとって、遠洋航海とはやはり「訓練」以外の何物でもないのです。

しかもこれみてください。
わたしは岩崎司令の講話を聞くまで知らなかったのですが、
訓練航海の間には慰霊と訓練、そして

定期海技試験

中間試験

最終試験

という(幹部にとって)恐ろしいものが実地されていたのです。


この試験ですが、自衛隊というところは企業では考えられないくらい頻繁にあって、
幹部だとそれに常に良い成績を残し続けたものだけが1佐以上になれるそうです。


つまり、わたしが何人か存じ上げている自衛官幹部の「偉い人」って、
実はどれだけスーパー優秀だったのかと今更恐れ慄いてしまうのですが、
それはともかく、これらの試験を含む遠洋練習航海というのは、
彼らにとってその評価によって配置が決まる、すなわち
自衛官人生を方向付ける一里塚であるということなのかもしれません。

報告会ではこんな資料も出されました。
幹部に近海航海開始時、遠航開始時、最終の3回にわたって
面談による配属希望を聞いたものです。

艦艇希望は終わりに行くほど増えていますが、これは
各地に寄港することを楽しいと感じ、なおかつ各地で
親善訓練などを行ったり、防衛駐在官の存在に触れるなどして
艦艇職域の職域の活躍の幅が広いことを実感したため、
という理由によるものだと分析されています。

飛行、パイロット志望は、わたしが独自に行った幹部へのインタビューでも
非常に多いと感じたことがありますが、希望者が航海中に激減しているのは、
やはり「なりたいが、難しい」ということをどこかで実感するせいだとか。

操縦は諦めるが、飛行機が好きで関わっていたいという理由で
航空整備に切り替える人もいたらしいことが表から読み取れます。

さて、「かしま」から新任幹部たちが下艦してきました。
彼らが配属先を聞くのは帰国の少し前だそうです。
希望通りの配属であればいいですが、もちろんそうでない人もいるわけです。

岩崎司令は、このときのことを水交会での報告会でビデオを見ながら、

「彼らはこの直前に配属先を聞いています。
ですから、内心色々と思うところがあるに違いありません」

と説明していました。

その岩崎英俊英俊海将補が、家族席に敬礼をしながら通ります。
水交会でご挨拶させていただきましたが、報告ビデオを見せながら

「これは余興をしているところなんですが」

と、ご自身がサックスを吹いているのをさらっと説明していたのに
鋭く目していたわたしは、その機会に

「 さっきのビデオではサックス吹かれていたようですが・・・」

と尋ねてみました。

「寄港先の誰それ(偉い人)がクラリネットをするということがわかり、
わたしもサックスをするというと一緒にやることになったんです。
” What a wonderful world"という曲だったんですが・・・」

「ルイ・アームストロングの曲ですね。
演奏歴は長くていらっしゃるんですか」

「目黒の幹部学校の副校長をしていたことがあるんですが、
その時の校長だった海将が楽器をされる方でして」

「ええっ!?もしかしたらF元海将のことですか」

F海将に勧められて一から始めたのか、昔取った杵柄でまた始めたのか、
その辺りの話を聞きたかったのですが、何しろ周りから
ひっきりなしに挨拶に来られるので、聞けたのはこれが限度でした。


海軍時代から寄港地での親善行事は大変重要な「公務」でもあります。
今回の遠洋航海においても、慰霊、表敬訪問の他に
艦上レセプションや演奏会などが各寄港地で行われました。

んな場に欠かせないのが音楽です。
司令が報告会でも「音楽隊は大活躍してくれました」とおっしゃっていたように、

異国において音楽は何より言葉を超えた力強いメッセージともなります。

練習艦隊司令官本人が楽器を演奏できるだけでなく、しかも選曲が 

「この素晴らしき世界」

であったというのは、現地でどれほど日本のネイビーのイメージアップとなったでしょうか。

岩崎司令とともに家族席に挨拶する艦長三人。

「かしま」艦長中村譲介一佐、「あさぎり」寺岡寛幸二佐、
そして「せとゆき」の酒井憲二佐。

ちなみに「かしま」艦長の中村譲介一佐のお名前と顔に見覚えがあると思ったら、
去年わたしが観艦式の本番に乗ったときの「ちょうかい」の艦長でした。

着岸が終わった後デッキで写真を撮らせていただいたのですが、
観艦式の後すぐ「かしま」艦長に任命されていたようです。  

ここから帰国報告と式典が始まりました。
わたしはテントで立って見学させていただきました。
練習艦隊幹部の前に各艦の艦長と岩崎司令が立ちます。

武居海幕長に帰国報告を行う岩崎司令。

艦隊を率いて半年間で世界を回る遠洋航海の艦隊司令は
海軍時代から、船乗りならば一度はなってみたいと言われる配置でした。

海軍最初の練習艦隊はあの上村彦之丞を司令官として
明治36年にオーストラリアと東アジアを回りました。

以降、島村速雄、豊田副武、鈴木貫太郎、永野修身、野村吉三郎、
古賀峯一等、海軍史にその名を残す錚々たる軍人が、
練習艦隊司令官として名前を連ねています。


新任幹部にとってだけではなく、幹部にとっても、遠洋練習航海は
自衛官にとっての重要なステップと位置付けられているのではないでしょうか。


続く。




 


"THE BRIG"(艦内監獄)〜戦艦「マサチューセッツ」

2016-11-19 | 軍艦

戦艦「マサチューセッツ」、ブロードウェイと呼ばれる通路を過ぎ、
さらに進んでいきますと、



"berthing area"(兵員用の段ベッド室)の展示準備中。
次に来てみたらここにはかつてのようにベッドが並んでいるのでしょう。

ここは最も広い寝室で、186人の男たちが寝起きしていました。
艦内のどの部署へもアクセスができ、大変合理的に作られていて、
艦尾のバトルドレッシングステーションにもなることができたそうです。

しかしアクセスがいいということは、もし艦底付近の外殻が裂けた場合、
下の階へのハッチが開いていれば大規模な浸水の危険の可能性もありました。



こんな風にですね・・。
まだ下の階に行けるようです。



より艦底にある階なので、ドアが全て高いところにあります。
(昔はドアはもちろん透明ではありませんでした)



ミシンのあるこの部屋は「テイラーショップ」。縫製室です。
戦艦というのはなにかと縫製する仕事が多いようです。



星条旗のあしらわれた布が隅に積んでありますね。
ここでは旗の修復や製作だけでも毎日何かすることがありそうです。

いかにも40年代の雰囲気が漂う床屋さん。
壁の角度が、ここが戦艦の中、しかもかなりの艦底にあることを表しています。



今のようにプラスティックボトルなどまだなかった頃なので、
「ヴァイタリス」などの整髪料が全て瓶に入っています。 



こちらランドリーエリア。
洗濯を海水でするわけにいかないので、我が帝国海軍の艦隊勤務では
雨が降った時にはシャワーと洗濯を甲板で行っておりましたが、
これを見る限りアメリカ海軍はそれをせずにすんでいたようです。
洗濯をするための蒸留水を作ることも簡単だったのでしょうか。

かつてはこのスペースに大型の洗濯機、乾燥機、シーツのプレスを行う
大型の機械などがあったのだと思われますが。
それをしのばせる展示はまだありませんでした。



こちらは印刷室のようです。
左手に「クラフツマン」と銘のある機械がありますが、これは
現在でも工具メーカーとして有名な企業です。


 

活版印刷機でしょうか。
艦内の印刷物を作る仕事は大きな戦艦の場合絶えず仕事があったようです。



別の部屋に印刷に使う活版の型(たとえば艦内新聞のロゴなど)がありました。

当時ニューポートのブートキャンプ(新兵訓練)に参加した水兵が、
各自もらって衣類などを詰めて運んだキャンバス製のバッグ。
「マサチューセッツ」にもこれを持って赴任してきました。

戦争が終わったとき、持ち主のアーノルド・ノックスは、
潜水艦「バラオ」で帰国するように命じられたので、このバッグは
潜水艦に帯同するわけにいかず(狭いですから)自宅に送られました。
バッグには彼の母親宛の住所が直接書かれています。

ちなみに住所のマサチューセッツ州ウースターは、わたしが毎年夏に
滞在するウェストボローからから近く、おなじみの地域です。

 

艦内監獄、BRIGです。
やっぱりこういうのは一番船底にあるもんなのですね。 

戦艦「セーラム」の艦底階にも監獄がありましたが、こちらのように
いくつもの(5部屋だったかな)檻ではなかったと思います。
やはり乗員が多くなればなるほどここにお入りいただく対象者も
増えてくるということなんでしょうけど、それではどんなことをしたら
ここの住人になれるのでしょうか。

まず、士官はここに入ることはありません。
重大な犯罪を犯した下士官兵専用となっていました。
それでは士官はというと、「スーパーバイザー」の監視の下に置かれ、
居住区の一室に行動を制限されて外に出ることを許されませんでした。
檻こそないけど、外に出られないのなら同じようなものですね。

対象となる犯罪とは、まず1にも2にも「脱走」。
帝国海軍でもこれを「脱柵」として厳しく処分していましたし、
軍を抜ける兵に対しては最も厳しくするのが世界の基準です。

あとは上官への不敬、あるいは反逆など。 
船の中というのはその性質上反逆に最も重い罪を科します。
船を一つの「国」と考えた場合の内乱罪適用ということですね。
内乱罪とは

国家の存立に対する罪でありまた国家の秩序を転覆せしめる重大な罪 

という位置付けなので、極刑となるのが普通です。
ただし、以前お話しした「アミスタッド事件」のように、
迫害されていた奴隷がたまりかねて反乱を起こした場合、
無罪となって故郷に返されるという特例がありました。 

あとはどこの社会にもある窃盗、そして職務放棄、職務怠慢。
暴行や体罰などもこれに含まれていました。

アメリカ海軍では体罰は禁止されていたんですね。
人権意識からそういうことになっていたと思われるのですが、
この辺りが日本軍とは決定的に違っていたと言えましょう。

現代の日本ではもちろん体罰など公的に行うことは厳禁で、
よく自衛官の口から

「そんなことしたらもう大変なことになります」

と聞いたりするわけですが、その分上から下へのパワーハラスメントとなって
追い詰められた下の者が最悪自殺してしまうという例もあるようです。 

これは自衛隊に限ったことではなく、つい先日も東大を出た電通の女子社員が
(おそらく)パワハラを苦にして自殺したという事件があったように、
団体にはどうしても起こってしまう悲劇ではありますが・・。


さて、こういった犯罪が軍艦では「深刻」と考えられており、
収監には罰金刑が課され、階級を下げられるなどの
”おまけ”がもれなく付いてきたということです。

階級を引き下げることを、海軍俗語で”BUST" といいました。
bust とは階級でいうと「トップの次」「2番目」という意味があります。

 

この水兵さんは、戦争中に例の「マサチューセッツのアーティスト」だった
ビル・キャンフィールドが産み出した架空のキャラクターで、
「エズラ・プラム」という名前が付いています。

彼は独房に腰掛け、

なんてこった!
四角い飯(独房用のトレイ)のためにあんなことするんじゃなかった」

エズラは何をやって収監されたのでしょうか。 
彼の回想の中で、女性がエズラにこういっています。
この女性は彼の奥さんであろうかと思われます。

「帰ってきてくれてとっても嬉しいわ、エズラ。
でも上の人たちは怒ってるんじゃないの?」

そう、エズラ、愛する妻に会いたくて勝手に帰艦を延ばしたんですね。

「たぶんね・・・でも何もされないと思うよ?
だってたった3日帰艦を遅らせただけなんだし」

甘い(笑)
3日も帰艦が遅れたら立派な罰則案件です。
エズラくんはフネの掟をちゃんと認識してなかったんですね。 



いずれにせよ、こんなところには入れられたくないものです。
隣に住人がいれば話ができるかといったらとんでもない、
ちゃんとこの区画には見張りが立っていて、厳しく注意されました。

キャンフィールドはこのキャラクターを使って、兵への啓蒙、
こんなことをしてはいけませんとか、こうするとこんなことになりますよ、
といった警告ポスターをたくさん製作したといわれています。

アマチュアの彼が上の目に止まり「艦のために仕事をした」というのは
こういうポスター製作が含まれていたんですね。

このポスターにおいて警告されているのは

「AWOL」(Absent Without Official Leave )

つまり公的理由なき不在。
休暇の後帰艦のタイムリミットがきたのに帰らないとこれに相当します。
エズラはこれに違反したので、水とパンだけの食事(!)を
四角いトレイで食べることになって後悔しているというわけ。

海軍というのは、乗員が艦を離れることについては報告さえあれば
非常に寛容だったということですが、帰艦を無断で遅らせると、
彼のするはずであった任務を他の乗員が自分の任務をこなしながら
するということになり、これはひいては軍艦の戦闘能力を低下させかねません。
したがって、AWOLには厳しい罰則が設けられているのです。



ところで、艦内の監獄といえば、思い出す話があります。
ロバート・ケネディ司法長官の子息でありJFKの甥である
マックスウェル・テイラー・ケネディ著、「DANGER’S HOUR」
で読んだのですが、
空母「バンカー・ヒル」に2機の零戦が突入し、大損害を与え、
乗組員が総出でその対応に必死であたり、あまつさえ艦内では機関室の乗員たちが
自分の命を犠牲にしてまで艦を救おうとしたというその混乱の中、なんと、

どさくさに紛れて窃盗を働いた水兵がいた

というのです。
下手したら空母ごと全員が死ぬかもしれないというときに
一体何を盗んでどうしたかったんだ、と問い詰めたくなりますが、
しかもそれが悲しいことに一人ではなかったみたいなんですね。

詳細については書かれていなかったので、どのくらいの人数が
何を盗んでなぜそれが発覚したかは全く不明ですが、とにかく、
強烈だったのは、彼らが問答無用で艦内のブリッグに押し込められ、
「バンカー・ヒル」が傷つきながら命からがら帰途をたどる間、彼らは

独房の外側から見張りの兵にずっと海水をかけられ続けた

ということです。
こんな事態になっても殴る蹴るがなかった(たぶんね)というのは
さすがにアメリカ、それをするとこちらがブリッグ入りだからですね。


これも空母でしたが、特攻機の突入によって大火災が起こったとき、
海に飛び込んで逃げた乗組員を「罰する」と、艦長が事後に宣言しました。
しかしこちらは「職務放棄」の罰則規定には法的に当たらなかったため、
とりあえずそれは執行されることはなかったという話もあります。


それにしても、キャンフィールドの「エズラ・プラム」シリーズ、
ほかの作品が何を警告されているのかも是非見てみたいものです。
ふと、彼がこんな変わった名前なのも、彼が

「いけない水兵さんの見本」

として創造されたキャラクターだったからに違いない、と思いました。


続く。



自衛隊の本領〜平成28年自衛隊音楽まつり

2016-11-17 | 自衛隊

平成28年度自衛隊音楽まつりシリーズ、最終回です。

航空自衛隊中央音楽隊のドリル演奏も「空の精鋭」で始まりました。

わたしはこの曲については冷淡というくらい興味がないのですが、
(曲が新しいからという問題ではなく、評価していないのです)
このときに演奏されたのは「空の精鋭・ファンファーレバージョン」。

全くどこからどこまでが原曲かわかりませんでしたが、
とにかく大変感動的な導入になっていたのは確かです。 

空自のイメージは常に女性隊員のカラーガードです。
このために何ヶ月か特訓を積み本番に臨む彼女らは
最終公演では泣いていることも珍しくないとか。

観た人は皆覚えておられますね?
敬礼をしながらも顔を庇の下に隠し、バトンを床につきながら
歩くこのドラムメジャー(塚本泰士2等空曹)のカッコよさを。

彼女らの持っているのは形はビューグルですが、
楽器としてではなくバトンとして扱っています。

ブルーと白。これが空自のイメージ。

武道館の天井を高く舞うブルーフラッグ。

クラリネット、バトントワラーのソロとともにカラーガードのソロダンス。

その内容を知っていれば空自がこの曲を選んだのがよくわかる、
超時空要塞「マクロス」に乗せて赤、黒、シルバーの旗が翻ります。

エグザイル?

 

そしてこれが空自のお約束。
全員の上を航過していく4機のブルーインパルス。

・・・のスクリーンを持って走っているのも空自隊員です。 
さて、というわけで第2章もフィナーレの曲となりました。 

合同演奏曲は「翼をください」。 

第1章の最後は男性歌手4人が彩りましたが、第2章は女性歌手でフィナーレです。
陸自歌手はもうすっかりおなじみ、 鶫真衣士長。

芸名のような名前といいこの美貌といい、「士」がつくのが信じられませんが、
国立音大卒、洗足で大学院まで学んだ後、三宅さんに触発されて自衛隊入隊しました。
産経新聞の記事で検索すると、迷彩フル装備に銃を持った彼女の姿が見られます。 

空自の歌手は検索しましたが名前が出てきません。
自衛隊まつりのプログラムには、指揮者とドラムメジャーしか記載されないのです。
YouTubeで「ファゴットのアオタ・マコ」さんであることはわかりました。

「空自の歌姫といっても過言ではない」

と紹介されていたので、未だに空自は専門の女性歌手がいないことになります。 

松永美智子陸士長。
東京オリンピックの壮行会では彼女が「君が代」を歌ったそうです。 

そして三宅由佳莉3等海曹。
去年のステージについては選曲を含め厳しいことを書きましたが、
今年はもう何も言うことはございません。
明らかに全ての点において一回り上手くなっておられると思いましたし、
ますます人を惹きつける力を身につけてこられたようにみえました。 

彼女が観閲式でスーザフォンを吹いていたのが確認されましたが、
もしかしたらあれも歌手としての経験値を上げるための
鍛錬の一環だったのかな、と思ったりしました。

そこにインド軍楽隊が入場してきて空自の音楽隊員とハイファイブ。

右手からは陸軍軍楽隊が陸自と。

海兵隊をお迎えするのは三宅さんはじめ海自東京音楽隊。

そして第3章は自衛太皷。タイトルは「雷鳴」です。
実は全国の基地駐屯地に太鼓のクラブ(クラブなんですよ)はたくさんあって、
この音楽まつりに出演できるのはその中のごく限られたチームにすぎません。 

中央に各部隊に所属する女性太鼓奏者。
彼女らの演舞から第3章は始まりました。 

第3章は「冬の音〜猛き荒ぶる響き」

合同での演技が終わると左右交互に部隊ごとの単独演奏が行われます。

滝川駐屯地というのは「しぶき太皷」がなければ
おそらく北海道在住の人以外にはどこにあるかも認識されないかもしれません。
自衛太皷は駐屯地の名前の広報という点でも大きな働きをしているんですね。 

山口維新太皷は山口駐屯地の太鼓クラブ。

松本アルプス太皷はもちろん松本駐屯地です。
 

座った姿勢で、しかも篳篥を使っての演舞は入間修武太皷。
今回出場の二つの空自太鼓(もう一つは芦屋祇園太鼓)のうちの一つです。

海自に太鼓クラブがないのは勤務形態の関係上しかたないことみたいです。
人数がなんとかなってもフネの上で練習するわけにもいかんしね。 

最後に北海自衛太皷が演奏を決めて・・・、



出演部隊全員での演舞となります。

ブルーの襷に股引は芦屋基地の祇園太鼓。
福岡なのになぜ祇園なのかと関西出身のわたしは思うのですが、
どうも福岡にも「祇園」という地名があるみたいです。

本日の演舞を指導した北海自衛太皷の高橋直保1等陸曹。

最終章に入る前に赤絨毯と指揮台を運んできた
「演技支援隊」の紹介が行われました。

フィナーレの指揮は陸自中央音楽隊隊長、武田晃1等陸佐。
海自の音楽隊隊長はずっと2佐ですが、陸自は方面音楽隊が2佐、
中央音楽隊は1佐あるいは2佐となっているようです。
ちなみに空自の場合は中央音楽隊隊長は1佐で、方面音楽隊は海自と同じ、
3佐または1尉、となっており、各自衛隊は微妙に違います。

本日の出演国の国旗が入場してきました。

全出演部隊がレスピーギのローマ三部作の一つ、

「ローマの松」より「アッピア街道の松」

の演奏をしながら整列していきます。

演奏を行わない太鼓部隊、防大儀仗隊、そしてカラーガードも。

この第302保安警務中隊の絵に描いたような完璧な隊列を観よ。
隊員の身長などを厳密に規定しているため、これほどまでに
芸術的なぴったりと揃った美しいと列となるのです。

フィナーレの曲は「今日の日はさようなら」。
楽器をしていない人と儀仗隊以外は全員が歌います。

インドの方にはおそらく難しいのではないかと思われますが、
それでも紙を見ながら日本語で歌っている様子。

たまに何も見ないで歌っているアメリカ軍がいますが、
彼はおそらく日本語がかなり達者なのに違いありません。

退場の曲は「HERO」。
NHKリオデジャネイロオリンピック・パラリンピック放送テーマソングで、
安室奈美恵が歌っていた曲を行進曲アレンジで。

最初に第302保安警務中隊が退場していき・・・、

手を振りながら出演部隊が会場を後にします。

そして、最終章「春の音」のテーマに合わせて、松永士長と鶫士長、
そして陸自の男性ピアノ奏者による「春よ、来い」が演奏されました。

散る花びらを想起させるきらきらした照明と共に流れる
彼女らの透き通るようなハーモニーが満場を魅了しました。 

音の力というのはかくも圧倒的なものかと思わせる瞬間です。

今年の「最後の敬礼」は陸自中央音楽隊長でした。

というわけで終了した平成28年度音楽まつり。
さっそく支援隊が片付けに入ります。
彼らが手に持っているのはホコリ取りの「コロコロ」。
なんと赤絨毯のホコリをここで取っています(T_T)

坂下門に向かう途中、トウチくん発見。
なんか前見た時よりアタマの位置が下にあるというか・・。

演技を終えて外に出てきた防大の儀仗隊員や、保安警務中隊は大人気。

皆が交互に並んで写真を撮るために配置されたらしい二人と一緒に
写真を撮ってもらおうとしているのは、未来の自衛官かな? 

ところで、わたしは武道館の駐車場にこんなものが停まっているのも
見逃さなかったのだった。

NBC化学防護車。

つまり、大人数が集まる武道館において、万が一毒物(サリンとかね)
が撒かれたときのことまで、自衛隊は想定していたってことです。
これを見てから、万が一今天変地異が起こったとしても、
自衛隊がいれば少なくともわたしたちは絶対大丈夫、との確信を深めました。


最後の最後までその完璧さを見せつけられた自衛隊音楽まつりですが、
実はこんなところに自衛隊の自衛隊たる本領があったというわけです。


最後になりますが、今回の参加に際しご配慮いただきました方に、
この場をお借りしてお礼を申し上げます。

 

終わり。


 


”いで軍艦に乗り組みて”〜平成28年度自衛隊音楽まつり

2016-11-16 | 自衛隊

平成28年度自衛隊音楽まつり、第2章のテーマは

「秋の音〜躍動と創造の響き〜」

です。
今年は4章に夏から始まり春で終わる四季のテーマを冠しました。
聴いている間は取り立てて季節のことは意識しませんでしたし、
それでいうと第3章の自衛太鼓がなんで「冬」なんだと思いますが、
毎年毎年例年にないテーマを考えなくてはいけない企画の大変さに免じて
その辺のツッコミはしないことにします。

それでいうと「秋」の出だしがなぜ防大儀仗隊なのかについては、
秋に行われる防大の開校記念祭の「棒倒し」の写真とともに、

「知略と戦略、実践力を結集した集団の力を要する」

ことがドリル演奏との共通点であると結びつけていました。
わたしがこのとき注目したのは、棒倒しが

「戦前、旧日本軍の諸学校においても行われていた」

とあえて説明されていたことでした。
一昔前なら明らかに”旧軍残渣”であるこの競技の由来を
わざわざ「軍」と明確に説明することはなかったでしょう。

いよいよファンシードリルの始まりです。
防大の冬服の上着に、夏服のズボンを合わせた独特の制服は、
肩からかけた白いベルトと飾緒とのマッチングも素晴らしく、
まるで機械仕掛けの兵隊さんの人形のような学生たちの姿は
ことに中高年の女性のハートをわしづかみにするようです。

 

わたしの後ろにいたおばちゃん軍団も、彼らが出てきたときから
嘆声と歓声を抑えることのできない興奮状態に。

一回目、シャッタースピード調整に失敗して銃が消えてしまったので(笑)
今回は1/60で撮ってみました。
完璧に止まってしまわず、しかし動きを残した感じで撮れました。

このポーズのときには後ろのリズム隊も同じ姿勢をしています。

去年に続いてドラムメジャーは4学年の指原呂城生徒が務めます。

去年のファンシードリルをニコニコ動画で見たのですが、
ドラムメジャーの名前が「サシハラロッキ」とコールされた途端、

「ロッキ?」「ロッキー?」「ロッキー!」

のコメントの嵐になったものです。

儀仗隊のドラムメジャーは文字通りドラムを叩く人。
指原生徒の入隊動機は

「1年の時の同部屋の3年生に連れられて」

だとか。
彼にとって最後の音楽まつりのということになりますが、 
満足のいくステージとなったでしょうか。 

右側から順番に銃を片手回ししていくドリル。

ちなみにこちら失敗したバージョン。銃が全く消え失せています(笑)

一番左の隊員が敬礼をしつつ長回し。
後ろのおばちゃんたちの声援がひときわ熱狂的になりました。

 

左から順番に銃を空中で一回転させるドリル。
肘はあまり上げないようにと言われているんですね。

銃を投げ上げて片膝をついて座って静止。
これも見ていると左から右まで一瞬です。
写真に撮ってみると、右から左までがまるで分解写真のよう。

そしてクライマックス、指揮者の銃くぐり。
2列に向かい合ったその中央を、互いに投げ渡される銃の中、
指揮者がまっすぐ歩んでいくという実にかっこいいドリルです。

 

これを見ても、銃を同じスピード、同じ角度で正確に向かいに投げるのは
よほどの訓練を積んだ結果ならではだろうという気がします。
まるで絵に描いたように銃が中央で綺麗にクロスしています。 

 

ほとんど失敗だった1回目の撮影ですが、一枚だけ
空砲発射とともにライトが消された瞬間を撮ることができました。

実際に空砲を撃つのは真ん中の三人だけみたいですね。

というわけで防大儀仗隊ファンシードリル、
当たり前のようにノーミスで終わりました。

指揮は第4学年の宮川大司学生です。

最近、防衛に関わる話題で頻繁にその名を聞くインド。

トランプ大統領当選を受けて、安倍政権は中国を取り囲む
日米露の同盟に加え(それにしても米露が共通の敵を得るとは)
インドを重要視しており、 それを受けて安倍首相はアジアの盟友である
インドのモディ首相とすでに8回目となる日印首脳会談を行いました。


この音楽まつりの頃にも、安倍首相が会談において

「インド太平洋地域と世界の平和と繁栄を、
日本とインドが手を携え、主導していく」

と呼び掛け、モディ氏も

「私たちのパートナーシップは豊かで力強い」

と応じたというニュースが流れていました。

というわけで(だと思うのですが)インド軍楽隊の登場です。
赤と黒の制服、団扇のような飾りのついた帽子が華やかです。

"Call of the heart"という楽曲はおそらくインドの曲でしょう。
軍楽隊としての活動に日本のようなドリル演奏を取り入れていないらしく、
ステップを踏んだりフォーメーションを変えたり、ということはしません。

後半は歌手がヒンドゥー語で歌唱を披露。

実は、同行者の知り合いがその前日見に行って、インド軍楽隊のことを

「 なんか・・・・もしかしたら楽器があまり上等じゃないのかも」

と言っていたそうです。
友好のためのお祭りのゲストバンドを批評するのは気が引けますが、
個人的なテクニックが一定のレベルに達していない人が多かった、
というのがわたしの正直な感想です。

もちろん日本の吹奏楽のレベルは裾野の異常な広さもあって大変高いので、
それと比べるのは酷というものかもしれません。

さらに曲の構成そのものも、

「いや、そこで終わるなよ」

とおもわず突っ込んでしまう不思議なエンディングでした。
まあいい悪いではなく、西洋音楽の取り入れ方、消化の仕方が
まったくこの国では違う、ということなんだろうと思います。

さらにいうと、彼らの音楽からはトルコ軍楽隊の「メフテル」、
(有名なのは「ジェッディン・デデン」 'Ceddin Deden'祖父も父も)
この素朴でしかし勇壮な響きを想起させる民族的な香りがしました。 

隊長のアシュック・クマール少佐の敬礼は手のひら外向き。
イギリスの植民地だっただけに敬礼もイギリス式です。

この手のひらを外に向けるやり方は、かつての騎士が
武器を所持していないことを王に示すための動作に由来すると言われています。

それはともかく、インド軍楽隊の演奏はテーマの「秋」ガン無視でした。
そもそもインドの人は秋って何?それおいしいの?状態なのかも。

さて!(と姿勢を正す)

陸自の「抜刀隊」がピッコロ独奏で始まったように、
行進曲「軍艦」もハープの柔らかな音色で始まります。

ただし「軍艦」は必ず最後に行うことが決まっているため、
ここではイントロ風に一部が演奏されるだけ。
その音色に波の音が重なって、いよいよ海上自衛隊東京音楽隊の登場です。 

これも例年のしきたりとして、東京音楽隊のバナーに続き、
カラーガードが海上自衛隊側を中心として歩んできます。

ちなみにこの時のフォーメーションは船を象っています。

両脇の白とブルーがカラーガード旗、ブルーが東京音楽隊旗、
そして紫のは女性部隊の旗です。



続いて東京音楽隊精鋭のドラム部隊のドリル演奏。
自分の右にいる人のドラムを叩いてみたり・・・
(一番左の人は叩く真似だけ)

写真に撮ってみると隣のスネアを叩いていたりします。

敬礼!

プログラムにはオータムファンタジーとなっていますが、これは
テーマを「秋」と決められてしまったためのオリジナル。(たぶん)

 

東京音楽隊が今年選んだのは「われは海の子」。
この曲については、以前一稿を割いてお話ししたことがあります。

歌が始まった時、胸がぎゅっとするくらいの緊張が走りました。
戦後のGHQによる思想統制に伴って日本全土を吹き荒れた
自主規制の嵐によって、すっかりないことになってしまったこの曲の、
あの幻の7番をこの日は歌うつもりなのだと瞬時に悟ったからです。

まずは三宅由佳莉3等海曹がハープの優雅な伴奏に乗り、
ソフトで伸びやかな声で一番を歌います。

我は海の子白浪の

さわぐいそべの松原に

煙たなびくとまやこそ

我がなつかしき住家なれ。




東京音楽隊ホルン奏者、川上良司1等海曹が「煙」の部分から
低音のオブリガードで絡んできます。

「宇宙戦艦ヤマト」の歌唱で音楽まつりに出演したこともあり、
一部世間では「ヤマト歌い」として有名な「歌手」です。
(ご本人はそんなことはないとおっしゃていましたがそんなことはないと思います) 

1番の歌が終わると、転調してアップテンポになり、
ドリル演奏がカラーガードも加えて行われます。
ドラムメジャーは指揮者の反対側で「裏指揮」をする役目。

ちょっとしたことですが、この部分はコードも代理和音を使って
雰囲気を緊迫感あるものに変えていました。

その間舞台の両袖に退場した歌手は、正帽を着用して待機しています。

何年か前の音楽まつりで、やはり同じ川上・三宅コンビの歌唱による
「海をゆく」をやったことがありますが、その時のように
正帽を目深にかぶり、表情を引き締めての2番です。

三宅三曹の真後ろに、8月末に樋口隊長と共に横須賀音楽隊から
東京音楽隊に移籍したばかりの目黒渚2曹がピッコロを演奏しています。
ちょうどツーショットになるようにトリミングしてみました(笑)

 

そして武道館に響き渡る「我は海の子」の最終段。

この曲についてのことどもは、拙ブログの記事に書き尽くしたつもりです。
もしご存知なければぜひご一読をお願いしたいと思います。 

我は海の子〜我は護らん海の国 

歌い方、所作、声の調子まで凜とした2番の歌唱が終わりました。
川上1曹の上げた左手が自衛官式で握った拳であったのが印象的です。 

この曲を取り上げたとき、すでに退官したある自衛官が

”われわれ海上自衛官は、この曲の7番がどんな歌詞であるか、
夙(つと)に先輩から教えられていました。 ”

というメールを下さったのでした。

ただ故郷の海辺の情景を想う歌だと思っているほとんどの日本人と違い、
これが海に生まれ、 海に育って、海の国を護るために軍艦に乗って海に出て征く

海軍軍人の歌であると、多くの海上自衛官は知っているというのです。

今回、幻の7番を初めて聞いた方は、その中の少なくない人数が、
国防という任務に粛々と、かつ真摯に取り組む海上自衛官たちの
強い決意と覚悟を、この選曲から感じ取ったに違いありません。



力強い「われは海の子」のエンディングは「軍艦」につながっていきました。
いつもと全く同じ錨のフォーメーション、いつもと同じ行進曲の響き。

しかし、「いで軍艦に乗り組みて」という言霊の未だ漂う武道館に響き渡る
「軍艦」の調べは、いつもよりさらに力強く、そして頼もしく感じられたのです。


今回の音楽まつりを聴きに行かれた、やはり元自衛官の方が、

わたしにこんなメールを送ってこられました。


昨日、自衛隊音楽祭りに行って来ましたが、初めて「我は海の子」の七番を聞きました。


いで大船を乘出して
我は拾はん海の富。
いで軍艦に乘組みて
我は護らん海の國。

もう一度、生まれて来ても、自衛隊に入りたいと思いました。
 

 

続く。

 


「待ってます。自衛官一同」〜平成28年度自衛隊音楽まつり

2016-11-15 | 自衛隊

第1章の「熱き能動の響き」、続いては在日米陸軍音楽隊の出場です。

おそらく米陸軍にも歌手の順番待ちが列をなしているのでしょう。
去年とはまた違うアフリカ系のヴォーカリストが登場。 

ディズニーシーで「アラジン」のアトラクションの最後に
ジーニーが歌う「フレンド・ライク・ミー」。

在日米軍は当然のことながらジャズを得意としますが、
ディズニーの曲であればディズニー好きの日本人には知る人も多い、
という情報を得ての選曲であろうと思われます。

なんとなくこの人のキャラもジーニーっぽいような。

ただノリノリで演奏するだけでなく、見て楽しい仕掛けが満載のステージです。
クラリネット奏者がサックス奏者と2人1組になって、クラ奏者がキイを操作。
サックス奏者は吹いているだけなので皆片手を上げています。

楽器そのものは木管と金管の違いがありますが、実は両者は
機構が何かと似ているせいか、プロの口から

「クラリネットが吹けたらサックスも吹ける」

らしいと聞いたことがあります。
運指も似ているのか、こういうお遊びもできたりするんですね。

ヴォーカルのジーニーはクラ奏者かサキソフォーン奏者ってことですね。



客席に拍手を求める音楽隊長マービン・カードー上級准尉。
去年は「エル・クンバンチェロ」で大活躍でした。

後ろの人、なんで楽器を床に置いてるの?

ジーニーを挟んで2人の奏者が火花を散らしてソロ対決。

ランプの精の歌なので、マジックをやっているつもり。
クラリネット奏者が楽器と帽子を持っててもらい、口からなにやら妙な
長いものをずるずると引き出すという体を張ったパフォーマンス。 

同僚のアジア系女性クラリネット奏者が呆れています。

必ず米陸軍がやるゆらゆら演奏。

その中に去年もいた美人さん発見。

とにかくジーニーの歌唱力がプロすぎて圧倒的なステージでした。

続いては米海兵隊第3機動展開部隊の登場です。
ご存知の通りこの部隊は沖縄に駐留するのですが、この名称は
正確に言うと

「第3海兵遠征軍」3rd Marine Expeditionary Force: 3MEF

となり、うるま市のキャンプコートニーを本拠地とします。

海兵隊のドラムメジャーの定位置は常にここ。
彼は基本的に仕事しない派で、演奏中ここに立っています。
それもなかなか大変だと思うがどうか。

なんと、海兵隊、今年は「島唄」できました。

「島唄」〜「サマータイム」〜「島唄」

というサンドウィッチ形式での(トリオ形式とも言いますね)
構成で、駐留地と「夏の音」にこだわったようです。


ご存知かと思いますが、「島唄」は沖縄での地上戦を歌ったものであり、

ウージ(サトウキビ)の森で あなたと出会い ウージの下で 千代にさよなら 

というのがガマ(洞窟)で自決した二人を意味する、と
作者も自身で語っています。

「沖縄は本土の犠牲になった」

ともこの際言い切ったそうですが、このとき沖縄に上陸し日本軍と
激戦を繰り広げたのは他ならぬこのアメリカ海兵隊であったわけです。 

その海兵隊、しかも沖縄を根拠地にする部隊の舞台。
そこには何の怨讐も遺恨もなく、今や強固な同盟関係を持つ両国の
友好の証でもある音楽の祭典において、沖縄戦を歌った「島唄」が奏でられ、
日本人からは彼らに向かって惜しみない拍手が送られているのです。

両国が歩んできた戦後の友好関係の結実を、あの国難とも言える大災害のとき
惜しみなく救いの手を述べてくれたアメリカ軍の姿にわたしたちは見ました。

トランプが大統領選に勝ってからわたしは幾つかの団体の会合で、
防衛省自衛隊の関係者やなんかからこのことについて聞きましたが、
いずれもそれは歓迎を意味するものでした。

理由は様々で、

「トランプは艦艇を増やすということを表明しているから」

といった人もいましたし、

「トランプが在日米軍を縮小するという噂もあるが、これを奇貨として
自主防衛と米国との”円満な離婚”に舵を切ることができる」 

という意見もありました。
トランプかヒラリーかではなく、民主党か共和党か、で考えた場合
共和党の大統領なら少なくとも日米関係がが後戻りすることはないだろう、
ということを聞くこともあります。


ただひとつ言えるのは、たとえお互いどんな指導者を戴こうとも、
両国の関係が後退することはあってはならないということでしょう。

キーボードは沖縄三味線の「三線」の音をうまく再現していました。
ところで彼らは「島唄」の歌詞に隠された意味を知っていたのでしょうか。

真顔で最後まで立っているのがお仕事のドラムメジャー。
名前に「三世」がつくという人でした。
(ジェームス・R・ホルト三世)

ジュニアは普通によくありますが、さすがに三世は珍しい気がします。

今回の自衛隊音楽まつりのプロモーションビデオで
陸自のピッコロ奏者が「抜刀隊」のメロディを無伴奏で吹いているのを
見たことがある方がおられるかも知れません。

昔は陸軍の、そして現在も陸自の行進曲として使われている
シャルル・ルルーの「陸軍分列行進曲」は、二つの曲を合わせたものです。

「我は官軍 我が敵は 天地容(い)れざる朝敵ぞ」

という部分の「抜刀隊」、そして最初の部分の「扶桑歌」。
どちらもルルーの作曲で、「扶桑歌」は前奏のみ採用され後半は消えました。

ルルーが作曲したのは1886年(明治19年)のことです。
戦時中も使われ、あの雨の神宮球場での学徒出陣式でのフィルムには
軍楽隊が奏でる「陸軍分列行進曲」が残されており、
わたしなど最初にこの曲が現在も自衛隊で使われていることを知ったとき、
心の底から驚いたものですが、いずれにせよ、この曲の格調高く、
人の心を惹きつけてやまないある種の哀愁と心を鼓舞させる
メロディの輝きは130年を経過した今日も全く変わっていません。 

「扶桑歌」のイントロとともに純白の儀仗隊を先頭に、
「陸軍分列行進曲」の響きに乗って入場してきた陸自中央音楽隊。

背中がビリビリと震えるくらいの感動を覚えたのはわたしだけではありますまい。

演奏の間も上のスクリーンではこういうファン狂喜の映像が流されます。

 

陸軍分列行進曲に続き、ステップを踏みながら演奏するは

「乱世の神威 幸村」(樽屋雅徳)

 

この作曲者の別の曲に「マードックからの最後の手紙」があります。



美味しいソロをとるユーフォニアム奏者。



一列になって歩むフォーメーションは「島唄」のときにも

「しまうーたよかぜにのりー」 

の部分で使われました。
吹奏楽のクライマックスにはこれを想定して作曲してあるのが
はっきりとわかる曲がありますが、これもその一つです。

こういうフォーメーションをマーチング用語で

「 カンパニー・フロント」(company front)

といいます。 
中央音楽隊のドラムメジャーはこういうときにも参加する派。

第302警務中隊と一緒にドリルを行えることは
陸自中央音楽隊にとって大変な強みであるとこういうのを見ると思います。

指揮は志賀亨2等陸佐、ドラムメジャーは馬場英一2尉。

さて、ここで第1章出演部隊の合同演奏となりました。
全部隊の前に出てきたヴォーカリストは4人。全員男性です。 

「千と千尋の神隠し」の挿入曲「あの夏へ」のイントロに続き、
全員で歌う嵐の「ふるさと」 です。

先ほど「ハナミズキ」を歌った陸自東部方面音楽隊の歌手。

ジーニーも別人のような神妙な雰囲気で(笑)日本語の歌詞を披露します。

ピッコロの美人隊員が現場の動画でもアップになっていました。
動画のカメラマンも綺麗な人をどうしても狙ってしまうのね。 

西部方面音楽隊の歌手。

この間朝霞の観閲式でわたしもお世話になった1トン給水車!

正面の壇上にはコーラス隊まで出動しています。

どちらにも女性が一人ずつ加わって。
こちらは中央音楽隊。 

海兵隊の歌手は2番の頭の部分のソロを取りました。

中央音楽隊。とにかくみなさんお上手です。

歌手としてのステージングも堂にいったもの。
あ、この人もしかしてカラーガードをしていた隊員? 

会場のモニターでは、災害派遣の現場で、被災者の気持ちに寄り添って
救助活動をしてきた自衛隊に対する、感謝のメッセージが映し出されました。 

メロディの美しさ、歌手たちのパフォーマンスの素晴らしさ、
そしてこの映像の与える感動で思わず瞳がうるんできたわたしです。 

こうして子供に感謝の意を表すことを教える先生やお父さんお母さん、
そして周りの大人がいる限り、日本はまだまだ大丈夫だと思えます。

「いつもおふろ ありがとう
おおきくなったら じえいたいになります。」 


会場からは暖かい笑いと、そして拍手が湧き上がりました。

 

続く。




 


オープニング〜平成28年度自衛隊音楽まつり

2016-11-14 | 自衛隊

今年も秋の恒例行事、自衛隊音楽まつりをみてきました。
例年この濃密な2時間を過ごした後は、とてつもない完成度と企画力の高さ、
そして行事を恙なく運営するための多くの自衛官たちの働きに
心から感動して九段の坂を下りるのが常なのですが、不思議なことに
毎年毎年、去年よりもさらによかった、と思わないことがないのです。

おそらく何回行ってもその感動はますばかりなのでしょう。
これもまた自衛隊という組織の底力のなせるわざというべきでしょうか。



・・・というわけで今年のテーマ「音の力」にむりやり繋げたわけですが、
「音の力」というテーマには、自衛隊という「軍隊の力」の誇示も
内包されているのではないか、とわたしは2時間が終わって感じました。

どういうことかといいますと、現在の日本の「国の護り」である自衛隊からの−
ー早々と種明かしをしてしまいますが、「覚悟」とも「決意表明」とも取れる
強いメッセージをわたしはこの2時間の公演から感じ取ったのです。

もうすでにYouTubeで内容は全部見ることができますし、最終日には
実況放送がUstreamなどで行われ、また実際に行かれた方も
多いかと思いますが、ここはひとつ、本ブログに今一度お付き合いいただき、
なぜそう思ったかを説明していこうと思います。

開場は1時間前です。
席に着くとカメラのチェックも兼ねて色々と周りを撮りまくります。
シューアというのは音楽関係者なら誰でも知っているマイクのメーカーですが、
こんな形のマイクがあったとは今日まで知りませんでした。

もちろん開場のいたるところには音を拾うためのマイクが
まるで機雷のようにあちこちに仕込んであります。

一般公演、招待公演どちらも行ったところによると、招待公演は
2階中央の真ん中を偉い人と場合によってはSPが占めてしまうので、
そもそも席が選べません。
入っていった順に誘導されて嫌も応もなく席を決められてしまいます。
ですから一般公演の方が写真を撮りたい人には人気があるようです。

さて、難なく今回も上々の席に座ることができ、まずステージ上方の席に
陸空の自衛官が二人インカムをしてずっと開場を見張っているのをパチリ。

客入れを反対側から監視して、異常があれば対処する係のようです。

同行の方によると、この人があの「あだちビデオ」のカメラマンの方らしいです。

「あだちビデオってことは、もしかしたらあの、レンジャー訓練のビデオを
撮影していたカメラマンてことでしょうか」

「そうでしょうね」

レンジャー訓練が過酷なのは当然ですが、山に入った時の彼らの訓練を
重いカメラを担いで撮ったカメラマンがいるってことよね?
とあのDVDを観ると考えずにはいられなかったのですが、
そのレジェンドとはこんな人だったのか・・・・。 

時間があったので、3階の席からどういう風に見えるのか、
空いている時にわざわざ上がってみてみました。

3階中央から下を見下ろしたところ。
確かにここならフォーメーションは見やすいかもしれない。
ただしこの写真は立って撮っていますから、やっぱり少し死角が多いかも。 

二人の陸自隊員が指揮台を運んできました。
彼らも出演者としてプログラムで紹介されています。
部隊名は「演技支援隊」。

順番を待つために並んでいたとき、わたしの後ろの人は
息子さんがこの支援隊の方でした。
その後ろの人と話をしていたので知ったのですが。

開演前、会場に向けてビデオが流されます。
例年自衛隊リクルート系と自衛隊音楽隊宣伝系です。
それとは別に一度だけ、本日のテーマを補強するような内容のものが
放映されるのですが、今年は「軍楽隊の成り立ち」でした。



世界における軍楽事始めとそれ以降の歴史の後は、我が国における軍楽隊の
成立とその発展についてです。
薩摩藩軍楽伝習隊の話はかつてこのブログでも扱ったことがありますね。

陸軍と海軍で「お雇い外国人」の国籍が違ったこともあって、
陸軍はフランス式、海軍はイギリス式になったという話。

実は今回の音楽まつりは、いつも恒例として「軍艦」を演奏する海自はもちろん、
陸自は「陸軍分列行進曲」、空自は「空の精鋭」と各自のテーマを演奏しました。
これはわたしの知る限り(って大した回数ではありませんが)初めてです。 

ここで陸自のテーマである「陸軍分列行進曲」がお雇い外国人の
フランス人シャルル・ルルーの作曲であることが説明されました。
すると、後ろに団体で来ていたおばちゃんたちが一斉に

「あらーそうなの〜」

「へー知らなかったわ〜」

と感心しきりでした。
(このおばちゃんたちは地方からバスで来た団体だったようですが、
とにかく演奏の間じゅうきゃあきゃあと反応が喧しかったです)


わたしはこの段階ですでにいつもとの違いを感じ取りました。
自衛隊はミリタリータトゥーにも出場する、「軍楽隊」です。
ただ、自衛隊は軍隊ではないとずっと言い続けてきた戦後において、
たとえ音楽隊であってもそれが「軍」であるということを公の場で
どんな形であるにせよ明らかにすることはなかったのが現実です。

自衛隊は「軍楽隊である」とはっきりと表明したこの内容に注目し、
何かが少しずつ変わり始めているのを感じたのは、武道館に訪れた人の中で
少なくともわたし一人ではなかったことを確信しています。

幕が開くと海上自衛隊のトランペット奏者が
「起床ラッパ」を演奏しました。

音に人を動かす力があるという本日のテーマのオープニングです。
そして陸海空部隊がプロローグ演奏を行います。

オッフェンバックの「天国と地獄」や「ウィリアム・テル序曲」の一部が、
戦車の走行音、護衛艦の進水、そして航空機のエンジン音に変わっていきます。 
音の持つ力とは力を表す音でもある、という逆説・・・・?とか・・? 

そしてヴァン・マッコイ&ザ・ソウル・シティ・シンフォニーの
「アフリカンシンフォニー」が力強いドラムとともに始まり、
いつもと全く違う雰囲気で歩み出てきた三宅由佳莉三等海曹。

まるで歌舞伎の見得を切るような所作、
そして凜とした厳しい表情の新しい三宅三曹です。

彼女が後ろに進むと同時に前進する全部隊。

最後のハイトーンDには思わず鳥肌が立ちました。

つかみはいきなり最高潮。
ただならぬテンションの高さのオープニングです。 

続いてセレモニーのために儀仗隊が入場。

純白の制服を着けた第302保安警務中隊の三人が
国旗を真ん中に、2名はそれを警護して入場してくると、
国家斉唱が行われます。

わたしは昔防大の開校記念祭を取材していたマスコミが
国旗掲揚時、何もしていないくせに立ちもしなかったことを
口を極めて非難したことがありますが、さすがに音楽まつりの
スタッフはほぼ全員が起立しているのに安心しました。

歌っているかどうかまでは見えませんでしたが。

陸海空自衛隊によるオープニング演奏は「ドラゴンクエスト序曲」。

この日は広角レンズを持っていなかったのでDが撮れませんでした。
「SOUND 」という言葉で始まったプロローグは人文字も「サウンド」。 

演奏は東京音楽隊長に就任したばかりの樋口好雄2佐です。

ここからが第1章「熱き能動の響き」。

蝉の声がながれ、「あつきのうどうのひびき」
と言われたら、普通「熱き農道の響き」だと思いません?

それはともかく陸自東部方面隊音楽隊のドリル演奏です。
クヮルテットでイントロ風に「夏祭り」の導入。

虫網を持った少年少女?が駆け出てきました。

この虫網ダンスをバックに男性隊員が一青窈の「ハナミズキ」を歌います。

こういう「普通の男の人」の上手い歌が聴けるのは自衛隊音楽まつりだけ!
女性歌手はともかく男性の歌手は同じ人を2度と見たことがないのですが、
いかに人材が豊富かということの証左でしょう。

きっと歌の上手い人が順番待ちをしている状態なのではないでしょうか。

 

アップテンポになり、皆がてんでに動き回るスタイル。

虫網の人たちはハンカチを持ってダンス。
曲は「睡蓮花 」(湘南乃風だっけ?)

フィニーッシュ!

夏の音ということで、「夏の思い出系」できた陸自東部方面音楽隊でした。
殊勲賞はやはりスウィートボイスの歌手に差し上げたいと思います。

続いては陸自西部方面音楽隊。
最南端にある陸自駐屯地ということで、テーマは「火の国」。
白い半袖のユニフォームで登場です。

陸自のドリルでいつも登場するのが男性のカラーガード。
空自がお嬢さんなのであえてうちは男でいったる、という気概が見えます。

いやーこの無骨なこと(笑)
順番を待っていると、陸自迷彩の数人が外で旗を投げたりして
練習していたのがわずかに見えましたが、あなたがただったのね。

しかしこの男性の旗振り、なんとも言えない趣があって
個人的にわたしはだいすきです。
今回の旗振り男たちは比較的若い人が多いですが、
何年か前はおじさんばかりでつい?わくわくしてしまいました。

一番右の人、あぶなーい!

ドリル演奏は「あんたがたどこさ」に続いて「おてもやん」。
「火の国」にふさわしく、紅蓮の旗で華麗に舞う熱い男たちに惜しみない拍手を。

 

続く。 

 

 


「機雷( MINE)」の語源〜戦艦「マサチューセッツ」

2016-11-13 | 軍艦


さて、戦艦「マサチューセッツ」の見学も機関室までやってきました。
つまり、艦内のファシリティについてはとりあえずここで
全てを回ることができたといってもいいかもしれません。

 

現在地の右手の一段低い部分が機関室ということになり、
その右手がターレットの下部にあったバーベットとなります。
(おさらい)

今から艦尾に向かってこのフロアを進んでいくわけです。



「バルコニー」のあったバーベットがドーナツ状です。
前後のバーベットをつなぐ細い廊下を進んでいるわけですが、
面白いことにこの廊下は

「ブロードウェイ」

と呼ばれていました。




この廊下によって機関室と弾薬庫、そして戦闘時の負傷者の
応急手当する「バトル・ドレッシング・ステーション」


そのようなものをつなぐ役割であり、一度ことが起これば
もっとも混雑する通りであることからこう呼ばれていたそうです。

アイオワ級戦艦のブロードウェイはこの二倍の幅があったそうです。



そのバトルドレッシングステーションの扉。
透明の板で中が見えるようにしてありますが、
もちろん当時はそうだったわけではありません。

 


前にも説明したことがありますが、戦闘中に重傷を負い、
シック・ベイ(医務室)まで連れていくのが困難な戦闘員を
ここに一時的に収容して応急手当てをするところです。

戦闘中にはハッチを閉じていました。 



さて、このあたりにはかつては兵員用のバンク(ベッド)が
コンパートメントごとに並んでいたところだと思われますが、
今は展示に必要な部分を残し、ほかは装備の展示が行われています。

「演習のためにマーク30弾頭をつけたマーク14」とあります。
サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフで、潜水艦を見学した時、
このMK14が展示されていましたが、当時の潜水艦が搭載していた
平均的な魚雷がこれだったと言われています。

改良するまでは不具合が多く、開戦当初はで日本側の艦船が

「魚雷が命中していたけど爆発しなかった」

という例を多々報告していましたが、最終的には弾頭につける炸薬を
変えることによって、日本側は潜水艦の攻撃に苦しめられることになりました。

この魚雷は演習用に主砲、対空用であったMk30を弾頭につけたもので、
演習用ですから浅い深度を、目標の下を通過するように撃って
あとで回収してまた使っていました。

このころの演習用魚雷は、弾頭に圧縮空気とテレスコープを仕込んであり、
最終的には浮いて回収しやすいように設計されていました。
それで全てが回収されたわけではなく、1980年にはニューポートで
第一次世界大戦時の魚雷が発見され、ゴートアイランドにある海軍の
魚雷ステーションで処理されています。

フリッツX radio control爆弾

どうですか皆さん。このいわゆる中二病的な素敵な響き。
「フリッツX」は第二次世界大戦中にドイツが開発した誘導爆弾です。

それにしてもアメリカでドイツの武器をにお目にかかろうとは。



フリッツXの誘導方式は目視誘導で、母機(主にDo217が使用された)から
5,000m~8,000mという高高度で投下されるものでした。
母機はそのままスロットルを戻し、着弾時には目標の真上にいられるようにします。
このとき照準手は母機に据え付けられている爆撃照準機でフリッツXを追尾します。

ところでwikiで初めて知ったのですが、1943年、イタリアが枢軸国の中で
真っ先に降参した時、イタリア海軍がとっとと
連合国に投降を始めたので、
怒ったドイツ海軍は、このフリッツXで戦艦
「ローマ」を撃沈してしまったとか。
同型艦「イタリア」も、これによって大破させられたといい、
しかもこれがフリッツXの最初の敵への攻撃になりました。

敵じゃないのに。

フリッツXの精密度は、スペック上は誤差60cmとなっていましたが、
あくまでもそれは計算上で、実際は個人の腕に頼るところが大きかった、
ということなので、このときにはヘタリアに対する怒りのパワーが
砲撃の精度をあげた、としか思えません(笑)

フリッツXを投下するには、航空機は目標の真上を低速で飛ばねばならず、
そのため母機の消耗が激しいと言う理由で計画は中止されましたが、
戦争末期になると、ルフトバッフェが軍艦の艦橋に向けて投弾するために
また使われだしたといいます。

まあ、というかドイツも物資不足だったので、
せっかく作ったから使っちゃえ、っていうことだったのかも。



AN-M58穿孔爆弾

なぜかはわかりませんが、wikiがポーランド語だけでした(笑)
鉄筋コンクリートを破壊するのが主目的の軽量爆弾です。




AN-Mark 41

シリンダー方式の対潜爆弾で、艦上から投下されました。



これも冒頭写真も機雷です。

機雷というのはある意味もっともコストパフォーマンスのよい武器です。
ほかの武器が、相手に遭遇したときにしか使えないのに対し、
こちらは前もって仕掛けておくことができるからです。
しかも、一旦仕掛けたら作動するまで見つけられないのが普通でした。

ところで、英語の機雷すなわち「MINE」という言葉は
「掘る人」を意味する「MINER」
が語源となっています。
「炭鉱夫」という意味ではありません。


この話は初めて知ったのですが、大変面白かったので書いておきます。

中世ヨーロッパでは、城壁で囲まれた城の内部に攻め込むとき、
こんな方法が使われることがありました。

「マイナー」と呼ばれる土堀り係が、まず城壁の真下まで土中トンネルを作ります。

そして、城壁の真下まで掘り進んで来たら、トンネルが崩れないように、
木のつっかえ棒を城壁の下端を支えるようにして設置します。
そして、その後、マイナーたちはつっかえ棒が燃えるように火をつけ、
一目散に掘ってきたトンネルを戻って脱出するのです。

火をつけたつっかえ棒が焼け落ちると、同時に、支えてあった城壁が
バランスを崩して掘ったトンネルの穴に崩れ落ちます。

そこで、城壁の外側で待機していた軍団が、崩れた城壁から城内に侵入、
あとは門衛と戦って中から扉を開けるという戦法でした。

この「マイナー」は作戦の「秘密兵器」と言われ、何もないはずの地面が
いきなり壁とともに崩れ落ちるような仕掛けをつくることから、
土中に埋めて敵が踏むと爆発する爆弾を「マイン」と呼ぶことになったのです。

(にしても、これ何ヶ月単位の計画だったのか・・・)



機雷が最初に実戦で使用されたのはクリミア戦争でのことです。

このときに機雷の製造・設置を請け負ったのは、スウェーデンのノーベル家で、
後にダイナマイトを発明するアルフレッド・ノーベルもこの製造に関わっています。

第一次世界大戦のときには破壊力のアップした土中機雷が開発され、
フランスのメシーヌで最初に使われましたが、これは爆発すると
ロンドンまでその轟音が聞こえるほどだったそうです。
その頃から各国海軍が海中に仕掛ける機雷を使っていました。




最初に磁器感応機雷を使ったのも、やはりドイツ海軍でした。

それをパラシュートにつけ、イギリスに投下しています。

かたやロイヤルエアフォースは、テムズ河などにこれを設置し、
河を遡ってくる敵に備えました。
今でも言われることですが、機雷の単価は大変安価なものなので、
潜水艦、船、航空機から各国は自国の防衛の要となる河口や港の外に
これを撒き、戦争が進むにつれ機能もまた進化していったのです。

それに伴い、自軍や友軍の船舶が機雷のエリアを航行できるように、
一定の時間がすぎると無効化する装置も開発されました。
また、機雷作動前に航行する船舶の数をカウントして一定の隻数のみが
安全に通過できるという仕組みも開発されています。

ここにあった説明によると、第二次世界大戦中の機雷には

Drifting Mines(浮遊機雷)海面に浮いている

Ground Mines(沈底機雷)海底に置かれる

Moored Mines(係維機雷)糸でつないで海中に浮遊させる(Mk6)

という種類があり、そして、「コントロール・マインズ」として、

沈底機雷は一般的に敵の艦船が航行すると思われる港への入り口の
浅い海底に設置されることが多かった
ニューヨーク港にも非常にソフィスティケートされた
コントロール機雷が敷設されていた
こういった海の機雷は太平洋の島々でコントロール機雷として
日本軍によって使用されていた

とあります。
まるでアメリカは自衛目的以外に機雷を使わなかったみたいな言い方ですな。

まあ、脛に傷みたいなものなので触れたくないのかもしれませんが、
日本を機雷で封鎖し、それによって戦後日本が大変苦しめられた
「飢餓作戦ーオペレーション・スタベーション」について
これっぽっちも触れないのはいささかアンフェアじゃないかね?

ちなみに飢餓作戦について、英語のwikiではこう記します。

飢餓作戦で敷設された機雷は自動的に無効化されるはずだったが、
その回路は全てにおいて作動したというわけではない。
日本近海における掃海には大変時間がかかり、結局その掃海任務は
海上自衛隊が最終的に請け負うことになった。 

うーん・・・・
なんか、まるでアメリカが機雷の除去をやったorやろうとしたみたいじゃない?
それともこう?

俺ら悪くないもんね!

機雷を1万発撒いたけど、無効化する仕組みだったもんね!
民間船が(引き揚げ船も)触雷して人がいっぱい死んだけど、
無効化の装置が壊れてたのかも、ってか壊れてたんだよね!
それにそれ、もしかしたら日本軍が設置したやつかもしれないし!

って感じですかわかりません><
ついでにこの部分の日本側の記述も挙げておきますと、

アメリカ軍は第二次世界大戦での日本本土の攻撃において機雷を
戦略目的に使用し、(
中略)「飢餓作戦」では、のべ1,200機のB-29によって

計1万発の沈底機雷を日本近海の海上交通路に投下した。
米軍の狙い通りに港湾や海峡で船舶の被害が増大し、
日本の海上物流は麻痺状態となった。
日本側は飢餓作戦による機雷の掃海に20年以上を費やす事態となった。
逆に日本海軍は、機雷作戦による積極的戦果を求めず、
敷設した例はそれほど多くない。 

となっております。

 

特に説明がありませんでした。
16インチ法にしては寸法が短い気がしますが・・。 
後ろの壁はバーベットのためカーブを描いています。 



艦橋より艦尾側の砲塔の外殻であるバーベットが見えています。
斜めの構造物は、「オールorナッシング装甲」のページでも
お話をした、強度を強めた部分であろうと思われます。
棚のように使われていますね。



ベアリングや巨大なナットなどのパーツ置き場。



構造物がすっかり整理棚として利用されております。
ちょっと足元が悪いですけどね。



Mark 87 演習用砲弾

上の魚雷に下の弾頭のような物を搭載したってことでしょうか。
ここの説明によると、演習用の砲弾には火薬ではなく
水や湿った土を入れて実際の重さに近づけました。

命中したかどうかを判定するために、煙の信号が発せられたそうです。



さて、もう少しだけ、艦内を案内していきたいと思います。


続く。