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呉海軍墓地~特設艇「黒潮部隊」かく戦えり

2015-01-24 | 海軍

昨年末戦艦「伊勢」の洋上慰霊式に参加するために呉入りした日、
誘ってくれた方と共に(というか付き合わせて)海軍墓地にもう一度行ってきました。 

前回は兵学校同期会のツァーの行程での訪問ということで、
時間がなかったのと、同行の方々がご高齢だったため
階段状になったこの墓地を見学するというプランではありませんでした。

というわけでわたしは皆が団体写真を撮り、バスに乗り込むまでのわずかな時間を利用して、
カメラを構えながら墓地の中を走り回ることになったのです。

その節は海軍墓地にお眠りになっている英霊の皆様、お騒がせして大変申し訳ありませんでした。


というわけで、ある程度はここでお見せすることもできたわけですが、
残りもご紹介したいとかねがね思っていたので、再訪することにしたのです。

「歴史の見える丘」からここまではタクシーでほんの数分の距離。
同行者はこの日の夜の予定に備えてパンプスを履いていたため、
「大和の碑」のある入り口近くで待っていてもらいました。

つまり人を待たせていたため、わたしはまたもやこの日もカメラを構えたまま走ることに・・。



できるだけ効率的に短時間で動くことができるように、わたしはまず
階段を一気に墓地の一番上まで駆け上がりました。
ここから降りていきながら撮影をするという計画です。



ここには四阿(あずまや)があり、ここからは呉の住宅街を一望に見下ろすことのできる展望台となっています。
呉港はここからはほんの少ししか見ることができません。



まず最初に現れたのが昭和15年に採用されたらしい主計科の戦没者慰霊碑。
それ以上の説明がないので、海軍経理学校を出た主計士官なのか、下士官兵なのかも全くわかりません。

それにしてもこの「昭和15年」のあとの漢字、
「山カンムリに一、王」
という文字を調べたのですが、手書き検索でも見つからなくて・・・。
多分この意味がわかれば手がかりになるのではと思われるのですが。



航空母艦「飛鷹」の碑は、大変大きく立派なものでした。

「航空母艦飛鷹の碑」

という揮毫はやっぱりというか源田實の筆によるものでした。
政界の実力者で達筆となると、こういう依頼も多かったと見えます。

もともと日本郵船の「出雲丸」という貨客船を途中で改造したもので、
就役してわずか6年後、マリアナ沖海戦で戦没しました。
ちなみに「飛鷹」で検索すると、赤い袴の鑑娘画像がうんざりするほど出てきますが、
その中に実際の人間がコスプレしたものがあったりして、
なかなかこちら方面にも人気があるのらしいとわかります。

なんというか、正直、ファンからはかなり異論が出そうなコスプレでしたが。


碑の前にあるたくさんの名前はマリアナ沖の際の戦死者で、

沈没時
    飛鷹乗組員 千三百余命
 
    戦死者   六百三十余名 

    鑑とともに深海に消えた勇士 二百五十余名

と記されています。
この内訳が少し理解できなかったのですが、史実によると、最後の沈没の際
鑑に残されていたのが艦長の横井俊之大佐始め247名であったということで、
その他のそれが戦死者の630余名に含まれるということでしょうか。

横井艦長が甲板に残存者を集め、軍艦旗を降ろした後、総員退去を命じ自分は鑑に残ったのですが、
その後海上に浮いているところを駆逐艦に救助され、一命を取り留めています。





みなさん、「日東丸」という船の名前を聞いたことがありますか。


大東亜戦争末期、軍艦だけでは戦えなくなった海軍は民間船を徴用しました。
貨物船はもちろんのこと豪華客船や捕鯨船、そして漁船です。

遠洋漁業などの小型船を、海軍は徴用し、

特設艦船

として戦線に投入しました。
たとえばこの駆潜艇に限って言うと、昭和16年8月くらいから、
マグロ・カツオ漁船を中心に徴用が始まっています。
重用された船のそれまでの船員は、その他の民間船と同じく、漁師なども皆、軍属として身柄を重用されました。

改造については駆潜艇の場合、「特設監視艇」に対潜ソナーとして
水中探信儀水中聴音器を備え、攻撃兵装として爆雷を装備していました。

しかし、徴用された船に乗っているのは漁師などの民間人で、
船体に搭載されているのは原始的なディーゼルエンジンである焼き玉エンジン。
速力は7~8ノットと低速で、とても戦闘ができるような船ではありません。
船体を灰色の軍艦色に塗装し、7・7ミリ機銃2丁を取り付け、乗組員用の小銃は2~3丁。

それ以上の武装ができなかったのは民間船を装うためという理由でしたが、
ミッドウェー海戦以後、本土にやってくる米軍の攻撃がひときわ激しくなり、

米軍も漁船が重用されていることをすでに知っているので、容赦せず狙ってきます。

対策としてさらに57ミリ砲や駆潜艇は爆雷も装備しましたが、いずれも貧弱なものでした。
そしてそんな装備のままで彼らは最前線の船団護衛に投入されたのです。


わたしがなぜ「日東丸」という名前に聞き覚えがあったかというと、
以前「パールハーバー」という爆笑仮想(一部史実)戦争映画についてのエントリで
ドゥーリトル隊を乗せた米軍機動部隊が日本の漁船に発見された、
という史実を、

「漁船に発見されたではカッコ悪いから」

という理由で巡洋艦に見られたということにした、ということを書いたときに、
この漁船が日東丸という名前であることを記憶にとどめていたからです。

このとき、この

「第二十三日東丸」

は、東京から700浬の海域で米機動艦隊を発見しました。

  • 6時30分 「敵艦上機ラシキ機体三機発見」と打電。
  • 6時45分 「敵空母一隻ミユ」と打電。
  • 6時50分 「敵空母三隻ミユ」と打電。

「パールハーバー」では米軍は東京空襲においても「軍事施設しか攻撃しなかった」
と言い張るために、発見された時も相手に攻撃を加えたとは描かれていませんでしたが、
ハルゼー提督は、すぐさまこの「漁船」の撃沈を命じています。

軽巡洋艦ナッシュビルと艦載機が差し向けられ、日東丸との間に戦闘が始まります。


  7時30分 「敵大部隊ミユ」の打電の後消息を絶つ

それきり日東丸の無電は途絶えました。

軽巡洋艦と艦載機相手に、とても勝ち目がないと見た日東丸は、
ナッシュビルに体当たりをするつもりで向かっていったと思われます。

  • 7時50分 ナッシュビル砲撃開始。
  • 7時57分 艦載機からの爆撃が開始され、日東丸はナッシュビルへの突撃を開始。



そして、ついに命中弾を受けました。

 (艦載機から見た日東丸)

   ●8時20分 第二十三日東丸は命中弾を受け炎上。

命中弾を受けてからわずか7分後、日東丸は沈没しました。
海面に浮かんでいた 乗組員は米軍の救助を拒否して全員戦死。


ハルゼーはこの後も日東丸のような特設監視艇を艦載機に探させ、
銃爆撃によって4隻を撃沈しています。

これらの徴用された漁船軍団は、横須賀鎮守府所属で

第22戦隊「黒潮部隊」

という通称で呼ばれていました。
漁船を漁師ごと徴用して戦線に投入することは、
日中戦争の頃からすでに行われています。


漁師は操船技術が高く海について熟知しており、荒波や、ときには台風でも難なく乗り切ることができます。
なんといっても揺れる船から遠くの魚群やカモメなどを見つけることができ、
さながら生きたレーダーのように、空や海の異変を察知できることが、
徴用された大きな理由だったのですが、問題はこちらの発見が早くとも
それを無電で知らせることによってすぐに敵に位置を確定され、敵からの攻撃を受けてしまうことでした。

米軍艦載機はまず低空飛行して、まず翼で監視艇のアンテナ線を切断し、
その後でゆうゆうと船体に銃爆撃を加えてくるのが常でした。
無線をやられ、まともな武器を持たず、艦長以外船員がろくな戦闘訓練を受けたこともない監視艇は、
そのままなすすべもなく米軍機の餌食となって海の底に消えて行きました。




ハルゼー率いる米海軍機動部隊との戦闘が「黒潮部隊」にとっていわば最初の戦闘になったわけですが、
反撃のできない船では見つかったが最後やられるしかなく、
従って終戦までに徴用された漁船約400隻のうち約200隻が戦没し、
7割がなんらかの損害を受けるという結果になりました。

最後の頃には兵学校出身の軍人ですら、その戦死状況については
全く内地に伝わってきていなかったという終戦直前の日本において、
黒潮部隊についても、たとえば戦死者は最低でも千数百名以上とわかっているのみで、
中には三万人を超すという説もあり、つまりいまだにその全貌は、ほとんどそれを伝えるものがないのだそうです。

「黒潮部隊」。

この名前をこのエントリで初めて知った、という方もおられると思いますが、たとえば戦後の日本で、
零戦搭乗員のように「ヒーロー化」されてその活躍が人々に賞賛されるなどということもなく、
彼らはその存在すらまったく戦史から忘れられた存在となっています。

しかも彼らは軍属という立場であったため、
死後の叙勲はおろか年金などの補償も曖昧なままになっているのです。

(第23日東丸の乗組員は、のちに金鵄勲章を叙勲されている)

漁師の徴用は「赤紙」ならぬ「白紙」と呼ばれる通知でやってきました。
この「白紙」一枚で、漁師たちは、
ほとんど生きて帰ることは望めない戦場に出て行きました。
その実態は特攻といってもいいような状況だったため、監視艇や駆潜艇の船員は
食料に真っ白い米を好きなだけ与えられていたと言います。

しかし監視艇が無電を打ったが最後、敵に撃沈されるしかなかったという構図は、
海軍が漁師の命を「使い捨てレーダー」にしていた
というに等しく、
いかに内外で軍・民間問わず命が大量に失われていたかを考えても、

それでも他に何か方法はなかったのかと、暗然たる気持になります。


さて、この慰霊碑の第18特設駆潜艇ですが、呉鎮守府所属で
就航から7年目に徴用されて駆潜艇になっています。
開戦後はずっとラバウル、マカッサルなどで護衛任務に就き、
昭和19年にはケンダリーで対空戦闘も経験しています。
しかし、武運強く生き残り、終戦の年の12月31日に解傭処分となりその生涯を終わりました。

艦長は三人いましたが、海軍兵曹、海軍少尉、海軍中尉。
(最後の大村中尉は任務途中で中尉昇進)

彼らは軍属の上に立つという立場だったため、将校といっても
商船学校出身者や学徒兵から成る予備士官ばかりでした。

そのような存在であったためその記録はほとんどちゃんとしたものがなく、

戦死した軍属の補償金も貰えたりもらえなかったりで、
未だにある漁村ではそのことが原因で村人たちの間に齟齬を生んでいるのだそうです。


あの戦争で亡くなっていった方々、靖国神社に祀られている命(みこと)のなかに、
小さな漁船にに乗り込んで、投網を銃に持ち替え、日本を守るために
必死で戦っていた特選艦艇の多くの漁師たちがいることを、わたしたちは決して忘れてはいけないのです。