ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

爆撃搭乗員を守る防具いろいろ〜国立アメリカ空軍博物艦

2024-04-26 | 博物館・資料館・テーマパーク

冒頭写真は、「メンフィス・ベル」のボムベイ、
爆撃槽を下に立って見上げたところとなります。



同じ部分の図解をご覧ください。
この絵でいうところの爆弾が収納されているラックを
ちょうど下に立って見るとこうなるわけです。

ラックと垂直に(機体と並行して)張り巡らされたレールは
上部を人が歩くことができるらしく、「キャットウォーク」となっています。
キャットウォークを歩く時に掴むロープも張ってありますが、
爆弾槽が開いている時ここを歩くことは死ぬほど怖かったでしょう。

実際に、先日終了したスピルバーグの「マスター・オブ・ザ・エア」でも

ここに立つシーンは何度か見たような気がしますし、
ある撃墜された爆撃機で、部下にパラシュートを譲った士官が、
最後にここに立っていたという証言を読んだ記憶もあります。

左上にはノートAとして

「B17Fには爆弾吊り上げ用ブラケットが1つしか付属していませんが、
左右どちらの爆弾ラックにも使用できます」


とあります。
左右は入れ替えることができたということでしょうか。





ボムベイは操縦席の後ろと、機体の比較的前部分に位置しています。



図を見ていただければわかりますが、ボムベイには
大きさの異なる爆弾を搭載することができました。


そして、これが爆撃手の配置するノーズ先端です。
爆撃任務を行っていない時のためにシートには銃が搭載されています。



爆撃の照準のため覗くボムサイトは床にあります。

動画を見ていただければわかりますが、
爆撃手は狙いをつけるときここに腹ばいになります。

B-17 Flight: Bombardier station

内部から見た飛行中のB-17爆撃手のポジション。

エポキシガラスに囲まれた非常に脆弱な、しかも狙われやすい場所で、
爆撃手はしばしば配置についたまま命を落として帰還することになりました。

さて本題、そんな爆撃手はもちろん、爆撃機のクルーの死傷については
連合軍としてはできるだけこれを避ける、

つまり死んだり怪我をしなくていいように手段を講じました。

Flak Training for Pilots in WW 2
まず、できるだけ対空砲を受けずに済む方法が研究されました。
対空砲回避の方法について解説する教育用ビデオが制作されます。

(途中で挟まれているのはディズニースタッフによるドナルドダック風味の絵)


任務中の負傷に備えて、爆撃機にはかならず
航空ファーストエイドキットが搭載されていました。

ここにあるのはサルファ剤(制菌効果)眼帯(アイドレッシング)止血帯、
ジョンソン&ジョンソンの表記が見える薬などキットの中身です。

飛行士が任務中に負傷した場合、利用できる唯一の医療支援は

当初こういった救急キットだけという時代がありました。

しかし爆撃任務の範囲拡大によってミッションにかかる時間も伸びていくと、
任務中もし乗組員が負傷するようなことがあっても、機が着陸し、
専門的な治療を受けるまでに最短でも4時間以上かかりました。

また、搭乗員の死傷について、1942年実態調査が行われ、
そしてその結果、偏向した対空砲火の破片や航空機構造の粉砕片など、
比較的低速の投射物が負傷原因の70%を占めることがわかりました。

その一例です。


1943年10月14日、シュヴァインフルト爆撃任務の際、
胴部銃手だったフィリップ・テイラー技術軍曹が受け、
命を落とすことになった対空砲の破片が展示されています。

これはおそらく軍曹の体内から摘出されたものでしょう。

対空砲を回避するのも大事ですが、受けてしまった時に
人体を守る手立てを早急に講じねばなりません。

この研究結果を受けて防護服とヘルメットの開発と普及が推進され、
何千人もの爆撃機乗組員が負傷や死から救われることになりました。


そのプロジェクトで大きな功績を上げたのが
マルコム・グロウ大佐 Col Dr. Malcolm Grow(後に少将)

第8空軍の外科医長で、米空軍の爆撃機乗組員のために防護服を開発し、
多くの命を救う成果を上げ、戦後、
米空軍の初代軍医総長に任命されています。

グロウは1909年にジェファーソン医科大学で医学の学位を取得し、
1917年に米陸軍に軍医として入隊。

陸軍航空隊の飛行外科医長時代(1934~39年)に、
オハイオ州ライト・パターソン空軍基地に航空医学研究所を設立し、
そこで戦闘乗員を保護する防護服の開発を行いました。

彼が開発した軽装甲冑と鋼鉄製ヘルメットによって
多くの爆撃機搭乗員の命が救われ、戦闘員の士気は著しく向上しました。

次いで1944年5月、グロウ大佐は、砲手を爆風から守る装置、
負傷者用の電気ヒーター付き衣服、手袋、ブーツ、ハンドウォーマー、
負傷者用バッグ、耐風性・耐火性の顔と首のプロテクター、
長時間の爆撃任務で使用する特別戦闘糧食を次々と開発しました。

凍傷患者(爆撃機搭乗中の凍傷罹患はよくあった)は減少し、
飛行効率が向上したことにより大佐は殊勲賞を受賞します。

戦闘が原因による精神的疾患について研究を進めたグロウ大佐は、
新しい軍人専門の保養所の設立に助力し、特別パスシステム、
また戦術部隊の医療将校のための特別訓練課程を制定し、その結果、
この種の負傷者をすべて任務に復帰させることに成功しています。

さて、そんな研究の結果生まれた防具を紹介していきましょう。



爆撃機乗組員の装甲

1944年初頭の着座型爆撃機搭乗員の典型的な防護服。 
衣服と装備の上に着用し、重さは約13ポンド(約6キロ)。  
緊急時には赤い解除ストラップを引っ張ればすぐに外すことができます。


この第8空軍爆撃機の乗組員は、ボディアーマーのおかげで
対空砲火を受けてもなお生きて帰ることができました。

彼の胸の白い丸の部分は、対空砲火が命中した跡であり、
彼はもしこれを着用していなければまず命はなかったことでしょう。

彼が身体に受けた弾丸はアーマーに跳ね返され床に落ちました。
彼が右手に持っているのは自分の身体が受けた弾丸です。


ボディアーマープレート

それではグロウ軍医考案のボディアーマーには何が仕込まれていたか。
というと、これです。

小さなタイルのように見えるこの物質は、厚さ1ミリのマンガン鋼板で、
この正方形が重なり合ってスーツに充填されていました。

布地に縫い付けることでアーマーは柔軟性を維持していました。
まあ、いうたら鎖帷子みたいなものと考えればいいでしょう。



20ミリの砲弾のかけらを受けた装甲ベストの中の
重なり合ったプレートが受けたダメージ。

装甲ベストを着用していたアーサー・ローゼンタール中尉は、
胸に軽傷を負っただけで済みました。

■爆撃手のヘルメットの変遷


爆撃クルーのヘルメットを見ていきます。
開発前のもの、開発後のグロウタイプ、戦争末期のものと色々。

M1歩兵ヘルメット

初期の爆撃機乗員は標準的なM1歩兵ヘルメットを着用していましたが、
ヘッドホンがヘルメットの下に収まりが悪く、具合が悪いと不評でした。
また、ボール砲塔砲手のように狭い場所にいる搭乗員は着用できません。


何しろこんなのですから

M3ヘルメット

標準的なM1歩兵用ヘルメットを搭乗員用に改良したものです。
1945年2月、オーストリアのウィーン上空で対空砲火の破片が命中したとき、
パイロットのフランク・リッグスはこのヘルメットを着用しており、
幸い大きな怪我はなく、数日後には飛行任務に復帰することができました。

M5ヘルメット

戦争末期に発行されたM5ヘルメットは、頬の保護を強化しています。


M4A2ヘルメット

1944年半ばに初めて生産されたモデル。
Growヘルメットを改良したもので、耳あてを追加し、
革のカバーを布に変えて装着感のアップを図りました。

戦時中に8万個以上のM4シリーズヘルメットが製造されています。




連合軍とルフトバッフェ非我で使用された爆撃手用のヘルメット各種。


「Grow Helmet」

1943年、英国のウィルキンソン・ソード社は、
標準的な革製フライトヘルメットの上にかぶる
「グロウ・ヘルメット」を製造しました。

「グロウ」はもちろんドクター・グロウのことです。

このヘルメットは、第44爆撃群司令官フレッド・デント大佐(後に少将)が
1944年3月8日、第8空軍の対ベルリン攻撃を指揮した際に着用したもの。

イケおじ デント少将

撃墜マークのように爆撃マークがペイントされています。

ヘルメット・アーマー

このグロウタイプとM4シリーズと呼ばれたヘルメットには、
マンガン鋼のストリップが5枚貼ってあります。
鋼鉄合金は特に衝撃に対する強度が高いということで採用されました。

ルフトバッフェ爆撃クルーヘルメット

こちらはドイツ空軍の防具です。
1941年のバトル・オブ・ブリテンの間、ドイツ空軍も
さらなる防護の必要性を認識し、
爆撃機乗組員に革張りの装甲ヘルメットを支給していました。


ルフトバッフェ爆撃クルーヘルメット

このヘルメットもスチールの装甲が施されています。
ルフトバッフェの爆撃機搭乗員の標準装備でした。

続く。



アングリフ(襲撃)ルフトバッフェ対CBO〜国立アメリカ空軍博物館

2024-04-13 | 博物館・資料館・テーマパーク

アメリカ空軍博物館の展示から、爆撃機関連を取り上げていますが、
今日は連合軍の攻撃を受けて立つドイツからの視点でお送りします。



■ アングリフ-バイ ターク ウント バイ ナハト



ここに展示されているのは、数千枚単位でドイツに投下された
小冊子で、そこにはこのような「警告」がドイツ語で書かれています。

昼夜攻撃
イギリス空軍の巨大爆撃機、スターリング、ハリファックス、
ランカスターは、夜間作戦で激しい攻撃を行っている。
そして今アメリカ空軍が
特殊な航空機を昼も夜も繰り出している。

S.29 ショート・ブラザーズのスターリング、
ハンドレイ・ページのハリファックス、
A・V・ロー(アブロー)社のランカスター、
そしてアメリカの特殊な航空機とはB-17のことでしょうか。

絵に描かれているのはB-17とランカスター?

この小冊子とやらがドイツ国民に何を訴えたかったかというと、
つまり昼も夜もお構いなしに爆撃してくる連合軍は悪い、ってことかな。

ごもっとも。

■複合爆撃機攻撃
Combined Bomber Offensive

さて、ドイツが警告しているところの米軍と英軍の昼夜爆撃作戦は
"Combined Bomber Offensive "として緩やかに連携体制を取り、 
この計画により、「24時間体制」での敵爆撃が確立されていきます。

ドイツにしてみれば、昼間米軍、夜間RAFで切れ目なしに来られた日には
もうちょっとお手上げなんですけど、ってなるでしょう。

コンバインド・ボマー・オフェンシブ=CBO

は、この頃の連合軍が採用した作戦名であり、最優先として
V兵器施設(1944年6月)と石油、潤滑油(POL)工場(1944年9月)
に対する攻撃を行うというものです。

繰り返しになりますが、RAFの爆撃作戦は銃爆撃機による夜間、
アメリカは日中の爆撃を受け持ち、切れ目なく攻撃を行いました。

この計画は1943年、”ハップ”・アーノルド将軍によって
アメリカから情報の共有が提案され、同年6月から実施されました。

攻撃目標は、1944年のDデイまでは、ドイツの戦闘機部隊と
ボールベアリングおよび石油産業が優先目標とされました。

■ ルフトバッフェ


CBOを迎え撃った当時のルフトバッフェの戦闘機です。



高速かつ重武装のドイツ空軍の
フォッケウルフFw190ヴュルガー
は、爆撃機乗組員にとって手ごわい相手でした。

ちなみにヴュルガーとは鳥の百舌鳥のことです。
超余談ですが、この機体、日本陸軍に輸入されたことがあって、
黒江保彦陸軍少佐が試験飛行しています。

それによると、

旋回戦;
三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」に完敗

高度6,000mにおける速度競争
1位 P-51C
2位3位 同率:Fw190A-5&四式戦「疾風」
4位 三式戦「飛燕」
5位 P-40

だったということです。

P51とP-40は鹵獲機。
このレース、出足ではFw190がリードしていましたが、
3分後にはP-51に追い抜かれて最終的にこの順位になりました。




メッサーシュミットBf109
改良が続けられ、ドイツ空軍は開戦から終戦まで使用していました。
デビュー当時はハインケル51の代替として歓迎されましたが、
航続距離が短いのが欠点で、爆撃機の護衛で同行しても
どうしてもロンドンを通過することができず、そのためイギリスは
諸島に点在していた訓練地や生産拠点が無事でした。




こちらは国立博物館所蔵のメッサーシュミットBf 109-10です。

最後の主要シリーズで、連合軍の爆撃で生産が滞り、
この機は2,000機未満しか生産されませんでした。

この展示機は、連合軍の爆撃機からドイツを防衛した部隊である
Jagdgeschwader 300の機体を表す塗装が施されています。

JG300、別名ヴィルデ・ザウ(イノシシ)は夜間戦闘機部隊、
のちに昼間戦闘機部隊に改編された部隊で、指揮官は
275勝を挙げ、史上3番目に高い得点を挙げたエースである
ギュンター・ラール空軍大将が戦争最後の指揮官を務めました。


Günther Rall, 1918- 2009
いい人そう


ルフトバッフェトップエースで連邦軍大将に上り詰めた数少ない例





メッサーシュミットBf110
ドイツ空軍はまた、重爆撃機から身を守るために
同機のような双発戦闘機も採用していました。


 ■ 死線のヨーロッパ上空


ドイツ空軍はアメリカ空軍の戦略爆撃に対抗するため、
それなりに高度な防衛システムを構築していきました。

敵の戦闘機と対空砲「フラック」は連合国側に壊滅的な被害をもたらし、
アメリカ空軍は、通常10人の乗員を乗せた重爆撃機、
8,000機以上を、ヨーロッパ上空での戦略爆撃作戦中の戦闘で失いました。

このポスターは、まさにその時の連合国側の心境を描いています。

しかし、当初は無敵だったルフトバッフェの戦闘機も、
戦争後半に導入されたP-51マスタングやP-47サンダーボルトなど、
アメリカ空軍の長距離護衛戦闘機が出現すると脅威ではなくなっていきます。

連合軍の爆撃機攻勢を守るこれらの飛行隊に対し、
第三帝国空軍は制空権をめぐる決戦に誘い込まれ、その結果、
連合軍はその戦いを制し、西ヨーロッパへの侵攻を進めていきます。

■ドイツ空軍グッズ


いくつかのルフトバッフェグッズが展示されています。


ルフトガウ コマンド・ベルギー-ノルトフランクライヒ
(ベルギー-北フランス航空方面本部)隊旗 

先ほどのイラストは、まさにこれだったんですね。
ハーケンクロイツを持つワシ(ドイツ軍のシンボル)が
敵機を墜落させているという意匠です。

この組織はベルギーと北フランスの対空防御と早期警戒担当でした。

 米空軍の重爆撃機はこの地域の目標を攻撃し、
対独空襲では定期的にこの地域を通過しなければなりませんでした。


ドイツ空軍対空砲手のユニフォームバッジ


 ホーチャー(音響探知機オペレーター)制服バッジ



ドイツ空軍は、巨大な聴音機を使用して、

エンジン音によって飛来する爆撃機の位置を特定していました。


ドイツ空軍B-17戦勝記念標章

この戦勝標は、1943年2月4日の日中、

Bf110夜間戦闘機パイロットのハインツ・グリムという人が
第8空軍B-17に勝利したことを記念したものです。



グリムは1943年10月に戦死するまで、
アメリカ空軍とイギリス空軍の爆撃機を20機以上撃墜しました。
ドイツの戦歴サイトを当たったところ、1943年10月13日死亡とされ、
はっきりした状況はわからないまでも夜間戦闘機に撃墜され、
墜落して戦死したということになっていました。


Bf 109の尾翼と空襲警報ヘルメット

ヘルメット
ボランティアの空襲警報サービス(Luftschutzwarndienst)の市民は、

爆撃機の攻撃が迫っていることを住民に知らせる役目でした。
この任務は、爆撃機の攻撃が増加するにつれて、
すべての市民に義務付けられるようになっていきます。

Bf 109の尾翼

メッサーシュミットBf 109は、爆撃機の乗組員にはMe 109として知られ、

ナチス・ドイツで最も数の多い戦闘機でした。

ここにある尾翼がどういう由来のものか説明はないのですが、
明らかに撃墜されたもので、ハーケンクロイツには銃痕が残っています。


続く。

海兵隊 K-9 セナの物語〜戦車揚陸艦USS「LST-393」

2023-10-11 | 博物館・資料館・テーマパーク

マスキーゴンに係留されている戦車揚陸艦、
USS「LST-393」シリーズ、最終回です。

前回に引き続き、タンクデッキを利用した展示を紹介していきます。


周辺在住のベテランから寄贈された「かぶりもの」コーナー。



第一次世界大戦のガスマスクから潜水ヘルメット、
アフガン時代のサファリハットなど、アメリカの戦争を網羅しています。


■ベテラン顕彰のための展示



ジョージ・W・「ビル」・クレメンツ
George W. "Bill" Clements

アメリカ海軍 第二次世界大戦 1943 ~ 1945
朝鮮戦争 1950 ~ 1953


長年グランドヘブン地域に住んでいたビル・クレメンツは
パイロットになるために海軍に志願しましたが、
代わりに海軍の大学コースに送られ、4か月で少尉に任命されました。

彼の写真にほとんど同時期のセーラー服と士官姿があるのはそのせいです。

第二次世界大戦中は駆逐艦と掃海艇に乗務し、
戦後はに占領任務に就きました。
 1950年に海上勤務復帰し、


USS「 オーレック」DD886、
USS 「ローワン」DD-782、
USS 「タッカー」DD(R)375


の 3 隻の駆逐艦に乗艦しました。
写真の右側には彼の勤務した艦の写真があります。

おりしも朝鮮戦争で、彼の乗った駆逐艦は三艦すべてが
水陸両用作戦中に北朝鮮砲兵との銃撃戦に巻き込まれました。

なかでもUSS「ローワン」勤務時には3度も砲撃に遭い、
そのうち2度は重症者も出すほどの損傷を受けています。

彼は「ローワン」に乗艦中にその勇敢さにより海軍表彰を受賞しています。

この人物が水兵からわずか4ヶ月で士官任官できたのは、
おそらく大変優秀だったからでしょう。

別媒体で調べたところ(それは訃報でしたが)、彼は退役後
ミシガン大学で土木工学の学位を取って自分の会社を立ち上げ、
93歳まで充実した人生を楽しんでいたことがわかりました。



隣のブースも海軍コーナーです。


艦内のところどころでこの同じ器具を見かけました。
これなんだかわかる方おられますか。


ブルーエンジェルスだった方のサイン入り写真、
右はUSS「ノースキャロライナ」のちょっと変わった模型と、
おそらくこれに乗っていたベテラン。



F6Fヘルキャット模型。


スコット(Scott) SLRM

第二次世界大戦時の海軍士気高揚受信機です。
AC-DC、12本の真空管。
540KHzから18.6MHzの4バンドを一般にカバー。

スコットは、低放射線規格で作られたラジオの好例でした。

第二次世界大戦中、受信機の局部発振器やI.F.から発せられる無線信号が
潜水艦にキャッチされることのを防ぐために、そして
発振器やミキサーをアンテナからさらに分離させることを目的に、
RFアンプを備えたシールドのしっかりした受信機が作られました。

RFアンプ管は、別個にシールドされたコンパートメントに収められています。

SLRMは海軍の受信機として開発されたものでしたが、
後に民間の船舶にも搭載されるようになりました。



1938年製、プロッティングボード。


海軍用ターゲットカイト、Mk1


対空銃撃種の訓練のためのターゲットカイトMark1(Mk2はない)
を開発した対空砲手、ポール・ガーバー。
彼はその後スミソニアン博物館の創立に大きく関わった人です。

■オキナワ・キャンペーン



USS「スウェラー」Swearer DE186

が1945年4月1日〜6月30日の沖縄侵攻のときに掲げていた艦首旗です。

これは当博物館のコレクションの 2 番目の軍旗です。
艦内に掲示してあるもう 1 つの軍旗 (艦首入口にあった) は、
Dデイにオマハ・ビーチで「USS LST-393」が実際に掲揚していたものです。

第二次世界大戦に実際使われた軍旗は時々アメリカの博物館で見ますが、
二旒も所蔵している博物館はまれであると彼らは大変誇りにしているようです。

駆逐艦「スウェラー」は沖縄で零式艦上戦闘機の特攻を受けましたが、
これは砲手が衝突前に撃墜しました。

4月16日にはヴァル(九九式艦上爆撃機)をこちらも砲手が撃墜しています。


当ブログ調べによると、4月16日は菊水三号作戦が行われた日で、
戦闘機のみならず艦攻、艦爆が多数上陸阻止のため特攻出撃しました。

資料によると、この作戦では第三八幡護皇隊艦爆隊という99式艦爆の部隊が
22機編隊による嘉手納沖での特攻に出撃しています。

おそらく「スウェラー」を攻撃したのはこの一機だったと思われます。

同艦爆部隊は、指揮官の松葉進少尉(早稲田大)はじめ、
出撃した士官の全員が一流大学出身の学徒からなる特攻隊でした。



サンタクルーズの戦いにおける
USS「エンタープライズ」

1942 年 10 月 26 日、
 VF-10のスタンリー・W・“スウェード”・ヴェイタサ中尉

(Swede Vejtasa=VEY tuh suh)は、
USS「エンタープライズ」上空をF4Fワイルドキャット戦闘機で旋回中、
ナキジマ(ママ)“ケイト”雷撃機がアメリカ軍の防空堡に対して
致命的な攻撃を起こす前にこれを炎上させた。

この日、 「スウェード」ヴェイタサは、単一ミッション中に
7 回の勝利を挙げワイルドキャット・パイロットの記録を打ち立てた。

ヴェイタサ中尉は5機の「ヴァル」と2機の「ケイト」を撃墜し、
「エンタープライズ」を損傷から救ったとされ、

サンタクルスの戦いでの戦いに対し海軍十字章を授与された

この通称”スウェード”(スェーデン人)という搭乗員の物語によると、
この「殊勲」の前日、スウェードに率いられた攻撃隊は
キンケイド提督の無能な指揮のおかげでえらい目に遭っていたのです。

このとき初めて機動部隊の指揮官として「エンタープライズ」に乗り込んだ
トーマス・キンケイド提督は、”ブル”・ハルゼー提督から
「ストライク - リピート - ストライク」という指令を受けていました。

このときの「エンタープライズ」の行動は、捜索隊を派遣し、
戦闘航空哨戒を行うだけと制限をされていたため、キンケイドは、
「ホーネット」が索敵して発見した日本艦隊に対し、
経験の浅い搭乗員で構成した攻撃隊を編成させ、スウェードに指揮させて
360マイルも離れた地点への攻撃をさせようとしました。

提督の話を聞き、日本艦隊の位置まで遠すぎると思ったスウェードは、
図面板を投げ捨て、提督の部下たちの耳元で
「提督はバカ野郎(Stupid Ass)」

と大声で宣言しました。

しかし命令は命令。
スウェードの反発も虚しく部隊は出撃することになります。

出撃から1時間後、キンケイドは、哨戒機に気づいた日本軍が北に向かい、
接触する可能性のないところに行ってしまったことを知りました。

しかしそのときには攻撃隊は呼び戻すことのできないところにいました。
そしてスェードの予想通り空振りの索敵を行い、
ただ無闇に海上を飛び続けていたのです。

そんな中、攻撃隊の一人、ドン・ミラー中尉は、薄明かりの中、
不可解にもワイルドキャットから飛び降りて行方不明になっています。

(精神に破綻をきたしたのかもしれません)

スェード隊は低い雲の下、暗闇の中、ポイント・オプションに帰着しましたが、
そこにいるはずの「エンタープライズ」はどこにも見当たりませんでした。

YE-ZBのホーミングセットは何の反応も示しません。
キンケイドは彼の攻撃部隊を見捨てたのでした。

その後もスェード攻撃隊の混乱は続きました。

ドーントレスの一機が、航続距離の延長のため重量を軽くしようと
爆弾を投下したところ、2発が空中爆発してSBDの二人が巻き込まれてしまい、
部隊は彼らの機が墜落していくのをただ見ているしかありませんでした。

ようやく夜が明けたとき、スウェードは海面に油膜を発見し、
空母のものと判断してこれを追跡し、ようやく母艦を発見しました。

ところが狭い空母の甲板に別の部隊が同時に着艦を行ったため、
接触事故で機体は大きく破損し、スウェードは瀕死の状態に陥ります。

そしてその数分後、ドーントレスのパイロットがウェーブオフを無視し、
自分の機体と別の機体を大破させるという大惨事が起こりました。

破片が散乱する甲板では、燃料を使い果たした3機のアベンジャーを
海中に投棄せざるを得ず、この無用の災害により、2人の搭乗員、
4機のSBD、3機のTBF、1機のワイルドキャットが犠牲となりました。

スウェードにとって、キンケイドの判断は犯罪的な過失でした。


片付けを行う「エンタープライズ」艦上


このときかろうじて無事に帰還した飛行機とパイロットが
翌日の戦闘で大きな役割を果たすことになりました。


人生糾える縄の如し。
スェードがその後キンケイドをどう糾弾したかはわかりません。



■グレート・ホワイト・フリート


グレート・ホワイト・フリートについては、以前このブログでも
「対日本示威行為艦隊」と決めつけてお話ししたことがあります。

この博物館の説明を見てみましょう。

テディ(セオドア)ルーズベルト大統領の時代、
大統領の命令により、1907年12月16日から1911年2月22日まで
地球を一周した米国戦闘艦隊の俗称、それがグレートホワイト艦隊です。

その目的は、アメリカが世界の海軍大国であることを世界に示すこと。

しかし表向きは報道陣に対し、その目的は
多くの港を訪問してアメリカと各国の親善を深めることとされました。

マスキーゴンはこの「グレートホワイトフリート」(以下GWF)の巡航と
深い関連を持っています。

ここにある海軍文書のコレクションは、GWFの駆逐艦
USS「シャーマン」乗組だった、マスキーゴン在住の
チャールズ・エドワード・バーウェルの遺品です。


この中の誰かがバーウェル氏

入隊記録書類



アメリカ海軍名誉除隊証明書

名誉除隊といってもそう特別なことではなく、
アメリカ海軍では、軍人としての勤務成績が概ね良好で、
軍法会議または民事訴訟などの対象にならなければ、
退役時に名誉除隊証書が交付されます。

しかし名誉除隊になると、除隊後の福利厚生・社会保障・年金をカバーする
GI法において普通除隊よりも上乗せがあり、また、
職業訓練や大学進学などの援助などの保障制度も手厚くなります。

さらに、現在では、民間でもローンの金利優遇、手数料無しで
ワンランク上のクレジットカードへ変更などの優待プログラムがあるとか。



名誉除隊書類の続きで、この人の艦歴が記されています。



以前にも書きましたが、GWFはその名の通り、
艦隊の艦体がホワイトに塗装されていました。
これはGWF参加中のUSS「サリバン」の白塗装姿です。

バーウェル氏の艦ではないので、彼が撮った艦隊航行中の写真かもしれません。


上の絵葉書の説明は字が潰れて読めませんが日本語です。
GWFは1910年に日本を訪問しました。

真ん中右に見切れているのは日本女性ですね。
テーブルの死角になった場所には日本で撮った写真があったそうです。
残念。


ここで改めてGWFの旗をみてみましょう。
中央のリボン上にアレンジされた星条旗と錨のマークの外には、
GWFが訪問した国の軍艦の艦尾旗があしらわれています。

フランス、イギリス、中国、日本と、はっきりわかるものもありますが、
訪問国はこれ以外にフィリピン、ニュージーランド、
オーストラリア、コロンボの四カ国、全八カ国となります。



ところでこのバナーを見る限り、アメリカの目的は
各国との親善などではないことがまるわかりではないですか。

🐉=彼らにとっての東洋、を🦅(アメリカ)が鷲掴み。

■ 軍用犬(War Dog)コーナー


艦内に入ってすぐのところに軍用犬トリビュートコーナーがありました。


左上は南北戦争時代の軍用犬の顕彰碑。
(三つの黒い丸はなぜこうなっているかわからず)

右側の写真は、1944年、軍用犬が周囲を警戒する中、
しばしの休息を退避穴に手足を縮めて貪る兵士。



この写真をもとに、本日冒頭の再現模型が作られました。
彼らの後ろにあるのは、グアムで殉職した海兵隊所属の軍用犬、

カート、ヨニー、ココ、ブリンキー、スキッパー、デューク、ルードヴィッヒ。

そんな名前の犬たち24頭の尊い犠牲を顕彰しています。



朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争・・。
どの戦争にもそのために訓練を受け、出征し、命を失う犬がいました。

ここではK-9(警察犬)の犠牲についても取り上げています。


モデルが制作されているのはいずれも実在の犬で、
彼らの首には彼らが授与されたメダルが掛けられています。


沖縄戦で海兵隊のK-9だったスパークは軍曹の位を与えられています。

■海兵隊の爆博物探知犬セナ



セナという名の爆弾探知犬が彼の最初のハンドラーと再会してから
3年1カ月と3週間が経ちました。

マスキーゴンのジェフリー・デヤング伍長とセナは、米海兵隊で

2009〜2010年の約半年間、一緒にアフガニスタンに従軍しました。

その間、デヤングがセナを担いで川を渡るような場面もあれば、
砂漠ではセナがデヤングを温めてくれる寒い夜もありました。


タリバンの激しい銃撃を受けたとき、デヤングは
自分の体をセナの上に投げ出して彼をかばったことすらあります。

デヤングが3週間の間に7人の友人を失ったときには、
彼にとってセナの存在はどんなにか慰めとなったことでしょう。

しかし、その後彼らは別れをいうまもなく離れ離れになり、
いつの間にか4年が過ぎ去りました。

その後、引退したセナはデヤングと再会し、彼と一緒に
幸せな余生を送るはずでした。

しかしある日、セナが左前足に体重がかけられないことに気づいたデヤングが、
病院に連れて行ったところ、進行性の骨がんと診断されました。

末期がんはあまりに激しい痛みをセナにもたらし続けたため、
デヤングはセナの安楽死を選択しました。

そして、2017年の7月26日を最後の日と定め、
彼を名誉ある海兵隊員として見送ることにしました。
以下、デヤングのツィッター投稿です。

"セナとの最後の夜 "

"言葉では伝えられない、私が感じていること、考えていること。
やらなければならないことに向き合わず、逃げ出したい。
でも、彼は私が強くなって、自分を解き放してくれることを望んでいる。

彼は私の人生を愛と賞賛で祝福してくれた。
彼のおかげで、私は家族を持つことができた。
彼のおかげで、私は生きることができたのです。

明日の私の行いを許してくださいますように。
そして、主が両手を広げて素敵な耳を掻く動作で彼を迎えてくれますように。

おやすみなさい 、友よ。さようなら 、弟よ。

君が今夜自分がどれほど愛されていて、
君がいなくなることがどれほど惜しまれるかを知りながら眠れますように。

最後にセナはバケットリストの一つを叶えました。
オープンのジープ・ラングラーに乗ることです。

そのことを知った各地のジープオーナーが、セナのために
ジープ隊を結成し、各地から駆けつけることになりました。

また、州内各地からパトリオット・ガード・ライダーが集結し、
セナの功績を称え、静かに旗を並べました。

そしてすべての隊列はマスキーゴンのUSS LST 393前に集合し、
そこでセナの功績を称え、米国海兵兵隊連盟の主催により、
「タップス」の演奏を含む軍歌のセレモニーが行われました。

セナは、自作の海兵隊のドレスブルーで式典に出席し、
セレモニー終了後、警察の護衛付きで護送車に乗って
ジェフ・デヤングとともにUSS LST 393に乗り込み、
そこで彼は安楽死させられ、「Taps」が演奏されされました。

アフガニスタンでの6カ月間、2人はほぼ毎秒一緒に過ごしただけでなく、
アフガニスタンでの最大規模の合同軍事作戦「モシュタラク作戦」に向けて、
お互いの命と健康に責任を持つという緊密な関係でした。

デヤングとセナは、タリバンを拠点から追い出す作戦で、
マルジャに足を踏み入れた最初の海兵隊員でした。

デヤングも再会してから一緒にいる間、決して平穏だったわけではなく、
デヤング自身の離婚、失業、ホームレス(!)、PTSD、
バスタブで泣きながら目を覚ますなどの日々がありましたが、
いつもセナはそこにいてくれた、と語りました。

Watch A Marine Give His Beloved Dying Dog A Touching Final Ride | TODAY

Celebration of life for military service dog Cena

Family says goodbye to Marine war dog



LST-393シリーズ終わり

女性軍人とミッシングマン・テーブル〜LST-393博物艦

2023-10-08 | 博物館・資料館・テーマパーク

マスキーゴンに係留展示されている戦車揚陸艦、
USS「LST-393」シリーズももう少しでおしまいです。

艦内を甲板まで見学し終わったので、あとは
広いタンクデッキに展示されているミリタリーグッズ、
テーマごとに集めた展示品を紹介するのみになりました。



甲板階から右の階段で降りてきて、タンクデッキに帰ってきました。

タンクデッキA-1 フレーム1-41

という説明がありますが、何を指すのかさっぱりわかりませんでした。
そもそもフレームという言葉も正確に把握しているのかわたし?

というわけで調べてみたところ、フレームは、大型船の場合
日本語では「肋骨」といい、船体を構成する構造材です。
構造材にはこのほか梁(ビーム)ビルジ、竜骨(キール)などがあります。

タンクデッキA-1のAは「船の前部」1は「前方」。

そしてフレームは第3デッキの船の中心線を通っています。

タンクデッキは、タンク、トラック、または陸で必要なその他の貨物を含む、
あらゆる種類の貨物を運ぶために使用されました。


つまり、この紙がある部分の「艦内のアドレス」を表しています。



タンクデッキは船体構造の強化のため、
デッキ周りにこのような区切りのないコンパートメントが
ぎっしりと設けられています。


タンクデッキの構造をご覧ください。
このコンパートメントが展示室として利用されているというわけです。


第一次世界大戦に関する展示品。



クロワ・ド・ゲール(Croix de guerre)

はフランス政府から授与される軍事勲章で、
第一次世界大戦で初めて創設されました。

他国の軍人に対しても授与され、第一次世界大戦のアメリカ陸軍では
歩兵師団「インディアンヘッド」「マルヌ師団」「カンティニーのライオン」
騎兵連隊「レイダーズ」、海兵隊の「ザ・ファイティング5th」

そして黒人ばかりの分離連隊、「レッドハンド師団」
「ハーレム・ヘルファイターズ」「バッファローソルジャーズ」

がこの賞を授与されています。

また、マッカーサー、マーシャル、パットン、アイゼンハワー、ルメイ、
ルーズベルト大統領の息子セオドアJr.
も受賞者です。

変わったところで、アメリカ生まれのアフリカ系フランス人ダンサー、
ジョセフィン・ベイカー、作家のアンドレ・マルローなどがいます。

■ミリタリーウーマン・イン・サービス


続いて女性軍サービス従事者のコーナーです。
左から海軍看護部隊、海軍WAVES、空軍(戦後)陸軍WACの制服。
いずれもマスキーゴン中心に近隣のベテランからの寄贈です。

WAVES =Woman Accepted for Volunteer Emergency Service
(女性志願非常時部隊)

ボランティア緊急サービスに受け入れられた女性 - 1942年7月30日結成
戦闘艦や戦闘機での勤務は許可されていません。

WAAC・WAC=Woman auxiliary Army Corp
(女性補助陸軍軍団)

1942年5 月15日設立
150,000 人以上の WAC が第二次世界大戦に従軍しました。
マッカーサー将軍は彼女らを
最良の、最も不満の少ない兵士と呼びました。

WAAC'S は第二次世界大戦中に WAC'S になりました。

ANC=Army Nurse Corps
陸軍看護師団

「陸軍看護師団」は 1942年2月2日正式な軍事部隊として結成されましたが、
それ以前の南北戦争と米西戦争からすでに従軍していました。

1917年(第一次世界大戦) には403名でしたが、
1945 年には 21,000名が参加していました。

SPARS←Senper Paratus(常に備えあり)

沿岸警備隊の女性軍人サービスは1942年11月23日に結成されました。
第二次世界大戦中に 11,000 人の女性が SPARS として勤務しました。
「センパー・パラタス」は沿岸警備隊のモットーです。

Woman Marines
女性海兵隊 

1943 年2月13日に結成。
第二次世界大戦が終わるまでに、州側の司令部に配属された
米海兵隊員全体の 85% が女性だったということです。

 ATS=Auxiliary Territorial Service
補助領土サービス

米国のWACに相当する英国の女性部隊です。
1938年9月9日に結成され、65,000人のイギリス人女性が勤務しました。



夫婦でベテラン下士官だったダイアンとスティーブ・シェラー夫妻の
それぞれ12年、24年の勤務歴を右袖に刻んだ制服。



夫のスティーブは操舵の下士官最高位である、
Master Chief Petty Officer of the Navy (MCPON)
(海軍付最上級上等兵曹)
であり、ダイアンは
Hospital corpsman First class
医療技術を持つ下士官のランクで、レーティングはE-6となります。

NNC=Navy Nurse corps
海軍看護師団

女性看護師は南北戦争から海軍の艦船に勤務していましたが、
正式に認可されたのは1902 年のことです。

第二次世界大戦の終わりには、11,021名の海軍看護師がいました。
第二次世界大戦中、NNCの2つのグループが日本軍の捕虜となっています。


左から海兵隊、陸軍、海軍の看護部隊サービスドレス。
右はパーティ用のフルドレスですが、戦後のものかもしれません。



各ユニフォームには、着用していたベテランの写真が添えられています。



ご本人の経歴も記されていますが、残念ながら読めません。



一番右のドレスを着ていた方は、任官されたようです。


ナースコーアの制服、ポスター、写真など。
一番左の制服は赤十字のナース用です。


彼女らの着用していた帽子コーナー。
ギャリソンキャップ、ナースキャップ、ベースボールキャップなど。


続いて女性飛行部隊です。

WASP=Women Air Service Pilots
「女性空軍パイロット」

1,074人のWASPは、第二次世界大戦中、
航空機を戦闘空軍基地に輸送するためのパイロットでした。

これにより、1,074 人の男性パイロットが戦闘任務に就くことができました。
そのうち38人がこの任務で死亡ました。

しかし残念なことに、米国がWASPを軍の一員として正式に認めたのは
70 年代後半になってからでした。
そのとき初めて彼らは退役軍人としての恩恵を受けることができました。



写真の左上は、当ブログでも紹介済み。

ナンシー・ハークネス・ラブ(Nancy Harkness Love)

わずか28歳にして彼女はWASP(Woman's Airforce Service Pilots)
の共同設立者となり、輸送部隊のディレクターになりました。


女流パイロット列伝〜ナンシー・ハークネス・ラブ「クィーン・ビー」



WASPのドーラ・ストロサー、デデ・ムーアマンと一緒に写るのは
ポール・ティベッツ大佐とB-29の搭乗員。

ドーラとデデはB-29の最初のパイロットであり、
墜落による死傷者が出て、爆撃機の性能に搭乗員が懐疑的になったとき、
自らの操縦で安全性を証明し、彼らを安心させることを目的に投入されました。



冒頭の「第二次世界大戦最後の行方不明WASP」とされているのは、
現地には説明がありませんが、アメリカではきっと有名な方なのでしょう。

ガートルード・トンプキンス・シルバー

生年月日 1911年10月16日
出生地 米国ニュージャージー州ジャージーシティ
1944年10月26日(33歳)失踪
米国カリフォルニア州ロサンゼルス
状況 78年7カ月と16日間行方不明
国籍 アメリカ
職業 パイロット
時代 第二次世界大戦
所属団体 Women Airforce Service Pilots
配偶者 ヘンリー・シルバー

WASPクラス43-W-7を卒業した。


ガートルード・"トミー"・トンプキンス・シルバー
(1911年10月16日 - 1944年10月26日失踪)は、
第二次世界大戦中に行方不明になった唯一の女性空軍パイロットです。


ニュージャージー州の化学品製造会社スムースオン社(現在もある)
の創業者の娘として何不自由なく生まれ育った彼女は、
園芸学校を卒業後ニューヨークに行きましたが、
その後すぐWASPプログラムに応募入隊します。

彼女を最初に飛行機に乗せてくれたボーイフレンドが、
英国空軍の飛行中事故死したことが志望の動機でした。

WASPで任務中の1944年10月26日、彼女は
ノースアメリカンP-51Dマスタングでロサンゼルス空港を出発し、
ニュージャージーにむかうことになっていましたが、
途中経過地のフロリダパームスプリングスに到着しませんでした。

報告ミスのため捜索が開始されたのは3日後で、
地上と水上での広範囲な捜索にもかかわらず、
シルバーと航空機の痕跡はついに発見されないまま今日に至ります。

近年、2010年になって、サンタモニカ湾で捜索が行われ、また、
2019年にはディスカバリーチャンネルが、ロサンゼルスの東にある
サンジャシントの山麓を捜査しましたが、結果は得られないままでした。



マスキーゴン出身軍人の「ミッシングマン」コーナーです。

画面右側は、朝鮮戦争時F-86Fセイバーのパイロットで、
MiG-15との交戦によって損傷した機体からベイルアウトしてから
行方がわからなくなったドナルド・ライツマ(Reitsma)大尉の遺品。

1年後の1953年12月23日に死亡したと認定されましたが、
遺体は発見されませんでした。



以前も一度「ミッシングマン・テーブル」の慣習について
当ブログでは紹介したことがありますが、つまり
ガードルード・シルバーのような戦時行方不明者のための『陰膳』です。
これには決まったやり方があります。

ラウンドテーブル
行方不明の人々に対する私たちの永遠の関心を示すものです。

白いテーブルクロス
任務への呼びかけに応える彼らの動機の純粋さを象徴しています。

花瓶に飾られた一輪の赤いバラ
は行方不明者のそれぞれの人生と、信仰を守り答えを待っている
アメリカ人それぞれの愛する人や友人の人生をあらわします。

花瓶を結ぶ赤いリボン
行方不明者への責任を負う私たちの継続的な決意の象徴です。

パン皿に置かれたレモンのスライス
異国の地で捕らえられ行方不明になった人々の苦い運命を表します。

パン皿の上のひとつまみの塩
答えを求める行方不明者とその家族が耐えた涙を象徴しています。

聖書
神のもとに一つの国として設立された我が国からこれらを守るために、
信仰によって得られる力を表しています。

逆さに伏せたグラス
今夜の乾杯を分かち合うことができないことを象徴するものです。

椅子
誰も座っていません。彼らは行方不明だからです。


続く。


サイエンス・ストームのテスラコイル〜シカゴ科学産業博物館

2023-07-13 | 博物館・資料館・テーマパーク


シカゴの科学産業博物館の展示から、
ここのサイエンス部門の目玉である

Wonder Is All Natural

のコーナーをご紹介します。
まずはMSIによる紹介の言葉をどうぞ。

わたしたちの世界に対する疑問は、そこに入るとほとんどすぐに始まります。

「火はなぜ燃えるのか?」
「雷って何だろう?」

わたしたちは、言葉もしゃべらないうちから、自然に魅了されています。
子供たちは、空の色や虹の終わりについて熱心に尋ねます。
そして大人はいつも天気の話をしています。

そう、わたしたちは、自分たちを取り巻く世界に見られる現象を
解釈したいという深い欲求を持っているのです。

そしてその答えは科学で出すことができますが、
同時に科学はまた疑問を呈するものでもあります。

疑問を持つ(ASK QUESTIONS)
内なる科学者を取り戻せ


「サイエンス・ストーム」で、不思議な感覚を取り戻しましょう。

この常設展「サイエンス・ストーム」コーナーでは、
自然の力をひとつ屋根の下に集め、稲妻、火災、竜巻、雪崩、津波、太陽光、
運動する原子という7つの自然現象を観察し、実験することができます。

もちろん、化学や物理のコアな概念も学べますが、
40フィートの竜巻を制御したり、150万ボルトの雷を見たり、
津波を起こしたりするのに夢中で、
もしあなたが「学んでいる」という実感がわかないとしても
それは無理からぬことでしょう。



竜巻の中に入ってみるなんて、そうそうできることではありません。
(ただしMSIではいつでもそれができるのです)


好奇心は、元来、再生可能なエネルギー源です。
自然の驚異を大規模に探索することで、あなたの好奇心を刺激してください。

周期表からランダムに3つの元素を混ぜ合わせるとどうなるか?
テニスボールを最も遠くへ飛ばすには、どのような角度が最適なのか?

などなど、さまざまな疑問が、あなたのために用意されています。
ここでの科学者はあなたです。

■ 竜巻 Tornado



つむじ風が吹く

台風の中のヤシの木や、荒れた日の風車など、空気の動きを見ていると、
催眠術にかかったような気分になることがあります。
しかし、風は一瞬にして破壊的な力を発揮します。

サイエンス・ストームの目玉である竜巻は、
高さ3mの渦巻き状の空気と水蒸気を自分で操作することができます。

また、大きな風船の中の空気を加熱して対流を作り、
その効果をサーモグラフィで観察することもできます。
また、だれかと一緒にストームチェイサーに乗り込んで、
悪天候を阻止する仮想レースも楽しめます。

ディズニーシーの「ストームライダー」を思い出しました。
もうなくなったらしいですが、あれは体が休められてよかったなー。

キャプテン・スコットは観測機に乗って嵐の真ん中につっこみ、
それで台風を消滅させていましたが、
ここではどんな技術で阻止するんでしょうか。



床から絶え間なく立ち上る、光に照らされた水蒸気の渦、
この渦のダイナミクスを、展示室の両階から操作・測定することができます。


竜巻🌀渦

渦の形状は、異なる高さでの空気の流れに応じて変動します。

ツイスターを形作るための通気孔は、
水平に吹いて空気の渦を回転させる風の効果を模倣しています。
自然界における竜巻の回転は、さまざまな高さと速度で
衝突する風によって影響を受けます。

1、レバーを動かして、4 つの通気孔からの空気の流れを制御します。
2 気流のさまざまなパターンを作成するための実験。
渦の高さに沿って気流を変化させると、
渦の形状がどのように変化するかを観察してください。


わたしも少しこれを動かしてみました。


■ 津波 Tsunami



津波のことを英語でいつからTsunamiというようになったのか。
おそらく近年だと思うのですが、それ以前は、科学者は一般的に
seismic sea waveという用語を使用しようとしていたようです。

日本語の発音は/ts/「ツ」ですが、
英語では語頭に/ts/を付けることができないため、
語頭の/ts/を/s/に変更し、"t "を削除した結果、
「スナミ」のように発音する人がいて、わたしの感覚では
ニュースなどでもそう聞こえることの方が多い気がします。



まるでわざとやっているのか?と思うような
男の子のシャツと同系色の、TSUNAMIと書かれた物体。
大きなお釜のような、コマのような・・・・。

【ダート・ブイDART Buoy46410】

そもそもダートって何ですか、って話なんですが、商品名です。

DART®
Deep-ocean Assessment and Reporting of Tsunamis
(深海における津波の評価と報告)

ということで、Tは津波のTだったのね。
要はリアルタイム津波モニタリングシステムで、
海中の戦略的な場所に配置され、津波予報に重要な役割を果たします。


DARTの仕組み

海底の圧力記録計から信号を受け取って、それをさらに
衛星を介してツナミセンターに送るというわけです。

日本でも地震が起こるとすぐに津波の予報がなされますが、
こういったモニタリング機器から情報を取っているのだと思われ。



そして、ここにあるDARTブイは、アラスカ湾に係留されていたのですが、
ある日外れてどんぶらこっこと400マイル流れていき、
コーディアック島というところに打ち上げられました。



赤の点が震源地・・・ってこれ日本の近くじゃないですか。
黄色がDARTが設置されていた地点です。

2006年11月15日、この深海津波評価報告 (DART) ブイは、
千島列島で発生したマグニチュード8.3の地震による津波を記録しました。

日本では「千島列島沖地震」と名称が付けられています。

現在は使用されていませんが、このブイはかつて、
国立データ ブイ センターの世界津波警報システムを構成する
DART ブイのグローバル ネットワークの一部でした。



しかし、流されて行方不明に・・。



見つかったのは1年後。



回収されました。
でっていう。

■ リップルタンク


子供の前にある大きな丸いディスクのようなものは、
波が物体や他の波とどのように相互作用するかを観察するシステム。



別のところにある3つの大きな波紋水槽のダイヤルを回すと、
水面で「タッパー」が作動して制御された美しい模様を作り出します。

天井から吊り下げられた水槽に、上から当てられた照明が、
下の床のディスクに大きな波紋の影を落としているのです。

それぞれの水槽は、回折、干渉、反射と拡散など、
異なる波動現象を表示するように設計されています。

■ ツナミ ウェーブ タンク



津波は遠距離に膨大なエネルギーを運びます。

科学者たちは、波の挙動を研究することで津波の説明と予測を試みていますが、
その道具のひとつがここにある「波動水槽」です。

展示されている30フィートの水槽では、あなたが作った波で
さまざまな沿岸環境への影響を調査することができます。



高速度カメラで波の動きを記録・再生し、
波のエネルギーや海岸線によって異なる波の動きを観察できます。

■ テスラ・コイル



テスラコイルのパートを通りかかったら、
エキジビジョン開始までのカウントダウンが表示され、
その時間を待っている人たちがいました。



開始まで後34秒というところで照明が暗くなってきました。


カウントダウンの間、皆は大きなスクリーンで
ニコラ・テスラとテスラコイルについての知識をちょっと仕入れます。

テスラコイルは、発明家ニコラ・テスラが1891年に考案した
「電気的共振変圧回路」で、高電圧、低電流、
そして高周波の交流電気を発生させるためのものです。

テスラはこれらの回路を使って、電気照明、燐光、
X線発生、高周波交流現象、電気療法、
電線を使わない電気エネルギーの伝送など、革新的な実験を行いました。

テスラコイル回路は、1920年代まで、

無線電信用のスパークギャップラジオ送信機
電気治療
バイオレットレイ装置などの医療機器


に実用化されていました。


ウーディンコイル(左)による癌(多分乳がん)の治療中
患者の頭の後ろにあるのがコイルの電源となる誘導コイル


真空電極による糖尿病の電気療法治療、1922年
前面に取り付けられた直列スパークギャップが見える

しかし、これらが癌や糖尿病を治療できたのかというと、
全く効果がなかったからこそいつの間にか使われなくなったわけで。

当時は難病を治療する希望の光に思われていたのでしょうけれど・・。

現在では、娯楽や教育用ディスプレイにしか使われていません。
小型のコイルは高真空システムのリークディテクターに実用化されています。



右側の図の下にはテスラのサインがあります。



テスラが提案した無線電力システム(1897年の特許より)

送信機(左)は、テスラコイル(A、C)で、
風船(D)で吊るした高架式容量性端子(B)を駆動するもの。
受信機(右)は、同様の端子と共振トランス。






テスラコイルが発する大量の火花は、電荷の劇的なデモンストレーションです。
正電荷と負電荷が分離し、再び結合して熱、光、音が激しく混ざり合い、
稲妻に似た壮観な電気の火花を発生させます。

派手な火花、その電流が感電を起こさずに人体を通過できることから、
テスラコイルはエンターテイメントビジネスで利用されるようになりました。



20世紀初頭には、巡回カーニバル、見世物小屋、サーカスやカーニバルで
出演者が高電圧を体に通す演技が盛んに行われました。

写真はそんな芸人の一人、「マドモアゼル・エレクトラ」で、
電気椅子に通電したのにあら不思議、彼女はしにましぇーん、
というような芸で売っていたようです。



自分の体を隠し持ったテスラコイルの高電圧端子に接続し、
指先などから火花を散らす「フランケンシュタイン」。
アーウィン・ムーン伝道師(エヴァンジェリスト)(1938年)



指でロウソクやタバコに火をつけることもできました。

通常は感電することはないのですが、素肌からのRFアーク放電は
火傷を引き起こすことがあったため、それを防ぐために
パフォーマーは指先に金属の指貫をつけていました。

実はこれらの演技は非常に危険であり、テスラコイルの調整を誤ると
パフォーマーが死亡する可能性もあったのです。

当時電気椅子による死刑方法が導入されたばかりだったアメリカでは、
このパフォーマンスは人々の興味を引きました。

今日でもテスラコイルを使って高電圧の演技が行われることがありますが、
テスラコイルの電流は全く生体に安全なものではなく、
体を通過させることは今日極めて危険と考えられています。


しかし、巨大なテスラコイルの電極から発せられるパチパチと蠢く火花は、
ハリウッドの「マッド サイエンティスト」の研究室の象徴となりました。

これはおそらく、謎の研究者、変わり者のニコラ・テスラ自身が、
「マッド サイエンティスト」の起源であり、原型の一つだったからです。

『メトロポリス』(1927)、『フランケンシュタイン』(1931)など、
多くの映画や映像媒体がテスラコイルを使用しました。

しかし、80年代には、それらはCGIに置き換えられてゆき、
セットでの危険な高電圧テスラコイルは必要とされなくなったのです。

続く。


ピカール夫妻のゴンドラと米ソ宇宙戦争の起源〜シカゴ科学産業博物館

2023-06-25 | 博物館・資料館・テーマパーク

「成層圏への高みを目指した」ピカール夫妻のゴンドラについては
当ブログのスミソニアンシリーズでご紹介済みですが、
ここにそのゴンドラ実物が展示されていたのでもう一度取り上げます。

■ ピカールのゴンドラ

1933年にシカゴで開催された博覧会「進歩の世紀」で、
ジャン・ピカールと彼のチームが世界高度記録の更新に挑みました。

そしてゴンドラは「人類最大のドラマ」の中心的存在でした。

この歴史的な試みを見ようと5万人の観客が集まりましたが、
バルブの漏れが原因で1度目の飛行は失敗に終わります。

しかし1933年、2度目の飛行で、18.665キロの世界高度記録を更新し、
アメリカ人初の成層圏への突入を果たしました。

そして、ピカールの妻ジャネットは、
女性初の成層圏到達記録を樹立することになります。


ジャンとジャネット


MSIのピカールゴンドラ説明パネルの「決め台詞」は、

”The stratosphere is the superhighway
of future intercontinental transport."
「成層圏は将来の大陸間輸送における
スーパーハイウェイです」

このジャン・ピカールの予想は正確ではないもののある意味当たっています。

大陸間の輸送を海運に頼っていたこの頃、
もし高高度まで荷物を運ぶ技術さえ生まれれば、
それまでにはなかった超高速での輸送が可能になるからです。

今は、垂直に高みを目指さなくとも、飛行機、ジェット機による輸送が
スーパーハイウェイとして機能しているのを見れば、
彼の予言が正しかったことがお分かりでしょう。



ピカール家は探検家一家でした。
双子の兄弟、オーギュストとジャン・ピカールは、
1884年にスイスで生まれ、
科学、工学、発明に興味を持ちながら成長しました。

オーギュストは、大気圏上層部の宇宙線に興味を持ち、
宇宙線を測定するために高高度まで上昇できる
球形の加圧式アルミニウム製ゴンドラを設計しました。

1931年、オーギュストと助手のポール・キプファー
試作したゴンドラでドイツのアウグスブルクを飛び立ち、
高度51,775フィートを記録し、人類初の成層圏突入者となります。

それは17時間かけた世界史の転換点でした。



【航空機による成層圏への挑戦】

以前にも書いたように、成層圏を目指したのは
ピカール兄弟だけではありません。

1930年代初頭になるまで、世界中のパイロットが
高高度での人間や飛行機の耐久性の限界に挑戦していました。


1930年6月4日にアポロ・スーチェク海軍少将(最終)が
水上機で達成した43,166フィート(13,157m)、


1932年9月16日にイギリスのシリル・ユーインズ(Cyril F. Uwins)
が出した43,976フィート(13.404m)、


1934年4月12日にレッジア・アウロナウティカ(イタリア空軍)の
レナート・ドナーティ中佐(当時40歳)が
アルファロメオのエンジンを積んだカプロニで47,572フィート(14.500)
と記録を出していきました。



ちなみに、レナート中佐の記録達成の翌年、
イタリアの女流飛行家カリーナ・ネグローネ侯爵夫人
同じカプローニCa.113で女性の新記録12.403mを樹立しています。

Aeronautica Militare - Carina Negrone, un record al femminile - 1935

侯爵夫人でありながら空軍で航空の訓練を受けた
最初のイタリア人女性として有名なのだそうです。

ネグローネ侯爵夫人が搭乗するシーンを見てもわかるように、
酸素のない高高度にオープンコクピットで飛んだ当時、
生命維持装置を開発しなければ成層圏への達成はあり得ないとして、
生命維持のための与圧キャビンや可変ピッチプロペラ、
薄い空気の中で飛行するための新設計のエンジン
(ターボコンプレッサーやスーパーチャージャー)など、
さまざまな革新が必要であることを、関係者は重々理解していました。

それが理解されるまでの期間、何人かが同時に成層圏にチャレンジし、
その結果何人もが事故で命を失っていきました。

【ピカール気球の時代】

ご存知のように、当初は、飛行機よりも高高度に達するための
「ストラトスタット」(成層圏気球)を打ち上げる記録で、
いうたら平和的な競争が展開されていました。

この成層圏レースを最初に始めたのが、オーギュスト・ピカールでした。
スイス人で、ブリュッセル大学の物理学教授であり、
ガンマ線の研究専門家でもありました。

彼が助手と記録を打ち立てた最初の気球飛行ミッションの科学的目的は、
宇宙線の観測と測定(性質、強度、動き)、
空気の化学分析と気温の記録というありふれたものでした。

しかし、この飛行は、SF小説のようなドラマと危険に満ちていました。
(何しろ世界初ですから)

ゴンドラを格納庫から発射場まで小さな線路で慎重に運ぶ様子、
夜遅くまで射場を照らす巨大な投光器、
射場に詰めかけた大勢の作業員と観客、英雄として帰還するパイロットたち、
カプセルにイニシャルを入れるファンたちなど・・・。

残されている映像は、まるでそのものが映画のようです。

球体ゴンドラはピカールのユニークな発明でありましたが、
これは後の成層圏ゴンドラの原型となり、
さらには数年後のスプートニク宇宙船を先取りしていました。



機体はアルミニウムと錫を溶接した直径3.5mの気密性の高いボールで、
ビールの貯蔵に使われる密閉桶の技術を応用しています。

ピカールは、このボールに純酸素ディスペンサーと
二酸化炭素を浄化するための再循環システムを備えました。

可燃性の高い水素ガスを50万立方フィート注入した気球は、
内部のガスが太陽の光で温められ、完全に膨張すると、
時速20マイルのスピードで上昇します。

発射すぐは気球の形状は洋ナシ型で、上空に行くと丸くなりましたが、
これはピカールの言葉を借りれば「完全な球体」であり、
日没後に見える朝の星、金星そっくりで、
現に何人かの観測者はこれをピカールの機体と混同していました。

最初の飛行は何度も失敗の危機に瀕しました。

音響測定器も入らない1インチほどの穴から酸素が漏れ、
なんとか苦心して塞いだものの、上昇するときになって貴重な空気が
「ヒューヒュー」と出ていくのをただ見ているしかありません。

また、モーターが故障して、ゴンドラは太陽の熱を避けることができず、
内部の温度は40℃にまで上がったため、
その熱でゴムのジョイントが曲がり、さらに空気が抜けていきます。

気球を安全に降下させるためには、夕日が沈むまで待って
気温が下がってから注意深く行うしかありませんでした。


気球を操縦中のピカール(スーツ着用)


しかしピカールは、このときのことを日誌にこう記しています。

 ”午後12時12分、人類の記録が更新された。
. . 私たちは激しく苦しんでいる。

さらに水素を放出する。"

メディアは「人類が到達した地球からの最長距離」
を打ち立てたピカールの偉業を誇らしげに報じました。
成層圏に到達し、生還した最初の人類がここにいる、と。

このとき、ピカールは文字通り "世界の屋根を上げた "といえます。
彼はこの旅の日記にこう書いています。

"青い空の上をに上昇すると、その向こうに世界が見え、
妖精のように青く美しい霞がかかったようだった"。


アメリカ、ヨーロッパ、ロシアのメディアは、

「ピカールの成層圏気球は地球の曲率を超えて劇的に上昇し、
古くからある宇宙からの流星に匹敵する、人間の手による初めての上昇」


だと報じ、アメリカ人はピカールの偉業から
「成層圏を意識する」ことを知らされました。

彼はある意味この時代の地球人にとって新大陸を発見したようなものです。
このため、彼のキャッチフレーズは、

「気球のサンタ・マリア号(コロンブスの船)に乗った成層圏のコロンブス」

とされました。

彼の発見した新大陸は、人類が到達しうると証明された
「宇宙の空白」、「神秘の冷たい王国」に他ならず、そこから地球を測量し、
宇宙線を探索し、人間の耐久力の限界を試すことができるようになるのです。

それは、来るべき成層圏ロケットや宇宙ロケットが
無限の高さにまで上昇することへの序曲でした。

ところで、成層圏への挑戦では、何年か前にロシアの「宇宙の父」と言われる
コンスタンチン・ツィオルコフスキーが時代の先を読んでいましたが、
この時点では、ロシアはそこから大きく遅れをとっていました。

ここから後に、ソビエト・ロシアが宇宙を目指すため
国家の総力を上げたのは、西側諸国と肩を並べるために
成層圏の極限の高みに到達する必要があったからで、
その根源にはツィオルコフスキーがいたからだとする説も存在します。


1932年から33年にかけての冬、
「成層圏ブーム」の最初の頂点にいたピカールは、
シカゴの「進歩の世紀」展に参加し、人類の進歩の頂点として、
アメリカの成層圏登頂がまだ続くと紹介されました。

彼は、高高度まで飛行したストラトスタットのキャビンを
「正確に再現」し、舷窓から頭をのぞかせる写真を持参し、また、
成層圏ロケットを発明したと主張して群衆に畏敬の念を抱かせました。

しかしながら、ピカールの偉業と自慢・・・というか自己満足は、
あっという間にロシアとアメリカの成層圏ロケットに追い越されました。

【米ソ宇宙戦争の先駆けとしての気球戦争】

すでに米ソは呑気な気球などの時代から、
後の「宇宙戦争」を予感させる国際的な
「成層圏への競争」を熾烈に繰り広げつつあったのです。

両国の広報担当者は、

「ソ連の辞書には『不可能』という言葉はない!」

「アメリカの成層圏は、『成層圏の謎を解こうとする人間の試みの中で
最も素晴らしいものを象徴する、300フィートの高さの感嘆符』だ!」


などと相手を牽制し自慢し合いながら、この競争を切磋琢磨していました。

両国とも、宣伝や広報のために気球を公然と利用しましたが、
当初はお互いよりもピカールを視野においた競争でした。

1933年9月30日、ソ連空軍は、ストラトスタットSSSRを打ち上げました。
ピカールの改良版ゴンドラでピカールの記録を抜いたのです。

その後も成層圏を目指す挑戦は続き、ソ連からは
何人もの挑戦者が「空の勝利者」となりました。

ソ連の広報は成層圏飛行士を未来の宇宙飛行士として称え、

「彼らはさらに高く、"世界の屋根 "を築いた。
彼らは新しい
「垂直のリンドバーグ」である。
彼らは、ツィオルコフスキーの「惑星的」な夢を実現したのである。

「地球の6分の1の耕作から全宇宙の耕作へ、
これがわが
ボリシェヴィキの未来の創造の道である」

と高らかに謳いました。

方やアメリカも負けずに、1933年11月20日、
アメリカ海軍のT・G・W・セトル中佐と海兵隊のフォードニー少佐
オハイオ州アクロンにおける挑戦で61,237フィートに達し、
ロシアに約542フィートの差をつけて世界記録を作ります。


セトル中佐とフォードニー少佐の気球

そしてさらにその1年後、ここに展示されている
「センチュリー・オブ・プログレス」を操縦して、
オーギュスト・ピカールの双子の弟ジャンと、
成層圏に到達した最初の女性である彼の妻ジャネットが、
興奮したヘンリー・フォードに手を振って祝福されて
フォード飛行基地を出発しました。

気球は、エリー湖、サンダスキー、クリーブランド、アクロン上空を飛行し、高度10.9マイルに達して無事着陸しました。



ところで、ソ連にとって、西側との競争は自分たちとの競争でもありました。

国内では国策プロジェクトである
ストラトスタットSSSR
レニングラードのセルゲイ・キーロフの支援による「民間」プロジェクト
そしてオソアビアヒム1(ソ連の防衛と航空化学産業を支援する会)
が三つ巴となって鎬を削っていたのです。

1934年1月30日、夜空で最も明るい星を意味する
「シリウス」というコールサインで、飛び立ったばかりの
オソアヴィアヒム1号の機体は、高度21キロに達しましたが、
翌日墜落事故を起こし、乗組員は全員死亡しました。

墜落の原因について、高すぎる上昇と急激な下降の後、
設計や構造の不備によりゴンドラが気球から外れ、
地上に墜落したと結論づけられました。

メディアと国内は飛行士たちを称賛し、ある詩人は

彼らは「神秘的な距離」と「素晴らしい高さ」に、
"誰も行ったことのない距離 "に到達した

として、3人を「宇宙の底知れぬ深み」を目指し、
文字通り「アメリカ大陸よりも新しい世界」を発見した、
一種の惑星間旅行者として描くことで賛辞をささげました。


【ピカール夫妻と気球】

一方、ジャンは1931年にシカゴ大学で教えるために渡米し、
当時有機化学の修士課程にいた
ジャネット・リドロンと出会って結婚しました。

ここでもお話ししたことのある海軍のセトル少佐が
成層圏に挑戦し、高度記録を達成した後、
ピカール夫妻はこの気球で成層圏に挑戦しました。




1)密閉された球形のキャビン
その表面全体に機械的応力を均等に分散させました。

2)酸素供給システム
乗員が高高度で普通に呼吸することを可能にしました。

3)気球エンベロープ

成層圏への上昇中に完全に膨張することができるように
典型的な熱気球より大きくなっています。



ピカール・ゴンドラの3回目、そして最後の飛行が行われたのは1934年。
10月23日の朝、ジャンとジャネット、そしてペットの亀、
フルール・ド・リは、ミシガン州のフォード空港を離陸し、
成層圏へ向けて飛び立ちました。

歴史的な挑戦の日のピカール夫妻

この飛行で、ジャネットは人類史上初めて成層圏に達し、
最も高高度に達したという記録を保持することになります。

ワレンチナ・テレシコワ少佐が宇宙に達するまでその記録は破られませんでした。

その後ピカール・ゴンドラは1935年に科学産業博物館に引き取られ、
現在も交通ギャラリーに展示されています。

と、ここには書いてあるわけですが、

あれ?
それじゃスミソニアンにあった”あれ”は、
本物じゃなかったってこと?



続く。


エアメール・ヒーローとボーイング40B〜シカゴ科学産業博物館

2023-06-23 | 博物館・資料館・テーマパーク

潜水艦内部見学ツァーの時間つぶしで見学した
「小型飛行機」の紹介を続けます。

■ 1928 ボーイング40B

そのほかの小型飛行機は、前回ご紹介したJN-4Dジェニーといい、
シュトゥーカ、スピットファイアといい、いずれも
アクロバットや空戦の真っ最中を表現する展示となっていますが、
この1928年のボーイング40Bはひたすら水平です。

それはなぜかというと、この飛行機がかつて郵便輸送機として
現役であったころは、パイロットもできるだけ水平に、
静かに真っ直ぐ飛ぶことを心がけていたからです。



そう言われれば、郵便飛行機が始まった記念として発行された
「ジェニー」が、ひっくりがえっているのは、
ますます何かの間違い(現に印刷者のミス)であるのが納得できますね。

郵便物を運ぶのにこれは断じて許されません。

商業航空便の開設は航空産業に恩恵をもたらしました。
これは現存する2機の1928年のボーイング40Bのうちの1機です。



”We can't let the transcontinental effort end here.
I'll fly her on through!”
「大陸横断の取り組みをここで終わらせてはなりません。
わたしは彼女を最後まで飛ばします!」


パネル右側の決め台詞を言った人、それは・・・、



パネル右上の人物、

ジェームズ・H・ナイト
James Herbert "Jack" Knight 1892-1945


というこの時代のパイロットです。
この人とこのセリフについての説明は後にします。

先にこのボーイング40B-2についてのスペックを説明しておきます。



1)二つのメールコンパートメント

郵便物を運ぶための飛行機だったので、前と後ろに一つずつ、

最大1000ポンドのメールを収納するための
コンパートメントが設けられていました。

パイロットのコクピットは二つの物入れの後ろに位置します。

2)ラジアルエンジン

飛行機のパワーと効率を高める最新式のエンジン。
プラットアンドホイットニー・ホーネット525馬力で、

最高時速は132マイル(約1.5km)でした。

3)着陸灯

地上係員が夜間飛行機の存在を追跡するのに役立ちました。

4)布製ボディパネル

スチールのチューブに張られた布が機体を強化しました。
正確には、鋼管フレームを布で覆っています。

5)乗客キャビン

二人の乗客(有料で席を買って乗る)が乗ることができました。


主翼の構造は、軽量化のためにスプルース無垢材の木柱、
合板の前縁で構成されています。

第一次世界大戦後、数多くのベテランパイロットやエンジニアが
アメリカに戻って、航空を産業として発展させようとしました。

これらの退役軍人は、飛行機には戦争以外の実用的で有益な目的があり、
自分の得た技術と経験がそれに役立つと思ったのです。

飛行機で貨物を運ぶことの利便性が明らかになると、
民間航空産業は急速に発展していきました。

前回の「ジェニー」が最初の汎用民間機ならば、
ボーイング社の40B-2型は、初めての商用飛行機の一つであり、
1920年代、当時最も貴重な貨物のひとつである航空郵便を運びました。



最初の航空便サービスは政府による国営となりました。
MSIに展示されている40B-2の機体は、
この地図に表されているシカゴーサンフランシスコ間を往復していました。

偶然ですが、当博物館には、いわゆるジャンボ型のボーイング727もあり、
こちらも全く同じ航路を運行していたのだそうです。

【危険すぎてヒーローとなった航空便パイロット】

今でこそエアメールの配達は日常的なサービスですが、
航空黎明期には飛行機で大陸を横断すること自体危険な仕事でした。


雪の山岳地帯を低空飛行する40B-4タイプの郵便航空機。
なぜこんなに低空を飛ぶかというと、コクピットが剥き出しのため。

たとえば、1927年に郵便局が雇った最初のパイロットは40人で、
そのうち、31名が事故で死亡しました。
100人のパイロットのうち43人が
運用開始から9年以内に死亡したというデータもあります。


この衝撃的な事故の写真は、当時の郵便パイロットの最後を表す
典型的な例として有名です。


わたしもスミソニアン博物館で初めてこれをみたときには
写真の女性同様、思わず見入ってしまいました。

当時は航空事故イコール”死”でした。

エアメイルパイロットは風雨にさらされるオープンコックピットに座り、
2人の乗客はエンジンの後ろにある完全に密閉された胴体に座りました。

パイロットは自分で操縦するので何ですが、
こんなものによくお金を出して乗る人がいたものだと思います。

しかし、それだけ危険と隣り合わせの仕事であったからこそ、
当時のエアメイルパイロットはヒーローとして人々を魅了しました。

郵便配達が大胆不敵な仕事の代名詞になろうとは、
後にも先にもこのころだけの事象だったのではないでしょうか。

ハリウッドも関心を寄せ、郵便配達を描いた映画が乱立?します。


1925『エアメイル』(サイレント)

The Air Mail 1925


1932年『エアメイル』もう一丁

ジョン・フォードも1932年にそのものずばり、
「エアメール」という映画を撮影しています。

Air Mail 1932 John Ford Movie 

YouTubeで全編観られます。
だいたい55分ごろに飛行機が墜落して事故が起こっています。


『スリーマイル・アップ』


『ナウ・ウィアー・イン・ザ・エア』

このほかにも航空郵便をテーマにした映画が数多く制作されました。

■ ヒーロー、ジャック・ナイト(郵便配達員)


1922年1月16日、冬用のフライトスーツに身を包むナイト(左)

ジェイムズ・H・"ジャック"・ナイトは、
アメリカで最も有名な航空郵便パイロットの一人でした。

彼は初の夜間大陸横断航空便の配達を行い、
これによりヒーローと称されるようになりました。



初期の空対地無線をテスト中のナイト

1892年3月14日、カンザス州で生まれ、翌年母親が亡くなったため、
妹とともにミシガン州の叔父叔母に育てられました。

1917年、第一次世界大戦をきっかけに陸軍飛行隊に入隊した彼は、
テキサス州ヒューストンのエリントンフィールドに派遣され、
教官パイロットとして活躍し、19年に少尉の階級で除隊しました。

終戦後、ほかの第一次世界大戦に参加したパイロットのように、
彼はネブラスカを拠点とする航空便のパイロットの仕事に就きました。

【航空郵便の政治的危機】

1920年9月、アメリカの大陸横断郵便路が運行を開始しました。

パイロットは通常日没後は飛行できないため、
郵便物は鉄道車両に移し替えて夜間に輸送していました。

そのころ、新大統領ウォーレン・ハーディングと一部の下院議員は、
連邦航空郵便助成の廃止を公然と口にするようになっていました。

夜間の運用ができないこと以前に、安全性に対する懸念がその理由です。
そしてそれは決して根拠のないものではありませんでした。

その前の3年間で、17人の航空便パイロットが、
機械や天候に起因する墜落事故で亡くなっていたからです。

当時の計器盤には航法用の磁気コンパスしかなく、
荒天時には北から南へ振動して正確な機位がわからなくなるため、
パイロットは悪天候時には限界まで低空飛行し、川や線路、
町を梢の高さでかすめながら、行き先を確認しなければなりませんでした。

こんな状態では事故は起こらない方が不思議というものです。

そこで、郵便局の上層部は航空郵便の有用性を実証するため、
あえて鉄道を使わず、完全に空輸で郵便物を横断させる実験を計画しました。

この航空オンリーによる横断の実験を行う日として、関係者は
ジョージ・ワシントンの誕生日の1921年2月22日を選びました。

当時の飛行機で大陸を横断すると、必然的に夜間に飛行時間が被ります。

ランドマーク(目印)を見つけることが難しい夜間に、
むき出しの無防備なコックピットに乗って飛ぶことは
パイロットにとってもちろん全く簡単ではありません。

"ジャック・ナイトの夜間(ナイト)フライト"


ナイトという名前はKnightで、アメリカ人には夜=ナイトと間違えるとか
あり得ないのかと思いましたが、ちゃんと洒落にしていました。

夜間における大陸横断の試験飛行のパイロットには、
腕の立つジャック・ナイト始め何人かが選ばれました。



「大陸横断の取り組みをここで終わらせてはなりません。
わたしは彼女を最後まで飛ばします!」


ここで冒頭のセリフをもう一度振り返ってみますと、
彼が何を意気込んでいたのかわかりますね。

1921年2月22日の朝、2機の郵便機が
ニューヨーク州ロングアイランドの飛行場を出発して西へ向かい、
他の2機はサンフランシスコプレシディオの
マリーナ・フィールド(わたしが毎年訪れる場所ですね)
から逆に東へ向かいました。

中継機をその間のポイントで待機させての出発です。



このとき、ナイトは前週にデ・ハビランドDH-4B郵便機で墜落し、
鼻を骨折してこんな顔でこの飛行に臨んでいます。

それほどの高度ではないとはいえ、骨折して飛行機は無茶すぎ。

しかし、まあ色々とあって予定より大幅に遅れ、
落ち合う予定のパイロットがシカゴで吹雪に見舞われてしまい、
同じ嵐で、もう一人の西行きパイロットも足止めされて、
ナイトは、いつの間にかたった一人でフライトを続けてていました。

しかし、彼は孤立無縁の飛行機を操縦していたため、いまや
航空郵便の未来が自分一人にかかっていることに気づいていなかったのです。

オマハに到着したナイトは、この時初めて
まだ飛んでいるパイロットが自分だけであることを知ります。

しかし(というかだからというべきか)ナイトは体を温めた後、
オマハの東を飛んだことがないという事実にもかかわらず、
嵐を捺して飛行を続けることを選択したのでした。

アイオワ州デモインでは雪で着陸できず、その先のアイオワ・シティでは、
天候の悪化で飛行機が着陸してしまったと思い、
みんな家に戻ってしまって空港には誰もいなくなっていました。

着陸する飛行機のエンジン音を聞いていたのは、空港の夜警ただ一人。
夜警は目印に鉄道フレアを2つ設置し、飛行機を迎えました。

深夜のアイオワシティの気温、マイナス24°C。

ナイトはエンジンが再起動しないことを恐れてエンジンをかけたままにし、
コーヒーを飲み、ハムサンドを食べて給油し、
シカゴまでの最後の200マイルに向けて午前6時30分に出発しました。

そして、午前8時40分にシカゴのチェッカーボードフィールドに到着。
徹夜のフライトで830マイルを飛んだ彼ですが、
彼が使ったナビゲーションシステムは、普通のコンパス、
そして小さく破れた道路地図のみ。

つまりほとんど肉眼で道を探しながら飛んだことになります。

シカゴでは新聞記者たちがナイトを待っており、
彼の飛行は全米の一面を飾ることになりました。

ナイトは後に、氷点下の気温、凍った風、揺れた空気のため
飛行を続けることは非常に過酷だったと述べています。

もちろん、鼻を骨折していなければかなり少しマシだったかもしれません。

新聞は

「ジャック・ナイトの夜間飛行」"Jack Knight's Night Flight"

について大々的に報道し、
彼はリンドバーグ以前の時代で最も有名なパイロットとなりました。

エアメールパイロット仲間で友人のスロニガーは、いつも彼を

"Jack Knight the guy who saved the night mail"
「ジャック・ナイト、ナイトメールを救った男」


と、まるでそれがすべて彼の名前の一部であるかのように呼びました。

確かにナイトは英雄と特に持ち上げられましたが、実はこのとき、
他の2人のパイロットもニューヨークまでの飛行を成功させているので、
この偉業はみんなで成し遂げた勝利というべきでしょう。

結果、全部で7人のパイロットが大陸横断飛行に参加し、
33時間20分かけて2,629マイル(3,652km)を飛行したことになります。

この偉業に感銘を受け、世間が広く賞賛したため、議会はついに
窮地にあった航空郵便サービスに必要な資金を計上することを決めました。

ナイトとパイロットたちは郵便飛行を廃止から救ったのです。


【ナイトのその後の人生】

一躍有名になったナイトは、郵政公社や地元の市民リーダーたちと協力して、
航法ビーコンや緊急着陸帯のシステムを構築させました。

1927年9月1日に国有航空郵便が廃止され、民間企業に入札されたとき、
ナイトは417,000マイル以上を飛行し、
航空郵便のパイロットの頂点に立っていました。

その後彼はボーイング航空輸送に就職し、
1934年にユナイテッド航空に席を置いてDC-3の旅客飛行を行い、
後に安全担当副社長になりました。

第二次世界大戦が始まると、ナイト民間航空局に入り、
航空路の開発に携わりました。
その結果、戦時中の資材を調達する国防支援公社に転職することになります。

そしてこのことが彼の命を縮めることになりました。

ゴムの原産地を開拓するチームとしてアマゾンのジャングルにいたナイトは
マラリアに感染し、彼は健康を害していきます。

転倒しても立ち上がれないほど弱っていた彼は、
1945年2月24日、シカゴで死去し、その遺灰はミシガン湖に撒かれました。



1950年には、A.M.アンダーソンとR.E.ジョンソンによって
児童向けに彼の活躍を描いた
「パイロット・ジャック・ナイト」
が出版されています。

1999年になって、ミシガン州でナイトの航空殿堂入りが決定しました。


■MSIの40B-2


当初、航空郵便事業はアメリカ政府によって管理されていましたが、
1927年、大陸横断航空便と旅客サービスの事業に民間が参入します。

このときの会社が、今日の民間航空会社の前身となります。

この40B-2は、その航空会社であるユナイテッド航空が所有していましたが、
1933年から開催されたシカゴの「進歩の世紀」万国博覧会の終了後、
1935年に科学産業博物館へ寄贈しました。




現在、この飛行機は博物館の
ボーイング727ターボジェットの隣に展示されており、
わずかな間に起こった旅客機の進化を物語っています。

続く。


銀河鉄道999のモデルと「グレート・トレイン・ストーリー」〜シカゴ科学産業博物館

2023-06-19 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、シカゴ科学産業博物館MSIのU-505関連展示を見て、
艦内ツァーを申し込み、時間まで他のところを見ることになりました。


とりあえずランチをいただくことにしました。
コロナ真っ最中とはいえ、アメリカ人はこのときノーマスクが主流で、
夏休みということもあって結構大変な人でした。
空いたテーブルを見つけるのに食べ物を持ってうろうろするはめに。



まずは「トランスポーテーションの歴史」というコーナーにある
蒸気機関車から見学を始めます。

【エンパイアステート・エクスプレスNo.999】

これがこの汽車の名前ですが、おおスリーナインね、と納得。
エンパイア・ステート・エクスプレスは、
ニューヨーク・セントラル&ハドソン・リバー鉄道の名物客車で、
かつての旗艦列車でもありました。

1891年、ニューヨーク-バッファロー間702kmを7時間6分(停車時間含む)、
平均時速98.8km、最高速度132km/hで走っていました。
当時世界で最も早く、ノンストップ定期運行をした最初の列車です。

エンパイア・ステート号が有名になったのは、これを牽引した
展示されているアメリカ型4-4-0蒸気機関車の魅力でした。

直径86インチの駆動輪を持ち、機関車としては初めて
前部トラックにブレーキを装備した手作り品です。

磨き上げられたバンド、パイプ、トリム。
ボイラー、煙突、ドーム、運転台、テンダーはブラックサテン仕上げ。
テンダーの側面の「Empire State Express」の金箔文字。

シカゴ鉄道フェアをはじめとする数々の博覧会で活躍した後、
1952年引退し、急行用ミルクカーの交換業務に従事していましたが、
1962年にこのMSIに寄贈され、保存・展示されています。


「クィーン・オブ・スピード」と呼ばれたかつての姿

【銀河鉄道999のモデルとして】

ところで、先ほどかるーく「スリーナインね」と書いたわけですが、
これは後から調べたら、マジでした。

No. 999 was the inspiration for the eponymous
 steam engined-shaped space vehicle 
in the Galaxy Express 999 series of manga 
and animated films.

No.999は、漫画やアニメの「銀河鉄道999」シリーズに登場する
同名の蒸気機関車型宇宙船のモチーフとなった。


エンパイアステートエクスプレス No.999

ようこそご乗車くださいました
シカゴの伝説へ


世界新記録
1893年5月10日、

機関車No. 999は時速112.5マイルという記録破りの走行を行いました。
シカゴに到着し、コロンビア万国博覧会に展示された
すべての機関車の中で最も印象的だったのがこのNo.999でした。

1933〜1934年にシカゴで行われた博覧会、
1948〜1949年のシカゴ鉄道博覧会でシカゴに姿を見せた999でしたが、
1952年に退役して10年後にMSIにやってくることになりました。

つまり1962年から今日までずっとここにいるということになります。

このパネルによると、No.999は1948年、1993年、
そして1994年といずれも記念に実際に走行を披露しています。




どこを見ても説明がなかった四輪自動車。
苦労して探したところ、これではないか?というのを見つけました。



1907年 デトロイト・エレクトリック

19世紀後半、自動車の時代が到来すると、世界各地で
ガソリン車と並んで電気自動車が開発されました。
アメリカでは、1907年に発売されたデトロイト・エレクトリックが
最も成功した電気自動車でした。

航続距離は約80マイル(128.75km)で、
最高速度は時速20マイル(32km)だったそうです。

最高時速32キロって・・・・。


電気自動車は1890年代から1900年代初頭にかけて普及しました。
当時は蒸気自動車もありましたが、車を覆う屋根がないのが
屋根のある電気自動車との違いでした。


■ グレイト・トレイン・ストーリー



老若男女全てが目を輝かせて見入る巨大なジオラマがあります。

鉄道模型の旅は、数分で国中を駆け巡り、何時間もあなたを魅了します。

世界各地への輸送や個人的な冒険など、鉄道は人や物を運ぶだけでなく、
長い間、私たちの国の性格や野心を映し出してきました。

シカゴからシアトルまで、1,400フィートの曲がりくねった線路に沿って、
2,200マイルの風景と物語を紹介する
「グレート・トレイン・ストーリー」
に、あなたも乗ってみませんか?

いつもの景色とは違う列車からの素晴らしい眺めを楽しむために。



MSIでは、何世代にもわたって鉄道模型体験が親しまれてきました。

このたび、「グレート・トレイン・ストーリー」で、
これまでで最も魅力的な体験ができるようになりました。
交通ギャラリーの目玉であるこの体験型鉄道模型では、
20台以上の列車が大陸の旅を驚くほど細部まで再現しています。

ロッキー山脈やシカゴの摩天楼の高さから、
小さな交差点灯や浮かぶ海鳥まで、
この巨大なスケールモデルは何度見ても新しい発見があります。

隠されたミニチュアのシーンがたくさんあります、
海辺でのんびり過ごす人々、荒野での仕事の様子・・。

3,500平方フィートの敷地内には、年齢や興味に関係なく、
どこを見ても冒険ができるようになっています。

鉄道好きの幼児、ミニチュアマニア、地理オタクでなくても
展示されているクラフトマンシップに魅了されることでしょう。

ミニチュアのシーンに隠された
さりげないジョークにも注目してみてください。

また、インタラクティブなボタンを使って、跳ね橋を持ち上げたり、
トンネルを掘ったり、木を切ったりすることもできます。
自分のペースで楽しめるのが、このゲームのいいところです。



シカゴの街角に突如現れる牛。
子牛の上には子供が乗っていて、
ベンチでは爺さんが奥さんを抱き寄せ、
腰に手を当てた海軍の水兵が四人。

もちろん牛は本物ではなく、こういうオブジェが実際にあるのだとか。



二階建ての電車も走ってます。
ガード下にも車が入っていく細部表現の抜かりなさ。



電車に搭載されたカメラがあなたをミニチュアの世界での
列車の旅の体験をさせてくれるというわけです。

The Great Train Story: 10th Anniversary Ride

思わず引き込まれて見てしまうこと請け合い。


MSIの鉄道模型は、1941年の開館当時、世界最大の鉄道システムで、
2,340平方フィートの床面積を持ち、1/45スケールの列車と
2レールのOゲージ線路を組み合わせたQスケールで作られていました。

鉄道模型の様々なシーンは、米国の産業界における鉄道の役割と、
南西部の砂漠地帯の農業を表現しており、1,000フィートの線路と、
自動制御盤で操作される40個のスイッチも含まれていました。

60年以上親しまれた模型は2002年5月に閉館した当時、
博物館で最もよく知られ、愛されてきた展示物の一つでした。

新しい技術によって鉄道がより安全で効率的に運行されるようになったため、
何度も改良が加えられてきたのです。
また、この展示は、蒸気機関車に代わって「ディーゼル」エンジンを走らせた
国内初の鉄道会社のひとつでもありました。



今日、博物館の鉄道展示「The Great Train Story」は、
再び現代の鉄道の物語を伝えています。
新しいレイアウトは、オリジナルの鉄道よりも50%大きく、
当初の10本から30本以上の列車を運行できるようになっています。

展示デザイナーは、シカゴの一般的な建築物
(バンガロー、ビクトリア調のコテージ、2階建てや3階建て)を研究し、
ある建物のレンガの数を実際に数えて、本物のモデルを正確に作成しました!

シカゴやその周辺に住んでいる人の多くは、
この展示の中で「自分の家」を見ることができます。


滝の白色は、お化け屋敷のクモの巣に使われる素材と同じものです。

シアトル郊外の湾にある「水」を表現するために、
3つの工程が用いられました。
まず、土台を作るためにベースレイヤーを塗布。
次に、紙粘土を塗り、乾燥させた後、奥行きを出すために
青と緑を何色か塗り、最後に、樹脂を上から流し込みました。
樹脂が乾くと、手作業で彫刻を施し、波を表現します。

「グレート・トレイン・ストーリー」は、
シカゴとシアトルを結ぶ曲がりくねった鉄道の旅を追い、
中西部、平原州、ロッキー山脈、カスケード山脈を通り、太平洋岸北西部へ。

線路を走る30以上の列車は、穀物商品、製造業の原材料、輸出入の消費財、
木材、観光業など、多様な産業に携わっています。


1時間に2回の「夜間モード」になりました。



駅舎の灯りがなぜかせつない・・・。
駅前の様子は、2002年4月3日午後1時56分、
電車を待っていた人たちの姿が再現されているそうです。

自分の姿をそこに見つける人もいるかも・・。



川沿いの広場ではミュージシャンの演奏、
大道芸人、ジョギングをする人・・・。



季節も場所によって様々です。



道路にサンデッキチェアを出して日向ぼっこする人たち。
あまりまめな掃除はしていないらしく、埃がすごい。


ハンバーガーショップもまるで火山灰をかぶったようになってます。



HPによるとメンテナンスはしているようですが。
って土足かい。


山中で何やら作業中の二人。


廃車になった列車を利用したタコス屋さん、
ピザパーラーの前に落ちているのはどう見ても実物のゴミ。


馬ばかりいる牧場。


■オリジナル・タイニーハウス



もう一つミニチュア模型の世界をどうぞ。

ハリウッドの映画スターが、細部にまでこだわった
豪華な夢の「マイホーム」を自作しました。

当時、最も人気のあった映画女優の一人であったコリーン・ムーアは、
業界の仲間を集めて、この幻想的なミニチュアハウスを作り上げました。

大恐慌の時代、彼女はこのミニチュアハウスを共有し、
子供たちのチャリティーのために全国を巡りました。
そして、この唯一無二のお城は、1949年以来、
MSIに迎え入れられ、あらゆる年齢の子どもたちを魅了してきました。


キッチンには、さまざまなおとぎ話の壁画が描かれています。
ドアの上には3匹の子豚、右側には丘から転げ落ちるジャックとジル。
アーチの隙間からハンプティ・ダンプティが見え、
ストーブの上にはリトル・ボー・ピープがいます。

悪い魔女がヘンゼルとグレーテルを閉じ込めたストーブがあり、
オーブンの中には、4羽と20羽のブラックバードで焼いたパイが。

テーブルの上に置かれたロイヤルドルトンのディナーサービスは、
ウィンザー城にあるメアリー女王のドールハウスのために作られたセットを
忠実に再現したものです。


海をモチーフにした書斎。
暖炉の上にはキャプテン・キッドが立ち、
右側の扉にはロビンソン・クルーソーとその部下フライデーが、
もう一方の扉の上には、リリパット族の船を引っ張っるガリバーが。

図書館にある本は、すべて本物です。
100冊以上あり、著名な作家の手書きのものも。

本棚には辞書が置いてあります。
これはコリーン・ムーアが5歳の時に父親からもらったもので、
これが彼女のミニチュア・コレクションの始まりです。



とても全部は紹介しきれませんが、シンデレラの部屋、
プリンセスのバスルーム、ベッドルーム、屋根裏部屋、
そして魔法の庭など、見ているだけで時間を忘れます。

グレート・トレインと共に、ジオラマ好き、ミニチュア好きには
なんとも心を鷲掴みにされる楽しい展示でした。


続く。

サブ・フェクトI〜シカゴ科学産業博物館U-505展示

2023-05-08 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、ハンターキラータスクグループによるU-505の捕獲と、
Uボート乗員たちの捕虜になるまで、その後の待遇について書きました。

ここからは、展示の順番に従って、U-505の解説をしていきます。



ここからは、潜水艦の重に外観まわりのスペックと
その機能などの紹介となります。

「サブ・ファクト」

Underseeboot 505 Typ IX C

全長:76.5m
高さ:9.5m

乗員:54名
重さ:750トン

最大深度:230m
ビーム:6.4m

吃水:4.70m

最大速力:
33.7 km/h; 20.9 mph 海上航走時
13.5 km/h; 8.4 mph 潜航時

航続距離:
47.450km 水上
217km 水中

■ 艦首部分



【艦首デッキ】



軍艦の甲板は松の木の素材が一般的でした。
潜水艦の甲板を定義するなら
「外側を移動するための安定した水平なプラットフォーム」
となります。

ここに木材を使うことでボートの重量が軽く抑えられます。

表面は柔らかい松材をカーボリニウム、またはウッドタールで塗装しました。
これは防腐剤としてのものですが、黒く塗ることで
航空機が上空から潜水艦を見つけにくくするカモフラージュとなります。

【魚雷チューブ発射ドア】


展示ではまさに海中で魚雷が発射された瞬間を再現していて、
どこが発射ドアかとてもよくわかるようになっています。


U-505には6つの魚雷発射管がありました。
前方の左舷側、右舷側に各2つずつ、計4本、
後方には両舷に2つずつです。

魚雷室の乗員は、艦長が魚雷発射の命令を出す直前に
これらのドアを開けます。
すると、圧縮空気ピストンが魚雷を発射し、
魚雷は次に自走式となって目標に向かいます。

【前部潜水舵 Forward Dive Planes】



俯瞰図と断面図の潜舵の位置が示されています。
特に右側の潜舵の形が、これを見ただけでは不可解ですね。



というわけで、この画面上方の潜舵をご覧ください。
今までアメリカ海軍の潜水艦の潜舵を見てきた目には斬新です。

この潜舵の前にあるバーはなんなのでしょうか。



横から見たところ。

U-505の潜舵は艦体外側に1基ずつ付いています。
潜舵は水中で深度を変更したり、
艦長が指示した深度を維持するための装置です。

乗組員は、コントロールルームのダイビングステーションから
このダイビングプレーン、潜舵を調整しました。

そして、潜舵の前にある湾曲したバーの正体ですが、
なんと破片などから潜舵本体を保護するためのガードなのです。

アメリカ潜水艦の潜舵にはない工夫ですね。

【ハイドロフォン】



断面図によると艦体の下の方にあります。

ハイドロフォンというのは聞き馴染みのない言葉ですが、
要は水中聴音機です。
ソノブイみたいなものと考えればいいかもしれません。

音が水中では遠くまで届くという原理を利用したこの機器ですが、
潜水艦は水中マイクやこのハイドロフォンを使って敵を検出しました。

U-505には上の図の二箇所に水中聴音機が備わっていました。

最初に設置されたのは、前進潜舵の上にある

Gruppenhorchgerätグルッペンホルヒゲレート
(集合型聴音装置)

で、その後、ボックスキールの前部に追加されたのが

Balken Gerätバルケンゲラート =Balcony Apparatus
(バルコニー聴音装置)

という。集合型の改良タイプで効果的なパッシブソナー水中聴音機でした。
U-505はこのバルコン・ゲレートを採用した最初のUボートの一つであり、
U-505が捕獲されたことによって、連合国側は
最新のUボート技術に関する重要な情報を得たことになります。

■ 艦体中央部



【魚雷装填ハッチと装備】

U-505は最大22発の魚雷(3,500ポンド)を搭載することができました。
出航前に乗組員はハッチから魚雷を搭載します。(写真)

一部は魚雷室に保管されますが、残りは
メインデッキの下の耐圧チューブに保管することになっていました。

海上でこの保管チューブから積載ハッチに移動するためには
小さなクレーンを起こして甲板の下から魚雷を回収し、
積載用台車を使って行うことになっていました。

【水密救命艇用コンテナ】



具体的にどこにあるか見ることはできませんが、
甲板の左舷寄り、魚雷装填ハッチのすぐ近くには、
救命艇を格納している水密式のハッチがありました。

ギャラリー大佐率いるタスクグループに攻撃された後、
U-505は損壊して浮上し、総員退艦が行われました。

一部の乗組員は、一人乗りの膨張式救命いかだを使用しましたが、


一人乗り

他の乗組員は、この水密コンテナに格納されていた
25名乗りの膨張式救命艇を展開するために、
全員が前甲板に駆けつけました。


25人乗り

しかし、彼らは全員が筏に乗らず、負傷した艦長、
ランゲ大尉を真ん中に寝かせるため、20名もの乗組員が筏に乗らず、
海に浸かって救出されるまでの間船端につかまっていました。

アメリカ軍に救出される可能性などあるかどうかもわからないのに、
これは何とも胸を打たずにいられない話です。
映画「Uボート」でも描かれていたように、
どこの国でも、特に戦時中の潜水艦乗員の仲間意識は
ある意味血より濃い側面があったのかもしれません。

【アンテナ】



セイルの端から艦首まで張られたラインがアンテナです。



U-505のアンテナには二つの目的がありました。

第一に、それは潜水艦基地との間で無線を送受信するための
高周波無線アンテナとしての役割。
そして第二は、網やその他の危険な物体が
外から司令塔に巻きつかないようにする防汚装置としての役割でした。

写真はわかりにくいですが、司令塔の上から見張をする乗員の前を
艦首までつながっていくアンテナが写っており、
もう一つは三方から艦首に伸びるアンテナが確認できます。

正面すぎて見にくいですが

【スプレー&ウィンドディフレクター】



まず、中央の写真をご覧ください。
この5名の乗員たちは、Uボート航走時に見張を行うメンバーです。

見張りに支障をきたさないように、Uボートには
波飛沫が司令塔にかからないようにするため、あるいは、
司令塔の側面と見張り場所の頭上に風をまっすぐ向けるための
スプレー&ウィンド・ディフレクタープレートが装備されていました。


セイルの端から垂れ下がるようにかぶさっている部分です。
ちょうど正面の部分にプレートがありませんが、
これはタスクグループの航空爆撃の際吹っ飛ばされました。

司令塔の周りにもいくつかの弾痕が確認できます。

この剥がれたプレート部分は見つかっていません。

【磁器コンパス収納所】


U-505の磁気コンパスは、制御室ではなく甲板に設置されていました。
写真にも写っているように司令塔の根本に出っぱっている部分です。


司令塔の根本をごらんください。



これですね。

わざわざ外付けした理由は、潜水艦の鋼製船体の
妨害的な磁気効果から装置を保護するためです。

しかし、さすがはUボート、精巧なプリズムとミラーの配置により、
乗組員は制御室から磁気コンパスを読み取ることができました。

磁気コンパスは、電子ジャイロコンパスのバックアップとして機能し、
大変効果的でしたが、電気的な故障時には使用できませんでした。


次は艦体中央部からです。

続く。



タウホレッター(潜水艦水中脱出ラング)〜シカゴ技術産業博物館 U-505展示

2023-05-06 | 博物館・資料館・テーマパーク

前回に引き続き、アメリカ軍が収得した
捕獲潜水艦U-505の捕虜たちの持ち物シリーズです。


グッズの背景になっているのは捕虜になったU-505の乗員たちです。

彼らが捕虜になったとき、爆破沈没したはずの潜水艦が
確保されてしまったとはまだ知らされていなかったと思います。

とりあえずは死なずに済んだ、と言う気持ちと捕虜になっちまった、
という状況で全員(´・ω・`)としていますが、シャワーを浴びて髭を剃り、
もしかしたら散髪もしてもらったのか、こざっぱりしていますね。


こちらもU-505乗員たちで、たぶん散髪髭剃りしてもらう前

全員白いシャツにズボンという同じスタイルです。
これは駆逐艦の甲板上でしょうか。

それでは展示品の説明をしていきます。

■ エスケープ・ラング



アメリカ海軍の「モムセン・ラング」について説明したことがありますが、
さすがはドイツ海軍、ちゃんと潜水艦からの脱出用に、この

「タウホレッター Tauchretter」=水中脱出肺

を緊急呼吸装置兼救命具として開発し、搭載していました。
仕組みとしてはモムセン・ラングと同様、
ユーザーの呼気を濾過して再循環させる仕組みでした。


バッグの中にある小さな酸素ボトルは、
救命具のように肺を膨らませ、呼吸用の空気を供給しました。

水深やユーザーの呼吸の強さにもよりますが、
エスケープラングは5分から2時間(幅大きすぎ)使用できました。

U-505の乗組員が脱出するときに多くが装着していたということです。

「ダイビング」

というと、特に日本語では水中に潜る意味ですが、20世紀半ば頃までは、
「呼吸できない空間にいる」という意味もありました。

たとえば1900年頃、消防士用の空気供給装置付き水冷式防火ボンネットは
「ファイヤーダイバー」と呼ばれ、1940年代にも、
呼吸装置を装着した人は「ガスダイバー」と呼ばれていたのもこれが語源です。

このような呼吸器から発展したのが、潜水救助器具であり、
鉱山など、陸上でも使用されるようになりましたが、
それらは水中での空気供給という役割に絞られてきます。

その仕組みについてもう一度説明しておきます。

通常の呼吸をする空気には、21%の酸素が含まれています。
一回の呼吸で、吸った空気から約4%の酸素が抜け、
それに見合う量の二酸化炭素(CO2)が吐き出されます。

原理的には、一定量の空気を酸素がなくなるまで
何度も「呼吸」することができるということになりますが、
吐き出された二酸化炭素は空気中に蓄積されていきます。

健康な生体は、血液中のCO2含有量を「測定」して
呼吸をコントロールしているため、
呼吸した空気中のCO2含有量がすぐに増えると、
まず耐え難いほどの息苦しさを感じるようになります。

また、吸入した空気中の二酸化炭素が多すぎると、5%以上で意識障害、
8%以上で長期的な意識混濁に次ぐ死亡という生理的な危険性が生じます。

そのため、空気中の二酸化炭素を呼吸回路から除去する必要があります。

そこでどうするかというと、呼気をソーダ石灰に流し、
CO2を水酸化ナトリウムと結合させ、さらに水酸化カルシウムで再生します。


かつてダイビングのライフセーバーには、
他の水酸化物とともに生焼けの石灰(CaO)が使用されていました。

これはCO2と直接結合して炭酸カルシウム(CaCO3)を生成し、
多くの熱を発生させて水中の冷却を打ち消す役目をします。
しかし、これだと浸透した水が生石灰と非常に激しく反応し、
肺に重度の火傷を負う危険性もありました。

また、生石灰は気づかないうちに水分と結合し、消石灰となり、
それだけではCO2を素早く結合することができません。

そこでCO2結合で失われた空気量は、酸素の添加で補う方法が取られました。

また、呼吸する空気中のCO2を化学反応で結合させ、
同時にO2を放出する物質も潜水救助器具に採用されています。

器具使用時は、同じ空気を何度も吸ったり吐いたりしますが、
ソーダ石灰を入れたカートリッジと酸素供給により、
窒息することはありません。

口に咥えるマウスピースには、2本の短いチューブが取り付けられており、
1本のチューブは石灰のカートリッジに通じています。
ここで呼気中の空気からCO2が濾過されます。

残った空気は、さらに呼吸袋(対肺)に流れ込みます。
抽出されたCO2の量は、小型の高圧ボンベの酸素で置き換えられます。

ここで再び息を吸うと、空気は呼吸バッグから2番目のチューブを通って
マウスピースへと戻っていきます。

鼻呼吸を絶対にしてはいけないので、着用者はノーズクリップを装着します。


さて、この器具を潜水艦の救助に使用するときですが、どうするかというと、
もし緊急事態により、あなたが潜水艦から脱出する必要が生じた場合、
まず、可能であれば、船内の空気が水で圧縮され、
残った気泡の圧力が水深の圧力に対応するまで待たなければなりません。

したがって、潜水艦の出口シャフトの下端は、
ハッチを開けたときに空気が逃げないように、
「エア・トラップ」といって艦体の天井より低く設計されていました。

ちょっと待つと内圧と外圧が均一化されて
ハッチを開けられるので、乗組員は外に出ることができるのです。

ある作家が、この時の様子を下のように書き表しています。

事故が起きた直後、『潜水救助隊出動!』の号令で、
乗組員は救助器具を装備した・・・。

沈没艦からの脱出は、艦内の圧力差をなくすことで初めて可能となる。

そのためには艦内を満タンにする以外に方法はない。

クルーは深呼吸をして、「潜水救助」の呼吸器を口元に持っていき、
マウスピースのタップを開けて
ノーズクリップを装着する。

酸素ボンベのバルブを、呼吸袋が背中で膨らむまで開ける。
そして皇帝にまた『万歳!』を叫ぶ。

最後の救いの道が開く。
重い、怖いという人もいるが、こうするしかない。

バルブを緩めると、水がゴボゴボと音を立てながら部屋の中に上がってきて、
待っている人たちの足元を洗い、体を這い上がり、頭上で閉じていく。

その結果、どうなるのか?
救世主の酸素が彼らを支えているのだ。
しかし、光は消えてしまった。
手探りで、彼らの腕が触れ合う。


右手は酸素ボンベのバルブを握り、間隔をあけて栄養ガスを流入させる。
左手は圧縮空気ボンベのバルブを握り、装置内の圧力差を麻痺させる。

数分後、部屋は圧縮ガスの層を除いて水で一杯になる。
コンパニオンウェイが開かれ、ハッチから次々と人が出てくる......。

一人目の男はすぐに光に向かって上昇する。
「ダイビングセーバー」の中で膨張していた空気は、細かく組織され、
優れた実績を持つ圧力開放弁から泡を吹いて逃げ出す。

水深6mで5分間の休憩を挟み、光に照らされ、
救助の準備が整った仲間のもとへ昇ることができるのだ。

救助隊員は水面に浮き、垂直に泳ぐ姿勢になる。

安全に機能する脱着装置を使用することで、
泳いでいる人は呼吸装置から解放される。

.「潜水ライフセーバー」での救助は、
最高度の冷血さと規律が要求されることに疑いの余地はない.。


”ドイツ海軍の潜水救助器の歴史”

第一次世界大戦の少し前、軍事用の潜水艦が開発されると、
同時に事故が起きたときの救出方法も論じられるようになりました。

最初の試みでは単純な「呼吸袋」が使用されましたが、
この袋は浮力補助具としては有効でも、浮上する人が完全に上昇するのに
十分な酸素を賄うほどではありませんでした。

1903年からイギリスのSiebe Gorman社に勤務していた
Robert Henry DavisとHenry A. Fleussは、水中や鉱山で使用する
「ドージングバルブ」という再呼吸装置を開発しました。

1907年には高圧ボンベから酸素を供給し、
水酸化ナトリウムを含む中間カートリッジで二酸化炭素を同時に吸収する
という仕組みの潜水艦用救助装置が発明されています。

このドレーゲル・ダイブ・レスキューヤー
口腔呼吸器を通して浮上する人に約30分間酸素を供給しました。

ドレーゲル社(Dräger)の潜水救助器は、
キール湾での潜水艦SM U 3の沈没後、帝国海軍に救助装置として提供され、
1912年以降、ドイツの潜水艦で使用されることになります。

今現在も潜水器具を作り続けているドレーゲルHP

このときの救助具は、泳がずに浮上できるように浮力をつけられましたが、
その後発明された水中潜水用救助具はおもりを備えていたので、
潜って負傷者を捜索・救出することも可能でした。

時代は降って1939年以降、オーストリアの生物学者であり、
水中ダイビングの第一人者だったハンス・ハスは、
現在の標準的な浮力潜水具の前身となる潜水救助具を開発しました。



圧力容器には酸素や圧縮空気の代わりに入れられた適切な混合ガスが、
バルブで自動的に注入されることで、
より深い深度での潜水救助が可能になりました。

ハンス・ハス

その後、呼吸のたびに発生する二酸化炭素を吸収し、
消費された酸素を手動または自動で補給する酸素循環装置へと発展します。



第二次世界大戦時のドイツ製潜水救助器具の原型は、現在でも
レオパルド2戦車の河川潜水の緊急安全装置として使用されています。

■ エスケープ・ラング、その他



2)エスケープラング用ゴーグル

Uボートの乗員は、水中で潜水艦から脱出することを余儀なくされた場合、
脱出用のラングとゴーグルを着用しました。

この装置は、たとえば壊れた電気モーターのバッテリーから
有毒ガスが艦内に漏れたといった場合や、
潜水艦が浮上している間に海中で修理を行う場合に使われました。

U-505は、米軍に攻撃され捕獲されることになった最後の哨戒中、
魚雷発射管のドアが開いたまま動かなくなってしまったため、
このゴーグルを数回着用しています。

ゴーグルは小さ区折りたたんで脱出用のラングと共に
一緒に保管しておくのが決まりでした。

3)脱出用ラングマウスピースとノーズクリップ

ゴーグルの下の部品をご覧ください。
脱出ラングのノーズクリップは、鼻孔を挟んで閉じ、
マウスピースから息を吸ったり吐いたりしました。
我々が「常識として」よく知っていることですが、
アクアラングでは決して鼻呼吸は行いません。

バッグ内に仕込まれたアルカリカートリッジに接続された
マウスピースのホースを加えて呼吸を行います。

4)アルカリ・カートリッジ

蛇腹状のホースにつながっているのがアルカリカートリッジです。
炭素(C)を呼吸し、酸素(O2)をバッグに戻して再び吸入させることにより
呼気(CO2)をリサイクルしました。



5)エスケープラングエアボトル

一番上の瓶状のものです。

ゴムびきキャンバスバッグ内の圧縮酸素のボトルは、
必要に応じて使用者に追加の酸素を提供しました。

バッグから突き出た小さなハンドルにより、
使用者は空気の流れを調整することができました。

U-505が潜水しながら索敵活動を行なっている時、
乗組員は酸素を節約するために寝台に静かに横になり、
タウヒレッター(水中脱出ラング)を使用しながら
静かに器具で呼吸することを余儀なくされました。

6)クロージャー・スプリング

真ん中の金色のチューブです。

脱出用ラングのゴム張りのキャンバスバッグの底は、
バッグの端から滑り落ちる仕掛けの、
たいへん独創的なスプリングクリップで閉じられていました。

フィルターを交換したり、酸素ボンベを充電する時
取り外しができなければなりませんが、同時に、
機密性に十分な強度を備えている必要がありました。

このスプリングはその役目を果たす道具です。

7)アルカリ顆粒

シャーレの上の、葛粉のような白い粉はアルカリ顆粒です。

粒子は常に空気中の炭素を吸収するため、マウスピースのバルブを閉じて、
粒子がボートの大気にさらされるのを制限する必要がありました。

そうしないと、粒子がすぐに容量一杯になり、
使用者の呼気から炭素を引き出すことができなくなります。

■ 映画に登場した「タウホレッター」

Uボートの映画に登場した脱出ラング、タウホレッター出演シーンを
書き出してみました。

「Uボート(ダス・ブート)」

●艦内の火災を鎮火させた後換気をするために使う

●「幽霊ヨハン」がこれを使ってディーゼルエンジンの下への
水の侵入を食い止める

●チーフエンジニアが破壊されたバッテリーセルをバイパスした時
これを使っていた

●ジブラルタル沖280m深海で立ち往生した時、
寝台に横たわりながらダイビングレスキューを使い、
空気を節約して修理の時間を稼いだ

「Uボート最後の決断」

艦内で髄膜炎が蔓延したので残りの乗員が使用した

「U-47出撃せよ」

艦内での酸素節約のために使用
U-47は当時もっとも成功したUボートと評価されたが

1941年哨戒中に行方不明となり戦没認定された

「モルゲンロート」

沈没した潜水艦からの脱出に使われた

モルゲンロートは「朝」「赤」という意味で、
早朝に昇り始めた太陽の光に照らされて
山肌が赤く染まる現象をさす。登山用語。

日本未公開

「オオカミの呼び声-深海の決断」

沈没した潜水艦からの脱出に使われた

日本未公開

■ レザージャケットとショーツ



ウール&レザージャケット

ウール&レザーというよりこれはファッション用語的には
ムートンジャケットではないのか、と突っ込んでしまうわけですが、
このジャケット、このままのデザインでユニセックスに着用できますよね。

これが制服だったのかというと、それは微妙なところです。

映画「Uボート」も、アメリカ映画「Uボート最後の決断」でも、
ご覧になった方はご存知だと思いますが、
Uボート乗員に乗務中強制される服装規程はなく、
皆が好き勝手な格好をしていました。

また、映画では、それが各々のキャラクターを表す手段となっていました。

規定がなかった理由は、潜水艦の環境は基本劣悪で、
狭い艦内に男たちが詰め込まれるといったものだった関係で、
何を着るかなどということは、全く優先されなかったからと言われます。

一応海軍支給の制服はありましたが、乗員たちはそれに
セーターやジャケット、帽子などのアイテムを好きに着ていました。

このおしゃれなムートンジャケットですが、
こんな感じのアイテムは、大変持込み衣類として人気がありました。

基本ムートンは裏地付きですし、軽いし、水に強くておまけに暖かさは抜群。
おまけにこのデザインも現代に通用する優れものです。

このジャケットは、U-505の軍医、
フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ローゼンマイヤー医師
潜水艦から脱出したときに着ていたものです。

ローゼンマイヤー医師はその後USS「シャトレーン」に救出され、
バミューダに他の乗員と共に移送されたわけですが、



バミューダでU-505の皆さんはこんな格好だったそうなので、
ムートンのジャケットはもう必要がなくなったのでしょう。

「シャトレーン」の乗組員、ロバート・ロルフグレン
おそらく何かと引き換えにお土産として手にいれ、持ち帰りました。

ショーツ(錨マーク入り)

Uボート勤務というと寒いイメージばかりを持ちがちですが、
西アフリカ沖で哨戒していたときは大変気温が高くて
Uボートの乗員艦上での日々の作業は不快指数マックスだったそうです。

作業中の乗組員の基本スタイルは、Tシャツ、短パン、デッキシューズ。

不快な暑さの中耐えられるようにできる限りの工夫をしていました。

先ほどの軍医は海に脱出するとき、温度差を考えて
一応ムートンのジャケットをわざわざ羽織ったのだと思いますが、
ほとんどの乗組員は、タスクグループに捕捉された時、
作業中であったことから、この格好をしていたということです。

紺色の短パンの裾に金色でアンカーのマーク入り。

これはおそらく海軍支給のものだと思いますが、
もともとはスポーツ用だったのではないかと思われます。


続く。



レコードと煙草、U-505の「戦利品」〜シカゴ科学産業博物館

2023-04-28 | 博物館・資料館・テーマパーク
MSIのU-505関連展示より、前回に続き、
艦内から見つかったいわゆる「戦利品」についてです。

■ 徽章など


階級章

無線室や管制室で働く下士官が付けていた記章です。
錨のマークに「無線」を表す矢印があしらわれたデザイン。



16)名誉の負傷バッジ


Verwundeten -Abzeichen

アメリカ軍の「パープルハート」に相当する名誉バッジです。
ドイツ軍では傷の重症度に応じて、黒、銀、金がありました。
このバッジは赤ですが、黒を上から塗ってあります。
本人が塗ったのか、渡す側が物資不足のおり、急拵えしたのかは謎です。

また、これを持っているということは、海軍に入る前、
持ち主がヒットラーユーゲントにいた、ということを意味しているそうです。

17)無線オペレーターのパッチ

二つ重ねたVと「電気」を表す雷状矢印。

これはU-505の乗員が着用していたものですが、
彼はアメリカ軍のA.スピロフに、
タバコ一箱と引き換えにこれを渡したということです。

捕虜と接触したアメリカ人が戦利品を本人にねだる、という図は
相手が日本軍であった場合にも多々見られました。

18)認識票


小さな楕円形のIDディスク(認識票)は、大きなドッグタグ状。

給料明細書の裏表紙に取り付けられていたそうです。
給与を管理するために会計の方で預かっていたのでしょうか。

このタグの持ち主は、Ewald Thorwestenという人で、
タグそのものは半分で二つに折れる仕様であることがわかります。


19)ベルトバックル(左下)


裏側のフックを艦上で修理した跡があるそうです。
なぜ艦上でやったかわかるのかは謎ですが。

ドイツ第三帝国のワシのマークの周りに書かれている文字とその意味は、

「GOTT MIT UNS」=神は我々と共におられる

20)肩章


ナビゲーターのアルフレート・ライニッヒが着用していた肩章。

21)階級章

U-505コントロールルーム勤務の下士官が付けていた階級章。

■ バッジ



22, 23, 24)  銅製Uボートバッジ

Uボート乗員は、戦闘哨戒を一回完了すると、この

U-Bootskriegsabzeichen

Uボート哨戒バッジを受け取ることができました。


22と23のバッジは、銅でできており、
初期の高品質バージョンだということですが、
同じようにみえる24番の方は、板金から打ち抜かれたもので
鋳造されたものではありません。

戦争終盤にはドイツも物資不足に陥っていましたから、
特定の金属の希少性と、資源を節約していた懐事情が反映されています。

25)ドイツ軍掃海メダル

Kriegsabzeichen Fur Minesuch-
U-Bootsjagd und Sicherungsverbande

=掃海艇、対潜&補助護衛章



これらの護衛艦に乗務経験のあるものは、
Uボートに配置されるということになっていました。

26,27)Uボート乗員章(ブロンズ)

階級の上から順にゴールド、シルバー、ブロンズがありました。

モンブラン製万年筆


技術工業国ドイツは、万年筆のブランドを多く生み出しています。

このモンブランを筆頭に、ペリカン、ステッドラー、ファーバーカステル、
ロットリング、シュナイダー、ポルシェデザイン

これらすべてがドイツのブランドです。
(わたしはモンブランはスイスのメーカーだと思っていました)

この万年筆は、U-505の艦長だった、
ハラルト・ランゲ大佐のデスクから直々に略奪?されたということです。


【レコード】


映画「Uボート」でも、その他のアメリカ映画におけるUボートでも、
Uボート乗員というのは、レコードを聴いていたイメージがあります。

なぜなら実際潜水艦における大切なエンターテイメントは音楽でしたし、
アメリカ海軍でも、ある潜水艦87枚にはレコードが搭載されていた、
なんて話もあります(よっぽど音楽好きな艦長だったんでしょうか)

U-505で見つかったレコードのうち6枚が行進曲で、
残りはポピュラー音楽と軽クラシックでした。

上から:

A面)Schön ist die Nacht(美しきは夜)

Schön ist die Nacht - Rupert Glawitsch mit Schuricke Terzett - 1938

B面)Ganz leise die Nacht(静かに夜が近づく)

A面)Spanisher March(スペイン行進曲)

B面)Der Student geht vorbei(学生が通る)

A面)Tapfere,Kleine Soldatenfrau(勇敢な小さい兵士の妻)
Wilhelm Strienz - Tapfere, kleine Soldatenfrau

B面)Wenn im Tal ale Rosen Bluhn(谷間のバラ)

しかし、戦争中にUボートの乗員が聞いていた音楽を、
日本で、家にいながらクリック一つですぐに聞ける今の状況って。

あらためてすごい時代に生きてるなあと感じる今日この頃です。

■煙草

U-505からは大量のタバコが発見されました。

潜水艦でタバコを吸うときは、必ずブリッジで火をつける前に
上に許可を求めなくてはならない決まりがありました。

そのとき誰がブリッジでタバコを吸っているかは、
かならずチョークで黒板に名前を書いておくことになっていました。



33)ゴールドダラー煙草


ゴールドダラー。英語です。


タバコのパッケージには「最高のアメリカンスタイル」とあります。
アメリカのタバコは戦時中のドイツでさえ人気があったようですね。

アメリカスタイルを謳ったこの製品は、ハンブルグのタバコ会社、
アゼット・シガレット製造会社の商品です。

34)ヤン・マート煙草

「最高のオリエンタル風とヨーロピアンバージニアをブレンドした
最高のバージニア風味」


とありますがバージニアってもしかしてこれもアメリカの?

「ヤン・マートJan Maat」はドイツにおける船乗りを表す言葉です。

下)カモメ印煙草

Möveとは「カモメ」を意味します。
Uボート乗員の間で一般的だった銘柄です。
ドイツ占領下であったポーランドのクラクフで製造されています。



リームツマ(Reemtsma)R-6煙草

R-6というこのタバコは、大変「強い」ことで知られていました。

湿気の多いUボート艦内では、煙草を乾いた状態で保つのが困難だったため、
乗員たちはバラバラにしたタバコをブリキ缶に詰めて、
ハンダ付けして封をし、吸う直前に缶を切る努力を惜しみませんでした。



ニル煙草

ミュンヘンにあった「オーストリアタバコ工場」の製品です。
他のパッケージよりちょっと高級な感じがします。


オーバル4 ペンニッヒ煙草

パッケージにある「Pst!Feind hort mit」という警告は、
吸いすぎはあなたの健康を害する・・・ではなくて、

「静かにしてください。敵は常に聞いています」

防諜メッセージでした。



マッチ

左)セキュリティストームマッチ
風が強いなどの困難な状況でもつけられます、というのがまんま商品名。



右側の「モーレンルシファース」マッチは、
捕獲後のU-505の中で発見されたものです。

■ お金とお菓子



このフランス、ドイツコインは、
ダニエル・ギャラリー大佐が記念品として持ち帰ったものだそうです。
ドイツ統治下のフランス、ロリエントにはUボートの基地がありました。

紙幣は、所属パッチと引き換えにタバコをもらった通信士が、
やはりタバコ一箱と引き換えにスピロフに渡したものです。

よっぽどタバコが欲しかったんだねえ・・。

「グリコレード」チョコレート

グリコって、あのグリコと同じ意味ですかね。

チョコレートバーには0.2%のカフェインが含まれており、
長時間の見張り中のエネルギー補充にたいへん重宝されました。

ベルリン・テンペルホーフのサロッティ社製。


■ 救命艇の一部



このイラストに見覚えがあるでしょう?
Uボート乗員が脱出した一人用救命ボートの部分です。

なぜこんな状態で残っているかというと、
大物をゲットできなかったタスクグループのメンバーたちが
自分達もちょっとでも何か「お土産」が欲しいので、皆で話し合って、
救命艇を小さく小さく切り刻んで、そのパーツを持ち帰ったのです。

アメリカ兵の戦場での「記念品好き」は有名ですが、ここまでするか・・・。

しかしここでつい考えずにいられないのは、
切り刻まれた布切れのほんの一部は、たまたま持ち主が名乗りを上げて
ここに展示され、人々の目に留まることになったわけですが、
ほとんどの「切れ端」(特になんのマークもないような部分)は
おじいちゃんが大切に保管していなければ、どこかに紛れ込み、
本人が亡くなったあとは散逸してしまったに違いないということです。



続く。

戦利品人気ナンバーワン、ツァイス双眼鏡〜シカゴ技術産業博物館U-505展示

2023-04-26 | 博物館・資料館・テーマパーク

捕獲したU-505からアメリカ軍の軍人たちが
無差別に「スーべニール」としてゲットした品シリーズ、続きです。

ここに展示されているのは、ケースの背景になっている写真のように、
U-505にあっためずらしい「ドイツ軍グッズ」を、
その場に居合わせたタスクグループのメンバーが、
ワイワイと楽しげに分け合った結果、個々に持ち帰られて、
大概はその家の倉庫とかに放置されていたものなのですが、
シカゴ科学産業博物館がU-505を展示することになったとき、
本人や家族が申し出て、博物館に寄付したものです。

■ 双眼鏡

浮上した時、U-505は常時5名の水兵が水平線と空を見張り、
敵の存在を探知していました。

第二次世界大戦中、ドイツの双眼鏡は、「任務グラス」を意味する、
『Dienstglas』ディエンストグラス
と言い表されていました。

彼らはこの重要な任務のために、ドイツ製の
高品質双眼鏡を使用していました。
ドイツの双眼鏡の高性能高品質は内外にも評価されており、
なかでもカール・ツァイス製は日本海軍でも垂涎の的でしたね。

日本海海戦で、自腹を切ってツァイスの双眼鏡を買っていた中尉が
一番先にロシア艦隊を見つけた、なんて話もありましたっけ。

ドイツ軍の使用グラスもそのほとんどはツァイス製でしたが、
さすがはドイツ、そのほかにも多くの製造業者があり、
エルンスト・ライツ、ヴォイトランダーなどが特に有名でした。

今ではクリスタルグラスで有名なスワロフスキーも、戦時中は

「cag」=Swarovski, Tyrol

というコードをつけた双眼鏡を製造していたこともあるそうです。

連合軍兵士たちが戦利品で双眼鏡を見つけると色めき立った理由は、
まず実際に性能が良かったこと、アクセサリーとしてカッコよかったこと、
戦後になると、ツァイス製の双眼鏡は高く売れたからです。

たとえば1946年に、ニューヨークのカメラストアで、
10×50が97ドル、6×30が38ドルで売られたという記録があります。

当時の100ドルは現在の日本円で大体40万円くらいなので、
双眼鏡が90万円とか40万円とかのお金になったというわけですね。

現代日本におけるカメラ愛好家、特に「レンズ沼どっぷり」の人たちにとっては
これくらいなら法外な値段ではありませんが、
そのころのアメリカ人にとっては信じられない価格だったでしょう。

単なる双眼鏡としては、破格の値段がついていたことになります。

ドイツの双眼鏡は、倍率とフロントレンズの大きさによって
番号がつけられており、最初の数字は画像の倍率を、
そして2番目の数字はレンズの直径(ミリ)を表しました。

軍が支給していた双眼鏡は、6×30、7×50、10×50の3種類ですが、
これだと、6倍×30ミリ、7倍×50ミリ、10倍×50ミリとなります。

レンズの数値が大きいほど光を捉えやすく画像がよくなるのですが、
実際は一番小さな6×30が下士官・将校に支給されることが多かったようです。


左:ツァイス双眼鏡 7×50

ハンターキラータスクグループの司令官、ダニエル・ギャラリー大佐
Uボートの浸水を食い止める功績をあげた
アール・トロシーノ中佐に「記念品」(ご褒美的な)として贈ったもの。

右:レイツ双眼鏡 7×50

エルンスト・レイツ Ernst Leitz、Watzlar コードbeh
も、数あるドイツ軍御用達双眼鏡製造業者の一つです。

USS「ピルズベリー」から乗り込み隊を率いたアルバート・デイビッド大尉
U-505で取得した戦利品が、これでした。
おそらくU-505の乗員がブリッジで使用していたものと思われます。

ちなみにこの双眼鏡は、デイビッド氏の姪によって寄付されました。
おそらくこの時、ご本人はもう他界されていたと思われます。



双眼鏡(ノーブランド?)7×50

捕獲したU-505のハッチを、デイビッド中尉に続いて降りた、
スタンリー・W・ウドウィアク三等通信兵が拾ったもの。

早く行動したものはいいものを手に入れることができるってことです。

これもウドウィアク氏の妻による寄贈品です。



カール・ツァイス双眼鏡と革製アイピースキャップ 7×50

型番の左には、ナチスドイツのワシのマークが刻まれています。
カール・ツァイスの記名の下にJENAという文字が見えますが、
Jenaイエーナチューリンゲンにあるツァイス所在地です。

革製のアイピースキャップ、左には

Benuyzer「ユーザー」

右には

Okulare festgestelit 「接眼レンズ」
Nicht verdrehen「ねじらないでください」

とあります。

ユーザーは真ん中の皮の部分に名前を書くようになっていて、
持ち主のCAJというイニシャルが残されています。

この双眼鏡を取得したのは「ピルズベリー」から乗り込み隊として派遣された
ジョージ・ジェイコブセン機関兵曹でした。

もともとはU−505の第一当直士官であった「Leutnant zur see」少尉
クルト・ブレイKurt Breyの所有物だったものです。
(刻まれたイニシャルではない)



カール・ツァイス双眼鏡 6×30


カール・ツァイス 6×30革製ケース

ドイツ製のすごいところは、革製のケースも堅牢なことです。
このケース、磨けば今でも普通に使えそうじゃないですか。

この双眼鏡モデルは左レンズに測距マークが付いていて、
直接「射撃」するのに大変有効な仕組みとなっているそうです。

6×30倍率の双眼鏡は、航空機上や砲座などからの射撃時、
移動するターゲットを追跡するのに理想的なバージョンでした。


アタック・ペリスコープ・レンズ

レンズはレンズでもこれは潜望鏡のレンズです。

U-505に搭載されていたもので、この潜水艦が「戦争の記憶」として
展示されることが決まった時、
海洋サルベージ会社メリット・チャップマン&スコットから
1954年9月25日、博物館に寄贈されました。

■ 信号銃と鍵



シグナルピストル、フレアピストルともいいます。

信号銃は撃つと色付きのフレアを空中に発して他のボートや
航空機とコミニュケーションするためのものです。

7と番号が打たれた5つの鍵の束は、正確にはわかっていませんが、
スペアパーツや機密書類、あるいは私物の箱のものだった可能性があります。

5本全部同じ形をしているように見えますよね。
機密書類とかではなかったんじゃないかなあ。

8のアルミの鍵は、乗員の個人用ロッカーのものであろうと言われています。

・・・って、捕虜に実際に聞いて確かめたら?
と思うんですが、そんな瑣末なことは聞く状況になかったのかな。

■ ステーショナリー


インクスタンプ

左)Uボートから発信されたすべてのメールには、
U-505のFeldpost(郵送コード)である、
M 46074
をこのスタンプで押すことになっていました。

右)Bootsmannsmaat u.(ボーツマンスマート)
=Boatswain's Mate and Master at Arms

は下士官であり、二等兵曹のランク、航海士です。

このスタンプは、このランクの下士官が日報などの文書に使用し、
命令が通達され実行されたことを確認していました。



研石とケース

U-505のワークショップ(機械などで部品を作ったりするコーナー)
で発見されたケース入りの砥石。
ナイフや切削工具を研ぐための道具です。

これらの道具はどれもアメリカ軍のベテランから寄贈されたものです。

最初の方に突入したクルーは、危険とはいえ、
ツァイスの双眼鏡など「上物」をゲットできるわけですが、
その他のメンバーは、このようなものまで分け合って
「記念品」として持ち帰ったということですね。

■ プレート



上)サインタグ

司令塔にかかっていたのを取り外したようです。

「潜望鏡用グリースフィッティング#5」

と書かれていますが、誰も意味はわからないようです。

下)メインエンジンデータプレート



MANというのは
「Maschinenfabrik Augsburg-Nürnberg AG」

という会社のロゴで、U-505右舷手ディーゼルエンジンの
データが記されています。

同社は現在でもヨーロッパ最大級の車両・機械エンジニアリング会社で、
第一次世界大戦中から砲弾、信管、戦車砲、対空砲、
航空機エンジン、潜水艦ディーゼルエンジンを製造し始めました。

戦時中は捕虜を強制労働していたということはありましたが、戦後
連合国軍による戦犯指定のアンバンドリング(会社の解体)は行われず、
合併をしながらも現在に至っています。


【缶入りパンとドライイースト缶】



どこの国でも潜水艦乗員はその国の海軍の中で最高の食事を楽しんでいました。

Uボートの乗員もしかり。

哨戒に出る時には、豊富な生鮮食品をたっぷり満載しましたが、
それがなくなったりダメになったりすると、
乗員は缶詰を食べることになりました。

パンも缶詰になっていたようですね。

下の缶は、U505が捕獲された時に艦内でたくさん見つかったものの一つで、
潜水艦の料理人はこの酵母を使ってパンを作っていました。

【スープ皿】


Uボートでは水兵も陶器の皿でスープなどを食べていました。


■祈りの本



「健康と病気のための小さな祈り」

という本は、USS「ガダルカナル」の乗員が艦内で取得しました。
月ごとの宗教的な祈りと、病気など、特定の状況の時の祈り、
その方法と唱える言葉などが書かれています。


こういう本まで「戦利品」として持って帰ったとしても、
おそらく人にちょっとみせたら、あとは物置にしまいこんで、
本人も死ぬまで忘れていたりしたんだろうなあ。

「おじいちゃんの遺品」の中に何やら意味ありそうなものがあったけど、
捨てるのもなんだし、と寄付されたものがほとんどではないでしょうか。


続く。


「総員退艦!」U-505を捨てた乗組員〜シカゴ科学産業博物館

2023-04-24 | 博物館・資料館・テーマパーク

南アフリカ沖でアメリカ海軍のハンターキラータスクグループにマークされ、
最初から潜水艦の捕獲を目的に攻撃されたU-505の乗員は、
こう言ってはなんですが、アメリカ海軍と戦った他のUボート乗員より
生命の危険という点から遥かに幸運だったかもしれません。

艦体をできるだけ完全な状態で持ち帰るため、
その攻撃は相手を沈めるほどのダメージを与えませんでしたし、
なんならこちらには空母を含めた艦艇が束になって控えており、
総員退艦をして海に漂流していたドイツ軍乗員たちを
一人残らず捕虜として確保するだけの余裕があったからです。

艦体の確保は第一目的でしたが、アメリカ海軍にとっては
情報の裏付けと証言をさせるために、乗員はそっくりそのまま
無事に捕らえてアメリカに連れて帰るのがベストでした。

■6月4日、早朝6時の攻撃

まずは、Uボート側の証言からです。
Uボート乗員の一人、ヴォルフガング・ゲルハルト・シラーは、
攻撃が始まった瞬間のことをこう述べています。

早朝六時に「魚雷員は戦闘配置に!」と命令が飛びました。
艦長が潜水艦を浮上させ、潜望鏡を上げようとした瞬間、
航空機の射撃を受けたので、彼はすぐ潜望鏡を下ろし、

進路を反転させ、

「駆逐艦!」「潜航!」

と何度も叫びました。
5、6m潜航したところで爆雷がきました。
その後、艦尾から

「舵が取れた!浸水!」

と連絡が来たのを受けて、艦長は浮上と総員退艦を命じたのです。



次に、U−505艦長だったヘラルト・ランゲ(Herald Lange)大尉の証言を。

6月4日12時ごろ、通常コースで潜航中、ノイズが報告されたので、
潜望鏡で様子を見るために海面に浮上しようとした。
海はやや荒れていて潜望鏡深度を保つのは難しかった。

1隻の駆逐艦が西に、もう1隻が南西に、3隻目が160度に、
140度方向の遠方に空母のものと思われるかたまりが見えた。

駆逐艦#1は約2分の1マイルで我々に最も近く、
さらに遠くには航空機が見えたが、潜望鏡を見られたくなかったので、
これ以降海面を見る機会はなかった。

ボートを潜望鏡深度に安全に保つことができなかったので、
私は音を立てたが再び素早く潜航した。
大きなボートが水面下を進むとどうしても航跡ができるので、
おそらく航空機には見られたに違いないと思った。

まだ安全深度に到達していないときに
離れた場所に爆弾を2発落とされ、
続いて
重い爆発音が2回、おそらく深度爆雷のものだろう。

水が侵入し、ライトと全ての電源が喪失し、舵が動かなくなった。

被害の全体像も、爆撃が続けられている理由もわからないまま、
私は圧縮空気でボートを浮上させるように命じた。

ボートが浮上した時、ブリッジから今や4隻の駆逐艦が
我々を取り囲み、.50口径と対空砲で攻撃してきているのを見た。
最も近い駆逐艦は110度方向から司令塔に向けて榴散弾を発射していた。

私は数発の銃弾と榴散弾で両膝と足を負傷して転倒し、
私の後を追ってブリッジに出た一等航海士は、
右舷に横たわり、顔に血が流れているのが見えた。

私はすぐに
総員退艦と、ボートを爆破することを命じた。

駆逐艦からの攻撃を避けて司令塔の後部から脱出するよう指示したが、
ここで意識を失い、次に目を覚ますと、まだ甲板には多くの部下がいた。

私は体を起こしてなんとか艦尾に体を運んだが、
そのとき砲弾が爆発し、最初にいた対空甲板から主甲板に吹き飛ばされた。
爆発は右舷機関銃の近くで起こった。

このとき多くの乗員がメインデッキを走り回り、
個人用の展開筏を海に落とそうとしているのを見た。
意識のある間に、私はチーフにメインデッキに残ることを告げた。

どのようになっていたか正確な記憶はないが、また爆発が起こり、
私は怪我をしていて、グループのメンバーがパイプボートを持ってきて
それに引き上げてくれて、どうにか生き延びることができたのである。

私の救命胴衣は受けた破片で破けていて、役に立たなかったし、
戦闘が起きて最初の数秒の攻撃で、甲板から吹き飛ばされた
木片が
顔と目を直撃(右まぶたに棘が刺さっていた)
したため、
この一部始終を、私はほとんど見ることもできなかった。

パイプボートに引き揚げられて座った時、
最後に私はUボートを何とか見ることができた。
部下の何人かはまだ艦上にいて、仲間のために筏を水に投げ入れていた。

私は周りの男たちに、沈みゆく我がU-505にむかって
3度声を上げるよう命令した。



この後、私は駆逐艦に揚収されて応急処置を受け、
空母に乗り換えてから病院に移送されることになった。

病院で、私は(ギャラリー)大佐から、
彼らが私のボートを捕獲し、沈没を防いだことを知らされたのである。



冒頭写真は、U-505の乗員59名で、出撃前に撮られたものです。
Uボート捕獲後、タスクグループが海上から救出した乗員は58名でした。

ところで、これを読んでくださっている方は、
USS「ピルズベリー」から派出された乗り込み隊が、
ボロボロになったUボート艦上で、ドイツ兵一人の遺体を発見した、
と書いたのを覚えておられるでしょうか。

これが戦闘で死亡した唯一の乗組員、ゴッドフリート・フィッシャーでした。
U-505の他の乗員の証言です。

「僕は勤務を終えたばかりで、司令官室の隣にある
バッテリーのメインスイッチがあるバトルステーションにいましたが、
そのとき司令官が叫ぶのが聞こえました。

『総員退艦!!』

次の瞬間、ファンに何かがヒットしました。

司令塔ハッチのすぐ近くにいたので、かなり早くに外に出ました。
艦長が最初に、それから二等通信士が続きましたが、
パイプがほとんど破壊されていたので、すごいプレッシャーを感じました。

司令塔ハッチから外に出たら「ゴギー」が甲板に倒れていました。
僕はゴギーことゴットフリートに声をかけました。

『ゴギー、行くぞ!』

しかし次の瞬間、彼が撃たれて死んでいるのに気がつきました。
僕は甲板に降りて大きな展開式筏が収納されている司令塔の前に出て、
いかだに乗ろうとしたとき、敵は射撃を中止しました。

ああ、助かった!

そして僕らは筏を展開し、海上に逃れたのです。」


この時彼らが展開し脱出した筏がこれです。

さすがはドイツ製というのか、今現在でもこれを浮かべたら
十分救命ボートとして役にたちそうなくらいちゃんとしています。



ボートの縁には、図で緊急信号の送り方が描いてあります。

「両手を何度かあげる
”負傷者あり 救助緊急要請”」

「腕を頭上で旋回する
”食料と水を要求”」

Einmannschlauchboot(一人乗り救命ボート)

素直に「アインマン シュラーフ ブート」でいいんですかね読み方は。

とにかくこのラフトは主に海に墜落する危険のある
ドイツ空軍のパイロット向けに設計されています。
(それで説明のイラストがパイロット風味なんですね)

航空機のコクピットに収めるためにサイズを極限まで小さくしてあるので、
潜水艦に搭載するのも最適だったというわけです。

一人乗りのインフレータブル救命艇は、緊急脱出時に使用するため、
Uボートの各メンバーに一つづつ支給されていました。

救命艇内部には、シーアンカーやロープなど、
サバイバルに必要な極小サイズのコレクションが装備されていました。

救命ボートは圧縮空気ボトルで膨らませるものですが、
乗員は黒いゴムチューブのところから口で息を吹き込むこともできます。


このときのU-505乗員による実際の筏使用例。

自分のラフトを展開できてちゃんと収まっている人と、
それどころではなかったので、縁に掴まらせてもらっている人、
そして展開したものの、乗ることができなくて
掴まった状態のままアメリカ軍に発見された人(右上)。

彼らの、アメリカ兵を見る表情には、不安と恐怖が隠せません。


■ 押収されたUボート乗員の私物



Uボート展示の手前には、U-505を捕獲したアメリカ軍が、
艦内から戦利品として引き上げられたグッズが展示されています。

戦時中のアメリカ軍における一般的な慣行として、
このような戦利品はすべて個人の記念品としてお土産に持ち出されました。

Uボートの捕獲は極秘事項で、たとえ親兄弟や軍人であっても、
そのことは決して話題にしてはならない、もしそれを破ったら
死刑もあるぞと厳しく戒められていたのに、これは・・・・。

自分で密かに持っていても、誰にも由来を喋らなければいいですが、
これ、なんの問題視もされなかったんでしょうか。

ともかく、ここにあるUボートグッズは、
タスクグループ22.3の退役軍人、あるいはその家族が、
博物館オープンの際に寄付したものであり、
あるいはボートの修復中に博物館のスタッフが艦内から集めたものです。

【ドイツ海軍Uボート専用レザーユニフォーム】



寒い天候や悪天候下、潜水艦の甲板で作業をする時に、
Uボート乗員は上下皮でできたこのユニフォームを着用しました。



色褪せてしまっていますが、本来の色はブルーです。



これは第一次世界大戦中、U39の甲板にいるカール・デーニッツ中尉ですが、
この写真で見る限り、比較的濃いめの色であることがわかります。


カフ-ストラップというのは特にこんな皮素材の場合、
実用的な意味は全くないのですが、飾りのついたボタンといい、
このカフ-ストラップといい、細部にこだわりあり。

【レンチとディーゼルエンジンスペアパーツの箱】



どんだけ大きなレンチだよ!と驚くわけですが、
このレンチはおそらくディーゼルエンジンに使われたものです。

アメリカ海軍が沈みかけているUボートをなんとか立て直していた時、
少しでもボートを軽くして浮力を維持するために
ボートからはめぼしいアイテムが取り除かれましたが、
このレンチだけは重すぎて動かせなかったということです。

ますますUボートではどうやって使われていたのか謎・・・。

その下の箱には、ディーゼルエンジンのための工具、スペアパーツ、
機器の修理キットが収められていました。

もちろんこれも重いのですが、このような箱は、Uボートでは
重量に応じて艦内の保管場所が割り当てられました。
これにより、ボートのバランスを適切に保っていたのです。


【観察ノートと鉛筆、エアキャニスター】



左側の日誌は未使用だったそうです。
潜水艦での日常の活動を記すために技術クルーが使用するもののようです。

この赤い缶が、前半で散々出てきた「個人支給の筏」を展開し、
膨らませるための空気ボトルだそうです。

Uボート乗員が総員退艦した直後の甲板には、
この赤いキャニスターがいくつも転がっていたに違いありません。


続く。


「腸は空けても口閉じよ」守秘義務の宣誓〜シカゴ科学産業博物館 U-505展示

2023-04-22 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、アメリカ軍の攻撃によって総員退艦を余儀なくされたU-505。

自爆スイッチがオンにされ、沈む寸前のボートに乗り込んだ
ハンターキラー22.3のボーディング隊が、爆破装置を解除し、
誰も乗っていない潜水艦を狙い通り捕獲することに成功しました。



アメリカ軍が爆破を食いとめたとき、Uボートは
甲板の高さまで浸水しており、艦橋だけが見えている状態でした。

艦内に突入したボーティング隊は、ハッチを降り、
すでに海水が侵入していた艦内からの排水作業に全力を上げます。

■ 1944年6月4−19日 サルベージ隊の死闘



この写真で艦橋の上に見えている人影は、
9名のボーティング隊のものであり、
甲板の先に乗り込んでいるのは、排水を食い止めるために
右側のボートから乗り込んだ別働隊です。



沈みかけのUボートはこのような態勢で浮いていました。
艦橋にいたボーティング隊は艦内に降りたらしく、一人しか見えません。

艦首先でカメラに向かって両手を振っているように人がいますが、
これはおそらく手旗信号で通信をする信号員だと思われます。

それにしても、こんな状態でいつ爆発するかわからない敵潜水艦に、
任務とはいえよく乗り込んで行ったものだと、
あらためてボーティング隊の勇気に感嘆します。

甲板にいる20名ほどのメンバーも、この不安定な状態で
よくぞ任務を完遂できたものです。


U-505を捕獲することに成功したとはいえ、それは
戦いのほんの一部が始まったに過ぎなかったのです。

このとき、ダニエル・ギャラリー大佐には、
Uボートの軍事機密を研究するための資料として、
なんとしてでも捕獲したボートをバミューダまで曳航してくるように、
というアメリカ海軍トップからの命令が下されていました。

しかし、ギャラリー大佐の直面した課題は、この困難で長大な航海以前に
潜水艦が沈没の危機に瀕していたことでした。


まず、写真を見てもわかるように、海水が流入したため
コニングタワーが水面からほとんど顔を出していない状態です。

後から乗り組んだ20名は、「サルベージ・パーティ」、
つまり「Uボートの沈没食いとめ隊」でした。

さらに点検の結果、潜水艦の操舵が右に動かなくなっており、
牽引中にまっすぐ進まない状態であったため、
この状態で曳航は不可能であることが判明したのです。

しかもこの段階で艦内にはかなりの海水が浸水しており、
舵が壊れていたことと相まって、牽引のための引き綱に
多大な負荷がかかり続け、数時間後には綱は切れてしまいました。

ここで日が暮れてしまい、時間切れとなったので、
U-505は一晩を海中に沈んだまま過ごしました。

朝になってメンバーは、より強いラインを接続し、
サルベージクルーが舵を修理してまっすぐ進むようにし、
さらに海水を取り除く作業を再開しました。


舵が右に向いていた理由は、アメリカの航空機&駆逐艦からの攻撃のうち、
爆雷が舵の電気制御をまず破壊したことに起因します。

そして、これ以上の操舵が不可能と判断したUボート艦長は、
緊急手動制御を大きく右に切った状態で退艦しました。

ダニエル・ギャラリー大佐とアール・トロシーノ司令は、
手動制御にアクセスするために、潜水艦の後部魚雷室への潜入をを決定。

その後、メンバーは区画のハッチを開け、コントロールを使用して
なんとか舵をまっすぐするのに成功しました。

これは言うなれば「危険すぎるブービートラップ」でしたが、
彼らは勇敢にも立ち向かい、任務を果たしたのです。

”何トンもの海水を汲み出す”


甲板乗り込み組の足元に、艦内から海水を出すためのホースなど、
さまざまな道具があるのが確認できます。

乗り込み隊の努力で、舵はなんとか真っ直ぐになりましたが、
ここからU-505の艦内から海水を除去する困難な仕事が待っていました。

まず電源が切れていたため、艦内の排水ポンプを操作することはできません。

通常、潜水艦というものは、ディーゼルエンジンで作動させることによって
同時にバッテリーを充電する仕組みになっているのですが、
ギャラリー大佐はエンジンは動かさずに対処する選択をしました。

それによって潜水艦が沈没する可能性もあったからです。

潜水艦がそもそも浮くか沈むか、全く予想もつかないこの間、
アール・トロシーノ中佐は何時間もビルジに潜り、
エンジンの下の油まみれの水の中を這い回り、パイプラインをたどり、
バルブを閉めてボートを水密状態に持っていくことに時間を費やしました。

万一その瞬間沈没したら何があっても逃げられないような
床板の下の、手の届かない隅までもぐりこんで、
司令官自ら命懸けの作業を続けたのです。


参考までに:アール・トロシーノ司令

トロシーノ中佐の驚異的な直感と、自らの安全を省みない勇気と使命感は、
彼に正しいバルブを見つけ出させ、U-505を沈没から救うことになります。

彼のその後の作戦は、実に独創的な解決案に基づくものでした。

まず、潜水艦のディーゼルを完全にオフににして、
牽引されている間、スクリューがモーターシャフトを回せるようにします。

それから、フリートタグのUSS「アブナキ」Abnaki(ATF-96)
(軽空母であるUSS『ガダルカナル』を牽引するためのタグ)
に、高速で潜水艦の艦体を引っ張らせました。


赤い矢印がUー505黒がタスクグループ22.3
そして、ちょっと見にくいですが、カナリー諸島から牽引に駆けつけた、
USS「アブナキ」の導線が、グレーで表されています。



トロシーノ中佐の読み通り、プロペラが素早く回転することで、
電気モーターが回転し、バッテリーがリチャージされました。

そうしてのち、サルベージクルーは、
潜水艦搭載のポンプを用いて、艦内の海水を排出することができたのでした。



ここから展示を最下層階に移します。

捕らえたU-505が、なんとか沈まないように排水を行いました。
さて、そのあと、バミューダまで曳航していったわけですが、
そのくだりがこの階の展示で説明されているのです。



エンドレスで上映される、Uボート乗り込みの際の映像を
接収時の艦内の写真をパネルにした前で見ている人。

ちょうどハッチを乗り込みパーティのクルーが入っていくところです。

■ 1944年6月4-19日
サルベージ隊 任務完遂



一口でUボートを捕獲したアフリカ沖からバミューダまでといっても、
それはほとんど大西洋を横断する距離であるのがこれでわかりますね。

U-505を牽引していたUSS「アブナキ」ATF-96は、三日経過したとき、
彼女の「荷」を、旗艦「ガダルカナル」に積み替えました。

彼女はそれから駆逐艦「デュリック」Durik(DE-666)と、
タンカー、USS「ケネベック」Kennebec(AO-36)に付き添われて、
タスクグループの大西洋横断に必要な燃料を補給しに戻りました。

そうやって、1944年6月19日、捕獲されて15日目に、
U-505はバミューダのポートロイヤルベイに到着したのでした。


バミューダでは、待ち構えていた米海軍のアナリストが、
早速U-505に乗り込んで、大西洋のグリッドマップ、
T-5音響誘導魚雷のマニュアル、レーダー、レーダー探知機、
コードブック、および二つのエニグマ暗号機を含む、
1,200を超えるドイツ海軍の機密アイテムをカタログ化しました。

このときU-505から収集された情報により、連合軍は、
対Uボートマニュアルを開発および改善することに成功しました。

これが対ドイツ戦勝利への大きな貢献となったのは間違いありません。


■ 守秘義務 Secrecy A  Must

アメリカ合衆国にとって、アメリカ海軍がUボートを無傷で拿捕したことは
絶対にドイツ側に知られてはならないことでした。

万が一ドイツ軍がこのことを知ったら、すぐさま
対潜傍聴活動と暗号解読阻止のためにシステムを変えるでしょう。


(それでここに来るまでの通路に、防諜ポスターが
嫌というほど展示されていたのか・・納得)


そのため、ダニエル・ギャラリー艦長は、海軍から
タスクグループの内部からUボート捕獲の噂が広まることのないよう、
それはそれは厳しい命令を受けることになりました。



これが海軍上層部からギャラリー大佐に送られてきた命令です。

敵にU-505の捕獲を知られないようにするため

(A)もしU-505の状態が変化した場合、
タスクグループ22.3の護衛の下バミューダに向かうこと

(B)捕獲については絶対的な秘密厳守が必要であることを
全ての関係者に強調すること


ギャラリーはメンバー全員に秘密保持声明に署名させました。
守秘義務違反の罰は「アンダーペナルティ・オブ・デス」=死刑


ギャラリー艦長は、このメモをタスクグループ全員に渡し、
Uボート捕獲が極秘事項であることを強調しました。

「オース・オブ・シークレシー」(秘密の宣誓)

という真面目で公式的な口調のタイトルで発されたこの文書からは、
ダニエル・ギャラリーという海軍司令のリーダーシップ、
歴史的瞬間の証人としてこの状況に立ち会っていることの高揚感、
そして、なぜかユーモアのセンスに対する才能が遺憾無く発揮されています。

この厳密な箝口令が敷かれた結果、この秘密は戦後まで漏れることなく、
ドイツ側がUボートを捕獲されていたことを知ったのは
戦後連合国に降伏した後のことだったといいます。

OVE                           USS「ガダルカナル」    1944年6月14日

極秘
From: タスクグループ22.3司令
To:タスクグループ22.3

全ての者に公開する

6月4日1100以来、我々が行ってきた業務は最高機密に分類された。

U-505の捕獲は、我々がそれについて口を閉ざすことで
第二次世界大戦における大きなターニングポイントの一つとなりうる。

敵がこの捕獲を知ることがあってはならない。

今回のことについて、我々の友人にこれをしゃべりたくなる気持ちは
本官も十分理解するものであるが、これから印刷される歴史の本で、
彼らもいずれはそのことを全て読むことになるであろう。

そしてそうなるかどうかは諸君次第なのである。

次の命令に従えば、あなた自身の健康も、
国防に不可欠な情報も守られることを肝に銘じてほしい。

「腸は空けても 口閉じよ」
’ KEEP YOUR BOWELS OPEN AND 
YOUR MOUTH SHUT’

「あなた自身の健康」って、ソフトに脅迫してないかこれ。
それから、最後の「腸」ですが、語呂だけであまり意味はありません。

「さんま焼いても家焼くな」的な?

なので、ギャラリー司令の命令にも「肝に銘じる」と
誰うま的な意訳をしておきました。

上司にしたい男:ギャラリー司令


こちらは真面目な?方の、というか公式の守秘義務宣誓書です。


U-505が拿捕されてから数時間以内に、連合軍の諜報機関上層部は
ボートと乗組員について計画を立てなければなりませんでした。

アメリカ海軍大将アーネスト・キング
イギリス海軍第一海軍卿アンドリュー・カニンガムは、
捕獲を秘匿しておく必要性について、無線でメッセージを交換していました。

発見した情報についてドイツに知られないことを第一義としたのです。

捕獲に関与した全ての関係者は「守秘義務の宣誓」に署名させられました。
沈黙を守ることについて、厳しい罰則が設けられており、
万が一これを破った場合には、死刑に処せられる可能性がありました。

この宣言は1944年6月8日に署名されました。

ドイツが降伏してから初めて海軍はU-505の鹵獲を発表し、
乗員の宣誓を解除するプレスリリースを発行しました。
宣誓書の内容は以下の通り。

トップシークレット

USS「フラハティ」
C/O フリートポストオフィス ニューヨーク NY

わたし、ロジャー・W・コーゼンス(サイン)は、
ドイツの潜水艦U-505の捕獲に関して絶対的な秘密を維持するための
十分な説明を受けたので、戦争が終了するまで、
少なくとも海軍省が早急に一般に公開しない限り、
何人にもこの情報を漏らさないことを、ここに誓います。

(この『誰にも』no oneには、わたしの最も近い親戚、
友人、軍人、または海軍軍人も含まれています。
わたしの司令官からそのように指示された場合を除き、
たとえ相手が提督であっても、それは例外ではありません)

ドイツが、U-505の拿捕の何らかの情報源から何かを察知した場合、
その捕獲によって得た多大なこちらの利益が即座に無効になり、
結果としてそれがアメリカ合衆国に多大な損失をもたらすことを
わたしは知る必要があり、またそれを十分に認識しています。

わたしはまた、もしわたしがこの誓いを破った場合、
わたしは重大な軍事犯罪を犯し、それによって
わたし自身を軍法会議にかけられることになるのを認識しています。

ロジャー・W・コーゼンス(サイン)

8日、わたしの前で朗読し誓約しました

M.L.ローリー LT (JG)USNR(サイン)



続く。




ハンターキラー、U-505捕獲に成功す〜シカゴ科学産業博物館

2023-04-20 | 博物館・資料館・テーマパーク

はっきりと目標をUボートの捕獲と定め、情報機関を駆使して
南アフリカに乗り込んだギャラリー大佐のハンターキラー22.3。

捜索を続けるも諦めて引き上げようとした途端、
駆逐艦「シャトレーン」のソナーマンがUボートの存在を突き止めた、
というところまでお話ししてきました。

ここまで歩いてくると、ようやく実物のU-505を
甲板の高さから見ることができる展示室にたどり着きます。



アメリカ海軍が知力の限りを尽くして捕獲したU-505。
ここに展示されるまでにはそれこそ本になるほどのストーリーがあり、
この展示では、それが熱く語られます。



潜水艦のフロア全部を使って、資料が展示されています。
皆様には、このわたしが順にこれをお見せしていくつもりです。



潜水艦は内部を何回かに分けてツァーで紹介しています。
1階フロアに見える人々は、ツァーを予約し、時間が来るのを待っています。


そこにたどり着くまでに、パネル展示が続くわけですが、
まずはU-505を捕獲した時のシーンが現れました。

潜水艦の右舷に横付けされたボート、見覚えがありますね。



やはりこれは、Uボート乗員を確保しにいくボートだったんですね。



パネルの前に並んだ九人の海軍軍人たち。
彼らが直接Uボートに向かったボートのクルーなのかな?



やはりそのようです。
一人一人の顔写真がボートに乗って登場しました。

彼らはUSS「ピルズベリー」から派出された
「ボーディング・パーティ」=乗り込みチームです。

航空機からのマーキングの後、駆逐艦から発射された魚雷で
U-505は損傷し、総員退艦を始めました。

彼らがボートを放棄することが明らかになった時、
タスクグループ22.3は、ホエールボート(っていうんですね)を投下し、
ボーディング(敵船乗組)と救助の訓練を受けたクルーを派遣しました。

そして、USS「シャトレーン」とU「ジェンクス」が生存者を拾い上げる間、
USS「ピルズベリー」はホエールボートをU-505に送り、
アルバート・L・デビッド中尉が9人の搭乗隊を率いて乗り込みました。

その、USS「ピルズベリー」のホエールボートが、
損傷した潜水艦の横に停泊した瞬間が絵になっているわけです。

彼らのここでの任務はUボートを強襲し、
残存しているドイツ海軍の乗組員を圧して潜水艦を制御することです。

このクルー全員が大々的に顔写真と共に紹介されていますが、
この任務は誰にでもできることではなくとてつもなく危険でした。

まず、このときU−505の状態は海上で沈没寸前となり、
渦に巻き込まれるように自転していました。

当然ですが、鹵獲されることを防ぐため、
艦隊には爆薬が装備されていた可能性は大でした。


このとき乗り込みメンバーとなった九人の名前が
「極秘」として記された文書。

■ U-505に搭乗





”シーストレーナー・カバー”

Uボートにはドイツが連合軍の手に渡ることを望まない
最高機密の情報と技術が満載されていました。

だからこそ今回ギャラリー大佐とアメリカ海軍は
総力を挙げてUボートの捕獲作戦に乗り出したわけですが、
Uボートの艦長は、万が一自艦が捕獲の危険に晒された場合、
自沈または沈没させよという厳格な命令を受けていました。

タスクグループの攻撃が艦体を損傷させたとき、
U-505の乗員はボートを浸水させ自沈させようとしました。

その時彼らが開けたのはこのシーストレーナーというパイプです。

次の瞬間水はボートに流れ込みました。
「ピルズベリー」の乗り込みチームがU-505に到着するまでに、
潜水艦の艦尾はすでに水没しており、
海水麺は司令塔の最上部分にほぼ到達していました。

モーターマシニストのゼノン・ルコシウス一等水兵が乗艦し、
このストレーナーから海水が流れ込んでいるのを発見し、
すぐさまストレーナーのカバーを探して再び固定しました。

それが冒頭写真の”ストレーナーカバー”です。

”スカットル・チャージ”

U-505を総員退艦する前に、ドイツ軍乗員は、
潜水艦全体に装備された多数のスカットル・チャージ、
=時限爆弾のタイマーをセットするように訓練されていました。

アメリカ軍の乗り込み隊と救助隊は、
起爆スイッチとなっている針金のワイヤーをすぐさま引っ張り、
時限爆弾のスイッチを解除することに成功しました。


左上、艦橋だけ海上に出た状態
下、アメリカの旗をUボートの司令塔に立てる


もちろん一つでも爆発していたら、Uボートはもちろん、
乗り込んだアメリカ海軍のクルーが海底に沈むことになったでしょう。

■USS「ピルズベリー」の乗り込み隊9名

潜水艦はいつ沈没するか爆発するかわからないし、
どんな抵抗を受けるかもわかりませんでしたが、乗り込み隊である
デイビッド中尉たちはハッチから内部に降りていったのです。

急いで調べたところ、甲板に横たわっていたドイツ人水兵の死体以外は、
U-505は無人であることが確認されました。

これが今回の拿捕を決めた決定的な瞬間となったのです。

そしてその後、まずスカットルチャージの取り外しが行われ、
ついで沈没を防ぐためにバルブの閉鎖を済ませてから、
海図や暗号帳、書類の整理に取りかかりました。


危険を承知でUボートに乗り込んで行った9名については、
一人一人紹介されていましたので、ここに挙げておきます。


アルバート・L・デイヴィッド 米海軍中尉
(左はギャラリー中佐、『ガダルカナル』艦上にて)


チェスター・A・モカースキー 一等砲手兵曹 U.S.N.


ウェイン・M・ピケルス 二等航海士 U.S.N.所属

アーサー・W・ニスペル 魚雷手 三等兵 U.S.N.R.
写真なし


ジョージ・ジェイコブソン U.S.N.チーフ・モーター・マシニスト・メイト


ゼノン B. ルコシウス U.S.N.一等機関士補
起爆スイッチを最初に切った殊勲者。


ウィリアム・R・リアンドゥ U.S.N.三等電気技師補


スタンリー E. ウドウィアック U.S.N.R.三等兵曹(ラジオマン)


ゴードン・F・ホーネ 米海軍三等軍曹

「ピルズベリー」の信号員でU-505に乗艦した後は
タスクグループと通信業務を行う。
シグナルマンはタスクグループから見分けやすいように
一人白いユニフォームを着せられていた。
シルバースターメダル受賞



フィリップ・トゥルシェイム操舵手

操舵手として「ピルズベリー」から出されたホエールボートを操縦した。
乗り込みパーティには加わっていないが、
Uボートとボートを並べ位置を維持する重要な役目を果たした。



アール・トロシーノ(引揚隊司令官)

トロシーノは-505の沈没を阻止する救助隊を指揮した。
彼が考案した巧妙な計画に従って、引揚隊は、
牽引中に潜水艦のバッテリーを再充電することに成功。

これにより、クルーは潜水艦の搭載ポンプを使用して
攻撃中に浸水した海水を排水することができた。

1954年、U-505がシカゴに牽引されることになった時、
トロシーノはその指揮も勤めることになった。

海軍は彼にコンバット「V」メダルを授与した。



D.E.ハンプトン大尉

ハンプトンはUSS「ガダルカナル」からの2次サルベージ隊を率いた。
彼は、捕獲後、U-505を奪取する命令を与えられていた。
潜水艦の状態により、救助と牽引も任されていた。

ハンプトンはボートからの排水作業を組織し、
トロシーノ中佐の引揚作業を援助した。

海軍からは厚労勲章メダルが与えられている。


さて、ミッションの最初の部分が完了しました。

アメリカ海軍ハンターキラータスクグループ22.3は、
ダニエル・V・ギャラリー大佐の指揮下においてU-505を捕獲したのです。

これは、1815年(1812年の戦争の最終年)以来、
アメリカ海軍にとって敵船を戦時に捕獲した最初の例となりました。


拿捕後、タスクグループはU-505をバミューダに曳し、
Uボートの解析を行うことにしました。

バミューダに到着する前夜、ギャラリー大佐は
お手柄だった乗り込みメンバー9名を
USS「ガダルカナル」に招待しています。

ギャラリー大佐は翌朝、捕獲した潜水艦にアメリカ軍人を乗せて
港に入るという演出のために、彼らをU-505に移そうと考えたのです。

■ 余談:乗り込みメンバーの間違いを加工?
アメリカ海軍の写真加工技術

ここでちょっとしたミスが起こりました。

USS「ガダルカナル」に乗艦したグループの最先任、
デビッド中尉は、まずギャラリー大佐に面会に行きました。

このとき、カメラマンはデビッド中尉のいないパーティを撮影し、
これをプレスリリース用の写真にしてしまったのです。



九人いたのでこれが乗り込みクルー全員だろうと思ったんですね。

実際は、そこにいなかったデビッド中尉の代わりに、
物資の手配を担当するために「ピルズベリー」から乗り込んでいた
チーフのコミサリー・リスクが一緒に写っていたのです。

写真を撮られた人たちはプレスリリースとか全く考えていないので、
誰一人このことを疑問に思わず、リスク曹長も一緒に写真に収まりましたが、
公式の写真に作戦と関係ない人がうつっているのはいかがなものか、
となったので、直前で海軍は写真を加工しました。



これがもう全く苦し紛れで、今なら雑コラ認定間違いなし。

リスク曹長を消して右側の三人を中央に寄せ、
肩にかけた手を加工していますが、このコラ、どうやら文字通り
写真を切り貼りしたらしく、アスペクト比まで弄っていないので、
右から3番目の人の右腕の長さがとんでもないことになってます。

どうも加工チームは、移動させた三人の写真を
リスク曹長の身長に合わせて床から「持ち上げた」らしいのです。

そして右側の三人が実物より大きくなってしまいました。




そこでもう一度博物館で大パネルにされた写真をご覧ください。

当時の海軍写真班は、さすがにいない人物を継ぎ合わせて
そこにいるように加工することができなかったため
プレスリリースの写真にデビッド中尉はいないままでしたが、
当博物館では、ちゃんとこの写真にデビッド中尉を参加させています。

しかも、アス比もちゃんと加工しているので、
本来あまり背の高さが違わない水兵さんたちが元の身長差に戻りました。

ただ、この加工にも決定的におかしな点があります。

確かにパネルはぱっと見不自然というわけではありませんが、
海軍という組織に絶対にあり得ない写真であることは
おそらくこのブログ読者ならどなたもご存知ですね。

そう、デビッド中尉の立ち位置です。

もし本当に中尉がいたら、海軍の慣習としてかならず士官は中央前列に立ち、
こんな風に水兵の後ろから顔を出すことなどありえません。

パネルの加工がいつ行われたかは不明ですが、
おそらく少なくともここ数年ではなかったとわたしは断言します。

もし現在のフォトショップを使えば、誰でも
デビッド中尉の全身像を真ん中に配置した、
自然な写真をいくらでも合成できるからです。



さて、こうやってU-505を捕獲するという、
最初の目的を果たしたハンターキラータスクグループ22.3。

次にギャラリー大佐に与えられたミッションは、
潜水艦を沈まないように曳航するということでした。

続く。