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「苦行のフライト」初期の旅客機〜スミソニアン航空博物館

2025-07-06 | 航空機
1927年〜1941年のアメリカの航空について、
スミソニアン航空博物館の展示をもとにお話ししています。

今日は旅客機となってからの客室目線で語っていきます。

■ コクピット剥き出し時代


スミソニアンのノースロップ「アルファ」です。

新旧の航空機技術を融合させた過渡期の航空輸送機設計を代表する機体です。
6人の乗客を客室に収容できましたが、パイロット席は剥き出しでした。

機体は全金属製で流線型でしたが、着陸装置は固定式でエンジンは1基のみ。

ジョン・K・「ジャック」・ノースロップによって設計され、
金属製航空機の大きな進歩でした。

その多くの特徴、特に多セルラー翼設計は、
後にダグラスDC-2およびDC-3に採用されました。

より強力な双発機の登場により、旅客機としては時代遅れとなりましたが、
高速貨物機としては引き続き活躍しました。


ちなみに、1920年代、パイロットがオープンコクピットにいた頃、
できてすぐに潰れたエアロマリン航空の機内はこのようなものです。

注目して欲しいのは、彼らの座っている椅子。
重量を抑えるため、なんと籐の椅子(もちろんシートベルトなどなし)
が客席として使われていました。


みんな笑ってますが・・・。

■ フォード・トライモーター


1926年に初飛行したフォード・トライモーターです。


トライモーターはこのコーナーの上部に展示されています。


博物館資料より。
航空機が一般に普及する上で最も重要な出来事の一つは、
ヘンリー・フォードが航空機製造に参入したことでした。

当時、フォードの自動車は信頼性の象徴であり、人々は
フォードが手がけるならば航空機も安全なものだろうと考えたのです。

そして、その通り、フォード・トライモーターは頑丈で信頼性が高く、
航空史に永遠に名前を残すことになりました。


コクピットにはパイロットの姿が見えます。
客席より高い位置にコクピットがありました。


まるで汽車の客室のような客席。
コクピットと客席の間は階段三段くらいの高さの差があります。




当たり前ですが、当時の飛行機料金は非常に高価でした。

ビジネス旅行者と富裕層しか飛行機に乗ることができず、
庶民は都市間の移動に電車やバスを利用するしかありません。

飛行機での東海岸から西海岸までの往復旅行は約260ドル、
これは当時の新車の半額(今の日本円で200万くらい)でした。

しかし、高額で不便&不快な旅にもかかわらず、
商業航空は毎年何千人もの新たな乗客を惹きつけ、
基本的に冒険を好む彼らは飛行機の利点と未知の体験に飛びつきました。

アメリカの航空業界は急速に成長しました。
1929年にはわずか6,000人だった乗客数は、1934年には45万人を超え、
1938年には120万人に達しました。

それでも、広大なアメリカで、飛行機を利用するのは
一般の旅行者のごく一部に過ぎませんでした。

その理由を次に説明します。

■ 快適とは程遠かった飛行機の旅



1927年以降旅客機として飛んでいたTATの飛行機、
フォードのトライモーターです。

パイロットは少なくとも外に剥き出しの席で操縦する必要はなくなり、
客席は備え付けのスチール製になり、進化を遂げたわけですが、
パネルの右下の、当時のパイロットの懐古談を見てみましょう。

当時の飛行機というものがどんなだったかが明かされています。

「飛行機は熱い油と煮えたぎるアルミニウム、消毒液、
排泄物、革製品、そして嘔吐物の臭いが充満している……。
短気な客室乗務員たちは、嘔吐物の臭いを放ちながら、
比較的新鮮な空気を吸おうと、できるだけ頻繁に前に出ようとする」


えー、そうだったんだ・・・・。

どんな写真も映像も伝えられないもの、それが臭い。

今のように空調システムで何分かおきに機内の空気が入れ替わるなど、
そんな技術は微塵もなかったこの時代、人が狭い機内に
何時間も滞在して、そこで食べたり飲んだり出したり吐いたり、
そんなことが行われれば、まあそうなるのが自然の理。

飛行機の利点はとにかく速く移動できることで、
その旅は決して快適ではなかったことをこの言葉が証明しています。


航空会社は宣伝のために有名人、俳優などを乗せ、
その度に宣伝しましたが、こういう写真を見る限り、
その不快な臭いは全く感じ取ることができません。

彼ら彼女らも、これも仕事の一環、と割り切って、
にっこり笑いながらその不快感に耐えていたのですね。


「短気なスチュワーデスが嘔吐物の匂いを振り撒きながら」
飲み物サービスを行うの図。

しかも、この飛行機、狭くて通路をカニ歩きしなくては通れなさそう。


これは当時革新的だったボーイング247型機の機内ですが、
この機体、フォード・トライモーターよりもはるかに速く、
騒音も少ないという利点はあったものの、機内は窮屈で、
翼のスパー(翼桁)が通路に入り込んでいたため、移動は大変でした。

いずれも富裕さを感じさせる服装に身を包んだ乗客たちが、
心なしか顔を曇らせているのは、主に写真に映らない生理的なことに対し、
避け難い不快感を我慢しているからに違いありません。



こちらがスミソニアンのボーイング247型
ピトケインの「メールウィング」の看板が覆い被さってしまっていますが、
ピトケインはその上の黒と黄色の機体です。

ボーイング247は、それまでの航空機で最も近代的なシェイプでした。
実際、「最初の近代的旅客機」と呼ばれています。

1933年、ユナイテッド航空で就航し、航空輸送に革命をもたらしました。
競合機の2倍の速度を出すことができるこの設計は、
新世代の民間航空機の先駆けとなったのです。

フォード・トライモーターの客室機内で乗客が食事をしているところ。

夜間の撮影らしく、窓の外は暗く、室内灯が灯されています。
しかし、この写真は宣材のために撮られたものなので、
もしかしたら飛行機は飛んでおらず、外の景色を映さないように
(フォトショなんて当時ありませんから)
夜、飛行場で撮影したのではないでしょうか。

ちなみに通路はやはり狭く、こちらもカニ歩き推奨です。


さて、というわけで、航空会社の懸命の宣伝にもかかわらず、
初期の航空旅行の実態は、およそ快適とは程遠いことがお分かりでしょう。

しかも、費用がありえんくらい超高額でした。 

飛行中、機内は騒音と寒さ、不安から乗客は極度に緊張を強いられ、
当時の与圧されていないため低高度を飛行する機体は
遠慮なく気象の影響を受け、激しく揺れることも度々。

当然、何人かは必ず乗り物酔いに見舞われることになります。

冒頭のパイロットのいう吐瀉物は、当時の飛行機につきものだったのです。
そこでずっと勤務し、必ず何人か現れる乗り物酔いの乗客の世話を焼く
客室乗務員が、その臭いに塗れても・・これは仕方がありません。

航空会社は乗客のストレスを軽減するために、あれやこれやと
多くのアメニティを提供しましたが、1940年代に入っても、
その環境は変わらず、空の旅は相も変わらず過酷であり続けました。 

■ 機内放送(メガホン)



スミソニアン博物館には、この時代の旅客機で、
フライト中に客室乗務員と乗客がコミニュケーションを取るための
「メガホン」が展示されています。

当時の機内はエンジン音と機体が風を切る音で、
人の声を聞き取ることが不可能だったのです。

フォード・トライモーターの場合、離陸時の騒音は120dBに達し、
それがずっと続けば永久的な聴力障害をきたすほどでした。

ちなみに、通常の会話が60dB、交通量の多い道路は70dB、
掃除機(アメリカ製)80dB、ロックコンサートの最前列が110dBです。

聴力が受ける痛みの閾値は130dBであり、
160dBの音で鼓膜は瞬間穿孔を起こします。


ここで閑話休題、豆知識です。

なぜ高いところに上ると耳が痛くなるのか?

それは、耳と喉を繋ぐ空気で満たされた小さな管が、
上昇or下降中の気圧の変化によって頭の中に生じた圧力差のせいで
詰まってしまうからです。

あくびをしたり唾を飲むこむと、この管が開いて、
圧力が均等になり、耳は元通りになるというわけです。

高層ビルへのエレベーターに乗ったこともない当時の人のほとんどは、
この初めて体験する症状にかなり驚かされたことでしょう。


そこで航空会社が乗客のために配ったのが、ガムでした。
離陸&着陸時の気圧の変化のために、客室乗務員は
この洗練されたステンレスのディスペンサーを乗客に差し出し、
離陸&着陸前に噛むことを推奨していたのです。


流石に、ケースは乗客に配られたものではなく、中身だけとなります。
これは1938年、イースタン航空の機内で使用されていたものです。



ケースの後ろにはCHASEとありますが、
アメリカでチェイスといえば銀行しか思いつきません。

■ ダグラスDC-3〜航空旅行のさらなる拡大



1935年に初飛行したダグラスDC-3は、
航空輸送の黎明期に最も成功した旅客機となり、
政府の補助金なしに収益を上げて飛行した最初の航空機となりました。

民間用と軍用、米国製と外国製を合わせ、
13,000機以上が製造され、現在も多くの機体が飛行しています。



人気のあった14席のDC-2の大型化型である21席のDC-3は、
当時の基準では快適で、強固な多桁翼と全金属製の構造により
非常に安全という評価を受けていました。

航空会社は、信頼性が高く、運航コストが低く、
ひいては収益性が高いことからDC-3を高く評価しました。
パイロットは、その安定性、操縦性、
そして優れた単発エンジン性能を高く評価しました。

博物館に展示されているこの飛行機は、
イースタン航空で56,700時間以上飛行しました。
1952年に退役後、イースタン航空の社長、
エドワード・V・リッケンバッカー氏から博物館に寄贈されました。



1936年に撮影された旅客機内部です。

「嘔吐物まみれ」の頃からは随分進化しているように見えますが、
先ほどの文章を思い出してください。

「1940年代に入っても飛行機の旅は過酷であり続けた」


とはいえ、飛行機のシートもシートベルトこそないものの、
現在の形にいきなり近づいてきているようで、席は3列配置です。

飛行中は足元に十分なスペースがあったものの、
頭上の荷物置き場は現在の電車並みで、これは揺れが酷いと
上から落ちてくることもあったのではないでしょうか。

また、搭乗時には適切な服装が求められ、服装規定もありました。
乗客にノブレスオブリージュ的なものが求められていたなんて、
現在の飛行機の乗客から見ればなんのこっちゃって感じですが。

この1930年代は航空旅行が爆発的に成長した10年間でした。
乗客数は1930年の6,000人から1934年には45万人を超え、
1938年には120万人へと、10年間で驚異的な増加を見せました。

しかしながら、インフレ調整後の 航空運賃は2万ドルにも達し、
多くの人にとって航空旅行はやはり手の届かないものでした。

ですから、この写真に見える客室乗務員以外の乗客は、
いずれも社会のごく一握りの「上級国民」だったということです。


続く。


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