ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

国難と桜〜アメリカの大学を通して見るパンデミック

2020-04-04 | つれづれなるままに

世間が驚天動地の非常事態で大騒ぎになっているのに
というか、だからこそ平常運転を心がけてきた当ブログですが、
この辺で少し新型コロナ肺炎こと武漢肺炎について近況報告しておきます。

まず、住んでいる地域周辺についてですが、学校が閉鎖になってから
近隣にある公園は連日週末並みの賑わいを見せていました。

子供が走り回っているのはもちろん、高校生、大学生などがグループで訪れ、
女子大生が公園の芝生で「箪笥長持ちどの子が欲しい」とか
文字通りの追いかけっこをしているなどという、こんなことでもなければ
見ることもなかったであろう光景が展開していたのです。

桜の名所でもあるその公園に、桜が満開になった日散歩に出たところ、
公園事務所が

「飲食を伴う花見は控えてください」

とアナウンスしているのにもかかわらず、外にテントを張って
家族単位で物を食べているグループがあまりに多いので驚きました。

いわゆる人と人の距離2メートルというルールは一応守られているのですが、
ベンチで並んで風の強い中コンビニ弁当を食べているおばちゃんなどもおり、
飲食禁止のお達しはあまり守られていない模様。

インターネットで見るニュースの混乱がまるで別世界ではないかと思うほど
公園内は何がなんでも花見したいマン&ウーマンで埋め尽くされています。


マスク不足については、我が家では高みの見物で、というのは
こんなことになる前から冬場はマスクを常用する傾向にあったため、
なんなら半年分くらいのPM2.5対応とかいう鳴り物入りのブツを
箱買いしてあったうえ、それを洗濯してリユースしているからです。

ところで、先週のことですが、実家の母が倒れました。
妹から肺炎の症状が出て、人工呼吸器を付けるかどうか聞かれている、
という知らせを受け、とりあえずそれはしないことを打ち合わせ、
新幹線に飛び乗った(飛行機は間引き運行で満席だった)のですが、
コロナの検査は陰性と出たあとも病院側は警戒して、
母とはガラス越しにしか対面できず、一時は家族全員覚悟を決めたほどです。

幸い、経過観察の結果コロナの疑いは晴れ、しかも驚異の回復を見せて
今ではベッドに腰掛けてリハビリを行うまでになりました。
あのとき慌てて人工呼吸器をつけていたらと思うとゾッとします。


さて、今ニューヨークを中心に感染が拡大し大惨事になっているアメリカですが、
東部の大学に留学している息子のその後について書いておきます。

アメリカがまだ今ほど大変ではなかった時期、それはまだ春休みシーズンでしたが、
ほぼ全ての学校が早々と閉鎖を決め、「帰省先から帰ってくるな」と通達を出しました。

息子は無人となった寮に一人で住んでいましたが、
3月11日に学校から大体こんなメールが届きます。

3月16日(月)から少なくとも3月30日まで、
コロナウイルスの新しい疾患である
COVID-19から
コミュニティの健康と安全を守るため、

大学はすべての対面教育を一時停止し、
オンラインおよびその他の代替手段に移行します。

キャンパスは、一部のサービスのためにオープンのままです。
ソーシャルディスタンスを守るため、
学生はこの期間中に学内に戻らないでください。


学校に留まる必要のある学生も、遠隔で指導を受けます。

あと、イベントの停止、学校単位での旅行の禁止などが通達されています。
この時点では大学は5月23日に平常に戻る計画を維持しています。

翌日3月12日、WHOがコロナ疾患をパンデミックと宣言しました。
同時に大学は、学校の寮とギリシャコモンズ(大学の社交クラブ)
からの即時立ち退き要求を行いました。

問題は中国から来た留学生です。
祖国が大変なことになっていて帰国したらもう戻ってこれないばかりか、
インターネット情報が遮断されているので授業も受けられません。

だからといって寮を出て行くところもないわけで、
どうやってここから脱出するかSNSで騒然となる彼らは
まるで「ダンケルク前夜状態だった」(息子談)そうです。

わたしたちは早速スカイプで家族会議を行い、対処を検討しました。
Airbnbで部屋を借り、わたしが渡米して車で移動するという案も出ましたが、
先行きが不明なのでそれは危険すぎるだろうということになり却下。
実行していたら今頃わたしが帰れなくなっているところでした。

息子のルームメイトは、あまり社交的なタイプではない彼が、
学校で唯一?というくらい波長の会うアメリカ人学生なのですが、彼、
ゲイブことゲイブリエルが、サンフランシスコの実家に誘ってくれていたので、
最終的に息子はここに長期滞在させてもらうことを決めました。

彼の父親は有名なシリコンバレーのIT関連企業のオーナーです。
当人たちは一度も話題にしたことはないそうですが、

息子は早くからwikiのその人物だと特定していました。

今回、息子を泊めてもらうお礼を送るために住所を聞いたので
検索してみたら、これがまたとんでもない豪邸でした。

家の前にある長細いのは、プールなんだろうなあ。

ちなみにこの邸宅は人里離れた山中で、しかもプライベートのセキュリティが
常駐しているので、たとえ「暴動が起きても安全」だそうです。

今現在、彼のご両親も外に出ず、自宅で過ごしてしているそうですが、
ゲイブも一人っ子らしいし、これだけ広ければ
息子一人くらい増えてもキャパ的には全く問題はなさそうです。

 

3月14日。

大学の学生部長からメールが来ました。

親愛なる学生諸君、

私たちは、安心を提供し、冷静でいることを奨励するために、
この困難な瞬間にもあなたに手を差し伸べています。
春学期の計画が大幅に変更されましたが、新しい学習・生活環境に適応すると、
今度はその調整が必要となってくるでしょう。

私たちのアドバイスは「手放す」ことは、けっして
却下することと同義ではないことを理解し、

とにかく今は不安を手放す方法を見つけてくださいということです。

それは、物事をあるがままに受け入れるということでもあります。
あなたは、制御できない現実であってもそれを受け入れ、また
この状況でもあなた自身に投資することを決して怠らないでください。

例えば、健康的な活動を楽しみ、それをいつものように続けること。
また、今各自に要求されているソーシャルディスタンスを踏まえたうえで、
友人と安全に社交できる創造的な新しい方法を見つけることも大事です。

今学期を最大限、今後の人生に生かしてください。学ぶために学ぶのです。
これは決して大学のカリキュラムには含まれない大きな教訓となるでしょう。
この世界的な危機を乗り越えることが学ぶべき人生の教訓となるはずです。

変化が避けられないのは事実です。これほど単純な真実はありません。
しかしながら、この事実は、学生一人ひとりに、知的に俊敏で、
多文化的な洗練された感覚を持ち、グローバルな視点を通して行動する
能力を吹き込むという当研究所の目標の背後にある原動力のひとつです。


なんかこういうのを読むと、戦争中のアメリカがどんなふうに
国民を鼓舞していたか、うっすら想像できる気がしますね。

国難という意味では戦争も今回も事態は同じであるわけですが。

 

ところが、この直後、こんなメールが届きました。
学生の一部がこのごに及んで皆で集まっていたのがバレたようです。
メールの送信者のタイトルはMDで、大学の健康担当ディレクターです。

親愛なる学生、

まず、ソーシャルディスタンス(6フィート)を実践してきた皆さんに
感謝したいと思います。
CDCとWHOが報告したように、この慣行は

中国ウイルスの

曲線を劇的に平坦化するのに役立っています。

しかし、最近、学生の多くがレジデンスホールで集まっていたことを
わたしは学生から直接知らされました。
レジデンスホールが今日まで開いていた唯一の理由は、学生が持ち物を梱包し、
家に帰る手配をするのに十分な時間を与えるためであったと繰り返します。
社交するのに集まる場所を提供したものではありません。

• CDCの分析によると、入院するのに十分な病気の人の38%が55歳未満であった。

• 米国でコロナウイルスで入院している人の最大20%は、20~44歳の若年成人。
さらに、ICUに入院されたことが知られている121人の患者のうち、12%が20〜44歳。

• 若者が協力せずにこの病気を止めることはできません。ご協力ください。

3月23日。

2020年春学期の成績採点方法を一時的に変更するという通知。
試験が教室でできないので、論文提出に代えるというような感じです。

 

3月25日。

TOが留学していた大学の学長がコロナにかかったとメールが来ました。

このことは日本でもニュースで報じられたようです。

コミュニティの親愛なるメンバーへ

今日、アデルと私はCOVID-19の検査で陽性反応が出ました。
日曜日に症状が出始め、最初は咳、悪寒、筋肉痛が始まり、月曜日に医師に連絡を取りました。
昨日検査を受け、ちょうど数分前に結果を受け取ったところです。

私たちはできるだけ早く皆さんとこのニュースを共有したいと思いました。

私たち二人ともウイルスにどこで感染したのかわかっていません。
良いニュースは、最近私たちと接触した人数は通常よりもはるかに少ないことです。

私たちは、3月14日に自宅で仕事を始め、社会的隔離勧告に従って、
他の人との接触を完全に制限していました。
今後はプロトコルに沿って、過去14日間に密接に連絡を取った人に連絡を取ります。

私たちは、自宅で2週間安静をこころがけ、回復するために必要な時間を取るでしょう。
私は素晴らしいチームに恵まれていますし、たくさんの同僚が
アデルと私が健康になることに心を砕いてくれているので、責任を持って
回復に努めますが、もし私たちに連絡をくれていた方はメールできなくてすみません。

このウイルスは、誰でも簡単に罹患するので、私たちは皆、
他の人との接触を制限し、ガイドラインに従う必要があります。

世界はこのウイルスを打ち負かすために、あなたたちの勇気、創造性、
そして知性を必要としているのです。

ラリー

 

 

3月26日。

息子の学校から、卒業式はオンラインで行うと通知がありました。

今回の事態に鑑み、私たちの伝統的な方法で卒業式を行うことができないという
残念なニュースを共有しなければなりません。
しかし現在の状況下で可能な限り最も特別な方法で卒業生を称えるため、
オンラインセレモニーで、卒業生に正式に学位を授与します。

私たちは一緒に卒業生を祝い、彼らの成功に誇りを表し、
彼らが私たちの社会を守るために払ってくれた犠牲に感謝します。

Oh・・・・・。
 

3月28日。

5月23日学校再開予定はキャンセル。
学期末まで遠隔授業を行うことが決定され通知されてきました。

アメリカはさらに死者数も感染者数も爆発的に
増えているため、全く先行きの見えない状況です。

 

今日も近くの公園は花見の客で賑わっていました。

外国人にはさぞこの光景が異様に見えるのでしょうが、
多くの人々は
こんなときだからこそ桜を目に焼き付けることに
いつも以上の意味を見出しているように見えます。

多くの日本人にとって、桜は命の儚さと生と死の境を象徴するものであり、
その年の桜は必ずそれぞれにとっての「人生の区切り」でもあるからでしょう。

来年の桜が咲く時、この世の中はどうなっているのか。
わたしは、そして私の愛する人たちは無事でこの世に存えているのか。

意識しているとしていないにかかわらず、だれもが今年の桜を見ながら
それに近いことを心に過らせているのでは、という気がします。

皆様も御身大切に。皆でこの局面を乗り越えましょう。

 

 

 

 


平成最後の日

2019-05-02 | つれづれなるままに

みなさま、令和元年おめでとうございます。

ここのところずっと自衛隊訪問記事が続いたので、ちょっと息抜き記事です。
みなさまは平成最後の日をどのようにお過ごしになりましたでしょうか。

わたしは、自分の誕生日を祝っておりました。

まず、朝から各所(といっても数件ですが)より届く貢ぎもの、じゃなくて
プレゼントが届き、その中には妹からの渾身のセレクトによる(本人談)
花かごとか、

会員であるところの某クラブからのお花がありました。

平成最後の日、わたしとTOは、わたしたちにとっての平成を振り返り、
ついでにわたしの誕生日を祝うディナーに出かけました。

東京は雨でした。
東京駅周辺にはいたるところに警察の警備が立ち、ちょうどその時間、
今は上皇となられた天皇陛下が退位立正殿において最後のお言葉を述べておられたのです。

今日をもち、天皇としての務めを終えることになりました。

ただ今、国民を代表して、
安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。

即位から30年、これまでの天皇としての務めを、
国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、
幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、
支えてくれた国民に、心から感謝します。

明日から始まる新しい令和の時代が平和で実り多くあることを、
皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。

今日令和となって天皇陛下のお言葉も拝見しましたが、
単純に、驚いたことが二つ。

お言葉を述べられる上皇殿下のお姿が
記憶に在わす昭和天皇によく似ておられたこと、そして
令和の世になるや、新しい天皇陛下のお姿がすでに
後光が差さんばかりの威容に溢れてみえたことです。

わたしは国民の一人として、天皇を象徴とするこの国に生まれたことを
誇りにし、そしてただ代々天皇陛下の御世を何千年にもわたって受け継いできた
我々の父祖と歴史の重みに対し、ただ静かに感謝を捧げるのみです。

 

ついでながら一言差し出がましいことを言わせていただくと、皇位継承について、
人品卑しげな曲学阿世の徒や逆張り言論人気取りの俗人が、畏れ多くも
天皇陛下や皇族の方々のお気持ちを勝手に代弁したり、自分の反対意見には
「カルト」という言葉まで使って下賎で不毛な空論をぶつけているようですが、
所詮は日本の長い歴史のほんの一瞬生かされているだけに過ぎない身で、
数千年にわたる皇統の歴史に物申し、それを我々の世代で変えられると思うのは
あまりに愚かしく、
そして何より不遜であるとしか言いようがありません。


ちなみに令和元年五月一日付で憲政学者の倉山満氏がこんなことを書いておられます。

「愛子天皇」待望論者たちよ、もう一度壬申の乱を起こしたいのか


この日の誕生日ディナーは東京駅前ホテル(仮名)のレストラン個室でした。
選んだのはわたしではなく、TOのサプライズです。

部屋にはテーブルが一つ、向かい合ってしみじみと?お任せディナーをいただく趣向。

ナプキンの襟元にパスタのファルファッレが使われていて洒落が利いています。

車で来ているうえ下戸同士の夫婦ですが、お祝いということで
ノンアルコールのスパークリングワインを注文しました。
ワインというよりサイダーという感じですが、
フルートグラスに泡が立ち昇っているだけで気持ちが華やぐというものです。

前菜は季節のカツオを使ったマリネ的一品。

魚はこれも季節のサワラをオリーブやアンチョビでコーティング?したもの。
彩にトビコをあしらって目にも鮮やか。

デザートは軽ーく、ムースで締めくくり。

デザートと一緒にTOから、わたしが大好きなサンダーソニアの花束のプレゼント。
誕生日のおかげで花に囲まれた元年を迎えることになりました。

崩御による元号交代という従来の姿とは違う御世代りではありましたが、
この日の東京都内の様子を見るかぎり、各自がただ粛々と
終わりゆく平成を噛み締めているような一種の静けさに満ちていました。

 
ところで今年は海上自衛隊の観艦式が予定されていますね。
先日も、もし観艦式日程がわかり次第教えて欲しい、というメールをいただいたのですが、
海幕の中の方から聞いた話をここでちょっとさせていただきますと、
今年はおそらく例年より規模をスケールダウンすることになり、
一般の人の参加は厳しくなるだろうということです。
 
乗艦券が非常識な値段で売買されている事態を重く見たこともあるでしょうが、
今年はとにかく海上自衛隊に入隊する可能性のある若い人に
広報するということを主眼に乗っていただくというようなことを聞きました。
 
(くらまは41,500円、いずも40,500円という値段だったとか)
 
厚かましい団塊カメラ爺さんなんか載せる必要なし、とわたしも思います。
 
 
おまけ:この日帰りにうちの近所のオシャレ系スーパーで見つけたツナ缶。


ちなみに中身はポーランド製で、なぜとは言いませんがこれがこゴルゴっぽい気がしました。
 
 
 
 
 
 
 

欧州大陸海軍 模型展

2019-03-05 | つれづれなるままに

前回見学してここで紹介した艦船模型のクラブ、
ミンダナオ会の模型展示会がまたありました。

前回、会場で住所を書いたところ、年賀はがきをいただき
そこには2月に行われる展示会の通知が書かれていたのですが、
わたし自身は所用のため(一日しかやらない)伺うことができず、
その代わり、当日わたしと同じように自衛隊イベントを掛け持ちした
Kさんが写真を送ってくださったので紹介します。

今回は欧州、イギリスはもちろんですがドイツ、フランス、
ソ連などの古今の軍艦がテーマになっています。

冒頭写真はナチスドイツ海軍の戦艦なのは確か。
実際にこの目で見たわけではないので、船の名前は表示がなければお手上げです。

有名どころでとりあえず戦艦「ビスマルク」ではないかと想像してみる。

ビスマルクというと、ゆで卵の輪切りが乗ったピザのことですが、
(あれ美味しいんだよね)あの鉄血宰相のビスマルクから来た名前です。

ピザがなぜ鉄血宰相なのかというと、ビスマルクの時代、
イタリアとドイツは友好関係にあり(その後も枢軸国だったし)
宰相自身が美食家でいくつもの「ビスマルク風」料理を開発し、
その一つがこのピザだったかららしいです。

戦艦「ビスマルク」は1941年、デンマークでの海戦で英海軍の「フッド」を沈め、
「プリンス・オブ・ウェールズ」をいいところまで追い詰めたのですが
(その「プリンス」はその後日本海軍に沈没させられたのはご存知の通り)
その直後、英国艦隊との砲撃戦に破れて撃沈されました。

艦長のエルンスト・リンデマンは、激しい砲撃の中最後まで生きていましたが、
沈む「ビスマルク」と運命を共にしています。

最後に目撃された時、リンデマン艦長は艦首甲板に、2〜30名と共に立っていて、
艦長しか着用しない白い帽子を被っていました。
また別の生存者は、前部甲板にある38センチ砲の近くに艦長が立っていて、
伝令である一等兵(従兵だったのかも)に、艦が沈んだら泳いで逃げるように、
と説得しているようだったと証言しています。

一等兵が艦長の手を取り、一緒に前方に歩いて行った時艦が傾き出し、
二人は素早く気をつけの姿勢を取ったかと思うと、敬礼をしました。

その後、「ビスマルク」は左舷に向かって急激に傾き、伝令は
そのまま海に転落していきましたが、艦長はマストにしがみついて
身体を支え、敬礼をしながら艦とともに海中に消えました。

リンデマン艦長の遺体は最後まで発見されなかったということです。

ナチスドイツの旗の上にはドイツ海軍の艦船が展示されています。
人からもらった画像なので、拡大しても文字が読めないと全くその正体がわかりません。

この辺りは艦体の形状から見てもかなり古いとわかります。
日露戦争の頃の船だというくらいは理解できるようになりました。

手前の黒い台に乗ったのは

「オストフリースラント」

「ヘルゴランド」級超弩級戦艦の2番艦で、1911年から就役しています。

これらの時代の軍艦が飾ってあるこの旗ですが、プロイセン王国の旗ですね。
この黒鷲がプロイセンのシンボルで、1918年まではドイツ海軍は
正式にはプロイセン王国海軍であったわけです。

 

1918年、11月革命とも言われるドイツ革命が起きました。
この革命の指導者の一人にあのローザ・ルクセンブルクがいます。

ところで、この革命のきっかけが海軍の水兵の反乱だったことをご存知でしょうか。

その時ドイツ海軍は、第一次世界大戦の休戦交渉に反対しており、
イギリス艦隊に決戦を挑もうと大洋艦隊主力の出撃を命じました。

しかし、水兵約1000人がその作戦を無謀なものとして出撃命令を拒絶し、
海軍司令部は兵士たちを逮捕し、キール軍港に送り収監しました。

キールの水兵たちは仲間の釈放を求め、司令部が拒絶したため、
水兵・兵士、さらに労働者によるデモが起こり、これを鎮圧しようと
官憲が発砲したことで一挙に蜂起へと拡大してしまうのです。

映画「戦艦ポチョムキン」がそうであったように、当時のドイツ海軍も
将校が貴族・教養市民層出身者で占められているのに対して、
一般兵員は労働者で占められていたため、階級闘争に発展してしまったのです。

ともあれこれがきっかけて独立運動が起こり、プロイセン王国は瓦解。
帝政が打倒され、ドイツは共和国となったのでした。

 

つまりこのプロイセン海軍の旗の上にあるのは、旧態時の海軍で、
いつ水兵が反乱を起こしても不思議ではなかった頃の軍艦ということになります。

これはドイツ国旗の上にありますので、共和国となってからの軍艦ですね。

装甲艦「ドイッチェランド」(前列左)「ザクセンヴァルト」「ケルン」

など、1920年代から第二次世界大戦中の艦船です。

今のドイツ海軍もネーミングの傾向は全く変わっていません。
これはフリゲート艦「ザクセン」。

ドイツ海軍には全くご縁がないらしい我が海上自衛隊ですが、
フランス海軍を呼んでこれるのだから、一度くらいドイツ海軍を
観艦式におよびしてはどうでしょうか。

手前のメダカみたいなのは全部アンダーゼーボート、Uボートです。
これ、皆タイプが違ってたりするんですかね・・・。

ところで、この写真の中央ラインにある船の中に

「チンタオ」

という名前を見つけました。(ドイツ国旗から5隻目)
その船についての情報は出てこなかったのですが、これはおそらく
第一次世界大戦中、ドイツが日英同盟と戦った

「青島の戦い」

から付けられたものだと思われます。
この時、ドイツ軍は日英軍の包囲戦と航空戦になすすべなく、
降伏しているわけですが、ドイツでは敗戦した場所も
艦船の名前にしてしまうんでしょうかね。

ところで、この戦いを、先日ここでご紹介した映画、
「今日もわれ大空にあり」の古澤憲吾監督、須崎勝彌脚本、
俳優は加山雄三の主人公以外は、夏木陽介、佐藤充など、
ほとんど同じメンバーで

「青島要塞爆撃命令」

というのがあり、わたしはこのDVDを所持していることがわかりました。
(買うだけ買って棚ざらしになっていたのを発見)

これも古澤=須崎コンビの映画ということですが、あの奇想天外の展開に
期待して、これもちゃんと観てみることにします。
面白かったら(ある意味絶対面白いはず)またここでご紹介しますね。

ドイツ海軍の大きな潜水艦模型が。

艦橋部分を大アップで。

映画「Uボート」に出ていたみたいな人がたくさんいるー。
艦橋右側部分で手すりに手をついているのは艦長でしょうか。

「高速戦艦脱出せよ!」

という本は、ドイツの戦艦「シャルンホルスト、」「グナイゼナウ」そして
「プリンツ・オイゲン」が、フランスからドーバー海峡を抜けて
ドイツに帰還に成功した「ツェルベルス作戦」を描いたものです。

あーしかし、ドイツの軍艦の名前って基本的にかっこよさが異常。

その上にUボートならぬ「Rボート」というのがありますが、これは
ドイツ海軍の掃海艇のことです。

Rは「Räum」=スペースという意味らしいですがなぜスペースかはわかりませんでした。

ちょうど艦名が隠れているのでどこの何かが全くわからないのですが、
なんとなくこの「土色」がソ連っぽい気がして画像検索したら、
この甲板にとってつけたような飛行甲板が

「キエフ」級航空巡洋艦

に似ている気がしました。
艦番号に相当するのがないので正否は不明です。

ほら、これですよね。
飛行甲板の形が途中でカーブを描いているので、「キエフ」が正解かな?

前回の「巡洋艦シリーズ」で紹介した覚えのある「アドミラル・ナヒーモフ」、
そして「キーロフ」。

ソ連のフネが海上で土色を甲板に使うのはどういう意味があるのでしょう。

ロシアの潜水艦群。
「ホテル」「ゴルフ」「チャーリー」「エコー」「ジュリエット」、
そして「ズールー」というのはフォネティックコードなので、
調べずに断言してしまいますが、西側がつけたコードネームでしょう。

確かソ連軍は冷戦時代も潜水艦に番号だけをつけていたはず。

前回の巡洋艦シリーズで勉強させていただいたので、パッと見ただけで
イタリアとソ連の軍艦はわかるようになりました。

さすがはデザインの国、紅白の斜めストライプを甲板に施しているのがイタリア海軍。

「ヴィットリオ・ベネト」「リットリオ」はワシントン軍縮条約時代の戦艦です。

当時の我が帝国海軍の情報によると、このことを

二、主力艦 昭和十一年末倫敦條約ノ終焉ヲ轉期トシ、
列國ノ建艦ハ主力艦ヲ中心トシテ展開セラレタリ 
昭和十一年ニ於ケル主力艦建造ハ専ラ佛獨伊三國間ニ於テ行ハレタリ 
即チ獨國ノ「ポケツト」戰艦「ドイツチエランド」ニヨリテ切ラレタル火蓋ハ
佛國ノ「ダンケルク」級二隻トナリ 
伊國ノ三五,〇〇〇噸「リトリヲ」級二隻ノ起工ニ依リ
佛國ノ第三艦「リツシユリウ」ハ三五,〇〇〇噸三八糎砲ニ計畫變更セラレ、
獨國亦艦型増大ノ趨勢ニ應ジ二六,〇〇〇噸「シヤルンホルスト」級二隻ニ引續キ
昨年起工セラレタル戰艦ハ遂ニ 三五,〇〇〇噸トナレリ(以下略)』

つまりドイツの「シャルンホルスト」と同様、フランス海軍の
ダンケルク級戦艦リシュリュー級戦艦への対抗として作られた、とあります。

 

戦艦「ローマ」も「ヴィットリオ・ベネト」の4番艦です。

43年9月にイタリアが連合国に降伏したのを受けて移動中、
昨日までの同盟国だった同一軍の爆撃航空群に直撃を受け戦没しました。


向こうはジオラマ付きの飛行船模型。
ツェッペリン型のように見えますが、このタイプの全長は個体差があって、
長いものは140m、最短は120mだったそうです。

手前は「イタリーヒューマントルピード マイアーレイタレリ」とあります。

ヒューマントルピード=人間魚雷・・・・?

あのイタリア人が人間魚雷とは、かなりの違和感がありますが、
調べてみると、特殊潜航艇には違いないようです。

うーん、わたしは今の今までイタリア海軍を少しなめていたかもしれん。

魚雷っちうよりもこれはスクーター(シールズが使ってるみたいな)
なのではないかこれ。

と思ったら案の定、

「泊地に破壊工作員を隠密侵入させる水中スクーターみたいな役割を果たす」

とありました。
泊地に侵入し、敵艦船底部分に魚雷弾頭を磁器吸着設置して
あとはさっさと逃げてくる、というコンセプトなんですね。

というとどうしても思い出してしまうのが、ちばてつや先生の
「紫電改のタカ」で、紫電改搭乗員である人たちばかりが
ひみつきちに集められ、謎の老人に指示されて特殊ボートで
アメリカ軍艦の艦体に磁石と釘で爆弾を装着、離脱するという
ミッションを課せられ、米田二飛曹が死んでしまうというシーケンス。

あの作戦はもしかしたらこの「マイアーレ・イタレリ」がモデルだったのかな。
細かな説明をしているサイトを見つけました。

マイアーレ S.L.C 200 Maiale

 

フランス海軍の戦艦「リシュリュー」と「ジャン・バール」。

「ジャン・バール」といえば、戦艦「マサチューセッツ」を見学した時、
甲板で「トーチ作戦」の時に40.6センチ砲をお見舞いしてやったぜ!
的な展示で名前を見た覚えがあります。

その時、「ジャン・バール」は確か着底までしたのですが、
その後修復され、1970年まで海軍籍にありました。

フランス海軍の軍艦が新旧全てこのテーブルに展示されているようです。

左の方にはフランス初、かつアメリカ海軍以外が所有する唯一の原子力空母、
「シャルル・ド・ゴール」がおります。

前級「クレマンソー」級の「クレマンソー」と比べるとその大きさがよくわかります。

 左に見えている「スルクフ」は、昔アメリカに寄港した際
アメリカの海軍画家によってその姿が残されました。
絵のコピーをアメリカの潜水艦博物館で見たことがあります。
 
 
甲板を見るとヘリコプター搭載型空母なのがわかります。
2010年に除籍になったヘリ空母「ジャンヌ・ダルク」。

防御機能としてはエグゾセミサイルなどを積んでいたとか。

テーマが「欧州の軍艦」のはずなのに・・・・。

アオシマの宣伝スペースでしょうか(笑)

 

というわけで、写真だけで楽しませて頂いた模型店。
素敵な写真を提供していただいたKさんにお礼を申し上げます。

 

 


平成30年度 年忘れお絵かきギャラリー

2018-12-30 | つれづれなるままに

早いもので、2018年、平成30年も終わろうとしています。

今年は出席したイベントも多く、私生活も何かと忙しかったこともあり
絵を描く余裕があまりなかったので、1日だけとなりますが、
今年一年に発表した挿絵を、恒例年忘れギャラリーと称して
振り返っていこうと思います。

まず冒頭は、4月27日から4日間にわたって連載した映画、

「深く静かに潜行せよ」

から。

潜水艦映画の名作としてその名前を知らない人はない、
とまで言われている本作を取り上げると決めたからには
かなりの覚悟で具に観ていったわけですが、進むにつれて
戦争映画としては決定的な「これじゃない感」に苛まれたという作品。

その時もかなりツッコミましたが、その違和感というのがまず主人公の
クラーク・ゲーブル扮する潜水艦艦長リチャードソン少佐という軍人の描き方です。

リチャードソンは自分の乗っていた潜水艦を撃沈した駆逐艦「秋風」とその艦長、
豊後ピート(もちろんあだ名です)への復讐心に燃えるというのですが、
この大前提がそもそもおかしすぎませんかね。

戦闘の結果敗北したからといって、特定の一駆逐艦に復讐心を燃やす、
というこの艦長の動機は、軍人としてかなり歪すぎて、

「お前はアナポリスで何を学んできたんだ」

と説教したくなるレベルの指揮官失格だと思うわけです。


個人的な復讐心に突き動かされ、リチャードソンは、すでに着任が決まっていた
新艦長ブレッドソー大尉(バート・ランカスター)を汚い手で引き摺り下ろし(笑)
潜水艦「ナーカ」の艦長におさまったかと思えば、いきなり強権を発動し、
訓練は駆逐艦をターゲットにしたものばかり、潜水艦は遭遇しても無視。

同じタイプの駆逐艦が現れると目の色変えてやっつけ、
憎き敵を叩くために独断で危険な豊後水道に乗り込んでいく。

一般に、二枚目俳優が演じる軍人のあらまほしき姿というのは、
身も心もイケメンで勇ましく正義感に溢れ、公正中立。
そして何より指導力に優れているというもののはずなのに・・・・。

実際の潜水艦乗りが原作を書いたということですが、彼とても
こんな公私混同の指揮官が実在するとは思っていなかったでしょう。

もう一人の主人公、ブレッドソー大尉は普通に「良い軍人」。
艦長の席を奪われた恨みを持ちながらも、それはそれ、これはこれ、
と私心を任務に持ち込まない公明正大なタイプです。

リチャードソン艦長ときたら、任務に私情を加えまくるのみならず、
いよいよ「秋風」と対決!という戦闘中に、司令塔からなぜか
被害を受けた魚雷発射室をわざわざ見に行って、そこで転倒。
戦闘が終わってからもう一度同じ魚雷発射室に、一言「どうだ」というために
のこのこ出かけていって昏倒。結果脳挫傷で死亡。

お前はいったいアナポリスで何を学んできたのかと(以下略)

 

そして調べていてこんなことがわかりました。
クラーク・ゲーブルは、クランクインしてから
リチャードソン役を拒否し、撮影現場をボイコットしていたという事実を。

映画「風と共に去りぬ」で、スカーレットの永遠の相手、無頼な南部の伊達男、
あのレット・バトラーを演じ、大スターとなったゲーブルにとって、
わかりやすいピカレスクならまだしも、こんな中途半端な、

「悪人ではないけれど、軍人としては資質無し」

みたいな弱い人間を演ずることは耐えられなかったのだろう、とわたしは推察しました。

そういう裏の事情を踏まえて観ると、ただの戦争映画ではない、
人間ドラマの範疇に加えられるこの映画の複雑さが読み解けてきます。

というわけでこの映画、ある意味「名作」ということには間違いありません。
「戦争映画の名作か」といわれると、思いっきり否定しますが。

「深く静かに潜行せよ」のこれらの挿絵は、最初にゲーブルの顔を
真面目モードで描いてしまったため、4回とも同じタッチで
制作することになってしまい、大変な思いをしました。

特にこの三日目のゲーブルとランカスターの絵は、字入れ直前に
ソフトがクラッシュするという悲劇に二回見舞われたため、
完成した時にはほとんど肩で息をしている状態でした。

でも、回数を重ねるごとに選択するペンの種類や手法などに
前回の教訓を活かすことができたため、だんだん要領が良くなって
時間は短縮されていったということはあります。でっていう。

 

それから、名作中の名作といわれるこんな映画でも、
笑ってしまうような荒唐無稽な設定や細かいミスが満載で、
ツッコミどころ多すぎイ!であることをあらためて確認しました。

特にこの映画で観ていて辛かった(嘘)のが日本人俳優たちのセリフです。
冒頭の潜水艦艦長は比較的まともな日本語を喋っていましたが、
それでも聞き取れないところがあったり、まあ笑わせてもらいました。

豊後ピート

「秋風」との対峙

宿敵「秋風」撃破

伊潜との対決

 

映画「イン・ザ・ネイビー」

「はみ出し者たちのスティング・レイ」

こちらも潜水艦映画、「ダウン・ペリスコープ」を取り上げました。
邦題の「イン・ザ・ネイビー」は、この映画の最後に、
同名のヴィレッジ・ピープルの歌が流れることからついたようです。

 

こちらは優秀なのに、過去の操艦ミスのせいで、いつまでも
艦長になれない潜水艦隊のはぐれサブマリナー、ダッジ。

彼は”あること”をして、グラハム少将に蛇蝎のごとく嫌われていますが、
サブマリナーとしての実力はかなりのもので決断力もあるため、
潜水艦隊司令のウィンスロー中将は彼を高く買っています。

そんな上層部の思惑がぶつかり合った結果、ある将官会議を経て
彼はついに念願だった潜水艦の艦長職を拝命するのですが、その潜水艦とは
第二次世界大戦時のディーゼルエンジン潜水艦、「スティングレイ」でした。

しかも悪意を持って少将がわざわざ選んだ乗組員は、潜水艦隊の「問題児」ばかり。
彼らを率いて模擬演習(ウォーゲーム)で原潜の港に進入できたら、ダッジは
晴れて原潜の艦長にしてもらえるということになり・・・。

原子力潜水艦隊バラオ級潜水艦

個性豊かな変人サブマリナーたちの描写だけでも楽しめるこの映画。
彼らを率いる艦長も、気に入らない副長を「処刑」してしまったり、
明らかにディーゼルボートの限界を超えて潜行して皆をビビらせたり、
あーこれは出世できませんわ、という規格外れの軍人として描かれます。

ところで、わたしの好きな映画のタイプに

「男性の集団が目的に向けて皆で努力し栄光を勝ち取る」

という条件を満たすもの(例:炎のランナー、ほとんどの戦争もの)
があるのですが、この映画もある意味その範疇に入ります。

第二次世界大戦中にディーゼルエンジンの潜水艦に乗っていた
ハワードというおっさんが、ダッジ艦長の統率の下、
タンカーの下に潜り込んで原潜のソナーを逃れたときに

「生きててよかったぜ、DBF!」

と叫びます。
このセリフはDVDではちゃんと翻訳されなかったのですが、
興味を持って調べてみたところ、このDBFには日本にも若干関係ある
あるストーリーがまつわっていることがわかりました。

「ディーゼルボート・フォーエバー!」

わたしなんか、DBFのバッジまでアメリカのミリグッズ店で買っちゃったもんね(笑)

ウォーゲームの勝利

ところで、劇中、

「雲が厚くて哨戒機に見つかりにくい」

という設定のはずだったのに、原潜がドルフィン運動をしているシーンでは
雲もない真っ青な空になっていて、なんぞこれ、と思ったのですが、
そういえばこれと同じことがつい最近ありましたよね?

とある国の海軍駆逐艦が隣国の哨戒機に火器管制レーダーを向け、
向けられた方が政府レベルで抗議をしたところ、当初

天気が悪く波が高かったので
レーダーが空に向いて
偶然哨戒機に「当たってしまった」

と言い訳をしていたはずなのに、映像が公開されてみれば、
そこは波一つないいいお天気だった、なんて事例が。

映画でこのわたしごときにツッコミを入れられているのと全く同じことを
実際の軍がやっているっていったいなんなのよって話ですが、
ともかくこの話、年の瀬にワクワクする展開となっていますよね。

韓国海軍が次々と見え透いた言い訳をし、それを日本側が
瞬時に論破していくという展開からもう目が離せません(笑)

 
ところで、わたしは映画の挿絵を描く場合、通常
 
1、真面目なタッチで劇中の1シーンあるいは登場人物を描く
 
2、省略したタッチで登場人物を象徴的なセリフを添えて描く
 
3、映画のストーリーを漫画仕立てで語る
 
という3種類のどれかを選択しますが、「深く静かに」は1、
「イン・ザ・ネイビー」は2、そしてもう一つの潜水艦映画

「ペチコート作戦」
 
は3、と意図したわけではありませんが、結果的に皆違う方法になりました。
 

ある潜水艦出身の自衛官にオススメされた映画です。

コメディー仕立てなのだけど、本職から見ても
潜水艦戦闘シーンなどがちゃんとしているということでした。

しかしその割に当ブログではきっちりコメディ部分だけにフォーカスしてます。

潜水艦乗りが見て「ちゃんと描かれている」としても、
悲しいことに一般人からは他の潜水艦映画と何が違うのか、
その肝心なところまではわからないんですよね。

「看護師部隊、潜水艦に乗る」

第二次世界大戦中の潜水艦に、イケメンというしか取り柄のない
(と思われた)中尉(トニー・カーチス)が、ケーリー・グラントが艦長を務める
潜水艦に着任して、そいつが島で拾ってきた看護師部隊が
男だけの潜水艦に乗り込んでくることからてんやわんやの大騒動。

みたいなわかりやすいコメディで、本当に楽しんで絵を製作しました。

ドジっ娘(死語?)でことごとく艦長の神経を逆撫でする娘が
結局艦長の妻に、逆玉狙いのイケメンダメ士官は、その後覚醒して
原潜の艦長に、その妻も看護師の一人というお約束のエンディングです。

乗り込んできた看護師たちは、結局全員潜水艦乗員とくっつく?のですが、
その相手は、当初いがみ合ったり殴ったり殴られたり、
騙されたの騙されないのと揉めたりする相手であるのがポイント。

タイトルの「ペチコート作戦」は原題どおりなのですが、
ただし作戦の核心となるブツの名前をマイルドに言い換えております。

当ブログでは、その下着をネタにしたこの映画の「オチ」にも
鋭く突っ込み、

「この時代に日本の女はその頃まだ”それ”を使用していない」

という重大な設定上のミスを追求しております。
わたしがこれまで発見し、明らかにした映画の矛盾の中でも
ベスト3に入るほどの快挙だったと自分では思っています(嘘)

そう、ペチコートというより、題名はこちらがより正確です。

「オペレーション・アンダーガーメント」




二人の艦長〜インディアナポリス轟沈と伊号58

映画についてのツッコミや感想がメインではなく、
メア・アイランド海軍工廠跡の博物館で見つけた

「インディアナポリスが原子爆弾を搭載したメア・アイランド」

という観点からの展示を中心に、原子爆弾搭載の様子、そして
「インディアナポリス」の艦長と彼女を撃沈した伊58の艦長、
二人のこと、軍事裁判などについて語ってみました。

この絵は参考にしたニコラス・ケイジ主演の映画

「USSインディアナポリス 勇気ある者たち」
(邦題は『パシフィック・ウォー』)

のラストシーン、現世では実現しなかったマクヴェイ2世と
橋本以行、二人の艦長が敬礼を交わしあう姿を描きました。

「ほどほど海軍人生」〜華族軍人・松平保男海軍少将

ノブレス・オブリージュという概念がそのまま西欧から持ち込まれ、
日本の貴族階級の男性はよほどのことがない限り軍人を志しました。

貴族は特権階級なので、兵学校や陸士などでも成績は非公開で
自動的に上位、その後の昇進もエスカレーター式だったので、
もしこの人物が華族でなければ、少将にまでなることはなかったでしょう。

(貴族は大学に無試験とはいわないけど下駄を履かせてもらえて入学できた)

戦争が始まって戦線に赴き、戦死した貴族階級軍人もいましたが、
松平少将は日露戦争に「鎮遠」の分隊長で参戦した以外は
平和な時代に副長、艦長などを勤め、成績がそこそこだったのが幸いして
その後に現場に立つことなく、敗戦を知る前に他界しました。

このエントリ制作であらためて知ったのは、貴族がその血を維持するためには
妾や養子の制度があってこそだったという事実です。

そうしたことがタブーとなってしまったため、結果として
皇統が危機に瀕しているという事態があるわけですよね。

 

スピットファイアー・ガール〜メアリー・エリス

今年7月24日、元王立空軍の輸送部隊でファースト・オフィサーだった
女性パイロット、メアリー・エリスさんが亡くなりました。

同名のよしみでと読者の婆娑羅大将に教えていただいたのをきっかけに
彼女をはじめとする

ATA (Air Transport Auxiliary、補助航空輸送部隊)

の女性パイロットについて勉強させていただきました。

「スピットファイアー・ガール」というのは、彼女らが航空機を
工場や基地から別の航空基地に輸送する任務を負っていたからで、
輸送した航空機中最も「キャッチーな」スピットファイアが選ばれたのでしょう。

エリスさんは90歳過ぎて、女性パイロットの後部座席に乗せてもらい、
一瞬操縦桿を握っただけでなく、宙返りされても豪快に笑っていました。

そういえばあのチャック・イェーガーも今年で96歳になると思いますが、
2012年、89歳の時に音速越えを再現しています。

パイロットが短命、なんて噂は全くあてにならないってことですね。

ジョセフ・ヒコ〜彼レ如何ニシテ亜米利加人トナリシカ

濵田彦藏、のちのジョセフ・ヒコ、通名アメリカ彦藏。
アメリカ市民。

サンフランシスコのメア・アイランド海軍工廠跡博物館で、
咸臨丸コーナーの近くにあったヒコの紹介を読み、
ここであらためてその生涯を辿ってみました。

日本に再入国するために日本人であることを捨て、
アメリカ人になるという辛い選択をした彼が、二つの祖国の狭間で
いかに自分のアイデンティティに苦悩したか。

彼の辿った道から想像できるそんなことについて語ってみました。

 

絵を描くのは楽しいのですが、何しろ時間が取られるので、
取り掛かるにもえいやっと思い切らなくてはならないのですが、
来年はもう少し頑張って見てもらえればいいなと思っています。

 

それでは皆さま、良いお年を。

 

 

 


うさぎの国のエリス〜瀬戸内海大久野島 毒ガス製造工場跡

2018-12-06 | つれづれなるままに

週末、わたしは呉地方総監部で行われた
「海将を囲む会」のご招待を受けて行ってまいりました。

諸般の事情によりそのご報告は10日ほど後にさせて頂きますが、
そのお知らせを頂き、またしても呉に赴くための計画を立てているとき、
わたしはものすごくいいことを思いついてしまったのです。

「海将を囲む前にうさぎに囲まれるというのはどうだろうか」

コメント欄で話題になった「うさぎの島」こと瀬戸内海に浮かぶ
小さな島、大久野島は呉より広島空港から近いのです。

というわけで、思い立ったが即実行、直前になって大久野島内にある宿泊施設、
大久野島休暇村の予約を取り、朝一の飛行機に乗りました。

なんども竅の飛行機に乗っていますが、このマークを見たのは初めて。
エンジンはロールスロイスだったんですね。

空港で車を借り、ナビを入れてたどり着いたのは忠海港。
最近観光客が激増しているのか、このような案内所がありました。

中でフェリーの切符を買おうとすると、

「大久野島は島内車で走れませんよ」

「車は停めておけるんですね。休暇村までは」

「シャトルバスが出てます」

「じゃ車で行きます」

いつも持ち歩いているカートでフェリーに乗るのはちょっと、
と思いそう告げたのですが、

「フェリー代がかかりますよ?」

そりゃ普通かかるだろう。
どうも、ほとんどの人は忠海に車を置いていく模様。
しかしわたしは何とかして車で行かせまいとするおばちゃんを振り切り、
2000円くらいのフェリー料金を払って車で行くことにしました。

「囲む会」出席のため着替えのガーメントもあったりして、
とにかく荷物が多かったのです。

車なしで行く人たちのための小舟に乗り込んでいくのは
何とインド人の一家。
お父さんは子供達に全て日本語で話しかけていました。

ホワイトフリッパー(白いヒレ)という名前の船です。
フェリーが来るのに30分くらいここで待ちました。

フェリー到着。
「忠海ー大久野ー盛」とあり、本土と大三島をつなぐ便です。

乗り込むと係りの人に

「一番前に停めてください」

と言われました。
なんと、大久野島で降りる車はわたしのだけだったのです。
(この後一台バイクがきた)

ダッシュボードに「大久野」という札を置くように言われ、
デッキに上がっていると、何と5分も経たないうちに到着のお知らせ。
船着場に着いた後も目にも留まらぬ早業でブリッジが架けられ、
気がついたら大久野島に到着しておりました。

フェリー発着場はすでにうさぎパラダイスとなっております。
ここに来る人たちの目的はうさぎなんだね。

っていうかこの島にはうさぎと毒ガス工場跡しかないわけだが。

うさぎは人を見ると寄っていく習性が・・・ある訳ないだろ。
つまりここのうさぎは人に餌をもらって生きているらしいことが早くも判明。

休暇村行きのバスに乗り込むと、バスの運転手さんの上着が・・。
兎人と書いて「うさんちゅ」と読む。

ホテルのロビーには「うさんちゅコーヒー」もあり〼。

カフェも食堂も充実していますが、それもそのはず、
この島には食べ物屋さんというのは休暇村の中にしかないのです。

ホテルに荷物を預けて散策に出ましたが、チェックインの時

「禁煙お二人ですね」

「いえ、一人ですが」

「(一瞬の沈黙)」

やっぱりこんなところに一人で泊まる人って珍しいんですかね。
「囲む会」には合流する予定のTOですが、今日はどうしても仕事で、
結局わたし一人で来ることになっちゃったんだよう。

この沈黙に何か言わなければいけない気がしてつい、

「事情がありまして」

「はあ・・・・そうだったんですか」

いや、あまり深く考えないでね?

さあ、それでは気を取り直してうさぎに囲まれにGO!

ホテルの前にはすでにうさぎがよりどりみどり状態。
知らなかったんですが、うさぎって窪みに寝るのが好きなんです。

島のあちこちにはこのような窪みがあるのですが、これは
うさぎどもが落ち着くために掘りまくった穴。
見ているとあっちこっちで新しい採掘作業をしていました。

わざわざキャベツ持参でやってくる人たちもあり。

大久野島が昔毒ガス製造工場だった頃の遺跡が残っています。
防空壕を埋めた跡なのかな?などと思ったのですが・・・。


フロントで聞くと1時間あれば島内歩いて一周できるとのこと。
早速一周してみることにしました。

うさぎきたー。

ちょっと歩くと、うさぎが足元に走り寄ってきます。
フェリーの切符を売っていたところで、専用のうさ餌を売っていて、
観光客がそれを与えるほか、ボランティアがしょっちゅう訪れては
世話をしていくので、皆野生の精神を忘れたうさぎに成り下がっているのです。

そこで、わたしは

「5袋買うと1袋おまけ」

というセールス文句にまんまと乗って買った6袋のうさ餌のうち、
最初の一袋を最初に近寄ってきたうさぎに与えることにしました。

休暇村の隣には毒ガス資料館があります。
かつては村上水軍の末裔が住んでいたと言われ、明治時代には
4軒の家があるだけで全人口26人だった島は、
その後逓信省の灯台島隣、さらに日露戦争に備えた芸予要塞となって
島の各地に砲台が作られました。

そして、昭和4年以降は、大日本帝国陸軍によって毒ガスが製造される
「地図から消された島」となっていたのです。

この資料館には島内に残されていた資料や写真、遺物が展示されており、
入場料は100円です。
館内は一切撮影禁止。
この訳がよくわからないのですが・・・著作権とかの問題じゃないだろうし、
小冊子も売っているのになぜ写真を公開してはいけないんでしょう。

ここで製造されていたのは

血液剤催涙剤びらん剤嘔吐剤

の4種類の毒ガスでした。
また戦争末期には風船爆弾の製造も行われており、館内には

その素材も展示されていました。

「戦争の悲惨さを 平和の尊さを 生命の重さを」

訴える平和の島、というキャッチフレーズは、経年劣化により
ほとんど肉眼では読むことができなくなっています。

決して間違いではないけど、実のところこういう左翼的ウェットさが
わたしはあまり好きではありません。
ただ淡々と史実を隠さずに展示するだけで十分伝わると思うのですが。

問題提起をするなら、展示物も海外の博物館のように写真公開可にするべきです。

中に展示しきれなかった毒ガス製造用の陶磁器器具が外に置いてありました。

例えば左奥は塩酸や硫酸のタンク、右側の孔のたくさん空いた円盤は
イペリット(ルイサイト、マスタードガス、日本ではきい剤)を作る
素材を塩素化する釜の蓋です。

毒ガス製造にはこのように薬剤の影響を受けにくい陶磁器が多く使われました。

ちなみに「きい剤」というのは文字通り「黄」のことで、
陸軍では当時、一般向けに

ちや(茶) 血液剤 シアン化水素(青酸) 
みどり(緑) 催涙剤 クロロアセトフェノン 
きい(黄) びらん剤 マスタード(イペリット)
あか(赤) 嘔吐剤 ジフェニルシアノアルシン
あを(青) 窒息剤 ホスゲン
しろ(白) 発煙剤 トリクロロアルシン

などと色の名前で毒ガスを呼んでいました。
このうち青と白だけは大久野島では生産されていなかった薬剤です。

島内の毒ガス製造工場で働いていたのは最盛期で2000人、
延べ6000人弱と言われています。
工場の資材などをすべて植樹で覆い隠していたため、
米軍の偵察機もここに軍需工場があるとは最後まで気づかず
結果として一度も空襲を受けることはありませんでしたが、
島内には防空壕跡が残されています。

この比較的大きな防空壕は「幹部用」ということです。

現地派遣の陸軍将校や工場幹部だけが使用を許された防空壕。

中はコンクリートのかまぼこ型でそのトンネル状の壕には土が被せられています。
内部は高さ2m、幅2m、長さ約5mと結構な広さでした。

地下に掘られた防空壕の反対側出入り口。
左右どちらからでも逃げ込むことができました。

ちなみに従業員の待避壕は、奇遇というのかタチの悪い冗談とでもいうのか、
今ここで生息しているウサギが自分用の穴を掘るように、
地面に1mくらいの穴をいくつか掘っておいて、万が一の時には
逃げ込んでから上に草木を被せることになっていました。

通称「たこつぼ」というこの退避壕、実際に空爆されていたら
ほとんど防御の意味をなさなかったに違いありません。

その前に工場が破壊されて有毒ガスが流れ出す可能性もありました。
何れにしても攻撃されていたら島は壊滅していたのです。

つまり島内の斜面に見られるこれらの石垣は、防空壕の跡などではなく、
昭和30年代にここをリゾート地にする計画ができ、
休暇村が建設された頃に斜面の補強のために作られたもののようですね。

今現在、この海岸は海水浴場になっています。
うさぎの島となったのは2015年からのことで歴史は浅いですが、
現に観光客のほとんどがうさぎをモフるためにきているので、
島の方も思いっきりうさぎをフィーチャーしています。

 

しかし、戦後この近海では、投棄された毒ガスのボンベなどを拾った
周辺の漁師が被害に遭い死亡するなどという事件も起こっています。

戦後、毒ガス工場の痕跡を消す作業はまず旧日本軍が行いました。
敗戦後一週間にわたって、周辺海域にボンベや製造機械を何でもかんでも
投棄したそうですが、中止命令が出ました。

10月に改めて占領国となったアメリカ陸軍の化学処理部隊がやってきて
ガスの一部と発射筒を焼却、やはりほとんどを海中投棄しています。

イペリットやルイサイトも瀬戸内海のどこかに投棄しようとしたのですが、
機雷の掃海作業が始まっていたため、それは断念したそうです。

ついで処理にやってきたのは中国・四国地方を管轄していたイギリス連邦占領軍でした。

アメリカ陸軍の少佐が指揮をとったこの作業は、瀬戸内周辺の毒ガスを集めて
焼却、土佐沖での海中投棄の後、島全体に次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)
を撒くというものでした。

この時、帝国人絹(帝人)はこの島にあった

「海水から塩を作る機器」

を帝人工場に転用する契約を結んだため、処理に参入して最前線で作業を行なっています。

この時指揮を執ったアメリカ陸軍の「ケミカル・エキスパート」、
W・E・ウィリアムソン少佐(右)は作業をするうちルイサイトに被災し、
体調を崩していっとき戦線離脱しましたが、

「イペリット遺棄作業はイギリス連邦占領軍の敵兵器処理班の手に負えない」

という考えから(信用してなかったんですねわかります)
回復してから復帰して作業をやり遂げています。

さて、こんな感じで遺構を眺めながら、そして道中好みのうさぎがいたら
バッグに隠し持ったうさ餌をやろうと思い、一本道を歩いて行くことにしました。

すると見るからに美貌の(うさぎにも美醜あり)白うさぎが出てきたので、
餌をまいてやりました。

すると後ろから大人うさぎが突進してきました。
仲良ししているのではなく、大人が子供の餌を横取りしようとしているのです。

穴掘り作業中のうさぎ。
ところでうさぎの目ってこんな怖かったっけ?

船が通行する大三島との海峡を望む海岸には、
スコープを覗いて船の速度を調べる方法が書いてありました。
大三島の端から端まで通過する時間を計り、距離とされる
850mを秒で割って時速を出す。

よっぽど暇ならやってみてもいいけどなあ・・・。

この最後に書いてある1999年のギネス記録によると、
世界で最も速い船の速度は時速511kmってのがすごい。
新幹線の二倍って、これなんの船?

海岸の次にはキャンプ場がありました。
キャンプ場には柵があって中にうさぎが入れないようになっています。
テントの周りにうさぎがうろうろしていると可愛いですが、
やっぱり落とすものを落として行くのでね。
(ただし兎の糞は外気にある以上ほとんど無臭、踏んでも問題なし)

このうさちゃんはキャンプ場外のバーベキューテーブルの近くで寝そべっていました。

フェリー発着場まで来ると、高校生の集団とすれ違いました。
近隣の高校が校外学習とかに来ているんでしょうか。
その辺にたむろってうさぎを構い出します。

その中で女の子に「可愛い〜!」と言われまくっていた白うさぎ。
うさぎは白くて当たり前、なんですが、なぜかここでは希少種です。
確かにこの子は茶色や黒のアナウサギとは別の種類で、オーソドックスな
赤い目の「普通のうさぎ」でした。

アナウサギは実は侵略的外来種ワースト100の一つだったりします。

ところでてっきりわたしはここにうさぎがいる訳を、

「毒ガス工場で実験用に使われていたうさぎの生き残り」

だと思っていたのですが、実は実験用のうさぎは戦後、
おそらく毒ガス処理の際に殺処分されてしまい、生き残りも
当時の食糧難のあおりを受けて人々に食べられてしまいました(-人-)ナムー

現在ここにいるウサギは、1971年当時ここにあった小学校で
飼われていたうさぎ8羽の子孫だと言われています。

国民休暇村になった時、マスコット的な動物を入れることになり、
サルやシカなどが検討されたそうですが、結果この8羽を祖として、
現在では鼠算式に増えた結果、700羽になっています。

フェリー乗り場までやってきて自分の車の横を通り過ぎたら
下でうさぎが寝ているのに気がつきました。
明日車を動かす時に下にうさぎがいないか気をつけよう、
と考えながらわたしは島を海岸に沿って歩いて行きました。

 

続く。

 


呉艦船めぐりふたたび〜ピンクの巨大コンテナ船

2018-11-01 | つれづれなるままに

今日のお話の前にこの写真を見ていただけますか。

予約していた不肖宮嶋茂樹氏の写真集、

「鳩と桜 防衛大学校の日々」

が昨夜手元に届きました。
一般書籍として売られているわけですが、装丁からは
まるで「防衛大学校卒業アルバム」の雰囲気が漂っています。

注文しようとして驚愕したのが9,180円也というそのお値段ですが、
このことを知り合いにいうと、

「写っている防大生の親は必ず買いますから」

なるほど、それで卒業アルバム仕様なのか・・・。

不肖宮嶋氏ご本人によると

「防衛大学にも入学要綱やパンフレットはあるが、
外国からの要人にもうすぺらいパンフを贈呈するのも
ちょっとばつ悪いときもあるかなということで、協力をいただけた」

ということです。
なるほど、防大からも要人用に購入が見込まれるということですね。


しかし、防大生の親でなくとも、不肖宮嶋氏が防大に密着して
レンズを覗き続け、撮影した防大な、いや膨大な数の写真から選ばれた
防大生たちの姿には心を揺さぶられること請け合いです。

例えば昨年の音楽まつりでわたしは儀仗隊を撮影する
不肖宮嶋氏のお姿を見かけてここで紹介しましたが、
写真集には
儀仗隊の写真は一枚だけしか掲載されていないのです。

開校記念祭での棒倒しも5カットでうち2カットは応援団。

1年前の練習艦隊帰国行事にも不肖宮嶋氏は、本作出版元である
文藝春秋の腕章をつけて撮影しておられましたが、
練習艦隊下艦の時にはもう任官していて「防大生」ではないためか、
その時に撮られた写真は一枚もありませんでした。

それだけ選りすぐりの写真だけが掲載されているということは、
実際に手に取ってを見れば深く納得できる写真集だといえます。


かつて海軍兵学校の生徒を写した「ああ江田島海軍兵学校」のカメラマン、
直継不二夫氏は、そのあとがきに

「写真を撮られている時生徒たちはレンズになんらの関心も払っていない」

と驚愕したことを残していますが、この「鳩と桜」においても、
訓練中の彼らの様子からは雑念を全く感じさせないひたむきさと
ピンと張りつめた心身の緊張が痛いほどに伝わってきます。

「ああ江田島」との大きな違いは、今時らしく、恒例の
卒業ダンスパーティの
写真が結構な数(5カットも)あることでしょうか。

あとは男女一人ずつ使って、結構色々ある防大の各種制服を
「制服図鑑」として紹介していることで、家族関係者だけでなく、
防大ファン(というジャンルがあるのかどうか知りませんが)にも、
お勧めの一冊であると思います。

さらに不肖宮嶋氏ご本人の言葉をブログから転載しておきますと、

「これから防衛大学への入学をめざそうとする受験生の皆さんはぜひ参考に。
現役の防衛大生、OB,OGの皆様は青春時代の思い出に。
そして開校以来65年もたつのに、あまり知られる機会が少なかった
防衛大学の日常をぜひご覧になっていただき、将来の国防を担う
幹部自衛官がどうやって育てられるか目にしていただき、
ご安心あれ。」

写真集装丁箱の裏側の写真で目を引くのは、
一本に続く長い長い線。
全然意味は違いますが、アメリカ陸軍士官学校の象徴的な言葉、
「ロング・グレイ・ライン(長き灰色の線)」を思い出しました。

そういえば不肖宮嶋氏がこの写真集を撮るきっかけというのも
アナポリスの写真集を手にしたことだったといいます。

 

 

 

さて本題です。
呉に来たものの、その日の午後からなんの予定もなくなった、

ということになったとき、あなたはどうしますか?

わたしに思いつくのは、大和ミュージアムか港めぐりくらいのものだったので、
「てつのくじら館」で呉総監ドックをお約束通りお昼に食べ、
さてどちらにしようかとミュージアムまでぶらぶら歩いて行くと、
大和ミュージアムの横で看板を持ったクルーズの客引きに声をかけられました。

「30分後に出航しますよ」

同乗するのが中国人だらけだったら嫌だなあと思いつつ、

「混んでます?」

と聞くと、さっきのツァーの半分もいない、という返事。
トワイライトクルーズで自衛艦旗の降下を見ることも考えましたが、
今にも雨が降りそうだったので、諦めて30分後の便に乗ることにしました。

時間にデスクの前に行くと、客引きさんが解説者も兼ねていることが判明。
わたしがカメラを持っていたせいか、

「後ろの席に座ると船の両側に移動して写真が撮れますよ」

と乗艦時に声をかけてくれました。
デッキの後方には反応してくれた自衛官に振るための旗が立ててありますが、
それとは別に添乗員が配ってくれたのがこの自衛艦旗。

「今なにかと話題の自衛艦旗ですけど」

と言いながら配り、さらには憤懣やるかたないといったご自身の、
この件に関するコメントをズバズバ言っていてヒヤヒヤしました。
元自衛官なら、まあその気持ちはわからんでもありませんが、
何しろ昨今、
どんな面倒臭い人が乗ってるかわかりませんからね。

5分前にデスク前に集合し、それから桟橋まで歩いて乗船し、
乗船したと思ったらあっという間に出航していました。

ところで今見えている岸壁は年代物に見えますが、
やはり旧海軍時代に建造された部分なのでしょうか。

さていよいよクルーズの始まりです。
解説は必ず最初にてつのくじらである「あきしお」の説明から。
あきしおの手前には「しんかい」があって大きさの違いが比べられます。

「あきしお」の手前に戦艦の測距儀部分のようなものが見えますが、
公園に戦艦「大和」の甲板部分と同じ大きさが再現されていて、
ちょうどここに艦橋があるという設定なのです。

昔、大和ミュージアムを観に来たところてつのくじら館と共に
休館日だったため、仕方なく息子とこの公園で遊んだので知ってるのですが。

早速JMUのドックに入渠している艦番号158「うみぎり」に遭遇。
これ、何をしているかわかります?

予想なんですけど、主砲の砲身を点検か付け替えしてるんじゃないかな。
全体をカバーで覆ってあるし、今見えているブルーの砲身は
ダミーかあるいは新しいブツのカバーじゃないかと思うんですが。

ところで、BSの「ディア・ボス」ご覧になりました?
芸人さんが突撃体験の一環としてなんと潜訓でダメコンをして、
(させられて?)マジになっていた(怒ってた?)のには驚きましたが、
それはともかく、番組中、彼らが呉港で撮影したシーンのバックに
ことごとく写り込んでいましたよね。

このピンク色の物体が。

今回呉に来て結構驚いたのが、建造中の巨大なピンクの船です。
喫水線下の錆止めの赤とのコンビってなんちゅうカラーリングや、と、
遠目に見た途端呆れかえったのですが、近くで見るとこれがまたすごい。

14000tのコンテナ船、「ONE GRUS(ワン・グラース)」です。

Grus、って星座の「ツル座」のことなんですって。
全長364mということなので、「大和」より100m大きいということになります。

この船について調べるとどの記述もこの色を「マゼンタ」と称しているのですが、
実際見たところ紅紫色と称されるマゼンタというより、
「濃い蛍光ピンク」にしか見えないという・・・・。

しかしこの巨大な船になぜわざわざこの色を選んだかね。

並んでいるのが同型船の「ONE COLUMBA(ワン・コルンバ)」
コルンバは「はと座」(ってのがあるんだ・・)の意味で、どうやら
この船は「ONE+鳥系星座名」という命名基準のようです。

解説の人がクイズを出しました。

「どのくらいで一隻が完成すると思いますか」

近くに座っていた女性が

「半年・・・?」

「当たりです!」

半年でこの巨大なコンテナ船ができてしまうなんてすごいですが、
わたしはまた別のことを考えていました。

「半年もの間、呉の人はこのピンクの塊を毎日見せられてるんだ・・」

目立つという意味ではこんな目立つ色もありませんが、
はっきり言ってなんというか・・・・イラっとくる色なんですよね。

一般的にピンクというのは女性ホルモンを分泌させると
医学的にも認められた色ですが、
こちらは同じホルモンでも焼肉でおなじみの
「朝◯ピンク」といいますか(この意味わかる?)。

上品どころかその正反対である!と「裸の王様」の子供のように叫びたい。

鳥の星座の名前を付けるならもう少しそれらしいシルバーとか、
イメージに添った色というものがあるんじゃないかと思うんですが。

タグボートが押す場所を指定してあります。
このピンクの塊に立ち向かっていく曳船のクルーの身になってほしい。
絶対目がチカチカするわ!

さて、という話はそこそこにして。
今回のクルーズで唯一すれ違ったのはタグボート「なさみ丸」。

三陽海事という曳船事業がメインの会社のタグだそうですが、
この三陽海事、本社が大阪駅前第2ビルですって・・。
懐かしいというか、関西にいた時のことを思い出すなあ。

客引き兼添乗員が言ったように、確かにこのツァーは人少なめ。
余裕で好きなところに座ることができ、さらに写真を撮るため
後部のデッキをもう一人のカメラ持ちのおじさんと一緒に
右往左往することができました。

おじさん「ここにもたれると揺れても大丈夫だよ」

わたし「すみません。ありがとうございます」

人多すぎだと、場所取りで殺気立つ傾向にあるカメラ持ちも、
これだけ余裕があれば和やかなもので、つい

「金持ち喧嘩せず」

という金言を思い浮かべたりします。

添乗員は話を聞いていると、

「三年前に退官した」「掃海母艦に乗ったことがある」

ということまではなんとなく端々からわかりました。
このツァーは元自衛官が解説を行うので、どこかの軍港クルーズのように
聞きかじりで適当なことを言わないのが大変評価できます。

ここからは自衛隊基地に係留されている自衛艦たちです。

訓練支援艦「くろべ」JS Kurobe, ATS-4202

「黒部」というと真っ先にダムが浮かびますが、訓練支援艦の命名基準は
初代の

「あづま」群馬県吾妻峡(ただしこちらはあがつまきょう、と読む)

現役で次級である

「てんりゅう」長野県天竜峡

と同じく渓谷です。

訓練支援艦とは、主に対空射撃訓練支援用に無人標的機を管制する艦艇で、
その甲板にはオレンジ色のドローンの姿が確認できました。
(焦点がどうしても手前のネットに合わさってしまいすみません)

「くろべ」はBQM-74EチャカⅢBMQ-34AJファイアービー、という
二種類の標的機を積んでおりますが、こちらはチャカIIIの方。
日本電気がノースロップ社と提携して作ってるそうです。


そうそう、話題はそれますが、ノースロップといえば!

さっき息子とサンクス・ギビングのことでスカイプしていて、
彼がボランティアで参加している大学救急隊の先輩が、この度、
ノースロップ社かロッキード社どちらかに就職が決まったという話を聞き、
当たり前なんですが、やっぱりアメリカの工科大学なんだなあと感動しました。

ちなみに息子のようなインターナショナル・スチューデントは、どんなに優秀でも
ノースロップ、ロッキード、GEの武器部門、レイセオンなど、
軍需会社に入社することはできません。(多分これからは中国系米人も難しくなる)

先輩はこの後、アメリカ国籍が正当なものであるかとか、
バックグラウンドに怪しい人物がいないかとか、
(急に中国人と結婚したりした人が親戚にいたらアウトかも)
そういう厳しいスクリーニングを経て正式に入社が決まるのだそうで、
入社のあかつきには、F-35に関わる仕事に就くことになっているのだとか。


余談ついでに、息子がボランティアをしている救急隊というのは
大学の救急車に実際に乗り込んで傷病者を緊急搬送することができる
資格を取り、
そのレベルに応じて「ルテナント」「キャプテン」などの
階級も貰えるそうで、
息子は参加してわずか1週間くらいで

「貴様は見所がある」(英語で)

というF-35先輩の鶴の一声によってすでに一階級昇進したんだそうです。
(ただし今階級がなんなのかはわからず)
救急隊の制服もあるんだそうですが、あまりに警官のと似ていて、
「安全上の理由で」、つまり警官と思われると不当な襲撃を受ける恐れがあるので
パレードの時くらいしか着用することはないそうです。

しかし、こんな形で我が息子が本物の「中尉」になるとは思わなんだ。

 

全く関係ない話で終わってしまってすみません。


続く。

 

 


緊急連絡:ブログ開設しなくても大丈夫だそうです

2018-10-28 | つれづれなるままに

ブログを開設しなくてはコメント投稿できないらしいと聞いて、
前回その旨お知らせしましたが、
つい最近、初めてコメント投稿してくださった方から

GooIDの件ですがブログを運営しなくても登録出来ますとアンノウン様にお伝えください。
新たにID、パスワードの入力を行えば大丈夫ですとお伝えください。
小生もブログは運営しておりません!

という情報をコメント欄にいただきました。
これまでのやり取りでメール交換をしていた方からは、
各々お別れの挨拶などいただいていたのですが、

そういうことですので、ぜひお試しいただきたいと存じます。

お騒がせいたしました。

あー、よかったー!


卒業式

2018-06-04 | つれづれなるままに

「いずも」電飾の欄にも少し書きましたが、先週末息子が高校を卒業しました。
公立校しか知らなかったわたしには私学の卒業式は初めてのこと(そして最後)です。
ちょっとイベントとしても面白かったので、この場を借りてご報告します。

全てにおいて物事を確認するのが後手後手に回る傾向のわたし、
息子に「卒業式っていつだっけ」と聞いたとき、実は同日に行われた
阪神基地隊の開隊記念行事に行くという返事をした後でした。

「大抵のことなら自衛隊行事を優先するわたしも、流石に息子の卒業式とあっては
人(の親)としてそちらを優先せざるを得ません」

そう返事をして泣く泣くお断りを入れたのでした。

卒業式は二日にわたって行われます。
一日目の最初に行われるのが、近くの教会での卒業ミサ。

大変由緒のあるカトリック教会です。
学校には教会もあり、チャプレンもいますが、いろんな宗教の生徒が
集まってくるということもあって、宗教的な行事を強制されることはなく、
学期の最初と最後に出席をすればあとは自由参加です。

しかし卒業の時だけは正式なミサを荘厳に執り行うことが決まっています。

教会の前方に見えるこの日本画はキリシタン弾圧で殉教した親子でしょうか。

聖堂の後方にはパイプオルガンと聖歌隊のバルコニーがあり、
生徒と音楽の先生が演奏を行なっていました。

卒業生入場後、司祭が振り香炉による炉儀を行います。
ちなみにこの炉儀はカトリック教会のみで行われます。

ミサは聖歌と経文の合間に信徒たちが「アーメン」とか「聖霊とともに」
といって合いの手(っていうんじゃないと思うけど)を挟んで進行します。

ミサ全体で約1時間を要します。

そして司祭がお高いところからお説教を行いました。

その後、卒業生に対し司祭から神の祝福が授けられます。

ガウンと角帽は事前に用意し、写真撮影と床からの裾の高さを調整し、
本番に臨むことになっています。

帽子のタッセルは、卒業式の最後のセレモニーの瞬間まで、
左側にしておかなくてはなりません。

ミサが終わり、両側に卒業生が立ち、参列者は知り合いに挨拶しながら通り過ぎます。

ジスイズマイサン。

最後は階段に並んで全員で記念写真。
このあと、アワードの授賞式のために学校に全員で移動します。

学校のオーディトリウムのスクリーンでは、卒業旅行の画像が映し出されていました。
群馬の山中でレンジャー訓練、じゃなくて、ラフティングとか滝に飛び込むなど、
ワイルドな活動を行ったそうです。

そのうち卒業生が入場。
これは先日行われたばかりのプロムでの一コマ。

息子(右から三番目)にはこのためにスーツと靴を新調してやりました。
彼はブルーのドレスの娘に花束をあげた(恒例に則って)ようです。

この日のイベントは、成績優秀者の表彰です。

まず、先生が二人、掛け合い漫才のようにユーモラスに生徒全員の紹介を
エピソードを交えながら行います。

そして、各科目について、「メリット」そして「ディスティンクション・スタディーズ」
という優秀賞が最初に授与されます。

最初の生徒はもらえる賞が一つとか二つですが、表彰が後に近づくにつれ、
数がだんだん増えていくのです。
もちろん全くもらえない生徒もいます。

これは実にわかりやすく成績の順番がわかってしまうシステムでもあり、
あとでTOと

「もらえない子には意味残酷なセレモニーかもしれないね」

「もしかしたら成績発表の前に先生たちが生徒全員について触れるスピーチをしたのも
私たちは成績だけで生徒を見ているんじゃないという気遣いなのかな」

などと話し合ったものです。

途中でプレゼンテイターが代わり、そこからは「メリット」だけでなく、
「アウトスタンディング・コントリビューション」という
「特にその教科に優れているで賞」が授与されるようになってきます。

ここからが兵学校で言うところの恩賜の短剣組です。

ムスコが♪───O(≧∇≦)O────♪キター

4教科でのアウトスタンディング・コントリビューション、6教科でのディスティンクション、
そして6教科でのメリットを戴きました。

親としては、専門にする予定のフィジックス(ハイレベル)で
アウトスタンディング略をもらえたのがとても嬉しかったです。

 

そしてか学校からの賞とは別に、日本文化の普及を推進する協会から、
特に歴史の先生の推薦を受けて「日本の城」についての論文に対し
特別賞を戴きました。

「教師の私自身が初めて知る視点を与えられるほど素晴らしい研究だった」

賞品は木製の(多分日本産)ケースに入った木製ボールペンです。

さて、戦いすんで。(戦いじゃないか)
わたしとTOは学校近くのカフェにお昼を食べにいきました。

そこで食後のデザートに出てきた生プリン。

ニワトリさんの中には黄身が内蔵されていて、それをこのように
ポトンとプリンの上に「産み落として」戴きます。

一つをシェアしようと言ったのに、甘い物好きのTO、
抹茶掛けバージョンをお代わりしました。

このニワトリさんは即お買い上げとなりました。

明けて次の日、実はわたしは前日の「いずも」撮影で疲れたままでしたが、
学校で卒業式の本番が行われました。

「威風堂々」の調べに乗せて全員が入場します。

卒業演奏というのか、プログラム最初にMKがアレンジし、
セレクトしたメンバーで「シェルター」が演奏されました。

ちなみに譜面を書いてやったのはわたしです。

Porter Robinson & Madeon - Shelter (公式ビデオ) (A-1 Pictures & Crunchyrollによるショートフィルム)

シェルターとは「庇護」を意味し、巣立つ者がそれまでの庇護者に
感謝を込めて送ったメッセージ、というのが歌詞の内容です。

「シェルター 日本語訳」

続いて四人の卒業生による「思い出ぽろぽろ」。
笑いを交えて学生時代の思い出を振り返りました。

そして、一人一人が親や友人に対するメッセージとともに名前を呼ばれ、
卒業証書を受け取ります。

ここから「タッセル・セレモニー」が行われます。

左側に垂らしていたタッセルを、スクールマスターの掛け声とともに、
一斉に右側に移動させるのです。

タッセルを掛け替えることは一つのステージを終え、
新しいステージに向かう準備をおこなう、という意味があります。

準備を整えた卒業生たちは近くの者と抱き合って祝福しあいます。

最後に全員での「イッツ・タイム」(グリー)の合唱。
この時に何を歌うかは半年くらい前から協議して投票で決まりました。

MKはこの時、パーカッションを担当しています。

退場は二人ずつ・・・。

ですが、二人で打ち合わせてちょっとしたパフォーマンスをします。

ファイトー一発!

ケータイで自撮り。

ダンスは基本。

コマネチ・・・?

レセプションまでの間、幼稚園時代の教室を見て思い出に耽りました。

ここからは体育館でのアフターセレモニー。
卒業生は自分の知り合いや先輩後輩に招待状を出し、
招待された人は花やメッセージを持って訪ねてきます。

後輩。

主席と次席。

友達のお母さん。

仰げば尊し和菓子の恩。

ガールフレンド?(じゃないと本人談)

訪ねてきてくれた人とは必ずハグ。

親友。

息子(手前から三人目)とその友人たち。

友達とそのおばあちゃん。
おうちに泊まりに行った時にはカレーをご馳走になりました。

a

二人を撮っていると、あっという間に周りから人が集まってきて、
結局集団写真になります。

最後のイベントが帽子投げ。
これをもって、息子はめでたく学校を卒業いたしました。

 

長いようであっという間の18年間、秋からは親元を離れていきますが、
彼を生んでから今日まで、何か夢でも見ていた気分です。

母親としては寂しいような気もしますが、これからの彼の人生を
遠くから見守ってやりたいと思っています。

 

 

 

 


平成29年度 年忘れ絵画ギャラリー

2017-12-31 | つれづれなるままに

 

今年もあっという間に最後の日になりました。

恒例の絵画ギャラリーをしようと思ってフォルダを確認したところ、
本当に今年は絵を描くことがあまりなく、いつものように「映画」「ネイビー」
など分けるほどもなく、1日でまとまってしまうことが判明しました。

見学したり自衛隊関係のイベントに参加することが多くなったので、
勢い絵を上げる回数も少なくなってしまうわけです。

冒頭画像は年明けすぐにアップした映画「勝利への潜航」挿絵です。

映画「勝利への潜航」前半

映画「勝利への潜航」後半

ちょうどナンシー・レーガンが亡くなり、その流れでこの映画で
二人が共演していたことを知って観てみました。

画像の二人は主人公の潜水艦艦長と副長。
映画は、艦長のミスによって部下の命が失われ、そのことに
副長が強く反発し、二人で対日本通商破壊作戦に参加するうち、
次第に互いに対する信頼が芽生えてくるという人間関係を横糸に、
当時多くの民間船と民間人が命を失った「オペレーション・バーニー」
に参加する潜水艦の戦闘を縦糸に進んでいきます。

潜水艦映画に駄作なし、という言葉を裏切る作品、とまで日本では
酷評されていたのは何故なのかを見極めてみようと思いました。

と言うか面白くないという映画にツッコミを入れたいという本能ですね。

「ヘルキャッツ・オブ・ザ・ネイビー」

これが原題です。
ヘルキャッツというと飛行機しか知らない我々にはピンとこないのですが、
「オペレーション・バーニー」という群狼作戦で、レーガンの潜水艦が
「ヘルキャッツ」という潜水艦部隊に加わっていたことから来たタイトルです。

また、冒頭に、当時バークレーに住んでいたニミッツが、自分のうちの
「フリートアドミラル」と書かれたポストと一緒に出演して、
その時この作戦が自分のの立案だったと誇らしげに言い切っております。

感想として一言余計なことをいっておくと、のちのレーガン夫人、
ナンシー・デイビスが、
あまりにも良妻賢母タイプすぎて、映画の

「艦長と付き合っているのに自分の女としての実力を知りたいと言う理由で
別の男(しかも彼氏の部下)の膝に乗って気を引く魔性の女」

には到底見えなかったことですかね。
どうして死んだ乗組員の片思いということにしておかなかったのかと思います。


映画「海軍」昭和18年版〜海軍兵学校入学

映画「海軍」昭和38年版〜「海軍兵学校入学」

真珠湾の九軍神の一人、横山正治少佐をモデルにして、彼と海軍を描いた
岩田豊雄の小説「海軍」の映画化作品を取り上げました。

この「海軍」シリーズでは、わたしは

昭和18年版映画「海軍」

昭和38年版映画「海軍」

原作小説「海軍」

について全てを取り上げ、各方向からのアプローチを試みました。
戦前と戦後では当然同じ原作を元にしていても、違ってくるものがあるだろうという
わたしの予想は怖いくらいに当たりました(笑)

当たり前ですね。
海軍省の後援で戦時中に作られたものは「国策映画」であり軍神となった
特殊潜航艇の搭乗員たる横山少佐の死を讃え、顕彰するのが目的。

青春スター総出演となった戦後版は、尊い任務を帯びて死んでいく軍人と
彼を慕う女性のひたむきな気持ちに焦点を当てた悲劇として描かれたからです。

両作品とも、主人公が青雲の志を持ち海軍兵学校に入るまでを前半、
後半が真珠湾作戦に出撃するまで、と同じ分け方をしました。

したがって、どちらの作品の挿絵も前半は登場人物の紹介、
後半は
特殊潜航艇の中の主人公谷正人の姿を選びました。

小説「海軍」〜古本に見つけたある書き込み

二つの映画を観たあと原作の小説を読み、あまりにも多くのことが
映画の表現から抜け落ちているのにちょっとした衝撃を受けたため、
最終企画として、二つの映画では描ききれなかった原作のエピソードを
本文を抜粋しながら紹介するということをやってみました。

ただし、もう新たに絵を描く余力が残っていなかったので、
この章はネガポジ反転させて加工した画像でお茶を濁しました。


ところで、ここまで来てハッと気がついたことがあります。
先日ご紹介したばかりの、本年最後に紹介した映画「ペチコート作戦」まで含め、

今年紹介した映画は全部潜水艦映画だったことです。


映画「人間魚雷回天」〜出撃前夜

まあそれだけ「潜水艦映画に駄作なし」ってことなんだろうと思います。
この「人間魚雷回天」は、海軍予備士官だった松林宗恵監督作品。

回天特攻に行く予備士官たちを当時の第一線俳優たちが演じました。

こういうキャラ分けがされた映画の出演者たちの絵を描くのは好きです。


それにしても、これだけのトップ俳優を使いながら、
わたしには残念ながら全員演技力はあるとは思えませんでした。
あえて演技力だけをランク付けすると、

宇津井<木村<沼田<岡田

という感じかな。(あくまでも個人の感想です)

特にこの頃の宇津井健は、セリフ以前に顔の表情が全く動かせない能面演技で、
演技力未満という感じだったのが意外でした。

映画「人間魚雷回天」〜出撃

木村功演じる玉井少尉と津島恵子の幸子、この二人の恋人が
最後の時間を夜の海辺で過ごし、お姫様抱っこをして歩くシーン、
これを観たときにぜひこれをタイトルにしたいと思い描いてみました。

ここだけの話ですが、木村功の足の長さはかなりサービスしています(笑)

実は後から気づいたのですが、この二人、前年に公開された黒澤明の
「七人の侍」では
「勝四郎」「志乃」として惹かれ合う役柄なんですよね。

この映画の二人も当時の観客にはそのイメージで捕らえられていたはず。

 

超蛇足ですがこの出演者たちはもう全員鬼籍に入っています。

木村功  1981年 58歳

岡田英次 1995年 75歳

沼田曜一 2006年 81歳

津島恵子 2012年 86歳

宇津井健 2014年 82歳

岡田英次は東大卒の予備士官役でしたが、実際は慶應義塾大卒、
沼田曜一は慶応卒の役で実際は日本大学卒、
木村功は文化学院卒、
宇津井は早稲田大学で役と同じです。(ただし中退ですが)

それにしても木村功の早逝が惜しまれます。
後せめて10年長生きしていたら、良い役柄をたくさん残せたのに・・。


映画「人間魚雷回天」〜散華

回天を搭載した伊号潜水艦内での彼ら搭乗員の姿。

最後の攻撃シーンを正確に、そして誠実に描くことで、この映画は
「最高の回天映画」といえる作品になり得たのだと思います。

覚悟ができているはずの隊員たちの額ににじむ汗、
出撃が一旦中止となった時の動揺と苦悩、そして最後の瞬間目を瞑る姿。


彼らが出撃中止命令を受けた瞬間の、額に汗をにじませた
表情を描いてみたいと思いました。


激闘の地平線〜不良(おれ)が自衛隊に入った理由(わけ)

潜水艦映画じゃないじゃないか!とおっしゃるあなた、お言葉を返すようですが、
この映画をアップしたのは2016年の暮れのことですのでセーフです。


という訳で、なぜか「戦争映画コレクション」で配信されたDVDに入っていた
陸自のレンジャー隊員を主人公にした映画。

調べるほどに、この頃の世間一般の自衛隊に対する見方やイメージが
限りなくマイナーなのがわかって愕然とさせられました。

この頃レンジャー課程の創成期(設立2年後)。
当時映画界に不信感を持ちまくっていた自衛隊がこの映画に協力したのは、
レンジャーを世間に広報したかったんだろうなという裏側が透けて見えます。

というわけで冒頭で「警察予備隊時代からの自衛隊とメディア(の対立)」
について多くを割いて語ってみました。


本作品出演俳優でその後名前の残っているのは三ツ矢歌子と沼田曜一だけ、
主人公の松原緑郎さんは松原光二と芸名を変えてしばらく活動していましたが、
70年代には表舞台から姿を消しました。

もう少しお金があれば、主人公には新人ではなく人気スターを使い、
演出も凝ることで映画の評価は少し変わっていたかもしれません。

激闘の地平線〜自衛官(かれ)が殺意を抱いた理由(わけ)

陸自のレンジャー課程を広報するという主目的で作られた映画で、確かに
富士学校周辺で自衛隊の大々的な協力によって行われたロケ部分には
見るものがありましたが、それ以外があまりにもお粗末。

女性自衛官に一目惚れして入隊し、彼女の婚約者がレンジャー隊員だと
嘘をつかれてレンジャー課程に進む。

動機としては百歩譲ってありだとしても、陸曹になるのもレンジャー隊員も
いくらこの時代とはいえこんな簡単になれたら誰も苦労しませんわ。

・・・え・・・もしかしたら本当に簡単だったとか・・・?


アメリカ海軍サブマリナーの肖像その1

「潜水艦のふるさと」(ホームタウン)とアメリカ人の言うところの、コネチカット州ロンドン、
川のほとりのグロトン潜水艦基地に、潜水艦博物館があります。

東海岸滞在中、コネチカットに行く用事があったので、見学しました。

そこでの見学は報告するのに何日もかかるほどのネタを提供してくれましたが、
潜水艦博物館で特に「ヒーロー」としてコーナーを設けて紹介されていた
サブマリナーたちに焦点を絞ってお話ししてみました。

左から時計回りに

ジョン・フィリップ・クロムウェル大佐 

  潜水艦隊司令官旗艦「スカルピン」とともに自沈

リチャード・ヘザリントン・オケイン少将

  敵撃沈記録歴代一位の艦長 日本での捕虜経験あり

ジョージ・レヴィック・ストリート3世

  「ティランティ」艦長 

ヘンリー・ブロー水兵

  仲間を救うために事故で沈没していく潜水艦に戻った 生還

 


アメリカ海軍サブマリナーの肖像その2  

ローソン・パターソン・ラメージ中将

  「隻眼のサブマリナー”レッド”」と言うあだ名が全て

ユージーン・ベネット・フラッキー中将

   撃沈船舶トン数歴代一位の艦長「雲鷹」も彼の手によって沈む

サミュエル・デイビッド・ディーレイ少佐

  「サブマリナーズ・サブマリナー」「ハーダー」艦長として戦死

ポール・フレデリック・フォスター中将

  史上初めて敵艦を攻撃した潜水艦艦長 ただし相手はメキシコ 

  

本当は、アメリカ軍人でなく日本の潜水艦艦長について書いてみたいのですが、
いかんせん日本では潜水艦艦長の名前が歴史として残ることもなく、
(佐久間大尉除く)そもそもほとんどの潜水艦はどこでどんな最後を遂げたか
わからないままに海に沈んだので、資料などが全くないのです。

さらには生きて帰ってきた艦長は、ごく一部を除いて戦後ほとんどが
戦争について語らずひっそりと市井の人としてこの世を去ったからですね。

日米彼我の戦争と戦争にいった人たちに対する考え方の根本的な違いが
こういったことにも表れていると思いました。


こうしてアップした絵が少ないのを見ると、今年は実働で忙しかったんだなあ、
と実感しますね。
来年はどうなるかわかりませんが、よろしくおつきあいください。

 

それでは皆さま、良いお年を。

 

 

 

 


靖国神社に初詣

2017-01-04 | つれづれなるままに

三が日も終了しましたが、みなさま、どんなお正月でしたでしょうか。

我が家は元旦を親子別々に迎えたので、二日は家族で過ごすことにして、
まずはお正月らしく歌舞伎を観に行きました。 

新春公演の初日で、お目当の演目は「大津絵道成寺」。

TOの知人がこの日三味線で出演していたことがきっかけですが、
息子が学校の歴史のクラスで歌舞伎についてのペーパーを書いたばかりなので、
やはり実際にどんなものか見せてやろうと思ったのでした。

今公演の第二演目は、市川愛之助が、息子が論文中扱った「早変わり」
(一人の役者が同一場面で素早く姿を変え,二役以上を演ずること)
を一人五役行うというのが目玉だったのです。 

歌舞伎座が新しくなって来るのは初めてです。

夜公演には吉右衛門、玉三郎、幸四郎が出るようです。

第1演目は、市川染五郎の主演で、なんと大政奉還150周年作品、

「将軍江戸を去る」

最後の将軍慶喜が明日は江戸を去るという日、幕臣の主戦論者にけしかけられて
出発延期を願い出たところ、山岡鉄太郎や高橋伊勢守に

「そんなことをすれば江戸で戦が起こり、罪もない人々が血を流す」

と言われて反省し、水戸へと出港していくまでを描いたもの。

偶然、息子はこれも歴史の宿題で戊辰戦争のテーマを選択したばかり。
聞き取りにくい歌舞伎口調のセリフながら、後で聞いたら

「まあまあ(理解できた)」

といっておりました。
 

おなじみ歌舞伎色の緞帳。

歌舞伎鑑賞というのは、昔は飲み食いしながら行ったといい、
その慣習を未だに引き継いでいることもあって、幕間には
みなさんお弁当やお菓子を席で食べます。(テーブル付きの席もあり) 

その感覚のせいか、上演中、おばちゃんがいきなりカバンの整理を始めたり、
よりによってプラスチックの飴の袋を取り出して破って舐め出したり・・。
クラシックのコンサート会場しか知らないものには
軽くカルチャーショックです。 

幕間には緞帳の紹介も行われます。
スポンサー名が左、製作者名が右に入り、必ずどちらも読み上げられます。

こちら清水建設。 

こちらリキシル。製作は川島織物です。

早変わりを見るのが目的だったので、三つ目の演目はパスして、
お昼ご飯を食べにマンダリンオリエンタルに行きました。

この日の東京は晴れ渡り、三月並みの気温でした。 

マンダリンオリエンタルの「センス」で小さなコースを注文。 

TOのコースにはアワビ付き。 

「センス」の席からは東京の街が鳥の視点で見下ろせます。

ふと気づけば、鳥居があり参拝の列ができていました。
ここには福徳神社というのがあります。

オフィスビルの合間に神社が普通に存在する、これが日本です。

今日の主目的である靖国神社に到着。
わたしは無精?して本殿の近くまでタクシーで行こうとしたら、
TOが

「いや、こういう時には鳥居をくぐって歩いていくべきである」

ときっぱり言い切ったので、ここから歩いていくことにしました。
驚いたことに、参道に出店の類が全くありません。

考えられる理由としては、例の韓国人の爆破事件(ゴミ曰く爆破音事件)?
そういえば、参道いたるところに警官と私服の刑事が立っていて、
今年はかなり警戒態勢を厳しくしているなあと感じました。


息子は大晦日と元旦に友達と友達一家(アメリカ人)と連れ立って
鶴岡八幡宮に参り、

「ヤクザのやってる店(笑)で焼きそば食べた。すげー楽しかった」

と喜んでいたものです。
あの雑駁でいかがわしいとはいえ、日本人の郷愁を誘わずにはいられない
正月屋台の雰囲気が今後靖国でみられないのは残念という他ありません。
 

その代わり?参道には靖国神社の歴史を語る古い写真が
パネルのような壁に印刷?されて展示されていました。

これはタクシーを降りて撮った上の写真と全く同じ場所ですね。
季節は夏、袷を着た母親がカンカン帽を被った女の子と歩いています。 

こちらは昭和18年に行われた臨時大祭への御巡幸の車列が通り過ぎるようす。
向こう側の一般平民は地面に土下座?してまるで大名行列です。
こちら側の人々は立っているようです。
軍人は全て起立して敬礼をしています。

昔は参道からまっすぐ車が外に出る道があったんですね。 

時は下って昭和36年。
88台のトラックの安全祈願を行うなどということもできました。
トラックが全部本殿に向かって綺麗に頭を向けて停められています。
 

そして現在の靖国神社。
わざわざ付け火して、靖国神社を国際問題にしてしまった 
朝日新聞は、先日の防衛大臣の参拝を真剣に非難していましたね。

その朝日、正月早々反日全開。

「試される民主主義ー我々はどこから来てどこに向かうのか」

(勝手に絵まで掲載して・・・ゴーギャンに謝れ!)
という記事で要は安倍首相を選挙で選ばれた独裁者だと決めつけております。
彼らのいう民主主義って、自分たちの気にいる結論ではない場合、
それは「数の暴力」であり「民主主義の否定」だっていう不思議論理。

こんな独善的な考え、たとえネット時代でなくても受け入れられんと思うよ? 

 

それはともかく、靖国神社には新年の祈願を行う良民があふれていました。
この日最後の昇殿参拝を行い、祝詞では全員の名前が読み上げられましたが、
人数を数えていた近くにいた人が言うには(笑)226人だったそうです。
わたしたちのように家族で一人しか呼ばれない場合もあるはずなので、 
実際に本殿に上がったのは300人を超していたと思います。 

今回は欧米系の名前はありませんでしたが、朝鮮系の方が一人おられました。

終わって外に出ると、すっかり外は夜。
三日月の横に激しく明るい一等星が一つ光っていました。 

おみくじを引いて、お振る舞いの甘酒をいただきます。
全員に丁寧に「あけましておめでとうございます」と言いながら
甘酒を渡しておられました。 

遊就館前の特攻隊員の像の前には国旗とお供えがされていました。

例年靖国神社ともう一つ都内の神社に参るのですが、
今年は虎ノ門の金比羅宮に行きました。

港区のビル街にある金比羅宮、なんと1660年の創建です。

手前には琴平タワーという高層オフィスビルが建ち、ビルが参道の屋根になっています。
社務所や神楽殿はビルと一体化しているという融合具合。

主祭神は崇徳天皇、2001年には東京都の選定歴史的構造物に指定されました。

お参りを済ませ、歩いて虎ノ門ヒルズまでお茶を飲みに行きました。

虎ノ門はオリンピックに向けて新駅の建設中でもあります。
この白いドラえもんは「トラのもん」といい、虎ノ門のキャラクターです。 

虎ノ門ヒルズでの好きな場所、アンダーズで軽い夜食をいただきました。
大変お上手なアメリカ人男性のピアニストが

「Everytime we say goodby I die a little」(別れをいうたびにわたしは少し死ぬ)

などをセンスよく演奏していました。 

ところで、元日におせちをいただいたホテルで出された「辻占い」。
この砂糖菓子の中には小さく丸めた占いの紙が入っています。

フォーチュンクッキーみたいなものですね。 

3つづつ取るように言われたので、二人で6個取り、その結果を
苦心して並べてみました。

「ただなんとなく」が、全てを台無しにしている気がします。
「それにつけても金の欲しさよ」みたいな?

 「有は無より生じ、静は熱に勝つ」 

これをせっかくなので”今年の言葉”に採用しようと思います。



平成28年度 年忘れ人物ギャラリー

2016-12-30 | つれづれなるままに

今年も最後の日になりました。
恒例の人物ギャラリーで締めくくりたいと思います。
まずはブログタイトル通り、ネイビーギャラリーから。 

酒巻和男海軍少尉

真珠湾攻撃の際、特殊潜航艇に乗り込んでハワイに突入した
10人の士官と下士官のうちの唯一の生存者でしたが、
その数奇な運命を世間の目に曝すことを望まず、ブラジルに移住して
ひっそりとその一生を終えた「捕虜第1号」酒巻和男海軍少尉。

説明のために自ら「捕虜第一号」を執筆したあとは沈黙を守り、
自らについて語ることも、媒体に露出することもしませんでしたが、
ジャングルから帰国してのちやはりブラジルに住んでいた小野田寛郎氏と
現地で対談をしていたことがわかりました。

その本をベースに氏の海軍への、あの戦争への、そして戦後日本への
考えや提言をこのシリーズではまとめてみました。

酒巻和男少尉の見た大東亜戦争

ハワード・ギルモア海軍中佐

対日戦で4回目の哨戒において、特務艦早埼と対決した潜水艦「グラウラー」艦長。
負傷した自分がハッチから退避している間に全員の命が危ないと判断し、
ハッチを占める命令を下して自らを犠牲に部下の命を救いました。

この時海軍から彼に出された感状です。

名誉勲章感状

アメリカ合衆国大統領は議会の名において、1943年1月10日から2月7日までの
グラウラーの第4の哨戒におけるハワード・ウォルター・ギルモア中佐の
際立った勇敢さと義務をも超越した勇気に対して、名誉勲章を追贈する。

絶え間ない敵の脅威と対潜哨戒の中をかいくぐり、
ギルモア中佐は果敢な攻撃によって日本貨物船を1隻撃沈し、
その火災によって他にも被害を与え、執拗な爆雷攻撃を回避した。

2月7日の暗闇の中、敵の砲艦はグロウラーへの体当たりを試みて接近してきた。
ギルモア中佐は衝突を避けるために左に舵を切り、
11ノットの速力で敵砲艦に突っ込んで外板を切り裂いた。

沈みゆく砲艦からの機関銃弾を浴びたギルモア中佐は、部下に対して冷静に
艦橋から去るよう命令し、自らは危険を顧みず艦橋に残った。
敵の一斉射撃に屈しながらも最大限の努力を行ったギルモア中佐は、
最後の瞬間に「潜航せよ!」と当直将校に対して最後の命令を下した。

グラウラーは甚大な被害を受けたが、戦死した中佐に闘志をかきたてられた、
よく訓練された乗組員によって母港に無事生還した。

今年の夏、コネチカットのグロトンで原子力潜水艦「ノーチラス」を
見学してきたのですが、「潜水艦のふるさと」でもある
グロトンの海軍潜水艦基地が直接運営しているものなので、
大変充実した潜水艦博物館が併設されています。

その展示の中にギルモア中佐の写真を見つけて盛り上がったのですが、
そんな知識を持ってここを訪ねる人は、アメリカ人にも
滅多にいないのではないかと内心自負しています。 

1943年に建造されたフルトン級潜水艦には「ハワード・W・ギルモア」と
名付けられましたが、魚の名前をつけるのが慣例の潜水艦にしては
これは異例のネーミングだとされています。

リチャード・E・バード・Jr.海軍少将

海軍軍人でありながら冒険家として有名だったバードJr.少将。
アメリカの「ハイジャンプ作戦」には謎が多く、これらについて調べるのは
まるで冒険ミステリー小説を読んでいる気分でした。

戦艦「フィリピン・シー」について調べていたら、これがハイジャンプ作戦に
加わっていたことを知り、芋づる式にバードJr.少将までたどり着きました。

でも、わざわざ取り上げる気になったのは男前の少将が若い時の
ボウタイ姿の写真を見つけてしまったからです(爆) 

 

さて、ここからは陸軍関係となります。

小野田寛郎陸軍少尉

酒巻和男氏との対談をまとめた3編のうちの「小野田さん編」。

小野田少尉の終戦

ただ一人ジャングルで終戦を知らずに過ごした「最後の軍人」
小野田さんは、日本帰国後、他の誰も経験したことがない
不思議な世界に身を置かねばなりませんでした。

世間の人間が小野田さんを見る目は、良くも悪しくも偏見に満ちており、
その半生は、世間が求める「小野田さん像」への抗議と
戦いの日々だったと言えばいいでしょうか。

このころの小野田さんは、実に開けっぴろげにルバング島での
ことを語っており、まだそれほど世論に対して
警戒していなかったのではないかと思わされます。 

遥かに祖国を語る

二人の対談から、二人が帰国したとき、日本は彼らをどう迎えたか、
そして戦後の自虐する世代を二人がどう見ていたかを書きました。

酒巻氏は本当に写真が少なく、参考にできるのが晩年のはこれだけでした。

 

北本正路陸軍少尉 

呉にある海軍墓地で善本野戦高射砲中隊の慰霊碑を見たことから、
日本軍が、ニューギニアの北岸で標高4000mの山越えをしていたことを知りました。

人呼んで「死のサラワケット越え」。

その牽引力として過酷な山越えを偵察を含めて何往復も行った
「マラソン部隊」の隊長は、オリンピックに出場したこともあるアスリートの
北本正路という陸軍軍人であったことを知り、シリーズ化したのが本編です。

栄光マラソン部隊〜北本工作隊かく駆けり

戦後は市井の人として慎ましい余生を送ったようですが、今ほどテレビが
思想的に偏っていない時期、

「私は誰でしょう」

という人気番組に出演したこともあったようです。

氏がおそらくその生涯に書いた一冊の自伝には、マラソン部隊の隊長として
選んだ現地人の部下、ラボとの魂の交流が生き生きと描かれています。

ハリー・カツジ・フクハラ陸軍大佐 

日系アメリカ人として「二つの祖国」を持ち、対日戦に参加した
軍人は数多くいました。

「二つの祖国」〜ハリー・フクハラとアキラ・イタミ

その通り「二つの祖国」のモデルになったハリー・フクハラ大佐。
やはり小説のモデルになったアキラ・イタミと共に、
日系二世たちの苦悩についてお話ししてみました。 

舩坂弘陸軍軍曹

インターネット界隈では「チート」と言われて有名な(笑)
超人舩坂弘軍曹のチートぶりを扱いました。

舩坂弘陸軍軍曹の戦い その超人伝説 

わたしとしてはその超人ぶりもさることながら、彼の生存の
大きな原因となった、アメリカ海兵隊伍長クレンショーの存在、
そして彼と船坂軍曹の友誼にいたく感銘を受けてこちらを漫画にしてみました。

ロシアン・スナイパー(ただし女子に限る)

スナイパーに男性と伍して太刀打ちできる女性をバンバン投入したソ連。
その中からは何人かの英雄が生まれました。

中でも有名なリュドミラ・パブリチェンコ、ローザ・シャニーナ、
クラウディア・カルディナ・エフレモブナ、アーリャ・ モロダグロワ。
この4人を取り上げました。

2000人投入された女性スナイパーのうち戦後生きていたのはその4分の1、
という数字もさることながら、生き残った女性たちもあのクリス・カイルのような
戦闘トラウマに生涯苦しめられたという話もあります。

キャサリン・スティンソン

ここからは女性パイロット列伝シリーズから。
彼女の顔をことさら漫画風に描いたのは、当時のキャサリンが
「ス嬢」という略称で日本におけるアイドルとなっていたからです。

「ス嬢はアイドル〜キャサリン・スティンソン」

飛行家としての彼女そのものより、日本における、特に女学生の
彼女への熱狂ぶりが気になりました。

それから、横須賀鎮守で、海軍が彼女に献呈した壺が
その後どうなったかがわたしとしては気になります(笑) 

エイミー・ジョンソンCBE

栄光に包まれた英国の高名な女性パイロットの墜落死。
彼女は暗号を間違えたため、祖国の軍隊によって撃墜されていた、
というのが最近明らかになったという話を書いてみました。

誰が彼女を撃ったのか〜エイミー・ジョンソン

エイミー・ジョンソンの存在はアメリカではとても有名らしく、
子供向けの飛行家シリーズ本などにはイアハートと並んで登場します。

わたしはこの話で、雪の降りしきる1月5日に、墜落した彼女を
助けるために、軍艦の甲板から単身海に飛び込んで死亡した
海軍軍人の「海の男」魂に何よりも感銘を受けました。

名前のあとに「CBE 」とついているのは、彼女が

 大英帝国勲章(Order of the British Empire)

のコマンダー位を授与されたからです。
この勲章を与えられた有名人には、ローワン・アトキンソン、
指揮者の尾高忠明、佐々淳行、スティング、蜷川幸雄がいます。

マリ-アントワネット・イルズ

フランスの飛行家ということで、結婚という形にとらわれない
フランス人気質というものを絡めながら、彼女の
不倫の恋などを語ってみました。

「恋に生き、空に生き」

このタイトルがトスカのアリアをもじっていることに
気付いて下さると嬉しいです。

来年も訪問記の合間にこういった人物を紹介していくつもりですので
よろしくお付き合いください。

それではみなさま、よいお年を。

 

 

 


NORADのサンタ追跡サイト

2016-12-25 | つれづれなるままに

メリークリスマス!

パソコンの切り替えで今PCに向かうことができないので、
2年前のクリスマス時期にアップしたエントリをもう一度あげます。



以前、NORAD(北アメリカ航空防衛宇宙司令部)について書いたとき
「まるでSFに出てきそうな名前」などと言ったのですが、
そのとき突っ込んでくれた雷蔵さんが

このNORADがやっている「サンタ追跡サイト」を教えてくれました。

NORADはアメリカとカナダ政府が大統領と首相をそれぞれ
最高指揮官として共同で運営している組織で、その使命は
おそらく地球防衛軍と全く同じ、

北米上空の航空や宇宙に関して観測または危険の早期発見

ということになっております。



ウィキに載っていたNORAD地下司令部入り口。
一体何と戦っているのか、という要塞ですが、つまりは
設立されたのが冷戦まっただ中で、当時は米ソ共に
この地域を核爆弾を積んだ戦略爆撃機をウロウロさせていたため、
「核爆弾の監視」というのが国防において重要事項だったんですね。
(過去ログ『成層圏の要塞』でお読みください)

というわけでおそらくこのドアを閉めることによって
地下要塞のここは完璧に核の影響から逃れることができるのですが、
最近の世界情勢はその頃と随分事情が違ってきているため、
ここは昔ほどの「最前線」ではなくなっているはずです。

で、その冷戦構造まっただ中の出来事です。

アメリカにはどこのショッピングモールでもお目にかかる
シアーズというデパートが、クリスマスシーズンに子供に向けて

「サンタクロース・ホットライン」

を設置しました。
おそらくプレゼントは何がいい、というようなことを子供が
サンタクロースにお願いしているつもりで、実は
シアーズに商品を注文させるという意図があったと思うのですが、
そのホットラインのお知らせ広告に、シアーズは間違って

CONAD(NORADの前身)の司令長官へのホットライン


の番号を載せてしまったのです。

♪リーンリーンリーン

シャウプ大佐「ヘロー」

子供「ヘロー!あなたはサンタクロース?」

大佐「いや、違いますけど」

子供「ホットラインにかけたんだけど、なぜサンタがでないの?」

大佐「ホットライン?」

子供「シアーズのサンタクロースホットライン だよう!
   サンタクロース出してよう!」

大佐「え・・・・いや、サンタと言われましても・・・・。
   ここは航空宇宙司令部で・・・」

子供「サンタクロースはどこ?」

大佐「えーとね、サンタは・・・
  ・・・わかった、今から部下にレーダーで確認させるよ」


大佐が咄嗟に子供を傷つけまいとついた嘘。
それから60年も続いている「NORADのサンタ追跡任務」
が生まれた瞬間でした。

子供「今サンタクロースはどこに居るの?」

大佐「レーダーで調べた結果、サンタは北極から南に向かったそうだ」

子供「レーダーにサンタのソリが写ったの!?」

大佐「そうだよ。

君がいい子にしていれば、24日の深夜から25日の朝にかけて、
君の住む街に到着して、プレゼントを渡す予定にちがいない」

子供「それはいいんだけど」

大佐「はい」

子供「ここに電話したらサンタがプレゼントのお願いを聞いてくれるってママが」

大佐「サンタには部下が無線で君のリクエストを届けるよ」

子供「ほんと?サンダーバード5号のプラモが欲しいんだけど」

大佐「わかった。・・・でもそれ、一応パパとママにも言っといてね」

子供「パパとママには秘密だ!」

大佐「えっ・・・・・(絶句)」

 


もしかしたらこんな感じで大佐はその場を切り抜け、それから以降、
次々にかかる間違い電話にCORAD司令部は、サンタの現在地を
刻々と伝えていったのでした。

その3年後の1958年、カナダと米国の両政府は北米航空宇宙防衛司令部、
通称 NORADとして知られる北米防空組織を創設しました。
そしてそれがサンタ追跡という伝統も引き継いだというわけです。




クリスマス・イブの日、すべては「北部警告システム」と呼ばれる
NORADのレーダーシステムで始まります。
これはカナダ北部からアラスカ 全域 47カ所を結ぶ、強力なレーダーシステム。

NORADは毎年必ずクリスマスの時期が近づいてくると、
サンタ・クロースが北極を出発する様子をレーダーで確認します。
サンタが飛び立ったのをレーダーがとらえた瞬間、
普段北米に向けて発射されるミサイルがないかを知らせる
空中警告のために使う人工衛星と同じ衛星を使って追跡を始めます。


イージス艦も、もちろんこの追跡に協力しますよ。

ところでNORADがサンタのソリを見つけるのに目標とするのは
トナカイのルドルフの「赤い鼻」なのです。

人工衛星は、ロケットやミサイルが打ち上げられるときに発する
熱を察知するための赤外線センサーを搭載していますが、
ルドルフの鼻はミサイルの発射に似た赤外線反応を示します。
 
つまり、ミサイル発射の発見と、ルドルフのいるサンタのソリを
見つけるのは同じ機構を利用しているということになります。 




そして、戦闘機をカナダのユーコンからメキシコシティまで飛ばして、
アメリカ領内にいるサンタのソリを追跡するのです。

「カナダ側のNORAD戦闘機パイロットは、CF-18機を操縦しながら
ニューファンドランドを飛び立ち、北米を訪れる サンタを歓迎します。
そして、カナダのさまざまな場所で、CF-18機のパイロットたちが
サンタをエスコートしていきます。

アメリカでは、アメリカ側のNORAD戦闘機パイロットたちが
F-15、F-16およびF-22を操縦しながら、
サンタとトナカイたちとのスリル満点の飛行を楽しみます。

それらのトナカイとは:ダッシャー、ダンサー、プランサー、ヴィクセン、
コメット、キューピッド、ドナー、ブリッツェン、そしてルドルフです。
サンタはジェット戦闘機よりも早く飛びますが(サンタは実際、
我々が彼をエスコート出来るようにスピードを落としてくれるのです)
これらすべてのシステムによって、NORADはさまざまな場所を訪れる
サンタの映像を継続的にとらえることができるのです。」

(サンタトラッキングサイトより)



この日の任務のために一堂に会した米加軍人たち。
皆真剣にサンタの追跡に関する情報を分析しています。



このスタッフにはやはりいろどり?も必要ということで、
重責を負わされたに違いない女性軍曹。




これらの情報を提供しているのは民間のボランティアたち。
問い合わせに対し、メールや電話の応対を請け負います。

この日、カナダ人および米国人の現役軍人と国防総省の民間人職員
1,250 人以上が世界中から寄せられる何千件もの電話やメールに
ボランティアとして対応しています。
このプログラムを支える企業(もちろんGoogleもね)からの寄付に加えて、
NORADにはプログラムの管理を担当するプロジェクト責任者が2名います。

 

インターネットが普及してからは、ノーラッドのサイトでは
クリスマスイブのサンタ捕物の様子が動画で中継されます。
24日の昼4時ジャストから、ノーラッドがサンタトラッキングを始めています。
ちょっと皆さんも覗いてごらんになりませんか?

NORAD  Santa Tracker





 


気の毒なおりょうさん〜横須賀歴史ウォーク

2016-06-16 | つれづれなるままに

ときとして歴史ガイドにも載っていないような史跡を紹介するのが
この「歴史ウォーク」の使命でもあります。
とくに、坂本龍馬の妻であった「おりょうさん」、本名

楢崎龍(西村ツル)

がここに住んでいたとかここで死んだとかいう場所は
なんのことはない今現在普通の民家が建っていて、案内の人も
住人に配慮して声をひそめるといった風に気を遣っていました。

そりゃ、定期的に老人の団体がやってきて自分の家の写真を撮ったり
前で佇んでいたりしたら誰だって嫌ですよね。
わたしもだから「ここが」といわれてもその家にカメラを向ける気には
到底ならなかったわけですが、 そもそもおりょうさんって、何?

いや、何って坂本龍馬の奥さんだった、ってことくらいは知ってますが、
結婚してからわずか3年で龍馬は暗殺されてしまったわけで、
しかもその後、龍馬のつてをたどって知り合いを転々とし、
別の人と結婚して最後は酒浸りで死んだという人ですよね。

これについてはガイドの方が

「おりょうさんねー、最後は酒ビン抱えて呑んだくれていたそうですよ。
こんなこというとおこられちゃうんだけど、でも本当だから。
後から文句言ってくるんですよ『おりょうさんを悪く言うな!』って」

小栗忠順が「無実の罪」で処刑された、っていうのはおかしい、
というようなことを言っても、クレームがつくらしいですから、
まあそういうことをガイドがいうのを許せない!って人もいるのでしょう。
歴史上の偉人のイメージを壊すな、ってところでしょうか。
ところでこのついでにこのガイドさん、

「だいたいそんなこというならね、
坂本龍馬だって、偉人とか有名人って言う割に
案外皆何したか知らなかったりするんですよね。
実際も言うほどたいしたことしたのか、ってね」

と、おりょうさんどころではないクレームがきそうな発言もしていました。
まあ、これに関しては

「敵対していた薩摩藩と長州藩の間を取り持って同盟関係を結ばせた」

「勝海舟の門下生として海軍操練所の開設に奔走した」
(のちに海軍塾頭となる)

「大政奉還の原動力となり維新後新政府の綱領をつくる」

という立派な仕事を、しかも30歳そこそこでしているので、
どう考えても「たいしたことをした」としか言いようがないのですが。


わたしはそもそも坂本龍馬の伝記の類を読んだことがなく、
おりょうさんについても全くと言っていいほど知識がありませんでした。
で、ガイドさんが声をひそめながら

「死ぬ頃は呑んだくれていた」

と話をし終わった後、

「(おりょうさんは)どうやって食べてたんですか」

と聞いてみたところ、ツァーの同行者が

「結婚してたのよ」

と教えてくれたのでした。
結婚していたのに呑んだくれて孤独死、ってことは連れ合いに先立たれて・・?

と思って調べたら、おりょうさんの再婚相手、呉服商の若旦那だった
西村松兵衛さんという人は、おりょうさんが死んだ時もまだ生きていました。
この旦那という人もお人好しというのか、おりょうさん、酔っ払っては

「わたしは龍馬の妻だ」

といってからんでも松兵衛は離縁するでなく、それどころか
先だったおりょうさんの墓に、最後を看取った自分ではなく
坂本龍馬の妻としての墓を作ってやりました。

今横須賀市内にある彼女の墓の墓石には

「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」

と記されています。
これはなんなんでしょうねえ。
坂本龍馬と結婚していたから松兵衛は彼女を好きになったんでしょうか。



坂本龍馬の存在は明治の世になって忘れられていましたが、
1883(明治16)年、ジャーナリストの坂崎紫瀾が書いた小説で
その名前が一躍有名になり、安岡秀峰らがおりょうにインタビューしています。
泥酔して「わたしは龍馬の妻だ」といったのを目撃し書き残したのが安岡で、
そのインタビューに答える形で彼女は

龍馬が生きていたなら、また何か面白い事もあったでしょうが・・」

などという、そのときの夫である松兵衛に対してなんとも失礼なことをいっています。

ちなみに松兵衛と結婚したとき、彼女は自分の母と妹の子を引き取らせ、
要するに3人で転がり込んで松兵衛に面倒を見させているんですね。

こういう経歴だけを見ても彼女に対する印象は決して良くないのですが、
加えて人望もなかったことは、龍馬の死後、彼女は夫の知り合いを次々と訪ねて
援助を頼むも、だれも相手にしなかったということにも表れています。

勝海舟も西郷隆盛も龍馬の未亡人ということで少しは援助したようですが、
龍馬の部下である元海援隊士の間では彼女の評判は悪く、
維新後に出世した者も誰一人
彼女を援助しようとはしませんでした。

田中光顕
(元陸援隊士で後に宮内大臣にまで出世)の回顧談によれば、

瑞山会(武市半平太ら土佐殉難者を顕彰する会)の会合で、
おりょうの処遇が話題になったのですが、妹婿の菅野覚兵衛にまで

「品行が悪く、意見をしても聞き入れないので面倒はみられない」

と拒否されていた(wiki)ということです。
「品行が悪く」というのはいったいどんな行いを指していたのでしょうか。




さておりょうの名前、「龍」は決して偶然ではなく龍馬の龍です。

もしかしたらこれをきっかけに二人は仲良くなったのではないかと思われます。

美人の龍に坂本龍馬はぞっこんになりましたが、頭がよくも才気煥発でもない、
とくに秀でたところがないばかりか、恋人(のちに夫)の地位をかさにきるので、
龍馬の周りの人々、ことに海援隊のメンバーに嫌われていたそうです。

彼女は後年安岡のインタビューで、近藤勇が自分に横恋慕してちょっかいをかけた、
ということまで暴露したそうですが、こういった話を総合すると、
彼女は「女」であることしか取り柄のない凡百の一人に過ぎず、
坂本龍馬が男を見る目は一流であったけれど、女を見る目はなかったらしいとなります。

いつも命を狙われて、今日明日にも死ぬかもしれないと覚悟している男が
女に求めるものは、一時の安らぎと器量だけだったということなのかもしれませんが。



おりょうの住んでいたという住宅の写真は撮りませんでしたが、
その「終焉の地」、つまり息を引き取った家の路地は撮りました。
ロッカーがずらりと並んで大した風情ですが、この路地の右側に
その長屋があったという話です。

一同はこの路地を入る前にガイドからの説明を受けましたが、
前を通る時にはガイドは身振りだけで全員が無言でした。
やっぱりここも普通に人が住んでいますから。

で、この路地を向こうまで通り抜け、左に曲がると、



「おりょう会館」というのがあります。
そこには冒頭のおりょうさんのリアルな像があるのですが、
(なぜ頭の部分が切れているのかというと、おりょうさんの顔より
着物の打ち合わせのところに入れられた1円玉を中心としたからです)
このおりょうさんの顔、いったい誰をモデルにしたんでしょうね。 



これが確実に楢崎龍、晩年の中村ツルの写真。
この写真は彼女にインタビューした安岡が、

「彼女は今回写真を撮るのは初めてだそうである」

と言っているので、これが唯一の彼女の姿を伝える写真です。



ところが、こちらの写真も確か龍馬と結婚後、日本で最初のハネムーンで
訪れたという宮崎の温泉に飾られていました。

老年の中村ツルと同一人物であることをスーパーインポーズ法で調べ、
同一人物らしいということにまでなっていたのです。

まあ、美人の写真なのでこれならいいな、という期待というか願望が、
安岡の「これが最初の写真」という言葉をも無視させる結果となり、
今なお、お龍の写真というとこれが一般的になってしまっています。

ところが近年、この女性と同一人物の別のカットが古本屋で見つかりました。
また、別のところから、複数の芸者や華族の女性をセットにした組写真の中に、
この女性とみられるものが発見されたのです。

どういうことかというと、この写真は売り物であったということなのです。

当時写真は大変高価でしたから、庶民が何枚もポーズを変えて撮ることはありませんでした。

龍馬や勝海舟の写真ですら、そんなにたくさんあるわけではないのです。
つまりこの女性は新橋あたりの売れっ子芸者で、写真館が販売するために
撮影したものであるということがわかってしまったのです。

また名刺サイズで見つかった同一人物の写真には「土井奥方」とあり、
後に子爵土井家の妾となった芸者であることまで判明してしまいました。

しかし一旦広まってしまったこの美人=お龍説は根強く、というか
真相が分かっても、あえてこの写真をお龍のものだということにして、
そのうちそれが定着してしまいそうな気配すらあります(笑)

「おりょうさんを悪く言うな!」ではありませんが、歴史の現実よりも
物語としてロマンを見出したいのが大衆の常ですから、
これもまたいたしかたないことなのかもしれません。


さて、そしてこの謎の銅像のある「おりょう会館」ですが、なんだと思います?
なんと葬祭場なんですよ。

おりょう会館のHPのどこを見ても、この胸像についての説明がないので、
全くこの経緯についてはわからないままだったのですが、
なぜおりょう?しかも葬祭場に・・・・、と考えこんでしまいました。

これ、どう考えても、お龍さんがこの道向こうで亡くなっていたから、
としか
理由らしい理由を思いつかないんですよね。
だとしたらなんかなあ、と彼女の決して幸せではなかった(らしい)
晩年とその死に方を思うと、微妙な気持ちになるのでした。


そもそも、お龍さんという女性は、坂本龍馬と3年暮らしたというだけで、
それこそガイドさんの発言ではありませんが、「何かをした人」でもありません。

寺田屋の遭難の時には、彼女がお風呂に入っていると外に多数の捕吏がいたので
慌ててお風呂を出て二階に急を知らせに行ったということはありましたが、

これも妻や身内であれば誰だって同じことをしたでしょう。

また彼女は龍馬が生きている間、彼が何をしているのか、何をしようとしていたのか
興味もなかったし全く知らなかったといいますが、それなら寺田屋の時のように
夫が命を狙われていることについて、どう理解していたのでしょうか。

そんな彼女が夫の業績を初めて聞かされたのは明治新政府からだったそうで、
これが本当ならば、彼女はこのときさぞかし驚いたことと思われます。



それにしても、たまたま坂本龍馬というビッグな人物に見初められて

結婚していたがため、若い時にはイケていただけの「普通の女」だった彼女は
その人生をいたずらに不幸なものにしてしまったという気がしてなりません。

夫亡き後は自分の愚かさのツケを払う形で皆に疎んじられ、転々とし、
やっと自分の母も含めて身を引き受けてくれる優しい男と知り合ったのに、
彼女の思いはおそらく自分の人生の絶頂期であった龍馬との3年にしかなく、
相手を本当に愛するということはできなかったのではないでしょうか。


そして死んでなおのち、偉人の妻であったばっかりに、その気質の
良くなかったことや、
晩年の酒びたりの生活までを語り継がれ、同情される。

まことに運が悪いというか、気の毒な女性だなと思います。
 

「龍馬はわたしの夫だ」を目撃されたころ、彼女は58歳。
美容医療もエステもない時代、かつての美貌はもはや消え失せていたでしょう。
たった3年だけ夫だった男の面影をアルコール依存症による幻覚に見ながら、
彼女は彼岸を渡るその日までを泡沫(うたかた)のうちに過ごしたに違いありません。

輝ける日々、一流の男に愛されたことを人生唯一の誇りとして。


続く。




徳川埋蔵金と小栗忠順〜横須賀歴史ウォーク

2016-06-15 | つれづれなるままに

さて、博物館の展示物の写真を撮りまくり、さらには
お弁当を持ってこなかったため向かいの市民ホールのレストランで
昼食をとるという充実しすぎる昼食休みの時間を過ごしたわたしです。
決められた時間に集合場所にいくと、そこから午後のツァーが始まりました。



レストランの帰り、文化会館の催し物のポスターを撮ってきました。
地元のスナックがお客様のカラオケ大会(聞いたことない演歌歌手のステージあり)
に中ホールを借り切るというような催しも行われております。
横須賀市民には何かと思い出深いホールだそうで、ここで成人式を迎えた
という市民もたくさんいるのだとか。

ボランティアの案内係のおじさんは、この文化会館の説明をするのに

「コロッケとかね。浅丘ルリ子なんかもくるんですよ」

へー、と一同が聞いていると、しばらく話してからまた

「浅丘ルリ子もくるんですよ」

おじさん、浅丘ルリ子のファンだったみたいです。



現在文化会館のある土地は、昔昔海軍か陸軍の病院だったと
このときガイドさんが言っていたような気がしますが、
海軍病院は米軍基地のあそこにあったし、陸軍病院は
たしか上町の、幼稚園になっている教会のちかくにあったし・・・。

聞き違いかな?

ちなみにおじさんの後ろにあるものは、壊れた藤棚だと思っていましたが、
こうしてみると芸術作品のつもりのようです。


ここには小栗上野介忠順と栗本鋤雲の石像があります。(冒頭写真)

栗本鋤雲については以前「オグリンとペリリン」という(ような)題の
ログで触れたことがあります。
フランス語堪能だった、ということで、こんなおじさんが
「ジュ・マ・ペール・ジョウ〜ン」とか「セ・ブレ?オーララー」
などと言っていたとはとても想像できない、などとあほなことを書きました(笑)

こうしてオグリンとジョウンが並んでいるのはそれなりに訳があって、
勘定奉行と外国奉行という立場で知り合った二人は大変親しく、
小栗は栗本鋤雲を通じてフランス公使との繋がりを作り、製鉄所の建造計画に際し
具体的な提案を練り上げたという縁があるのです。

ちなみにこのとき「どうして技術協力をフランスに仰いだか」なんですが、

当時アメリカは南北戦争で国が疲弊しており、よその国に構う余裕がなかったからです。

この前でボランティアの解説員が、

「小栗忠順は”無実の罪で処刑された”なんて書いてあることがありますがね、
無実ってことはないんですよ。
徹底抗戦を唱えたというのは当時”罪”だったんですから」

というので、わたしはごもっとも、と頷いておりました(笑)
小栗は戊辰戦争の後、旧政府軍の側で徹底抗戦を訴えていました。
このとき小栗の提案した奪還作戦をすでに恭順に決心が傾いていた徳川慶喜は
退け、小栗を疎んじて罷免してしまいます。
ご存知のように江戸城は無血開城され、徳川慶喜も処刑されませんでしたが、
戊辰戦争後には大量の藩主や家老が切腹したり斬首されており、要するに小栗も
勘定奉行という要職だったことで同じような目にあったにすぎないのです。

戦争に負けた側が首を取られる、というのは昔の戦争では当たり前で、
無実だったとかそうでなかったかは全く関係ない話です。

ところで余談ですが、、買った側が負けた側を裁いた東京裁判は、
事後法だとか単なる政治ショーだとかいわれて後世の評価は高くありません。
要するに東京裁判も「責任者切腹」ということは最初から決まっているのに、
裁判はかたちだけっていうのが最初からバレバレだったわけです。

戊辰戦争までの日本のように、負けたから切腹ね、とばっさりやっていたほうが
「勝ったほうが負けたほうを裁く」なんていう欺瞞より、わたしに言わせると
なんぼかマシ、ってもんです。

それはともかく、オグリンが「無実だった」という意見ですが、

「何も悪いことをしていないのに・・」

という意味に限っていうと、決して間違っていないとは思います。
東京裁判で処刑された7名が「無実だった」のと同じです。
そして逆もまた真なりとするならば、東條英機以下7名は

「無実ではあったが戦争に負けたので処刑された」

ということになりますね。 


ちなみに新聞記者でもあった栗本鋤雲ですが、515事件で暗殺された
犬養毅が新聞記者時代は栗本の部下だったということです。



ところで、話がどんどんと膨らんでいくのですが、

小栗上野介忠順の死には、ある疑惑がまつわっていました。

徳川埋蔵金です。

1868年、戊辰戦争の結果、江戸城はついに無血開城をみました。
明治新政府は、徳川幕府が運用していた「幕府御用金」を
自分たちがそのまま使ったる!と意気込んでいました。
(何しろ彼らにはお金がなかったのです)

ところが蓋を開けてみれば城内の金蔵はからっぽ。
新政府は、御用金を幕府が隠匿したと判断し、埋蔵金探しが始まりました。

「埋蔵金」・・・・

あああ、なんか今すごく「民主党」という言葉が浮かんできたんですけど。

そういえば、民主党も政権交代(無血開城)したとき、
子ども手当の財源を「埋蔵金」で賄おうとしてましたよね。
今まで政権の座にながらくいた自民には隠し金があるはずだ!として
それをあてに政権公約したりしてました。

会計とか帳簿とかの実務経験のない連中が、マスコミに乗せられて
年90兆円も埋蔵金があるはず!と騒いでいたわけですが、彼らは野党時代

●利権が絡んだ控除関係を潰せば財源が出てくると思っていた

●毎年繰り越されている特別会計の余剰金が使えると思った


●実は政権を取るための空手形で本人たちもあてにしていなかった

のではないかといわれています。
単に政権をとれば、どこからかお金が現れると信じていたフシもありますが、
結局どこからも「埋蔵金」は出てこなかったので、2010年度の予算が組めず、
あの悪名高い事業仕分けを蓮舫と枝野にやらせることになりました。

もちろんそんなもので埋蔵金から予算に入れることにしてた4兆円強が
生み出せるはずもなく、この事業仕分けはいたずらに民主党に対する反感と
特に日本の文化破壊という観点から国民の嫌悪を買い、得られたものは
蓮舫が得意げに言い放った

「2位じゃダメなんですか」

というあの象徴的な名言だけだったというわけです。
民主党がわずか3年で国民から見放されたのは、結局この事業仕分けに象徴される
経済さえなんとかできれば国民は大人しくなるだろう、という低い成功目標であり、
そのために文化保護・体育振興予算を削ったり、勝手に国宝を韓国に「返還」したり、
あげくは外国人参政権を推進しようとしたりしたからに他なりません。
第一、政権公約を何一つ実行できませんでしたしね。

ところで、民主改め民進党は参院選のマニフェストを一般公募したりしていましたね。

党の政権公約までポピュリズムに走るんかい!と思っていたところ、
幹事長のツルの一声で一般公募はやっぱりなし、ということになりました。

マニフェストを決める方法も決められない党に何が決められるというのか(嘲笑)

というわけで、でてきた公約というのは

最低賃金(時給)を2020年までに全国平均で1000円に引き上げる
児童扶養手当の第2子以降への支給額を一律1万円に増やす
給付型奨学金の創設

・・・デジャブかな?

それとももう政権取るつもりない(だから守れない公約もしちゃう)
ってことなんでしょうか。 

結局、共産党と共闘してしまうことによって、実は政権を取っていた時以上に

彼らの成功目標は低い(というか目標は政権を取ることだけである)ことが知れ渡り、
争点を安保法案の廃止にしてしまったあたりで政治センスどころか
選挙に勝つ気すらないらしいということが露呈されてしまっているわけですけど。



さて、民進党の話はこれくらいにして、徳川埋蔵金です。
小栗上野介忠順は、徹底抗戦を唱え、それが慶喜の不興を買い
罷免されてのち故郷の上野国(あ、だから上野介か!) 、群馬県の
権田村に身を隠していました。

小栗が勘定奉行だったことから、彼が埋蔵金の行方を知っている、
もしかしたら彼自身が埋蔵金を持って逃げたのではないかと噂が流れ、
その噂には尾ひれがついて

「利根川を遡って来た船から誰かが何かを赤城山中へ運び込むのを見た」

とまことしやかに証言するものまで現れます。
江戸城が無血開城したのに、戊辰戦争の敗者と同じく小栗が斬首刑になった、
ということも、
その噂に信憑性を与えることになりました。
(もし追っ手がそれを疑っていたら小栗を殺してしまうのはおかしいんですが)


その埋蔵金については、

●幕府の将来を憂慮した大老、井伊直弼による計画だった

●埋蔵された額はおよそ360万 - 400万両
(勝海舟が日記に軍用金360万両があることを記していた)

●小栗忠順は機を見て埋蔵金を掘り返し、幕府再興を画策する役を負っていた

と想像されていました。 
赤城山中からは実際に民家の井戸などから黄金の権現像とか、銅の皿とか、
直径20mの石灰でできた亀とか、同じ大きさの鶴とか、帳面とか、
とくにそんな大きさの鶴亀をどうやって小栗が運んできたのか、とか
なんの為に井戸に捨てたのか、とか真顔で問いただしたくなるような物証もあって、
当時、赤城山中で宝探しを試みる人々がたくさんいたという話です。 

なんか戦後の「M資金」という言葉も浮かんできますが、今日はやめます(笑)

しかし、それらの探索によっても埋蔵金らしいものは出てこないので、
今度は「赤城山中はダミー説」がでてきます。
実は赤城山は囮で、実は別の場所・・・・、

  • 日光山内(東照宮とか)
  • 奥日光の男体山や中禅寺湖
  • 赤城山の近く 榛名山 妙義山
  • 足尾銅山の坑道
  • 全国各地の東照宮

にあるという説。
もうこれだけ拡散したら探しようがないだろって思いますが。 
しかし、やっぱりどこからも埋蔵金らしきものは出てきませんでした。

しかしそもそも末期の徳川幕府に埋蔵するようなお金があったと思います?

江戸末期には「安政の大地震」といって、江戸を中心に大規模な地震が

頻発し、(そのうち宝永の地震は南海トラフが震源となったもの)
これが倒幕運動に加担したと後世の歴史家が言うくらい、
幕府の財政は当時枯渇しきっていたといわれているんですよね。

だいいち埋蔵金があるのなら、この時期に活用していたはずです。
というわけで民主党ではないですが「埋蔵金なかった」も根強いのだそうです。

しかしところで万が一、あなたがグンマーの人で、赤城山中で
埋蔵金を偶然見つけてしまったとしたら、どうなると思いますか?


発見者は文化財保護法第57条の2の規定により、
直ちに文化庁長官宛に書面で報告しなければならない
その際発見者には現状維持がもとめられる

それが徳川埋蔵金だった場合、文化庁などにより発掘調査が施行される

この時点で、発見した人はその所有権を失うってことですかね。
そして調査の結果それが徳川幕府埋蔵金だということになった場合はどうなるのか。

大政奉還以降の取り決めによって徳川幕府の資産は
全て明治新政府に引き渡されることになっている
つまり所有権は現在の政府にあると認定される

遺失物法の規定により埋蔵金の5 - 20%に当たる報労金が支払われる
埋蔵金は国庫に帰属し、文化財保護法の規定に従い管理される

遺失物扱いかい(笑)
それでは調査でもそれが埋蔵金であるという確証が得られなかった場合は?

文化財保護法第59条の規定により、遺失物として
所管の警察署長より公告が為される

やっぱり遺失物扱い(笑)

所有者の申し出が無い場合、文化庁の機関が発掘した場合は
埋蔵金の2分の1に相当する額の報償金が支給され、埋蔵金は国庫に帰属する

教育委員会が発掘した場合は埋蔵金の額に相当する額の報償金が支給され、
管轄する都道府県に帰属する

所有者の申し出は・・・多分ないんじゃないかな。しらんけど。

つまり、徳川埋蔵金であった場合は見つけても国に返さなければならない。
あてにするとしたら5〜20%の慰労金というやつだと思いますが、
この程度の報酬であればきっと費用は持ち出しになってしまうでしょう。


テレビの番組以外では、歴史のロマンを求める向きや、
学術的な研究のために私費を投じるような人しか、この宝探しに
真剣に参加しようという酔狂な人は今後も出てきそうにありません。



続く。

 


ロシアン・スナイパー(ただし女子に限る)

2016-05-03 | つれづれなるままに

本日タイトルはアメリカの「レジェント」といわれたスナイパー、
クリス・カイルを描いた映画「アメリカン・スナイパー」から取りました。

伝説のスナイパーとは、「白い死神」といわれたフィンランドのシモ・ヘイへ、
「ラマディの悪魔」クリス、「ホワイト・フェザー」ことカルロス・ハスコック、
記録の上では世界一である朝鮮戦争における中国の張桃芳などがいますが、
当然のように全員が男性です。
そもそも狙撃手に女性がなるということがないので当然ですが、
その中で何人かの「レジェンド」を排出している国があります。
 


先日、アメリカ軍における女性の登用について書きましたが、

第一次世界大戦で、女性の役割は看護師としてに限られていました。
唯一そうでなかった国が、ロシアでした。

女性の入隊を正式に許可していたわけではなかったので、女性は

変装したり(!)あるいは暗黙のうちに兵士として部隊に参加していました。
最前線のコサック騎兵の指揮を女性の少佐が執っていたという話もあります。

基本的に女性でもなんでも参加したければどうぞ、という感じだったのね。

マリア・ボチカリョーワという軍人は「婦人決死隊Women's Battalion of Death」
を率いて前線に立ち続け、西部戦線(レマルクのあれ?)でも戦っています。

ボチカリョーワは一度アメリカに亡命し、そのときにロシア軍の実情、
男装して戦っている女性兵士が数多くいることなどを著書にしていますが、
その後再び戦列に復帰するために帰国したところボルシェビキに逮捕され、
(これが最初の逮捕ではなく、前回、前々回と内部の者に逃がしてもらっている)
ついに銃殺されてしまいました。


そういう素地というかお国柄なので、当然ながらソ連となったあとも、
戦線には女性が普通に立っていました。

ソビエト連邦軍に所属していた女性は80万人と言われ、全体の3%でした。
1941年、ドイツがロシアを攻撃したとき、そのうち数千名が
隊から離れたということですが、全体数が多く、パイロットや狙撃手など、
特殊な技能を持って前線で戦う女性兵士はむしろ奮い立ったのです。

以前、「レニングラードの白百合」とあだ名されたリディア・リトヴァクと、
「ソ連のアメリア・イヤハート」、マリナ・ラスコヴァ、エカテリーナ・ブダノワなど、
ロシアの女性パイロットについて一度お話ししたことがあります。
彼女らは男性と同じ戦闘機で男性の部隊に加わって戦闘を行っていました。

ソ連は、女性が戦闘機に乗って戦うことを可能にした最初の国家で、
彼女らの中から少なくとも20名のヒーロー、そして二人のエースが誕生しています。

ソ連と共産主義国家のジェンダー事情についてわたしは寡聞にして知らないので
なんとも判じかねるのですが、もしかしたら人民平等を謳った共産主義とは、
ジェンダーフリーも内包していた(理想として)のかもしれないと、
このソ連という国家が前線に女性をバンバン投入したのを見ると思ったりします。

そんなソ連ですから、陸上部隊の戦力として女性に狙撃手をさせることにしたのも
ごく自然なことであったという気がします。

現在でもオリンピックのエアピストル競技は、男女共通で行われます。
2位と3位の男性が、小柄な優勝した女性を二人で抱え上げている写真を
(しかも彼女は東洋系だったと思う)見たことがありますが、
性差に関係なく結果が出せるのが、1対1で対峙することなく敵と戦える
銃撃手だとソ連は判断し、戦闘機パイロットがそうだったように、
志願した女性兵士の中から
”レジェンド”といわれた女性狙撃手が出ました。

本日画像にしたのは、特に美人と言われた4人のスナイパーです。

左のリュドミラ・ミハイロブナ・パブリチェンコは、
たとえて言うならソ連のクリス・カイルのような存在だったと思います。
本日表題の「ロシアン・スナイパー」は当初の洒落のつもりでしたが、

パブリチェンコのことを調べていて、彼女の生涯を描いた2014年映画、

「ロシアン・スナイパー」

という映画があったことが判明しました。

Russia Sniper Army Meilleur Film d'action Complet en Francais 2014


フルでアップされているのですが、残念ながらフランス語版です。

パブリチェンコらしい銃撃シーンはとりあえず11分頃に見ることができました。

新しい方の「ロシアン・スナイパー」はこちら。

ロシアン・スナイパー


もともと学校のクラブで射撃部に入っていたパブリチェンコは、
ドイツが侵攻してきたときキエフ大学で歴史を学ぶ学生でした。
志願して狙撃隊に入隊した彼女は教育隊で驚異的な成績を上げ、
配属された部隊が行った防御戦では初陣にもかかわらず2名を射殺しています。

その後は独軍の侵攻を食い止めるため、前線に配備され続けましたが、
彼女は枯草で偽装して狙撃陣地に潜み、敵を一旦やり過ごしてから
その後背や側面に向けて700~800mの長距離から狙撃を行う、
という戦術を用いて多大な戦果を挙げたといわれています。

彼女が狙撃し射殺した公式の記録は309名であり、そのうち39人は

ドイツ軍の狙撃手(つまり同業者)でした。

短期間に少佐にまで昇進し、全軍にその名を知られるようになったため、
ソ連は彼女を失うことを恐れて教育隊の教官に任命し後方に下げました。

そして、国民的英雄である彼女の名声を利用して、軍は女子の狙撃手を募集し、
彼女に憧れた女性らが志願し、約2000名の狙撃手が生まれたそうです。


写真に残るパブリチェンコはシャープな感じのする美女ですが、
やはり美貌を謳われていた狙撃手にローザ・エゴロブナ・シャニーナがいます。

パブリチェンコより9歳年下(1924年生まれ)のシャニーナの名前は
ドイツの革命家ローザ・ルクセンブルグから取られました。
戦争が始まるまでは学費を稼ぐために保母をしていたシャニーナは、
1941年にドイツが侵攻後、入隊していた兄が戦死したことで、彼女は
自分も文字通り銃をとって戦うことを決意します。

志願して女性狙撃手となった彼女は、1943年から2年間の軍歴の間に
少なくとも54人を狙撃によって殺傷したと言われてます。
自身も戦傷を負い、女性で初めて英雄メダルを授与されました。

1945年1月20日、東プロイセンの前線で歩兵将校を守るために戦っていた彼女は
胸に砲弾の破片が直撃し、翌日亡くなりました。
彼女の部隊はすでに78人のうち72人がドイツの自走砲によって戦死しており、
彼女自身も多分自分は戦死するかもしれないと手紙に書いています。

戦死したとき、彼女は20歳と10ヶ月でした。


中央上段のクラウディア・カルディナ・エフレモブナの写真は、まさに天使。
ロシア人にしては小柄で(157センチ)アイドルのようなキュートな女性です。

彼女は1926年、シャニーナより2歳年下です。
戦争が始まったとき彼女は15歳で、コムソモール(若者のための組合)
に働きながら参加していましたが、スナイパー養成過程が「セカンダリースクール」
で選択できるということを知り、受けてみることにしました。

彼女はそのとき17歳。養成過程の最年少でした。
この写真もその頃撮られたものだと思われます。
彼女は他のスナイパーのように多くを殺傷したわけではありませんが、
特筆すべきは高校生の年齢の少女が人間を殺すために戦線に立っていたという事実です。

クラウディア・カルディナインタビュー

ここに、2010年、84歳の彼女にインタビューした記事がありますが、
ここで彼女は 最初にドイツ軍が侵攻してきたとき、
そこにいた何人かの女性狙撃手は人を撃つのが初めてで
どうしても最初に引き金を引くことができなかったと語っています。
その晩、自分のことを「弱虫!弱虫!」と自己嫌悪にかられて罵り、
次の日にはマシンガンを構えたドイツ兵を彼女はためらわず撃った、と。

一番右、アーリャ・モロダグロワは、その発音不可能なミドルネームからも
わかるように、カザフスタンの出身です。
カザフスタンの人々には東洋的な風貌が多々見られますが、彼女も
大変オリエンタルに見える女性です。



1925年、カザフスタンのブラクで生まれた彼女は幼いときに両親をなくし、
(一説ではじゃがいも畑で不法侵入を疑われ撃ち殺されたという)
叔父に育てられましたが、その叔父がレニングラードに引っ越した際、
彼女を若くして軍の輸送業務を学ぶ学校に登録しました。

4年後、奨学金を得ることができた彼女はそのまま赤軍に入隊し、
そこでスナイパーとしてのトレーニングを受けることになります。

戦闘に投入されるようになったある日、彼女と戦友(女性)は
緩衝地帯で5人の「ファシスト」と出逢いました。
彼らが彼女たちが女性の狙撃兵であると気づくより少し早く、
アーリャは彼らに向かって銃を放ち、一人を射殺しました。
彼女の同僚たちもさらに二人を撃ち、残る二人を格闘の末捕虜にしました。
 


1944年、第43狙撃隊に参加してノボソコルニキの線路で敵を待ち伏せしていた
彼女がふと気づくと、隊長がいなくなっていました。
とっさに彼女は自分が指揮をとる決心をし、こう叫びました。

「祖国のために!進め!」

その号令で全軍がドイツ軍の塹壕に飛び込みました。
マシンガンの掃射によって部隊はドイツ軍を掃討することに成功しましたが、
アーリャ自身は白兵戦の過程で地雷の爆発を受けそれが致命傷となって死亡しました。

時に19歳。

彼女がその生涯で狙撃した敵将兵は少なくとも91名になると言われています。



彼女の記念館の様子も見られます。

Имена - Алия Молдагулова (RU)

4分頃、女子狙撃隊の訓練や更新の様子が見られます。



イラストでご紹介できなかった女性狙撃手以外にも有名な何人かがいます。

タチアナ(ターニャ)・バラムツィナ

1919年生まれ。最終階級伍長。24歳でドイツ軍の拷問にかけられ死亡。
狙撃した敵兵は20名と言われています。
情報を聞き出すために両眼をくり抜かれ、対戦車銃で射殺されるという
無残な最後を遂げています。

ナタリア・コフショワ

1920年生まれ、1941年戦死。
すぐれた狙撃手で、ドイツ軍が侵攻してすぐモスクワでの戦いに参加し、
そこで300名以上の敵兵を狙撃したといわれています。

彼女の最後は、敵の塹壕に手榴弾のピンを抜いて飛び込み、
敵を殲滅するとともに自分も死ぬというものでした。

ジーバ・ガニエワ

1923年生まれ、アゼルバイジャン出身。

ウズベキスタン・フィルハーモニーに付設されたダンスコースで学んでいたとき
ドイツ軍の侵攻がありました。
通信業務とスパイ活動を行っていた彼女は活動中に戦闘に巻き込まれ負傷します。

狙撃兵の女友達がいたこともあって、彼女はそのあと狙撃手となり、
モスクワ攻防戦で21人のドイツ兵を射殺しました。

戦後彼女は学業に復帰し、1965年には文献学の分野で博士号を取っています。 



ローザ・シャニーナの日記には、彼女がほのかな想いを寄せていた
一人の男性のことが書かれていました。


「ミーシャ・パナリンがもう生きていないということを受け入れられない。

なんていい人だったんだろう!彼は殺されてしまった・・・。


彼はわたしを愛していた。わたしは知っている。そしてわたしも彼を・・。


心が重い。

わたしはまだ24歳。だけどもう男の友達は作らない」



心を寄せていた男性の死を嘆いていますが、自分がもしかしたら
恋愛どころか人生を若いうちに終了せねばならないかもしれない、
という危惧を感じている様子は不思議なことにあまり感じられません。


こうして何人かの有名な女性狙撃手が歴史に名前を残していますが、
赤軍は彼女らをを持ち上げて宣伝に使い国民の戦意高揚に利用したため、
実際の彼女らの記録はかなり水増しされていたという説もあります。

しかも生存者は生涯、人を殺したというトラウマに精神を苛まれることにもなりました。
 

彼女らのような若い女性が、対独戦においては2000人投入されましたが、
終戦時に生き残っていたのはそのうちわずか500名であったといわれます。