ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

靖國神社 2024年1月1日午後4時

2024-01-09 | お出かけ

東日本大震災以来の未曾有の大災害の報せを何処でお聞きになりましたか。
わたしは他でもない、靖國神社の境内でした。

時間は2023年の年末に戻ります。

■ 2023年末



1年に一度の帰国の機会にMKがやらなくてはいけないことの一つ、
歯医者関係の予約も仕事納めギリギリに入れてもらい、
この日は朝から汐留と歯医者のハシゴとなりました。

汐留ではクリーニング、代官山では矯正の後チェックです。

終わってちょうどお昼時間になったので、いつのまにかできていた
歯医者の向かいのビルのブルーボトルコーヒーに入りました。

後で知ったのですが、このときオープンして1週間目だったそうです。


当店目玉のブランチプレート、「サーモン」。

といってもよくあるスモークサーモンサンドではなく、宮城産の鮭を
半生に仕上げたメイン、焼いたアボカド、たっぷりの野菜、半熟卵。

パンがまた驚きの美味しさで、パレスホテルにも入っている
「Et Nunc」のものを使用しているとのことでした。



夜は銀座の我が家行きつけの割烹で。
MKがマグロ付きなので、食材については前もってお願いしておきました。



湯気が立ち昇る熱々の蕪の煮物。
わたしは飲めませんが、他の三人(TO、MK、関係者)は
「利き酒」でお酒を楽しんでいました。
ちょっとずついろんなご当地酒を出してもらい、
「これ」というのを決めて注いでもらいます。



カモ好き家族なので、これがメイン。

MKには日本に帰ってきた時の「バケットリスト」があって、
短い滞在時間、しかも年末年始の予約の取りにくいところで
そのTO DOをできるだけ叶えることを目的にしているわけですが、
我が家に比較的近い坦々麺の店がコロナで潰れてしまい、京都の鶏専門店も、
大将が引退して途端に味が変わったため、リストから外れました。

残ったリストの中から実現したもう一つの店は・・・、



東京駅前ホテルの和食店の昼食にしか出さない鯛茶漬け。
市場からの仕入れができない年末年始は予約が難しいのですが、
今年は奇跡的に?30日にいただくことができました。

この日は丸善でMKがメガネの調整、わたしはTOの勧めで
インターネットをするときのブルーライト対応メガネを作るという用事。
眼鏡屋さんのおかげで24時間駐車場が使えたので、
東京駅の地下街を歩き、八重洲口まで行きました。

MKが大学の女友達に「クレドポーの化粧落とし買ってきて」と、
あんたはどこのマダムですか、と聞きたくなるようなお願いをされていたため、
八重洲口の大丸のデパコス売り場しかあるまい、となったのです。

知らなかったんですが、クレドポーって、デパートにしかないのね。

クレドポーどころか、わたしはデパコスそのものに滅多に足を向けないのに、
このお嬢さん、日本旅行の際、日本の化粧品の優秀さにしてやられ、
化粧落としはこれでなくっちゃ、となっているんだとか。

お店の美容部員に、人事のように(人事ですが)
これいいんですかねー、と聞いてみましたが、さすがプロ、
彼女はわたしに買うつもりが全くないのを瞬時に見抜き、
セールスどころか相手にもしてくれませんでした(笑)



晩御飯も東京駅近くで食べます。
迷った末、我が家では評価の高い?スープストックTOKYOで。

31日は大掃除と新年の用意、
年明けの瞬間は家族で祝いました。

同じ時間、おめでとうと言い合った能登半島の多くの人々も、
次の日に災害が起きることなど微塵も過らなかったに違いありません。

わたしたちがそうであったように。

■ 2024年元旦



1月1日の朝。
我が家はお雑煮で祝い、新年ということで日本酒も少しいただいて、
のんびりと初詣に出かけました。

最初はいつもの靖國神社からです。

いつもなら駐車場を待つ長い列が靖國通りに伸びているのですが、
今年はそうでもありません。
わたしたちはいつも通り近くのコインパーキングに停めて歩いて行きます。

到着すると、10分後の3時45分の昇殿参拝にすぐに参列できるのがわかり、
これも今年は人出が少ないせいかなと思いましたが、
すぐに案内されるに越したことはありません。

一度に昇殿する参拝客もいつもの3分の1にもならなかった気がします。

参拝経験者はご存知と思いますが、靖國での昇殿参拝は、
まず受付で玉串料を納め、参集殿(待合所)でお茶を飲みながら待ち、
予約の参集が告げられると、皆で手洗い処を経て、
まず拝殿に案内され、そこで神職からお祓いを受けます。

その後、渡り廊下を通って本殿に上がり、そこで神職が
玉串料を納めた参拝者の名前に『〜い』という語尾をつける
独特な呼び方で名前を読み上げ、最後に二礼二拍手一礼をします。

そして本殿から参集殿に戻る渡り廊下の途中で
巫女が注ぐ御神酒を盃に受け、本殿の方を向いていただき、
お下がりを受け取って終わりです。

所要時間は約20分。

わたしたちが本殿に上がろうとしていたまさにその頃、
能登半島全域では地震が起こっていました。

わたしが最初にそのことを知ったのは、本殿に上る寸前、
何があったのか渡り廊下で5分ほど足止めされているときでした。

並ぶ列の後ろから、

「震度6以上だって」

という男性の声が聞こえてきたのです。
しかし、東京での揺れは場所によってはほとんど感知できず、
靖国神社の本殿にも揺れるようなものがなかったこともあり、
わたしたちはその重大さに全く気づいていませんでした。


お札に毛筆で字を書き込む人の手が足りず、
受け取り処でTOが待たされている間に福引をしましたが、
ご覧のように全く人が並んでおらず、全く待たずに御籤を引いて
順当に入浴剤を3つゲットしたときも、周りには何の変わった様子もなし。



冒頭の写真を撮った時からこの写真までの間に大災害が発生しました。
このとき歩いている人の中には、実態を把握していた人もいたかもしれません。



そのときも、わたしたちはまだ事の重大さは把握しないまま、
靖国神社に続いて、恒例の虎ノ門金刀比羅宮でお参りをしていました。

毎年のように紹介していますが、この金刀比羅宮は、
高層オフィスビル、虎ノ門琴平タワーを複合施設に含みます。

1679年に虎ノ門に遷座され、2001年には歴史的建造物指定されています。



その日の夕食は永田町のアパホテルへ。
元日なのでホテルしか外食は開いていません。


アパホテルといっても、ここは永田町。
場所柄、ここはアパホテルに「プライド」が付きます。
正確には「アパホテルプライド国会議事堂前」。

併設のレストランもとれたて魚と野菜にこだわった健康志向の小料理屋です。



メインはわたしにとって三度目となる鹿肉のロースト。
美味しかったです。

ただ、わたしとしてはここのBGMが気になって仕方ありませんでした。

何処かで聴いたようなコード進行の、たるいボサノバが4曲、
延々と繰り返されているのですが、普通の人は気づかずとも、
わたしにはその気持ち悪さの理由が2曲目にしてわかりました。

これらのボサノバ、どれも「テーマを演奏していなかった」のです。
最初から最後までアドリブだけ。
盛り上がりなし。パッションなし。アドリブに始まりアドリブで終わる。

注意深く聴いていると、その4曲のボサノバ、
「サマータイム」「枯葉」「オーバーザレインボウ」
(後一つ忘れた)のコード進行でした。

ははーん、これはJASRAC逃れのオリジナルBGMだな、
とわたしはピンときましたね。

こんなことを現実にやっている(というか企画した)人がいたとは、
初めて聴いたのでショックといえばショックでしたが、
アパホテルといえば全国展開しているので、
かすらっくに払うお金は結構大きいんだろうなと察しました。

新年早々、なんかすごいことを知った(聴いた)という感じ。

さて、この頃になると、わたしたちも主にTOのスマホ情報で
能登地震がただごとでないらしいとわかってきました。

それでも、まだ、そのレベルが激甚災害であるとは夢にも思っていません。

■ 1月2日

2日が明ける頃には地震の情報もニュースからわかってきました。
何人かの北陸在住の知人に連絡を入れたところ、
まず先日伺ったばかりの富山の鋳造会社は全く被害なし。
氷見在住の知人はちょうどその時間我々のように神社にいたそうです。

氷見も揺れが激しく、神社の石灯籠が倒れている映像もあったので
心配していましたが、無事ということで一応ほっとしました。



この日は新しくできたばかりの麻布台ヒルズでランチを予定していました。

2023年の11月終わりにオープンした森ビルの「新ヒルズ」で、
今東京で最も注目されている商業施設です。
ショップやレストランはもちろんのこと、レジデンスがあり、
ブリティッシュスクールも併設、ホテルもオフィスもあり。

この日選んだのは創作イタリアン。



カウンター式のテーブルで味わうシェフの一品。
本来はその日の食材をシェフと相談しながら料理法を決めていくのだとか。
この日はお正月なのでプリフィックス?です。



今回の年末年始を通して4回目となる鹿肉料理。
最近どうしてこう鹿肉が多いのだろう。

しかし、ここの鹿が全ての中で最高峰でした。
それはMKも同じ意見。



食後は麻布台ヒルズの中を探索してみます。
ニコライ・バーグマンの専門店があったり、ルルレモン、
(アメリカ西海岸発祥のおしゃれなスポーツウェアブランド)
コンランショップ、リナーリなど、ショップもクラス高め。



一階には大きなスターバックスがあるのも当然ですが、
なんとここには嵐山でお世話になった%アラビカが!



順番を待つ列のためのロープスタンドにも%マーク。
%=コーヒーの実、というのはもうお話ししましたっけ。



1月2日ということもあってすごい賑わいでした。
オーダーしてからポケベルが鳴るまで20分はかかったかもしれません。



カフェからは外のスペースに出ることができます。
聳え立っているのはおそらく住居棟。
地上64階高さ330メートル、現在日本一高いビルとされています。
(2位あべのハルカス、3位横浜ランドマークタワー)

万が一災害が起きた際には、3,600人ほどなら帰宅困難者を受け入れ、
また防災拠点としての役割を担う設備も備わっているのだとか。



そしてその日の夜、MKの「焼き鳥が食べたい」というリクエストで
麻布台ヒルズから東京タワーの近くのホテルに移動したときです。

「JALと海自の飛行機が羽田で衝突したって!」

TOが小さく叫んだのでわたしはすぐにiPadをチェックしました。

なぜ海自の飛行機が羽田にいるのか、とまずそれが違和感でしたが、
秒後にそれがTOの海保との勘違いであることがわかりました。

海保機は能登に緊急物資の輸送に行くところでした。
つまり、地震がなければ起こるはずがなかった事故だったのです。

またもや知る悲惨なニュースに暗澹たる気持ちになってからは、ずっと
海保機の乗員の無事を祈り、安否を案じていたのですが・・・・。

■ 1月3日

次々と明らかになる情報に誰もが心を痛めていたに違いないのですが、
東京はいつも通りの、いや、いつもより観光客の多い、
華やかな賑わいを見せていることがわたしには不思議な気がしました。



MKが4日に帰国するので、われわれはこの日も街に出かけました。
日本橋三越前のCOREDO室町です。

COREDO日本橋の語源?は、きっとお江戸日本橋に違いない、
とわたしは信じてやまないのですが、この日来たのは室町。



道に面した有名な和菓子店では、カウンターで和菓子職人が
4つのサンプルから選んだ好みの和菓子を目の前で作ってくれ、
抹茶と一緒にいただくことができるというサービスをやっていました。



餡のかたまりを指でちょいちょいと触り、茶巾に包んで形を作り、
小さなザルのようなものであっというまに花芯が出来上がり。
計ってませんが、おそらくできるのに1〜2分しかかかっていない気がします。

MKはここでお店が出している「星の子カービイ」の最中、
というのを大学の友達のお土産のために買って帰りました。

■ 1月4日



そして次の日、MKを成田まで送りました。
飛行機追跡アプリを寝る前に確認したら、それは太平洋のど真ん中にいて、
朝起きたら無事にサンフランシスコに着陸していました。

そして、MKからは到着時に機上から撮った大学の空撮写真が。
上の丸は大学のシンボルタワー、下は彼の住むアパートです。


運命とは不思議なもので、今日自分が生きてここにあるのも、
多くの偶然の中からたまたま無事な方を選んできた結果にすぎません。
それがいつも、そしていつまでも同じである保証はどこにもない、
ということを、この年明けにあらためて思い知らされたような気がします。

衒うようでこんなことを言いたくはありませんが、だからこそ
今日一日に感謝して、誠実に生きるべきなんだと。




年末富山のきときと旅

2024-01-05 | お出かけ

みなさま、遅ればせながら明けましておめでとうございます。

年末の京都旅行のログで、unknownさんから、
「能登半島でなくてよかったですね」というコメントをいただきましたが、
実は、その直後に能登半島の根元富山にいました。

TOがお付き合いのある方の企業が高岡市にあって、
以前も会社訪問したときの報告を当ブログでさせていただいたものですが、
今回はMKが帰国してくることもあって、その企業が一般向けに出している
鋳造体験を一緒にしてみようと思い立ち、訪ねることにしたのです。

そのことをブログに上げようとしていたら、能登半島に地震が起こり、
ニアミスに驚いて現地の知人に安否を問うたところ、
皆無事であると聞いてほっとしたところです。
 

出発の前日はクリスマスイブでした。

雰囲気を味わいに、みなとみらいに新しくできたレジデンシャルビルにある
オランダ人シェフの店(名前に”ヤン”がついてる)にいってみました。

コロナに斃れたTOも復活して病以来初めての家族でのお出かけです。



みなとみらいの遊園地とスイカのホテルを眼下に臨みます。
最近は東京横浜にこのような高層住居ビルが乱立している感があります。



ヒラマサのタルタルを赤玉ねぎのグラニテ(シャーベット)、
ズッキーニとコリアンダーでシャレオツに仕上げてあります。



メインは鹿肉でした。
京都に続いての鹿肉です。
出口にヤコブ・ヤン某というオランダ人シェフがいたので、
わたしが先に、次にMKが挨拶したら、MKにだけ、

「おおー英語うまいですねー」(英語で)

と。
ふん、どうせわたしゃ日本人英語ですよーだ。


さて、次の日は羽田から富山きときと空港に向けて飛び立ちました。
羽田から日本海側に飛ぶので、スカイツリーがよく見えます。
「きときと」とは富山の言葉で魚などを新鮮だというときに使う言葉です。

人に対して使う時には気力が充実した人、と言う意味だそうですが、

「あんた、きときとやね」

と言われたら、よそ者は自分って生魚臭いのか?とか思いそう。



なんとなく下界を眺めていたら、一箇所から煙が上がっていました。
後で調べたら、10時すぎに練馬区富士見台で民家が火事になってました。


「クリスマスに火事・・・気の毒に」

と呟いたのですが、この後のお正月にそれどころではない災害が起きるとは、
このときのわたしたちには知る由もありません。


連なる山波の向こうに富士山を確認。



ものの1時間できときと空港に到着です。
2日前に大雪だったそうで、雪が積もっています。

現地に行くための服装を決める時、Siriさんに富山が雪か聞いたところ、
きっぱりと「雪は降りません」と言うので普通の靴で行きましたが、
地面にこれだけ残っているのなら、それをまず教えて欲しかったんだが。

やっぱりこの辺りがAIの限界かのう。

■ 高岡オフィスパークに到着



空港からレンタカーで30分ほど走ったところにある、
高岡銅器の老舗メーカーに到着。

駐車場の仕切り線がすでにオリジナル製品のカタチをしています。

大正年間創業後、仏具メーカーでしたが、
2000年代に可塑式のテーブルウェアなどに乗り出し、
そのユニークなデザインと発想が世界的に有名になり、
今ではへバーデン結節患者が関節を固定する医療機器、
近々本格的なジュエリーデザインにも乗り出すという勢い。

地域の元気な企業として長らく注目され成長してきました。



前回から今回までの間の会社の発展を表すように、
建物内にお洒落なカフェが出現していました。
商品の展示コーナーと隣接して窓際に並んだテーブルで、
ランチやデザートをいただくことができます。

当社の器で地元食材を楽しみ、販売にもつながると言うわけ。
美味しくてしかも安い。
このボリュームたっぷりの牛焼肉丼セットがなんと1,800円!



デザートもとってもお洒落で映えどころではありません。



「能サクッ(会社名)!アップルパイ」

と名付けられた大人気のデザートは、発酵バターのパイカゴの中に
中にさつまいもペーストを仕込んだリンゴがかくれているというもの。



このカゴも当社製品をイメージしたもの。
これが1,500円なんて信じられません。
(会長が『1,800円にすべき』とおっしゃっていたけど、それでも安い)
パイもただの飾りというにはあまりにも美味しい。

スウィーツのデザインは、新社長の娘さん(子供)がしているそうです。
普通にすごい。

■ 体験制作と工場見学

さて、食事が済んだら、この旅の目的である制作体験です。



これも以前はなかった「ラボ」。
同時に何組もがグループで体験制作をすることができるスペースです。

手前にあるぐい呑み、小皿のどれかを選んで製作します。

この日は女性ばかり六人のグループと一緒になりました。
ラボの反対側では中国人らしい旅行客の三人組がいて、
インストラクターは英語で対応していました。


わたしとMKはぐい呑み、TOは小皿。
土に型を埋め込んで、インストラクターの言う通り、
こねたり型から取り出したりしているうちに、型ができるので、
そこに錫を流し込むとすぐに固まります。

商品として売るためにはこれらに見えるような模様は
研磨して取り去らねばなりませんが、体験ではそのまま持って帰ります。

最後は器の底に好きな文字を刻印してできあがり。



土に埋め込む型とはこのようなものです。
錫が土と型の間に入って中空の形ができます。

今は使っていない型を美術館のように展示していますが、
このような説明も前きた時にはありませんでした。



この後は、新社長自らのご案内による工場見学。
地震を知った時、真っ先にこの型展示が崩れなかったのかを思いましたが、
いくつかものが落ちた程度で何か壊れたと言うような被害はなかったそうです。



しゃがんでいる方は、さっきわたしたちが体験したのと同じ工程を
専門の場所でしておられます。
土を固めるとき、わたしたちは道具で押さえましたが、
本職の方は上に乗って体重で踏み固めていました。



職人の仕事にもいろんなレベルがあって、
この研磨によって模様をつけたり滑らかにする作業は
ベテランにならないと手がけることができないのだとか。

前にある掃除機の大きなノズルは粉塵を吸い込むものです。

工場内は夏でもクーラーをつけることができませんが、その理由は
クーラーによる風が粉を撒き散らすからだそうです。
夏の職場はきっと超過酷でしょう。



仕上がった製品が梱包前に置かれる場所。
ミッキーマウスの形のお皿が見えますが、もちろん
ディズニーと契約をしています。
他にはドラえもんとのコラボ商品もあったと思います。


一般の人には見せないのですが、と特別に見せてもらった倉庫には
過去依頼されて納めたもの(お寺の飾りなどが多い)が、
会社の資料&目録として展示されていました。



前回来た時にはあったかな?
2階から作業場が俯瞰できる見学通路。
通路だけでなく作業場そのものも明るく綺麗に改装されています。


わたしたちはショップでこの猫3匹(有名なデザイナー作らしい)の
箸置き(1匹ずつ切り離して使う)と、


ペンダントを購入させていただきました。
右上のチャームは宿泊した民家にあったギフトです。

■ 宿泊体験



この会社は富山県下の「木彫りの町」として有名な伊波にある
Bed and Craftという宿泊施設とタイアップしており、
地元の古民家を買い上げて一棟単位の宿泊所として売っています。

まず、本社から車で30分ほど行ったところにある伊波に到着。
この素敵な古民家は、この地域に5軒ある宿泊所の「フロント」です。



かつての姿を残しながら居心地の良い今風空間に改装してあります。
そして至る所に見られる「木彫の街」のアーティスト作品。
廊下の突き当たりにも作品である木彫の額が見えています。



家具もアンティークを中心に、懐かしさを感じる空間に。
ここでお茶とお菓子をいただきながらチェックインをし、
宿泊する家の場所とキーの暗証番号を教えてもらいます。



われわれが泊まった家は、元料亭だったそうです。
軒にかけられた「金中」というのが料亭時代の屋号。
今は部屋の名前となっています。


床はもともと畳だったのを張り替えてありましたが、
敷居や柱はオリジナルをそのまま使っています。
この手の古民家は北国では冷凍庫のように寒いのが相場ですが、
ここは全館ダイキンのエアコンが空調を行い、
さらに石油ストーブでガンガン温めることができるようになっています。

お風呂も全自動で水回りは大変快適でした。


かつてのお座敷を洋室に作り替えました風の居間。
違いのわかる男がタバコの煙をふかしそうなイメージの部屋ですが、
いまどきなのでもちろん全館禁煙です。



雪見障子、(壊れていて半分しか上がらない)雪の積もった坪庭。
立派な観音開きの扉の向こうにはかつて仏壇でもあったような・・・。



大画面テレビだけがはいっていました。
扉を開けると隙間風が猛烈に入ってきました。
やっぱり基本的に日本家屋寒いです。



キッチンは無印良品(風)の製品多し。

ウェルカムドリンクとしてシャンパンが一本用意されていましたが、
旅先では誰も飲まないので持って帰っていただきました。

フロントとの連絡は、ルームサービス含め、皆iPadから行います。
さすが今時の宿泊所です。



朝起きてコーヒーを淹れてみました。
長期滞在できるように食器も什器も揃っています。


浮き彫りの目隠し模様が入ったガラスは年代を感じさせます。
キッチンの窓は道路に面していて、ここからも冷気が入ってきますが、
それもそのはず、窓の鍵が昔あったような「ねじ式」なんだ。

うわー懐かしい・・・。
こう言うの見なくなって何年くらいになるだろう。



地元のアーティストとコラボしているというのが売り。
この家ではまず、階段の踊り場に鹿の彫りものあり。



階段を上から見ると踊り場に鹿がいて・・・、



見上げると吹き抜けにこれもアート作品、
木彫りのシャンデリアがあって、これがここのメイン作品らしいです。



玄関に並んだ小さな額も全て木彫作品。



寝室は2階に2室。
わたしはこの部屋を一人で占領しました。



こちらの部屋はほとんど昔のまま。
和室に床の間、引き戸の外の廊下にある謎のテーブルと椅子。

■ 地元の会席料理



その夜は会長と社長のお招きで地元の創作料理屋さんへ。
なんとこの日、お店は貸切になっていました。

ここのお料理も会社とコラボして器をふんだんに使っています。

「しふく」というこの料亭の料理は、
一棟貸切のプランに含まれているそうです。

地元の店や企業と連携して都会や海外から人を呼び、
地域の活性化を図っている様子がうかがえます。



お好きな方にはたまらない。
コウバコガニまるまる1匹。
だがしかし、MKはもちろんわたしはカニ苦手・・・。

会長の、この味噌がもうたまらんのですとか、
小さい時にはおやつがわりに食べていたと言う話をへーほーと聞きながら
実はモテアマしていたことを懺悔と共に告白します。



それからこの巻貝。

爪楊枝を引っ張ってみたらずるずる〜〜〜と中から出てきて
それを見たわたしは内心ひええええと怯えてしまいました。
お好きな人すみません。

我が家全員、前世で何があったのか、甲殻類貝類が苦手なんです。
帆立貝の刺身は好物なんですがね。

これはMKはもちろん、TOすら食べなかったそうです。

でも、とにかく「とれとれきときと」の海の幸、
特にお刺身は大変美味しゅうございました。



次の朝コーヒーを飲んでいると、楚々とした若いお嬢さんが
頭に布を被った出立ちで朝食を届けてくれました。

温かいおにぎりと半熟卵のサラダ、スープ。

■ 木彫りの町



玄関のアート作品の間に古い集合写真あり。
説明がないからわかりませんが、職人風の人が多いことから、
昔この辺で仕事をしていた木彫職人の記念写真ではないかと思いました。



チェックアウトしてから、前の日から目をつけていた
「ただものでない」感じの珈琲店に行ってみました。

ここも古民家改造店舗で、反対側にはやはり宿泊所があります。



宿泊室への入り口が同じところに。



隣の家の壁は触るわけにいかないのでそのまま残されています。
崩れそうな土壁。
こういうの、地震が直撃していたら危なかったのでは・・・。



なんと、ゲイシャをプアオーバーで淹れてくれる店でした。
いやもう地方の文化程度はすごいことになっています。

しかも、プアオーバーで淹れたコーヒーは、
冷めていくと味が変遷していくこともよくわかっているバリスタで、
カップとビーカーに分けて運んできてくれるとは。

感激です。



店舗の2階が喫茶室になっていました。
柿の実のオレンジが雪景色の中でほっこりと温かい。



パン屋さんの壁。これも木彫りです。



木彫りの町井波を少し車で走ってみました。
人の姿少なめ。



地元のお酒一種類だけを扱っている酒屋さん。
看板はもちろん木彫りです。



越後屋という木彫りの店。



ネズミさんが木彫りで看板を製作中。
尻尾を命綱にしての作業です。



新聞屋さんの看板猫も木彫りです。



木彫りの町の中心にある瑞泉寺は、山門が見事な木彫でできています。
木彫りのお手本のような建物で、よく職人が勉強に見にくるのだとか。
この山門は有形文化財に指定されています。



さすがは木彫りの町、自動販売機も木彫りのカバー付き。



というところで、空港に行く前に富山駅近くでご飯を食べました。



駅のお酒屋さんでジンを味見しているMK。
ジン好きの彼は、オールドトム系ジンを今回東京で買って持って帰りました。
(といわれても何のことかわたしにはわからないのだが)

この後地震が起こった時、ニュース映像で
富山駅のこのモールの映像が流れたような気がします。

わたしたちが能登の地震のニュースにびっくりしたのは
これから6日後のことでした。











嵐山・祇園2023年末旅行

2023-12-31 | お出かけ


MKが帰国する日、朝からTOが具合悪そうにしており、
熱もあるということだったので、空港への出迎えはわたし一人で行きました。

羽田国際空港は海外からの観光客で混雑しており、
空港から出るのに検査とその結果待ちで何時間もかかったり、
バスで千葉のホテルに連れ去られて隔離されたりといった事態が
まるで夢だったかのように平常の年末の様子が戻ってきていました。

出てきたMKにTOが熱を出したことを伝えると、

「コロナの検査キット買って帰ったほうがよくない?」

と提案するので、前回MKのためにキットを買った薬局でブツを購入し、
帰って検査させてみたところ、ビンゴ

1年前の正月に帰国してきたMKが、
アメリカから来た友人と明治神宮でコロナをもらって発病したのに続き、
我が家で2番目のコロナ罹患者となってしまいました。

2年前ならいざ知らず、コロナがほぼインフルエンザ化した今日び、
家族がコロナになってもそんなにパニックにはなりませんが、
問題はMKが帰ってきてすぐに予定していた家族旅行です。

我が家ではこの年末に家族旅行を2連発で決行することになっており、
第一弾は、実家にMKを連れていく関係で、いつもの京都だったのですが、
これでTOの参加は不可能になったため、飛行機の予定をとりやめて、
わたしとMKだけが車で関西に行くことになりました。

わたしたちが濃厚接触者として菌をばら撒く可能性もあったので、
出発の朝わたしたちも検査して陰性であることを確かめての出発です。

実は今年の春、車を買い替えていたのですが、
夏は2ヶ月日本にいないことと極力外出を控えたため、
この車でまともにロングドライブをするのは初めて。

前回から今回の間に車の特にIT関係のシステムが激変しており、
その使い方も隣にエンジニアリング専攻のMKが乗って
あれこれと調べて使い方をサーチしてくれたので一石二鳥です。

今年はカード会社の優待券を利用できる嵐山のホテルをとりました。



昔料亭だった場所をマリオット系のホテルが買い取って、
ラグジュアリーホテルとしてオープンさせた「翠嵐」に一泊。



神戸川崎財閥の創業者、川崎正蔵の別荘として建てられ、
建築当時は「嵐山御殿」と称された屋敷や庭を残し、
当時の趣きと現代の快適さを融合させたホテルです。

のんびり出発したせいで到着が7時になったのですが、
車を外に停めてこの門をはいっていくと、どこで見ていたのか
ホテルマンが二人お迎えに中から現れました。

そのうち一人が金髪長身の白人男性だったのにちょっとびっくり。

外国人観光客用に採用したスタッフだと思いますが、
東京以外でも白人ワーカーが普通にいるのが今の日本。


宿泊棟はホテルとなった時に新築されたようです。



クリスマス前だったので部屋にツリー飾り。



到着したときにはお腹が空いていたので、コンシェルジュの
レストランに予約をとりましょうかという提案にOKを出しましたが、
行ってみると平日のクリスマス前で客はわたしたちだけ。

飲みもしないのにソムリエがいるレストランで、
しかもメニューもそんなに多くありませんでした。(高いし・・)
後から考えれば、ルームサービスかカフェでもよかったのかな。

まあ、このたたき風は普通に美味しかったからよしとしよう。



MKのフィッシュ&チップスも美味しかったそうです。
さすが京都、フィッシュ&チップスが天ぷらに見える。


朝目覚めて外を見れば、目の前に開ける嵐山の麓。


関西人なので子供の頃から数えて嵐山には何度も来ていますが、
川沿いの光景や岸の貸しボート屋などは変わっていません。

左手の奥にはモンキーパークいわたやまなるものがあって、
120匹の猿が餌付けされているのを観察できるそうです。

昔知り合いに、京大の霊長類研究グループの人がいたのを思い出しました。
ここは彼らの研究のフィールドワークの場となっているそうです。

オープンは1957年ということですが、
わたしは今回までその存在を知りませんでした。


ホテルに到着した時はもう日が暮れて真っ暗でしたが、
MKがめざとくホテルの近くに「%アラビカ」というコーヒー店を発見。

京都発のコーヒーブランドで、SNSで有名になり、
京都に3店舗を構えるほか、今や香港、中国、シンガポール、
フランスなど世界17カ国(2021年8月現在)で展開し、
2021年にはニューヨークにもフラッグシップ店がオープンしました。

ドバイにもあるそうです。

次の朝、オープンを待ちかねて行ってみたら、
なんと店の前にはすでに待ち列ができていました。

平日だったせいか、周りにいるのはほとんど海外からの観光客。
日本人に見える人たちはほとんどがアジアからの非日本人でした。


アラビカ京都のシンボルは「パーセント」。
コーヒーチェリーに実がなっている様子に似ていることから選ばれました。



カフェスペースは1卓しかなく(しかも外)、
そこは予約の上料金を払って使用するシステムです。
店内は浅煎りにローストした豆やオリジナルグッズが展示してあります。

グッズは予想通り、%だけをあしらったバッグ、エプロン、シューズなど。



オーダーしたらポケベルを持たされるので、外で待ちます。

冬は「嵐山」の名前の通り強風が吹き、夏になると
ぴたりと風が止まってひたすら蒸し暑い京都でこれはなかなか大変ですが、
美味しいコーヒーを飲むために皆そんな努力を惜しみません。

そしてここでコーヒーを買った人のほとんどがやるように、
わたしも保津川にかかる渡月橋をバックに写真を撮ってしまうのだった。

わたしはオーツのラテ、MKは普通のラテをオーダーしましたが、
どちらかというとオーツの方が美味しかったような気がします。

さて、その後、ホテルの方から人力車ツァーの提案をいただきました。

車での送迎を必要としなかった客は、その代わりに利用できるとのことで、
わたしたちは喜んで12分だけの人力車体験を申し込みました。


きっと寒いだろうとマスクまでして出動しましたが、
カイロのようなものを座席に敷いてくれ、膝掛けもかけてもらい、
覆いもあったので、思ったほどではありませんでした。

ただ、袖口の開いたセーターを着ていたため、そこだけ冷気が辛かったです。

人力車を引く方は追加料金で遠出を提案してくれたのですが、
時間があっても手首が寒すぎてそれは断念しました。



有名な天龍寺の嵐山五百羅漢の前を通りました。
お釈迦さまの直弟子が五百人いたことから、彼らをそう呼ぶのですが、
ここには百体の奉納された羅漢像がならんでいます。



羅漢の近くにあった古い石像は、力車の人は知らないということですが、
どうも朝鮮半島経由のもののような雰囲気がします。


写真は力車の人が客のスマホで撮ってくれます。
豆腐屋の前で撮った写真は「雰囲気を出して」モノクロでした。



ホテルの前の駐車場まで帰ってきてツァー終了。
袖口さえ寒くなければ延長をお願いしたかった・・・。



チェックアウトしてから、ホテル内のかつての庵を利用したカフェ、
「茶寮 八翠」で予約したランチをいただきました。



保津川のウォーターフロントで、行き交う遊覧船が望めます。
外のテーブルでいただくこともできますが、遠慮しました。


茅葺き屋根の庵は1910年に建てられたものをそのまま利用。


手前の「アフタヌーンティ」はカレーライス付き。
MKは鯛丼セット、アフタヌーンティは半分ずつ分けて食べました。


この日は祇園のいつもの料亭旅館に宿泊予定でしたが、
合間にわたしの実家に帰り、久しぶりに母の顔を見てきました。

人力車であまりに寒かったので、防寒用のシャツを買うために
無印良品の入っている桂のイオンモールに行ってみたのですが、
これがまたアメリカ並みの規模の巨大モールで、しかも駐車場代ほぼ無料。

昔気の利いたお店どころか何もなかった時代を知っているだけに、
この何年かですっかり様変わりした京都近郊の様子に驚かされました。


阪神の実家からもう一度京都に蜻蛉返りしてきて、
その晩はいつもの祇園の料理旅館に宿泊。

TOのキャンセルは仕込みの関係上できなかったので、
夕食はわたしとMKで三人分食べることになりました。

ただ、コロナで致し方ないことなので、と女将が気を遣ってくださって、
キャンセル料を最小限にしてくれた上、
京都応援クーポンというのを相殺して宿泊料に還元してもらいました。



夕食のメインだった鹿肉、これも三人分を二人で分けました。
元々は4切れずつだったことになります。

旅館と契約しているのは80代の猟師で、もう「趣味の猟」の域だそうですが、
血抜きの処理が滅法上手いので、鹿肉が生臭くならないそうです。

おっしゃる通りこの鹿肉はなぜか歯触りがサクサクとして、
今までフランス料理で食べたどの鹿より美味しいと思いました。

付け合わせのりんごの煮たのとの組み合わせも絶妙です。




最後のお食事はあんかけ風ご飯。
鳥獣戯画のお椀がとっても可愛らしい。


デザートは別腹・・・とはいえ、これを一人半前食べるのは辛かったっす。
渋皮煮の乗った栗のブラマンジェ。



その夜の宿泊は本館から一筋隣の別館二階にて。
珍しく一階の部屋に別の宿泊客がいるなあと思っていたら、
次の日アフリカ系の女性が一人で泊まっていたことがわかりました。

女性の一人旅で料亭旅館を選ぶとはなんと優雅な。

もっとも、女将が元FAでスタッフ全員英語が堪能であることで
ここを選ぶ外国人旅行者は多いそうですが。



昼にピザレストランの予約を取ってあったので、
好むと好まざるに関わらず、朝食は早めに食べねばなりません。

いつものカウンターは人がいるということでお座敷でいただきました。



大きなだし巻き卵と焼き魚を中心とした和食。



蛤の小鍋とMKの頼んだ洋朝食のパンのカゴが並びます。



女将からのいつもの自筆のお手紙は、
今回ピンポイントで病気になってしまった「ご主人様」への伝言付き。



チェックアウトまで部屋でゆっくりしてから、
西洞院のピッツェリア、「エンボカ」に向かいました。

皆さんはNetflixのシリーズ「シェフズ・テーブル」をご存知でしょうか。

同シリーズの「ピザ編」で紹介されていた唯一の日本のピザ専門店、
京都の「モンク」のオーナーが、最初にピザを学んだのがここです。

京都の町屋をそのまま利用し、二階を取り払って吹き抜けにした店内は広く、
かつての座敷部分を残して掘り炬燵風テーブルがあるのがユニーク。



お手洗いの横は、京都の家独特の坪庭がそのまま残っています。



トッピングはハーフアンドハーフがセレクトで可能。
基本のマルゲリータとキャベツをオーダーしてみました。

窯焼きなのでところどころ黒く焦げていますが、
ピザ生地本体はもっちりふわふわで感動の美味しさ。


普通のピザが美味しかったので、デザートピザもいってみました!
これは最初からハーフアンドハーフ。



食後コーヒーを飲んでから京都を出発しようと外に出たら、
エンボカの近くに良さげなロースタリーがあったので入ってみました。

入り口ではコーヒーの試飲ができます。


アメリカでいうプアオーバーは日本ではハンドドリップというらしい。
入り口で試飲した豆をハンドドリップしてもらいました。



フラットホワイトはエスプレッソに泡立てたスチームミルクを注いだもの。
MKが頼みました。
名称は日本でもアメリカと同じくフラットホワイトです。


この後途中2回の休憩を挟み、8時には帰宅しました。


続く(のか?)



新年あけましておめでとうございます〜京都と靖國神社

2023-01-02 | お出かけ

前回のブログのタイトルで思いっきり年号を間違えておりました。
いやはや、もう令和になって5年目ですか。
体感的には?今年4年目くらいがちょうどだと思っていたのですが。

と、新年早々言い訳から始めてしまいましたが、
みなさま、明けましておめでとうございます。
今年も精進して参りますのでご指導ご鞭撻よろしくお願い申し上げます。

今日は年末の京都旅行の続きからご報告です。



京都人はパンとコーヒーを特に好むことで有名です。
学生街でもあることから喫茶店文化が根付いている土地であり、
昔から老舗の珈琲店には一杯のコーヒーで何時間も過ごす
大学生の姿が京都らしさでもあったわけですが、
古いものだけに固執するばかりが京都ではありません。

おそらくスターバックスが登場した時も、そして
ブルーボトルコーヒーがサンフランシスコからやってきたときも、
京都にはそれを受け入れて取り入れてきました。



前回の京都で南禅寺のブルーボトルコーヒーに行き、
ここでも紹介しましたが、今回は京都に3店舗あるといううちの
もう一軒の、烏丸三条駅近の六角カフェに行ってみました。



ここも京都ならではの町屋の半分を改装して2階をカフェにしています。

写真を見ればわかりますが、建物の半分は自転車屋さんで絶賛営業中。
自転車を売ったり修理する以外にレンタルが中心みたいですね。



ドキドキするくらい古い自転車が、ブルーボトル側の外壁に。

辻森自轉車店
TEL(22)5732番


という宣伝のためのプレートはこの轉という字から判断するに
当用漢字制定の1946年以前のものだったことがわかります。
タイヤは劣化して全体が泡だったようにブツブツしています。



土壁をむきだしてそこにブルーボトルのマーク、
この手法は南禅寺の同店にもみられたものです。


マイナーフィギュアズ製オーツを使ったラテは、
ハートの尻尾から吸い込んでいくように飲む仕掛け。

人大杉以外はとてもいいカフェでしたが、残念だったのは
トイレがひとつしかなく(狭いから仕方ないですが)、
その使用法が日本と違う国からきた観光客のせいで、
視覚的にも嗅覚的にも不快な思いをさせられたことでした。

オシャレなお店的にはやりたくないかもしれませんが、
これはやっぱり中国語か図解で使い方を掲示するべきでしょう。



京都最終日はもはや定宿と言っても過言ではない祇園の料理旅館に宿泊。



TOは京都での仕事での会合や懇親会など食事の利用は続けていましたが、
わたしは久しぶりの宿泊となります。


お部屋は最近家族で来ると必ずチョイスする別館です。
本館とは川と道ひとつ隔てたところにあります。


お正月を迎える床の間の掛け軸は可愛らしい寿老人で、
その下には小槌の飾りがあしらわれていました。



到着するとまずお茶とお菓子でもてなされます。
この日は抹茶の味がなんとも京都らしいあんこ餅でした。

チェックアウト時間と朝食時間のご案内も
女将手書きで和紙に書かれているのが「ここ」らしさ。



夕食は、ちょうどアメリカから観光に来ていた
MKの友人二人を招いて本館でいただくことになりました。



彼女ら同士はサンマテオの高校の同級生だったという関係。
一人はMKと同じ大学院工学部で知り合い、もう一人はシカゴ大学を出て
シアトルにある、誰でも知っているビッグテックカンパニーMで
コンピュータ技術者として働いています。

日本ではわざわざ工学部に枠を設けて増やそうとしているリケジョですが、
アメリカでは普通に「いるところにはいる」んだなあとしみじみ。

それどころか、MKによると、彼の大学院には、
リケジョかつオリンピック選手、いう人がいるそうで、
アメリカ人としても背が高く目立つ人だなあと思ったら、
オリンピックで金メダルを取った水球の選手だったということです。

Mackenzie Wiley



夕食会場は昔わたしの姉妹が泊まったことのある部屋で、
妹が撮ったこの庭に板前さんらしき人影が写っていました。

今回初めて女将にその話をしてみたら、

「はあ・・先代も先先代もまだ生きてますし、
それより前の板前やったとしても多分わからしまへんやろなあ」

と言外に物怪の類の存在を否定されました。
うーん、このかわし方、さすが祇園の女将。



さて、見た目は日本人ぽいがアメリカ人二人を加えた夕食会、
八寸は干し柿にカラスミ大根、ホタテのスモークなどを
名前は忘れましたが柑橘類の皮の入れ物にあしらったもの。

配膳の女性は、さすが世界的に名前の知れた料亭に勤めるだけあって、
メニューを全て英語で説明していきます。



メインの焼き物は最初カニと伺っていましたが、
MKが肉の方がいい、といったのでステーキになりました。

なんでも「幻の京都牛」をバルサミコ酢で味付けたものだそうで。
たいへん心苦しかったのですが、わたしには全部食べられませんでした。


本当の?メインはフグ鍋で、中居さんはこれを、

「フグは日本語のハピネス=フクと発音が似ているので、
おめでたい席には登場します」

といいつつ、フグの毒は免許のあるシェフによって完全に取り除かれている、
と外国人の心配を和らげることも忘れていません。

ところがそこで、TOが、

「いや実は本当に美味しいのは毒のあるところなんですよ」

などと言い出すので困惑するアメリカ人女子(笑)
ややこしいグルメ知識を外人に垂れ流すのやめれ。

写真はフグを食べた後のお出汁に柚子を投入した雑炊です。


次の朝、朝食までの時間鴨川を散歩しました。
冬の朝の京都はきりりと冷えた空気がまた一段とよろしおすなあ。
と思いながらテクテク歩いていると、携帯に電話が。



朝食の時間を30分勘違いしていました。
慌てて宿に帰り、カウンターでの朝食に加わります。



ご飯は普通とお粥から選べます。
だし巻き卵は卵3個は余裕で使ってそうなボリュームでした。



部屋に帰ると、女将からのお手紙が。

今回の関西旅行、TOが「腰が痛いから」と新幹線で行ったため、
わたしとMK二人で音楽を聴きながら楽しくドライブで往復しました。

おりしも巷では帰省ラッシュが始まっていたので心配しましたが、
少なくとも出発してしばらくは快調に進みました。

しかしやはりそのまま順調に行くわけもなく、
昼過ぎに新東名で事故が起こり、あっという間に渋滞が12キロに。

車のナビ(愛称ルードヴィッヒ)が提案するまま、
芦ノ湖をながめる湯河原と箱根の山道をうねうねと進み、
さらにルードヴィッヒの道案内で平塚市の海の見える道を通って
予定より2時間近く遅く自宅に帰りつきました。



女将の手紙に「富士山が見えるとよいですね」とありましたが、
新東名を走っているとこれでもかとその姿を眺めることができました。



大晦日、MKはお嬢さんたちと1日「日本観光」に出てしまいましたが、
日付が変わる頃明治神宮で並んでいる写真を送ってきて、
変わった瞬間「あけおめー」と電話してきました。

初詣が済んだ後は彼女らのホテルのソファで寝たそうです。

と言うかこの写真も外人さんが多いね。



さて、2023年、令和5年が明けました。
わたしはコロナ禍と渡米で行けなかった靖國神社に初詣に行きました。

行動制限が解かれた久しぶりの元旦となったわけですが、
明らかにその前とは人出が少なくなっている気がします。



それでもたくさんの参拝客が列を成して神前に出るのを待っています。



前回から大きく変わっていたのが手水のしくみでした。
柄杓をとって手に掬い口に含んで出す、という方法ができなくなり、
竹筒から流れ出す水で手を洗うだけになりました。
疫病蔓延を防ぐため、口に含むのは禁止です。



しかし上を見ると、手水の正しい作法が図解で記されているのであった。
これをそのまま置いているということは、
いつか従来の方法に変わることもあるということかな?



昇殿参拝を申し込みましたが、やはり人は例年より少なめでした。

昇殿の時間になるまで、申し込んだ人はお金を払い、
神主の祝詞で読み上げてもらう名前を記述して、
あとはお茶などいただきながら床暖房の効いた快適な待合室で待ちます。

わたしの後ろには女二人、男一人の3人グループがいましたが、
そのうち一人の女性(おそらく二十歳くらい)が、モニターを見て、

「英霊って何?」

と発言したのにはたまげました。

大人になるまで英霊を知らずに生きてきた人も世の中にはいるでしょうけど、
問題は、英霊という言葉を知らない人が、なぜここにいるかって話です。

彼女の言葉に、男性が、

「戦争で亡くなった人のこと」

といったあと、ちょっと取り成すように、

「こういうところに来ると、やっぱりそういうこと考えるよね」

と言ったのですが、それに対し、彼女が言い放ったのは、

「わたしそういうのあんまりー」

という言葉でした。(二人はそれに対し無言)

「そういうのあんまりー」な人がなぜここ靖國神社にいるんだろう。
しかもお金を出して昇殿参拝しようとしているんだろう。

とつぜん前の席から振り向いて、

さて、ここでクイズです!
今あなたがいる神社の御祭神は、次の三つのうちどれでしょうか?
1、英霊、2、明治天皇、3、お狐様」


とか言ってやろうかと思いました。言いませんけど。



元旦は6時で早々と参拝を終了です。
福引も今年は行われていませんでした。


参道はいつの間にか整備されて新しい休憩所ができ、
突き当たりの広場には出店のコーナーになっていました。

休憩所兼レストランでは、「鳥濱トメさん(特攻の母)の親子丼」
などというメニューもいただけるということです。



MKはというと、元日を友達と遊び倒したようです。
六本木ヒルズの展望階から元旦の夕日を楽しんだり(冒頭写真)
今ヒルズでやっているアニメ展などを見たりと。



夜になってヒルズにMKを迎えに行き、3人で家に戻りました。
ヒルズ横のけやき坂では、名物ライトアップに多くの人が集まっていました。

皆様はどんな年の初めをお迎えになったでしょうか。







任天堂旧本社社屋跡 丸福楼ホテル@京都

2022-12-29 | お出かけ

よこすかYYのりものフェスタシリーズも終わりましたので、
今日は我が家の年末についてゆるくお話しします。

ようやく空港で長時間足止めされたり、バスで遠隔地に拉致されて
そこで隔離されたりするようなことがなくなったので、
クリスマス休暇にMKが帰国して以来の家族イベントです。



と言いながら全く関係ない歯医者からの帰りに撮った写真。
イタリア街のアクセサリー屋さんで、いつ通り掛かっても
営業しているのかしていないのか謎のお店でしたが、
先日は店主が膝に矢を受けたらしく休業していました。

MKに画像を見せたら、これゲームからきたミームだよと。

ロールプレイングゲーム「The Elder Scrolls V: Skyrim」の衛兵の、

「昔はお前のような冒険者だったのだが、膝に矢を受けてしまってな...」
"I used to be an adventurer like you. 

then I took an arrow in the knee... "

というセリフからきているのですが、シュールなことに、
スカイリム全土の町々に駐在する衛兵たちは、
全員が全員とも膝に矢を受けて引退した元冒険者であるらしく、
全員がこれをいうのだそうです。

店主、スカイリムの衛兵だったのか。



MKが帰国してすぐ、再会を祝うディナーとして、
たいへん予約が取りにくいと評判のペルー・フュージョン料理、
MAZ(”まず”ではなくマスと読む)に行ってみました。

東京紀尾井町ガーデンテラスの隅っこに、
これでもかとわかりにくいドアが開くと、そこで展開している、
摩訶不思議なペルー料理のお店です。


「東京にいながらにしてペルーの豊かな生態系を料理で体感できる」

がコンセプト。
南米のペルーというところは、日本と違い季節という感覚がないかわり、
アンデスの海中から海抜4000mの標高によって全く違う気候を持ちます。
そのさまざまな生態系を9皿の料理で再現するという試みです。

「何種類ものジャガイモやカカオなどの農産物、
また現地のアーティストがこの店のためだけに作った食器や自然の音まで、
味覚のみならず、視覚・聴覚を用いるプレゼンテーションは、
ペルーの自然や文化、芸術にまで触れることができる新しい美食体験」


ということです。
どの皿も珍しく驚きがあり、しかも美味しいので
ついつい出されたものを全部調子に乗って食べてしまい、
これがわたしには大失敗でした。



最後のカカオやシャーベット、ブリュレなどは、
唯一パスできる「馴染みの味」だったのに、ついこれも食べてしまい、
3人の中でわたしだけお腹が痛くなってしまいました。



別の日。
クリスマスには関西に行くことが決定していたので、
クリスマスのお祝いディナーを早めに、
赤坂プリンス旧館のクラシックハウスで頂いてきました。



メインのステーキを鴨に変えてもらいました。

まわりは一足早くクリスマスを祝うカップルや家族がいっぱい。
クリスマス当日はどうしても一緒にいられないので、
この日にディナーを、という人たちもいたかもしれません。

MAZ以降の食事はかなり量に気をつけたので、
(多そうならそっと家族パスするとかして)
その後腹痛の惨事は起こっていません。

そして、クリスマス当日、わたしは愛車で新東名をかっとばし、
夕方には神戸に来ておりました。



今回の旅行の目的は、

1、MKの学費をプレゼントしてくれたわたしの母にお礼を言う
2、偶然来日しているMKの大学の友人に京都でご馳走する
3、旧任天堂社屋を改装したホテルに泊まる


まずわたしの母からタスク攻略することになったので、
最初に実家に近い神戸オークラに宿泊しました。



関西在住時好きだった懐かしのホテル。
一階フロアにコンビニができた以外、ほとんど変わっていませんでした。



この日はおりしもクリスマスでした。
うちの家族はめったにケーキを食べないのですが、
家族が揃っているクリスマスにはやはり気分として欲しくなります。

そこで、ホテルのベーカリーにケーキを買いに行きました。

これは実は最後の一個で、買いに行ったTOによると、
お勘定をしていたら、うしろから中年のご夫婦がケーキを買いに来て
売り切れましたといわれてがっかりして帰ったということです。

そんなラストワンケーキ、もう筆舌に尽くし難いくらい美味しかったです。
クリームはもちろん、スポンジケーキのとろけるような舌触りは、
3人とも躊躇いなく二つ目をお代わりしたほど。



次の朝ホテルのカフェで朝ごはんを食べました。
しかし、残念なことに昔とても美味しかったコーヒーの味が落ちており、
クリームも、ポット入りの本物でなくポーションに変わっていました。

そこでホテルの近くで見つけたブルーボトルコーヒーに寄ることにしました。

お店は旧居留地(アメリカ大使館)の近くにあり、
となりはヨージヤマモトという、なかなかとんがったビルに入っていて、
当然のように店内はとてもいい感じです。



ブルーボトルコーヒーでオーツラテを注文すると、
わたしが全てのオーツミルクの中で一番美味しいと思っている、
マイナーフィギュアズで作ってくれるのです。

これは銀座であろうが神戸であろうが全て同じ。



昼過ぎに実家に到着し、そこでお礼や近況報告を済ませ、
京都の旧任天堂本社ビルにできたホテル丸福楼に到着しました。

昔、このブログでも京都の町屋ホテルに宿泊したとき、
旧本社ビルの写真をご紹介したことがあります。

その後、プランドゥシーという会社がここを買い取り、
任天堂の遺構としてのイメージを残したホテルを開業しました。



かつてのトランプ・たるか(なぜか”かるた”は右から読む)
製造元山内任天堂という門標はそのまま残されています。



このデザインは、部屋の鍵にそのまま使われているのでした。
カードキーはなく、真鍮の鍵が部屋にひとつという、昔ながらの方式です。
部屋数が少ないのでこの方式も可能。



ドアを開けると大正時代にタイムスリップ。
石の壁にタイルの床はおそらく当時のまま。



入るなり目を引く鷺の彫像。
台座に据えてあったそのままでしょうか。



任天堂とステンシル入りの木箱は、
倉庫にあったのかそれともどこかの古物店に出ていたものか。



旧社屋ビルと外壁の間には、通路が整備されています。



歩いて行くと、別の客室棟でした。


客室は全部で18室のみ。
なかなか予約が取れないホテルと言われているようです。

クラシックなオリジナルの雰囲気を残しながらも、
所々モダンを取り入れたインテリア。



エントランスから地下に続く階段。
階下には昔何があったのでしょうか。



改装工事を施す前の写真が残されています。
右下の手洗いはなぜか廊下にあったのだとか。



かつて社屋であった時代に建物に貼られていた各種プレートが
ひとつ残らず歴史を留めるために保存されています。

下京区の消防協力管理証、電話局や関電の管理番号、
家屋調査済証、今では珍しい、水洗便所設置済みの印も。



宿泊した部屋は3階にありました。
これが最上階です。



平成4年に行われた棟上式のときの札には、
施主の他、プランドゥシー、安藤忠雄事務所、
大林組の参加者の名前が書かれています。



こちらは昭和5年に社屋落成を寿いで設られた石板。
どちらの施主も山内さんです。



エントランスの内側はフロントになっていて、
ここで荷物も預かってくれます。



「大統領」とだけ書かれたナポレオン風の肖像は、
トランプの図柄の原画でしょうか。



ラウンジに飾られているこの絵は間違いなく花札のですね。



ラウンジには飲み物とちょっとしたお菓子があって、
好きな時に好きなだけそれらを楽しむことができます。



大正モダニズムとマッチするレトロな版画。



フロント以外の一階のスペース全てがラウンジとなっていて、
ヴォーカル中心のスタンダードジャズが雰囲気とマッチしていました。

ラウンジの角に建物の模型がある!と近づいてみたら、
なんとこれレゴで製作したものでした。
レゴがこのキットを販売したという話は知らないので、
もしかしたら0からオリジナルで作った可能性があります。


ラウンジのソファの後ろにあるカーテン、
このカーテンを通り抜けると、客室へのエレベーターがあります。



丸テーブルでトランプもできるように椅子も4人分あります。



ちゃんと各部屋には大統領印のトランプも備えてありました。
手前のトランプ風のカードは電話用のメモです。



エキストラベッドを作ってもらいました。



モニターからはHuluやAmazonプライム、
YouTubeなども簡単にアクセスできるようになっています。



ちょっと50年代を思わせるテーブルや椅子。



ホテル敷地の周りは寂れていて、手付かずの空き地と古い町屋が並び、
ホテル内部の今風の空気に対してシュールな雰囲気を醸し出しています。



部屋には安藤忠雄先生の落書き・・じゃなくてサインが。
オープニングセレモニーの日付が記されています。
18室全てにサインして回ったんでしょうか。



さすがプランドゥシー、クローゼットはウォークインで使いやすい。



シンクは二つ、ゆったりと広い洗面所は、
ライティングにも工夫がみえます。
ときどき、洗面所を真上から強烈に照らす照明が顔に影を作って
化粧がやりにくいと感じるホテルもありますが。



大きなバスタブ、外が見える窓はいかにもプランドゥシーらしい設計です。


大きな冷蔵庫に電子レンジ、なんと洗濯機まで設置されていたのにはびっくり。
さっそくこの晩は洗濯させてもらいました。
ホテルクリーニングのシステムがないからかな?



部屋の入り口にはさりげなく椅子。
ブーツを履く時は荷物を置くのに便利です。
とにかく気遣いが細やか。



大きなライトはこの部屋の主役のようです。
これも60年代〜70年代を思わせるインテリアです。



翌朝、朝食を取りにレストランに向かいました。
前回同じ場所にきたときと明らかに大きく違っているのは、
旧建築の間に突如挟み込まれたガラス張りの新築部分。
ここで新旧の「新」を主張しているということでした。


昔の呼び鈴(CALL)はちゃんと残っています。



レストランは同じ敷地の中ですが、別の入り口から入ります。
細川元首相の親族の方が監修した健康的な料理を、
宿泊客をメインに提供しています。
一般の人も利用できますが、週二日だけということでした。


陽の光を大きく取り入れた明るい空間は、
朝食をいただいていてとても気持ちのいいものでした。



朝食は和食洋食から選べます。
わたしはおにぎりをパリパリの香ばしい海苔で巻いて食べる
暖かいおにぎりがついている和食をいただきました。


エントランスにあった寄せ書き帳にあった素敵な絵入りメッセージ。

どうもこれを書いた人は日本人ではないようです。
日本語を勉強するくらいアニメやゲームなどの日本のカルチャーが好きで、
任天堂発祥の地に「聖地巡礼」にきた人ではないかと思われます。

そういえば、部屋数が少ないわりに外国からと一目でわかる
宿泊客が多いなあと一晩泊まってみて感じました。

まあなんだ、やっぱりNINTENDOは世界のブランドってことなんだなあ。




お正月京都旅行〜アマン京都編

2022-01-12 | お出かけ

京都旅行ご報告の続きです。



わたしたちは、祇園の料理旅館で一泊した後、アマン京都に向かいました。
わたしの車のナビにまだアマンが登録されていなかったのが災いし、
住所を入れても該当地らしきアバウトな地点しか出てこないうえ、
ナビに、わざわざ裏側から回り込む、狭い山道を指示されて走る羽目になりました。

到着してみると何のことはない、金閣寺方面から来ていれば
舗装された普通の道路で来ることができたのがわかり、ガックリです。

まあ、車検前でナビのアップデートをしてなかったのが悪いんですけどね。



やっとのことでアマン京都玄関に到着。
中から出てきたのはスタッフのようです。



門松の立てられた正門脇には黒いドアマンの待機室らしい小屋があり、
訪問者はここで検温と手の消毒を行い、車を降りて歩いて入場します。


祇園の女将はもちろん、京都の人たちは、アマン京都が開業するまでの
政治的なゴタゴタというか、ややこしい経緯を知っているようで、
なんでもアマンの経営者が日本に作るならここしかない、と
肝煎りで決まった場所だったのに、開業に関しては
市との交渉が難航して計画が宙に浮いた状態が続き、
計画開始から開業までなんと25年、四半世紀が費やされたのだとか。




元々ここは西陣織で財を築いた浅野と言う名家が
織物美術館のようなものを作ろうと、庭園を作っていた場所でした。

とにかく石が好きな当主で、岡山などから石を集め、
広大な敷地はほぼ石で埋め尽くされていると言っても過言ではありません。

玄関口を入ると、構内に続く通路は、世界のどこにもないような
巨大な石を使った石畳が広がり、訪れる人を驚かせます。


チェックイン後、部屋への案内の前に、コンシェルジュが
構内を歩きながらちょっとした説明ツァーをしてくれました。

細道に沿って高さが揃った見事な高杉が目を惹きます。


浅野家の当主は庭園造りが完成しないうちに土地を手放すことになり、
持ち主のないままこの一帯は手付かずで放置されていました。


こういう構築物のうち、どれがオリジナルで、どれがアマンの手が入っているのかは
今となってはもうわかりませんが、少なくともこの美しく生え揃った苔は、
アマンが土地を手に入れてから設えて育てているようです。


庭園の至る所に先ほど井戸状のものや、このような
地下水路の覗き口があります。


基本的にアマンリゾーツのコンセプトは、自然に溶け込むことなので、
開発にあたってはたった一本の木も抜かないようにしています。



木は元々浅野さんが選定したものが残っているのですが、
わたしは庭内を歩きながら、桜の木がないことに気がつきました。

「桜はないみたいですね」

というと、

「ええ、なんだか桜はお嫌いだったようで」

桜が好きではない、ではなく積極的に嫌い、という、
いわゆる通人というのも珍しいといえば珍しいかもしれません。


チェックインは本来3時ですが、昼食を取るために12時には現地到着しました。
二カ所あるレストランのうち和食の「鷹庵」へ。

アマン京都は一歩入るとまるで外界から切り離されたような雰囲気ですが、
レストランは宿泊客でなくても普通に利用できます。

この日は会社単位の団体客がいてかなり賑やかでしたが、
その中の女性一人がテンションかなり高めで声も大きく、
正直ちょっと残念な雰囲気になりました。


テーブルのミニ芝生?にお飾りをつけてお正月風。


「鷹庵」のインテリアは和風寄り。
灯りのシェードはどうやら俵をイメージしているようです。


和食と言っても、ガチガチの古い懐石風というわけではなく、
和風テイストの自然食を和の器にあしらったという感じです。


料理長は吉兆出身で、料理の内容は毎日変わるのだとか。
長期滞在客への配慮でもあります。


鶏肉の団子のすまし汁。
柚子と三つ葉が香り高い一品です。


こちらはもう一つのオールデイダイニングで晩ごはんの前に出てきた
いわゆるアミューズ、ウニのカナッペでございます。


昼ごはんをガッツリ頂いたので、夜はスープ一品だけにしました。


フィッシュ&チップスに全くいい思い出のないわたしには理解できませんが、
MKはこのよくわからない料理が好きらしく、よく注文します。

彼がメニューに三千円のフィッシュ&チップスがあったので、
一つだけ注文したのですが、出てきたものを見てびっくりしました。

この物体を見て何の料理だか当てられる人はいますまい。
いわゆるチップス的なカリカリの部分は、まるでモンブランのような
細いヌードル状のものをフィッシュに巻いて揚げてあるのです。

MKによると、味はフィッシュ&チップスの上位変換だったということです。


オールデイダイニングの前には暖炉を設えたウッドテラスが広がり、
そこでは電気膝掛けを貸してもらって飲み物をいただくことができます。


そこに座って空の星を眺め、家族でいろんな話をしました。
話題は主にMKの今後についてでした。

MKも早いもので、今年卒業すれば大学院進学が待っています。
一応在学している大学の院には合格しているのですが、
西や東の大学にいくつか願書を出している上、インターンがどこになるかも
向こうが決めることなので、来年の今頃彼がどこにいるかは全くわかりません。


おっと、忘れていました。こちらアマン京都の客室でございます。
三人で泊まるので、テーブルのこちら側にあるソファがベッドになっています。

お湯を張るのに30分かかる大きな木のバスタブ、洗面台が
寝室と全く同じ大きさに広々と配置されていて、
水回りがゆったりしているというのは実に居心地の良いものだと感じました。



ウェルカムフルーツはりんごが二個、お正月だからか、
大吟醸の小さな酒樽がサービスで置かれており、
願い事を書いておくとホテルの人が近所の神社に奉納してくれる絵馬まであります。


チェックインした日は祇園の旅館女将のお薦め通り、部屋を堪能し、
温泉に入り、スパを楽しみ、次の朝、ゆっくり歩けば
1時間かかるという敷地内を探検してみることにしました。

敷石は巨大で歩きやすいのですが、うっかり石の端を踏むと
傾斜で躓いてしまうので、気をつけなければいけません。
慣れているはずのホテルのスタッフも、転ぶことが多々あるそうです。


古い石仏の足下に何かの実が備えられていますが、
これは庭内に常駐する「お庭番」が「映え」を意識して置いているようです。


このあたりを鷹峰地区と言いますが、この庭園は高峰山の裾に
抱かれるように存在しています。
各客室となっている建物のある平地から、ソーラーによる常夜灯が設置された
石段を登っていくと、平地を見下ろす高さに苔むした通路が伸びています。


鷹峰山に続くゆっくりした坂道を登っていくと、急に広い石段が現れました。
前の所有者が作ったのかどうかはわかりませんが、
単なる散歩コースとしてはえらく大掛かりな工事をしたものです。


とはいえ、金刀比羅神社の境内のような脚力体力を試される石段ではなく、
すぐに広場のような終着点に辿り着きます。

一体何にするために作ったのか、真ん中に石舞台のようなものがあり、
奥には山から湧き出す水が貯まる小さな貯水池があるだけ。
宿泊客の散歩以外の目的でこの場所が使われたことはないのでは、と思われました。

こういう壮大な「無駄」が時間に追われる日常から心を解き放ってくれます。


坂を降りてくると、ここにも湧き出る水の貯水池が。

チェックアウトは何やらよくわからない特典によって、
通常12時のところ、4時まで伸ばしてもらえました。



ホテルのコンシェルジュに相談したところ、
近隣のリゾートホテルのレストランや鳥料理の店を紹介してくれたので、
この鳥料理屋で親子丼を頂いてみました。


中は昔民家だった家の座敷に絨毯を敷いて、そこに土足で上がっていくので、
何かとてもいけないことをしているような気がしました。

肝心のお味ですが、京都にしては味が濃い親子丼でした。


昨日は粉雪がちらついたりして曇りがちな一日でしたが、
この日はきれいに晴れて青空の下の散歩が楽しめました。


昨日火を囲んでしばし語らったテラス。
火は一日中点されていつでも周りで暖を取ることができます。

2年前に泊まった伊勢志摩のアマネムにも、こんなテラスがあって、
食後に火を囲んだりしたものです。



上に見えているのがアマンの中で最もお高い部屋です。
値段を言うのは野暮ですが、一泊90万円台と言う噂です。


チェックアウトギリギリまでホテルを楽しむ魂胆満々で、
アフタヌーンティーを三人で一つ注文することにしました。

三人で順番に好きなものを取っていく方式です。
ここにも京都銘菓「花びらもち」のミニチュアがありますね。


アマン京都のアフタヌーンティなので、メインはみたらし団子。
カートでやってきて、炭火で少し炙った団子に、
味噌、餡、タレの三種類を選んでつけてもらえます。


わたしは赤味噌をつけていただきました。
三個の団子に一種類ずつ違うものを付けるのもありです。


お茶はアフタヌーンティについてくる一人分は飲み放題。
今回はサービスで全員にお抹茶を点ててくれました。

4時にチェックアウトした後、神戸のわたしの実家に向かい、
時節柄短時間の年始訪問を行いました。
母に孫の顔を見せてやれてよかったと思います。

その夜は、たまたまTOが宿泊券を持っていたため、
大阪の帝国ホテルに泊まりました。

ところで、このとき実家を出てからナビで大阪に向かったのですが、
もうすぐ到着というのに、様子がおかしい。

行けども行けども、全く大きなホテルがあるような街並みではないのです。
道は細いし、そもそも建ち並んでいるお店の名前が悉く怪しい。
「熟女なんとかヘルス」とか「聖リッチ女学園」とか。

「到着しました」と言われて横を見ると、確かにありましたよ。
大阪帝国ホテルが。
うーむ、大阪には帝国ホテルとは名のみ似て非なる帝国ホテルがあるのですね。
関西出身なのに知らんかったわ。

周りのいかがわしい?雰囲気から、てっきりこちらは時間制ホテルかと思いきや、
案外まともなビジネスホテルであることが後からわかりましたが、
これって帝国ホテル本家から文句出なかったのかしら。

それとも、大阪の帝国はこちらの方が先だったってこと?

無事本家に到着



来てみて昔泊まったことがあるのを思い出しました。
確か、MKをユニバーサルスタジオに連れて行った時だったかな。
夜頼んだマッサージのおばちゃんが、痛いだけで気持ち良くなくて、おまけに
痛いのは体が悪い証拠、みたいに言い放たれた記憶があります。


長距離ドライブの前に帝国の中華を!と思いつき、
簡単なコースを選んだら、付いてきた麻婆豆腐が激うまでした。

そして、そのまま順調に休憩もとりながら新東名をかっ飛ばしていたのですが、
ちょうど浜松に差し掛かった時、運転手であるわたしが
急に夕飯のことを思い出したため、高速を降りて鰻を食べることになりました。

TOが選んだ鰻屋を目指して山道をうねうねと降りて走っていき、
いつの間にか車は航空自衛隊浜松基地の横を走っていました。

なんと、航空自衛隊員御用達(に違いない)鰻屋だったのです。


鰻屋なのに、家の佇まいはまるで喫茶店のようにファンシー系でしたが、
一歩店に入ると、ちゃんと生簀には鰻がにょろにょろしておりました。

電話で予約したら、今から鰻を3本用意します、との返事。


そしてそれがこうなって出てきたというわけ。

わたしは白焼きの鰻重を選択しました。
あまりにも鰻が大きすぎて、全部食べられず、TOに手伝ってもらったほどです。


というわけで、最後を浜松の鰻で締め、我が家の京都旅行は無事に終わりました。





お正月京都旅行〜祇園料亭旅館編

2022-01-11 | お出かけ


MKの自粛期間は1月1日まででした。
1月2日なった途端、文字通り自粛明けましておめでとうございましたとばかりに、
三ヶ日を外して京都へ家族旅行に行ってまいりました。

つい最近紅葉を見に京都に行ったことをここでご報告したばかりなのですが、
関東在住の関西出身者にとって、京都というのは実に不思議な街で、
行かなければ行かないで平気なのに、一度行くと、なぜかすぐ来たくなるのです。

特にコロナ以降、すっかり外国人観光客がいなくなったため、
街が記憶に残る昔の姿に戻ったようで、京都愛は募るばかり。

今回お正月旅行に京都を選んだ理由はそれだけではありません。

この冬、わたしたちは、コロナで大学が閉鎖になった時に
カリフォルニアの豪邸にMKを1ヶ月も避難させてくれたクラスメートを、
日本に招待しようとしていました。

結局、コロナ新型株の蔓延でそれも計画だけに終わってしまったのですが、
彼に日本を存分に満喫してもらうつもりで、京都の宿を取ってあったので、
せっかくだから家族で泊まりに行こうということになったのです。

一泊めは前回と同じ、祇園の料理旅館の別館です。


こう見えて暗証番号解除式(木の札の下がタッチパネル)

今回は公共交通機関での移動を避けて、車で行くことにしました。
うちで免許を持っているのは他にいないので、運転はもちろんわたしです。

関東関西間の長距離ドライブは結婚して関東に引っ越ししたとき以来ですが、
その時とは違い、今では新東名、新名神が開通していて、
6時間もあれば京都に着くことを、いつも京都に車で帰省している知人に聞いて、
そんな早いなら、と思い切って車で出かけてみました。

道はまっすぐで制限時速が120キロと走りやすいし、混雑も全くなく、
何より途中のPAがどこに止まっても綺麗で施設が充実していて、
とても快適なドライブ旅行を楽しむことができました。

世の中っていつの間にかどんどん不便がなくなり便利に変わってるんだなあ。


余録というか、ついでに驚いたのは、自分の車の恐ろしいほどの燃費の良さでした。
愛車はクリーンを謳ったディーゼルエンジン搭載型なのですが、
ほぼ満タンで出発し、京都に着いた時にはまだ半分残っていました。
つまりその気になれば無給油で往復できたことになります。

しかも軽油なので、ガソリン代は往復してもせいぜい6,000円くらいという計算。





さて、今回もお世話になる祇園の料理旅館Sさん。
昔から続く老舗なので、こういうのも平安時代ものだったりするかもしれません。

ちなみにこの川にかかる橋は、現女将のお婆ちゃまが独断で設置したそうです。
一応橋というのは民間人が勝手にかけたり外したりしちゃいけないんですが、
そこはそれ、戦中のどさくさに、そら橋があった方が便利やし、ということで。

戦後、お役人が条例違反摘発の見回りに来て、いつから橋があるのか聞かれたとき、
お婆ちゃま、当時の当家女将は、

「そうどすなあ〜」

だけでケムに撒いて乗り切ったそうです。
これ、何も答えになったはらしませんやん。
言う方も言う方やけど、これで納得して帰る役人も役人やわ。


別館の玄関に飾られたお鏡は、なんと餅ではなくザボンでした。
確かにお餅と違い、松の内ずっと飾っていてもこれならカビが生えません。

ってそう言う理由かどうかは知りませんが。



料理旅館の床間のしつらえは季節毎に変わります。
今回は見た目もめでたい大徳寺の坊様の書いた書、松飾り、
そして炭を俵のように積み重ねて稲穂をかけたお飾りでした。


着いて最初にお茶菓子をいただきました。

お菓子は京都の人なら誰でも知っている、銘菓花びら餅。
中のピンク色の餡が透けて見える可愛らしいお餅で、
必ずゴボウが挟んであるのが標準仕様でございます。



荷物を置いた後、長時間の運転ですっかり硬くなってしまった足腰を動かすため、
MKと一緒に鴨川の河原を歩きに行きました。



上流に向かって歩いていくと、向こうまで渡れる飛石があったので、
向こう岸まで渡って河原を折り返して戻ろうと思ったのですが、
如何せん、わたしの履いていたスカートの裾幅が思っていたより狭く、
飛石を飛ぶのに十分なほど足が広げられないことが最初の跳躍でわかりました。

かろうじて最初の石に飛び移ったものの固まっているわたしに、MKは

「やめた方がいいよ。俺だけで行く」

と言い、さっさと向こう岸に渡ってしまったので、諦めて戻り、
川を挟んで反対側の河原を歩き、四条の橋の袂で落ち合いました。


部屋でPCのレイアウトをしたり、作業をしているうちに夕食時刻になり、
わたしたちは本館に向かいました。

玄関の右側が食事をいただくカウンターとなっています。
他のお座敷と違い、カウンターは掘り炬燵形式で床暖房が入っているので、
正座の苦手な外国人宿泊客にも優しい気遣いです。


お正月ということでまずは竹のお猪口で日本酒が出されました。


雛飾りのミニチュアでしか見たことがないようなお膳。
この会席膳を「八寸」と言い、これに乗って出されるお料理も八寸と呼びます。

ちなみに八寸を運んでいるのが当家の女将さんです。
CA出身の別嬪さんなので、その筋では有名人なのではないかと思っていましたが、
たまたま人から、彼女が関西放映のあるCMに出演していると聞いて、
やはりと納得しました。(空気清浄機か何かだそうです)

着物の模様に合わせた薄紅色のマスクをしておられますが、
今回彼女のマスクから出た目が必要以上に「笑っている」ことに気がつきました。

接客業の方は意識しているかもしれませんが、単なる愛想笑いだと
口元が歪むだけなので、マスクで隠されると笑っていることがわかりません。
客に心から笑っていると認識されるためには、彼女のように
全身全霊目で笑わなければ伝わらないのかもしれません。

京都のお客商売、プロの中のプロの真髄を垣間見た気がしました。



手前、松の葉にお菓子のように彩り良く色んなものが刺してありますが、
黒豆、千社唐、そして千呂木なるもので、これは「チョロギ」と読み、
ソフトクリームみたいな形の、生姜みたいな味のする物体です。
シソ科植物の根っこなのだそうですが、赤は染めてありオリジナルは白です。


向付(むこうづけ)は懐石料理の刺身,酢の物などのことです。
この日の向付は伊勢海老、モンゴウイカ、ヒラメのお造りでした。


鍋で出てくるわけではありませんが、「鍋物」です。
魚のメインで、河豚煮に聖護院大根と高菜があしらわれています。


この日の焼き物は鹿肉のロースステーキでした。
フランス料理以外で鹿肉を食べたのは初めてかもしれません。
和食料亭のステーキなので、ソースはバルサミコ酢ではなく黒酢です。
付け合わせは普通にリンゴのコンポートでした。


デザートは柚子に入ったゆずシャーベット、紅白イチゴ。
驚きの美味しさだったのはクリームチーズとナッツを乗せた干し柿でした。

この夜、MKは父親に連れて行ってもらって祇園のバーを初体験しました。
祇園には古い町屋の内部は思いっきりモダンなインテリアの
お洒落なバーがたくさんあるのです。


次の朝の朝食です。
わたしは日頃朝食抜きの生活をしていますが、今回だけは特別。
京都の料亭旅館のお雑煮が食べられる滅多にない機会なので、
わたしもTOも迷わずお雑煮付きの和食を選び、MKだけが洋食にしました。

箸袋にはちゃんと名前が書かれ、お膳に添えられた和紙には
女将が前日の会話などからヒントを得たメッセージが
毛筆で認められていて、食事の席に話題を提供します。

何気ない会話の時も、女将は頭脳をフル回転させているらしく、
このメッセージに頓珍漢なことが書かれることはまずありません。
記憶力も大したもので、夕食の会話の中で次の日の朝食について
メモも取らずに客のオーダーを聞くのですが、
(和食か洋食か、餅が何個だとか、コーヒー紅茶どちらにするかとか)
それが間違えて出てきたことは一度もありません。


そもそもわたしは雑煮というものを好きでも嫌いでもないのですが、
京都の白味噌仕立ての雑煮だけはなかなかいいものだと思っています。

お餅を焼いて入れる地方もあるようですが、京都では丸餅は
湯通しするだけで煮るので、あくまでもとろけるような柔らかさ。

この旅館がそうしているのかどうかは聞きませんでしたが、
京都では毎年、をけら参りで頂いたおくどさんの火を、
雑煮を作るために縄に点して持って帰るという慣習があります。

なぜに京都のお雑煮は白味噌かというと、それは神様が白色がお好きだから。
なぜ丸餅かというと、角がなく円満でありますようにという意味があります。

さらに京都の歳神様は生臭いものがお嫌いのようなので、
出汁も昆布で取ると決まっているのだとか。

同じ神様と言っても地方とご利益によってお好みも色々のようで、
西宮戎の神様は生臭いもんどころか、マグロ一体奉納されてますが。



ところでこの旅館は、海外にも多くのファンを持っていることで有名です。

女将によると、あるドイツのお客様は、毎年必ずやってきて
この旅館に泊まり、夜は舞妓ちゃん芸妓ちゃんを引き連れて、
彼女らにご馳走するのが生きがいだという、ある意味ディープな日本通でしたが、
コロナ禍以降、その無上の喜びがどんどん後回しになっていき、
半年先を予約してはそれがダメになってガックリ、を何度も繰り返しておられ、
女将もお断りしなければならないのがとても辛い、と言っておられました。

日本人なら何とか規制の間隙を縫って「京都欲」を満たすことができますが、
海外のファンは全くその道が閉ざされ、随分寂しい思いをしているようです。
せめて今年は海外からの客を受け入れられるようになってほしいものです。

もしそうなったら、MKは3月にクラスメートを招待したいと言っていますが、
こちらもどうなりますことやら。


さて、女将がわたしの朝食膳のメッセージに書いてくれた言葉とは、

「京都の奥座敷のアマンまでお気をつけて運転なさって下さいませ」

その時の女将の言葉はこうでした。

「外に出るのは勿体無い、ずっと中を楽しむのがええ思います」

我々の京都旅の二日目は、現代の京都の(ある意味)秘境、アマン京都でした。





帰国〜ファースト初体験と成田での自粛失敗

2020-09-29 | お出かけ

アメリカから帰国してまいりました。

本来であれば今頃は成田のホテルで絶賛自粛期間だったはずですが、
3日めにしてホテルの缶詰生活に根をあげてしまい、自宅に帰って
おとなしくしているというプランに変更を余儀なくされたのです。

現在の日本政府の指針は、海外渡航から帰ってきた人に対し
空港で検疫検査を行い、陰性であった場合も公共交通機関を使わず
自宅かあるいは対象宿泊施設で自粛することを推奨しているので、
お上から言われたことを真面目に守る我が家としては、夏前にMKが帰国した時も
彼に2週間のホテル生活をさせたわけですが、今回自分がそうなって
隔離された状態の自粛というのがどれだけ精神的に辛いものか思い知りました。

なぜわたしがホテル隔離に耐えられなかったかというと、
まず、外に出ることも制限されるということ以前に、
何の予定もないのにホテルに連泊するということに対する絶望感。

今回、TOが成田でおそらく最もグレードの高いホテルを取ってくれたのですが、
この「良かれと思って」が大変な落とし穴で、なまじ高級を謳っているので
MKの泊まったホテルのように館内にコンビニがないのも問題でした。

つまり、水とかお茶とかちょっとしたスナックとか、そういう買い物ができない。
食べ物は三度三度全てホテル内のレストランかルームサービスのみ。
そのうえちょっとお茶でも、とルームサービスでポット入りを頼むと1,200円。

ホテルのお茶代は場所代込みなので日常であればこの値段でも受け入れますが、
ホテルの部屋で過ごしている身にはなかなか気分的に辛いものがあります。

チェックイン時に、自粛宿泊対象者のためのレストランの食事30%引きチケットや
朝食バッフェ3,600円が2,800円になるチケットも束にしていただきましたが、
ホテルの食事はそもそも旅の非日常に属するもので、重さ的にも金額的にも
普通とはかけ離れていてこれが半月続くと思っただけでげんなりしました。

一番辛かったのはジムが使用禁止であることです。

しかも今回は帰国した日から3日間千葉県では雨が降り続き、外に出られず
仕方がないので、ベッドの上でヨガをしたり、ハウスキーピングが居なくなる夕方に
誰もいないホテルの廊下と非常階段を早足で歩いていました。

昔マドンナが全盛期の頃、日本に来てプールで物凄い勢いで泳ぎまくり、
エレベーターを使わずホテルの非常階段を駆け上っていたところ、
遭遇した従業員が驚いた、という話をふと思い出したりしながら。

これも一日二日なら話の種ですが、2週間続くとなると絶望でしかありません。
二日前までアメリカの広大な自然公園の延々と続くトレイルを
1日1〜2時間歩いていたのに、この環境の急激な変化には心身ともに酷く堪えました。

 

今にして思えばMKは2週間弱音も吐かずえらかったなあ・・・。
しかしわたしは彼ほど堪え性がないのでたまりかねてメッセージでTOに弱音を吐きました。

「ジムが使えないし売店も閉鎖していてホテルで水を買ったら300円だって」

「閉塞感やばい。14日この生活したら確実に死ぬ」

アメリカのホテルで一人で何日いても平気なわたしがここまで弱るとは
さすがのTOにも予測ができなかったらしく、慌てて自宅軟禁、じゃなくて
自宅待機に切り替えることにして、自粛帰宅者対応のタクシーを手配してくれ、
帰ってきたというわけです。

同じ自粛生活でも何でもそろって勝手知ったる我が家では全く精神的に違います。
自分でお茶を淹れたい時に淹れ、自分の食べたい量の食事を作り、
なんといってもピアノが弾けて外が歩ける。

自粛中ということなのでウォーキングは人とすれ違うことの少ない
早朝にマスクをかけて出ることにしました。

 

さて、今回の帰国についてその前日から淡々と語ります。

ピッツバーグでは9月半ばになると急に朝夜の気温がガクッと落ち、
午前中に外に出ると体が温まるまで歯の根が合わずに
ガチガチカスタネットのようになるくらい冷える日が増えてきました。

最低気温4度というと確実に日本の冬並みです。

最後の日の散歩ではMKの学校の横を歩きました。
後で聞いたらこの日は対面の講義(レーザーカッターを使うため)
があったということでした。

滞在後半に近づくほど野生動物を多く目撃しましたが、
これはどうも寒くなって彼らが冬眠の準備をしているせいかと思います。


ピッツバーグ空港からトランジットのオヘア空港までの飛行機は
出発時間が朝の7時だったので、わたしは数日前から5時起きを心がけ、
前日は夜7時半に寝て3時に起き、4時にホテルを出ました。

真っ暗な道を空港まで25分。
ただしその時間だと渋滞の心配もないし、空港のゲートもガラガラで、
朝早い便というのは「あり」だなと思いました。

7時出発の便に乗ってシカゴ・オヘア空港に着くとまだ7時30分でした。
東部時間のピッツバーグから中部時間に巻き戻ったからですね。

乗換便のボーディングまで3時間以上あるので、とりあえず
ゲートをチェックした後は、いつもするように運動のため、長いコンコースを
移動のフリして行ったり来たりして時間を潰そうと思い端っこまで歩いてみたら、
なんとひとつだけユナイテッドのラウンジがオープンしていました。

入ってみると、ここしか開いていないのに人はまばらで、
供される食べ物もパックされた簡単なものやスナックだけでした。

このとき時間は11時、いつもなら人であふれている通路です。

こちらでもコロナのせいで皆不要不急の旅行やビジネストリップを控えているのでしょう。
しかしそれだけで空港というのはこうなるのか、ということが衝撃でした。

搭乗10分前になってゲートに行ってみると・・・やばい。
人がいない。

この写真をTOとMKに送ると、

「ゲート間違えてないよね?」

間違えるも何も他もみんなこんなもんですがな。

搭乗は後方席から順番に行われ、わたしの搭乗順番は最終となるグループ4。

そう、今回のフライトでは
わたし史上初となるファーストクラス体験をすることになったのです。
なぜこんな非常時にファーストになったかというと理由は簡単で、
マイル移行で特典チケットを取ろうとしたらすでにビジネスが満席だったからです。

この便、わたしがFAに尋ねたところ、乗客総数30名ほどでした。

ファーストの席は全部で8隻、そのうち埋まっていたのは4席。
わたしの前にはアメリカから日本を経由して帰国するらしい、
背だけはやたら高いサングラスにマスクのおそらくK POP歌手(か俳優)
真ん中の4席には客はおらず、窓際に二人連れの日本人男性です。

KPOPだかKPOOPの人はわかりませんが、ビジネスの特典席が満員で
この数ということは、ファーストも4名が上限で、つまり乗客のほとんどが
わたしと同じく「マイレージ組」だったのではと思われます。

まあ事情はともかく、記念すべきファースト初体験を堪能することにしました。

どうもこれは噂に聞いていた新型らしく、細部がいかにも今風です。
一見壁のようなパネルを押すとこんな小物入れ(多分メガネ用)が出てくるとか。

シートの横にはヘッドフォン収納のスペースやリモコン入れが
これもパネル方式で面一に収まっており、シートの調整もタッチパネル式です。

ヘッドフォンもファーストはちょっとグレード高め。

アメニティケースはビジネスと同じ、グローブトロッターのトランク型。
これはデバイスのコードやコンセントを持ち歩くのに大変便利です。

それ以外にもザ・ギンザの化粧品セットが用意されていました。

さて、わたしは朝3時に起きて何も食べずに搭乗時刻を迎えたため、
さすがにお腹が空いてきていたのですが、搭乗の際、

「食事サービスについてはお客様の要請があれば行います」

みたいなことを言っていたので、黙っていれば何も出てこないのかと心配して
一応FAに聴いてみたところ、即座にメニューを持ってきてくれました。
さすがはファースト、ってか一人のFAがわたしとKPOOPの専用係として
痒いところに手が届きまくる手厚いサービスをしてくれました。

ビジネスとの違いはメインディッシュの選択肢ですかね。
ビジネスだと洋食でも肉か魚、という感じですが、ごらんのように
「牛フィレ」「チリアンシーバス」「猪の肩」「野菜」
と4種類のメインから選ぶことができました。

昔神戸のホテルで「猪の背肉の団子」を食べたことがありますが、
ジビエはワインをいただかない下戸とははっきり言って相性が悪く、
今回もわざわざ空の上で挑戦するだけの気力も意欲もなかったので、
普通に
フィレステーキを選択しました。

ちゃんとした食器とシルバーが出るのがファーストです。
まずアミューズ(アペタイザーではない)に出てきた一皿。
左端のピスタチオをまぶしたチーズボールは、マグロの切り身の上に鎮座していましたが、
残念ながらわたしが死んでも食べられないシェーブル(ヤギ)チーズでした。

サラダかと思ったらこちらがアペタイザーでした。
赤い身はロブスターです。

サラダのドレッシングは洋梨か玉ねぎワサビか選べたので洋梨を選択したのですが、
そのどちらも手違いで載せていなかったらしく、バルサミコ酢になりました。

そしてやっとここでコーンスープが出てきます。
やはりビジネスよりは皿数も多いし3割増しくらい手間がかかっている気がします。
何が一番美味しかったかというと実はこのスープでした。

「メインのステーキには2分お時間をいただきます」

とお断りがありましたが、2分って一体どこから出てきたのか。
レンチンする時間かしら。

さすがにファーストだけあって、今まで機内で出されたステーキの中では
一番美味しかったと思いますが、
残念ながら中身に全部火が通ってしまっていました。

焼き加減も聞いてくれなかったし。

デザートはクランブルタルトを選択。

これもビジネスにないサービスで、フルコースの最後のプチフールもありました。

食事が終わってしばらくしたら、FAが空いている隣の席に
ベッドちゃんと作ってくれました。
ファースト席を二人分使うなんてなんて贅沢なのかしら。

リラクシングウェア(品質も悪くない)は持ち帰り自由です。
ありがたくいただいて帰りました。

「よろしければお着替えになっておやすみ下さい。
お着替えの際にはお部屋を用意します」

着替えのお部屋って何かと思ったら化粧室に足台を出すことでした。
ちなみにファースト席には化粧室が4ブースあるので、今回は
トイレを待つ場面が一度もありませんでした。

 

さてそれでは寝みますか、と隣に行ってみるとこの通り。まるで旅館みたい。
下にマットを敷いてあり、ちゃんとしたシーツのかかった布団に
さらに毛布を乗せて端を折ってあるという心配り。

ベッドの寝心地も広さも十分で、(まっすぐ寝ると両手が下に落ちることもなく)
おそらくわたしの機内体験史上、最も快適に、ぐっすり寝ることができたと思います。

降りる1時間前に和食の朝食を頼みました。
器に入れた納豆が出てきたのは初めてです。

さて、というわけで飛行機は無事に成田に到着しました。
飛行機が停止し、「ポーン」という音が鳴っていつも通り立ち上がると、
FAがやってきて、

「しばらく機内でお待ちいただくことになります」

席に座って途中だった「フォードvsフェラーリ」を最後まで観終わりましたが、
まだ一向に案内がありません。

そのうち、乗り継ぎをする客だけに降りるようアナウンスがあり、
前の席のKPOOPがマスクにサングラス、なぜかシリコンの手袋をはめて
出て行った後、さらに30分くらいは待たされたでしょうか。

降りるとわたしを先頭に検疫のラインまで案内されました。
MKが帰国した5月終わりには鼻に綿棒を差し込む方式だったそうですが、
今は試験管状の容器に使い捨ての漏斗で唾を入れて提出します。

通路では検査方法がビデオ放映されていて、
皆なるほどーという感じで心の準備をしながら待つわけです。

機内では検疫所に提出するための書類を前もって書いておき、
それを
要所で見せながら行程をこなすために進んでいきます。

この書類ではアメリカが「特に流行している地域」に指定されていました。
滞在していて体感する限り、世間は日本と変わらない感じだったのですが。

というか、右側に「流行している地域」が書かれていますが、
これ世界中の国なんじゃないかと・・。
むしろ流行していない地域って台湾以外にどこ?

 

採取した唾を提出してからかつてのゲート前に設えた待合室で
与えられた検査番号が呼ばれるまで待ちます。
MKのときには指定ホテルに一泊したそうですが、今では
この待合室でせいぜい1時間待てば結果がわかるようになっています。

ちなみ検疫所や待合室は一切撮影禁止となっていました。

そしてめでたく陰性ということになればこの紙をもらうので、
これを
入国審査、そしてホテルのフロントで見せるわけです。

(この検疫マークの錨に注目したのはわたしだけ?)

再入国審査では自動読み取り機にパスポートをスキャンするだけで
審査官と対面することなくゲートを通過しました。
これもおそらく防疫上の配慮と思われます。

税関ではわたしの荷物を眺めて、税関員が

「何しに行かれてたんですか」

と質問してきました。
旅行でもビジネスでもなさそうとなると、目的に疑問を持たれても仕方がないかもしれません。
息子の大学生活立ち上げのための手伝いに、と端的にいうと
なぜか

「ご苦労様です」

とねぎらわれてしまいました。

そして1時間に一本しか来ない循環バスを待ち、やっとのことでホテルにたどり着いたというわけです。
(そして冒頭に戻る)

そうそう、さっき在住地保健所から電話がかかってきました。
帰国後の体調を聞かれ、できるだけの自粛を要請され、もし熱が出たら
保健所の専用の窓口に電話をするように、ということをいうためだけに
帰国者全員に連絡をしているのです。

今回の検疫を体験アメリカへの入国と比べても、日本のコロナ水際対策は
ちゃんとしすぎるくらいちゃんとやってると感じました。

 

おわり



「シュタイレレック」でナマズを食す〜ウィーンの三つ星レストラン

2019-08-30 | お出かけ

 

さて、ウィーンを観光できるのも最後の1日となりました。
わたしたちは今日という日をできるだけ有効に使うべく、
朝からホテルを出て地下鉄に乗ることにしました。

これがホテルの前にあったウィーンミッテ、ウィーン中央駅。
オーストリアは地下鉄が大変発達していて、路線が集まる駅は
地下鉄なのにこんなに立派な駅舎を使っているのです。

地下鉄のチケットシステムはある意味性善説に立ったもので、
チケットを買うと、もうそこで機械式の改札に読ませるだけ。

また、その日一日、何回乗ってもどこまで乗ってもOKの
フリーきっぷを買うと、きっぷさえ持っていたら改札を通らずに
ホームに行って電車に乗ればいいのです。

「しようと思ったらタダ乗りできるってことだよね?」

その辺は時々抜き打ちで検査があって、不正が見つかったらもう
社会生活ができないくらいの罰則が待ち受けているのでは?
と想像してみたのですが、実際どうなのかはわかりませんでした。

駅前のストリートミュージシャンは、さすがウィーン、バスーン奏者です。
そういえばこの近くには名門ウィーン音楽大学もありましたね。

仲間が応援に来ているようですが、なぜ彼は路上で演奏を?

ウィーンには今でもULFという路面電車が活躍しています。

ウィーンのULF(Type B)

もうすぐ廃止になるという話ですが、現在の車両はポルシェデザインなんだとか。

ウィーンの地下鉄は1976年に開業ということなのでそう古くありませんが、
大阪地下鉄のような古びた感じがあります。

路線図

路線は全部で6本、駅は104で、大阪地下鉄が100ですから規模としては
同じくらいの感じでしょうか。

カールスプラッツ駅で降りたら、駅舎前にパトカーが停まっていました。
オーストリアのパトカーはフォルクスワーゲンを採用しています。
さすが国民の(フォルクス)車(ワーゲン)です。

サイレンを鳴らす時には上のライトが点灯するのですが、これが青。
彼の地では、バックミラーで赤ではなく青いランプが点灯したらギョッとして、次に

「やられた・・・・・」

と落胆するというわけですねわかります。

こちらがかのウィーン工科大学でございます。

ドップラー効果のクリスチャン・ドップラー、建築家のオットー・ワーグナー 、
ヨハン・シュトラウス2世 (在籍するも音楽に専念するために中退)
ヨーゼフ・シュトラウス (ヨハンの弟。卒業後に技師になるも、やっぱり音楽家に)、
先日お話しした映画監督、フリッツ・ラング、
シュタイナー式教育のルドルフ・シュタイナー などが在学あるいは卒業しています。

それにしても、シュトラウス兄弟、二人とも何やってんだ・・・。

カールスプラッツで降りたのは、ナッシュマルクト、路上市を見るためです。
露店といってもちゃんと建物が建っていて、普通に商店街な訳ですが。

昔は地元の人が食材を手に入れる文字通りの市場だったそうですが、
今や観光客目当ての店ばかりとなってしまったため、住んでいる人は
滅多に立ち寄ることもないのだとか。

店と店の間の通路を歩くと、商売人たちが試食をさせようと
ショーケースの向こうから盛んに声をかけてきます。
見たところ、お店の人は移民が多いようでした。

このパン屋のケースにもさりげなくバクラヴァが混入していますが、これも
オーストリア人には寿司屋でキムチを出しているようなものなのかもですね。

ちなみにオーストリアに多い移民はトルコ人だそうです。
どうりでケバブの店があっちこっちにあると思った。

マルクトの端っこまで歩いてみましたが、特に買いたい物もなく、
本当に冷やかしだけで通り過ぎてしまいました。

観光客向けということがわかっただけではなく、とにかくこの日は
日差しが暑くて蒸し暑く、外を歩くのがただ辛かったせいもあります。

東京では40度近くに気温が上がったとニュースで見ましたが、
ウィーンもザルツブルグも今いるアメリカも、今年はどこも暑いですよ。
日本で暑さに耐えている皆さん、ご安心ください。

どこも夜と日陰が凌ぎやすいことだけは日本よりマシかもしれませんが。

マルクトの端っこまで来ると、あの歴史的な花柄の建物を見て、
そこから折り返し、カールスプラッツ駅まで戻りました。

暑い中、わたしたちは自然と無口になり、ただ歩いていましたが、
わたしはその上途中でお気に入りの髪留めを落としてもう気分は最悪です。

しかし粛々と次の予定に突入。
先日飛び込みで素敵な朝ごはんを食べたシュタットパーク、市立公園の
「メイエレイ」(乳製品という意味)は、別の名前のレストランを併設しています。

というか、こちらの方がメイン、ウィーンの有名な三つ星レストラン、
「シュタイレレック」、本日のランチを予約しているお店です。

なんでも世界有数のレストランの一つに数えられるといい、
この建築は、これも有名な建築家チームPPAGの手によるものです。

日本語で今回見つかったシュタイレレックの説明には、

開口部を市立公園に向けで設計しました。
メタルでできたファサードには公園が映り、天気のいい日には窓が全開にされ、
まるで緑の中に座っているような気分です。

とあります。
公園に向けてというより、これ、実際に公園のど真ん中にあるんですが。

蒸し暑い炎天下から涼しくひんやりした、しかし明るい世界に入ってホッと一息。
いよいよ楽しくちょっとスリリングな食の体験の始まりです。

飲み物をいただきながらメニューを選び、さっきまでの沈黙が嘘のように
話に花を咲かせながら待っていると、パンのカートがやってきました。

係の人全てのパンを説明し終わるのに1分半くらいかかったかと思います。

どれも美味しそうで迷いますが、そこをなんとか二種類くらい選び、
指差したり、「イチジク入りのパン」などというと、それを
鮮やかな手つきで切ってサーブしてくれます。

聴きものは怒涛のようなその説明トークで、英語がとにかく上手い。
MKによると、彼の英語はネイティブで、スコットランド人だろうということでした。

料理を待つ間に、驚くべき量のアミューズが運ばれてきました。
これを食べているだけで少食な人はお腹が膨れてしまうくらい。

MKの頼んだのは魚だったのですが、この料理のパフォーマンスがまた見ものでした。
日本の組み木のような作りでできたトレイの中央に魚の身が乗っているのですが、
ウェイトレスがわたしたちのみている前でこれに熱い蜜蝋をかけていきます。

見ている間にこれが固まっていきます。
固まっていく間、ずっとこのトレイはわたしたちの横に置いてありました。

そして、完全に固まってから蝋を剥がすと、魚身がこんな感じに。

「これをお出しします」

そして出てきたのがこれ。
蝋を掛けたのは身を蒸し上げるためだったようですね。

食べたMKによると、「とにかく絶品」だったそうです。

ブロッコリというのは生では食べられないし熱を通しすぎると不味くなり、
結構美味しく食べるのが難しい食材だと思うのですが、先の部分だけをフライにして

クリスピーにしてソースを絡めるという方法はこの食材の欠点を補っています。

もらった料理説明カードによると、ソースはアプリコットやヘーゼルナッツオイル、
黒ニンニク、ライムなど、とにかく素材にこだわり抜いたものを使っているとか。

これもMKが食べたものなのでなんだか忘れました<(_ _)>
春巻きのようにした野菜の何かと何かの肉だと思います。

これは・・・・焼き芋ではなくってナスと何か。
(こんな説明したらシェフが激怒しそう)

これはわたしが食べたものなので、ちゃんと説明できます。
ガナッシュしたキャットフィッシュのカラマンジー、メドラーとカムートです。
といわれてもなんのことかさっぱり、という方がわたしを含め多いと思いますので、

cat fish ナマズ

calamansi フィリピンの柑橘類 (ナマズの上に乗ってる)

medlar 西洋カリン

Kamut コーサラン小麦

前方のカムートと混ざっているものもナマズの身の一部分だと思われます。

わたしの記憶ではこの人生でナマズを食べたのは初めての経験ですが、
想像していた通り、少しオイリーな白身魚といったお味だと思いました。

やっぱり海底でじっとしていて、地震の時だけ暴れるような魚なので、
身が締まっていないのかなと思いました。知らんけど。

しかし食べておいてなんですが、普通ナマズなんかわざわざ料理するかねえ。

というわけでメインまで来たわけですが、デザートにあたっては
またまた面白い演出をやってくれました。

この丸い葉っぱ、ナスタチュームといって、花も葉も食べられます。
これを鉢ごと持ってきて可愛いハサミでちょきんと切って、
デザートに
あしらってくれるのです。

これはTOが頼んだアイスクリームだったと思います。
切りたてのナスタチュームの葉ををあしらってございます。

わたしの頼んだシソのソルベ。

上に乗せてあるのはメレンゲで、エルダーフラワーの味です。
ゼラニウムのシトロネラオイルがかかっています。

MKのお皿のこの黄身みたいなの、なんだと思います?
ひっくり返してもらってびっくり、枇杷(ビワ)でした。

日本以外で枇杷のデザートなんてものを見ようとは。

小さなアミューズブッシュも出され、お茶も出ておなかにもう何も入りません、
となってから、ボーイさんが黒い映写機のケースのようなものを
運んできて、中から取り出したのは・・・。

小さなチェリーチョコレートでした。

向こうには金柑、ほおずき、ブラックチェリーなどがあり、どれもデザート。
この入れ物のセンスもそうですが、かなり日本のエッセンスが感じられます。

説明には、

伝統的なレシピーを現代風にアレンジし、今ではほとんど忘れられている
地元の食材を使うことで、シュタイレレックでしか味わえない料理を提供します。

とありますが、ビワなどもその一つなんでしょうか。

画像にもあるカードには、「食のカルチャー」として、

「ウィーン料理は世界でただ一つ、都市名に料理がつく料理です。
それは200年も前に、『ウィーン会議』が行われた頃からあります。
様々な料理が平和的なハーモニーのうちに混じり合い、彼らの味覚や伝統が
ウィーンの料理の栄光をいや増しました」

とあります。
前衛的な手法のように見えましたが、基本はウィーン伝統に則っている、
とシェフは高らかに宣言しております。

ニュースを見ると、日本から有名シェフが表敬訪問していたりするので、
そういった食の異文化をウィーン会議の時の(キッチンの)ように取り入れて、
発展させていくことを目標としているレストランなのに違いありません。

 

 というわけで、世界でも有名な(らしい)三つ星レストラン、シュタイレレックの
食は、知的な興奮を掻き立ててくれる「美味しいカルチャーショック」でした。

 

 

続く。


ザルツ・カンマーグートの老人会〜ザルツブルグ-ウィーン車の旅

2019-08-28 | お出かけ

わたしたちがザルツブルグからウィーンの帰りに立ち寄った
ヴォルフガングゼーの湖岸には、

ザルツ・カンマーグート

というオーストリアでも有名な観光地があります。
今回の移動は車だったので、帰りにここに寄ってみることになりました。

ザルツからザルツカンマーグートまでは、細長いヴォルフガング湖沿いに
ずずいーっと右回りに回り込んで、向こう岸にたどり着きます。

しかし羨ましいのは、都会(ザルツ)から少し車を走らせただけで、
すぐにそこは田舎の風景になり、あふれんばかりの自然の中で

保養地を楽しんだり、冬は日帰りでスキーに行くことができること。

「観光地」「休暇」という言葉の持つ意味が、日本人とは全く違うのです。
日本国内は移動に時間とお金がかかる上、どこにいっても日本人でない観光客で溢れ、
大型連休になると争うように国外に出るのが風物詩となっている我が日本。

素晴らしい自然に恵まれた愛する祖国ですが、海外でこういうのをみると、
世界第3位の経済大国という地位ってそんなにいいもんなんだろうか、
などと根源的な問いが浮かんできてしまうので困ったものです。

さて、ザルツカンマーグートに到着しました。
名物の登山電車に乗ってみたかったのですが、時間がないので諦め、
湖の近くで遅昼を食べることにします。

ちょうど、ウォーターフロントに面した良さそうなカフェがあったので
入ってみたのですが・・・

ランチのピークが過ぎたせいか、従業員は一人だけ。
テーブルは二つだけ埋まっていて、彼らはとりあえずビールを飲んで
待っていますが、なかなかオーダーが来ないようです。

「もしかしたらこの人一人で料理も作ってるんじゃない?」

しかも、メニューを見ると、軽食しかありません。
しばらくオーダーを取りに来る様子もなかったので、さっさと見切って
店を後にし、他のレストランを探すことにしました。

一周車で街を回りましたがわからないし車が停められないので、
この、駐車場だけは超大きな「大型店」に行くことにしました。

店内はテラス席と内部に分かれていて、好きなところに座れ、と言われ
一応中を見てみたら、びっくり。

広い店内の半分が埋まっているのですが、座っているのが老人ばかり。
彼らの前ではヴァイオリンとピアノという「楽団」が生演奏していて、
お年寄りのカップルが何組か音楽に合わせて踊っているではありませんか。

「なに?この老人率の高さ・・・」

しかもこの盛り上がり方は・・・・お昼なのになにごと?

どこでも好きな席に座っていいと言われたのですが、どう見ても
わたしたちは完璧な異邦人でしかも彼らの雰囲気にはなじみません。

とりあえずその老人団体の近くは遠慮することにして、
テラス席に座ることにしました。

観察していると、どうもこの老人たちは一つの団体で、
音楽家も自前のようです。

「何だろうあれ・・・同窓会?」

「老人ホームの慰安旅行じゃない?」

「にしては皆元気すぎるんだよなあ・・・」

「趣味の会じゃない?」

オーストリアの老人の趣味って何だろう。
チェスとか、チロルのダンスとか、ヨーデル愛好会とか?

音楽に合わせて何組かのカップルはフロアに出てダンスをし、
その他のみんなは手拍子を取り、一緒に歌って楽しそうでした。

オーストリアでは結構喫煙者が多く、屋外のテーブルでは皆吸うので
各テーブルに灰皿が置いてあります。

瓶のドリンクは「EIS TEE」=アイスティのドイツ語です。

テーブルに座ると、オーストリアの男性の民族衣装、
レーダーホーゼン(革のズボンの意)を女性用にアレンジした
革のショートパンツの制服を着た女の子が注文を聞きに来ました。

オーストリアでしか食べられないことだし、と、MKは
チキンのシュニッツェルを注文しました。
やっぱりクランベリーのソース付きです。

わたしは、ここが湖の近くであることから、マスを注文しました。
横のヴォルフガング湖で今朝釣れたばかりではないかと思ったのです。
おそらくその想像は当たっていたようで、バターで炒めたマスは
全く匂いがなく、レモンをかけていただくと最高に美味しかったです。 

ちなみに、わたしたちが食べているときに老人たちは一挙に出て行き、
駐車場に停めているバスに全員が乗り込んでいきました。

昼食後は街を散策してみることにしました。

1976年、ヴォルフガングという人が司教になってからちょうど1000年目に
記念としてこの看板が制作されたようです。
おそらく、聖ヴォルフガング以降の大司教の名前でしょう。

年代が飛び飛びになっているのはなぜかわかりません。

ツタのからまる建物のアーチ状の入り口には、

SEERESTAURANT KAISERTERASSE

とあり、ここを歩いていくと湖畔のレストラン「カイザーテラス」があるようです。

「Weißen Rössl」というのは「白い馬」なので、「白馬亭」という感じでしょうか。
白い馬が立ち上がっているモニュメントが見えます。

ちゃんとテーマソングもあるようで、大々的に建物に書かれた歌の歌詞は

「♪ヴォルフガングゼーの白馬亭は幸せ溢れる〜♫」

 

このあと街の名前となった聖ヴォルフガング教会の内部を見学。
内部は撮影禁止となっていました。

教会を出るとそこは湖を望む回廊になっています。

ちゃんと調べていませんが、危険だからここに上ってはいけません、
とドイツ語で絶対書いてあるはず・・・・・・なのに、この窓の左側には、
若い中国人女性がスマホでのイメージフォト撮影に余念がありませんでした。

窓枠に座り、片膝を立てて片足をできるだけ長く伸ばし、
身体をそらして片手を後ろに付き、片手を髪に添えるようにし、
満面の微笑みを浮かべて・・・・・。

彼ら彼女ら中国人が写真を撮るとき、見ていて恥ずかしいくらい
気合を入れるのはフィルム時代の昔からのことですが、デジカメ時代になって、
その傾向は一層過熱気味にあり、ある統計では都市部の女性は、
1日平均三回自撮りをするのだそうです。

日本人にも特に若い女性は自撮り好きの人がいっぱいいますが、
自己愛が強いと見られるのを照れる傾向にある日本人と違い、
中国人はそれに加えて「全く人目を気にしない」傾向にあります。

まあ、ポーズを取るのに夢中になって事故が起こっても、
おそらくヨーロッパでは全て自己責任で片付けられるので無問題。

 

下を覗き込んでみると、湖畔にプールのようなものが見えました。

湖畔の上に設えられたサンデッキには、プールとジャグジーがありました。
後から地図で調べたところ、このデッキは先ほどの白馬亭のもので、
ここに泊まれば、こんな特等席で楽しむ事ができるのがわかりました。

湖を泳いでいる人もいます。
ボートにはちゃんとオーストリアの国旗が。

ザルツブルグからウィーンまで田舎道を走っていると、民家の窓には当たり前のように
インパチェンスのような花が咲き誇っていました。

オーストリアの主婦は窓辺に花を咲かせられなければ一人前ではない、
というような習慣でもあるのかと思ったくらいです。

「Seehotel」(ゼーホテル)は湖畔の宿、といった感じでしょうか。
先ほどのホワイトホース・インはだいたい一泊310ドル、
こちらは随分お手頃な165ドルくらいの宿泊料です。

和風の提灯を釣ったアルプスの小屋のようなレストラン。
お店の名前は「マネキ」ですが、中華料理です。

なぜこんなところで日本の名前をわざわざ名乗る?

街歩きを楽しみ、適当な時間にザルツカンマーグートを出発しました。
車中から見る珍しい地形も楽しみです。

しばらく山の中を走りました。
オーストリアはキロ表示なので助かります。

しばらく行くと、岩山と湖畔という、まるでセガンティーニの絵に出てきそうな
風景が現れました。

「車が停められそうだったら降りてみようか」

道路脇の駐車スペースに車を止めて岸まで行ってみると、ここも
驚くほどの水の透明度です。

岸辺にいた鴨軍団が集まってきました。
人の姿を見ると何かもらえるのではと期待するようです。

目をキラキラさせながらこちらを見上げていましたが、
期待されても彼らにやれるようなものは持っていません。

人間なんかから変なものをもらわずとも、ここには普通に
小魚がいっぱいいるんじゃないのかしら。

ウィーンに行くには途中で高速に入りますが、それまでは
農村地帯を延々と走っていきます。

この牧場では、ドイツとフランスの牛を飼育しているようですね。
もちろん全てグラスフェッド、放牧放飼で育ているはずです。

ウィーンに入る手前で日が沈みだしました。

市内に入り、シェーンブルン宮殿前を通る頃にはすっかり夜です。

さあ、明日は最後のウィーン滞在を楽しむことにしましょう。


続く。




ヴォルフガングゼーまでの道〜ザルツブルグ- ウィーン

2019-08-26 | お出かけ

ザルツブルグを後にし、国道158号線、通称ヴォルフガングゼー通りを通って
車でウィーンに戻ることになりました。

ヴォルフガングゼーというのは、ザルツブルグからウィーンにいく途中にある
ヴォルフガング湖のことです。

UボートのUは「ウンターゼー」で「海の下」、ゼーは「海」という認識でしたが、
ドイツ語では潮の有る無しに関わらず、水が溜まったところは「ゼー」のようです。

整備されていて、高速並みに走りやすい一般道路です。

もともとウィーンからザルツブルグまでは汽車で移動するつもりでしたが、
出発の日気まぐれを起こし、車で行くことになったため、帰りにはこれも思い付きで
車ならではの自在性を生かし、湖のほとりの街に立ち寄ることになったのです。

鉄道の旅を選んでいたらそれなりに楽しい体験ができたとは思いますが、
こちらは車で来ていなければ一生縁がなかったかもしれませんん。

さあ、それではヴォルフガングゼーに向かって、
ヴォルフガングゼー・シュトラーセを Lass uns gehen!

ザルツブルグ市内を抜けたらもうそこは普通に田舎で、
道路脇で牛さんが草を食んでいたりします。

オーストリアの牛はご覧のように茶色〜白い毛並みです。

ホテルを出て20分も行かないうちに、わたしは道路脇に戦闘機がいるのに驚き、
助手席のMKにカメラを渡して走る車から写真を撮らせました。

さりげに向こうに見えている重機がボルボ製なのにもちょっと驚きますが、
それにしてもこの戦闘機は一体・・・・なんでしょうか。

画像を調べてみたものの、またどうせ当たらないのは確実なので、
ヨーロッパの兵器に詳しい方々に特定をお任せしたいと思います。

でもF35のノーズにちょっと似てるよね?(言ってみただけですのでお気になさらず)

ところでこの建物、この写真に「museum」と写っていたので調べてみたら、
ここは

「マンロー・クラシック アウト・ウント・ムジーク・ムゼウム」

といって、フェラーリやメルセデスなど、ヴィンテージ・カーの
博物館であるらしきことがわかりました。

ムジーク、音楽については、見てみましたがなんだかよくわからない展示です。

ヤマハピアノ

なんかもしかしたら、単なる個人のコレクション自慢、つまり
レッドブルオーナーのコレクション自慢ハンガー7のしょぼいバージョンだったりして・・・。

それにしても博物館の内容に全く戦闘機関係ないのでワロタ()

この戦闘機以降、MKにカメラを渡して窓の外を適当に撮ってもらいました。
まるで絵のような一本道の突き当たりにある家は現在新築中。

写真を拡大してみたら人が働いていました。
冬は雪に覆われるので、工事は夏の間に終わらせるのでしょう。

さらに走っていくと、岩山の山脈が見えてきました。

オーストリアのバス停はガラス張りの三方囲まれたブースで、
雪の降る冬でもバス待ちが辛くないように工夫されています。

国道沿いのレストランも日本人の目にはどれもおしゃれな作りに見えます。
右側にある「ギムセンヴィルト」というレストランはハンガリー料理だそうですが、
スープが辛そうなのと、デザートの巨大さで、オーストリア風だと思いました。

GIMSENWIRT

この辺りには結構とんでもない形の岩山が多いです。

ザンクト・ギルゲンという街に差し掛かりました。
日本からはオーストリアの観光地としても有名です。
観光の目玉は・・・・・・・、

そう、ロープウェイ。
可愛らしい数人乗りのゴンドラが行き来しているのが車道からも見えました。
ゴンドラは4人乗りで、家族やカップルだけで乗ることも
空いている時なら可能ですが、大抵は相乗りになるようです。

ゴンドラは小さくて、大人四人のるとかなりキツキツだとか。

建物に「Zwölferhorn-Seilbahn」とありますが、これが乗り場です。
開業して60周年を迎えたと書いてありますね。

黄色と赤の二色のゴンドラが可愛らしい。

ザンクト・ギルゲンのロープウェイは10分くらいかかるので、
長い間空中散歩が楽しめるそうです。

子供連れはもちろん、恋人同士や新婚旅行のカップルに超おすすめです。

地図を見ると、こんな長い距離(赤い点線)の路線でした。
右側はヴォルフガングゼー。

終点は山の頂上で、今の季節は問題がないですが、冬は雪に覆われています。
そこからはスキーコースになっているので、地元のスキーヤーには

板を履いて山頂まで自力で登り、一気に滑り降りたりする人もいるとか。

道の横が切り立った崖で、上まで1.2kmあり、岩が落ちてくるかも、
という立て札ですが、こんな垂直の崖の上から岩が落ちてきたら
注意していてもどうしようもないと思います。

程なくヴォルフガングゼーに到着しました。
信じられないくらい水が透明で、深いところは濃いエメラルドグリーンです。

この辺の地形は、切り立った岩山が屏風のようにそびえており、湖は
その岩山の合間に細く切り込まれるような形で水を湛えているのですが、
つまり、湖の底質は泥ではなく岩石多めなのでしょう。

水に濁りのないのはおそらくその岩質も白っぽいからだと思われます。

対岸はすぐそこに見えていますが、これは湖が細長い形をしているからです。
湖を気持ち良さそうに泳いでいる人が。

水の色を見る限り、彼の泳いでいるところはとても深そうです。

湖の周りは全く護岸など人の手が加わっていない状態で、
湖岸の芝生には、多くの市民が湖水浴を楽しんでいました。

この地方もこの季節日向は猛烈に暑いですが、湿度が低く木陰は清涼で、
湖水もおそらくは温度が低いのだろうと思われます。

海水浴と違って真水の、しかも飲めそうに綺麗な水ですから、
シャワーなども必要ありませんし、もちろん入場料も要りません。
ついでに、車は道路沿いにパーキングスペースがあって、無料。
それほど人も多くないのでのんびりできます。

こんな週末の楽しみ方があるなんて、羨ましい限りです。

 

また車に乗って走り出しました。

「あんな岩山の頂上、今まで誰も登ったことないんだろうね」

「それがあったりするんだよ」

「なんのためにあんなところに登るの?」

「イーサン・ハントが休みの日ににロッククライミングするんだよ」

ウィーンに帰る前に、早めに給油しておこうとガソリンスタンドに寄りました。
ところがこのガソリンスタンドというのが・・・

こんな農場の一角にあったりするわけです。
ガソリン入れながら牛の群れを眺めるこの不思議な体験。

そのうち、お食事タイムが終了したらしく、牧童が牛を追い立て、
彼らはお行儀よく一列に並んで歩き出しました。

わたしたちはアメリカに行くと、いつも「ホールフーズ」という
全米チェーンのオーガニックスーパーを利用していますが、肉を買うとき、
値札に書いてある

「グラス・フェッド(grass fed)」

「グレイン・フェッド(grain fed)」

を必ずチェックします。

一般的には牧草を食べて育った牛は、
穀物を食べた牛より肉が美味しいので、高価だとされます。

これは、安い肉牛を扱っている畜産場の管理の問題でもあり、
穀物の持ちを良くするために保存料を入れたり、ひどい場合には
飼料桶の手入れが悪く、腐ったような餌を食べている牛だと、
当然ながらその肉は安いが劣悪であるということになっているからです。

ちなみにホールフーズの場合、時としてそれらの値段は同じですが、
つまり、ここと契約している畜産場は、穀物を食べさせているとしても
管理がしっかりしていて飼料はノーケミカルであるという意味でもあります。


それにしても、高価といっても日本の一流店で食べれば
いくらするかわからないようなテンダーロインが、
たっぷり三人分
(日本の四人分)30ドルくらいで買えるのですからたまりません。

これをレアに焼いて食べるとめっぽう美味しいので、我が家ではこの夏、
家ではかつてやったことがない「ステーキ祭り」が開催されております。

このヴォルフガンブゼーの牛さんたちが乳牛なのか肉牛なのかはわかりませんが、
きっと牛乳も肉も美味しいのだと思われます。

余談ついでに、わたしがアメリカに来るといつも選んでいる、
ケリーゴールド社の
アイリッシュバターをご紹介しておきます。

今まで、何の気なしに選んで、ただ美味しいからと買っていたこのバター、
気づけば有名なグラスフェッドの発酵バターだったのです。

日本で見る真っ白なバターと違い、色は本当のバター色。
食欲をそそる色をしていますが、これは牛が牧草を食べているから。

 日本でも輸入されていますが、一箱1000円くらいします。

さて、ヴォルフガングゼーの

ザンクト・ヴォルフガング・イムザルツカンマーグート

に行くためにを湖を左回りに回り込んでいく途中に
湖沿いにあるシュトローブルという街に差し掛かりました。

ところどころ山がトラ刈りにされています。

「まさかスキー場?」

「あんなところ滑れないよ」

「だとしたら超上級者向けゲレンデだ」

そういえばゲレンデってドイツ語ですよね。
調べてみたら、この近くにはスキー場がいくつかあるようです。

 

続く。

 


ザンクト・ペーター寺院のカタコンベ〜ザルツブルグを歩く

2019-08-23 | お出かけ

いよいよザルツブルグ最後の日になりました。
車で来ているので、時間の制限はありませんが、MKが車なら
ウィーンからこちらに来る途中に見た湖に寄ってみたいと言い出したので、
午後には出発することにして、午前中を最後の観光に当てました。

ホテルのバルコニーから改めて写真を撮っていたのですが、見れば見るほど
メンヒスブルグの岩山を垂直に切り取って作った人口の「壁」がすごい。

ろくな重機もない昔どうやってこんな狂いなくまっすぐに崖を
切り取ることができたのか、不思議でなりません。

街に出たものの、特に目的があるわけではないので、
気になったお店にふらりと入って買い物を楽しみました。

ここではお店の人に相談して、紅茶を三種類選んでもらい・・・・、

ここでは調味料を見ましたが、収穫はなし。

外から見ていかにもセンスがいい物を置いているように見えたので、
地元のブティックにも入ってみました。
ちょっとカルチャーショックだったのは、ジーンズなども置いていながら、
オーストリアの民族衣装、ディアンドルなるドレスも扱っていたことです。

アルプスの少女ハイジが来ていたようなあれですが、オーストリアでは今でも
晴れ着としていろんな場で活用されていることがわかりました。

日本人が買って帰ってもコスプレでもしない限り着る機会もないので、
その代わり一着、普通のロングカーディガンを購入しました。

モーツァルトの像のある広場に出てきました。
後ろのピンクの建物は、モーツァルトの未亡人コンスタンツェが、
銅像ができるのを待ちながら住んでいたとガイドさんは言っていました。

結局広場から遺跡が出てきて工事が遅れ、銅像の除幕式
(ってのがあるのかどうか知りませんが)を待たずして彼女は亡くなります。

MKが学校のツァーで来た時にここで食べたジェラートが美味しかった、
というので広場のテーブルで一休み。

カフェのテーブルの下にはザルツブルグスズメがいました。
アメリカのスズメより日本のに似ていますが、頭が灰色です。

ザルツブルグにいわゆる郊外型モールがあるのかどうか走りませんが、
旧市街の本屋さんは大型書店ではありません。

ドイツ語で本屋を「ブッヒャー」と言います。

洒落た埋め込み式看板は「ホテルヴォルフ」。
小さなホテルだと思いますが、部屋もセンスが良さそう。

と思ったらやっぱり。

ホテル・ウルフ画像

この「ヴォルフ」、狼というより、ザルツの街を作ったという、あの
ちょいワル大司教ヴォルフ・ディートリッヒから来てるんだろうな。

こちらはカフェ黒猫、ガット・ネロ。

トースト、フランクフルトソーセージ、ヌードルサラダ、
モッツァレラ入りサラダ、バゲット、うーん、美味しそう!

崖の下の通りに差し掛かると、少し異質な赤い傘とカフェテーブル登場。

「MANEKINEKO・・・・招き猫、ですと?」

「もしかしたら日本人の経営かな」

もしかしたら、と疑ったのは、海外で堂々と日本語の店名を名乗っていても
中国人や韓国人が経営していて変な日本料理を出している
インチキジャパニーズレストランは普通に存在するからです。
特にアメリカではこれに散々嫌な思いをさせられているので、
すっかり疑り深くなっているわけですが・・・・。

「中国人だね」 ( ゚д゚)、ペッ

わたしはこの、一見日本のゆるキャラ風を装った招き猫(皆ソーラー内蔵で
ゆらゆら揺れている)を見て、一目で断言しました。

腹掛けにひっくり返した「福」の字を使うのは、倒した福、
「倒福」=タオフー=「到福」(福がやってくる)
と中国で言われているからで・・・つまり日本人ではありません。

よく見ると招き猫が持っている小判も地面に置かれておらず、
さらにその小判の「百万両」の百の字が簡体字だというね。

はいそして極め付け、決定的な状況証拠。
どこの世界にこんなたくさん蒸籠を使う日本料理があるよ?

通り過ぎながら食べている人の料理とメニューの字を見たところ、
シェフのおすすめは「Bento Box」。弁当ですよ。
台湾では弁当はもう日本語から台湾語になっているそうですが、それでも
弁当と書いて(ベンタン)と読むわけだし。

案の定、覗き込んだベントーボックスには、餃子とか点心とかが・・・。
もうね、頼むから文化の剽窃、盗用、そして侮辱はやめて下さい。

それも大嫌いな日本語の店名を名乗るなんて、あなたがたにプライドはないの?

とプンスカ怒りながら街のはずれにやってきました。

「justizgebäude salzburg」=正義の建物ザルツブルグ

ってことでザルツブルグ裁判所のようです。

裁判所からUターンしもう一度広場に戻ると、
巨大な金の玉の上に人が立っていました。

噂ではこの金の玉上おじさん、ホーエンザルツブルグ城を睨んでいるとか。
アートなのか?

MKが突然、確信を持ってある方向に歩き出しました。

「ザルツブルグの墓地、確かこっちだったと思う」

お城の鉄道のふもとに当たるところに、水車があります。

 この左側には世界最古のパン屋があり、水車は
粉を挽くために使われていたのだとか。
パン屋さんは今でもちゃんと営業しているそうです。

「あった。ここだ」

MKが連れて行ってくれたのは、ザンクト・ペーター教会の墓地でした。
どこの国に限らず、よその国のお墓というのは大変興味をそそるものです。

ヨーロッパの墓は色とりどりの花を植えて花壇のようにしていることも多く、
墓地といっても公園のような雰囲気が漂います。

ビーデンバーガー、マルナー、シュルツといくつか名前がありますが、
皆一族のようです。
こちらでは結婚して名前が変わっても元のお墓に入るんでしょうか。

DDが何かわかりませんが、ドクトルでいらしたようですね。

時間がないので中を見ることはありませんでしたが、これが聖ペーター教会。
1401年創建と記してあります。

左胸に忠誠を誓うポーズで立つ兵士、墓石の上のヘルメット。
これは武人の墓に違いありません。

DAS OFFICERS CORPS DES K.K.INFANTRIE REGIMENTS N

LIX EHRET 

DAS ANDENKENDAS ANDENKEN SEINES OBERSTEN

UND REGIMENTSUND REGIMENTS COMANDANTEN

これを直接翻訳にかけても正確には出てこなかったのですが、
とにかくこのお墓の主であるフランツ・なんとかベルグという人物が、
歩兵連隊の指揮官であったことだけはわかりました。

お墓の状態から見て第一次世界大戦の頃の人でしょうか。

ザンクト・ペーター教会には、崖をくりぬいて作ったカタコンベがあります。
まるで岩に張り付くような状態で建物が見えますが、この内側は
岩を掘って作った階段の通路が続いているのです。

カタコンベというからには岩の中にお墓があって、そこに葬られている
死者がいると思われますが、そもそもこここがカタコンベだとわかったのは
19世紀になってからの調査の結果なんだそうです。

死者が葬られていたのは3〜4世紀ごろのことです。

右側に、もう文字も定かでない墓石のようなものがはめ込んであります。
墓石の上部には

「DAS ANDANKEN 」「ZUM ANDNAKEN」

とあり、これがドイツ語の「イン・メモリアム」らしいとわかります。
そして、もし映画「サウンド・オブ・ミュージック」を見た方がいたら、
最後にトラップ一家が逃げ込み、隠れた墓場を思い出してください。

それがここという「設定」です。(もちろんあれはセットです)

いくらハリウッドでも、実際のお墓で夜ロケをするなんて罰当たりな真似は
できないし、そもそも許してもらえなかったと思われます。

わたしたちがぼーっとここに立っていると、急に係員がやってきて
人が中に入って行きました。

「あ・・・中入れるんだ」

「え?行く?」

「行きたい」(わたし)

というわけで、偶然中に入る時間に居合わせたので内部を見学しました。

カタコンベがあるとわかるまで、ここには人が住んでいたということですが、
信じられないくらい歩きにくい階段が続いています。

よくまあこんなところに窓枠をはめ込んだもんだ。
内部から眺める外の墓地。

少し広い石室には祈りを捧げる祭壇がしつらえられています。

カタコンベの中から見る聖ペーター教会とザルツブルグ大聖堂。

割と最近作られたらしい鐘楼がありました。

さらに進んでいくと、もう一つの祭壇が。
このチャペルでは今でも祈りが捧げられているということです。

おそらくこのカタコンベができた時からあるラテン語の経文が書かれた岩。

見学できるのはここまでで、これを見終わると元来た道を帰ります。
カタコンベというからにはお墓があるはずなのですが、
その部分はおそらく岩の内部にあって発掘されていないのかもしれません。

パレルモのカタコンベみたいなのだったらどうしようと思っていたので、
内心ちょっとホッとしました。

カタコンベに眠る人々の墓石なのでしょうか。
これらの墓石を見ると、ほとんどが1800年代の死者で、
「ここに眠る」と書かれているので、もしかしたらこの裏側に
本当にお眠りになっているのかなとも思ったのですが・・。

板に描かれた「死の物語」。
翻訳しようとしましたが、ラテン語と亀の甲文字で挫折しました。

というわけで思ってもいなかったカタコンベ見学が終わり、
チェックアウトのためにもう一度ホテルザッハに戻ります。

「愛の南京錠」の橋には、昨日はなかった近代美術館の
新しい展覧会のポスターが。

「ゼログラビティ」

なかなかこの橋にマッチしています。

荷物を取りに来てもらい、ホテルに別れを告げました。
改装して天井がガラスになったせいで、こんなに明るい空間になっています。

ホテルザッハのマスコットであるザッハくん(多分)がお仕事中の写真。
ザッハくんはホテルマンで、この制服から見てどうやらフロント係なのですが・・・。

なぜベッドで寝ているー!(笑)

さて、わたしたちは車でザルツブルグを後にしました。
これから、帰路途中にある湖を目指します。

 

続く。


メンヒスベルグ・崖の上のレストラン〜ザルツブルグの街を歩く

2019-08-22 | お出かけ

さて、「過去と今をつなぐトンネル」を通って、中世ヨーロッパのゾーン、
ホテルザッハに戻ってきたわけですが、夕食に出るまでに時間があったので、
思わず腰に手を当ててそこに立ち、人々の群れを睥睨しながら

「・・World is mine・・・・」

と悪の帝王風につい呟きたくなるようなホテルのテラスから外を眺めていました。

ホテルの前のザルツァハ川の岸では、旅行者らしいカップルが
川の水に脚を浸して休憩中。

今回は時間がなくて見学できませんでしたが、大聖堂の向こうには
ザルツブルグ一の歴史的遺産であるホーエンザルツブルグ城がそびえています。

これは、1077年、当時の大司教が、皇帝派の南ドイツ諸侯の

カノッサの屈辱への報復を恐れて

市の南端、メンヒスブルク山山頂に建設した防衛施設です。

神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世"バルバロッサ"がザルツブルグを
焼き討ちした時にも、失われることなく現在に至ります。

15世紀後半になるとハプスブルク家など反乱に備えて強化され、鐘楼、
薬草塔、鍛冶の塔、囚人の塔、武器庫、穀物貯蔵庫等が建設され、
防壁が強化されていきました。

城の右側からはどう見ても線路のようなものが下に向かって伸びており、
ホテルにチェックインしたときから気になっていたのですが、
これは

ライスツーク(独: Reißzug、英: Reisszug  Reiszug)

といい、城への貨物搬入を行うための鉄道でした。

正確な敷設年は明らかになっていませんが、少なくとも1500年前後には
もうここにあって利用されていたようで、もし本当ならば
これが世界最古の鉄道となると言われています。

運用形式はフニクラー、つまりケーブルカーのようなもので、
当初レールは木製、牽引は麻のロープでされていたとされます。

1910年までは、人間または動物の力によって動かしていたそうですが、
その後何度も改修され、今日では、鋼製レールとケーブルを使用し、
電気モーターによる牽引が行われています。

最新のアップデートによって、運行を監視するために
閉回路テレビ・システムが使用されているところまできていますが、
動力は手動で、片道5分かかるそうです。

さて、その後、わたしたちはホテルから歩いて、メンヒスブルグ山頂にある
レストランに行くことになりました。

レストランに行くには、やはり山頂に繋がるエレベーターを利用します。

エレベーターに乗るには料金が必要です。
無料にしてしまうと、景色を見るためだけに人が押しかけるので、
已む無い措置だと思われます。

チケットは自動でなく、恐ろしく愛想のないおじさんが
1日に何千回も同じことを言わされているせいか、無表情に
エレベーターの乗り方を説明してくれました。

エレベーターは崖の岩を山頂までくり抜いて60mの高みに達しています。
最上階?に到着すると、エレベーターホールの天井も壁も、
岩肌がそのままの状態になっていました。

メンヒスベルグ山は、昔からこれをくり抜いてトンネルを作ったり、
崖に寄り添うように家屋が建っていたりしますが、よほど地質が堅牢で
崩れることがないということなのでしょう。

この眺めは、ガイドさんによると「ザルツブルグ一番」だそうです。
もちろん、向かいにあるホーエンザルツブルグ城からの眺めもなかなかですが、
そちらからだとお城が見えませんしね。

帝王カラヤンの生まれたという家の全体像も手に取るように見えます。

「愛の南京錠」のおかげですっかり色づいて見える橋もこの通り・・・・
あれ・・・?

ザッハホテルのテラスから下に見えていた川岸のカップルが・・・。

さっき、下を見たら熱烈な愛の交歓中だったんですが、まだやっとる(笑)

ちなみに、わたしがテラスから写真を撮って、歩いてメンヒスベルグまで行き、
頂上に登って展望台にたどり着くまでに軽く1時間半は経っております。

仲良きことは美しき哉。

というわけで、この、ザルツブルグ旧市街らしからぬ建築が近代美術館です。
今日予約したレストランはここの一階にあり、テラス席から見る夜景が売り。

ザルツブルグの観光案内をしてくれたガイドさんが、

「時間がなくて立ち寄ることができない方にはお教えしません。
なぜなら、羨ましがらせるだけであまりに気の毒なので」

と言いつつオススメしてくれた絶景レストラン。
彼女はお願いすると、その場で次の日の夜に予約を取ってくれました。

昔、このメンヒスベルグ山頂には「カフェ・ウィンクラー」なる有名なカフェがあって、
実に何十年もの間、ザルツブルグの名所として人気を博していました。

しかし、ザルツブルグ郊外にあるバロック式宮殿の「クレスハイム」に
カジノが入ることになると、そちらに観光客が流れ、すっかり山上のカフェは
閑古鳥が鳴く状態になってしまったのです。

そこで再開発の計画がたち、建築のデザインをコンペで決定し、
2004年にここに近代美術博物館ができることになりました。

レストランはメインというわけではないのですが、
ザルツブルグを一望できる絶景ポイントとして人気を集めています。

恋人、友人同士はもちろんのこと・・・、

おそらく会社ぐるみで来ているらしい団体のテーブルもありました。

わたしたちの近くのテーブルは、中年のオーストリア男性と、
アジア系の若い女性のカップルでした。

女性はこちらが気まずくなるくらい男性に媚びていて、何かと言えば手を
男性の身体においては耳元で囁いたり、二人の写真を5分おきに撮ったり、
ボーイさんに二人の写真を撮らせたりと大忙しでしたが、
何かそうしなければならないよっぽど切羽詰まった事情でもあったのでしょうか(棒)

などと、周りの様子を見ながらメニューを選び、待っているうちに日が暮れてきました。

パンはサワドー、無塩バターにザルツブルグらしく塩の付け合わせです。

ミートボールの一つ混入したスープですが、やはりこれも辛めでした。
オーストリアの人は塩辛いものを辛いと認識しないのかもしれません。

鮮やかなエディブルフラワーをあしらった前菜。
これを頼んだのはTOですが、花を食べ残そうとするので、

「これは食べなくてはならない花である」

と説得して無理やり食べさせました。

「味がない」(´・ω・`)

だから、食べることができるんだってば。

TOにいわせると、魚は結構いけたそうです。
わたしは珍しくビーフのアントレを頼んでみましたが、
ちょっと、いやだいぶ硬いかなという歯ざわりで、感激するほどではありませんでした。

「これが一番美味しいような気がする」

という声が上がった、マッシュドポテトトリュフ添え。

TOが頼んだスープです。
上にかまぼこのような天ぷらのようなものが乗っていますが、
これがなんだったかは聞きそびれました。

さらに日が落ちると、屋内のバーは赤い照明が点灯されました。

オーストリアは日没が遅いので9時近くになってもこんな明るさです。
ここは、レストランを出てエレベーターに向かう途中にある場所で、
街を一望できるこの展望を楽しみに来る観光客でいっぱいです。

ただしわたしの見たこの日は全員が中国人でした。

エレベーターにはこの中世風石畳の通路を通って行きます。
帰りのエレベーターのチケットはレストランがくれました。

純粋な感覚を超えた色の輝度
眼は必然的にこれを問う
あなたはなぜこれを赤と青と認識し記憶しているのかと
あなたにとって赤と青の色は何を意味するか
どこが赤の始まりでそして終わりであるか
青の始まりで終わりであるか
そしていつそれらは混じり合い一つになるか
と書かれたこれも近代美術館所蔵の作品の一つです。

夕刻のザルツブルグの街を高みから堪能した後は、
ブラブラと歩いてまた「愛の南京錠」の橋を渡りました。

この頃になってようやくこの街は太陽が沈み、夕闇が迫ってきています。

明日は最後のザルツブルグ観光をし、ウィーンに戻ります。

 

続く。

 


ゲオルグ・フォン・トラップ海軍少佐の軍歴〜ザルツブルグの街を歩く

2019-08-12 | お出かけ

 

ザルツブルグの観光案内が終わり、歌手だというガイドさんに
自作のCDを記念に頂いて彼女と別れたのは、
マックス・ラインハルト広場というところでした。

この左にあるのがモーツァルト祝祭小劇場、右に向かって
ウィーンフィルハーモニー通りという道が通っています。

マックス・ラインハルトはユダヤ系オーストリア人のプロデューサーで、
ザルツブルグ音楽祭の原型となる催しを1920年に創始した人です。

彼は1938年、ナチスドイツがオーストリアを併合(アンシュルス)したのを
きっかけにアメリカに亡命し、5年後、客死しました。

ユダヤ系オーストリア人の芸術家といえば思い出すのが、昔「ヒトラーと映画」
という本で知った、映画監督フリッツ・ラングの亡命劇です。

ラングはある日、宣伝相のゲッベルスに招かれ、ラングを名誉アーリア人として
扱うので、ナチスの宣伝映画を撮って欲しい、と頼まれます。

その日のうちに銀行からお金を引き出してアメリカへの亡命をするため
国外脱出をしようとしていた彼は、土曜日のこととて、
銀行が閉まるまでに宣伝省を辞去するつもりでしたが、
興に乗ったゲッベルスが、ラングの次期作品について夢を語り出してしまい、
結局、解放されたときにはすでに銀行は閉まっていました。

ラングは仕方なく、着の身着のままで現金を残したまま国外に脱出、
危ういところで命永らえた、というのですが、後年、ナチスに背を向けたとは
本人が言っているだけで、実はラングはゲッベルスに自分を売り込んでおり、
その後色々都合が悪くなって亡命しただけ、という説が浮上しているそうです。

さらに歩いていくと、グシュテッテン通りというところに出ます。
この通りには、ご覧のようなうっす〜〜〜い建物が、まるで
崖に張り付くようにして並んでいます。

通りに面しているのはレストランやバー、パブなどですが、
どうも上階には普通に人が住んでいる風なんですよね。

黄色いビルの上部には、「1418 黄金の太陽 1968」
と金色の文字でありますが、まさかこれらの建物、そんなに古くから・・・?

グシュテッテン通り近くを歩いていると、ウィンドウにこんな写真が。
「映画サウンド・オブ・ミュージックショップ」とでもいうんでしょうか、
まあ一種のキャラクターショップみたいなもので、写真や関連本、
あの映画に関したグッズ、民族衣装などを売っている店のようでした。

前回、ザルツブルグ大聖堂に爆弾を落として破壊したせいで、
ザルツブルグの人たちはこの映画に冷淡だった、と推測してみました。

実際の理由はそんな単純なものではないかもしれませんが、
このハリウッド映画がドイツ語圏では全く受け入れられず、
ザルツブルグを除いてオーストリアでは21世紀に至るまで
一度も上映されていないことからみても、冷淡といより無関心、
というのが実際のところかもしれません。

 

ここで映画をご存知ない方のために一応説明しておきますと、

妻に先だたれたやもめの海軍大佐、トラップとその7人の子供の元に
修道院から派遣されてきた家庭教師のマリア。
彼女は子供たちの心を掴み、彼らの父親トラップ大佐と恋に落ち結婚。
トラップ一家合唱団として活動を始めるが、ナチスへの協力を求められ、
コンサートの夜、一家は亡命を図る・・・

というもので、ザルツブルグに実在した一家をモデルにしています。

右側のヒゲの男性がトラップ氏。中央がマリア夫人。

写真には10人いますが、もちろんこれは全員トラップ家の子供たち。
7人が先妻との間の子、3人がマリアとの間にできた子供です。

結婚したとき、トラップは47歳、マリアは22歳という年の差婚でした。

Georgvontrapp.gif

ところで、今日のタイトルが、旅行記の割には本来の当ブログらしいのは、
「サウンド・オブ・ミュージック」の登場人物、

バロン・ゲオルグ・ルードヴィッヒ・リッター・トラップ

が海軍軍人で、今日はこの人のことをお話しするつもりだからです。

この映画について書かれたものは多いですが、トラップ氏の海軍での
軍歴についてフォーカスしたものはあまりないようなので、やってみます。

それでは参りましょう。

 1894年(14歳)海軍兵学校に入学

オーストリアというのは海なし国であるわけですが、かつて
オーストリア=ハンガリー帝国時代には海軍が存在しました。

この時代は海運が盛んだったため、その保護を目的として海軍が創設され、
これが結構強かったようなのです。

普墺戦争ではイタリア軍を撃破していますし、北海まで行って
デンマーク海軍とも交戦しているくらいなので、当然ながら
優秀な青少年を教育する兵学校も存在しておりました。

トラップ少佐が兵学校に入学したのは14歳だったことになりますが、
高等学校の段階で士官教育を施すシステムだったようですね。

ゲオルグは、海軍軍人だった父の跡を継いで、自分も同じ道を目指し、
フィウメにあった(現在はリエカ)海軍兵学校に入学することになります。

兵学校では士官教育の一環として、楽器を専攻させられました。
当時の海軍士官は(今もある程度はそうですが)紳士教育とともに
外交官ともなる社交教育もされており、音楽はその一環だったのです。

14歳のフォン・トラップはヴァイオリンを選びました。

4年後、兵学校を卒業すると、彼は士官候補生として、
練習艦コルベットSMS 「ザイダ II」に乗り組み、2年間の訓練航海を終えます。

この頃は帆船での航海であり、当時のオーストリア=ハンガリー海軍は
二回に渡る遠洋航海を行なっていたのです。
そのうち一回の航海は、オーストラリアでした。

今回、オーストリアで、

「オーストリアにカンガルーはいません」

と書かれたTシャツを目撃しましたが、自国と名前が似ている
この国について、フォン・トラップがどう思っていたのか知りたいところです。

練習航海で各地を訪れたフォン・トラップは、ついでに聖地巡礼を行い、
ヨルダン川で7本の水を購入して帰りました。

この水は、後に生まれた7人の子供たちに洗礼を施すために使われました。

(ということは、フォン・トラップは士官候補生時代、結婚相手もいない頃から
自分は子供を7人作ろうと決めていたということになります。
もちろん、水が7本あるので7人作ることにしたという可能性もありますけど)

それはともかく、最後の水を使う頃には水は腐っていたのではいやなんでもない。

 

1898年(18歳)任海兵隊少尉

オーストリア=ハンガリー海軍の略称はK.u.K
 kaiserlich und königlich (帝国と王国)を意味します。
もちろんこれはオーストリア帝国とハンガリー王国のことです。

1900年(20歳)防護巡洋艦「ツェンタ」乗組

トラップ少尉の乗り組んだ「ツェンタ」は、この年に発生した義和団の乱で
中国大陸に出征しています。


皆さんは皆北京市内の居留民保護を目的とした八カ国同盟軍、覚えてますか?

この写真、教科書にも載ってましたよね。
背丈の順で我が日本国は堂々一番右ですが、ただし、この時の日本軍は
強く正しくたくましく、その精強さで世界を驚嘆させたことも覚えといてください。

左から英・米・英領オーストラリア・英領インド・独・仏、
そしてオーストリア=ハンガリー、イタリア、日本軍。

記念写真は士官ではなく、全員兵士を選抜して撮られたようです。
オーストリア=ハンガリー軍の兵隊のいでたちは水兵ですね。
つまり海軍が派遣されていたことがわかります。

小型巡洋艦ツェンタ

防護巡洋艦「ツェンタ」の艦歴によると、義和団の乱の前年まで彼女は

日本(長崎、佐世保、鹿児島)

を訪問していましたが、義和団発生の報を受けて本国に呼び戻され、
75名の乗員を乗せて天津に向かいました。
この中に我らがトラップ少尉が海兵隊員として乗っていたのです。

「ツェンタ」は装甲巡洋艦カイゼリン・ウント・ケーニギン・マリア・テレジア
と合流し、両艦の乗員160人がドイツの海兵隊を支援し戦闘を行いました。
この時の戦闘は激しく、「ツェンタ」艦長は戦死。
参加した両艦の乗員の一員として、トラップ少尉も勇猛勲章を受勲されています。

1903年(23歳)Fregattenleutnant の試験に合格 任海軍少尉

フレガッテンレウテナントとは、オーストリア=ハンガリー海軍の階級で、
英語で言うところのフリゲート・ルテナント。
海軍の階級でいうと、サブ・ルテナント、海軍少尉ということになります。

 1908年(28歳)航海科に転科 中尉任官 潜水艦隊に配属

 海兵隊員として10年間海軍に奉職したトラップは、潜水艦乗組になります。

ゲオルグ・ルードヴィッヒ・フォン・トラップは、海軍を志した時から
潜水艦に魅せられ、潜水艦隊の一員になることを希望していました。

1908年、新しく編成された海軍の潜水艦隊、Uブート・ヴァッフェに
転属するという願っても無いチャンスを掴んだトラップは、
その資格となる昇進試験を受け、

Linienschiffsleutnant 中尉

に任官しました。

 

オーストリア=ハンガリー海軍潜水艦隊は、特に第一次世界大戦において
「アドリア海での連合国軍の動きを抑圧した」(wiki)精強部隊だったとされます。

1910年(30歳)新造潜水艦U6「アガーテ号」の艦長に就任

オーストリア=ハンガリー海軍でも、潜水艦はUボートです。
同じドイツ語で「ダス・ウンターゼー・ブート」なのは当たり前ですね。

ここでトラップ(多分少佐)に運命的な配置が行われます。
彼が初めて艦長になったU-6は、数字から見てもわかるように
K.u.Kが所持した6番目の潜水艦で、その愛称「アガーテ」は、
「ホワイトヘッド魚雷」、つまり魚雷の発明者とされるイギリス人技術者、

ロバート・ホワイトヘッド

の孫娘が進水の儀式を行い、命名者になったことから与えられたものです。

おそらく「アガーテ」の艦長になったことが、縁を引き寄せたのでしょう。
翌年、トラップ少佐(多分)は、その当人と結婚することになります。

1911年(31歳)アガーテ・ホワイトヘッドと結婚 

「ロバート・ホワイトヘッド アガーテ・ホワイトヘッド」の画像検索結果 

二人は海軍基地のあった街、プーラに住んで、その後7人の子供をもうけました。
が、1922年、トラップ少佐が海軍を退官してからのことになりますが、
アガーテは、長女の猩紅熱の看病をしていて自分が罹患してしまい、
32歳の若さで夫と子供を置いて亡くなってしまうのです。

それで「サウンド・オブ・ミュージック」の話につながっていくわけですが、
ここは
トラップ少佐の軍歴について続けます。


1914年(34歳)魚雷艇54号の艦長に就任

サラエボでオーストリア皇太子が暗殺されたのをきっかけに、
第一次世界大戦が勃発しました。

今回は、ウィーンで軍事博物館の見学をしてきたのですが、その中に
サラエボ事件の資料などもあったので、いつかお話しするつもりです。

トラップ少佐は、魚雷艇の艦長に任命され、それと同時に海軍基地のあった
プーラ(現在のクロアチア)からザルツブルグに転居します。 

1915年(35歳)潜水艦U-5の艦長拝命 

ここからが本格的なトラップ少佐の軍歴となるのですが、続きは後半で。



 


ザルツブルグ大聖堂爆撃とその復興〜ザルツブルグの街を歩く

2019-08-10 | お出かけ

ザルツブルグ到着の翌朝お願いしたガイドツァーが続いております。

泊まっているホテル・ザッハの近くのミラベル庭園という、昔風にいうと
お妾さんが囲われていた宮殿は、現在市役所だそうですが、例の
ニシカワフミコさん始め、日本人も、ここでザルツブルグ市役所公認の
結婚式を行うカップルが多いのだということです。

まあ、お妾さんの屋敷といってももう今は誰も気にしないかもしれませんが。

歩いていると、レジデンツ広場に出てきました。
中央には荒ぶる馬のいる「アトラス神の噴水」があり、正面は
現在州庁舎となっている宮殿です。

宮殿であったかどうかは、外壁に紋章があるのでわかります。

それにしても、昔の建築物はこうして拡大してみるとレンズの収差では
こんな風にはならないという歪みが目立ちます。

遠目に見るとなんの問題もないのに、不思議です。

州庁舎の屋上には「グロッケンシュピール」という鐘楼があり、
35個の鐘が一日三回、モーツァルトの曲を演奏します。

今は電動、あるいはコンピュータ制御かもしれませんが、昔は
人が鳴らしていたのかもしれません。

レパートリー?は51曲あるそうですから、とりあえずモーツァルトの
有名どころはほとんどカバーしているという感じでしょうか。

大聖堂の壁に沿って馬車の駐車場になっていました。

広場の奥には「ザルツブルグの息子」モーツァルトの像があります。
モーツァルトの妻コンスタンツェは、夫の死後、奥のピンクのアパートに住んで
銅像のできるのを待っていたそうですが、掘ってみたらローマの遺跡が出てきて、
色々やっているうちに亡くなってしまい、銅像完成を見ることがありませんでした。

広場に面しているザルツブルグ大聖堂の裏側にはスタンドが建てられています。
おそらくこの次の週に行われたザルツブルグ音楽祭の準備だったと思われます。

中に入ってみました。
1628年ということは、400年近く前に建てられた壮麗なバロック建築による聖堂です。

それではこの祭壇も4百年前からのものなのか、と思われた方、
残念なことにそうではありません。
戦災により大聖堂は一度崩壊しているのです。

1600年代からここにあった教会なので、当然ながら、
ザルツブルグ出身のあの人もこの人も、ここに通った可能性があります。

モーツァルトは例えばここで洗礼を受けました。
そして、オルガニストとしても仕事をしていたそうです。

モーツァルトのオルガンの腕前は、

「文字どおりオルガンの名手で、オルガンの即興演奏家としても桁外れの存在」

と、同世代の音楽家からも絶賛されるほどでした。

ところで余談ですが、バッハやベートーヴェンの時代、
オルガンを使った「音楽試合」があったというのをご存知でしょうか。

誰か偉い人(司教とか)が、最初のフレーズをお題として発表すると、
二人の音楽家が、それぞれそのテーマでフーガを即興演奏し、
どちらが優れているかジャッジが勝ち負けを決めるというものです。

 

フーガというのは、一つのテーマが4声とか5声の各声部に、形を変え、
前のテーマを追いかけるように次々と現れてくる形式の楽曲ですが、
基礎を学ぶため、音大でも作曲科なら必ず授業で4声のフーガを書かされます。

これがまた一言でいってパズルのような緻密な調整が必要な作業なんですわ。
これを即興で、しかもオルガン(足ペダルももちろん使う)でやるなんて、
昔の音楽家マジ天才ばかりなんじゃないだろうかと思ったくらいなんですが、
例えばベートーヴェンなど、このフーガ勝負に滅法強かったとか。

わたしは勝手に宮本武蔵みたいな剛腕のイメージをベートーヴェンに
持っているわけですが(笑)その伝でいうと、モーツァルトは天才らしく、
涼しい顔して天使のように無邪気に、大胆に、そして華麗に
テーマを展開させていったんだろうなあと想像しています。

ところで、大聖堂だけあって、オルガンが一つや二つではありません。
まるでボーズのスピーカーのように、四面の角に一つづつ、
計4台のパイプオルガンがあるので驚いてしまいました。

この4台が全部いっぺんに使われるなんて場面があるんでしょうか。

「モーツァルトが弾いたのはどのオルガンなんでしょうね」

ガイドさんに聞くと、そこまではわからないとのことでした。

祭壇左側前方のこれはきっと必ずモーツァルトも弾いたに違いありません。

震災で先生のご都合が悪くなったのでやめてしまいましたが、
わたしは
しばらくの間パイプオルガンを習っていたことがあります。
(バッハの小フーガト短調を弾くところまでは行きました)

壁を向いて演奏するパイプオルガンには、必ずバックミラーがあるのですが、
探してみたら、ここのオルガンにもちゃんとありました。

「オルガン台の下に監視カメラが仕込んでありますね」

ガイドさんにいうと、彼女はとても驚いて、

「えっ、どこですか?あ、ほんとだ。知りませんでした」

何十年もの間見てきて、いつの頃からかカメラが付いたのに
今日気づいたということで、感謝されました。

ここまでかなり歩いたので、椅子に座ってしばし脚を休めていると、
横に設えられた階段状のステージに黒いワンピースの女子が並びました。

出演前、用意しているときに小耳にした会話によると、彼女らはアメリカから来た
学校の聖歌隊で、教会を回ってボランティア演奏をしているようです。
「グロリア」をはじめ聖歌の演奏が電子ピアノの伴奏で始まりました。

うちの息子の高校も、去年夏ウィーンとザルツブルグに来て、ウィーンでは
彼女たちのようにオーケストラ演奏をしています。
こちらの教会はそういう場を貸すのにとても協力的なんですね。
日本の学校の修学旅行も、そういう企画をすればどうでしょうか。

ザルツブルグ大聖堂の入り口正面には、こんなパネルがありました。

1944年10月16日、ザルツブルグをアメリカ軍の空襲が襲いました。
尖塔に爆弾が命中し、大聖堂は損害を受けています。

教会上部から見た被害の様子。

「どうしてこんなところを爆撃しなければならなかったんでしょう。
アメリカ人だってほとんどはキリスト教徒なんじゃないんですか」

わたしが遣る瀬無い思いについこう尋ねると、ガイドさんは、

「あの人たちはほら、自分たちに歴史が無いから文化に敬意もないんですよ」

と、軽蔑したような言い方で答えました。

日本の都市部に爆弾を落としたときに、彼らは

「日本では家内工業で家庭でも武器の部分を作っているから」

などと民間人を殺戮したのを正当化しましたが、ザルツブルグの
300年以上歴史のある教会をわざわざ狙ってこれを破壊したことについて、
彼らは一体どんな言い訳ができたというのでしょう。

単に戦争だから、任務だったからで済まされる話ではないような気がします。

この大聖堂爆撃については、アメリカさんもそれなりに汚点と思っているらしく、
ほとんど英語での記述が出てこないのですが、wikiでも

The Salzburg Cathedral was damaged duringWorld War II 
when a single bomb crashed through the central dome
over the crossing.

なんとなく自然発生的な、攻撃した人間の存在の見えない書き方。
決して狙って破壊したのではない、とでも言いたげなニュアンスです。

戦後ハリウッドが、ザルツブルグを舞台に、あのミュージカル映画
「サウンド・オブ・ミュージック」を製作したとき、現地の人々は
驚くほどこの映画に対して冷淡だったという話がありますが、その理由の大部分は、
この破壊がアメリカ人に対する拭いきれない嫌悪を残したからではなかったでしょうか。

しかし、我が日本の皆さんにおかれましてはご安心ください。
このパネルの左上、一番目立つところには日本語でこう書かれているのです。

「献金をありがとうございました」

ザルツブルグ大聖堂は1959年に爆撃で崩壊した聖堂を立て直し、
その年の5月18日に戦後初めてのミサが行われていますが、
このパネルには、その修復費用を寄せた国の言葉でお礼が書かれているのです。

日本語が真っ先に書かれているというのは、おそらくですが、
日本から教会の信徒などを中心に多額の浄財が寄せられたのではないでしょうか。

お礼の下には、

「入り口の門にはつぎの三つの年号がご覧になれます」

774年 最初に聖堂がこの地建てられた

1628年 現在の元となった大聖堂が完成した

1959年 戦後の復元が完成した

わたしは、ザルツブルグ大聖堂再建のために、戦後の豊かでない生活の中から
捻出したお金で献金を行なったのあろう当時の心優しい日本人たちに、
心からありがとうございましたと心の中で頭を下げずにはいられませんでした。

そして、ザルツブルグの人たちがそんな日本に向ける思いの一端を、
わたしたちは最後にガイドさんが連れて行ってくれた小さな教会で知ることになります。

「この教会は、東日本大震災が起こったとき、日本の人たちに向けて
鎮魂のミサを特別に取り行ってくれたのです」


瓦礫の中から記念に保存されている部分は、何を意味するのでしょうか。

さて、このザルツブルグ祝祭劇場前で、ガイドさんはツァー終了を告げました。

しかしまあ、大聖堂の司教様も昔とは様変わりしているようです。
ポケットに手を入れて歩きスマホとは(笑)


続く。